子犬に語る社会学(2)
野村一夫(国学院大学教授・社会学者)·2016年9月22日表示14件
¶4 自分という社会現象
■私という現象
お前たちには「自分」というものがあるのだろうか。性格は違うし、反応にもずいぶん差がある。まあ、個性らしきものはあるね。ご近所にマーキングして、しっかり自分のなわばりを主張してもいるから、なにかしら「自分」という概念はあるのだろうな。でも、「私はだれ?」と自分に問うようなことはないよね。
現代人は、それこそ「自分」のかたまりだ。自分という物語にしがみついているようでさえある。「私はだれ?」と自分に問うような毎日を送っていることも多いだろう。ところが、「私はだれ?」というのが難問なんだ。人によって答えが違うからというだけでなく、その問いそのものが理論的な問題をもっているからだ。
さて、私は若いときに宮沢賢治を読むのが好きでね。とくに詩をよく読んだ。心象スケッチというやつだな。その中に通称「序詩」と呼ばれる有名な詩があるんだ。それをヒントに話を始めよう。その詩は次のフレーズから始まる。
わたしくといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)
ちょっとわけのわからないところがいいんだ。解読すると野暮になる。要するに、自分という確かな実体はないのであって、それは風景(自然環境)やみんな(社会環境)と連動しながら、あたかもひとつの連続体として存在しているかのように見える現象にすぎないということだろう。
かえって今は「私は私よ」とか「自分らしく生きなさい」といったメッセージがあふれている。しかし、賢治は「私」とか「自分」とか言ったって、そんなに確実なものじゃないんだというんだな。そして「交流」の産物だと見切っている。つまり「関係の束としての私」という発想だな。すでに一九世紀半ばに若きマルクスが人間は「社会的諸関係の総体」だと考えついてはいたんだが、大正時代の日本で、こんなことを言う人はいなかったろうね。
社会学は、こういう先見性のある「反省のことば」に学ぶことができる。とくに「自分」という問題については、文学や哲学や宗教のほうが深いからね。そういうものを現代的に読み直すというやり方の社会学もあるんだ。
■鏡の中の自己
まず、自分という現象を多面的で複雑な現象と捉えること。そのうえで、社会的な側面に焦点を当てて、自分という現象に迫る。社会学の自我論の多くは、じつはそうではないんだ。自分という現象は、もともと社会現象だと考えるんだ。つまり、さまざまな交流があって、そこから自己が発生し、高度な自我意識が発達すると考える。そして、自分の中の内面的な心理は、そうした社会過程の結果に過ぎないと考えるんだ。ちょっとラディカルだろう?
だから「私はだれ?」という問いは、あくまで社会学的な問題なんだ。この点について社会学は、心理学や精神分析などの学問に対して批判的にならざるをえない。これらは「心」を実体化しすぎて、結果に過ぎないものを原因と見なしてしまっている。転倒だな、これは。でも、転倒しているほうがわかりやすいから、世の中ではこれらの学問はもてはやされているとも言えるんだ。気をつけなきゃいけないよ。
というわけで、自分という現象に対する社会学的な出発点は「交流」つまりコミュニケーションだ。基本的なイメージは「お互いがお互いにとって鏡であり、その前を通る人を映している」というものだ。映すというのがコミュニケーションにあたる。
相手の姿や振る舞いを私たちは認識して、それに反応する。相手が明るく「やあ!」と言えば、こちらも明るく「おおっ!ひさしぶり」と返す。つまり自分が相手にとって「鏡」になっているんだな。それはお互い様だから、自分にとっても相手が鏡だ。鏡に映っている自分を見てはじめて自分がどのような人間なのかがわかる。それを自覚することで、人は自分が相手にとって何者であるかを知るんだ。そして相手にふさわしい自分を演じる。
要するに、他者という鏡に照らして、そのつど仮面を取り替えて、自分を演じ、自分を感じるというわけだ。
鏡と鏡の照らしあいがうまく行くと、お互いに気持ちがいいんだが、うまく行かないと私たちはひどく不安になったり不愉快になったりする。自分という現象は、その感情を含めて、根本的にコミュニケーションの産物なんだな。
■役割のマトリックス
コミュニケーションは必ずしもうまく行くとはかぎらない。むしろ生のコミュニケーションはうまく行かないのがふつうだ。専門用語で「ダブル・コンティンジェンシー」つまり「二重の偶発性」なんて呼ぶんだが、相手もどう動くかわからないし、自分もどう動くかわからない。コミュニケーションって、どう転ぶかわからない、とても不安定なものなんだ。
そこで人間たちは長い時間をかけて発明をした。それが「役割」だ。
たとえば、「店員と客」という一組の役割がある。お店という社会的状況ではこれを使えばいい。店員「いらっしゃいませ」客「これください」店員「ありがとうございました」。店員である相手に対して私が客という役割で対応すれば、商品を買うという場面はスムーズに進む。この場合、客である私が「いらっしゃいませ」と言ってはいけないし、店員である相手が「あんた、だれ?」なんて言ってもいけない。役割には、どう振る舞えばいいかについて一定の約束事が決まっている。
状況にふさわしい役割を選択することもたいせつだ。お店の中で相手が「いらっしゃいませ」と店員としてふさわしい行動をとったら、客として振る舞わなければならない。それを突然「今日はこれから自我論の話をします。そもそも・・・」なんて講義を始めたら、お店の中は一気に異常事態に陥る。講義することは大学の教室の中でしかるべき時間割の中ですれば適切だが、お店の中では不適切な行為になる。あくまでもその状況にふさわしい役割のセットをお互いに演じることで、コミュニケーションはスムーズに運ぶのだ。
役割は基本的に便宜的なものであり、それでお互いに手間ひまがはぶけ、「私はだれ?」なんて悩まなくても済む便利な装置だ。だから、みんながそれを使おうとする。それは貨幣のようなものだ。いちいち物々交換していたら身がもたない。貨幣さえあれば、だれとでも、どんなものとでも交換できるだろ。それと同じように、その場その場に適切な役割という仮面をかぶれば、初対面の人とでも短時間で目的のコミュニケーションができるというわけだ。お互いに試行錯誤しなくて済む。貨幣も役割も一種のメディアと考えればいいんじゃないかな。
そして貨幣がさまざまな顔を持つように、いや、もっと複雑なマトリックスを役割の世界は用意している。マトリックス、つまり縦にも横にも関連づけられたシステムだ。そのもっとも合理化されたものはスポーツチームやオーケストラにおける役割だろう。ここでは先にポジションが用意されていて、そのポジションごとに役割が細かく指定されている。近代的な組織の中だと、地位に即して役割が決められている。
結果として、人間は役割の束として社会に出る。逆に見ると、社会は役割のシステムとも言える。そして驚くべきことに、個々の役割について人びとは知識をほぼ共有している。
まあ、人間はロボットじゃないから、完璧に役割をこなせるわけじゃない。仮面をかぶったところで、出っ張った腹が引っ込むわけではないし、かすれた声が美声になるわけでもないしね。でも、そこの落差とかズレが「個性」と見なされる。そういう意味では、役割は、自己理解と他者理解のメディアになっている。
■ジェンダーのはざまに
