リフレクション第六章 高度反省社会への課題

11: 第六章 高度反省社会への課題
一 コミュニケーションの透明性と対称性の獲得
二 リフレクションの実践
三 社会学的な感受性
11-1: 一 コミュニケーションの透明性と対称性の獲得
11-1-1: 現代日本社会における自省
理想的コミュニケーション共同体である市民的公共圏の理念に、現代の日本社会はどこまで迫っているだろうか。あるいはその可能性はあるのだろうか。この章ではこの問題について具体的に考えてみたい。
さて、井上俊は近代の日本文化を総観的に分析した論文のなかで、文化の基本的機能として「適応」「超越」「自省」を挙げている。●1「適応」とは現実の利害関係に実用主義的にあわせていく働きであり、「超越」とは理想や理念を掲げてそれを追求する働きである。これらに対して「自省」は「みずからの妥当性や正当性を疑い、みずからそれについて検討する機能」「その文化がよしとする理想や価値をも疑い、相対化する力」のことである。●2かれはこの三つの機能的要因の拮抗として近代の日本文化を見ていくのであるが、戦後の場合「自省」がはっきり認められるのは一九七〇年前後の数年間だという。
たしかにこの時期は、六〇年代の高度経済成長の副産物として公害問題が次々に顕在化し、被害者救済運動が急速に盛り上がった時期であり、安保闘争、学園紛争、消費者運動など、既成の日本社会のあり方を問うさまざまな動きが格段に強くなった時期でもある。
しかし、その後の二〇年あまりの期間に文化の再編と安定化が進み、「適応」が強くなり、「超越」「自省」が衰弱・変質し、三者間のバランスが崩れてしまったと井上は診断する。つまり、戦後の啓蒙主義的理想主義がほとんど解体し、人びとが「きれいごと」と感じてしまうようになった。むしろ身近な利害関心に即したものごとが歓迎される状況が醸成されている。この価値意識をよくあらわしているのが「ノリ」ということばである。一般に近年の若い世代は「ノリ」にこだわり、「ノリが悪い」のを嫌う。井上は、このような「ノリの文化」について次のように述べる。「もともと、ノリとは、人が周囲の状況や他者としっくり適合し、したがって自意識や反省の作用から解放されて、のびのびと動ける状態をいう。その意味で、ノリの文化は、適応要因と結びついている一方で自省要因を排除する面をもっているともいえる。」●3もちろんこれはひとつの側面にすぎないが、さまざまな要因によって結果的に現状肯定的な傾向が強くなり、文化全体が「適応」に一元化してしまった。これが現代日本文化の状況だという。●4
井上の論文は一九八九年の時点で発表されたものだから、ここで「ノリの文化」といわれているのはほぼバブル時代の風潮をさしていると見られるわけで、ここ五年間の変容が語られていないのは当然である。リクルート事件からバブル崩壊・平成不況・リストラ・政権交代といたる近年の流れのなかで、日本文化の「自省」が一九八九年前後から顕在化しつつあるとわたしは考えている。
すでにわたしは序論で「臨界の兆候」として現代日本の「自省」の必要性を示唆しておいた。それらは「兆候」というよりもむしろ「危機」というべきだったかもしれない。ほんとうの危機とは当事者が危機と感じていないところにこそあるのだから。しかし、そこには部分的ながら自己批判や自己点検のすでにはじまった領域もあれば、たんなる萌芽にすぎない領域もある。社会には、もともと「自省」の傾向の強い社会領域もあれば、そうでない直進的発展の支配的な社会領域もあるだろうから、一刀両断の時代診断を下すわけにはいかない。この節では、それらのなかから、反省的コミュニケーションが焦点になって久しいいくつかの領域を検討して、今後の方向性を探っていくことにしよう。
11-1-2: ディスクロージャー
