健康クリーシェ論(1)

健康クリーシェ論:健康関連広告におけるクリーシェの諸類型と培養型ナヴィゲート構造の構築(1)
野村一夫(国学院大学教授・社会学者)·2016年12月6日表示18件
1 クリーシェの役割
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■本稿の目的
本稿の目的は、健康関連広告におけるクリーシェの諸類型を抽出し、その健康言説が構築する培養型ナヴィゲート構造の基本性格を見定めることである。この点について、まず確認しておこう。
ここでいう「健康関連広告」(health-related advertisement)とは、健康を志向する商品およびサービスに関連する広告のことであり、具体的には医薬品・美容・健康食品・健康器具・整体・ダイエット・セミナーそして身体技法に焦点を当てた呪術的宗教などの広告をさす。もちろんこれでは膨大な作業量となってしまうので、本研究では媒体を絞り込むことにした。今回、調査対象として選択したのは折込広告である。折込広告は総じて洗練度が低く、語り口が直截かつ饒舌なため、かえって読解が容易だと判断したからである。さらに薬事法などを意識した自主規制も事実上ないに等しいという側面があり、あえてそこに期待した。
クリーシェ(cliche`)は、決まり文句や常套文句と訳されるフランス語であるが、そのまま英語でも使われている。型にはまった陳腐な表現のことであり、長年にわたって乱用されてきた通俗的な言い回しのことである。
多彩な広告表現の中で、とくにクリーシェに着目するのは、私たちの研究の目的がヘルシズム全体に向けられているからである。健康関連広告は、ヘルシズムを社会的に構築する言説(私たちはそれを「健康言説」と呼んでいる)のすでに重要な一部をなしており、ある種の典型性をもっていると考えられる。その中核が健康関連広告に表現されたクリーシェ的言説だと予想できる。もちろん、この予想が適切であるかどうかは、これから検証されるべき事項となる。
■クリーシェとは何か
文化社会学の研究者アントン・C・ザイデルフェルトは、理論的指針としてクリーシェを次のように定義している。
「クリーシェとは、社会生活のなかで繰り返し用いられることによって、それがもともともっていた巧妙で索出的な能力を失っている、(言葉、思惟、感情、身振り、行為による)人間の伝統的な表現形式のことである。それゆえにクリーシェは、社会的相互行為やコミュニケーションに積極的に意味を与えることはできない。だがそれは、社会的には機能している。クリーシェは、意味への反省をまぬがれている一方で、行動(認知、感情、意志、行為)に刺激を与えることはできるからである。」[注1]
つまり、クリーシェは、使い古されていることでヴィヴィッドな意味は失われているが(言語上の化石)、しかし、それなりの機能を果たすというのである。たとえばザイデルフェルトは次のように指摘している。「クリーシェは、実体化されているという性質をもっているために、そしてまた繰り返し用いられるために、それ自身の自己推進力(モメンタム)を獲得しがちである。すなわちクリーシェは、社会のなかで個々人に対して相対的に自律的になる傾向をもっているのである。クリーシェは、内容と形式をあまり変えることなく世代から世代へとひき継がれ、他方、個々人は、日常的な社会生活のなかでクリーシェを使うことを学びながら、それらのクリーシェに適応していく。社会化の重要な部分は、クリーシェとそれに対する適切な感情的反射を教え学ぶことから成り立っているのである。」[注2]健康言説もまた無反省に語り継がれることで、語る人たちを社会化すると考えられる。そこに注目したい。
ザイデルフェルトは近代社会を「クリーシェ促進社会」だという。なぜかというと、近代社会においては「対抗し合っている複数の状況の定義が存在し、しかもそのいずれもが拘束力をもっていない」(ウィリアム・アイザック・トマスのことば)からである。近代社会においては、規範・価値・意味・動機がもはや伝統的な制度と結びついていないので、認知的に曖昧で、感情的に不安定で、倫理的に不確実である。こうした浮動的な状況においてクリーシェは確たる指針として機能する。「クリーシェは、認識を成り立たせる定点であり、拠り所となる対象であり、関わりをもつための安定した場所なのである。」[注3]クリーシェは制度の代替物というわけだ。
