子犬に語る社会学(3)

子犬に語る社会学(3)
野村一夫(国学院大学教授・社会学者)·2016年9月22日表示16件
¶8 ことばがつくる現実
■予言の自己成就
お前たちが散歩しなければならないのは、たんに用を足したり、テリトリーを確認するためだけじゃない。ヨソの家の犬やその飼い主と交流するためでもある。犬同士のおつきあいは、お互いにたいせつだそうだから、あまり知らんふりしないほうがいいんだ。でも、中には愛想のない犬と飼い主もいる。「ウチの犬は愛想がないから」と決めつけてしまうと、積極的に付き合うことをしなくなってしまうから、どうしようもなく「愛想がない犬」になってしまう。こういう悪循環にならないようにしないといけないね。
こういう循環は人間社会にはいくらでもある。物事はいったん転がりだすと勢いがついてどんどん転がるところがあるんだな。
たとえば、一九八〇年代後半のバブル期には、株や土地は上がるものだとみんなが信じていて、繰り返し、投資や不動産購入の有利が語られた。その結果、異常に上がるだけ上がって、最終的に実体経済と乖離してしまうほどまでになり、結局、破綻した。そのツケを払っている今の時点から見ると、それは中長期的には根拠のない煽りだったんだが、そのときは専門家やメディアの人たちは自信を持って語っていたし、普通の人もそれに対して批判的に吟味などしなかったんだ。
あの雰囲気を忘れるべきではないな。二〇世紀半ばに日本が長い戦争を始めたときも、きっとこんな調子で、明るく景気のいい調子だったんだろうなと、今ではなんとなく想像できるんだ。掛け声大きく、強気で攻めて、小刻みに結果が得られると、煽りのことばも自明のことのように信じられていく。それがさらに物事の勢いをつけてしまう。ファシズムの生気は、こういうことなのだろう。
経済や戦争は、実体があり、それには限界があるから、たいていどこかで破綻する。しかし、社会現象の中には、破綻しないで、そこそこ実現してしまうものがある。
私は宝くじをよく買う。広い庭のある大きな家を建てて、お前たちを思い存分走らせたいからだ。そのためには地道に、どこが地道かわからないが、とにかく宝くじを買うしかないんだ。競馬じゃ、いくら研究しても家は建たないからなあ。
ところで、宝くじって、どこで買うかが勝負なんだよ。一般に、当たりのよく出る売り場で買うのがよいとされている。すると、大当たりの出た売り場で人びとは買うようになる。すると、その売り場では他の売り場より大量に宝くじが販売されるので、当たる確率が各売り場同じとすると、母数が多い分、たくさん当たりくじが出る。するとその売り場はほんとうに当たる売り場になるから、ますます販売数が増えて、当たりくじも多くなるというわけだ。
こういう循環を社会学では「予言の自己成就」と呼ぶんだ。この場合の「予言」とは「この売り場で大当たりがでました」ということばだ。そのことば自体が呼び水になって、どんどん大当たりが出る売り場になったことが「自己成就」だ。まあ、これはあくまでも売り場の話であって、買った人が大当たりするでないのが残念だが。ちなみに私はほとんど成就していない。
さて、この循環は必ずしもいいことばかりじゃない。銀行の取り付け騒ぎは悪循環の見本だ。つまり「この銀行は危ないぞ」といううわさが流れると、預金者が殺到して相当数の口座を解約してしまう。そのことで銀行がほんとうに危なくなってしまう。予言としてのうわさが現実のことになってしまうわけだ。
宗教や健康食品や代替医療の世界でも、「これでよくなる」と信じて語っていくことで、その気になるという部分があって、癒しや救済はそれなりにあるみたいだ。
正規医療の世界でも「プラシーボ効果」という現象がある。「プラセボ」とも言うね。新薬の臨床試験ではダブル・ブラインド・テストというのをやるんだ。同じ症状の人をふたつのグループに分けて薬を処方する。片方には本物の薬、もう片方には偽薬を処方する。すると、本物の薬のほうでそれなりによい結果が出るわけだけれども、偽薬のグループでもよい結果が出る人がある程度出てくるというんだ。つまり偽薬で治ってしまう人がいる。そこでふたつのグループを較べて大きな差が出ている薬を「効く」と判断するんだ。
この場合も、「最新の治療薬を試してみましょう」ということばが一連の社会的な循環を起こして、結果的に「よくなる」という現実を創造している。ことばというのは、現実を作り出してしまう重要な要素なんだ。
■レッテルを貼られること
