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7月 262018

これからは縮み志向で行こう!

井の頭線セッション。途中ゼミがあったとは言え、今日は11時間半も研究室とその周辺にいたことになるのか。ちょっと前には考えられないことである。朝っぱら以外はずっと学生たちとけっこうマジメな話をしていた。でもって、自分が話したことに自分が影響を受けるということはままあることだと思うが、それをまとめておく。

1 これからは縮み志向で行こう。終活とか言って長年馴染んだものを手放しているのだから、既にそれは縮み志向なのだ。ここ7年ぐらいの過度の拡張主義は、その前の10年の空白を埋めるための切迫したものだった。もうそろそろ着地しよう。今日は、ぼんやり着地点が見えた気がする。あとはちゃんと言葉にしておくことだ。

着陸態勢に入るのであれば、途中で空中分解しないように十分に縮んでおく必要がある。

2 学生院生の個人指導には時間を惜しまない。しかし共通のイシューについては事前に集団として指導をおこない、次の世代に正確に引き継げるように工夫する。仕組みを作る。マニュアル化しておく。プロセスと志を含めて確認できるよう、すべてを記録しておく。「原宿ナウマン象の記憶」としてすでに書いたことを実行する。

3 講義のメタフォーマットはできたので、コンテンツ更新のルールを決めておく。引き続きソキウスを動態化する。残る論点は100人単位の学生との相互作用をどのようにデザインするかということ。スマートフォンによる応用問題の取り組みは今回できたと思うが、現状たりないのはタイムラインである。また、私が軸になる扇型ネットワークのままでは当然破綻するので、学生間の複層的な相互作用をクラウド上で可視化できるようにしたい。アシスタントもしくはコアとなる学生がいればできそうだが、事後対応を含めて自分ひとりで数百人の応答を管理できるような仕組みでなければ1年前からの予算化が必要となる。この労力は教職員との交渉なしには報われないので今後はできれば省きたい。

4 研究モードと教育モードを知識過程論で一体化させる。これはここ数年やってきた通り。しかしアクションリサーチは今年度限りとする。これ以上のことを自分ができるとは思えない。教育に関する仕組みについては「表現プラットフォーム」として定着させる。日常の仕事としてこの活動は退職まで続けるが、規模拡大と制度化については私の任ではない。社会学出身の私はよもやセカイ系ではないので、その程度のことはもともとわかっている。

5 どのように書くか。これまで単著はすべて書き下ろしで9冊出してきた。もう十分なので、商業ベースの出版からはリタイヤしたい。というか、このまま静かに作業を進めればいい話だ。印刷製本された書籍形式であれば、もう自分で作れてしまうことがわかった以上、アナログ形式での流通のことは考えたくない。できれば学術的にオーサライズされているといいが、なぜか研究学会にはそういう仕組みがない。しかし大学にはある。他方、デジタル形式ではウェブ上のどこかにあればいい。運用的には、自分のプラットフォームと、グローバルなプラットフォームとに二重にアーカイブしておけばいい。

6 革マルの非公然活動はこれまでの経緯から考えてまだまだ続くと思う。ここ数年、自分自身で公然化してきたので、これからも記録をして限定公開していく。私の言うことが信じられないのは、知りたくないという防衛意識のせいだと思うので、そういう人は私も当てにしないことにする。大学人もたいていはこの種の凡人であることは当初からよくわかっている。もうとっくの昔に戦闘的知識人と呼ばれるような人は絶滅しているとも思う。

7 縮み志向にするが、撤退するのではない。着地するのだ。

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5月 312018

ゼミ虹募集

今年のゼミ説明会は学部全体に低調でした。野村ゼミもこれまでになく応募者が少なくて9名でした。課題を満たしている5人を合格としています。同じ条件で2次募集をおこないます。エントリーシートの課題もそのままです。何も変わりません。1次選考に間に合わなかった方は早めに準備して臨んで下さい。

野村ゼミ14期生募集

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3月 232018

恐怖政治でないやり方はないのか?

というわけで、恐怖政治ではない形で水準を上げられないか、そして誰も振り落とさずに全員がタスクをこなして能力をアップデートできないか、それを精神主義ではなくてスマートに解決できないか。いま考えているのは、こういう課題である。これ、スマートでないと続かないから。となると属人的なものではなく仕組みとして構築し、マニュアル化まで行かないと定着しない。私自身もくたびれてしまうし、学生たちも嫌気がさして遠のいてしまう。なぜなら、教員も学生もわざわざ引き受けなくてもなんとかなるような「ムダ」なエフォートだから。今どきの学生は合理的。コスパと感情コストをちゃんと考える。単位とか資格とかに直結する制度的裏付けのあるタスクではなく、たいていは見通しの悪い話には断じて乗ってこない。

ただ、私がミッションとしているのは、新しく創造的であるがゆえに既成の制度的枠組みからはみ出すような仕事のできる人を送り出すことなので、少なくとも志願し履修してくれた学生には、そういう仕事に対応できる能力と知性を多少なりとも伸ばしてもらいたいのである。せめて耐性を付けてほしい。じっさい、有名企業に行きたいのであれば他の先生たちの方が数十倍すぐれているから、何も私の元に集まらなくてもいいのである。

ここ数年はかなりこまめに指導するようにしてきたが、クラウドでほとんどのことができるようになり、全面的に移行した。5年ぐらい前から自分ではそうしてきたが、Wi-Fi環境さえあれば、学生はスマートフォンをもっているから、その場でいろんなことができる。チープな私たちにとっては、ようやく時代が追いついてきたという感じがする。
この半年はWorkplace by Facebookをフル活用してバックヤードでのコミュニケーションを全部そこに移し、原稿はStockに集め、トッパンエディナビで編集して版下を作って、何度もチェックし合い、最後にオンデマンド印刷をした。テーマ別新書が8冊、最後の振り返り本が1冊、2年ゼミ生だけで作った。私も学生たちもいろいろ苦労したが、なんとか全員参加で完成した。
その上で、次のモードにレベルを上げようとしているので、立ち止まって進め方を考えているのである。学生がサボるとか、ずるをするとか、そんなレベルの話をしているのではない。
アクティブラーニングをベースにした学生主体の能動学習が大前提である。成果物制作を主軸に学習できるようなプログラムを開発している。そのさい、いわゆる教員用のマニュアル本のようなものはものたりないので、ビジネスシーン向けのチーム論などを参照して、それをこちらに転用することをしている。ここ数年次々に刊行されているアメリカの経営大学院の先生たちの翻訳書がとても参考になるのである。とりわけプロジェクトチームの運営方法やベンチャー企業のスタートアップの話は今の私の現場に直結しているように思う。
演習系だけでなく講義系も、クラウド主軸、コンテンツ制作主軸、チーム主軸、情報デザイン主軸にシフトさせるつもりだ。それでデフォルトから考え直しているのである。この話はまだまだ続く。

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3月 232018

ムダにがんばるということ

どの授業もそうだが、学生・院生の温度差をどのようにハンドリングするかが悩ましい。たいがいの先生たちは省エネで「結果オーライ」かつ「去る者は追わず」である。だから保守的な企業は、大学での勉強よりも入試時点での学力の方を信用することになる。これを打破するには、一方で脱落しそうな学生を引っ張り上げ、他方で意欲とのびしろのある学生を積極的に後押ししなければならない。で、その分岐点は能力と言うよりも温度差にある。と言うか、勉強への熱意そのものが重要な後天的能力なのである。では、そのような熱意はどこから生まれるのか。
いやいや、そういうことを書きたいのではない。いま書きたいのは、学生たちのあいだにある大きな温度差が焦点化しないような解法がないかということである。この解法は属人的なものになりがちだが、カリスマ性の薄い自分としては、意欲の高低に左右されない勉強のプラットフォームが組み立てられないかを考えている。
ただし、私が言う「勉強」はカリキュラムをこなすという意味での「勉強」ではない。いまどきの学生は上手にそれはこなして単位を取っていく。そのあたりについては全然心配していない。制度的なしばりが明確なので、それなりに説明をしてあればたいてい大丈夫である。要するに、自分だけが進級できない・卒業できない状況だけは恥という恐怖があるから。すべて相対評価の世界の中で、誰かが背負わなければならない十字架を自分が背負うことにだけはなりたくないという恐怖である。相対評価というものは、必ず敗者を焦点化するから、一見おだやかでゆるい競争のように見えて、じつは過酷な競争構造になっているのである。相対評価の世界は「恐怖政治」なのである。いじめやそれに類した病理的な現象は、そういう恐怖政治に対する予防措置なのである。だれでもいいから、あらかじめはじき出しておけば、自分は敗者にはならないということだ。
この中で学生たちにとって自分の有限なエフォートをどのように振り分けるかの問題は日常的関心事となる。当然「その他の勉強」をいかに省力化してスルーするかを考える。いや、そもそもそんなものに意味はないから、都合のいいところだけをつまみ食いするのが当たり前になる。よく学生たちが言う「ムダにがんばった」という自嘲的な表現は、その他の勉強にエフォートを割くこと自体が異常認定されるキャンパス文化における比較的安全な表現である。
大学改革の中で必ず相対評価の必要性が叫ばれるのは、相対評価こそがもっともかんたんで有効な学生管理技法だからである。しかし、私は上に述べた点において相対評価には断じて反対である。むしろ「ムダにがんばった」ところだけが本当の意味での自分のアップデートになると思うほどである。
さて、「それで温度差が焦点化しないような解法」の話に戻りたいが、長くなってしまった。いったんこれで公開とする。

