¶1 人間は特別か
■ためしに子犬に語ってみる
お前たちが来てから我が家はずいぶんにぎやかになった。
それまでも我が家には、ウサギやらハムスターやらモルモットやらがそれぞれ何匹もいて、まるでミニ動物園のようだったが、こいつらは小さくてかわいいものの、いかんせん寿命が短い。今では二匹だけになってしまった。
そうこうするうちにお前たちがきた。ウサギも、トイレを覚えたり、名前を呼ぶと駆け寄ってきたり、頭をなでると喜んだり、それなりに賢くて情が濃いものだが(これは家の中で飼った経験がないとわからないだろうなあ)、犬というものはまったく質のちがう情の濃さだな。まして四六時中、家の中を徘徊して好き勝手なことをしているのを見ていると、大昔にソト飼いしていたときにはよくわからなかったことも見えてくるし、こちらも人間の子どものように話しかけたりして、かわいがってしまう。お前たちも、私たちの話がわかるみたいに、お座りをして聞いていたり、首をかしげたり、ワンとほえたりする。とにかく、まったく屈託というものがないのには私もずいぶん助かっている。
この屈託のなさを頼りにすれば素直に社会学について語ることができるかもしれないとの思いつきは、ある意味で凡庸な計画だ。夏目漱石が名前のない猫にインテリたちの風俗を批評させたあの発想にくらべたら、ひねりも何もないからね。けれども私はついつい語る相手のことを気にしてしまうから、なかなかストレートに語れない。その点、お前たち相手なら、あれこれ考えなくて済む。まあ、その程度の思いつきだな。
じつは、ここ数年、社会学の講義がないんだ。今は情報系の科目ばかりだ。まあ、これはこれで時代の最前線ということで気合はそれなりに入るんだが、講義ではわりと淡々と話している。
今思うと、社会学の講義はそうはいかなかった。妙に熱くなってばかりいたような気がする。早い話が「生き方」とかに立ちいるからなんだろうな。そのためか、どこかしら重かったのはたしかで、それが話をくどくしていたような気がしないでもない。一応、私は自分のことを社会学者と自称しているからね。使命感みたいなものがあったんだな。
■人生という概念
そう、社会学はちょっと人生論的なところがある。社会学研究そのものはわりとドライだけれど、社会学入門はそういうところがあるな。どうもそこらあたりが社会学の興味を引くところでもあり、ときには押し付けがましく感じられるところでもあるようだ。熱心な学生さんもたくさんいたけど、ときには反発する学生さんもいたっけ。そりゃそうだよ。「お前の生き方、こうなってるぞ」なんて分析されりゃ、いい気がしない。でも「そうなっているのか!」てなぐあいに、それで吹っ切れる人もでてくる。
お前たち動物には人生論なんて関係ないものなあ。お前たちはひたすら今を生きてる。それに対して時間軸を想定して生きているところが人間のさがみたいなもので、人生という概念もそこから生まれる。
人間だって子ども時代には、そんな概念なんてないんだ。大人になってゆくプロセスで、そういう概念が徐々にできあがってくるんだ。まあ、子ども時代の経験を「懐かしいなあ」なんて語り始めたら、人生の概念ができてるってことさ。
社会学はもちろん学問であり社会科学のひとつなんだけれど、本質的には、こういう、人生を反省する生物である人間が自己を語ることばのひとくさりなんだ。私はかんたんに「反省のことば」と言いたい。
宗教とか哲学とか倫理とか文学とか、そういうものも「反省のことば」だ。しかし、近代社会というものが人間の人生と生活をすっかり複雑に変えてしまったために、人生を反省するのも楽じゃなくなってしまって、たんに回顧したり思索するだけでは見えてこなくなった。そこで、いろんな概念や観察や分析手法なんかが必要になり、たくさんの人に会って話を聞いたり、それらを統計的に処理したりするようになったというわけだ。
■反省する動物
お前たち犬と私たち人間とのちがいは何だと思う? それは反省するかどうかだよ。
お前たちだって「学習」はするよな。ご飯を炊くにおいがしたら、自分たちの食事が近いことをお前たちは学習してる。私がひげをそって髪をそろえてきたら、お前たちは留守番だと悟って、犬小屋に入ってしっかり「お駄賃」を待ってる。「おすわり」と言われれば何かいいことがあるにちがいないとわかってるから「おすわり」してみせる。こういうのは「学習」だな。
「反省」となると、もう一段高度になる。それは、自分を今の自分以外の視点から眺めなおすことだ。他人の視点から自分がどう見えるかを想像したり、夢中でやった過去の仕事を回顧したり、自分のやっていることを社会の大きな文脈に位置づけたりすることだ。
こういうことは人間独自の知的能力なんだろうが、人間一般というより、基本的には近代人の特徴だな。大ざっぱに言うと、伝統に埋もれている人間は反省なんてしない。必要ないんだ。昨日やったことを今日もする。それで毎日が過ぎてゆく。