さらにかれはクリーシェにふたつの基本原理が作動していることを確認する。第一に、クリーシェは認知的反省をうまく逃れて、行動主義的な仕方で(機械的な刺激−反応として)人びとに行動を引き起こすということ(行動主義的な誘発機能)。第二に、そういう機械的反応が生じるまで何度も繰り返されるということ。[注4]
このようなザイデルフェルトの考察は、健康を語ることばにピッタリ当てはまる。「実際、クリーシェを切手やジョークのように収集する人がいるとすれば、おそらくその人は、死亡記事、お悔み状、弔辞のなかに豊富な探求領域があることに気づくだろう。」[注5]まさにその通り。私たちはそれを健康関連広告に見いだし、ゴミの山からチラシ広告を探しては、そこであくことなく繰り返されているクリーシェの「自己推進力」(本稿では「培養型ナヴィゲート構造」と呼ぶことにする)を想像するのである。
2 社会構築主義の視点から見た広告
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■文化としての広告
従来の広告研究が基本的に効果研究であり、しばしば行動科学的分析に依存していたのは、それなりの知識社会学的理由がある。けれども、もはや広告はそのようなマーケティング的なまなざしからのみ分析されるものではなくなっている。それは、現代文化の重要な構成要素であり、日常生活における私たちの意識や行動や身体をかなり深いレベルで規定しているはずである。[注6]私たちは、それをたんなる広告業界の自己正当化的スローガン(「企業や社会のお役に立っているのだ」という言説)としてだけではなく、自己批判的なまなざしでもって分析する必要があると考える。たしかに、すでに印象批評はおこなわれているが、さらに人文学的な深みと社会科学的な組織性が必要だろう。
したがって、本稿では、健康関連広告が受け手に対してもつであろう広告効果の有無を行動科学的に検証することには関心がない。私たちの研究関心は「道具としての広告」の研究ではなく「文化としての広告」の研究にある。具体的には医療社会学・医療人類学的関心がその主たるものであり、基本的な視点は一般的に「社会構築主義」(social constructionism)と呼ばれる視点にほぼ対応している。そこから「人びとが語る健康」がどのような現象であるのか、そして総体としてのヘルシズム(healthism)が現代社会においていかなる作用を発揮しているのかを批判的に見定めることが目下の研究課題である。
■社会構築主義
一口で社会構築主義といっても、じつはかなりヴァリエーションがあり、社会学における社会問題論の領域では激しい議論も行われているが。ここでは最大公約数的な意味において使用することにしたい。ヴィヴィアン・バーの整理を借りると、社会構築主義とは次のように文化や知識を理解する見方である。[注7]
(1)自明の知識への批判的スタンス
世界が存在すると見える、その見え方の前提を疑う。なぜなら、人間が世界を把握するさいに使用するカテゴリーが必ずしも実在する区分を示すものではないからだ。
(2)歴史的および文化的な特殊性
世界を理解する仕方・カテゴリー・概念は歴史的かつ文化的に特殊なものであり、相対的なものであるという認識を徹底する。
(3)知識は社会過程によって支えられている
世界についての知識は、人びとが互いに協力して構築する。具体的には日常的な相互作用によって構築する。したがって、人びとが相互作用において日常的に使用する「ことば」が重要な意味をもつ。
(4)知識と社会的行為は相伴う
世界を特定の「ことば」で理解することは、それ自体ひとつの社会的行為であり、ある種の社会的行為を支持したり排除したりする行為である。つまり知識は社会的行為なのである。
この視点から特定の社会現象を研究するさいに戦略的に重要になるのは、人びとが日常世界においてものごとを理解する仕方であり、そのさいに重要な役割を果たす「ことば」である。社会構築主義では、このような「ことば」を「言説」(discourses)と呼び、その調査研究を「言説分析」(discourse analysis)と呼んでいる。社会構築主義から見れば、世界は言説によって構築されており、歴史的・文化的に規定された特定の言説によって人びとは世界を理解するのであるから、その言説の自明性を疑い、歴史的由来を調査し、文化的布置をあきらかにすることが、その言説の指示する現象の科学的理解につながるのである。