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3月 102018

ウェブデザインを学び直す

いよいよ12年ぶりにゼミサイトを作ることにしたので、ソキウスを実験台にしてあれこれ試しています。個人芸としてのウェブデザインはできるのですが、チーム芸としてのウェブ運営はまた別のことになります。基本的には情報デザインの観点からアプローチするつもりですが、やはりグラフィックなデザイン性がないと、やる気が起きないものです。チーム芸としてのワークフローと、良質なデザイン性を勉強し直しているところです。写真の2冊はいずれも企業の公式サイトを前提にして書かれたもので、この種のものはたくさんありますが、結局役に立っているのがこの2冊です。左の本がチーム芸、右の本がデザイン性。

今はクラウドで全部できるので、こういう知識さえあれば、かなり自由にまとまったコンテンツが表現できるようになりました。全部、スマホとパソコンのブラウザでできてしまう。問題なのはユーザーの方で、ある場所に行くとみんなかんたんにできるのに、ある場所に行くと誰もできないばかりか、こういう知識をバカにしたり忌み嫌う人たちばかりが固まって棲み分けているのです。メディアを使えるかどうかは、どんなメディアであれ、その人を有能にすると考えるので、大学の教育現場においてもかなり重要な知識だとずっとずっと思ってきました。

独自のコンセプトが固まってきたので、授業全体も大きく情報デザインにシフトするつもりです。となると、実践的な技術が不足するので、急いで補っているところです。

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3月 62018

ガーリー総論

野村一夫の社会研究メモ
2016-01-15
ガーリー総論:社会の重力に逆らう文化的覚醒に関する予備的考察(野村一夫)
初出
女子経済学入門

ガーリーカルチャー研究リポート
編者 野村一夫
著者 国学院大学経済学部経済ネットワーキング学科1年2組全員・2015年度・基礎演習B
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ネット1年2組・基礎演習B最終課題
12月16日提示
冊子「女子経済学」プロジェクト
ガーリー・カルチャーの歴史・現在・可能性
未踏の領域を開拓しよう。
クラウド出版システム利用(新書サイズ)けっこう画期的!
課題 選択した文献・資料について、論点をまとめる形で解説し、そこから想像できる近未来のシナリオを提示せよ。A4で本文1枚以上10枚まで。写真は貸与された文献・資料の写真をふくめて3点まで。必ず自分で付けた見出しタイトルと自分の名前から始めて、最後に文献・資料のデータ詳細を正確に書いておくこと。図表などを入れたいときはスマホで写真を撮って画像データ(JPG)にすること。ネットから画像をパクることは厳禁。
2016年1月10日締切
すぐに編集開始
1月13日 クラスでゲラ最終校正のちトッパンによる微調整。即日、印刷工程へ。
1月20日 新書形式で出来。関係者に配布。非売品。
学生27人が参考文献のレビューを担当し、そののちに私によるまとめとして、つまり授業内企画の一環として、書き下ろしたものである。