人間は、子ども時代から役割について学び続けているから、どんな人でも役割についての知識は豊富だ。この知識を使って、人間は自分と他者を分類して、その分類に従って働きかけたり応答したり感情を抱いたりするというわけだ。
ところで、自分が何者か、他人が何者かを判断するときに、私たちが最初に手がかりにするのは何だろう。
それはやはり男と女の区別だろうね。これについては、お前たち動物の世界と同じように見られがちだね。たいていの動物ではオスとメスの役割はあらかじめ決まっている。
私の好きな競馬の世界では、牡馬(ぼば)と牝馬(ひんば)は明確に区別され、ハンデがつけられる。予想でも、牝馬は早熟で瞬発力があるが、牡馬といっしょに走ると気負けしてしまうとされる。多くの競馬ファンは、それを人間世界の縮図のように受け取っているけれど、ほんとうにそうなのか。
たとえば「オレは男だから、ここで黙ってちゃいけないな」とか「私は女だから、矢面に立たないほうがいいかな」と考えるかどうかは、生物学的な性によって決定するわけではない。生物学的な性は、それこそたんなる手がかりにすぎない場合が多いんだよ。それはお互いにとってわかりやすい手がかりだからね。しかし「男だからどうこうしなければならない」とか「女だからこうするべきだ」といった性役割の内容は、基本的に文化的なものだ。なぜなら社会や時代によってまったく異なる内容になるからだ。
しかし、これは根強いんだ。文化の力って、そう侮れるものじゃない。無形の圧力が身体にしみこんでいる。
それをさまざまな生活場面で点検する作業は、かなり高度に知的なものになってしまう。じっさい社会学もそういうことに気がつかなくて、長い間、事実上「男性社会学」だったんだ。けれど八〇年代のフェミニズム論ブーム以後は、ずいぶん軌道修正されたと思うよ。今では研究の質量ともに充実している領域と言えるんじゃないかな。当然、研究の裾野が広いからね。いくらでもやることがある。
文化的な性に関することがらを総称して「ジェンダー」と言うんだ。男であることと女であることについて人びとがどう考えているかの問題だ。
これは何かと「もめごと」を呼び寄せる。今では、それほど自明な分割線ではないからね。長い間、女性の声が抑圧されてきたという経緯があるし、そういう声が男性中心文化と名指しする価値観は男女ともに根強く残っているから反発も大きいんだ。それだけに冷静に証拠を積み上げて議論しないといけない。
■ぶれる分割線
こういう文化的なもめごとを引き寄せる分割線はジェンダーのほかにもたくさんある。
まず年齢だ。これも一目見てわかる指標だから、他人に対してはおおよその年恰好で判断するものだが、自分については「子ども扱いしないでよ」「中年扱いはまだ早いよ」「年寄り扱いはやめてくれ」と思ったりすることも多いはずだ。とくに思春期や中年初期や向老期は、自己理解と異なる扱いを受けやすい。
現代日本社会では、子どもは大切に保護され、若者は好きなことができて何かとちやほやされ、中年は職場や家庭などの生活現場で力をもつことが多いので、それぞれ「まだ子どもでいたい」とか「大人になりたくない」とか「引退したくない」といったような気持ちの強い人が多いだろうね。年齢役割はアイデンティティを構成する基本的な要素だから、それがライフコースの中で外圧的に移行していくのがつらいんだな。
マイノリティ集団や少数民族に属す人たちは、その役割に対してプライドとスティグマの両方を感じる場合が多いんじゃないかな。スティグマというのは「負い目」みたいなもののことを言うんだ。日本の定住外国人の中では在日コリアンの人が多いけれども、この人たちは日本社会でさまざまな差別待遇を受けてきた。プライドとスティグマはそこから生じる。たとえば子どものころから日本語しかしゃべらないし日本名で通してきたのに、進学や就職のときに外国人扱いされるという経験がある人は、非常に不本意な状況におかれて、「私はだれ?」という問いが切実なものとなる。自分が何者なのか真剣に悩むそうだ。
そもそも日本人という概念もそんなに明確じゃないんだよ。たとえば国籍と文化と血縁という三つの要素が揃った人を「日本人」とし、三つともない人を「外国人」と定義するとしても、その中間には六つのタイプが残るんだ。国籍と文化と血縁のどれかひとつが欠けている人たちと、どれかひとつだけもっている人たちだ。日本で育った在日三世や四世は、日本文化に内在した生活をしていて、本人も周囲の人たちとも日本人としてやっているのに、制度的には外国人と見なされる。逆に、海外で育った帰国子女は日本文化を内面化していないから「日本人らしくない」と言われていじめられる。
だから「日本人とはだれか」というのは複雑な問題なのだよ。こういうように民族性が問題となるとき、それを「エスニシティ」と呼ぶんだ。
■アイデンティティの闘争
自分という現象には、こういう分割線が幾重にも引かれている。こういう分割線を調停してアイデンティティを確立させるというのは、考えれば考えるほど至難の業だと思えてくるね。人間たちが日々悩んでいるのも無理はない。
役割は便利だけれども、やっかいだ。社会に共有されている役割の内容が問題を抱えている場合もあれば、それを受け入れられない自分の気持ちや能力の問題もある。他人が自分に押し付けてくる役割と自己認識とが食い違うこともある。こういうとき本人にとってしばしば不本意な状況が生まれる。
逆に、社会化されすぎている、つまり役割にぴたっとはまった人間というのも考えにくい。社会秩序に忠実で、与えられた役割を多数派の定義どおりに実践している人なんているだろうか。いたとしても、かえって機械的に役割を理解している人のほうがジレンマに陥りやすいんじゃないかな。役割は社会の構造的矛盾がそのまま反映しているからね。ルーズにやっている人のほうが「大人」という感じがするよね。人間の行為は、役割に準拠しながらも、いつもはみ出す部分をもっているものなんだ。
役割は、言語と同じように、それが実行されることで維持される。人間たちは、それぞれ状況に応じた役割を演じることで、その役割がどのようなものであるかを他の人に提示して、その役割を事実上そのつど再創造していると見ることができる。そうしてお互いに学習しあっているんだね。
だから、役割が造形する世界は、がっちりと固まったものではなく、それなりのダイナミズムをもっている。役割は不変ではなく、人びとの実践によって内容が少しずつズレていくんだな。このズレが人びとの役割についての共有知識を少しずつ変えていく。
このことは重要なことだよ。なぜなら、気に入らない役割の定義を変えることが可能だということを意味するんだから。それは個人的抵抗の形をとる場合もあれば、さまざまなきっかけでがらっと変わることもある。きっかけのひとつが社会運動だ。
たとえば、公害や薬害の被害者の場合、最初から「被害者」じゃないんだよ。はじめは「トラブルメーカー」の役割から始まることが多いんだ。企業や組合側からは「裏切り者」といった役割を押し付けられることも多かった。それに抵抗して、世論に訴えたり裁判闘争をして人びとの認識を変え、その結果「被害者」という役割を勝ち取った。
ステレオタイプや偏見による差別をふくむ役割や、ぶれる分割線をふくむ役割を担うことになった人たちは、だから社会運動をして、それを変えていこうとする。一九六〇年代アメリカの公民権運動やフェミニズム運動に典型的なように、それは、しばしばアイデンティティの闘争なんだよ。
それはきわめて個人的な生活場面にもある。たとえば、失業の怖さって、たんに生活するお金がないというだけじゃない。自分が何者なのかがわからなくなってくる怖さがある。受験浪人やひきこもりも長引くと同じようなことが起こる。子育てを終えた専業主婦もそうだ。病気もそれ自体が身体の危機だが、同時に深刻なアイデンティティの危機にもなる。