■健康と病気の社会学
さらに医療社会学の文脈では、次の諸点が問題になる。サラ・ネトゥルトンによれば、近年の医療社会学は大きく転換しつつあるという。[注8]かんたんにいうと、その研究対象が変容しているのである。以前の研究対象は病院、医師、ナース、薬、救急箱といったものであった。それが今日ではそれらに健康食品、ビタミン剤、アロマセラピー、民間療法、サイクリング、ヘルスクラブ、エアロビクス、ウォーキングシューズ、ランニングシューズ、セラピー、趣味のよい飲み物、健康チェックといったものが加わった。メディアによる「健康関連問題」(health-related issues)への注意と、専門家以外の人びとによる知識の拡大が、その大きな変化である。要するに、もはや公式の医療制度に属するものだけが医療社会学の対象ではなくなったということだ。もはやそれは「医療社会学」ではなく「健康と病気の社会学」(sociology of health and illness)と呼ばれるべきだというのがイギリス系の社会学的医療研究の新傾向となっている。
ネトゥルトンは「健康と病気の社会学」の焦点が、西洋近代医学とそれに対するさまざまなリアクションにあるとする。[注9]
そもそも西洋近代医学は「生物医学」(biomedicine)をメインパラダイムとする。このモデルは五つの仮説を基礎としている。
(1)心身二元論(精神と身体は分離して取り扱うことができる)
(2)機械メタファー(身体は機械のように修理できる)
(3)技術的命令の採用(過剰な技術的介入)
(4)還元主義(生物学的変化によって病気を説明して社会的・心理学的要因を無視)
(5)特殊病因論の原則(19世紀の微生物病原説のように、すべての病気がウィルスやバクテリアのように同定可能な特殊な作用因によってひきおこされると考える)
このような生物医学は、この20年ほどのあいだに多くの批判にさらされてきた。ネトゥルトンはその挑戦的批判の論点を六つあげている。
(1)医学の有効性は強調されすぎてきた。
(2)身体を社会環境的文脈に位置づけるのに失敗している。
(3)患者を全体的人格ではなく受動的対象としてあつかう。
(4)出産を病気のようにあつかう。
(5)科学的方法によって病気の真実を確認していると想定しているが、じっさいにはそれは社会的に構築されたものである。
(6)医学的専門家支配の存続を許してきた。
このような論点をカバーするものとして「健康と病気の社会学」が位置づけられる。そこで問題となるが医学的知識の社会的構築の問題である。
1970年代あたりに精神医学の現状とそれに対する批判があいついで現れた。ゴッフマンの『アサイラム』やサズの『狂気の製造』がその代表的なものだった。さまざまな診断的カテゴリーの応用は問題を呼び起こし、医学的知識の応用は技術的に中立な営みというよりむしろ政治的な営みだということだった。この精神医学をめぐる社会構築主義者の議論は医学の他の領域にも適用されていく。その結果、あらゆる知識は社会的に偶発的(contingent)であり、医学的知識も社会的に構築されるものだということ、そして、病気に対する人びとの態度や常識的観念も社会的に構築されたものであるということが明確に指摘されるようになったのである。
■医療的世界の社会的構築
要するに、医学的な「事実」は社会的に構築されるのであって、私たちが前提している「安定した現実」もじっさいにはさまざまな言説的文脈の中で現実化されたものなのだ。その中で、あるものが問題とされ、他のあるものが問題とされないのは、ある社会集団が一定の条件のもとで特定の問題を発見し、さらには発明するからである。そのような社会集団が活動しなければ、どんな深刻な問題も「問題」として定義されないまま放置される。そして、ひとたび構築されたカテゴリー(たとえば特定の病気)は現存の社会構造を強化するために応用される可能性があり、その応用は社会関係をあたかも「自然」であるかのように見せる。とくに医療言説は客観的であるとされており、そのためその社会的由来が見えにくくなるのである。社会的由来が隠されるために、医療言説は社会統制の強力な制度としてしばしば作用する。つまり、それは権力なのである。近年は、従来の範囲をこえて、老化・出産・アルコール依存・子ども行動といった生活領域にまで浸透しつつある。これを医療化と呼ぶが、こうした現象に対して社会構築主義は注意を促すのである。
