リフレクション 序論

5: 序論
一 消費のことば、権力のことば
二 臨界の兆候
三 反省のことばへ
5-1: 一 消費のことば、権力のことば
5-1-1: 充満することば
「ことば」が満ちあふれている。多数派の意見をますます多数派に増幅するテレビ、どの知識が検定済みかを告知し教育する学校教科書、広報担当者の演出通りにたれ流される官製情報、ほとんど毎日がお祭りのようなスポーツ紙、電車のなかの饒舌な中吊り広告、十年先ではなく半年先を将来予想するビジネス書の平積み、食べるより語られるグルメ、ニューモデルについての新着情報、凶悪犯人の経歴と「素顔」、それ自体が難易度を高める受験情報・就職情報・住宅情報……。
こうした「ことば」の洪水をわたしたちは、あるときは「メディア文化」として、あるときは「情報化」として、あるいは「消費されるべきサービス」として、さしたる疑念もなく、その恩恵を日々享受している。わたしたちにとって問題なのは、それが「役に立つ」か、あるいは、それで「楽しめる」かであり、多くの「ことば」はその要求に応えるために絶えることなく生産されている。もともとこうした需要には限界がないから、人びとの一定の要求水準を満たして支持された「ことば」は、さらに限りなく再生産され、大量に提供されつづける。
たしかに「ことば」は満ちあふれている。それゆえ現代社会は相当な自負とともに──それはたぶんに「ことば」の供給者の思惑が含まれてはいるが──「高度情報社会」とも呼ばれている。しかし、もっぱら「ことば」の消費者(受け手)であるわたしたちにとっても、ほんとうにそういえるのだろうか。このさいわたしたちが問いかけてみなければならないのは、現代社会に満ちあふれているこれらのさまざまな「ことば」の内実である。
5-1-2: 消費のことば
たとえば大学のクラスやサークルあるいは就職したばかりの会社で新人として自己紹介したときを想いおこしてみよう。はじめて出会った同級生や先輩に、自分がどういう人間なのかを伝えなければならないとき、わたしたちはしばしば「好きなもの」でそれを表現しようとする。「〜が好きな自分」という形で自己を提示すること──すなわち、スポーツ・旅行・オーディオ・音楽・パソコン・クルマ・バイク・ゲーム・コミック・ファッション・食べ物・タレントなどに関する趣味によって自己を表現すること──これこそ、今もっとも無難な自己提示の方法である。
このようにわたしたちは、自分を〈他人とはちがう〉個性的な存在であることを示すために、しばしば消費社会という文脈を利用する。消費の世界では、購買力と〈好き─嫌い〉の選択だけが消費者にとっての唯一の権力源泉(他者に思い通りの影響を与えることを可能にする根拠)であるから、現代社会は、とにもかくにも〈好き─嫌い〉をはっきり表明することが尊重される社会である。だから、わたしたちは〈好き─嫌い〉に関しては明確な答をあらかじめ用意しているものである。それによって自分を似たような他人と区別する。こうしたことの積み上がりの結果、自我形成もこの座標軸にそっておこなわれるようになる。「〜が好きな自分」というクリーシェ(型にはまった考え方や表現)は、たんに無難な自己提示というだけではなくて、現代人とくに若い世代にあっては、もはや自分そのものでさえある。●1それだけわたしたちは消費生活に深く依存しているわけであるが、逆に「〜が好き」をのぞくと、自分が何者でもないことに今さらながらに気づかされるものだ。
こうした自己イメージを維持するためには、絶えざるルシクラージュが欠かせない。「ルシクラージュ」(recyclage) とは、商品にまつわる意味づけについての──さらに意味づけのコード(規則)についての日常的な再教育・再学習のことである。消費によって自己を効果的に提示するためには、商品をめぐって微妙に変化する意味づけ(のコード)をいつも学習していなければならない。それゆえジャン・ボードリヤールはこういいきるのである。「消費社会、それはまた消費の仕方を学習する社会、消費についての社会的訓練をする社会でもある」と。●2