ところが近代社会ってやつは、そういう幸せな日々を許してくれない。近代社会はどこもかしこも、たえず変化しつづけているんだ。昨日やったことを今日そのままやるわけにはいかない社会なんだ。しかも、遠くの出来事がすぐに身近な影響をおよぼす社会でもある。油断のならない社会。たんに自分を今の自分の視点から眺めてるだけじゃ、すぐに痛い目にあう。だから近代人はたえず「反省」を強いられている。つまり「反省する動物」にならざるを得ないんだ。
まあ、これは一般論。社会学の話に直結するわけじゃない。さまざまな学問や科学だって、結局はそういうことの産物だ。けれども多くの学問や科学が、客観性とか法則性といったものに囚われていったり、自己目的化してしまったり、制度の細かい手直しに熱中したりしたのに対して、社会学では近代人の自己反省がむきだしになっているという感じなんだ。さっき「人生論っぽい」と言ったのは、つまりこういう側面が強いってことだ。
もちろん、いまどき人生論なんてはやらないから、こういう言い方をすると敬遠されてしまうかもしれない。でも「なんで自分が善意でやったことが非難されなきゃいけないんだ」とか「どうして私だけこういう目にあうの」とか「ささいなことでも問題になるのに、こんな大きな理不尽が公然とまかり通ってしまうのはなぜなの」なんてことで現代人はけっこう悩んでいるものなんだ。
まあ、ありていに言えば、幸せな人よりは不幸な人、強い人よりは弱い人、考えなくても済む人よりは考えざるを得ない状況を生きている人のほうが、社会学と相性がいい。そういう人たちが直面している自分の人生の一局面を理解するのに社会学は役に立つからだ。
といっても「正義の味方」というのじゃないよ。せいぜい「誠実な観察者」くらいのものかな。わりとさめて見ている人のアドバイスが役に立つようなものだと思う。その意味で、社会学は「反省する現代人のためのことば」なんだ。
■生物世界の社会
お前たちを見ていると、動物にもそれなりの社会があるように見える。群れを作ったり、役割分担があったり、コミュニケーションがあるのはたしかだ。だから動物学者や生態学者は「動物の社会」について説明するし、動物社会学という分野もある。これは動物を知的生物の側面から解説する試みで、動物社会学といっても、やっているのは社会学者ではなく動物行動学の研究者たちだ。かれらは動物を擬人化して説明するのが得意なんだ。最近は心理学者も加わって、擬人化ではない仕方で「動物の社会」を論じているようだね。
逆に、社会学者は「人間生態学」なんてことを主張することがある。これは都市に集まった人間たちがなぜか適当にまざらないで、あたかも動植物の棲み分けのように、まあ植物で言えば、あちこちに群生する様子を分析する研究だ。これなんか人間世界を動物や植物なんかと同列に見ているわけで、人間を特別視しない、さめたテイストを感じるね。「動物にも社会がある」なんて発想よりも、こういう発想のほうが社会学っぽいんだ。
今の社会学では、ふつう、動物社会を扱わない。コミュニケーションの研究で動物のケースを引き合いに出したりするということはある。けれども社会学者は犬の世界を観察したりフィールドワークしたりしない。まして犬に向かって社会学を説いたりもしない。ふつうは、ね。
そういうことで社会学は近代に典型的な人間中心主義だ。人間だけを扱うというのは、まあ、当たり前のようだけれども、それに対する批判は昔からあった。じつはエコロジーブームの流れの中で、最近また、この点が強く批判されてきているんだ。
■環境問題と人間特例主義
じつのところ、お前たち動物と私たち人間とをまったく別の世界に属していると見るか、それとも所詮は同じ生物世界に属していると見るかという問題は、けっこう難しい問題なんだ。
近ごろは環境問題が盛んに論じられて、エコロジーがはやっているから、人間も動物も植物もみんな自然環境の一部なんだと思うだろう。こういう発想をすると、世界の出来事はエコロジーに解消されてしまうかに見える。過激な環境保護団体なんかは、だいたいこういう考え方だ。これを「ディープエコロジー」と言うんだが、要するに「生態系は絶対である」という考え方だ。これによると、生態系から発想しない営みや知識は無効であり批判すべきだということになるし、生態系への人間の介入は最小限にするべきだということになる。
こういう考え方に影響されて、社会学の中にも環境社会学という分野ができた。なんせ社会学は人間社会を中心に見立ててきたから、この環境社会学では、社会学のあり方そのものを問うような論争がたくさん出てくることになったんだ。
そのひとつが「人間特例主義批判」だ。伝統的な社会学は、人間を特別に文化的な存在と見なしてきたため、生態系の一部としての人間の依存性と限界を無視しているというんだ。まあ、社会学の側もあまりに自然環境を無視してきたきらいがあるから、ちょっとは反省しないとね。
■自然科学に気をつけろ
ところが話はそうかんたんじゃない。たしかに自然環境を排除してきたことは認めなきゃいけない。けれども私は、社会学が漠然と生物世界をあつかっても仕方ないという気がする。