このような危機に対して、人間はそれなりに抵抗するものだ。ミードという社会学者は「主我」と呼んでいるが、そういう主体的な局面が自我には備わっていると言うんだ。ただし、こういう危機は、ひとりではなかなか克服できない。「主我」も他者の交流の中で、反応としてでてくる。絶望も救済も他者との関係の中にある。だからこそ支援活動や救済制度やネットワーキングが必要になってくるんだ。
アイデンティティを問う必要のないような人であっても、具体的な生活の場面では大なり小なり「主我」を発動させているものなんだ。
というわけで、人間はお前たちとは違う苦労をいろいろしているのだよ。人間の場合、「自分」とは、それ自体、広大で奥行きのある複雑な社会そのものなんだ。
¶5 生活世界のレトリック
■ささいなことで傷つくのはなぜか
あんまり叱るということをしないものだから、お前たちはすっかり甘えん坊になってしまった。それでも、してはいけない場所でおもらししたあとは妙に恐縮して犬小屋に避難している。そういうときは声をかけるだけで萎縮するから、悪いことをしたという自覚がそれなりにあるんだろうな。おもしろいものだ。お前たちにも感情めいたものはあり、コミュニケーションの中でそれが立ち上がってきては消えてゆく。お前たちとのわずかな歴史の中で、お互いの身ぶりの意味がそれとなく理解できるようになっている。
お前たちとのコミュニケーションが私たちを和ませるのは、それがわりと単純で、罪のないものだからだ。だから癒しになるんだ。人間社会ではなかなかそうはいかない。
私たち現代人は、波立つ感情の海を泳いでいるようなものだ。ささいなトラブルでくよくよしたり、相手のちょっとした一言で傷ついたりする。相手と微妙に話が食い違って気まずい思いをしたり、逆に話が弾んで妙に愉快にはしゃいだりする。たとえば、ちょっとした一瞥が社会空間にさざなみを起こして、ほのかな恋心が生まれたり、あるいは敵意に育っていったりする。こういうミクロで繊細なプロセスが積みあがって、人間の社会生活が息づいている。
前に言ったように、コミュニケーションというのは「お互いがお互いにとって鏡であり、その前を通る人を映している」というイメージから出発するといい。お互いに映しあうというのは、具体的には相手の姿や声や振る舞いに対して反応しあっているということだ。このプロセスを社会学では「相互行為」とか「相互作用」と呼ぶ。これを時系列的に見れば「社会過程」とも呼ぶ。そうして組みあがる経験が生活世界を形成するんだ。
この微細なプロセスを丹念に調べるのも、社会学の仕事のひとつだ。たとえば、私たちがささいなことで傷つくのはなぜか。心が傷つきやすいんじゃないんだ。そういう心理主義に陥らないようにしなくてはね。社会学では、相互行為のちょっとしたルール違反がそうした反応を引き起こすと理解するんだ。つまり、こうすればこう返してくるだろうとの約束事が守られないと、それがささいなものであっても、私たちは面子を失ったように感じるんだ。
この約束事というのがなかなかやっかいなんだよ。まあ、文法みたいなものだとは言える。私たちは文法に則ってしゃべっているから、それなりにコミュニケーションできているわけだけれど、文法として習ったからしゃべれたわけでもなく、文法はあくまで後知恵にすぎない。それはどこかにあるわけではなく、私たちがしゃべっているそのプロセスに宿っているわけだ。こういうものをつかまえようというんだよ。
■閉鎖的集団の内部世界
こういうことは自分たちの日常生活を観察しても、なかなかつかまらない。なぜなら自明性におおわれているからだ。当たり前すぎて、かえって見えないものなんだ。ジンメルの先駆的研究を除けば、それはずっと後の話で、最初は自分たちとは明らかに異質な閉鎖的集団の研究から本格的に始まるんだ。
一九二〇年前後にシカゴ大学でこういう研究が開花する。最初は、シカゴに移住していたポーランド移民の研究だった。この研究はその後の社会学調査のお手本となったもので、手紙や手記や裁判記録など、あらゆる生活記録を駆使して、かれらの生活世界を分析しようとしたんだ。
その後、若い研究者たちが続々とシカゴの街に入って、フィールドワークをおこなったんだ。要するに現場取材したわけだ。ほとんど「潜入レポート」と変わらないノリだったろうね。じっさいに、ホームレスの集まっているところや非行少年グループやフーゾク産業に入って、そこの人たちといっしょに生活したり、仲良くなって立ち入った話を聞いたりして、それぞれの集団内部の出来事をこと細かく記述していったんだ。こういう研究を「エスノグラフィ」と言うんだ。
この研究スタイルは、その後の社会学で強化されて、いろいろおもしろい研究が出てくるようになる。非行少年グループの研究では『ストリート・コーナー・ソサエティ』や『ハマータウンの野郎ども』といった名作がある。後者はイギリスの白人労働者階級の息子たちが、勉強を強いる学校文化と教師たちをバカにして反抗するさまを描いたもので、かれらが「落ちこぼれて」親と同じ労働者階級になっていくのではなく、自ら進んで、しかも優越感情をもちつつブルーカラー労働者になっていくプロセスを浮き彫りにしている。「文化的再生産」のからくりを集団の内部的世界から理解したものだ。
たとえば、ベッカーは自らピアニストとしてバンド活動をする中でダンス・ミュージシャンたちの生態を描いたり、マリファナ初心者に対してベテラン使用者たちがいろいろ手ほどきする様子をフィールドワークした。マリファナで気持ちよくなるためには、それなりの訓練が必要らしいんだ。
ゴッフマンは、精神病院に体育指導主任の助手という名目でもぐりこんで、一年間患者たちと生活をともにして『アサイラム』という作品を書いている。アサイラムというのは収容施設のことだ。当時の精神病院というところは、外部から遮断されて、画一的に管理された特殊な空間だった。そこに放り込まれた人たちは生活を丸抱えされて管理されてしまう。じゃあ、そのまま無力なままかと言うと、したたかに管理の裏をかいてさまざまな工夫を施していくんだ。管理者からは見えない世界がそこに発見できる。
逸脱的な犯罪非行集団と同じように、こういう医療の世界も閉鎖的で、独特の生活世界が発達しているから、社会学者はけっこう医療現場に入っているんだ。
たとえば外科手術室で執刀医が下品な冗談をかましながら場に一体感をつくりだしている様子を観察したり、病院での「死につつある」患者と死の扱いに焦点を当てたエスノグラフィもある。病院の中の患者の死は、社会的出来事としてスタッフによって上演されるプロセスによって「つくられる」というんだな。もちろん子どもの死のように動揺を与える死もあって、病院スタッフが儀礼的にばかり携わるわけではないさまも描かれる。病院スタッフのエスノグラフィは、ナースの研究や医学生たちの生態の研究などがあり、もちろん患者の研究もある。
日本でも暴走族のエスノグラフィが有名だね。生っぽい世界に夢中になって取り組む社会学者のイメージはかっこいい。私なんかは、そういう資質がないから、ジャーナリストによるルポルタージュもふくめて、なるべくそういう研究を積極的に読むようにしているんだが、ほんとうはそれだけじゃダメなんで、これからの日本社会学の魅力は、フィールドであくせく働く研究者がどれだけ出てくるかで決まってくるのだと思うよ。新しい資質が必要だな。
■生活世界の合理性