商品情報に通じていることはもちろん、商品にまつわるマニュアル的知識・作法・付随するアイテムに通じていることが、わたしたちの重要な日常的課題となっている。ファッション誌や音楽雑誌やイヴェント情報誌を欠かさず購読し、基本的なノリをよく理解し、微妙なニュアンスの変化をいち早く察知し、事情通でありつづけること。これが、モードやクルマのみならずスポーツやアウトドアから園芸や幼児教育あるいは病院選びにいたるまで、さまざまな消費領域を貫徹する〈消費の論理〉なのである。
現代社会に満ちあふれた「ことば」の多くは、このような文脈のなかでなされる「消費のことば」である。それはあくまでも消費社会に内属したディスクール(要するに商品にまつわる断片的情報の集積)である。その焦点は、社会でもなければ他者でもない。あくまでも〈自分〉にある。「消費のことば」は基本的に「自分を語るボキャブラリー」であり、その意味で、一見社会に開かれているように見えて、じつは本質的に私的に閉じられたことばといえよう。
5-1-3: 権力のことば
そして、もうひとつ、満ちあふれている「ことば」がある。それは「権力のことば」とでも呼ぶべきものだ。お役所ことば・白書・調査報告書・業界用語・専門用語・流行語……。好むと好まざるとにかかわらず、自分たちの社会について語るとき、わたしたちは、こうしたことばを使わざるをえない。リゾート・バブル崩壊・国際貢献・政治改革・地球環境保護・ダウンサイジング・長びく不況・リストラ……。合言葉のように何度も連呼され徹底される「ことば」の数々──しかし考えてみれば、これらは、それぞれ官僚・政治家・企業・経営者・専門家・メディアなどによってつくられ流通させられたものである。たいしてアクセス(情報への接近)の努力をしていないわたしたちのもとにそれらが届くのは、その発生源が一種の権力をもつからである。つまり、マス・メディアなどのコミュニケーション手段を容易に利用しうる資源(財力・人力・時間)を豊富に所有しているからである。ということは、それらのことばが広く流通しているのは、必ずしもその「ことば」自体に価値がふくまれているからではないということだ。だからこそ、これら「権力のことば」に対しては批判的なリテラシー(読み書き能力)が必要なのである。しかし、わたしたちは、これらをむしろ「専門家のことば」として不用意に信用していることが多いのではあるまいか。
「権力のことば」の生産者で、とりわけ強い力をもっているのはテクノクラートである。テクノクラートとは、専門的政策立案能力をもつ行政官僚や専門家のことだ。かれらは行政指導などの手段によって実質的に強力な意思決定権と実行力をもち、社会全体の危機に対して積極的に対応する。●3一見強力なマス・メディアも、もとをただせば、テクノクラートのことばを再生産したり増幅させているにすぎないケースが多い。
テクノクラートが強力な影響力をもつ社会状況を「テクノクラシー」(technocracy)と呼ぶ。多少の意味のずれに目をつぶれば、それを「専門家支配」(professional dominance)と呼んでもよい。問題は「権力のことば」に浸み込んだ「テクノクラートの視角」が必ずしも「生活者の視角」と一致しないことだ。この不一致はしばしば大規模開発や公害問題において鮮明化する。たとえば社会問題の研究者である梶田孝道は次のように述べている。「一般にテクノクラートと生活者は、極めて異なった視角から問題をみているように思われる。テクノクラートは、諸々の利害の全体の考量と調整を自己の課題とし、それゆえ政策の『体系的整合性』の必要性を強調し、すべての利害・要求を『部分的』なものとみなし、これらを『全体的』文脈のなかで相対化する。」「これに対して被害者住民たちは、自己自身が直接的・具体的に感受する切実な利害・要求を行動の原点におき、それゆえ自己のかけがえのない要求の正当性を主張し、その実現にむかって努力する。」●4