最初に検討したいのは「知る権利」の行使に関するさまざまな動向である。民主主義であるためには、政治的決定や経済的決定をするさいに、その影響を受ける者が有効な声をあげることができなければならない。その声をあげるには、まず何よりも「知る」ことが必要である。しかし、わたしたちが「見識ある市民」として必要な知識を手に入れようとしても、じっさいにはたいへんなコストがかかるだけでなく、まったく入手不可能なケースも多い。これを改善しなければ市民的公共圏どころではない。知識の社会的配分の偏在性を解消すること。そこで注目されるのが「ディスクロージャー」である。
「ディスクロージャー」(disclosure)は、これまで「情報公開」「情報開示」と訳されてきた。最近はたんに「開示」やこのようにカタカナ表記されることが増えてきているようだが、法律的な議論では「情報公開」「情報開示」が一般的に用いられている。ちなみにゴルバチョフが始めた「グラスノスチ」はこれを拡張したような政策だった。
ディスクロージャーがとくに問題になるのは、政治権力・行政権力・企業(経済権力)である。前二者の場合、国家と地方自治体とで事情は大きく異なる。地方自治体では一九八〇年代に急速に情報公開条例が施行されているのに対して、国の情報公開法は今だに実現していないからだ。企業の場合も相当遅れている。こちらには「企業秘密」という名分があるからだ。しかし、安全や環境など社会的責任のある分野については行政の監督下にあるわけだから、行政のディスクロージャーでかなりの部分が解明できるはずである。その意味でも、国家行政のディスクロージャーが決定的に重要である。
地方自治体から情報公開が制度化されたのには事情がある。八木敏行によると、情報公開運動が盛んになった背景には三つの動機があった。
第一に、一九六〇年代にあいついで生じた公害・環境破壊・都市問題・消費者問題などで日本各地に草の根的な市民運動・住民運動が権利救済を目的に起こり、それらが行政や企業に対して情報公開を求めるようになったこと。これが「第一の起爆剤」である。第二に、一九七二年の「外務省機密文書漏洩事件」によって「知る権利」がクローズアップされ、一九七六年のロッキード事件や一九七八年末のダグラス・グラマン事件など一連の航空機疑惑が政治や行政の密室性を問題化し、開かれた政府と情報公開が求められた。第三に、地方自治への参加の要請がある。一九七三年の石油ショック以後の経済成長優先主義への反発・脱物質主義・地方回帰・コミュニティ復権の流れのなかで「地方の時代」ブームが起こった。そこで地方の自治・参加・分権を志向する議論が活発になり、情報公開条例が次々に実現することになる。●5
このように情報公開制度はこれ自体すでに日本社会の「自省」の産物である。「見識ある市民」による運動によって主体的につくられたものだ。現在は地方自治体にとどまっているこのディスクロージャーの流れを国や企業におよぼすことが今後の課題であるが、またさらに医療現場や学校・大学など、公開性の原則をさまざまな分野に拡大適用していくことも忘れてはならない。
ところで「情報公開法」によって何がわかるのだろうか。たとえばアメリカの情報自由法(the Freedom of Information Act: FOIA)によって引きだされた開示事項の数々を分類した「フォーマー・シークレット」は以下の項目を立てている(なおカッコ内は補足説明ないし事例)。(1)消費財の安全(欠陥商品の発見)、(2)薬の安全性・政府の人間行動コントロール(食品医薬品局へ提出された製薬企業の新薬データによる危険性の発見と新薬の人体実験の公開)、(3)環境と原子力(放射性廃棄物や殺虫剤の処理状況)、(4)不正行為・浪費・政府の支出(納税者による監視)、(5)労働者と市民の権利(差別待遇の実態)、(6)ビジネス(食品薬品局などによる企業査察報告書を企業が開示請求し情報収集に利用)、(7)歴史(現代史的研究)、(8)外交と国防、(9)政治的活動への政府の介入(FBIやCIAによる諜報活動の実態)、(10)税(国税庁の活動を知る)。●6