ガーリー総論

社会の重力に逆らう文化的覚醒に関する予備的考察

野村一夫(国学院大学経済学部教授・社会学者)
 基礎演習Bの最終テーマは「女子経済学入門──ガーリーカルチャー研究リポート」である。なぜ「ガーリー」なのかというと、現代日本の経済・社会・文化において際だった創造的なカテゴリーだと感じるからである。とりわけポピュラーカルチャーとサブカルチャーの領域においては、ある種の美意識が駆動力になっており、それはたんに「女性性」には還元できない何か独特のチカラであると感じる。それが「ガーリー」である。従来は「カワイイ」として括られてきたが、この十年間に「女子」という言葉が急速に浮上するようになり、それとともに「ガーリー」領域の輪郭も見えてきたと感じる。
 その私の直感に沿って歴代の野村ゼミ(メディア文化論)では多くのケース研究をしてきた。今回は、そのために集めてきた文献を中心に一気にクラスで手分けして書いてみようという試みである。
 このような文化領域研究に関して思いいたるのは「まず言い当てる」ことがとても重要だということだ。それは学者ではなく評論家や編集者や広告代理店だったりする。アカデミズム的にはあまり尊重されているとは言えないが、この人たちが「まず言い当てる」ことからすべては始まる。「まず言い当てる」とは「名づける」ということだ。だから、ここから議論は始まるのであり、そのような文献を片っ端から読んでいくことが必要なのである。
●少女マンガからL文学へ
 そもそもガーリーなるものが明確に造形されたのは一九七〇年前後に大きく開花した少女マンガというジャンルである。もちろんこれは一気に花開いたわけではなく前史があって、それは戦前の吉屋信子の少女小説であったり、『赤毛のアン』であったり、手塚治虫の「リボンの騎士」であったり、その手塚に大きな影響を与えた宝塚歌劇団であったりする。これらは「少女」と括られる存在に焦点が当てられていた。「大人として成熟しない女子」それを巨大なジャンルとして確立したのが少女マンガであった。
 一九七〇年代の少女マンガに関しては、すでに古典的価値が認められており、多くの評論も出ている。なかでも初期の肯定的評価として代表的なものは、橋本治『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』(北宋社、一九七九年)である。この本は今は河出文庫版で読める。この本で論じられている作家は、倉田江美、萩尾望都、大宅ちき、山岸凉子、江口寿史、鴨川つばめ、陸奥A子、土田よしこ、吾妻ひでお、大島弓子である。彼女たちが描いた「純粋少女」の多彩な諸領域は、当時の女子だけでなく、男子たちをも魅了した。私も多くの作品を同時代に読んでいる。高校時代にツェッペリンやプログレに凝っていた男子が大学生になって少女マンガを読んだりアイドルに熱を入れたりしていたのである。そこに何か新しい美意識を感じていたと思う。
 このジャンルが再発見した「純粋少女」の世界は、のちに多産なコバルト文庫を生み出し、広範な文化領域に育つ。たとえば吉本ばななの文学的出発点は大島弓子の少女マンガである。それが九〇年代にはすっかりメインストリームになって、江國香織、角田光代、川上弘美、小池真理子、唯川恵たちのいわゆる「L文学」となる(齋藤美奈子編著『L文学完全読本』マガジンハウス、二〇〇二年)。彼女たちは、たんに女子世界の機微を描くエンターテイメントを提示しただけでなく、高い文学性も獲得していく。おそらく、それらは男性中心(マッチョであれ病み系であれ)の近代日本文学では語り得なかった領域だったのだと思う。
●ファッション
 女子ファッションの世界も一九七〇年代に自律的領域に高次化する。既製服の時代は六〇年代からで、それが主流になるのが七〇年代である。この先頭世代は「アンアン」と「ノンノ」に始まる新タイプの女性ファッション誌の編集者・モデル・読者であり、ショップの店員であった。この世代の代表として私と同い年(還暦!)のモデル・久保京子のケースを見てみよう。久保京子『わたしたちは、こんな服を着てきた』(ディスカヴァー・トゥエンティワン、二〇一五年)によると、ヘップバーンのサーキュラースカート、ツイッギーのミニスカート、パンタロン、ベルボトムジーンズは六〇年代。ストレートヘア、マキシスカート、メイクとネイル、Tシャツ、トレンチコート、そしてDCブランドが七〇年代。何でもかんでも肩パッドの八〇年代、バブル末期のボディコン、本物志向の上質なリアルクローズの九〇年代、そして二一世紀のファストファッション。
 この流れは、今から見ると、ほぼリアルクローズの領域である。なぜなら、それらはちょっとムリすれば買えるものであり、ファッション誌は半ばカタログとして商品がどこにありいくらであるかを表示していたのであるから。もちろんグレードの差はあるにしても、である。とりわけ「ヴァンサンカン」とその姉妹紙「ヴァンテーヌ」は長く高級路線を貫き、とくに後者は高度なファッション・リテラシーの教科書的存在となった。
 メンズの窮屈な「定番志向」に対するレディースの軽やかな「トレンド志向」の構図は、約半世紀続いてきた。いつも新しい流れは女子が作ってきたのである。デザインやビジネスは男性たちが働いていたことはたしかだが、それを競争的に受容してきた女子層の分厚い消費者が文化的な感受能力を発揮してアパレル経済圏を支えてきたのだ。
 その中でさまざまなスタイルが分岐している。この厚みの中だからこそ、その内部で差異化戦略が作動して、多様なテイストが成長していると考えていいと思う。
 その中で注目したいテイストこそ「ガーリー」テイストなのである。広域渋谷圏において特定すれば、おそらく原宿あたりが発信地。代官山や青山や表参道のような「大人」テイストに対して、カラフルで装飾過剰で軽みのある脱デザイン理論的なファッションがその特徴である。代表的存在が増田セバスチャンの世界であり、それを体現している「きゃりーぱみゅぱみゅ」である(増田セバスチャンのサイトはhttp://m-sebas.asobisystem.com/およびhttps://twitter.com/sebastea)。
 かれらの世界はとても洗練されているが、それでも「ぎりぎりセーフ」感はある。じつは「ぎりぎりアウト」でもちっともかまわないのだ。このガーリーテイストには、それを実践する人たちに創作(あるいは二次創作)の余地があるのだ。大人の女性としてふさわしい「上質な無地のファッションにアクセサリー1点」なんてルールに縛られるのを拒否しているのはあきらかで、「下妻物語」の深キョンのゴスロリとまったく同質なのである。自分の工夫で何を足してもかまわない。大人の引き算をしないのだ。いわゆる「ひらひら、ふわふわ」ひたすら足し算を生きる。私はそこにガーリーファッションの「抵抗の哲学」を読み取る。
●アイドルグループ
 そうした先鋭的表現がリアルクローズ化したのが、二〇〇五年以降のアイドルグループだと私は位置づけたい。リアルクローズ化ということは、つまり身近でガーリーな「ロールモデル」になっているということである。
 女子高生風の制服集団がロールモデルになり得るだろうか。エロを求めるオタク男子に差し出されたカワイイ生け贄たちなのだろうか。そういう疑問はありうる。
 しかし、それはちがうと思う。なるほど地下アイドルやキャバクラ嬢や夜の街をさまようJKたちは、かなりかわいそうな生け贄状況を生きていて「なんとかならんか」と思うが、私たちが知っているメジャーなアイドルたちは、その中の勝者である。それゆえ「ロールモデル」になっていると思う。
 AKBは女子の生き方の典型的なロールモデルである。チアガールか体育会系の「勝利を信じて全力でことにあたる」生き方を体現している。「どんな条件でも、自分たちでなんとかする」というのが重要なポイントであって、ステージ上にはハプニングがいつも用意されていて、いかにそれを乗り越えるかが「隠れたカリキュラム」になっている。前向きな(前のめりな)努力の結果としての女子像がここで提示されている。
 それに対して乃木坂は、後発な分、よく考えられていて、ガーリー特有の線の細さに特化しているように見える。少女マンガのように、いつも繊細な女子像である。それは乃木坂のCDの付録映像に典型的に表現されている。ちなみに、ここは映像作家たちの実験場になっていて、これを見るためには三つのタイプを購入しなければならないのがやっかいだが、古いものはYouTubeにたくさんある。私は「乃木坂浪漫」シリーズですっかり感心してしまった。これは太宰治あたりまでの近代文学の朗読シリーズである。これらの作品群については『乃木坂46 映像の世界』(MdN EXTRA Vol.3、二〇一五年)を参照してほしい。
 ちがいはたくさんあるが、しかし、両者に共通なのは、多彩なロールモデル、チームワーク、ドキュメント性である。それは徹頭徹尾ガーリーな物語で、彼女たちのドキュメンタリー映画や裏トークなどは必然なのである。たとえば公式インタビューを参照してほしい。週刊朝日編集部編『あなたがいてくれたから』(朝日新聞出版、二〇一三年)と篠本634『乃木坂46物語』(集英社、二〇一五年)。ここには、ほとんど男子は出てこない。男子はファンたちと裏方さん(プロデューサーもマネジメントも職人さんも)である。
 あと、両方に共通しているのは、地方の女子校のノスタルジックなイメージが再現され続けているということである。全国展開するためのしたたかな戦略ではあるにしても、それが「ご当地アイドル」に直結していることは「あまちゃん」で、すでにはっきりしている。そして女子校。女子だけの世界であれば、かえって多彩な女子像が描ける。
 また、アイドルではないが、オシャレな女子に人気があるのがE-girlsである。こちらはプロフェッショナルなエンタティナー路線。総じて明るいガーリーテイストだが、E-girlsを構成するFlowerというグループは、もっぱら切ないガーリーテイストであって、女子に人気がある。ガーリーなロールモデルも分岐しているということである。この多彩さにも注目しておきたい。さらに東京ガールズ・コレクションでランウェイを歩くようなガーリーなモデルたちも、もっぱら女子たちに人気のロールモデルである。近年、彼女たちのファッションブックが相次いで出版されていて、それらは「こうなるためのマニュアル公開」のようである。