一般にテクノクラートは「社会運動の担い手たちを、社会全般への配慮を欠き自己の利害のみに固執するエゴイストたちという形で把握しやすい。」そして被害住民たちの抵抗を「不誠実」とみる。その底流には「テクノクラートの認識の全体性 対 大衆の認識の部分性」という図式が存在するという。●5
わたしたちは生活者であるにもかかわらず、必ずしも「生活者の視角」をとっているとはかぎらない。とくに自分たちの利害に直接かかわりのない領域──といっても間接的には必ず何らかの関連があるものだが──については、メディアを介するなかでその意図が拡散されてしまうために「権力のことば」を無批判に使用してしまい、その結果、わたしたちは知らず知らずのうちに「テクノクラートの視角」をとっていることが多いのではなかろうか。その意味で、このふたつの視角はわたしたち自身の内部においてさえ非対称的(力関係に偏りのあること)である。こうして「権力のことば」によって、わたしたちはしばしば自己欺瞞に陥ってしまう。
5-1-4: 不在のことば
「消費のことば」と「権力のことば」。このような「ことば」の氾濫は、たしかにわたしたちの生きている社会的空間をすき間なく埋めてくれる。わたしたちは、それによって社会的真空の不安を感じないですませられる。しかし、それらがわたしたちに結果としてもたらすことについて注意しなければならない。
わたしたちは不用意にこれら既成の「ことば」を使って自分たちの生活や行動や社会現象を認識したり考えたりしているけれども、「自分たちを語るほんとうのことば」でない場合が多いのである。そして「こんなものだ」といったシニカルな認識が空気を決することによって、それらは、わたしたちがみずからの行為について自己理解するチャンスを確実に奪うのだ。
たとえば、ここでランダムに選びだされた四つの問題を見ていくことにしよう。選挙における棄権、大学教育における私語、企業における反社会的行為、医療における院内感染──これらはそれぞれの社会領域に固有の問題として近年注目されているものばかりである。若い読者でも何らかの形で耳にしたことがあると思う。これらの問題は一見ばらばらに生じているように見える。しかし、これらには共通の根のようなものがあり、「構造」というほど厳密なものではないにせよ、ある程度の共通の構図を見取ることができる。それが各問題の根本的な〈解決〉を困難にしているのだ。結論からいうと、これら共通の構図を支えているものこそ「消費のことば」や「権力のことば」であり、裏返していうと、ある種の「ことば」の不在なのである。
5-2: 二 臨界の兆候
5-2-1: 選挙における棄権
一九九三年の衆議院選挙は、政権交代の鳴り物入りでおこなわれたにもかかわらず、三割強の有権者が棄権するという戦後最低の投票率(全国平均六七・二六%)だった。しかし、同時に、テレビの選挙速報がかなりの高視聴率をはじき出したのもこの選挙の特徴だった。関心はあるが依然として参加はしないという人が非常に多いのである。いわゆる「有権者の観客化」である。
棄権する人びとは多様である。まったく政治に関心がない、いわゆる政治的アパシーもある。あるいは、野次馬的なかかわり方しかしない人びともいる。また、既成政党──ときには政治全体──に対して不信を抱いているために、批判的に棄権する人びともいる。
もちろん、人びとの生活の世界から遠く隔たった政治システムの構造的な問題が背景に存在する。そのために「生活者の視角」で政治過程を捉えるのは、たいへん困難なことになっている。なるほど、政治についてのことばは満ちあふれている。しかし、その多くは「権力のことば」であり、そこには「テクノクラートの視角」が染みついていることが多い。これでは、自分の生活の世界に政治を位置づけるのはむずかしい。
もちろん棄権だけを問題にするのは一面的であろう。既成政党に投票した人たちも、自らの主体的選択ではなく、計算し尽くされた組織票として機械的に投票しているという側面も指摘されなければならない。そこに自発性はあるだろうか、あるいは、個人としての社会認識が反映されているだろうか、これも問われなければなるまい。しかし棄権は、それがかりに批判的な意図をもったものであるとしても、結果的には確実に組織票の影響力を押し上げることになる。棄権が増えればそれだけ利害団体や圧力団体の力が選挙結果に反映されやすくなるからである。