ことばが暴力に等しいものになる瞬間がある。それはレッテルを貼られたときだ。暴力に等しいと感じるのは、それが抗いがたい社会的現実として本人に立ちはだかるからだ。
たとえば、ひとたび「加害者」「犯人」というレッテルを貼られると、法的には「容疑者」という役割であっても、レッテルは社会的現実として起動する。この場合のレッテル貼りは、社会学的には「逸脱の創出」と呼ばれる現象だ。
何らかの規則に違反した者を「普通でない」と見なしてレッテルを貼ることを「ラベリング」と呼ぶ。この場合の規則違反は、法律違反のこともあれば、クラスルームのささいな約束事のこともあれば、ホームレスのように生活の不遇がもたらすスタイルのズレのこともある。とにかく規則に違反していると感じた人や集団や組織がその当人に対してラベリングし、逸脱者扱いするようになる。
このレッテルは基本的にはことばにすぎない。けれども、本人の人生を左右することさえある、非常に強力な作用をもつ。
たとえば、万引きをして捕まった少年が、そのあとの一連のプロセスの中で「非行少年」のレッテルを貼られることで、その他大勢の仲間たちから敬遠され、学校からも分離されて扱われ、その結果ますます通常の進学・就職への道が閉ざされてしまうケース。あるいは一九九四年の松本サリン事件のときに第一通報者が犯人視報道されてしまったケース。このような誤報や冤罪事件のケースは、事実と異なるラベリングが猛威を振るうことになる。
いわゆる偏見もまたことばにすぎない。しかし、それらが人びとに共有されていることによって、差別という現実を生み出す。差別待遇は、その人たちにさらに不利な状況を生み出し、偏見を強化してしまうことが多い。これもまた予言の自己成就だ。差別することが差別を再生産してしまう悲劇的循環だ。
■言説と権力作用
ことばには現実を作り出す力がある。人びとを縛る力、つまり権力作用がある。このことに着目した場合に、ことばのことを「言説」と呼ぶ。フーコーの影響があって、今ではさまざまな人文社会科学で使われている概念だ。この概念に慣れておかないと、今の社会学はもちろん人文学系の文章が読めないだろうね。
たとえば教育社会学には「教育言説」の研究がある。そこで取り上げられているのは次のような言説だ。「個性を尊重しなければならない」「教育は多様でなければならない」「教育は教え込みであってはならない」「学級は生活共同体である」など。最近だと、これに加えて「心の教育が必要だ」というのも入りそうだね。
このような「教育の語られ方」には、それぞれ歴史的経緯があり、実際に強い力を持っている。「それを言われると逆らえない」という殺し文句になっている。こういう力を権力作用と呼ぶんだが、社会学は、これに対して、一見して普遍的な言説に見えて、じつは歴史的産物だということを示すんだ。つまり、どのような経緯があって、このような言説が確立し、広く力を持つようになったのかを具体的に説明する。そして、これらの一見善良そうな道徳的言説が、じつは国民国家の権力機構の維持に役立つように仕向けられたミクロな装置だったということを批判的に提示する。さらに、これらの言説が個々の現場において、どのような効果をもって、物事を左右しているかの実態を細かく研究する。
要するに、言説は歴史的産物であると同時に、日々の歴史を作っているそのものでもあるんだね。言説が社会的現実を構築していると言ってもいい。社会現象ならではの循環構造があるんだ。
■社会問題の構築
言説の現実構築に注目して社会的現実を分析していこうという立場を「構築主義」と言う。比較的新しい理論傾向だが、厳密なものから緩やかなものまで、いろんな分野について多彩な研究がおこなわれている。
この構築主義によると、どんな社会問題も、問題だと指示されている状態それ自体ではなく、それを問題視する側の言説の実践によって構築されているということになる。
たとえば、フェミニズムが「セクシュアル・ハラスメント」や「ドメスティック・バイオレンス」という概念を提示することで、それまで経験はされていたけれども語られることの少なかった暴力的な現実が明確に見えてきた。社会現象というのは、見えているようで見えていないものなんだ。だから問題の立て方によって、見えるものは違ってくる。この場合は、女性の置かれている不本意な状態に異議申し立てするフェミニズムの視点だからこそ、問題化することができたし、これらの社会問題に対する抵抗や反発もまた、そこから生じてくるんだ。
同じようなことは「不登校」「いじめ」「ひきこもり」「児童虐待」「やらせ」といった社会問題にも当てはまる。これらの概念が、問題発見的レンズの役割を果たすんだ。