 視点を変えて労働経済学・労働社会学的に着目しておきたいのが、表現系若年女子労働の問題である。ガーリー領域の担い手たちは、そもそもデビュー自体が難関であり、活動できるようになっても激しい競争構造に放り込まれる。人気が出ても浮き沈みがあり、たとえばAKBでは「組閣」と呼ばれる人事異動が頻繁にある。しかも若いメンバーの大量加入によって、トップランクのメンバーも追い詰められている。表現系ゆえに個性の強い女子が集まるから衝突もあり得る。たとえば「ももクロ」の歴史はそういう葛藤の歴史であったりする。
●こじれた女子
 ガーリーなイマドキ少女マンガはないかと探して読んでみたのが『楽園』という季刊誌だった。白泉社なので王道だと踏んだ。とりわけ表紙を担当しているシノザワカヤの作品を読んでみると、言葉が多層的であるのに驚く。だいたい四層構造である。
(1)発話されたはずの吹き出しの言葉
(2)それに対する自分ツッコミの内声の言葉
(3)絵柄に埋め込まれた状況提示(空気感)の言葉
(4)作者が代理している神様か天の声のような倫理的な言葉
 この四層構造の中で主人公は立ちすくんで身動きできないでいる。これを「こじれた女子」と呼んでいいと思う。
 近年注目されているルミネのポスターが提示するのも、「こじれた女子」を抱えながらも突破口を探す、なんとも健気な女子像である。最近、若干の事故も生じたが、それも「こじれ」を表現するための伏線にすぎない。Pinterestでポスターをコレクションしてみたら、なかなかな味わい深いコンテンツである(https://www.pinterest.com/sociorium/)。
 すでにどこかで指摘されていると思うが、ルミネ的コピーの流れを作ったのは雑誌『オリーブ』だと思う。廃刊されて久しい雑誌だが、近年のガーリーカルチャーのめざましい展開において改めて源流のひとつとして注目を浴びており、二〇一五年に『GINZA』の別冊として一号限りの復刊とそれに関するボックスセットが出ている。セットにある『Messages from OLIVE』は特集や写真に添えられたコピーを集めた本である。これを読むと、ルミネ的「こじれた女子」世界は『オリーブ』の延長線上にあることが明確である。
『オリーブ』の世界観については、酒井順子の『オリーブの罠』(講談社、二〇一四年)が圧倒的な深さで論じている。酒井自身が『オリーブ』の愛読者であり高校時代からの執筆者であった。最初に確認しておきたいことは『オリーブ』自体は、それほどこじれてはいないということだ。ただ、ふたつの世界観をミックスしていたことが、のちのち読者に試練をもたらすことになる。それは「リセエンヌカルチャー」と「付属校カルチャー」である。どちらも都会のあか抜けた少女たちの世界であるが、前者は「おしゃれ至上主義、文化系、非モテ非エロ」であり、後者は「モテ至上主義、スポーツ系、おしゃれはママ譲りで実はコンサバ」という生き方である(一〇七ページ)。ヤンキー的・ギャル的な世界とは相容れない点で共通しているので『オリーブ』はそういう敵に対して上手に二つの世界観を同居させていた。「異性の視線ばかり意識した、モテのためのファッションなんてつまらない。自分のために、自分の着たい服を着ようよ!」(一二八ページ)という強いメッセージこそが重要だったからである。少女というキャンバスにおいてモードなファッションの意味合いは「濃縮される」ことになった。
 問題なのは、モテ系ファッション誌は人生の各段階で卒業できる仕掛けがあるが、自分のためのおしゃれ一筋というオリーブ的生き方には「卒業」がないことだ。つまり、ここからこじれるのだ。その結果、大人になってしまったオリーブ少女たちは晩期『オリーブ』のナチュラル志向に居場所を見いだす。無印良品、ナチュラル志向、生成り、無地、シンプルライフなど、さまざまな意匠に「オシャレのその後」を託したのである。
 酒井順子の解釈はここまでである。これをヒントにここ十年ほどのガーリーカルチャーを眺めてみると、『オリーブ』における「異性を意識しない独自のオシャレ世界観」は、世代を超えて生き延びていると思うのである。ところが、案の定、リアル世界の異性が女子に求めるものとは齟齬が生じる。「ベレー帽にロイド眼鏡で、『ブルーマンデー』をぶっ飛ばせ!」(『Messages from OLIVE』マガジンハウス、二〇一五年、三三ページ)なんである。こうしてオリーブ少女の一部はこじれていく。
 心情的な歌詞が訴求力をもったJポップには、こうした「こじれた女子」が満載である。メンタリティとしては中島みゆきが先頭にいたと思うが、中島美嘉は典型だと思う。オシャレで、病んでいて、こじれている。最近は「病み系女子」という言葉も流通している。彼女たちを救うのは、いったい何者だろうか。
●大人女子
 ガーリーは美意識である。ヤンキーやギャルたちとちがって、若いときにオシャレで洗練されたガーリーカルチャーの洗礼を受けて自分の世界観を構築してきた人が、仕事・結婚・出産・子育て・介護などを機にポンッと「卒業」するのは難しい。美意識というものは、それほど脆弱なものではないような気がする。オリーブ少女の場合、その克服の仕方のひとつがナチュラル系に収まるというライフスタイルだったが、それとは別のソリューションがロールモデルとして相次いで提案されている。
 言うまでもない、そのキーワードは「女子」である。「女性」ではなく「女子」を使用するとき、それは隠微な性的世界観からの離脱を宣言している。その跳躍台は「自分のためのオシャレ」という概念である。
 代表的ロールモデルは蜷川実花である。カラフルでガーリーな世界観を徹底的に追求する彼女の作品は、その実生活とともに高い支持を得ている。『オラオラ女子論』(祥伝社、二〇一二年)はその宣言書だと思う。
 そういうガーリー志向の大人女子の「言い分」をよく表現しているのは、先ほどのエッセイスト酒井順子と、『貴様、いつまで女子でいるつもりだ問題』を書いたジェーン・スーであろう。ちなみに後者の「貴様」とは四〇代になった自分のことである(幻冬舎、二〇一四年)。
 大人女子という言い方は、いろいろ波乱含みである。しかし、ここを押さえないとガーリー領域がたんなる極東の一時的なサブカルチャーとしてしか認識できないだろう。もちろん、そんなことはないのである。
 ここで片づけコンサルタント近藤麻理恵にふれておこう。キーワードは「ときめき」である。片づけと言っても捨てることではない。「ときめき」を感じるモノだけに囲まれて生きていこうという提案である。しばしば「断捨離」と混同されるが、決定的にベクトルが反対を向いている。彼女は、たんなる引き算を拒否するのである。これが世界中の大人女子に支持される理由である。世界で三百万部の本を売り上げ、『タイム』の「世界で最も影響力のある百人」に選ばれたのは偶然ではない。ときめくモノだけに囲まれて生きていくという文化的決意なんだと思う。経済学者はこの広大なガーリー領域に気づくべきであり、社会学者はそこに自己啓発的な愚かさを見るのではなく、ひとつの巨大な文化的覚醒を見いだすべきだと思う。
 カワイイカルチャーは低年齢の女の子を志向している。それは幼稚化とも言える。それに対してガーリーカルチャーは必ずしも幼稚化ではないのだ。手元にある月刊誌『LARME』(〇一八号、徳間書店、二〇一五年)の背表紙にはこう書いてある。「私たちは女の子として戦っていく」と。表紙にはSWEET GIRLY ARTBOOKと表示しているこの雑誌の基調は、徹底した美意識のありようの宣言のようである。これにはきっと続きがあるにちがいない。ガーリーテイストを貫く大人女子たちが一斉に街に出る日がきっと来る。
●ガーリーな男子
 昨今、男子もガーリー化している。
 たとえば手元にある『POPEYE』最新号の特集は「Thank you, Olive! もっとデートをしよう。そして彼女を笑顔にしよう。」である(二〇一六年一月号)。デートの仕方を伝授するのはポパイのお家芸だが、今回ここで教授されるのは「男子が女子の文化領域に積極的に入っていこう」というメッセージである。「俺についてこい」でもなく「君が行きたいところに行こう」でもなく、「自発的にガーリーな文化領域に習熟して、積極的にガーリー領域をいっしょに楽しもう」ということである。これは価値観と美意識を共有するということである。ムリにではない。自然に、である。体育会系やビジネスマン系の文化からは離脱して、ガーリー領域に居場所をみつけた男子たちである。ガーリーの方が俄然おもしろいと感じる男子たちだ。
 これには教員としていろいろ思い当たることがある。ちなみに今一番モテる男子は、こういうガーリーな男子である。その他の男子諸君は気がついているだろうか。
 たとえば、アイドルのところではふれなかったが、アイドルのオタクな男子ファンは、じつはかなりガーリーな人たちなのである。いわゆる肉食系ではない。アイドルとかれらのあいだには異性への恋愛感情もあるけれども、むしろ女子同士の友情的な感情に近いものが存在している。かつてのアイドルファンと言えば、たとえば大場久美子のコンサートなんか、強引にステージに上がって抱きつこうする男子がたくさんいて、ボディガードが次々にそういうファンを突き飛ばしている渦中で歌っていたりするのである。ちがうのは後期の山口百恵ファンだけで、そこは例外的に圧倒的に女子が多かったが、それは今のアイドルファン女子に通じるものがあった。「女子が女子に憧れる」そこらあたりを理解しないとアイドル現象はわからない。
 さて、ガーリー化する男子は、たいていファッションから入る。いわゆるオネエキャラの芸能人もたいていファションから入っているし、今もずっとオシャレであろうとしている。ごく一時期に使われた「メトロセクシュアル」がそれに相当する(マイケル・フロッカー『メトロセクシュアル』ソフトバンククリエイティブ、二〇〇四年)。
 これとはまったく別系統だが、いわゆるハードロックの人たちも同じで、レッド・ツェッペリン時代のジミー・ページなんか女の子みたいだった。ロック系には、今でもそういう美意識が連綿と引き継がれている。ヘヴィメタルがそうである。歴史的には「ピーコック世代」と呼ばれたこともある。スーツにネクタイという大人のスタイルに対する抵抗表現であった。ただし革ジャンのパンク系とは異なる系譜である。