これらの研究に何か共通点はあるだろうか。それぞれの描く世界があまりに独自なので、ごく大雑把なことしか言えそうにないが、それなりの統一像は示しておこう。
ひとつは、閉鎖的集団は独自の文化を発達させるということ。細かなルールや掟や作法、そしてささやかな儀礼といったものが自明化されている。それなりの秩序がある。外部者には見えない規則に即して速やかに解釈して応答することが、内部のメンバーとしての必須条件になっていて、新規参入者は気まずい思いを重ねながらもそうした条件を身につけていく。つまり、内部では微細な意味的世界がある。ひとつひとつの言動に集団固有の意味づけがなされている、そういう生活世界が展開されているということ。
第二点は、精神病院にせよマリファナ使用者集団にせよホームレスの溜まり場にせよ化学実験室にせよ、近代システムが要求する合理性とは異なる秩序かもしれないが、その生活世界の文化は、それぞれの内部世界においてはきわめて合理的で理にかなっていること。もしそこに奇妙さがあるとしたら、それは私たちの日常生活の奇妙さでもある。人間は大なり小なりこのような生活世界を経験しているんだ。
第三点は、方法論的なものだ。こういうリアリティを知るためには、ジャーナリストや人類学者と同じように、現場に足を運び、そこの人たちと生活を共にするのが一番いいやり方だということだ。そして、どの研究者も、詳細なフィールドノートを作成して、考察を練り上げている。数量的なデータで語る社会科学とひと味もふた味も違う研究スタイルだ。このような、現場での質的データをモノグラフとして地道に積み上げて理論構築するやり方を「グラウンデッド・セオリー」と呼ぶことがある。じつは呼び方はいろいろなんだが、理論から天下り式に立てられた仮説を検証するというやり方とは逆向きの研究スタイルだな。
観察者は観察されているものだ。現場に入ったはいいが、そこの人たちから大いに警戒されるのは当たり前。へたに立ち回ると追い出されかねない。お前たち動物を観察するのとはかなり事情が違うようだよ。
■日常生活の微細な意味的世界
最初は閉鎖的集団の内部世界への興味だったものが、しだいにありふれた日常生活に焦点が移ってきた。こういう社会学の元祖は一世紀前のジンメルの相互作用論だが、一九五〇年代半ばからのゴッフマンの研究とそれに続く「エスノメソドロジー」の影響で、今では広く研究されるようになった。その後、会話分析というのも盛んになる。このあたりになるとヨソの話ではなくなって、私たち自身の日常生活が対象になる。その点では、かなり「反省度」が高くなるね。
ゴッフマンの本はおもしろい。社会学者は意地悪い観察者でなければならないという見本みたいだ。たとえば、二人の人物が出会う。出会うことでお互いは自分を呈示することになる。となると人間は、相手に対して自分が呈示したいところだけを印象付けようと思う。そこで自分の印象を操作しようとする。ところが、これは相手もわかっていることだから、信頼できる人物かどうか、操作されたところを操作されにくいところと照合して判断しようとする。ということを相手はするであろうから、自分としては操作しにくいと思われている部分、たとえば顔の表情やさりげないしぐさをコントロールしようとする。こうして出会いは演劇的なパフォーマンスの性格を帯びる。
感情のあやと微細な作法の世界は、ここからようやく始まる。対人関係や、パブリックな場所での人びとのふるまいや、さりげないすれちがいの場面における儀礼的行為が、こと細かく分析されるんだ。日常生活を微分しているような社会学だよ。
エスノメソドロジーというのは、「人びとの方法」という意味の「エスノメソッド」の研究のことになっているが、それによると、人びとは日常生活において個々の場面を社会学者のように推論して、それに基づいて実践しているというんだ。
おもいっきり手近な例で説明すると、夫が「おおい、あれ取って」と叫んでいるのを聞いた妻が、風呂上りにテレビを見ながら夫が欲しがるものは綿棒であると推論して、「ほらよ」と綿棒を夫に投げてやるようなものだ。風呂上りという文脈と夫のくせを熟知しているから、「あれ」が何かわかり、綿棒を投げてやるという実践が可能になっている。私たちは、こういうことを日常会話の中で何気なくやりおおせている。その集積が日常生活なわけで、これは考えてみればすごいことではないかという驚きから始まっているんだな。ちょっと例が卑近過ぎて、なにがすごいかわからないかも。
エスノメソドロジーの真骨頂は会話分析だ。会話分析として日本の研究で印象深かったのは、初対面の学生たちを会議室に集めて、そこでの会話を分析したものだったな。学生たちはまったく自由におしゃべりしているんだが、それを記録して楽譜のようなものを作って分析するんだ。おしゃべりの内容はじつはどうでもいいんだ。それで、たとえば「順番取り」の様子を見たり「不自然な沈黙」の使われ方や「割りこみ」を見るんだ。人が話しているときに「そうそう、それはね」といった調子で話を引き取ってしまう人がいるよね。これを「割りこみ」と言うんだ。これは自分が割り込んだ相手より上だと思っている証拠なんだ。割りこまれたほうも、その力に負けているわけだよね。そこで「割りこみ」の回数を調べてみると、同性同士の割りこみに差はないんだが、男子学生が女子学生の話に割り込む回数が断然多いんだ。これはどういうことだろう、というわけだ。権力は身近な日常に宿っているということを示しているんじゃないかな。
こんな感じで、日常生活の微細な意味的世界を研究していくんだ。心理学とはまったくちがうアプローチだな。だから「微分」とか「解剖」のイメージで捉えると近いんだ。
¶6 祈りの文化、暴力の文化
■宗教と国家と地球社会
お前たちはときどきヨソの犬とケンカする。まあ、じっさいには私が綱を引くから、唸りあいですむんだが、どうにも相性が悪い相手はいるものだな。犬やその他のたいていの動物の世界にはケンカのルールがあるらしい。いっそのことケンカでもすれば勝負の決着がついてスッキリするのかもしれない。
お前たちとちがって、人間の争いごとには歯止めがないように見えてしかたない。何か「自然の一線」があって、そこで踏みとどまる工夫があればいいんだが、なかなかうまくいかないようだ。人間の暴力は難問だ。
一方では「ひとつの地球社会」という観念が人びとに共有されるようになった。経済と環境の問題がそれを要請し、交通とメディアの発達がそれを見えるものにしたと言えるだろうね。それによって、とりわけ宗教と国家のありようが「ひとつの地球社会」の現在と未来にとって大きな存在であることが浮き彫りになってきた。
そもそも宗教と国家は、社会の理不尽なことに対する人間なりの工夫だったんだ。少なくともその内部においては平和と秩序が維持されるような仕組みだった。しかし、いつのまにか、その仕組み自体が理不尽なことを引き起こしてしまうようになってしまっているんだ。この転回は社会学的に説明しなきゃいけない大問題だ。
守りたい平安があれば祈りたくなる。不幸があれば祈りたくなる。人間はかなり昔から「祈る人」だった。それは近代社会になっても変わらない。一時は「世俗化」と呼ばれて、宗教の影響力は小さくなると見られていたんだ。けれども、日本や中国を例外とすれば、全体としてはそれほど変わりがないという話だ。むしろ地域によっては「祈る人」は多くなっているかもしれない。
おそらく「祈る」という一点において、お前たち動物と人間の文化的世界は大きくちがう。歴史的に見れば、宗教が人間社会の基本を決めてきた。宗教こそが長年にわたって社会の秩序を維持してきたんだ。