構築主義的研究では、だれがそういうことを言い出して、それがどんな反応を呼び起こし、紆余曲折しながら社会問題化していったかを追っていくんだ。
このさい、ポイントになるのは、ひとつは社会運動の実践だ。「問題だ」と言い始めるのは多くの場合、社会運動組織だからだ。ふたつは専門家とメディアの役割だ。かれらの活動によって問題は正当化され、公的なものとして広く知られるようになる。もうひとつは、具体的な歴史的経緯というものが重要になってくること。時間は不可逆的なものだから、私たちは、未来に生じることに対して反応できない。どんな社会問題も、各時点で見えている物事に対する反応の連鎖と積み重ねによって形を整える。だからその研究は歴史社会学的になっていく。最近の社会学に歴史的研究が多いのは、こういう背景もあるんだ。
■言説としての社会学
社会学をはじめとする人文社会系の学問も、こういう言説の一環にすぎない。学問は、しばしば権力作用の一端を言説的に担ってきたんだ。
「学問は何の役に立つのか」という問題の立て方をする人が多いけれども、私に言わせれば、それは問題の立て方が間違っている。学問は社会の外側にあるのではなく、間違いなく社会の一部だし、言説を担っているという点で、すでに社会の重要な構成要素なんだ。この重要性とは、それなりの権威があって、人びとの実践活動に何らかの影響を及ぼしているという意味だ。
経済学者や心理学者なんかに較べると、日本では社会学者の言説はあまり強力ではない。それでも社会学の言説は、現に大学などで教えられ、学習され、試験に出題され、メディア上や政府の審議会などで語られている。近代システムの末端現場において、それは採用され、その考え方が現場に組み込まれていることもある。そうして人びとの日常的実践に深く介入しているんだ。それなりの効力を持っている。
そのときに、社会学が、どういう言説を組み立て、社会に提示するのか。未だ日の当たらない潜在的社会問題を発見したり、社会問題の解決を目指す作業にいそしむのか。社会正義の名の下に臨床的判断なり政策的提言なりを提示するのか。
しかし、正義と悪の二分法の発想から勧善懲悪主義に陥ると、道徳十字軍あるいは魔女狩り専門官として断罪するのが仕事の「道徳事業家」になってしまうおそれがある。それでよいという考え方もありうる。問題の緊急性、被害や差別の深刻さを考えて、積極的に社会運動に関わっていくべきだとの考え方からだ。
たしかに、それもありだ。縁があって、そういう役割を担うことがあっていい。けれども、私自身は、それが社会学にしかできない仕事とは思わないんだ。
まず、研究対象から距離を取ることが必要だ。社会問題の「被害者」「犠牲者」に対してさえ距離をとって、問題を冷徹に分析して記述するんだ。そして、関連するありとあらゆる言説の信憑性を疑うこと。つまり、言説の文化的バイアスや政治的意図を暴露的に批判すること。当初は問題発見的意義を持つ概念であっても、それが時間を経るうちに、別の問題を隠蔽する作用を持つこともあるから、たえず点検が必要だ。さらに、問題として俎上に上っていない「残余のもの」を発見し注目すること。
この意味で、私は、批判科学の道が社会学固有の道だと考えている。最近の社会構築主義の研究はその見本だと思う。
私が「反省のことば」と呼んでいたのは、こういうことだ。「お刺身のわさび」のような存在であるべきではないかな。社会学はもっと「荒ぶる学問」であっていいんだよ。
¶9 命の限界に向かって
■社会的身体とは何か
お前たち動物の命は総じて短い。ウサギやモルモットはたいてい五・六年くらい、ハムスターはほんの数年で死んでしまう。私たち人間から見ると、なんとも生き急いでいるという感じがする。犬も十数年で生涯を終える。公園で出会う犬たちの中にも、公園デビューしたばかりの犬がいるかと思うと、いつのまにか見なくなる犬もいる。顔ぶれは、けっこう変わっていく。私も多くの小動物を看取ってきたから、命に限界があるということがいつも頭の中にあって離れない。だから一日一日の生が貴重に思える。
生きているというのは不思議なことだ。命の容器である身体は、だからこそ絶対的なものに見える。それについて語ることがはばかれる何かがある。実際、社会科学において身体は長らくタブーみたいになっていたんだ。
しかし、人間の身体は、たんなる肉体じゃない。社会的に刻印された社会的身体なんだ。これは、お前たち動物にもある程度は言えるかもしれないけれども、いかんせん、私にはわからないから、ここでは人間の身体に限定して話すことにするよ。