 この文脈を広げて概観してみるとトランスジェンダーの領域が視野に入る。最近では安富歩・東大教授の例が注目を浴びた。かれ(あゆむ)は満州国の研究でデビューした経済学者で、その後、オルタナな経済学の可能性を追求する著作をたくさん出していたが、9.11のあとの原発に関する専門家たちの説明に対して『原発危機と東大話法』(明石書店、二〇一二年)を書き、広く注目された研究者である。その先生が、突然、女子化したのである(あゆみ!)。最新刊の『ありのままに』を読むと、その経緯が詳しく書かれている(ぴあ、二〇一五年)。前半を一言で言うと「女子の文化の方がリッチだ」ということになると思う。ただし、この先生にはそれなりの深い心理的葛藤があって、後半はそっちに主題が移るが、トランスジェンダーを「性同一性障害」という「病気」にしてしまうことには反対している。この本によるとマツコデラックスの番組にも出ているそうなので、もう怖いものなしである。おそらくこういう人がほんとうの「新人類」(死語だが)なのだと思う。
 ここで確認しておきたいのは、ガーリーというのは性的嗜好のレイヤーではないということだ。オッサンのみならずマッチョな若者もオバサンたちも田舎の人たちも、総じて低感度の人たちが取りがちなオッサン目線だと「エロ」で括ってしまうことが多いと思うが、ガーリー領域に居場所を見つけた人たちは、あまり性的嗜好のレイヤーでは物事を捉えていない。そういう「エロ」目線の居場所である大人の俗物的な領域こそが唾棄すべきものなのだ。ここは「聖域」なのだ。「神性の宿る場所」なのである。この点に誰よりも早く気づいて膨大な議論を展開したのが大塚英志だった。かれの『少女民俗学──世紀末の神話をつむぐ「巫女の末裔」』(光文社、一九八九年)はその記念碑的著作である。すでにタイトルに大塚の主張が集約されている。「神話」を「物語」に入れ替えれば、もっと正確になる。かれの言うように「少女」は「聖と俗」構図に当てはめれば「聖」の領域なのである。「聖なるもの」に志向した文化領域なのである。そこでのみ感じることができる物語の舞台を自分の居場所として感じる想像力がなければ成立しないのだ。
●ガーリー領域の六次元
 最後に議論を整理しよう。ガーリー領域とはいかなるものか。
 理屈はカラオケに似ている。カラオケは日本発の世界的発明(ジョウ・シュン、フランチェスカ・タロット『カラオケ化する世界』青土社、二〇〇七年)。日本から世界に拡散したカラオケ文化をヒントにして、ここはひとつポジティブに考えてみよう。ちなみにネガティブな姿勢だと「そもそも論じるに値しない」と決めつけてスルーしまうことになるので、ちっとも展開力のある議論にならない。そういうことは、既成概念を食べて生きている優等生やエリートたち、そして若くしてすでにレガシーな大人たちに任せておけばよい。私たちは先に一歩踏み込んで叩き台になろう。
 これまでのざっくりした議論から、おおよその目安を付けて、これから(少なくとも野村ゼミと基礎演習で続くであろう)議論のスタートラインとしたい。ガーリー領域の基本特性を整理しよう。
(1)加算性、バロック、装置または装備、軍服と制服
(2)親密性、舞台仲間、楽園
(3)自分に萌える、自分物語の構築、外からの視線を拒否する、世間の空気を読まない
(4)非モテ、トランスジェンダー志向、女子目線の美、オッサン目線だとエロになる、ロマンチックラブ・イデオロギーに対する抵抗
(5)二次創作あるいはミメーシスの連鎖
(6)世界性、世界制覇、グローバリズムを変形する、ローカルな創造的変形
 以上をもって「ガーリー領域の六次元」と呼ぶことにする。「次元」ということは座標軸ということである。座標軸においてプラスとして捉えることにする。となるとマイナスのことも考えなければならない。かんたんに解説しておこう。以下の六つの説明を「ガーリー領域の六つのテーゼ」と呼ぶことにする。
(1)ガーリー領域のスタートラインは制服であり、その源流は軍服である。セーラー服はもともと海軍の制服である。あるいは通学中のリセエンヌたちの服装である。あるいは西欧の上流階級における少女たちのドレスである。いずれにしても性的領域ではないことは強調しておきたい。そうした定型的なファッションにひたすら加算するというチカラが働いている。何を足すかは学校や親ではなく本人たちの自由である。したがって、しばしばそれは無秩序で過剰になる。つまりバロック化する。ガーリー領域は「大人の引き算」をしない。その点で「大人のシック領域」とは正反対である。これがしばしば大人目線からの非難を招く。なぜなら「大人のシック領域」は世間からの保守的・道徳的視線に対する自己検閲であるから、一種のやせ我慢であり抑圧だから、それに従順な人たちには「ガーリー領域」は許しがたいのである。
(2)ガーリー領域には、あいまいな「世間」という概念がない。しばしば衝突が生じるが、それに対しては抵抗する。この抵抗は美学的なものである。その美意識を共有する人たちが準拠集団になる。親密性が頼りであり、舞台仲間のような人たちである。そういう人たちで完結できればガーリー領域は相互理解可能で自由な楽園である。
(3)ガーリー領域における焦点は常に自分自身である。「自分に萌える自分」(米澤泉『私に萌える女たち』講談社、二〇一〇年)が最大関心事である。自分の物語は自分で構築するという姿勢があって、その分、外部からの視線を拒否する。既成の保守的な世間の空気は読まない。
(4)ガーリー領域は、異性にモテることやセックスをすること、つまり「性欲領域」は志向しない。お互いが天使のようなトランスジェンダー的存在であろうとする。女子アイドルグループや女子校に典型的に見られるように、女子だけの組織や集団のときほど、そういう傾向が強い。競争的に美意識を先鋭化させるからである。「性欲領域」は忌避されるから「友情」の方に価値がある。そもそも「異性愛」と「友情」は次元がちがう。両方を満たす行為はあるが、ガーリー領域を逸脱することになる。これを「卒業」と呼ぶ。しかし「卒業」は「終わり」ではない。一時的な離脱なので許容できる。近年注目されるのは、「卒業」ののちに「復帰」する人が増加しているということである。
(5)ガーリー領域は加算性の文化なので、何でもありである。しかし、まったくの創造がなされるのではなく、既成のアイテムを引用したコラージュでありブリコラージュである。一種の二次創作だと理解すべきである。オリジナルのアイテムの世界観を借用して、過剰に模倣する「ミメーシスの連鎖」としての文化なのである。流行ではないのだ。
(6)ガーリー領域は現在は狭小な恵まれた平和秩序のある社会においてのみ存立する。他方、その他の広い世界において女性は抑圧され、性に拘束され、しばしば直接的暴力と構造的の犠牲になっている。逃げ場のない女性も多い。それに較べるとガーリー領域を宣揚することは不謹慎であり政治的に正しくないと言われそうである。けれども、それと同時に代替案を提示することも必要な政治的・社会的・経済的・文化的・性的課題なのである。
 男性も「男らしさ」の拘束に身動きできない人が多い。じつはゲームやコミックや地下アイドルにどっぷり浸かっている「オタク領域」も近いところにいるのである。リアルな女性とのコミュニケーションに気遣いして疲れるのでは社会生活を送れないことはたしかであるにしても、男らしさ満載のマッチョや、二四時間戦えるかを問われるようなビジネスエリートとは理想を共有できない人たちも多いはずなのだ。
 その意味でガーリー領域は世界性をもつ。グローバリズムの名の下に多様な生き方を許容しない生活を「変形させる」チカラがあるのではないか。何か社会が分岐点に至ったときに人びとが「あっちに行きたい」と思うような魅力的な物語世界が必要なのである。ガーリー領域にはそういう磁力があると思うのだ。
●女子経済学の誕生?
 一応ハテナをつけておいた。経済学部なので、とりあえず経済学としてみたのだが、この場合の経済学は、包括的な意味での「経済」(たとえばポランニーが議論したような)の研究のことである。本学経済学部経済ネットワーキング学科はそもそもこちらの経済概念に準拠している。そう考えれば「女子経済学」でいいのだ。
 このガーリーテイストな経済は、かなりジャパネスクなところがあると同時に、地球的な広がりも持っている。ただ日本においてのみ先に開花しただけであって、他の地域でそうならないのは女子たちが厳しい抑圧状況に置かれ続けているからにすぎない。真っ黒なブルカやニカブの裏地はガーリーに彩られているはずなのだ。日本発のガーリーカルチャーには、そういう裏地を表にする潜在力があると思う。このさい私たちは、美意識こそ人間の経済生活において大きな力を持ちうることを認識する必要がある。たんに所得の高さだけが消費を生むのではないのだ。そして、そういう文化を人びとが求めること自体が平和を維持する力のひとつになると思ってみたりする。たとえば、そのティッピングポインを東京オリンピックで作れないか。とんでもなくガーリーな東京オリンピック・パラリンピックだ。
 というわけで、われらが共同作品『女子経済学入門』の「ガーリー総論」としよう。
 各論を担当してくれたクラスのメンバーは、ほとんど十代である。メンバーにとっては、とっくに「歴史」になっている現象も多いと思う。それを「遅れてきた人」の視点から見るとどうなるかを読んでほしい。
 今回は日程的にとてもタイトだった。説明は一回だけ。冬休みにその課題をこなして休み明けにメール添付で提出してもらって、年明け最初の授業で校正して、その次の最終回で新書として配布するという荒技である。とっくに大人になってしまった人が見れば、この文章がもつ「いまさら感」は、こういう類いのことを初めて考える大学一年生たちのためのヒントになるように即興的に書いた導入的文章だからである。短いヴァージョンを正月二日に書いてみんなに提示して参考にしてもらった。そのあと加筆したのが、この文章である。正解のない文化的世界への招待状とならんことを願う。(二〇一六年一月二日の書き初め。最終稿は一月九日)