じっさいこのあたりの問題は環境社会学の内部でさかんに議論されていて、少なくとも日本では、ディープエコロジー風味の威勢のいい議論に対して、あえて留保をつけているようだ。つまり環境問題を研究するときに、生態系中心で判断してしまうと、そこで暮らしている人たちがたんなる自然環境破壊者としてしか位置づけられなくなってしまい、ノイズのような存在になってしまう。ノイズはないのがいいわけだから、この人たちの生活がまるで無視されてしまう。それでは社会学とは言えないよね。
生態系が守られれば、ついでにその一部をなす人間も幸せなはずだという楽観主義というか短絡主義というか思い込みがエコロジーにはある。自然科学的発想がときとして見せる原理主義だな。そもそもエコロジーは反都市文明志向と自然科学主義の合体した産物なんだ。そこでは社会的な要素がまるで単純化されてしまう。社会学が闘わなきゃいけないのは、こういう場面だ。
むしろ社会学が問題にしなければならないのは次のようなことではないのか。つまり、こういう人たちが自分たちの考えを実現しようと運動することによって、さまざまな形で紛争が生じる。水俣のように深刻な健康被害が大規模に出たところでは、こういう公害反対運動や被害者救済運動には大きな意味がある。それを第三者的に評価するとともに、環境運動が引き起こす紛争を、環境に対する人間社会のありようの問題として研究すること。日本の環境社会学者の研究の重心はどうもこちらにあるようだ。
こういうように見ていくと、社会学そのものはやはり人間特例主義で行くしかないんじゃないかな。その問題点と限界は、環境学という大きな枠組みの中で実現していけばいい。それで社会学全体が変わる必要はないんだ。むしろ社会学は、たとえ自然環境の問題に対しても、あくまで人間社会の問題に徹して取り組んでいくくらいがいい。それが社会学らしいんじゃないかな。
こう言うと「社会学主義」ということばで批判されるに決まっているんだが、パーソンズやルーマンやモランなんて社会学者は、こういう社会学の限界を突破してエコロジーを包摂した巨大な理論構想を提示している。あながちきれいに統一されているわけでないのが社会学の実態だ。
■家族としてのペット
こんなふうに、社会学は遠心力がとても強い学問で、ほっておくとどんどん拡散していってしまう。それはそれでいい。現在の状況がそれを要求していると考えることもできるのだから。でも、こんな時代だからこそ、私は社会学の求心力を強調したほうがいいと思っている。視野はなるべく広く取り、その分、支点はより深く埋めたほうがいい。
たとえば、お前たちと私の関係を社会学の研究対象にするとしたら、どんな問題が生じるだろう?
とりあえずは「ペットの社会学」ということになりそうだが、最近よく取り上げられるのは「家族としてのペット」の問題だ。つまり、多くの家庭の場合、ペットは家族同様の扱いを受けている。
さっき、動物の世界は社会学の対象ではないと言ったばかりだけれども、現に人びとが「家族」ということばでペットを理解している現実があるわけだから無視できないし、客観的に「家族ではない」と言うことはできないよ。もちろん法律ではそうかもしれないし、赤の他人から見ればバカげたことかもしれないけれども、一家のみんながそう思っていれば、それはまぎれもない「社会的現実」なんだよ。
象徴的な現象形態がペットロスだ。これは、すでに深刻な社会問題になっている。はたから見ると理解不能かもしれないけれども、ペットが死んだあと、まるで子どもを亡くした親のような精神状態に陥るんだ。私もたくさんのペットを看取ってきたから、こういうのはよくわかる。重いペットロスは、こういう悲しみを通り越してうつ症状が続くそうだ。これはつらそうだ。
こういう事態が社会学にとって遠心力にあたる。それまで「社会学の範囲ではない」として周辺に置かれていたもの、残余だったものが無視できなくなる事態だ。しかし、こうした場合、それでもそれは論じられなければならないと社会学は考える。だから、社会学の研究対象って、際限なく広がっていくんだ。
この拡散は求心力も生む。
ペットという人間以外の要素が家族に入ってくることで「では家族とは何なのか」という理論的な問いが生じるだろ? 家族らしいと思える家族をいくら見ていても、かえってこういう問いは出てこないかもしれないね。
制度から定められた家族の定義、じっさいに人びとが自分の家族と思う範囲、家族ってこういうものじゃないのという理想——それぞれにずれがあるから、これは難問だ。そもそも「家族らしさ」ということばで表現されている親密な領域とはどんなものなのか、考え出すと広大で深い思考圏が開けてくる。まして家族の形は社会や文化によって大きく異なるからね。
というわけで、お前たちと私の関係からさえも、社会学はその遠心力と求心力を働かせて、あっという間に社会学的な世界が開けてくるというわけだ。社会学の素材は身近でありふれている。しかし、それを掘り起こしていくと、じつに複雑な社会の深層が見えてくるはずなんだ。これが「社会学的反省」の正体なんだよ。
¶2 近代という鉄の檻