このように行政の情報公開法(条例)によって相当の知識を社会的コミュニケーションに乗せることができるのである。八木のまとめによると、情報公開は権利救済・監視と批判・行政参加・情報利用の四つの機能を果たすという。だれもがこのようなチャンスをもっているとすれば、たとえば公害企業が企業秘密をたてに重要な情報を独占・隠蔽するといったことは無意味になる。そもそも企業が情報を独占・隠蔽するのは、被害者をふくむ当事者たち──かれらはすでに事実を少なくとも体験的に知っている──以外の第三者にそれが伝わって、企業の信頼やイメージが損なわれたり、経営に響くのを怖れるからである。それが行政サイドから流れるとすれば、独占・隠蔽の効果がないだけでなく、かえって企業イメージを損なうことになってしまう可能性さえ生まれる。
ここでひとつの理想を描くと、企業が内部情報を白書のように公開することによって社会的責任を果たし、消費者がそれを信頼性として高く評価することによって、結果的に企業のシェアを上げることになれば、日本の閉鎖的な企業文化も開放的なものに変わっていくだろう。消費者の成熟に対応して、広告戦略やイメージ戦略一辺倒の企業コミュニケーション政策を見直しする時期もそう遠くないかもしれない。けれどもしばらくは試行錯誤がつづきそうである。●7
11-1-3: マス・メディアの両義性
さて、とりあえず現時点で自発的なディスクロージャーがないとなれば、だれかが意識的に開示・公開する作業をしなければならない。ここで「知る権利の代行」が必要となる。それが厳密な意味でのジャーナリズムである。現在では、それはもっぱらマス・メディアの仕事になっているが、市民運動グループが代行することもふえている。しかし社会的に大きな影響をおよぼすとなれば、何らかの形でマス・メディアが関与しなければならない。
すでに述べたように、現代人のコミュニケーションは「メディアを媒介にした相互作用」になっているため、コミュニケーションが当事者たち(送り手であろうと受け手であろうと)の意図をこえてメディアの自律性によって左右される。つまりメディア自体のさまざまな事情によってコミュニケーションが大きく変容してしまうのである。とりわけマス・コミュニケーションは技術的な要素だけでなく、市場原理や経営方針といった経済的要素や、政府の許認可や行政指導などの政治的要素が濃厚にコミュニケーション内容を規定し、またそこで働く人たちの意識や知識のありようにも大きく左右される。
現在のマス・メディアの抱えるもっとも根本的な内部事情は「総合情報産業化」である。社会が複雑化してジャーナリズムの機能強化がますます必要になっているにもかかわらず、マス・メディアの総合情報産業化によって、ジャーナリズムは慢性的な危機状態が続いている。●8
「ジャーナリズム」と「総合情報産業」のどこがちがうかといえば、前者が権力をもつ側──政治権力であれ経済権力であれ専門家の権力であれ──に対するチェック機能を主軸とするのに対して、後者は「経済的価値を生む情報」を売るわけだから結果的に権力をもつ側によって発表された情報を市場に供給することになる。前者が権力作用に抵抗するコミュニケーションだとすると、後者は権力作用に内在するコミュニケーションであり、ディスコミュニケーションの再生産になりがちである。そしてマス・メディアにおける総合情報産業化の傾向とジャーナリズムの衰退は、「権力のことば」「消費のことば」の過剰な流通をもたらすことになる。
このような送り手の事情がある一方で、ジャーナリズムそのものに対する受け手側の不信も募っている。誤報・やらせ・センセーショナリズム・集中豪雨的取材・マンネリ・難解……。これらの不信は、ともすればPTA的な「俗悪」マスコミ批判・自民党関係者やタカ派文化人の「偏向報道」批判・「法律で取り締まれ」という「お上意識」の強い庶民による強権発動待望論などを誘発する。今日ジャーナリズム批判をすることのむずかしさはここにある。
しかし、一九八〇年代末あたりからテレビにおいてニュース戦争が過熱し、現在に至っている。これまでテレビ局において「ニュースは金食い虫だ」との声が常識だったのが、テレビ朝日の「ニュース・ステーション」の成功をきっかけに、ここにきて市場原理が働くようになったのである。なぜかというと、多くの受け手が支持するようになったからである。支持が多ければ視聴率も上がりスポンサーもつく。この受け手の支持こそ日本社会の「自省」のあらわれと見ることができる。その意味で、政界のドンの逮捕、建設業界の談合や政界工作の摘発、政権交代といった一連の転換劇はこのニュース戦争と一体のものである。●9