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4月 12017

社会学感覚 あとがき

Socius  ソキウス   著作+制作 野村一夫

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社会学感覚
あとがき
あとがき(初版)
社会学教育についての反省
大学院に入ってまもないころ、受験生むけの「学部選びシリーズ」の一冊に「社会学は社会を人間の側に取り戻す科学だ」という長いタイトルの社会学紹介記事を書いたことがある。これには意外に苦労した。というのも、編集者は「社会学者の紹介も名前も入れないでくれ」というのだ。となると、当事手元にあった社会学の入門書はまったく頼りにならなかった。当時の社会学のテキストは、ごく初歩の入門書でさえ、実質的に社会学者と学説の要約紹介によって「社会学とはなにか」を説明していたからである。たしかに、すでに大学に入ってしまった人にはこれでいいかもしれないが、社会学部(科)にしようか法学部にしようかなどと迷っている受験生には、なにがなんだかわからないかもしれない。そこで自分なりに社会学の発想法を類型化してまとめることにした。本書の社会学論のいくつかの章はこのときの内容を出発点にしているが、これがわたしの最初の「社会学教育」体験といえるものだったという気がする。
やがて「住み慣れた」社会学科をでて、看護学校で社会学を教えるようになったとき、「病院での実習に携わりながら受講する彼女たちにとって社会学の有効性はどこにあるのだろう」と考えたものだ。その模索のなかで、看護学のもっているエートスが社会学の実践的なエートスに意外に近いのに気がついた。と同時に、このような専門職教育がどうしても技術中心にならざるをえず、じっさいに専門職として社会のなかで活動するさい遭遇するさまざまな困難や問題に対してどのように考えていけばいいかということについてはどうしても手薄になってしまうという事情も教えられた。制度上、社会学は基礎科目としてそれを補う立場におかれている。
このことは、大学の理工学部で社会学を教えるさいにも考慮したことである。技術者として企業内で働くなかで遭遇する人間係数的出来事に対するカリキュラムは組まれていないのがふつうである。ここでも社会学教育の存在意義は大きいはずだ。
問題は、社会学の側がそうした要請にきちんと応えているかどうかである。
かつての社会学は、みずからの科学としての正当性について弁解することにほとんどすべてのエネルギーを費やしてきた。これはこれで意味のあることだが、しかし、これは基本的に「社会学」そのものではない。「社会学の対象は社会学ではない」(フランコ・フェラロッティ)のである。かろうじてであれ社会学が市民権を得た今日、もうそのようなスタイルは過去のものとなりつつあるのではなかろうか。とりわけ入門段階において初学者がそのような学史的記述を正しく理解することが至難のことであっただけに、教養科目・基礎教科としての社会学教育は大きな転換点にきていると思う。
本書の方針
本書を構成するにあたって、さしあたりわたしの念頭にあった読者は、社会学を専攻していない大学生と短大生とくに理科系の学生、また看護学校の学生だった。目下わたしと関わりのある人たちをおもな読者と想定しているわけだが、これによって、これまでまったく社会学と縁のなかった市民の方々にも近づきやすいものになるのではないかと考えている。
さて、似上の反省をもとに、そのさいつぎの諸点について留意しつつ執筆した。
まず第一に、社会学がどのような科学であるかを学史的に説明するのでなく、その発想法に即して説明すること。「社会学感覚」という新造語は、そのような社会学的発想法のメルティングポットあるいはフロシキあるいは受け皿をさすことばとして導入した。かならずしも一義的な概念ではないが、たんに社会学専門家の独占物ではなく、明晰かつ反省的な市民としての読者と共有できる発想法・思考法として設定したものである。
第二に、本書では、旧来の狭い意味での社会学の領域ではなく、きわめて広い社会領域をあつかった。その結果、本書は「社会学入門」の枠を逸脱して「現代社会論入門」の色彩の強いものになっている。これは理科系・看護系のカリキュラムにおいて社会学は事実上「現代社会論入門」の位置にあると考えたからだ。第一章で説明したように、社会学は市民の社会科学入門に最適の科学的構成をもっている。
またこれに関連して、社会学者でない隣接科学の研究者の著作も多く導入した。じつは、知的興奮のみなぎった研究が社会学にあることはあるのだが、どれも専門的で、一般の人にはたいへんむずかしい。社会学的意味における知的発見のみなぎった「おもしろい」研究やフィールドワークは意外にも非社会学文献に多くみられる。これは隣接科学の〈社会学化〉の結果と考えられるが、わたしは自分の社会学感覚に忠実にこれらの社会学的な非社会学文献を「社会学的世界」のひとつとして紹介したいと思った。もともと社会学はその発展過程において「モザイク科学」であり「侵入科学」であり「残余科学」でありつづけた。そう考えれば、これも社会学の生理にあったことではなかろうか。
第三に、日本人社会学者の研究を紹介すること。こうした概説書では洋モノの原著[の翻訳]を内容紹介するのが通例になっていて、邦語文献の紹介は少ない。たしかに、邦語文献には欧米の研究の紹介が多い点でセカンダリーかもしれない。しかし、社会学入門者[じっさいには社会学専攻の学生も]にとって、これは迷惑な話である。たとえ原著であれ、翻訳というプロセスを経ているかぎり、じつはそうした文献もセカンダリーにはちがいないのだ。いや、むしろ「異文化間コミュニケーション」という問題をよけいにふくんでしまう点で、本質の理解にとってかえって妨げになる場合さえあるかもしれない。むしろ現代日本社会に即した解説や事例研究をたくさん読んだ方が、ヴィヴィッドな社会学感覚を身につけることができるのではないか。
たとえば、ジンメルが最初に着手した「よそ者」や「文化の悲劇」「大都市と精神生活」、ウェーバーの提起した「カリスマ」や「音楽の合理性」などの論点を現代日本の都市社会という社会的文脈のなかで説明できなければ、ジンメルやウェーバーの今日的意義を初学者に理解してもらうことはできないだろう。俗流化とかステレオタイプ化によって、たとえかれらのオリジナルな概念構成が犠牲になったとしても、その方がえるものは大きいのではなかろうか。  たとえば上野千鶴子の問題作『スカートの下の劇場』(河出書房新社一九八九年)にはジンメル的な問題意識と知的エートスがみなぎっている。こういうと、ご本人は否定するかもしれないし、ジンメル研究者にも叱られるかもしれないが、ジンメルが現代に生きていれば、おそらくこのような本を何冊も書き飛ばしたにちがいない。かれの社会学的なマインドすなわち「社会学感覚」をヴィヴィッドなものとして実感するには、教科書にあるような形式社会学の形式主義的説明よりも、おそらくこのような本を数多く読み飛ばす方が数段いいのだ。
第四に、記述をなるべくやさしくすること。人がまったく新しい科学に出会ったとき、最初に困惑するのは概念のむずかしさというより、その説明に使われることばのむずかしさである。社会学の場合も、むずかしさのかなりの部分が説明のことばに起因する。そもそも科学はムダのない簡潔なことばを好む。しかし、その文体はしばしば一般読者を遠ざけてしまう。執筆中もっとクリアに簡潔に記述したいという衝動がたえずつきまとったけれども、学術論文の文体はこれでもなるべく禁欲したつもりである。エッセイ的な記述に徹した部分もあるし、ふつうの概説書で数行で片づけらている部分を大きく膨らませる一方、学術的意義のあることがら――たとえば学説史や概念論議-を思い切って断念した章も多い。また文章としては邪道であるが、構図をつかみやすくするため箇条書きも多く採用した。改行もなるべく多くした。それでも「やっぱりむずかしい」という声が聞こえてきそうだが……。
第五に、統計的な資料の採用を極力やめて、事例中心に説明した。たとえば、こんな感想がある。「都市社会学的な視点の最大の欠陥は、現実を生活の実効的な側面に限定することにあったのでしょうね。ところが都市は、その中に生きる人間の意識のあり方によってさまざまの相貌を示すものです。だから、計量的方法によって捉えられるのは、そのごく一部に過ぎないという自覚が、そういった方法に携っていた人には欠けていたようです。」[山口昌男『祝祭都市-象徴人類学的アプローチ』(岩波書店一九八四年)]統計的・計量的方法の意義は承知しているつもりだが、山口のいう「意識のあり方」を本書では重視したいと考えた。そのために初学者にはおもしろみのない統計的資料の解読を避け、むしろ実感のともなう事例によって社会的世界の構造を語らせた方がいいのではないか。そのさい、ライト・ミルズが「知的職人論」でのべた「少なくとも心に確実な実例をもたぬまま、三頁以上を書きとばしてはならぬ」との警告を心にいだきながら執筆を進めたのだが、抽象と具体の往復は思いのほかむずかしいものだった。
第六に、読書案内あるいはブックガイドのような本をつくりたかった。みんな現代社会のしくみと問題についてはテレビと雑誌によってかなり知っている。テレビと雑誌の限界は、なによりもものごとを相対化する視点に欠けていることと、一定のステレオタイプにはまっていることだ。そこに〈反省〉はない。それを補うのが系統的な読書であるが、いまどきの大学生にたりないのは、このような読書体験による反省的知識である。
そもそも社会学のおもしろみを体験するには、まず多読が必要である。片っ端から読み飛ばすこと。ところが、意欲的な入門者の遭遇する困難は、なにを読んだらいいかわからないということだ。素養がなくても読めばだいたい理解できて興味がつながるもの-これがたいへんに重要!-がいいわけである。そこをなんとかしたかった。そのさい、海外の古典作品だけではなく、とりつきやすい現代日本の作品を多く示すことにしたことはすでにのべたとおりである。
したがって、社会学の世界では常識となっていることがらでも、それについて解説した一般書を脚注で提示するようにした。そのため本書の脚注はいささか〈過剰〉になっている。
ジャーナリズムの社会学化
以上のような方針に加えて、わたしのなかには、もうひとつの思いがあった。それはジャーナリズムヘの思いである。
ジャーナリズムは社会の反省的再構成にとって最重要な活動だが、現実にはさまざまな問題を抱えている。それを具体的に克服する主体は、いうまでもなくジャーナリストである。それゆえジャーナリストの社会認識-これは当然、自己認識をふくんでいなければならない-が重要なファクターとなるのだが、現状ではかならずしも十分とはいえない。権力・教育・宗教・家族・村落・子ども・犯罪・コミュニケーションなどについての認識は、しばしばステレオタイプに陥っている。べつに学術的であれとは思わないが、ステレオタイプな社会認識がジャーナリズムの理念とあいいれないのはたしかである。こうしたステレオタイプから脱するためには〈ジャーナリズムの社会学化〉が有効だというのがわたしの持論である。じっさいに本書がそのような人と出会う可能性は少ないかもしれないが、少なくとも、ジャーナリズムのオーディエンスたる若い読者に、日々メディアから送られてくるメッセージにひそむステレオタイプを批判的に受けとめる視点をもってもらうことはできるだろう。
社会学のジャーナリズム化
〈ジャーナリズムの社会学化〉にともなって〈社会学のジャーナリズム化〉もぜひ推し進めなければならないことである。とりわけ社会学教育は広い意味での――たとえば戸坂潤のいう意味での――〈ジャーナリズム〉の一環であるとわたしは位置づけている。
そもそも社会学は「問題提起の学」であって「問題解決の学」ではないように思う。社会学の実践的性格がかならずしも問題解決の糸口にならず、しばしば疑似宗教的実践倫理にとどまるのもそのせいであるし・ファシズムや官僚的社会主義から敵視されるのも、また逆に、社会運動に関わっている人びとから白眼視されるのも、そして政策担当者からあまり相手にされないのも、社会学の実践性が良くも悪しくも問題解決・政策提言になく、もっぱら問題提起性=議題設定機能にあることによるのではないか。本書の随所で「他者理解と自己反省」についてふれてきたが、社会学のレーゾンデートル[存在理由]は、権力作用によって把握しにくくなっている社会的現実を、自己反省的かつ他者理解的に解明するところにあると思う。とすれば、社会学研究と社会学教育の実践的課題は、問題解決や政策提言ではなく、むしろ潜在的な問題を〈問題〉として科学的に定義すること――それによって他者理解と自己反省の能力を高めること――にあり、この点をもっと明確に自覚的に追求すべきなのではないか。その意味では、〈ジャーナリズムの社会学化〉とともに〈社会学のジャーナリズム化〉が必要なのだと思う。
このような観点から、さしあたりテーマ設定についてなるべく具体的なもの・多様なものをあつかうようこころがけた。くわえて、少なくとも「議題設定機能」[何が問題か]をもつテキストたりえるよう、素材となる事例をなるべく具体的に提示するようにした。
理論的方針