■犬のお仕事
お前たちの一日は公園の長い散歩で始まる。散歩から戻ったら、すぐに朝食。そのあとは留守番したり、私の足元で寝てすごして、夕方になったらまた散歩して、夕食。それがすんだらひとしきり遊具で遊んで、いっしょにテレビを見て、おやすみだ。
盲導犬とか警察犬のように忙しく働く犬もいるというのに、お前たちの労働は散歩ぐらいなものだな。いやいや、それだって自分のテリトリーを確認して満足しているんだから、ほとんど遊びのようなものだ。
えさをもらうだけだから完全に人間依存の生活とは言え、労働と遊びが未分化な犬の生活は、ある意味では都会人のあこがれそのものかもしれない。都会人が陶芸家にあこがれたり、田舎の自給自足生活にあこがれたりするのは、遊びがそのまま労働になり、労働がそのまま遊びになるような生活に思えるからだ。
けれども人間の生活は、どこにいてもそんなことには、なかなかならないのだよ。
■監獄に似ている社会
人間だって伝統社会に暮らしていたときは、せいぜい数十の職業がわかれていた程度だったらしい。それが近代社会になると、労働における分業がどんどん徹底していったんだ。職業別電話帳を見ればわかるけれど、何万という職業があって、私たちはそのどこかにはまらなければ生きていけない。分業、この現実から社会学は出発したようなものなんだ。
分業って、労働する人たちが全体システムを構成するパーツに分解されるってことだ。そうなると、相互依存しあう関係が社会の中にはりめぐらされ、その関係がどんどん広がっていくことになる。今じゃ、とことんグローバルなものになっている。
相互依存するってことは、一人じゃ生きていけないってことだ。生態系にはまっているだけで生きていけるような世界ではすでになくなっているから、この近代の社会システムに入っていかなければ生きていけない。
つまり、お前たちが夜や留守番のときに犬小屋に閉じ込められるように、労働の現場では、人間たちも管理されていて、お互いに「鉄の檻」に入れあうんだよ。強固だから鉄という比喩を使うのだけれども、じっさいにその檻は見えないんだ。もちろん会社の中だと部長の席・課長の席・主任の席といった感じの空間配置で表現されているよ。でも、それはごく一部分にすぎない。
その檻は基本的には社会システムなんだ。社会システムは、役割期待や義務と責任という見えないルールの集積だ。見えないけれども、そこには越えられない一線があり、やりたくなくてもやらなければならない役割があり、失敗すると叱られたり制裁を受けたりする。そのかわり、自分だけではとうていできないような仕事ができたり、生活するのに十分な給料をもらえたりする。達成感やチームワークの力を実感したりもするね。だから、私たち現代人は進んで檻の中に入るんだ。
労働の文脈における、このような「鉄の檻」のことを社会学では「官僚制」とか「テーラーシステム」といった概念で表現してきた。官僚制は事務仕事、テーラーシステムは工場労働の文脈で出てきたものだが、どちらも、正確で効率のよい仕事のあり方を追求して、作業を細分化してそれぞれを厳密に管理していこうとするやり方を指している。
こういうものは工場の中では見事に視覚化されている。二〇世紀初頭には自動車企業の名前を取って「フォーディズム」と言われて大量生産の代名詞のようになったことがある。フォードは流れ作業のラインを周到に組み立てて、そこに労働者を配置したんだ。
それから一世紀がたって、最近は「マクドナルド化」とまで言われているね。客と接するサービス業は一番機械化しにくいところなんだが、そこまでマニュアル化してしまう。人がロボットのように立ち振る舞う。つらいように思えるけれど、このほうが気が楽だという声も多いんじゃないかな。考えなくて済むからね。
職場だけじゃない。「鉄の檻」はあらゆる生活場面に浸透している。そのおかげで、あらゆる場所が監獄に似ているとも言えるね。フーコーという哲学者は、現代人は監視され管理されていると同時に、自ら進んでそうなっているとして「規律」をキーワードにして論じている。そのもっと以前に官僚制という概念を作り、それを「鉄の檻」と呼んだウェーバーという社会学者は、人びとは支配に対して自発的に服従するんだと述べていた。「鉄の檻」はそれなりに納得させる仕掛けを備えているんだ。
■近代という大きな物語
私たち人間は、自然環境に生きているだけでなく、社会の「大きな物語」の中で生きている。そこがお前たち動物と大きく違うところじゃないかな。有名なマルクスは「第二の自然」という言い方をしていたっけ。「鉄の檻」と呼んだウェーバーも、現代人の抗いがたい運命として理解していた点では同様だね。
私たちが生きているこの「大きな物語」をこれまでさまざまな学者が語ってきた。「資本主義」とか「市場経済」とか「世界システム」といった、いろんな捉え方があるんだ。ここでは、なじみのある「近代」ということばを使うことにしよう。まあ、ありふれたことばだよね。モダン焼きの「モダン」だもの。