さて、一九九三年の衆議院選挙について政治社会学者の栗原彬は、この選挙の棄権率を絶対得票率との関係で分析し、棄権者の代表的なタイプはふたつあるという。●6ひとつは「何度投票しても同じ」として政治に失望した「非政治」層。もうひとつは、自分に合うもの以外に関心の回路をもたない、若くて明るい「非政治」層。かれらに見られるのは、生活保守であり、政治への無効性の感覚である。栗原は、このような市民社会側の問題として五つの「心の習慣」を指摘する。それは「欲望の達成方式」として、わたしたちの社会に定着してしまったことがらである。その五点とは──
(1)お上による利益誘導と利益配分の制度が育てた「お上意識」
(2)第二のムラやイエとしての組織に依存して欲望の達成をはかる「組織依存志向」
(3)機構化と管理化のなかから生まれる、普通の人びとの「権力志向」
(4)組織や権力に自己欺瞞的に服従する「自発的服従」
(5)社会全体の幸福量の増大のためには多少の犠牲はやむをえないとする「最大多数の最大幸福」志向
これらの「心の習慣」が結果的に、人びとに政治参加しない傾向を導き、それが政党政治そのものの地盤沈下に手を貸してきたし、現に貸しているとかれは分析する。栗原はいう。「腐っているのは政治の世界ばかりではない。市民社会もまた、明るさと清潔さの中に静かに腐っている。政治改革の声は、政治の世界に向けられるだけでなく、市民社会にも投げ返されねばならない。」●7これはたいへんに厳しいことばであるが、政治に責任をもつ市民として真摯に受け止めるべきだろう。テレビ報道ではもっぱら政治家の反省が求められていて有権者の側が批判されることは少ない。ジャーナリズムは受け手批判が苦手(むしろタブーというべきか)であるためにこういうことになりがちだが、今問われているのは、政治家の反省だけではなく有権者の反省なのである。
5-2-2: 大学教育における私語
次に現代の大学の問題を見ていこう。あいかわらずのマスプロ教育・大学設置基準の「大綱化」によるカリキュラム改革・一八才人口の減少にともなう「大学冬の時代」問題など、さまざまな問題が今の大学にはあるが、なかでも現代的な問題として日常的に教員を悩ませているのが大学生の私語である。
教育社会学者の新堀通也によると、一九六〇年代後半からすでに私立の女子短大で問題化し始めていた「大学生の私語」という現象は、一九八〇年代に入って一気に全大学共通の問題へと一般化したという。歴史的にも文化的にも、これは、現代日本の大学にほぼ特有の現象である。私語は、授業中の教室という公的な場でなされる私的なおしゃべりであり、結果的に講義という公務を妨害してしまう逸脱行動(ルール違反の行動)である。けれども当事者の学生に悪気があるわけではなく(悪いことをしているという自覚もない)、他方、教員の側にも不満こそあれ、私語そのものに科学的分析のメスを入れるまではいたらず、たいていは「学生ダメ論」(「学生の質が落ちた」という嘆き)としてくすぶっていることが多い。●8
もちろん、多くの論者が指摘しているように教員側の自己点検がまず必要だ。しかし、昨今の大学論・教授論モノの出版ブームに見られるように、おそらくこちらの方は分析が容易である。●9むしろ私語する現代学生の意識と行動についての分析の方がはるかにむずかしい。というのも、私語はそれが無邪気におこなわれるだけに問題としての根が深く、たんに「学生の質」の問題ではなく、むしろ「現代日本の教育的問題状況の象徴」といえるものをもっているからだ。●10