理論的方針について、もう少しダメ押ししておこう。本文のなかで相当しぶとく強調しておいたことだから、ここまでくれば、もう若い読者にも納得していただけるだろう。本書を貫く理論的方針は、つぎのようなものである。
(1)「もうひとつの」(alternative)視点-たとえば被害者・受け手・被支配者・社会的弱者・市民・患者・消費者-に立つこと。
(2)自明視された「常識」と「ステレオタイプ」を〈歴史化〉し、批判すること。
(3)「技術的知識=情報」ではなく「反省的知識=明識」を深めること。統計的数字や「白書」的展望をいっさいやめて、原理的な思考能力を高める基礎的な考え方を提供する。
(4)属性ではなく関係に内在するものととらえるプラグマティックな思考方法を前面に押しだすこと。マルクスの物象化論、ミードのコミュニケーション論、ジンメルの相互作用論、ウェーバーの支配社会学および歴史社会学、グールドナーの反省社会学などに通底する思想を強調すること。
本書の理論的立場はおもに相互作用論といってよいものだが、読者自身の自明性をおびた常識的知識に批判的反省を迫るために、じっさいにはとくに「反作用」(リアクション)を強調する論述方法をとった。識者には、いささかバランスを欠くようにみえるかもしれないが、若い読者のステレオタイプをくずすには、これでちょうどよいというのがわたしの実感だ。
本書への自己反省
最後に、この本を読んだ読者に危険負担の可能性について申し添えておかなければならない。
それを一言で表すと、本書はわたしが自覚的に選択した社会学的知識に限定されているということである。ある問題についての学説がいくつかにわかれている場合、わたしはそれらを公平に両論併記する方法をとらないで、どれかひとつを選択した。さらに具体的にはつぎのようなことである。
第一に、なるべく多面的に社会学像を紹介しようといいながら、本書では「地域」という重要な観点が欠落している。これはもっぱら紙数の関係によるのであるが、もうひとつ、地域社会論の系列が全体社会論の系列としっくりかみあわないことによるものでもある。これはおそらく抽象度の水準の問題であろう。また、社会問題論では医療に関するふたつのテーマだけが論じられているにすぎない。ほかに論じたいテーマがいくつかあったのだが、これらも紙数の関係で限定せざるをえなかった。しかし、このふたつのテーマには、現代の社会問題を考える上で重要な要素が多くふくまれており、その点で例題的意義はあると考えている。ちなみに本書は網羅主義ではなく、あくまでも例題主義である。
第二に、本書では論点をはっきりうちだすために、理論のフリンジを多少強調してある。「あれもある、これもある」では読者がとまどうだろうというよけいな配慮によるのであるが、これが個々の作品世界を侵害することになった可能性は否定できない。ちょうど映画の予告編のようなものだと考えておいてほしい。そしてできれば予告編ですませるのでなく、図書館なり書店で本編に接してほしい。
第三に、学術的な態度によると概念や現象の〈差異〉をこまかく区別するが、本書では逆に〈類似性〉を強調する論法をとっている。さまざまな学説のちがいよりも、むしろそれらに共通する論点を前面にだしてある。入門段階はそうあるべきだと考えたからだが、識者には〈社会学的シンクレティズム〉または〈社会学的ブリコラージュ〉にみえるかもしれない。
それにしても、以上のような社会学教育への反省と理想にわたし自身は十分応えられただろうか。じっさいの講義では省略することの多い社会学説の解説も、また、講義なら二・三回ですませる社会学論も、いざ本にするとなると、理論社会学専攻の血が騒いでしまって、結局あれこれ書き込んでしまった。
社会学研究者としての仕事にはたえず準拠集団としての社会学者集団がつきまとう。そのため、想定される読者には必要のないことでも、ある程度までは-つまり準拠集団の許容範囲に達するまで-書き込まなければならない。これは教育者としてはつらいところであるが、研究者としての職業倫理でもある。結果としてこの本も多くの社会学概説書と同様、アンビヴァレンツな動機にひきさがれている。
きっと先学の方々もそうであったにちがいない。そう思うと、これまでのべてきたことをいっそのこと撤回したい心境になるが、逆に社会学者とはこうした両義性を平然と生きる確信犯のような存在なのかもしれないと思えば、この矛盾をかかえるのも修行のうちである。
謝辞
本書の知識はふたつの源泉をもっている。ひとつは多くの文献、もうひとつはわたしの受けた社会学教育である。最後に、このふたつの知的源泉に感謝したい。
とくに、本書では、敬愛する多くの日本の社会学者による研究や一般書を参照・紹介させていただいた。参照・引用した資料は脚注で逐一明記するよう努めたが、ここであらためて謝意を表したいと思う。本書は、もとよりオリジナリティを競うものではなく、社会学的に現代社会を理解するさまざまな知見を紹介することに所期の目的がある。したがって、本書は、これら諸研究への〈インデックス〉以上のものではないし、読者がこの〈インデックス〉から、自分の身の周りの社会的世界を見直すための小道具をみつけることができれば本望というものである。
最後に、予想以上に分厚いものになってしまった本書を快く引き受けてこのような本として仕立てていただいた文化書房博文社の天野義夫さんに心から感謝したい。
一九九一年九月二七日
社会学的リテラシー構築のために(増補版)
本書執筆後、私は三冊の本を書き下ろした。いずれも広い意味での社会学教育に関する本であり、本書執筆が引き金になった仕事である。すでに本書も七百ページ近くあり、これ以上何を読ませようというのかと思われるかもしれないが、社会学の勉強については、まだまだ言いたいことが山ほどあるのだ。
まず第一に「なぜ社会学を学ぶのか、なぜ社会学を教えるのか」について。
『社会学感覚』の本編では「1―4 社会学を学ぶ意味」(二六―三二ページ)でかんたんに説明しておいた。従来的な社会学入門では案外この点が説明されていないのである。じつは『社会学感覚』ではこの項目の他に「知識論」というテーマ群を設定して詳しく説明する予定だったのだが、紙幅の関係で果たせなかった。そこで、そのとき構想していたものを詳しく一冊の本に展開し直すことにした。それが本書の次に公刊した『リフレクション――社会学的な感受性へ』(文化書房博文社一九九四年)である。結果的に、『社会学感覚』が各論として社会学の遠心力を説明したのに対して、『リフレクション』は総論として社会学の求心力を説明することになった。このさい私が考えた社会学の理念的求心力は「リフレクション」すなわち「反省」の力である。理論的にはミードやグルドナーやブルデューらをゆるやかにつなぐ反省社会学の系譜に依拠して議論を整理した。
つぎに「どのように社会学を学ぶのか」について。
従来はハウツウものとして専門家からは軽く見られてきた分野だが、じっさい社会学教育を考える上ではとても重要なところだと私は考えている。社会学では長らく適切なテキストがないために初学者にムダな試行錯誤を強いてきたきらいがあるので、本書『社会学感覚』のいくつかのハウツウ的な付論を発展させて詳しく説明することにした。『リフレクション』の翌年に上梓した『社会学の作法・初級編――社会学的リテラシー構築のためのレッスン』(文化書房博文社一九九五年)がそれである。本書『社会学感覚』の付論にものたりない読者は、こちらを参照していただければ幸いである。ただし、初級者にしぼって説明してあるので、卒論程度になるとものたりないかもしれない。現代学生に顕著な、単位取得に役立たないことはいっさいしないという受験生的「心の習慣」を脱構築するためのリハビリ用である。
さて、『社会学の作法・初級編』には「パソコンの利用」という章がある。パソコンが現代の社会学的生活には欠かせないという立場で具体的に説明したのだが、折しも一九九五年春の公刊である。その年末のWindows95の登場やインターネットの急展開によって、あっという間に記述が古びてしまった。とくにネットワークの利用が学習や研究にとって重要なものになってきたことをきちんと説明する必要を感じ、『インターネット市民スタイル【知的作法編】』(論創社一九九七年)を書いた。これはいわば「社会学の作法・ネットワーク編」にあたる。  最後にインターネット上の私のホームページについて言及しておこう。一九九五年八月から「SOCIUS」(http://www.asahi-net.or.jp/~bv6k―nmr/welcome.html)というホームページを始めた。「SOCIUS」は「ソキウス」と読む。生涯学習のための社会学専門ホームページである。さらに一九九七年一月にはシェアテキストのプロジェクト「honya.co.jp」(http://www.honya.co.jp/)に参加して「SOCIUS pro」(http://members.honya.co.jp/creative/knomura/welcome.html)の公開も始めた。いずれも印刷媒体の制約を乗り越えるために構築したものである。
いずれのホームページでも上記の私の著作を公開しているので、ネットワーク環境の整っている方は、さしあたってこのふたつのソキウスをご利用いただくのが早道だろう。また、ある程度の時間が経過したのちに本書をご覧の方のためにもソキウスで最新情報をチェックできるようにしたいと思っている。
そもそも、このブックガイド自体が、「ソキウス」上で展開している「ハイパーブックガイド」などでこの二年半に少しずつ書きためたものが元になっている。ウェッブは修正や増補が容易なので印刷媒体を補うのにちょうどよいメディアであるし、しかもウェッブ上で公開しているとなると日常的に増補する習慣がつくので、締切を過ぎたあとも目配りすることになる(なぜなら更新が止まってしまったウェッブはみっともないからである)。今回の増補原稿はその賜物である。
というようなしだいで『社会学感覚』はだれよりも著者自身を導いてきた本といえそうである。増補によって今しばらくの延命を願うのも人情というものであろう。いつか機会があれば、今回のラフな増補をもとに本編を全面的に書き直し、『新・社会学感覚』の上梓を期したいと思う。
近年発刊される社会学系のテキストでは十人以上の研究者によって執筆されるものも多い。それだけ専門分化が進んでいるのである。このような時代にひとりの著者が社会学全般について書くというのは、専門家として風上にもおけない逸脱行為であろう。私はそれを十分承知している。しかし、同時に私は、社会学が、専門家支配に抵抗する「見識ある市民」の反省的知識でなければならないとの信念をもっており、それに沿ってテキストを構成するには単独で作業する方が効率的なのである。それが成功しているかどうかに関して必ずしも自信があるわけではないが、しかし少なくともいえることは、この程度のことでも複数の執筆者間でコンセンサスを確保しながらおこなおうとすれば、たいへんな手間と議論とストレスが必要になるにちがいないということだ。それだけ「専門科学としての社会学」のディシプリンは強固であり、しかも社会学が本質的に論争的な学問であることがそれに輪をかけている。
本書の立場は「見識ある市民のための反省的知識としての社会学」というものである。「社会学感覚」ということばは、このような社会学の知的駆動力あるいはエートスをさすことばとして、私が考案した造語である。いささかバブル期の雰囲気をひきづったネーミングであったと反省しているが、ふつうの言い方をすると「社会学的感受性」ということになろう。それは、日常生活を反省的に異化する知的能力であり、社会を反省的にする実践を誘発する高度なコミュニケーション能力である。
このような社会学概念は、専門科学のタコ壷的講座制の枠内では、とんでもなくあいまいで明晰でないように見えるかもしれない。しかし、在野の視点から社会学を眺めるかぎり、これは社会学に対する現代社会の要請なのである。
社会学への入口はどこにでもある。気になったところから入ってみるのが一番である。『社会学感覚』が、それを手にとった読者のみなさんにとって、そんな入口のひとつにでもなれば幸いである。ひきつづき社会学的世界へのインデックスとならんことを!
一九九八年一月二五日
野村一夫
【追記】この原稿を書き上げたあと、社会学ブックガイドの決定版ともいうべき事典がでた。あわせて参照してほしい。見田宗介・上野千鶴子・内田隆三・佐藤健二・吉見俊哉・大澤真幸編『社会学文献事典』(弘文堂一九九八年)。また、本の入手について一言。社会学系の本は巨大書店に行かないかぎり書棚にないのがふつうである。新刊書をのぞくと、最寄りの書店や生協に注文しなければならない。それが困難な人やおっくうな人も多いと思う。その程度のことで社会学書との出会いが遠のくのは何とも残念なことだ。インターネットの使える人には、たとえば「紀伊國屋書店 KINOKUNIYA BookWeb インターネット店」(http://bookweb.kinokuniya.co.jp/)のような宅配サービスをおすすめしておきたい。これだと地方はもちろん海外からでも注文できる。また、本の購入費のない人は、ぜひ身近な図書館の館員に相談してほしい。たとえば公立図書館でリクエストすれば新たに購入してくれたり他の図書館から取り寄せてもらえることがある。
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社会学感覚 国際社会学