一般に「近代」は歴史の一時期を表すことばのように使われることが多いけれども、社会学では、伝統社会に比較して独特な社会のありようを指しているんだ。
では、それはどういうものか。ウェーバーに即して説明すると、近代とは、壮大な合理化の過程ということになる。合理化にもいろいろあるんだが、もともとヨーロッパで発達し、今はアメリカがまぎれもなく推進力になっている「西欧に特有の合理化」なんだ。
ウェーバーがあげているのは、経済における資本主義的企業、行政における官僚制組織、国家における議会制度と憲法と合理的法体系、学問における近代自然科学、芸術における市場向け生産物だ。これらは西欧生まれで、しかも西欧以外の文明からは生まれなかったものだ。これらがなぜ西欧でのみ生まれて、しかも伝統社会を打ち壊し、他の文明社会にまで普及していったのか。
もちろんそういうものがそのまま移植されるわけじゃない。抵抗も強いものだ。しかし、土着の文化と反発したり融合したりする中で、ローカルに変容して定着する。揺り戻しや反動も大いにあって、「西欧に特有の合理化」の進展は必ずしもスムーズなものとは言えない。ファシズムや社会主義なんかも、その抵抗の表現だった。
まあ「西欧に特有の合理化」なんて、なじみのない用語を使ったけれども、今は「グローバリゼーション」ということばで理解されているね。グローバリゼーションの勢いを見ると、このプロセスはかなり強力に突き進んでいるように思う。
原動力は資本主義経済ということになるだろう。それに一連の民主化のための国家装置。そして文化の変容。私たちは、近代という大きな物語の中に生きている。
人間も生態系の一部として分相応の生活をするべきだというようなエコロジーや自然環境最優先主義には一理はあるが、その短絡的発想をきちんと批判しなければならないのは、こういう巨大な社会システムがすでに存在しているという現実を直視していないからだ。目をそらしても、あるものはあるんだよ。
だから、環境問題を解決するためには、むしろ近代という「鉄の檻」と向き合って、その内側からこれを解いていくしかないんだ。しかし、近代の社会システムは、そんなにやわなものじゃない。したたかで柔軟で、すでに私たちの血となり肉になっている。まずはそれを自覚するところから始めるべきだろうね。
■近代的身体
たとえばスポーツだ。人間は遊ぶのも組織化する。西欧人がスポーツと呼んでいる遊びは、ルールをつくり、協会を作り、徹底して記録をとり、競争する。ここでも嬉々として合理化してるんだ。
この合理化は、かなりひねくれているよね。ひとつは、目的を達成するために迂回するところだ。もうひとつは、徹底的に計算することだ。ボールを打ったり蹴ったりしていても十分楽しいはずなのに、面倒で手間のかかるシラケたことをあえてすることで、結果的にもっと盛り上げてしまう。これが近代スポーツの特徴だ。
最近のスポーツは、すっかりメディア・イベント化して、「商業主義化反対!」なんて声もなくなったね。観客は心の底から熱狂しているように見える。これをシニカルに見れば、管理された「集合的沸騰」というところかな。
他方、スポーツ選手のほうは、徹底的に管理され監視された上で、がちがちのルールを自分の身体に覚えこませているわけだ。スポーツマンシップの内実がこれだ。管理され監視されることに従順であることに馴らされている。こういうのを「近代的身体」と言うんだ。
もちろん近代システムの内部にも喜びや感動はあるのさ。むしろ近代システムに深くなじんでいくほうが、そういうものは得られやすいんだ。システムは、そういうふうに計画され工夫され更新されてきたんだから。
同じことは教育や医療についても言えるね。近代システムとしての学校や病院は、規律を徹底して、目標を達成するために徹底的に計画されている。その中では「よい子」であり「よい患者」であることが求められる。それは本人にも快適感をもたらすはずだ。
■音楽の近代
私たちの五感も近代的なるものに従順だ。
絵画でよく使う遠近法も西欧近代の発明だ。光景を見たまま描いてもべったりとした平面的な絵になってしまう。子どもが書いた絵のようにね。ところが、見たまま描くのをやめて、あらかじめきちんと計算するという迂回路をとって描くと、立体的に見えてくる。見た感じに近くなる。皮肉なことだね。
じつは音楽でも同じようなことが典型的に起こっているんだ。平均律がそうだ。
世界には無数の伝統音楽・民族音楽があるが、平均律で音の構造を決めているのは一八世紀半ば以降の西欧近代音楽だけだ。オクターブを均等に十二に分割して一音一音を決めるという調律の仕方は数学的に合理的だ。けれども、人間の耳には少しにごって聞こえるんだ。たとえばドミソの和音がきれいに響かない。じゃあドミソなどの和音が耳によく響くように音を調律していればいいということになりそうだが、それだとオクターブがずれるんだ。
だから伝統音楽は音数を少なくして、それなりに耳によく響く音だけで構成されている。耳の生理からすれば、こっちのほうが合理的と言える。音楽なんだから、そのほうがスジが通っているじゃないの。ヨーロッパでもバロック音楽のころまではそうだった。