新堀通也が指摘する学生側の問題点を任意に列挙してみると、(1)公私のけじめの消滅、(2)私的行動・レジャー行動としてのテレビ視聴の構図を授業に持ち込むこと、(3)大学入学以前の段階で子ども中心(本位)のあつかいを受け、許容されることになれていること、(4)学校の事なかれ主義の風潮のなかでマジメに対する冷笑的態度が多数派になっていること、(5)学生の大衆化(かつて大学への進学者は同年齢の一割だったが現在はほぼ四割)、(6)不本意就学・不本意在学・不本意出席、がある。他方、大学側の問題として、一八才人口減少にともなう学生消費者主義(大学は学生にサービスしなければならないという考え方)があるという。●11
これらの背景にあるのは、消費による自己形成である。こうした傾向にいち早く気づき「モラトリアム人間」論を展開した精神科医小此木啓吾は、これに関して次のように説明している。「旅行であれ、デパートでの買い物であれ、映画鑑賞であれ、いずれも消費行動であり、気楽で気分本位な暫定的・一時的なかかわりである。〝本当の自分〟を賭ける必要のない遊びである。そして、人々は、その営みのなかで解放感を味わい、お客さま気分を楽しみ、このお客さま気分が自己評価を高め、人間的な満足感を誘う。」●12成熟消費社会の申し子たる現代の大学生たちが「お客さま気分」を無自覚に教室に持ち込むとき、私語が発生するのは時間の問題である。
さて、新堀は、もうひとつの背景である「情報化」が反主知主義を社会に生み、それが現代の大学生にも反映しているという重要な指摘をしている。反主知主義とは、知性よりも感性を重んじる考え方である。
一九七〇年代から顕著になった情報化の潮流のなかで、(1)情報取得がかんたんになった分、情報の希少価値(いわゆる「ありがたみ」)がなくなり、(2)情報が短命化することによって使い捨ての傾向が強まり、人びとは長期間の学習を避け結論や要約だけを要求するようになり、さらに(3)本来は主体的な判断を人びとに要求するはずの情報の多元化が、それに対応できない人びとに、かえって〇×式思考や一刀両断的解答への要求を生み、(4)情報が市場価値をもつ商品として生産されるため、努力をきらう消費者の性向に合致した情報だけが大量生産され流通するようになる。●13大学が直面しているのは、このような反主知主義の洗礼を受けた学生である。かんたんには接近できない高度な学問や、「すぐ役に立つ」わけでない教養への積極的態度をかれらにつくりだすのはむずかしい。これが私語の背景にあるというわけだ。
このように分析していくと、私語する大学生は、「質の悪い」一部分ではなく、まさに現代日本社会そのものであり、ただでさえ古い体質の残る教員側と大学側がこれに対処できないのは、むしろ当然のなりゆきといえそうである。おそらく当の大学生自身が「消費のことば」によってのみ自己を理解しているかぎり、事態の改善は見込めないだろう。
5-2-3: 企業における反社会的行為
第三の兆候として取り上げたいのは企業の問題である。日本企業はすでに世界有数の地位を占めている。しかし、その一方で、国内では犯罪・不祥事・スキャンダル・不法行為・反社会的行為などがあいついで発覚し社会的非難を招いており、他方、海外からは──たとえば日米構造協議などを皮切りに──その経営の実態が「アンフェア」であると批判されつづけている。
たとえば建設業界において談合は必要悪といわれてきた。指名競争入札制度があるかぎり、業者はそれで対抗せざるをえない、そうでないと採算割れしてしまうというのである。そこにはそれなりの切迫した理由がある。しかし、印刷業界における「シール談合事件」が脱税の調査のなかで発覚したことからも推察できるように、談合・脱税・政治家との癒着・ヤミ献金・企業ぐるみ選挙・下請けいじめといった事象は一体のものとして機能している。いってみれば、これらはひとつのシステムなのである。
たしかにそのシステムの内部では均衡が保たれ、各要素が巧妙に整合しているように見える。しかし、その秩序は、システムの外部環境との不均衡によって成立可能になっていて、それはたとえば、有害物質のたれ流し(公害)や危険な産業廃棄物の投棄、政治家へのリベートをあらかじめ折り込んだ入札価格(税金の不正な使用)、社外労働者(パートタイマー・下請け労働者・アルバイト)や女性社員の低賃金労働(いわゆる日本経済の二重構造)、税金対策に名を借りた事実上の法人税の脱税、●14消費者への危険負担(食品公害・薬の副作用による薬害)、自然環境の破壊(地方建設業界の仕事をつくるためにおこなう不必要な公共土木工事)、価格高騰による土地と人間の分離(土地所有の法人化)などを必然的にともなうのである。