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増補
国際社会学入門
もはや国民国家だけを基本単位として社会を構想することはできない。エスニシティ、ナショナリズム、グローバリゼーション、NGOなど、さまざまな単位のさまざまな主体のありようをきちんと分析し、グローバルに構想することが求められている。国際社会学はそのような分野として九〇年代に提唱された社会学の新分野である。
従来、国際社会を研究するのは国際関係論とエリア・スタデイ(地域研究)だった。後者は必ずしも「国際」であるとは限らないから、じっさいには国際関係論がその主導的位置を占めてきた。この国際関係論を構成していたのは国際政治学と国際経済学である。その学問的系譜については、中嶋嶺雄『国際関係論――同時代への羅針盤』(中公新書一九九二年)のコンパクトで要領を得た解説を参照してほしい。百瀬宏『国際関係学』(東京大学出版会一九九三年)も基本書。
冷戦終結後、この国際関係論に新たに加わったのが国際社会学である。梶田孝道編『国際社会学――国家を超える現象をどうとらえるか[第2版]』(名古屋大学出版会一九九六年)と、梶田孝道『国際社会学』(放送大学教育振興会一九九五年)が基本書。馬場伸也『アイデンティティの国際政治学』(東京大学出版会一九八〇年)は、政治学と銘打っているが、国際社会学の先駆的な研究である。
冷戦後の国際社会
冷戦終結後は国際関係論自体が社会学化している。冷戦時代は国民国家間関係で説明できた国際社会も、その社会学的な様相を顕在化させてきたからである。冷戦後の国際社会については、次のような本から入るといいだろう。高橋和夫『三訂版 現代の国際政治――冷戦を越えて』(放送大学教育振興会一九九五年)。鴨武彦『世界政治をどう見るか』(岩波新書一九九三年)。武者小路公秀『転換期の国際政治』(岩波新書一九九六年)。高坂正尭『平和と危機の構造――ポスト冷戦の国際政治』(NHKライブラリー一九九五年)。
この分野については現代史の知識が欠かせないが、通史としては、正村公宏『現代史』(筑摩書房一九九五年)。これなら一冊ですむ。
社会主義と資本主義
九〇年代の国際社会が今日このようにあるのは、ひとつは社会主義の崩壊によるものである。この崩壊過程については前項の文献に詳しい。
今問いなおされているのは「社会主義とは何だったのか」という問いである。桜井哲夫『社会主義の終焉――マルクス主義と現代』(講談社学術文庫一九九七年)は、社会主義の本質がマルクス主義ではなくサン-シモン主義でありメシアニズム(救世主信仰)だという視角から、詳しく社会主義の生成展開過程を描いたもの。イデオロギーのベールでこれまでよく見えなかった姿が見えてくるのだが、桜井はその主犯が知識人だと批判している。
他方、社会主義が崩壊したのは資本主義の勝利なのか。I・ウォーラーステイン『アフター・リベラリズム――近代世界システムを支えたイデオロギーの終焉』松岡利道訳(藤原書房一九九七年)は、そうではないと主張する。
いささか意表を突くこの二著は社会学者ならではの見方が発揮されたものといえそうだ。
民族問題と宗教問題
国際社会がその社会学的様相を顕在化させてきた、その代表的な要素が民族と宗教である。入門的な概説書として、浅井信雄『民族世界地図』(新潮文庫一九九七年)と、石川純一『宗教世界地図』(新潮文庫一九九七年)がコンパクトでやさしい。山内昌之『民族問題入門』(中公文庫一九九六年)はこの分野の第一人者によるトータルな解説。国際関係論ではなく「民族関係論」の必要な状況になっているがよくわかる。
ナショナリズム
ナショナリズムについての捉え方も大きく変わった。その転換点をなす研究が、ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体――ナショナリズムの起源と流行』白石隆・白石さや訳(リブロポート一九八七年)である。アンダーソンは、国民(nation)を「イメージとして心に描かれた想像の政治共同体」であるとする。それは想像されたものであり、限界づけられたものであり、主権的なものであり、ひとつの共同体として想像されたものだとする。なお、この訳書ののち増補されたNTT出版版が出ている。ベネディクト・アンダーソン『増補 想像の共同体――ナショナリズムの起源と流行』白石さや・白石隆訳(NTT出版一九九七年)。
アンダーソンの問題意識を受けて、明治期の日本における「国民」の創出をメディア史的に描いたものとして、奥武則『スキャンダルの明治――国民を創るためのレッスン』(ちくま新書一九九七年)がある。「万朝報」という新聞が担った「制度としてのスキャンダル」が、国民国家の形成に大きく貢献したという意外な側面からのアプローチである。このラインを延長して考えると、現代社会における再国民化のメディアは、オリンピックやワールドカップなどの国際スポーツ大会ということになろう。ここにスポーツ社会学の重要課題がありそうだ。たとえば、J・リーヴァー『サッカー狂の社会学――ブラジルの社会とスポーツ』亀山佳明・西山けい子訳(世界思想社一九九六年)。
EUと脱国家
馬場伸也が国際関係論に導入したアイデンティティ概念は、近年さらにリアリティを増している。とくに注目に値するのがEUの脱国家的な広域圏構築の試みだ。梶田孝道『統合と分裂のヨーロッパ――EC・国家・民族』(岩波新書一九九三年)によると、ECの諸地域においてアイデンティティの多様化が生じており、これが新しい国際社会を構想するさいのポイントになるのではないかという。梶田はこれを「フレクシブル・アイデンティティ」と呼ぶのだが、「カタルーリャ人」であり「スペイン人」であり「ヨーロッパ人」であるというようなアイデンティティのあり方は、民族間紛争を緩和しやすいという。かえって国民国家というひとつの水準に収斂するとき民族対立が激化しやすいのである。国家の上位概念だった「ソビエト連邦」が崩壊して各国が国民国家としての独立性を高めたとたんに民族紛争が顕在化したのもそのためである。
グローバリゼーション
日本ではお役所を中心に何かと「国際化」が叫ばれているが、それはグローバリゼーションのたんなる一局面にすぎないことに注意しよう。
アンソニー・ギデンズ『近代とはいかなる時代か?――モダニティの帰結』松尾精文・小幡正敏訳(而立書房一九九三年)は、グローバリゼーションが近代固有の必然的現象であると論じた論考。それに対して、R・ロバートソン『グローバリゼーション――地球文化の社会理論』阿部美哉訳(東京大学出版会一九九七年)は近代以前からグローバリゼーションは進行しており、しかもそのさい宗教の役割が大きいと論じている。ロバートソンによると、グローバリゼーションとは「世界の縮小」のことであり、「ひとつの全体としての世界」という意識の拡大である。
オリエンタリズム
地球社会という視点から世界を見るのはかんたんなことではない。ふつうは自分のローカルな居場所から外部世界を眺めるのである。そのとき手がかりになるのは、外部世界について語られた言説である。その言説に沿って私たちは外部を見る。したがって言説に語られたものごとだけが見え、語られないことは見えてこないのである。エドワード・W・サイード『オリエンタリズム(上・下)』板垣雄三・杉田英明監修、今沢紀子訳(平凡社一九九三年)が出発点にしているのは、このようなフーコー的な仮説である。
サイードの提起した問題圏は、まさにグローバリゼーションによってもたらされた逆説的な現象であり、『オリエンタリズム』は現代思想に大きな影響を与えることになった。姜尚中(カン・サンジュン)『オリエンタリズムの彼方へ――近代文化批判』(岩波書店一九九六年)は、その社会学的な展開。
地図としての社会
あえて国際社会学の文献リストに加えたいのが、若林幹夫『地図の想像力』(講談社選書メチエ一九九五年)。地図もまた外部世界を語る言説であったことに気づかせてくれる社会学書。地図と社会の錯綜した関係に光を当てる。
世界市民社会の構想
ディテールもたいせつだが、大きなヴイジョンについて考えることもたいせつだ。ヒントになる本として、ユルゲン・ハーバーマス『未来としての過去――ハーバーマスは語る』河上倫逸・小黒孝友訳(未来社一九九二年)と、坂本義和『相対化の時代』(岩波新書一九九七年)をあげておこう。坂本は平和研究の第一人者。
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