じゃあ、どうして西欧近代音楽がそんな選択をしたかというと、平均律にすると二十四の調で作曲・演奏ができるし、転調も自由自在になるから、音楽の表現力が格段に高まるからなんだ。ヴィヴァルディらの前期バロックの曲はみんな似たような音楽に聞こえるけれども、今の音楽、J-POPでも演歌でもヒップホップでも、結局はベートーベンと同じ音構造で作られているんだから、その表現力の差は歴然としている。
ここでも、目的を達成するために迂回して、数学的な合理性を優先させているよね。近代の合理性って、やはりネジレてる。
こういう変化は、図式的にぽーんと変わるんじゃなくて、さまざまな歴史的事情の集積として生じるものなんだ。文化史や社会史の研究が必要なのはこのためだが、音楽史的には、あらかじめ調律を決めておかなければならない基準的な鍵盤楽器がオルガンからピアノへ移ったおかげで音の濁りが目立たなくなったことがあるようだ。オルガンは持続音だから和音が濁ると聴いていられないけど、ピアノだとポーンと叩く音だから気にならない。
また、五線譜に音を書いていく記譜法が発達した結果、専門に「音楽を書く人」が誕生したことも大きいんだ。つまり作曲家の誕生だな。それまでは演奏家が作曲家でもあったんだが、作曲専門となると、演奏上の制約を脱して五線譜の上で音楽的可能性を追求するようになる。そういう作品を演奏するとなると、いやでも平均律に調律が必要になるというわけだ。モーツァルトとベートーベンのあいだあたりが境目かな。
お前たちは私の足元で、ときにはひざの上で、いっしょにいろんな音楽を聴くよな。バロックもクラシックもロックもジャズも、一九世紀に確立した西欧近代音楽独特の音構造からなりたっていると思うと、「近代」の裾野の広さと影響力の深さを感じてしまうね。
■荒ぶるシステム
全てが商品となる近代システムでは、お前たちも商品だったわけだ。早々と親犬から引き離され、同じような境遇の子犬といっしょにショーケースに入れられて、私たちの前に引き出された。そして私たちと出会った。おかげで今じゃお前たちは私たちの家族の一員だ。しかし、売れ残った子犬たちはどうなった? 考えてみれば乱暴なことだ。良くも悪くも命を翻弄している。それがマルクス流に言えば「資本の運動」だ。
それは現代人も同じなんだ。「資本の運動」だけではない、複雑な要因の産物として捉えなければならないけれど、近代システムの論理に翻弄され続けているのはたしかだ。
そもそも近代システムは予定調和的なものばかりじゃないんだ。むしろ矛盾を抱えた運動体なんだ。一時期よく言われたように、近代化することが善き進歩であるという保証はない。むしろ葛藤を抱え込む形になる。
それがしばしば矛盾を爆発させる。日本で言えば水俣公害問題やスモン薬害問題のような大規模な社会問題は、システムの運動の内部矛盾がシステムの外部に劇的な形で現象したものだ。
こういう問題が生じるたびに法律が改善され企業が気をつけるようになると、それなりに軌道修正されたことになる。こういうのを「再帰的近代化」と呼んでいる。だからいいかというと、そうでもない。社会はそんなに単純にコントロールできるものではないんだ。民主的コントロールは必要だが、完璧ではない。被害者一万人のスモン事件があったあとに薬害エイズ事件が起こったように。それを個々の問題に即して徹底的に内在的かつ批判的に指摘していくことが社会学の仕事になる。「荒ぶるシステム」の分析には、社会学のような「荒ぶる学問」が必要なのだよ。
マルクスが「資本の運動」として生涯をかけて指摘し続け、苦労して『資本論』や膨大な草稿を書いたのは、こういうことだったんじゃないか。そう考えると「社会主義の父」として偶像化されたマルクスではなくて、社会理論家としてのマルクスにはまだ学ぶべきことがある。
¶3 システムの周縁
■癒しを求めて
都会に住んでいるせいからか、田舎暮らしがしてみたい。庭いじりもしてみたい。ときおり無性に沖縄民謡や中国の二胡を聴きたくなるときがある。都会の人ごみが嫌いなはずなのに、大勢の人たちといっしょに見る夏の阿波踊りが好きだ。お囃子の地響きするような太鼓もいいね。
こういう傾向は、近代システムの先端部である消費社会のどこかできっと仕掛けられたものなんだろう。でも、こういうものにふれるとき、ふだんの緊張が解かれるような思いがする。
お前たちを飼うようになったのも、そんなところだな。動物とつきあいたくなったんだ。シマリスから始めてハムスターやウサギやモルモット、そしてお前たち犬を飼うところまできてしまった。これもペットブームという消費社会のロジックにはまっているだけなのかもしれないけれども、お前たちとの世界は、今では大事な生活の一部になっている。おそらくこういう感覚は、うまく行っているときの恋愛感情や家族団らんなんかに通じるものだろうね。
こういう経験は、大なり小なり現代人に共通のものだろう? 近代システムを生きながら、そこから少しはみだすようなことをしたり、ささやかな楽しみや癒しを求めたりする。こういう側面を私たちはふだん「人間的な」と呼ぶことが多い。