その一方で、近代においては国家が社会をコントロールしようとしてきた。「西欧に特有の合理化」の大きな枝が近代国家という装置だ。それは「鉄の檻」として強い秩序を作り出す。それは近代システムの世界的な広がりとともに、人間の大多数を囲い込む仕組みになった。
宗教と国家は、お互いにまったく異なる原理原則で動く。けれども、どちらも人間たちが作り出した社会の工夫の結晶と言えるだろうね。
■理解するという戦略
いったい宗教とは何なのか。それは祈りの文化であると同時に暴力の文化でもあるように思える。それは高度な文化なんだろうか。時として奇矯に映る宗教行動の数々を思うと、そうでないようにも思える。そもそも近代システムに内在した視点から見れば、宗教は完全に時代遅れ以外の何者でもない。しかし、その認識が間違っていることは、冷戦終結後の世界情勢がはっきりと示している。宗教は今も、そしてこれからしばらくのあいだも現役であることに間違いない。では、それはなぜなのか。
そもそも「宗教とは何か」という問いは、社会学の成立に大きくかかわっているんだ。宗教は、他の社会科学の素朴な方法論ではとても研究できなかった。宗教学はそれなりに蓄積はあったけれども、人文学的な伝統の中にあって社会科学としての陣容はなかった。ウェーバーやデュルケムやモースといった研究者たちは、宗教という現象をどのように理解すればいいかについて悩んで、その中で独特の社会理論を構築していったんだ。つまり二〇世紀社会学は宗教現象との理論的格闘によって独自の学問として自立できたんだよ。
まあ、むずかしいことはさておいて、今の社会学が立っている地点から見れば、祈るという行為を除けば、宗教は何も特別な現象ではないんだ。前に閉鎖的集団の内部世界として説明したことを大きなスケールにして捉えればいい。
それは独自の文化を発達させる。それは集団内部に秩序を作り出す。それは首尾一貫し理にかなっている。
宗教は一見非合理に見えるから、最後の点は強調しておいたほうがいいだろうね。だれにとって理にかなっているかと言えば、もちろん信者にとってだよ。なぜ自分たちが幸福なのかを説明し、あるいは、なぜ自分たちに理不尽で不幸なことが起こるのかを説明する。それがうまく説明できなければ、その宗教は滅びる。それなりに納得させる説明ができれば、その宗教は残る。宗教はこの点で「知の合理化」なんだ。だからキリスト教や仏教やイスラム教やヒンドゥー教や儒教のような世界宗教は、きわめて整合的な世界観をもっている。ただし、それは近代システムの合理性とは異質な合理性だ。だから近代システムの視点から眺めると非合理に見える。
このように、宗教を信者の信仰心から理解するのが社会学流のやり方だ。それでこそ宗教の持つ強い力が説明できる。
考えてみれば自然現象を「理解する」ことはできない。人間がかかわる社会現象だから、その現象を支えている人間を理解することができる。これこそ社会科学独自の方法論ではないかとウェーバーは考えた。ウェーバーはそれを「理解社会学」として定式化したが、こう気づいたときに社会学は学問として自立したんだと私は思っている。
■カリスマの誕生
宗教は信者の信仰心が支えてこそ存在するものだ。そのことを有名なカリスマ現象について見てみよう。
ウェーバーは宗教現象の出発点にカリスマをすえるんだ。カリスマは非日常的な資質のことだ。神のことばをしゃべったり、トランス状態に陥ったり、病気を治したりするような特別な能力だ。と言っても、カリスマは自然科学的な意味で何か特別なことをするわけではないんだよ。それがじっさいに可能かどうかかも問わない。それを承認する人がいればいいんだ。
だれかが「私は神の生まれ変わりだ」と言ったとして、だれも相手にしなければ「ヘンな人」で終わる。ところが「ひょっとすると、ほんとうにそうかもしれない」と思う人たちが出てくれば話はちがってくる。帰依する者が出てくれば、カリスマを持つとされる者とその人たちのあいだでは、そのカリスマ性はあくまでリアルなものだ。社会的な事実になる。これが宗教の誕生であり、支配関係が成立し、信仰の共同体ができる。
カリスマは、それを持つとされる者と承認する者たちとのあいだの相互作用の産物だ。だからカリスマを持つ人間が何らかの失敗をして人びとから承認されなくなると、それは一気にひっくり返るんだ。けっこう繊細な社会現象なんだよ。
ウェーバーのカリスマ論は、とても社会学的だと思う。カリスマなるものを絶対視しない点では信仰者の立場を相対化している。と言って、無神論的に否定するわけではなく、むしろ信仰者の内面的感情に即して理解しようとしている。しかも、社会現象としてのダイナミズムを両者の相互作用に見出している。つまり、服従者の服従意欲が調達されて支配が可能になるというロジックだから、支配の要は服従する側がにぎっていることになる。支配者が力にものを言わせて支配するのでなく、服従者が進んで支配を支えるということだ。宗教だけではなく、ファシズム論など、いろいろ応用が利く理論だと思うが、こういう理解が必要な現象があるということを頭においておく必要があるだろうね。
■ダブル・スタンダード
こうして宗教共同体ができると、それは人びとにとってかけがえのないものになる。それが歴史を重ねて伝統的なものになっていれば、なおさらだ。それ以外の世界は考えられなくなる。
宗教は分派していって、それなりの濃淡ができるけれども、とてつもなく大きな宗教共同体というのはいくつか存在する。今でもアラブ世界が国家を超えて団結する例もある。まあ、これはもともとあった大きな宗教共同体が、ヨーロッパの持ち込んだ近代国家の枠組みによって分断されたと言うべきなのかもしれないけどね。まあ、もっと小さな教団だと考えやすいかな。こういう共同体ができると何が生じるか、考えてみよう。
こういう共同体の中には一種の隣人道徳ができているものだ。「お互いさま」という論理で助け合おうという態度だ。たとえば無利子でお金を貸し付けたり、貧しい者を援助することが当然のこととされる。こういうことが教義として明確に書かれている場合も多い。共同体内の平安が維持できるようになっている。だから、こういう共同体の内部にいるのは快いものなんだ。
ところが、こういう温情的態度は、あくまでも共同体の内部に対しての道徳で、外部に対しては、冷たくドライな態度をとる。同じことをしていても、内部の者に対しては美徳と称えるのに、外部の者に対しては悪徳と見なす。宗教共同体の場合、境界線が明確なので、こういう対内道徳と対外道徳の使い分けが鮮明に出る。こういうのを「二重基準」とか「二重道徳」と言うんだ。ここでは「ダブル・スタンダード」で行こう。略して「ダブスタ」だ。
社会学には、内集団と外集団という一組の概念がある。人間はウチの集団とソトの集団を立て分けて態度を変えるんだ。ソトに対してはどうしても排他性が出てきてしまう。ダブル・スタンダードはそのような現象と考えればいい。これ自体は、まあ、ふつうのことだね。
ところが、ダブル・スタンダードが過剰な暴力になることがしばしばあるんだ。たとえば「異端者」のレッテルを貼られた人間たちに対して過剰な敵意を向けるとき。いじめと同じ理屈だが、「異端者」を排除することによって、集団がぐんとまとまるんだ。いけにえという意味の「スケープゴート」だね。だから、大きな宗教共同体の中に島のように別の独自の宗教共同体ができたとき、それらの宗教共同体の境目では大規模な迫害が生じる。迫害された側は、それによって凝集性を高め、対抗的な勢いを強める。それが過剰な暴力となってあらわれる。宗教対立と見えるものも、こういう集団力学の悪循環なのかもしれない。この場合、宗教的アイデンティティが暴力行為の原動力になるんだ。