たとえば食べ物だ。好き嫌いは除いたとしても、旅先で、その地域の人たちが好んで食べるものが気持ち悪くて食べられないことがある。なぜこれが食べられないか。何が拒否させるのか。これは生理現象ではない、社会的かつ文化的な要因で生じる現象だ。
前に話したプラシーボ効果という現象も、身体が社会的な身体であることを示している。偽薬を服用しても治ることがあるというんだからね。
感情というものも、身体に特有の生理的な現象と考えられているけれども、最近の感情社会学によると、ナースや航空機の客室係は、職場の中で適切とされた感情をコントロールすることを訓練され、職場でそれを実践する。それを「感情労働」と呼ぶんだが、役割演技以上のものを要求されているんだね。マクドナルド化する近代システムの中では、感情も商品なんだ。訓練された感情管理は、社会的身体の一部になっているわけだ。
おそらくこういう話の先鞭になると思うのが「身体技法」の指摘だ。モースは、軍人やナースそしてスポーツする人たちの身のこなし方に型があって、それが教育訓練に深く支配されていると指摘したんだ。この話の延長線上に、ブルデューの言う「ハビトゥス」や、フーコーの言う「規律」があるんじゃないかなと私は思うんだが、それについて深入りするのはやめておこう。
他方で、人間の身体は、記号的な身体でもある。つまり、「見る身体」であり「見られる身体」であるという点で、社会的なんだ。それは、セクシュアリティを表示する身体でもあるし、ときにはファッショナブルな身体でもある。障害や病気を表示する身体でもあるし、さまざまな身ぶりによってメディアと化す身体でもある。
要するに、社会学にとって「身体という広大な社会」が研究対象として存在するということなんだ。「それは生物学や医学の仕事ではないか」と決めつけるのは間違いだということだよ。
■病む身体を囲む社会
身体に関する社会学研究のうち、代表的なものが「医療社会学」であり、もっと拡張された領域を扱う最近の「健康と病の社会学」だ。
医療制度の研究はもちろんある。けれども、それは何も社会学でなければできないというものではない。社会学は、むしろ制度の陰に隠れたものに光を当てることができるし、そのほうが社会学らしい。
たとえば、病気について医者がどのように診断を下すかということよりも、病気にかかったとされる本人が、自分のからだの状態をどのように理解し感じているか、そして病人に対して家族や周辺の人たちがどのようにふるまい、かれらと医療関係者たちがどのような相互作用をするのかのほうが、はるかに複雑でダイナミックだ。
病院という組織の内部での生活世界もナゾだらけだ。入院患者仲間のコミュニケーションや、スタッフの専門職集団としての生態も、外側からはなかなか見えない世界だ。たとえば、看護は感情労働としての性格を持つ。労働の内実はかなり複雑だよ。
病や健康に関する知識と情報の問題、つまり医療言説や健康言説の批判的分析も重要だ。中でも医学的知識というのは案外不確実なもので、歴史的かつ政治的産物という側面が強いんだ。医学という応用科学の専門家集団の利害やイデオロギーが濃厚に反映している。そこをとき解いていくんだ。また、医療情報の問題としては、たとえばガン告知をめぐる微妙な情報のかけひきにも光を当てる。
それまで医療の対象でなかったものが治療の対象となる過程を「医療化」と言って、その社会的構築過程の分析もなされている。
先端医療のありようを考えると倫理の問題に突き当たる。先端医療には、さまざまな道徳上のジレンマがあるんだ。このあたりは社会学の領域をはみ出してバイオエシックス(生命倫理)の研究に入っていくことになる。
こんなふうに、身体に関する社会学にはやるべき課題がたくさんある。人びとの身体への関心は今後ますます高まるだろうから、変化も激しくなるだろう。
■健康ブームと超高齢社会
そう言えば、お前たちが来てからというもの、獣医さんとのご縁がすっかり深まってしまったなあ。あちこちがかゆいとなると獣医さん、便がゆるいとなると獣医さん、フィラリア対策でまた獣医さん。こんなに通うことになるとは思わなかったよ。犬は保険が利かないのが難点だなあ。
でも、お前たちの場合は、せいぜい病気がらみだから、たいしたことではないのかもしれない。今どきの人間の場合は、そこそこ健康な身体であっても、けっこう手間ひまかけているんだ。これを世間では健康ブームと呼んでいる。とにかく、人びとの身体への関心がとても高くなっているんだよ。