前回は、あらゆる生活場面で近代の社会システムが支配的であることを見てきた。それは何よりも重要な問題だ。しかし、それが全てだなんて社会学は考えないんだ。そこからはみだす世界を人間はたくさんもっている。だから社会学では、近代システムの内部世界を詳しく研究すると同時に、近代システムの周縁や排除されたものを研究したり、別の論理で動いている「生活世界」と呼ばれる独特の社会領域も研究する。この点で、経済学のような伝統的社会科学といささか好みがちがってくるんだ。
■親密な世界
社会学がよく注目するのが、さまざまな集団の内部世界だ。動物で言えば「群れ」にあたる。お前たちは、群れをつくる動物だろ。お前たちは、おそらく私たち人間の家族もふくめて、ひとつの群れだと思っているんだろうね。人間たちも群れて親密な世界をつくるんだ。そこはお前たちと同じだな。ちがうのは、じつにいろんな群れ方をするところだ。
子ども時代には、たいていの場合、家族という群れに入る。自由に動けるようになると次に遊び仲間をつくる。こういう集団の中で社会性を身につけていくんだ。社会学では「第一次集団」と呼んでいる。家族は重要だから社会学でもたくさんの研究者がいる。
若者集団の生態もいろいろな形があって、よく論じられる。「○○族」といった流行があるからね。シカゴ学派と呼ばれる社会学者たちやその影響を受けた社会学者たちは、好んでこういう集団内に入っていく。こういう集団の内部では、ひとりひとりの性格類型が明確に構成されていて、それにそって自然と役割分担ができている。掟というかルールというか、そういう行動規則めいたものも自然発生的に成立していて、それに対して若者たちはじつに忠実なものなんだ。たとえば昔のツッパリや暴走族の若者たちは、社会の公認された規則には従わないけれど、集団内の規律にはきわめて従順なんだな。
似たようなことは、世間で「裏の世界」と呼ばれる集団にも言える。犯罪集団やホームレスの集まりから、医師や専門家たちの学閥にいたるまで、近代システムの周縁や内部に自然発生的に成立する親密な世界には独特なものがあるんだ。
がっちりと管理された工場労働者の世界にもこういう集団がある。「インフォーマル・グループ」と言うんだ。要するに、公式組織の内部に非公式集団が成立して、それが組織運営を管理者の意図どおりにしない大きなファクターになっているんだな。組合のことではないよ。親密な仕事仲間の集団だ。
インフォーマル・グループは組織を超えることもある。談合なんかは典型的だけれども、それが公共工事の競争入札制度という公正な仕組みを事実上台無しにしてきた。
もともとこういうものは伝統的な社会によく見られたものだ。今でも山村に住む老人たちはそういう世界に生きている。映画の寅さんシリーズで描かれる下町のような、都市の中のコミュニティもそうだね。市民運動のためのネットワーキングや宗教運動の内部にも息づいている。最近はネット上でも事実上のコミュニティが成立していて、じつに多くの人たちが「親密な世界」を経験している。
私たちが「仲良しグループ」とか「家族的なおつきあい」と呼んでいるような「親密な世界」を総称して社会学は「生活世界」と呼んでいる。その中で人びとが、いちいち思案することない自然的態度で日常生活を送っているような、自明性におおわれた世界だ。このように、人間は、緊張感ある近代システムの中にも、安らげる社会空間をつくってしまう。これはお前たちが群れで行動するのと同じだな。私たち人間にとっても、こういう群れの中にいると安心なんだよ。
私たちの生活の舞台装置は近代システムだ。しかし、それにもかかわらず、それに対してはみだす多様な世界がある。こういうものは、近代システムのすき間の出来事であり、システムのほころびと言っていい。社会学はそこを重点的に見ていこうとする。だから、こういう集団の生態を観察し、その親密な世界の意味を理解するんだ。国際金融の動向や法律の改定と同じように、これらは研究するに値する重要な社会現象なんだよ。
■縮図としての家族
この文脈で、どうしても問題になるのが家族だ。
愛し合う男女が結婚して、その愛の結晶として子どもが生まれる。子どもは両親の愛情を注がれて育っていく。家族は安らぎの場である・・・。てな具合に家族を思い描く人は多い。幸せな家族に恵まれた人はそう信じているし、恵まれなかった人はなおさらこうあるべきだと思い込んでいたりするものだ。
しかし実態は大きく異なる。そもそもこういう家族像は、社会学では「ロマンチック・ラブ・イデオロギー」と呼ばれて批判されているんだ。イデオロギーというのは、現実に合わない思い込みが広く人びとに共有されていていることだ。しかし、その存在を否定はできないものなんだ。そういうふうに人びとが思っているということ自体が、現実を構成する重要な要素なんだから。たとえば、みんなが「愛がなくなったから別れるべきだ」と考えれば、離婚という現実が生じやすくなるだろ?