■国民国家と暴力
このような現象は何も宗教に限ったことではない。同じようなことが近代国家についても言える。近代国家は近代国家として基本的には別のロジックで進んできたんだが、そうなんだ。というのは、近代国家はその内容から言うと「国民国家」だったからだ。
国民国家というのは、領土がきっちり確定していて、そこに主権を持った中央政府が隅々まで統治しているような国家のことだ。今ではあたりまえだと思うかもしれないが、伝統的な国家ではそうではなかった。そして、そこに住んでいる人たちはみんな「国民」として把握され、国家に対して権利と義務を持つ。標準語が定められ、教育と啓蒙がなされるので、人びとは国民としてのアイデンティティを持つようになる。とくにナショナリズムが発達すると「一民族で一国家」という理想が大きな意味を持つようになる。
つまり国民国家というのは、かつての宗教共同体のような、大きな共同体を志向しているんだね。それを実現するために政府はさまざまな手段やメディアを用いて、国境内部の人びとを「国民」に仕立てていくんだ。日本は、これをものの見事にやった国家だったから、日本にいると、こういう議論がなぜわざわざなされるのかピンと来ないかもしれないけれども、「日本人」という概念は、きわめて巧みな形で人為的に作られてきたんだ。
ところが、近代国家というものは、軍隊や警察のような「正当的な物理的暴力」を独占している特殊な組織でもある。つまり、人を傷つけたり殺したりすることが「正当」とされている組織なんだ。国家は物理的暴力の助けを借りて秩序を維持しようとする。それが民主的な手続きによって正当化されている。つまり、共同体を志向する国民国家であり、同時に巨大な暴力装置でもあるというところに大きな問題があるんだ。
国民国家と言っても、その国境はヨーロッパの植民地政策の名残りである場合が多いんだ。だから、多様な民族が「国民」になっている。どの国民国家もその実態は多民族国家なんだ。しかし国民国家の圧力によって、少数民族の文化は標準的な国民文化に無理やり同化させられるのが常だ。抵抗すると暴力的に弾圧される。さらに「一民族で一国家」という理想が強まると、少数民族の存在そのものが問題とされて、暴力的な「民族浄化」が生じる。少数民族は当然抵抗するから、暴力性は相乗的に高まっていく。革命主義組織や民族主義が中央政府を主導していると、こういう内戦が必ず生じるんだ。
民族文化と宗教共同体はたいてい重なっているから、この内戦は宗教対立に相似してくる。とくに理不尽な迫害を受けている少数民族は、自らのアイデンティティを問い直す必要に迫られ、その結果、宗教が呼び覚まされることになる。「聖戦」という概念が政治的に動員される。こうして暴力は宗教の名の下に正当化され、戦いは宗教戦争の様相を呈してくる。
地球の各地によって歴史的事情はさまざまだから、個別事情を詳細に研究することに意味がある。と同時に、国民国家と暴力の関係について、そこに宗教がからんでくる事情について理論的に考えることも必要だ。そして、私たちのそれらに対する知識についての偏りも点検しておかなければならない。国家はそういう知識にバイアスをかけるからだ。
■トランスナショナルなアクター
東西冷戦構造がくずれた一九九〇年代以後の世界は、冷戦構造によって封印されていた、これらの暴力的要素が一気に表面化した感がある。イデオロギーの政治が終わり、かわって民族主義へ傾斜してしまった地域では、かなり悲惨な戦争が生じた。この流れはまだ終わっていない。
その一方で、国民国家を相対化するような試みや現象もまた地球社会の舞台に続々登場した。超国籍企業や国連のような国際組織に加えて、無数の国際NGOがトランスナショナルなアクターとして国際社会の舞台に登場してきた。今では環境や人権の問題解決について大きな力を持つようになっている。
そして何よりEUという壮大な実験が進行している。多文化主義で「ひとつのヨーロッパ」を実現しようとするこの試みは、「ヨーロッパ人」という新しいアイデンティティを作りつつある。たとえばカタルニア人でありスペイン人でありヨーロッパ人という、複合的なアイデンティティを持つ人たちが出てきている。従来、国や地方のひとつの共同体レベルに偏ったアイデンティティを持つ人たちはナショナリズムや地域主義の担い手としてしばしば紛争の要因になった。それを思うと、EUがこうした新しい人たちを形成していくことには可能性がある。
EUの場合には、あきらかに国家はその役割を縮小している。通貨統一はその一例だ。しかし、各国ではナショナリズムの反発が生じているのも事実だ。かんたんな話ではないだろう。
従来、この分野は現実主義に立った国際関係論がやってきた。その中心は国際政治学であり、地域研究だった。しかし、政府間関係や理論なき現場主義の研究では、もはや限界がある。文化、民族、階級、階層、マイノリティ、宗教、地域文化、社会運動、ジェンダーなどの要素が入り混じって展開している。これらは社会学の得意なところだ。だから社会学は中核的な役割を果たすことができるはずなんだ。だから、これからは国際社会学の出番が多くなっていくだろう。
¶7 交錯するメディア空間
■何もかもメディア仕掛け
お前たちの夜の過ごし方は、もっぱら食後の室内運動とテレビだ。犬がテレビを見ることができるというのは発見だったな。ただし、ふつうの番組だとおとなしく見ていられるんだが、動物が出てくる番組になると、テレビに向かってほえまくって大騒ぎになる。ひげづらの男にもほえる。急に自分たちのテリトリーに侵入してきたと思うんだろ? あれは本物じゃないんだよ。臭いもしないし気配もないだろう。まあ、それだけに不気味ではあるということはわかるけど。
メディアを通して見聞きするものに、かなりのリアリティがあるというのは、お前たちを見ていてもよくわかる。それは人間だって同じだ。私が知識として持っているもののうち、直接見聞きし体験して得られたものなんて、ほんのわずかなものにすぎない。ほとんどが、本や雑誌や新聞やテレビなど、何かメディアを通じて得たものだ。人づてに聞いたことだって、たいていは元をたどればメディアがどこかでやっていたことだ。
日常的な楽しみもみんなメディア体験だ。音楽を聴くのも、スポーツを見るのも、ドラマを見るのも、オーディオやテレビばかりだ。かつてよく行った山歩きも、お前たちが来てから、なかなか行けなくなった。メディア依存の割合が多いのは、あんまりいい傾向ではないだろうなあ。
考えてみれば、メディア体験というのは不思議なものだ。たんなる代理体験かというと、そうでもない。複製だからダメだというものでもない。コンサートやスポーツ観戦の盛り上がりには較べられないけれども、それはそれ、これはこれ。こちらも構えが違ってくるから、それなりのリアリティもあるし、けっこう没入して楽しめるものだ。
それに対して、大きな事件や事故のニュースは、私たちにとってメディア上の出来事だ。一九九一年の湾岸戦争が「ニンテンドウ・ウォー」と呼ばれたり、二〇〇一年の同時多発テロが「ハリウッド映画のよう」と言われたりしたのも、つまりはそういうことだ。リアリティをどこまで感じ取れるかは、メディア側の工夫にもよるし、受け手の感受性にもよる。出来事を直接確かめることは、普通の人にはなかなかできないけれども、私たちはメディアを信頼して「それは現実にあったのだ」と信じるしかない。これは距離を置いて見れば宗教みたいなものだよ。