新しい健康法や健康食品が毎日のようにメディアで喧伝され、栄養学的言説が食生活に欠かせないものになっている。「これって、健康にいいんだってね」という語りが私たちの日常会話に出ない日はないと言ってもいいんじゃないかな。
今までも健康ブームは何回かあったんだ。でも、最近の健康ブームは一過性のものとは思えないところがあるね。
というのも、背景を考えてみると、次のようなことが言えるんじゃないかな。つまり、一九九〇年代以後の日本社会が、それまでの拡大路線から縮小路線に転換して、人びとの視野が外向的なものから、内向的にものに変わった。その中で日常的な関心が最も身近な自分の身体の状態に集束したということ。
それから、薬害エイズ事件に代表されるように、それまでかなり無条件に信頼されていた大企業や専門家や行政の不祥事が次つぎに大事件になって、それらに対する不信が募ったせいで、市民的防衛意識というようなものが日本人に目覚めてきた。「行政や会社や専門家に任せておけば何とかなる」というのは間違いだという意識だね。まあ、それまでのお上依存意識からくらべれば、自立度が高くなったと言えそうだ。そのさいの対抗原理としてクローズアップされているのが、かけがえのない身体ということになっているんじゃないだろうか。
いろんな価値観があるはずだけれども、健康ブームの価値観は「何より健康が大事」という考え方だ。これは超高齢社会日本のイデオロギーとして定着し続けていくことになるだろうと思うよ。
ただ、私は今の健康ブームが一枚岩だとは思わないんだ。相矛盾する要素が並存している複合的な運動体だと思う。一方では、近代医療に対する信仰がある。生活習慣病という政治的な概念を人びとはすんなり受け入れ、自己管理と予防に努めている。その一方で、薬や過剰医療に対する不信というものがあって、伝統的な健康法や食事への回帰がめざされている。自然治癒力とか無添加といった、あえて何もしない・付け足さないという選択肢を取る人たちも多い。
「これさえ飲めば健康になる」といったお手軽主義が見られるかと思うと、「継続は力なり」といったレトロな道徳をよしとする力強いファシズム的な側面もあるし、宗教的な癒しや救済の問題もこれにからんでくる。
健康ブームがメディア仕掛けだということは、毎日の健康番組を見ていればわかることだ。けれども、メディアに仕掛けられて人びとが踊らされていると思うのは間違いだよ。近代医療システムに対して人びとは受動的にしかふるまえないけれども、それに対して、健康食品や民間療法による「自己治療」については自由にふるまえる。つまり能動的で積極的な行為になっているわけだ。その意味では、「自分なりに何かできないのか」と自問する知的な市民こそが、今の健康ブームの担い手になっていると考えることができるんじゃないかな。
■グリーフワークとしての社会学
超高齢社会の健康ブームは、死を意識して生きる期間が長くなったことと関連している。死というものが社会のありように投げかける影は思いのほか濃いと思うよ。
ところで、人が死んだときにする喪の悲しみのことを「グリーフワーク」と言うんだ。これは辛抱したらダメ。あとで抑うつ症状が出たりするらしい。充分に時間をかけて悲しむという作業をしなければ、精神のバランスがくずれるんだ。あちこちの民族文化がこのグリーフワークを様式化して、はたから見て大げさに見えるような悲しみの儀式をするのは、そういう知恵なのかもしれない。死にはそれ相当の喪の悲しみが対応しなければならないんだ。
命の限界に向かって、一生懸命にケアにあたっている現場の医療・福祉関係者は、病んだ人たちの状態をよくしたり、安らぎを与えることができる。宗教家は救済の希望を与え、癒すことができる。それに対して、社会学は悲しむことくらいしかできない。いくら医療の現実を批判したところで、それはグリーフワークみたいなものだ。
でも、それは、しなければならない仕事なんだ。
考えてみれば、社会学の営み全体が、近代に対するグリーフワークなのかもしれない。
思うに社会学は二〇世紀的思考の典型だった。その営みは一九世紀半ばから本格化し二一世紀につづいているけど、本質は二〇世紀的現実を予見し、直面し、回顧する学問だった。