うまくいっている家族は、典型的にプライベートな生活世界に見える。けれども、自明だと思っている家族のありようは、じつは近代システムと背中合わせの、まぎれもなく近代の産物なんだ。だから社会学では、あえて「近代家族」と呼んでいる。
近代家族は、プライベートな領域として位置づけられ、強い情緒的関係で結ばれているとされる。家族愛は、横方向には夫婦愛、縦方向には子ども中心主義として現れる。夫は外で仕事をして家計を支え、妻は家事労働を担う。集団としてのまとまりが強くて、親族でない者はいない。基本型は核家族である。こんな感じだ。
こういう家族像を近代家族と呼ぶのは、歴史的にも空間的にも相対化するためなんだ。人類普遍の家族の形じゃないということの確認だ。
たとえば性別役割分担で女性が担当することの多い家事労働は、近代社会になって職場と家庭が分離されたために、家庭での仕事は労働と見なされないということになってしまった結果なんだ。つまり、近代の合理化の潮流の中で、家族のもつ多面的な側面が整理され再編されていったということなんだ。ハーバーマスという社会学者が「システムによる生活世界の植民地化」と呼んでいる一連の変化のひとつと思っていいんじゃないかな。家族は近代システムの変化に翻弄されている。
だから、家事労働を家族愛のあらわれと見るのはイデオロギーにはまっているわけだ。そもそも「本来、家族というものは・・・」なんて言い出すと、もう社会学じゃない。「本来の家族」なんて、現時点でそうあってほしいとその人が思っている家族像にすぎないんだ。
じっさい、現実の家族は大きく揺れている。その揺れ幅はかなり大きいんじゃないかな。日本の場合、すでに何かと言えば「少子高齢化」が行政サイドやマスコミの合言葉になっている。「バツイチ」と軽く言われるほど離婚の位置づけも変わった。「パラサイト・シングル」と呼ばれる独身者も多い。欧米では当たり前になっているが、子連れ再婚によってできた家族「ステップファミリー」という新しい家族の形も日本に定着するだろう。
家庭内暴力や育児放棄の問題も生じている。家族内では、安らぎの場としての弛緩もあれば、濃い感情がぶつかりあう緊張もある。ひきこもりのように、近代システムに対するシェルターとしての役割が個人の社会化を妨げることもある。生活世界は両義的であって、システムへの対抗にもなるし、根強い分断もつくるんだ。
「家族の危機」と呼ばれている事態も社会学的に検証してみないといけない。それは現実の危機ではなく、人びとの家族観がヴァージョンアップされないまま現実と合わなくなってしまっているだけかもしれないからね。
■残余概念の逆襲
社会学では、こうした近代の合理化の流れからはみだすテーマをよくあつかう。これはジンメル以来の伝統みたいなものだな。ジンメルは、本質的には哲学者なんだけれども、一時期「社会学」という新興科学に入れ込んで、一世紀ほど前に『社会学』という本を出して、その後の社会学に大きな影響を与えるんだが、その本の中で、「よそ者」だとか「孤独」だとか「誠実と感謝」といったテーマに正しい位置づけを与えて、論じるに足るものとして考察を加えていったんだ。
要するに、メインストリームから置き去りにされたものに注目するんだ。「置き去りにされた」というのは、要するに「こぼれ落ちる」とか「排除された」と言ってもいいだろう。こういうものを拾っていくんだ。それを揶揄して「社会学は残余科学だ」と言われたこともあったんだが、残余概念を研究対象としてまともに論じていくという点では、今でもそのとおりだと思う。
残余概念が重要なのは、それがかえってメインストリームの現象の本質を反転させて集約的に表現しているからなんだ。
たとえば、デュルケムという社会学者は『自殺論』という有名な本を書いている。今でこそ自殺という現象が社会のバロメーターのようにあつかわれているけれども、それを最初にやったのがデュルケムなんだ。かれは近代社会においては「自己本位的自殺」と「アノミー的自殺」が必然的に生じるというんだ。近代になると伝統社会がもっていたきずなが薄れ個人が孤立しやすい。そのために「自己本位的自殺」が生じる。また、近代においては「こうなりたい」「こうしたい」と欲望が無制限に拡大するが、それが満たされるとはかぎらず、しばしば激しい焦燥が生じる。これによる自殺が「アノミー的自殺」だ。こちらは今でも現代的な感じがするね。
最近は、過労自殺やリストラ自殺がマスコミでさかんに論じられているのを見てもわかるように、社会現象としての自殺問題はすでに社会学の専売特許ではなくなっている。それはそれでいいんだ。社会学のフロンティアは別の周縁領域に目を向けているはずだ。
たとえば最近の研究テーマの中で、システム周縁領域のものを拾ってみようか。都市的世界に対して阪神淡路大震災。日本文化なるものに対して沖縄やウタリの文化。平均的日本人に対して在日韓国人や日系ブラジル人。家族愛に対して家庭内暴力。結婚に対して非婚やパラサイトシングル。ニュースや広告に対して都市伝説やうわさ。異性愛に対して同性愛。健康志向に対して薬物依存。飽食ブームに対して摂食障害。そして政党政治に対して無党派層。
思いつくものをあげてみたけれども、「正常に対して異常」というのもあれば「内部に対して外部」というのもあるし、対極的な現象のペアもある。「残余概念の逆襲」と呼ばれているのは無党派層の存在だ。政党政治の中で長年「残り物」扱いされていたのが、今じゃ政治の主役だ。
こういうものは「問題」として語られるけれども、それは近代システムの予定調和的な領域からはみだしているからにすぎない。近代は絶えず動いているから、いつだってこぼれ落ちる部分はある。しかし、家族がそうであるように、それらの近代システムとの緊張関係はなくならないから、そこをたえず見つめている必要があるんだ。
社会学と人類学以外の社会科学は、このシステムの内部の立場から、システムを論じることが多い。経済学や政策科学なんかがそうだ。それはもちろん意味のあることだ。それに対して社会学は、理論と歴史と比較の視点からそれらを相対化しながら、そのフリンジの揺らぎの部分に着目して、その内部世界に切り込んでいく。それによって、システム自体の内的矛盾や変容を逆照射しようとするんだ。その意味では、誇りを持って「残余科学」と自称していいんじゃないかと私は思うよ。