このような研究が、たんに医療専門家に適用されるばかりでなく、一般の人びとの健康観・ライフスタイル・リスク認識に適用されていくのは当然の流れである。「素人の健康観」(lay health beliefs)すなわち「健康についての人びとの理解と解釈、および健康に関連する行為」もまた社会的に構築されたものであり、それはエキスパートの知識的世界のたんなる従属変数つまり「医学的知識のうすめられたヴァージョン」ではないのである。[注10]
私たちの研究はこのような「健康と病気の社会学」の流れに即して構想されたものである。私たちが対象として焦点をしぼっているのは、一般に「健康志向」と呼ばれている現象、かつてゾラが「ヘルシズム」と呼んだ現象である。[注11]
日本では「健康志向」と一律に理解されているが、ヘルシズムという言説空間は平坦な空間ではない。むしろ異質なファクターが複雑にからみあう複合体であると予想される。なぜなら、健康を語る主体はひとつではないからだ。専門家・メディア・素人たちがそれぞれの集団的社会的規定性のもとで健康を語る。また、しばしば「〜といわれている」と受動態表現で引用される、語る主体の不明確な言説もある。[注12]
広告はその一部である「メディア言説」にあたる。とくに注目しておきたいのは、メディアが言説に公共性を付与することであり、できごとを公の場で議論できるできごとに変換する機能をもっていることである。
ただし注意したいのは、一部のメディア関係者だけが特権的に健康言説を作り出し、人びとを導くと考えてはならない。広告言説は共同空間である。これに関して私たちの導きの糸となっている考え方は、ヘルシズムが一種の民俗宗教(folk religion)として分析されるべきだということである。健康関連広告における言説はその「あとづけされた教義」と見なすことができる。人びとの自生的なコミュニケーションの中で培養され、それが広告言説に反映しているという側面に注目したい。広告は必ずしも人びとに先駆し誘導するものではない。あとから来て言説空間を構造的に組織化し公共性を付与する役割を担うのだ。本研究で広告を取り上げるのは、あくまでもこの観点からである。
3 折込広告における健康関連広告
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■調査対象
本研究での基本作業は、さしあたり折込広告における健康言説(健康クリーシェ)を分類し、それらの諸類型間の関連づけを見いだすことである。
素材として使用した折込広告は、筆者の居住する東京都小金井市において1998年7月1日から9月30日までに配達された朝日新聞と毎日新聞に入っていたものと、1998年8月の産経新聞に入っていたものである。これら約15キログラムの中から「健康関連広告」と見なされるものを選択した。この選択過程はかなり恣意的なものにならざるをえないが、すでに述べた定義に沿って選択した。新聞三紙の折込広告を収集したとはいえ、かなりの確率で重複しており、結果的には朝日新聞のみで収集しても大差はなかったというのが実感である。もちろん重複分は排除した。
その結果、63件が得られた。これは当初予想していたものよりもはるかに少なく、このこと自体が意外であった。当時の当地区では不動産関連広告が圧倒的に多く、それに比較すると、健康関連広告はごくわずかである。ただし読売新聞であれば、またちがった結果がえられたかもしれない。
もうひとつ予想外だったのは、もっとも規制のゆるい広告として折込広告を選択したものの、意外に饒舌でないことだった。とくにドラッグストアの折込広告であると、どうしても値段が勝負どころになる。数字がことのほかモノをいうわけで、ここから経済合理性以外の何かを読みとることは困難である。そのため、健康関連広告の代表的商品といえる大衆薬については分析の対象からほぼ抜け落ちることになった。[注13]
■健康関連折込広告の概要
まず、今回収集できた健康関連折込広告の概要を示しておこう。別表の「健康関連折込広告資料リスト」[表1]をご覧いただきたい。これらは、収集した折込広告の中から健康関連広告と認められるもの63点のうち、値段勝負のドラッグストアなどの形式的な健康関連広告やフリーペーパーなど30点を除いたもののリストである。したがって、実質的な健康関連広告と考えてよいと判断したものだ。言説分析はこの33点についておこなう。なお、整理番号の順序は作業の順序によっている。