他方、企業はその内部においても「慣行」の名の下に多くの歪みを内在させてきた。過労死のように、極端な悲劇となって現象するケースは、大きな社会問題として広く知られるところである。●15そこまでいかなくても、サービス残業・「研究会」「学習会」名目の早朝出勤・QC活動などを「自発的に」させる雰囲気をつくったり、過剰なノルマを課したり、企業批判する者に露骨な差別待遇をしたりするという形で労働者を追い込んできた。
また、日本の大企業はこれまで障害者を原則的に排除してきた。日本では障害者雇用促進法によって従業員の一・六パーセント以上の障害者を雇わなければならないのだが、多くの大企業は納付金を払ってでも障害者を雇用していない。それに対して、労働組合もふくめて多くの社員は異議を唱えないのがふつうである。●16しかし、ひとたび交通事故や卒中などで障害者になる可能性をだれもがもっている。当人がどんなに高い評価をそれ以前に受けていたとしても、障害者になったそのとき、ほとんどの企業は何のためらいもなく当人を障害者として排除するはずである。
企業はもともと人間ではないのだから「非情」であるのは当然のことだ。したがって問題は、企業を日常的に支えている人びとの意識と行動にある。一般に、有能な企業人は、人生前期に障害を負った人をきびしく排除する。しかし、そのことが、人生後期に障害を負うかもしれない──事故がないとしても老化は確実にやってくる──自分たちを潜在的に排除していることに気づいていないか、気づいていても真正面から見ようとしていない。日本では、多くの企業人が「終身雇用」ということばを無自覚に受け入れてきたが、このことばは日本企業の実態とすでに乖離してしまっているのだ。
ここでは「権力のことば」が静かに人びとを圧しているように思える。「権力のことば」は、本来はまったく別のものであるはずの個人と会社とを一体のものと見なす視点を供給する点で、自己欺瞞を招く。たとえば「リストラ」──このことばは基本的に経営陣によって採用されたものだ。その点で基本的に「権力のことば」である。しかし、多くの会社員は「時代の要請」としてそれを受け入れている。しかし、そのことばの名の下に実行されるのは、自分たちの人事であり、望まない職場への異動であり、場合によっては出向や依願退職勧奨なのである。社員が「権力のことば」から距離をとり、何より自分自身を企業組織と同一視するのをやめることから、おそらく企業社会の「体質改善」が始まるはずである。
思えば、一九六〇年代に顕在化した公害問題から一九九三年の談合問題まで、さまざまな企業批判がなされてきた。そのバッシングに対して、企業はこれまで主としてパッシング(やりすごすこと)の戦略をとってきた。バッシングを「不当」と見なすからである。●17そのために、次つぎに形を変えながらも、企業の反社会的行為は連綿と続いてきた。●18その歴史からいえば、ほんとうに必要なのは、外部からのバッシングよりも、企業内部の自己反省なのである。
5-2-4: 医療における院内感染
医療には多くの問題が目下噴出中である。八〇年代後半に頻発し九〇年代になって社会問題化した、いわゆる「院内感染」もそのひとつだ。院内感染とは、抗生物質の使いすぎによって、もはや抗生物質の効かなくなった耐性菌(たとえばMRSA=メチシリン耐性黄色ブドウ球菌)が出現し、病院内に定着してしまうことである。健康な人がこの耐性菌に感染しても大したことはないが、手術直後の患者や体力の弱った患者の場合、感染すると致命傷になってしまう。そのような人に耐性菌を媒介するのは、医療現場の医師や看護婦、患者とその家族、食器、医療器具など、病院のあらゆる人と物である(交差感染)。治療者側が治療のプロセスのなかで結果的に患者を死に追いやってしまうことになるという、たいへん皮肉な現象である。それだけに医療現場の日常的な感染予防管理が問われる問題となっている。