現代人はメディア環境の住人だ。昔は「擬似環境」と呼んだものだが、最近だと「ヴァーチャル・リアリティ」だね。でも、いろんなメディアがあるから、私は「メディア空間」か「メディア環境」ぐらいがいいと思っている。私たちはそこに住んでいる。
■メディア仕掛けの音楽
メディアがどれだけ文化に浸透しているか、たとえば音楽とメディアの関係について考えてみよう。私たちがなじんでいる西欧近代音楽は根っからメディア仕掛けの音楽なんだ。
西欧近代音楽が平均律を採用した音楽だということは前に話した。このとき、楽器と記譜法が大きく影響していると言ったんだが、そもそも楽器は音楽のメディアだよ。楽器の発達によって音楽そのものが変化するのは当然だ。ハンマーで弦を叩くピアノの登場と普及によって平均律への旋回が決定的なものになった。
そして楽譜に音符を記入する記譜法の完成によって、音楽は演奏する行為だけでなく「書く行為」にもなった。記譜法は、音楽を純粋に表現するメディアだ。楽譜上では、演奏不可能なことも含めて、あらゆる音楽を表現する可能性がある。音楽を書く人つまり作曲家は、記譜法をメディアとして、次つぎに新しい音楽表現を追求していくことになる。
一九世紀になると音楽の担い手は市民層になる。音楽好きの豊かな市民たちが共同で広いコンサートホールを作っていく。この場合、ホール自体が音楽のメディアになっているわけで、それは音楽が雑音なしに特権的に鳴り響く空間を提供するというだけでなく、聴衆に禁欲的な集中的聴取を強制する空間でもあった。建物の作り方自体が、音楽の響き方と聴き取り方を指定していたんだ。一九世紀を通じて、音楽はそういうものとして「芸術」として格上げされていく。これがいわゆるクラシックだね。
二〇世紀になって人びとはラジオやレコードといった機械的なメディアを介して音楽を体験するようになる。ラジオは一九二〇年代からだ。このときから音楽はマスメディア仕掛けになったんだ。それはいつでもどこでも何度でも再生可能なものになったということ。こうして、思想家ベンヤミンが「アウラ」と呼んだ「一回ぽっきりのかけがえのなさ」が音楽から失われていくことになる。
人びとがマスメディアを介して音楽を聴くようになると、今度はメディアに合わせた音楽、たとえばラジオやレコードで聴きばえのする音楽が大衆向けに生産されるようになる。これがポピュラー・ミュージックの誕生だ。たんに音楽がメディアによって配布されるのではなく、メディアが音楽の内容を指定して生産するということだ。ここに大きな転倒が生じている。
音楽を専用に聴くためのメディア、つまりオーディオ装置は、原音再生を目標に技術が進んでいく。代理体験以上のものを求めるようになるわけだ。オーディオ技術は一九六〇年前後に一般家庭でのステレオ再生を実現する。点音源からステレオになることによって、音が響く空間つまり「音場」を人工的に再生できるようになったわけだ。こうして、音楽は「空間を表現する行為」になった。
このようにメディアは技術であるが、それ以上のものだ。同じころテープ録音技術ができたのだけれども、それを使いこなせるミュージシャンが出なければ、それはないに等しい。クラシックではグレン・グールド、ポピュラーではビートルズが、それぞれテープ録音された音楽を編集することで、メディア上でのみ再生可能な音楽を作り上げた。こうして音楽が「編集する行為」になったんだ。この編集はとても創造的なものだったから、その後の音楽制作では当たり前のことになっていった。
そうそう、広告を忘れてはいけない。消費社会では、広告によって消費欲求が喚起される。広告はメディアを選ばない。なんでもありだ。音楽もプロモーションされて大量消費されるものになった。今では自然にヒットするなんてことはめったにないんだ。プロモーション・ビデオがあちらこちらで流され、あるいは映画音楽やテレビドラマとタイアップした主題歌としてヒットする。今やヒット曲に関しては「見ながら聴く」音楽ばかりになっている。
一九八〇年代の技術的な面での革新としては、コンピュータの導入がある。それまでは演奏だけは人間がしていたわけだが、ここで演奏の人間離れが生じた。シンセサイザーとの組み合わせによって、演奏技術のない人でもひとりで壮大な音楽を演奏することができるようになった。
日本で発明されたカラオケの普及も音楽を変えた。マスメディアは一方通行のメディアでもあるから、音楽のメディア体験というものは、ひたすら受け手としての楽しみをもたらすものだった。しかし、カラオケによってその構図があっさりくずれた。音楽は気軽に歌われるものになった。
視点を変えると、今では音楽自体が何かのメディアにもなりうる文化になっている。たとえば、それは有名になるためのメディアであり、若者やかつての若者の自己表現のメディアでもある。ときとして、ある種の共同体意識のメディアでもある。音楽は場の雰囲気を強力に支配するので、BGMとして欠かすことができないメディアになっている。
というわけで、あえてメディアということばをたくさん使ったよ。メディア概念は多角的な意味を持っている。どれが正しいというのでもない。ただ、メディアは技術を伴うけれども、それ以上のものだとは言っておきたいね。それは文化的な装置として作動するんだ。
■メディア・情報・コミュニケーション
こういうメディア仕掛けの世界についての研究は、いろんな学問がしている。社会学でもそれらと連動して、だいたい三つのアプローチがある。
第一は、メディアそのものに焦点を当てたもの。メディア論だ。これは二つの系統に分かれていて、ひとつはメディア別つまり業界別の研究だ。新聞論・放送論・出版論などがそうで、ニュースのあり方に焦点を定めたジャーナリズム論はここに入る。従来はマスコミ論と呼ばれていた。
これに対して、マクルーハン以来のメディア論がある。こちらはマスコミでないメディアを射程に入れて、メディア史観というべきか、メディアが社会を変えてきたという考え方で、かなり広い視野でメディアを取り上げている。メディア概念が広い。たとえば自動車なんかもメディアに入ってしまう。この系統は、メディアが身体や感覚をどのように変容させるのかを考える。たとえばウォークマンが出現したとき、ケータイが出現したとき、私たちの感覚や意識はそれらを使うことによって大きく変わってくる。こういうところを考察するんだ。
第二は、情報に焦点を当てたもの。これはあきらかに技術的・工学的知性から発していて、コンピュータやインターネット関連の議論はもっぱら情報概念を使うのが一般的になっている。もともとは「サイバネティクス」という学問を立ち上げたウィーナーの議論から始まっているし、分子生物学の影響もあるのだから、広く自然科学に開かれた研究スタンスだった。今では社会科学やセールストークにまで応用されて、今や情報概念の天下だ。ただ、気になるのは、情報の空箱をいじっているという感じだね。中身はどうでもいいみたいなところだ。社会学系では社会情報学というのがあって、ここでは情報概念を使って社会システムの仕組みを説明したりしている。
第三に、コミュニケーションに焦点を当てたもの。これはわりと社会学的だと言えるかもしれない。かつてはマスメディアの影響力に関する調査研究が盛んだった。これは受け手の変化を見るものだから、業界話ではない、正統派の社会学研究だった。それに、メディア論や情報論が技術偏重や技術決定論になりやすいのに対して、これはわりあい自由だ。コミュニケーション論だと、おしゃべりやうわさの氾濫からインターネット世論やケータイでのコミュニケーションまで、包括的に議論できる。コンピュータ関係でも「コンピュータに媒介されたコミュニケーション」研究、略してCMC研究というのがあって、ネット上のディスカッションの特徴などを実証的に分析している。