この33点が売ろうとする商品を種類ごとに分けると次のようになる。(1件重複あり)
(1)健康食品(ニガウリ茶、無添加食品、伝承すっぽんエキス粒、くろ源、シルキースリム、対葉豆、黄杞キトサン、ファット・ストップ・プチキッス、野菜ジュース、低農薬野菜、クロレラ)18件(うちダイエット用食品3件)
(2)健康器具(禁煙楽々、シルク綿ブラウス、ピュアアロマボディソープ)3件
(3)化粧品(オージオスキンケアセット、酵素イオンパワー化粧品、基礎化粧品、天然原液スキンケア)4件
(4)ボディケア(脱毛、しわたるみ、美肌、ダイエット)3件
(5)療法(骨髄療法、気功、整体)3件
(6)セミナー(療法について)1件
(7)住宅(健康住宅、室内化学物質汚染対策)2件
まず健康食品であるが、これらの特徴は、基本的にメーカーによる直接販売が多いところである。流通・小売り業者のものではないので、広告としてはかなり饒舌かつローテクで、センスはよくない。しかし、ハイセンスかつイメージ中心戦略でないところがかえって素材として興味深い。
健康器具については、もっとたくさんあるのではないかと予想していたが、案外少なかった。通信販売業者のチラシにないことはないが、健康関連広告と見なすには説明が少なすぎる。無料で配布される通信販売カタログのように豊富なスペースがあってはじめて説明もゆったりなされるのだろうが、通信販売業者(流通・小売り)は返品やトラブルを恐れるため、過剰な説明を忌避するのではないかと推測される。今回の資料においても、「シルク綿ブラウス」と「ピュアアロマボディソープ」はじつはほとんど説明はなく、饒舌な「禁煙楽々」はメーカーによるものである。
化粧品の広告は折込においてもしばしば見られる。しかし、大半はドラッグストアなどの小売り業者によるもので、ほとんど値づけがすべてである。これらは美容に関するものではあるが、健康関連広告とはいえない。今回ピックアップされたものはメーカーの直接販売ないし営業所の広告であり、ドラッグストアなどに陳列された大手メーカーの商品との差別化をするために、健康関連言説を駆使しようとするのである。
ボディケアとまとめたものは、美容サービス一般と区別されている。美容そのものは「身体の美」に関するものであって「身体の健康」に関するものとは別系列である。今回リストアップしたものは、それらの中にあってあえて「身体の健康」を志向しているものであり、その分、イメージ依存というより生々しい比較写真と体験談が主役になっている。
療法の広告は一種の医療広告である。新規開院の診療所のチラシとそれほど変わりはない。ただし、醸し出される雰囲気は伝統的な中国風で、ぶっきらぼうで漢字が多い事典説明のようだ。
1件しかなかったセミナーも療法の一種なのだが、実体がよくわからない。その説明自体が商品なのだから当然だが、思わせぶりな説明には注目したい。
最後に住宅であるが、これについては若干の注意事項がある。近年、ホルムアルデヒドなどによる室内汚染が問題になっており、シックハウス症候群として社会問題化している。今回の調査においても、折込広告の相当数を占める住宅関連広告についてこの点を注目していたが、予想に反してこの点を強調したものは少なかった。現在の標準的な工法では抜本的な対策がむずかしいため、安易に強調できないためと思われる。今回は2件だけがそれをメインにしていただけだった。
素材については以上である。サンプルは少ないだろうか。その選択性に問題はないだろうか。数量的配慮がなさ過ぎるのではないか。そういう疑念は存在する。けれども、健康言説の見取り図を得るという本研究の目的と、社会構築主義という方法論に照らしていえば、ほとんど問題にならないだろう。調査件数の不足は本研究にとって網羅性を若干損なうだけである。それはまた別の機会に別の媒体などで補えばいいのである。少なくともいえることは、「健康を語ることば」を求めている人がこの三ヶ月間に折込広告に見いだすことのできるすべてを網羅しているということだ。
折込広告の特徴は、それが読まれる現場において、自己完結した世界が提示できることである。スポットCMのように前後の広告に左右されない。新聞や雑誌の広告のように、隣接する広告に左右されない。読者が新聞に挟まれた多くのチラシをめくって、一枚を引き出したその瞬間に、チラシは完結した世界観を提示できる。したがってその広告が提示する世界観が重要である。ここにも注目していきたい。[注14]