院内感染が広く知られるようになったのは、手術成功後の院内感染によって死亡した男性患者の妻である富家恵海子の著作によってだった。●19彼女は「この院内感染の起きる原因及びそれを蔓延させる背景は、医学的であるだけでなく、多分に社会学的である」という。●20医学的理由としては、まず何よりも、強力で効能の広い抗生物質(第三世代セフェム剤)を安易に長期にわたって使用してきたこと。抗生物質乱用のため耐性菌ができてしまったのが直接的な原因である。アメリカでは抗生物質はかぎられた患者しか使えないが、日本では使い放題であり、とりわけ強力な第三世代セフェム剤は薬価が三千円前後で薬価差益が大きいこと(ちなみにペニシリンは薬価一五〇円前後)もあって乱用されることになった。●21つぎに、高度な医療機器や技術の発達のなかで、消毒・手洗い・清掃のような基本を軽視する傾向があったことも重要な要因である。
これにはさらに社会学的理由があって、これが、たとえばMRSAについての研究論文を発表している院長のいる大病院でさえ患者を院内感染で死亡させているという現況の要因になっている。富家の挙げるところによると、(1)医師が、さまざまな分野に関係する複合的現象をトータルに取りあつかうのを苦手とする専門家集団であること、(2)医師や看護婦の卒後教育のシステムが整っていないこと、(3)多忙を言い訳にして病院全体で協力して取り組めないというチームワークの悪さ、(4)おそろしいほどの施設の貧困さ、があるという。●22
この他にも、大学病院の場合、各科のセクショナリズム、臨床より論文を競う傾向、極度に細分化された専門領域、労働力としてこき使われる研修医の問題、病院長のコーディネイト力の低下などの問題が複雑に絡み、さらにこの背後に、国民皆保険による医療費の使い道に対する国民の意識の甘さ、院内感染防止への国の無策、高い薬を使って薬価差益を稼がねばならない医療費のしくみがある。その意味でMRSAは「日本のゆがんだ医療システムのなかで構造的に生まれてきたもの」なのである。●23
このような現状に対して、おそらく「もっと患者の視点を!」という要求がでてくるにちがいない。しかし、患者の視点は「しろうと考え」として医学的専門知識全体がこれまで排除してきた視点である。それを改めて要求することは、医療関係者にとってたいへん酷なことであるけれども、それ以外に根本的解決の道はありえないのである。
5-3: 三 反省のことばへ
5-3-1: 当事者の責任
臨界の兆候として述べた四点の問題は、いずれも問題の当事者にとって多少の痛みと不快感をともなうかもしれない。だれも自分を傷つけることばにはふれたくないものである。ふれたくないから放置される。あるいは「現場を知らないからいえるんだ」とか「ほっといてよ」と反批判したくなる。そうでなくても何かしら説教じみたものを感じてしまったり、あるいは逆に、それを指摘する側の傲慢さを非難したくもなる。
なぜか。答はかんたんである。これらが問題の当事者の「責任」を問うているからである。つまり、自分は一種の被害者として免責されるとさえ考えているのに、そうではなくて一種の加害者──つまり主体として責任のある人間──であったことを今さらのように突きつけるからだ。