たとえばメディア研究はファシズム批判として出発したし、家族研究は「家族の危機」に対する反応として盛んになった。都市研究は人口が急速に増加してかつてのコミュニティが崩壊して混沌状態になった現実に呼応して生じたものだし、エスニシティ研究は国民国家の呪縛のはざまでマイノリティとして生きざるを得なくなった人たちへの共感から始まった。二〇世紀的現実が語る「反省のことば」として、社会学は二〇世紀に埋め込まれている。
おそらく二一世紀的現実については、新しい学問の形が対応することになるだろう。そうした領域ではすでに環境学、情報学、国際学、ジェンダー論、社会理論、カルチュラルスタディーズ、バイオエシックスなどの名称のもとにディシプリンを超えた学問が新しく多面的な現実に対応しようとしている。
しかし、ディシプリンを超えるということは並大抵のことではないんだ。
社会学はそれらの先駆形であり、発想の基幹をなし、二一世紀において限界を自覚しながらも、たえず立ち戻る知的拠点であり母港として、以前より重要性を増すんじゃないだろうか。このあたりに、ディシプリンとしての社会学を学ぶ意義があると思う。
私自身、正直言って、社会学へのこだわりは昔にくらべてずいぶん希薄になった。たしかにディシプリンにこだわる時代じゃない。でも、目の前の現実について語らなければならないとき、とても不安な足場に立っている気がするのも事実だ。じつのところ、漂流しているような感じがしていたんだ。ここでお前たちに向かって社会学を語ることができたのは、知的拠点を確認するという意味で、私にとっていいリハビリになった気がするよ。
さてと、これで社会学の話は終わりだ。さあ、公園に散歩に行こう。
■人間のためのあとがき
スランプの時にはスランプなりの仕事をすればよい。そう考えて引き受けた仕事が本書の前身であるムック『子犬に語る社会学・入門』(洋泉社、二〇〇三年)だった。私は前半の総論部分を担当したが、本書はその私の担当部分を単行本化したものである。
「子犬に語る」というフレーズは、編集部ではなく純粋に私の発案で、犬との共同生活の中で自然と湧いてきたものだった。「サルでもわかる」といったハッタリではなく、まあ、ほんとにそういうつもりで書きおろしたものなのである。社会学的にカッコをつけて「エスノメソドロジー的実験」と言えばもっともらしいけれども、語りおろすように書かれた社会学入門が必要であるというのがかねての持論であったので、それを子犬相手にやってみたわけである。あきれられるかもしれないが、脱力していた当時の私にとって、これはそれなりに自然な選択だった。
とは言え、子犬は、キーボードを叩く私のひざの上で寝ているだけだから、限りなくひとり語りに近いものであるのは当然で、それを傍でこっそり聴いているような気分で読んでいただければいいなというのが私の思いつきだった。
執筆上の指針としたのは、テーマや理論ごとにバラバラな社会学研究の寄せ集めではなく「ひとつの社会学」としてのイメージをエッセイ的に描くことだった。そして社会学の問題圏や思考圏にナヴィゲートすることに主眼を置き、理論的解答までいたらなくてもかまわないと考えた。いずれにしても、欲張らないように心がけた。
今回の単行本化に際して、編集部のおすすめに従い、全面的に章タイトルを変更し、本文についても若干の手を入れたが、それほど大きな補筆改訂はしていない。注はムック制作時に洋泉社編集部によってつけられたもので、それはほぼそのまま掲載することにした。
本書は語りおろしに近いものであり、ほとんど参考文献というものを手元においての執筆をしていない。けれども、ここで述べられている事柄はすべてどこかの文献に書かれていることである。それらについて逐一、文献注を施すことは、本書の性質上そぐわないと考えたので省略した。参考文献の大部分については、私の『社会学感覚』と『リフレクション』(いずれも文化書房博文社)において言及されているので、これらを参照していただければ本格的な文献に辿り着けるはずである。これらは私の個人サイト「ソキウス」(http://socius.jp/)上でも公開している。
ムック制作時には渡邉秀樹氏、単行本化に際しては黒澤政子氏にお世話になった。弱り目に祟り目だった私をここまで励ましてくださった洋泉社編集部のお二人に、記して感謝したい。
最後に一言。二一世紀になって、それがかつて予想された社会像とあまりにちがうことに愕然とする。深刻な新しい社会問題の解法を求めて、社会学者もなりふりかまわぬ研究を展開していかなければならないと感じる。そして、その知見が、社会に生きる人たちにとって「生きるための知恵」として役立つことを切に願う。
二〇〇四年一一月二六日                   野村一夫