以上の三種類の研究は、根本的な発想が違うせいか、まったくソリがあわない。だからメディア世界の研究を始めると、とたんに混乱してしまうんだ。
最近は「情報学」という学問運動があって、これらを取り混ぜて、情報的世界に対して総合的に研究していこうという流れがある。まだ混沌とした状態だけれど、これからはこういうディシプリンにこだわらないスタイルの研究が盛んになるだろう。
■カルチュラル・スタディーズ
さらに、これらに新しく加わったのが「カルチュラル・スタディーズ」と呼ばれる研究だ。「文化研究」の複数形ということになるが、独特のニュアンスがあるのでカタカナ表記になっている。言いにくいので「カルスタ」と略称されることもある。
これはメディア的世界に対して文化論の視点から研究する。文化論と言っても、特定の学問との関係がない脱領域的な研究だ。おもに文学批評など人文学からのインパクトが強い。人文系研究者が文化に対するメディアの役割について社会学的に目覚めた産物という感じがするが、もちろんそれがすべてはない。社会学者は総体として少数だし、やや鈍重なところがあるので、社会学者たちよりもすぐれた研究ががんがん出てくるんだ。社会学と併走している研究実践だから、相乗効果が出るといいんだけどね。
見ていると、カルスタ好みのテーマとアプローチというものがあって、メディア系の議論だと、労働者階級の文化、サブカルチャー、映画、ポップカルチャーを取り上げることが多い。そこでメディアに対する受け手のしたたかな読みとか、スタイルに潜む抵抗のメッセージとか、ジェンダーバイアスやエスニシティといったものを浮き彫りにしていくんだ。
優勢な文化とその担い手たちのヘゲモニーを批判的に理解して、それに抵抗する民衆的要素をさまざまな文化の現場から読み込んでくる。かなり野党的な姿勢があり、政治的なメッセージ性が強い。これは伝統的なメディア研究や文化論では希薄だったところで、権力作用の視点からの「読み直し」になっている。
ただ、野党的な分、これも説教くさいと言うか、人生論くさいところがあって「生き方変えましょう」というメッセージが込められている。その分、主張性のあるエッジのきいた研究になるのだと思うんだけどね。
■メディア・リテラシー
社会学系のメディア研究が一様に指摘しているのは、メディア仕掛けの世界、つまりメディア上の世界が、たんなる現実の世界の反映ではないということなんだ。「メディアは独自の現実を構築する」ということだ。
広告にしても、ニュースにしても、ドラマにしても、メディア空間は演出されている。意図的に編集・強調・加工されたものだ。その「意図」とは、コマーシャリズムと政治的バイアスと職場慣行と支配的文化と流行の複合体だ。これに複雑な競争構造が加わって、実際の内容が決定する。
その結果、メディア空間全体しては、ドラマの中で老人がプラスイメージで描かれることがめったにないとか、ニュースの中で女性であることが文脈に関係なく強調されるといったことが生じるんだ。まったく現実の反映ではないんだよ。
となると、オーディエンスの側で、高度な読み取りをしなければ、現実を見誤ってしまう。しかし、「絵になる」ところだけをクローズアップしたカメラワークに「見せるための」編集が加えられた、高度に演出されたテレビのニュースから、画面のフレームワークによって切り取られた外側の見えない部分を想像するのは難しい。よく「行間を読む」と言うけれども、語られないことを想像するのも難しい。それはかなり創造的な読みになる。ドラマや広告を見ながら「これであって、あれでないのはなぜか」を考えることも、相当な基礎知識と想像力がいる。
しかし、オーディエンスつまりこれまで「受け手」と呼ばれてきた人たちが、たんなる情報の終着地点以上のものであることもまた明らかになっている。能動的読み、じっさいオーディエンスの読み方しだいで、メディア上で表現されたものは、いかようにも解釈されうる可能性がある。
だから私たちみんながそれなりの批判能力を持つしかないというのがメディア・リテラシーの趣旨なんだ。リテラシーというのは読み書き能力のことなんだけれども、この場合は、批判的に読み解く能力のことだ。いわゆる「情報リテラシー」「コンピュータ・リテラシー」がパソコンの操作能力の習得程度の意味で使われているけれども、それらとは全然ちがう質の概念なんだ。
おそらくメディア仕掛けの世界を社会学的に学ぶことは、メディア・リテラシーの基礎能力を培うことになるはずだよ。
■ネットという新しい社会空間
インターネットの急速な普及は、これまでのメディア世界を一変させつつある。私もインターネットを使い始めて八年。私の生活もずいぶん変わった。と同時にインターネットの世界もずいぶんと様変わりした。確実に言えるのは、量的な拡大だ。インターネットを使う人が飛躍的に増え、さまざまなサービスが拡充されている。その結果、インターネット上に新しい社会空間ができ、日々膨張しているのだ。社会科学にとって、これはまったく新しい研究対象の出現を意味する。
ただし、コンピュータ関連だということで、何かと情報論的に、あるいは工学的に説明されてしまうが、そういうものをあまり鵜呑みにしないほうがいいと思うよ。社会学的に意味があると思うのは、むしろ歴史的かつ文化論的な説明だ。
インターネットの世界は、技術だけで決まるのではない。その技術に独特の文化がたえず伴走しつづけて発展してきたんだ。
もともとインターネットはアメリカ西海岸の若者たちが開発の担い手となった技術だ。そのため、いわゆるビートルズ世代の価値観が浸透したメディアとして発展した。自由であること、オープンであること、民主的であること、ともに楽しめること。こういった価値観が明確にある。たんなる情報技術でなかったところに、のちの爆発的普及の要因があるんだ。
ところが、それが、今日の飛躍的な量的拡大によって、伴走態勢がくずれてきた。つまり、インターネット・コミュニティがそうした価値観やスタイルを再生産できなくなったんだ。考えてみれば、学術利用に限定された、技術エリートたちの集まりだったからこそ成り立ったコミュニティだったんだな。
ユーザー性善説でやってきたインターネットも、今では、ユーザーへの信頼が裏目に出ているのが現状だ。そのため、何でもありの世界になった。インターネットの場合は、オーディエンスは送り手でもある。双方向性という特性はメディア空間を複雑にする。さまざまな組織が工夫をしていかないと、この新しい社会領域は、テロリストの横行する紛争地帯のようになってしまいかねない。情報倫理が問われるのは、このためだ。
しかし、同時に、これまでマスメディアが不完全ながら実現しようとしてきた「公共圏」の可能性をインターネットが持っているのも事実だ。公共圏というのは、民主的で自由な言論空間のことだ。さまざまな試みがなされているようだ。世論がもみこまれていく場所としてネット世界にはまだまだ価値がある。
おそらく学問のあり方も変わってくる。社会学も含めて人文社会系の学問世界は長い間、印刷メディア中心に回転してきた。しかし、今では政府の統計資料ひとつ取るのでもネット経由になる。共同研究もメーリングリストなどを駆使しておこなうのがふつうだ。研究成果もウェブで公開され始めている。このあたりをどう再組織化していくか、そろそろきちんと対応しなくてはならない時期だね。