たとえば、棄権した有権者は棄権の理由を政治の腐敗に求め、本当の責任者は政治家たちであると思っている。私語する学生たちは、劣悪な施設のなかで、教育不熱心な教員の講義を、ただ単位認定のためだけに聞かなくてはならない自分たちを、むしろ被害者と考えがちである。加害者は、学生へのサービスを怠っている大学当局と、教授技術を工夫せず単位をちらつかせることしか能のない教員たちということになる。では、企業労働者はどうか。どう見てもフェアでないことをしなければならないときが企業組織のなかではしばしば生じる。正常な市民感覚に基づいてそれを拒絶することはできない。仕事上の能力が疑われかねないし、人事考課にも大きく響くからだ。何より「会社のため」にやることなのであって、私利私欲を肥やすためではない。多少は自嘲ぎみになるかもしれないが、それでも、困難な仕事をやりとげたという誇りの方が勝るのであって(社内評価がそれをバックアップする)、よしんばそれが事件になって自分にいっさいの責任が押しつけられたとしても、「会社の犠牲になった被害者」としてふるまうことになろう。最後に医療関係者はどうか。医療現場はとにかく忙しい。医師や看護婦が懸命に働いているのはまぎれもない事実である。しかし、パターナリズム(権威ある父親が無力な子どもたちを守るように配慮してやること)の支配的な医療現場において、医療従事者とくに医師の権限は肥大しており、その責任を分担できる当事者は他にいないのである。
5-3-2: 外在的批判から内在的反省へ
すでに各項目について指摘してきたように、これらの社会的問題に見られるのは、自己反省の欠落であり、主体としての自分たちがいないという意味において一種の主体性の空洞化である。つまり各問題とも、たしかに外在的批判はあるのだが、責任ある当事者の内在的反省がないために、事態がなかなか改善されないできた。しかし、すでに論じておいたように、これらは肝心の当事者の反省が問われている問題であることが近年明確になってきたわけであり、「臨界の兆候」と呼んだのもそのためである。
外部からはよく見えることが、内部では見えない。それゆえ、外部からの批判に対して内部ではそれを不当と見なすことが多い。「現場を知らない者が何をいう」「当事者じゃないからいえるんだ」といった反応がそれである。いわゆる現場主義による反論である。しかし、現場主義は自己正当化に抵抗する反省的姿勢があってはじめて意味をもつ。なければ、たんなる利害に規定された関心にすぎない。ここに現場主義の落し穴がある。バッシングでもなく、また倫理や道徳あるいは「道義的責任」でもなく、自分自身に対する醒めた分析が必要なのだ。
たしかに「ことば」は氾濫している。しかし、わたしたちは、ほんとうに自分たちを知り自分たちを語るための「ことば」をどれだけ知っているだろうか。自分たちの日々の生活や行動がはからずも生みだしてしまうさまざまな副産物を、自分たちのものとして捉え切る「ことば」をどれだけ知っているだろうか。わたしたちの身のまわりに満ちあふれているのは、たんに「流通しやすいことば」にすぎない。わたしたちはこのことを自覚する必要があると思う。
5-3-3: 反省のことばとしての社会学へ
社会現象にニュートン力学的な客観的法則や方向性などない。そう見える現象も、つぶさに見れば、自分をふくめた人間たちの主体的選択の集積なのであり、たまたまそうなっただけで、別のあらわれ方もありうる、という意味で「偶発的な」(contingent)性格をもつ。したがって、どんな社会現象も原理的に自分たちの責任において捉えることが可能なのであって、また、そのように反省的に分析することによって、べつの(オールタナティヴな)可能性を実現する道も開ける。「反省のことば」とは、そのような可能性を開示することばである。
本書では、このような「反省のことば」の重要性と、それを提供する科学として特別の重要性をもつ社会学について論じる。いうまでもなく、社会学は「ことば」である。しかも、社会学が用意するのは「反省のことば」である。しかし、現状ではそこが同時に社会学のわかりにくさにもなっている。おそらくそれは、人びとがあまりに「権力のことば」や「消費のことば」に慣れ親しんでしまっているために、すぐ役に立つわけでない「反省のことば」の意味が実感できなくなっていることによるのだろう。それは「ことば」に対する一種の感受性の退化の結果であるかもしれない。いや、「退化」というより、現実の社会の複雑性の方がはるかにわれわれの感受性を超えてしまっているというべきかもしれない。
これから考えていきたいのは、このようなことである。