しかし一方でこれさえもテレビ朝日の椿報道局長の証人喚問に見られるように、政治権力による露骨な圧力が加えられる。送り手も受け手もマス・メディアの両義性(相反する特質を同時にもつこと)をしっかり認識することが必要だ。その上でリフレクションを活性化させるようなコミュニケーション制度の構築をめざすべきであろう。
11-1-4: 専門家支配とインフォームド・コンセント
「コミュニケーション」というとマス・メディアの話、「知る権利」というと法律の話、「民主主義」というと政治の話と決めつけないでほしい。これらが絡む現場はわたしたちの社会のじつにさまざまな領域に広がっている。その一例として医療現場を検証してみよう。
まず医療現場の人間関係を極度に単純化して、医者と患者の関係にしぼって考えたい。サスとホランダーの有名なモデル化によると、医者(あるいは治療者)と患者の関係には三つのタイプがありうる。まず第一に「能動−受動の関係」(activity-passivity)あるいは「親−幼児モデル」。これは重傷・大出血・昏睡などによって患者が自分で何もできない状態にあるとき、医者が患者の「最善の利益」を考えて処置するさいの関係である。第二に「指導−協力の関係」(guidance-cooperation)あるいは「親−年長児モデル」。患者が、何がおこっているかを自分でもよく知っており、医師の指示にしたがう能力も、ある程度の判断を下す能力ももっていて、病気をなおすために積極的に医者に協力できる段階の関係である。第三に「相互参加」(mutual participation)の関係あるいは「成人−成人モデル」。糖尿病や高血圧などの慢性疾患に妥当するタイプ。この場合、患者自身が治療プログラムを実行するわけで、医師は相談にのることによって患者の自助活動を支援するだけである。●10
第一と第二のタイプは程度の差こそあれ基本的にパターナリズムに基づいている。もともとパターナリズム(paternalism)とは、一家の主である父親(あるいはこれに類する成人男性)が責任をもって家族のめんどうを温情的にみることに由来するが、その分、父親は家族に対して絶対的権威をもって臨み、ひとりひとりの自由や意志を尊重しない。一種の押しつけ的干渉である。
第一と第二のタイプは医者がこうしたパターナリズムを患者に対しておこなうケースである。したがってそこに患者の自律──あるいは自主性といってもいい──は認められていない。患者は治療者のいうなりにしなければならない。なぜか。治療者は専門的な知識と技術をもっているからである。しかも、かれらは患者のために必ず最善をつくすということになっている。親が子どものために最善のことをしてくれるのと同じように。つまり、この前提には「専門家は自分たちにとってもっともよい対策を知っていて、かならずクライアントの利益のためにそれを代行してくれる」という常識的知識が存在する。患者の自発的服従の前提には、このような一種の「信頼」がある。ところが、その委任によって患者の自律性(自分のことを自分で決めること)は失われてしまいがちである。医者の裁量権の名の下に、患者の望まない治療が承諾なしにおこなわれたり、治療を受けている患者が自身の身体に生じている事態を知ることができないといったことが生じる。この傾向は日本の場合とくに顕著である。患者は何も主張せず、医者は患者に主張されるのを極端に嫌う。
このような状況を社会学では「専門家支配」(professional dominance)と名づけている。●11わたしたちの社会では特定の分野について専門的な知識と技術をもつ人びとが実質的なイニシアティブをもっている。それに対して、しろうとは口だしできないのがふつうである。それはある人びとの自律性のために他の人びとの自律性が犠牲になるという不均衡な状況の典型であり、それゆえ権力作用の有力事例となりえる。
これに対して近年「患者の権利」を求める運動が盛んになり、その有力な方法原理として「インフォームド・コンセント」が注目されている。●12「インフォームド・コンセント」(informed consent)は、以前は「説明と同意」と訳されたが、最近は「よく知らされた上での同意」と訳される。要するに、医者から治療に関する説明を受けた上で、患者がそれをよく理解し、そののちに同意するという手続きのことである。その基本原理は「リスクを伴ったり、別の方法があったり、または成功率が低いような治療や処置について患者に同意を求めるにあたっては、あらかじめ、しかるべき情報を提供しなければならない」というものである。●13この場合の「同意」は「判断能力のある人が、自発的に、情報と理解にもとづいて行なうものでなければならない。」●14つまり患者に完全な成人性が前提され、しかも「コミュニケーション合理的」な討議が十分になされていることを要請しているのである。
インフォームド・コンセントは「見識ある市民」「自省的市民」を医療現場に持ち込むことを意味する。知識に関して「医者は専門家・患者はしろうと」の図式をはみだして、患者が自律した事情通・ジャーナリスト的存在として行為すること、そして対等の医者─患者関係(成人─成人モデル)をつくりだすこと、診療室をコミュニケーション共同体にすること、病院を市民的公共圏にすること──それが「インフォームド・コンセント」が前提としている思想なのである。●15
序論において「臨界の兆候」として取り上げた院内感染の問題に立ち返ると、夫を亡くした妻が「自省的市民」として医療現場で常識とされている知識と行為を問い直すことによって、医療にリフレクションを吹き込むことになった。それは一見「反医療」に見えるけれども、じっさいにはむしろ医療に主体的に参加していこうとする自発的な意志のあらわれなのである。また、第三章で紹介したように、スモン事件の被害者が裁判闘争の目標に「薬害根絶」を掲げ、確認書和解という特異な結末を引きだしたのも、「見識ある市民」「自省的市民」としての行為といえるだろう。
結局、インフォームド・コンセントとは、劣位の立場に置かれている側に成人性を認めて、非対称的なコミュニケーションに対称性を取り戻す試みである。その意味では、わたしはインフォームド・コンセントを拡大解釈したい誘惑に駆られる。たとえば教育関係者。もちろん大学教員も例外ではない。医療と同じことが教育にもいえるのではないか。どちらも専門家支配の確立した世界だからである。とくに成人を対象とする大学教育においては、単位評価認定基準を公開することからすべては始まるのではないか。「単位評価は学問そのものにくらべれば二次的なもの」として軽視し、そればかりを気にする今どきの学生を嘆きながらも、じっさいには単位評価をブラックボックス化することで一種の権力源泉として効果的に利用している教員のあり方は、このさい問い直されてよいのではあるまいか。そして医療において患者の成熟(成人化)が重要なカギをにぎっているように、依存体質の強い学生の成熟も重要であろう。
11-2: 二 リフレクションの実践
11-2-1: 新しい社会運動
民主主義においては、そこでなされた決定に対してその影響を受ける者が有効な声をあげることができなければならない。しかし、権力作用によって、現実の社会的空間においてコミュニケーションは歪められてしまっている。このディスコミュニケーション状況の大海のなかに市民的公共圏を構築しなければならない。そう考える人たちがいて、そうせざるをえない状況に追い込まれた人たちがいて、排除された〈声〉を重点的に拾い上げ、有効に社会的コミュニケーションに組み込む実践によって、コミュニケーションに対称性をもたらし、積極的かつ能動的に社会の改訂に参加しようとする行為が存在する。それが「新しい社会運動」である。
「新しい社会運動」は一九六〇年代後半以降に先進諸国に出現したさまざまな社会運動に対してフランスの社会学者アラン・トゥレーヌが与えた総称である。●16差別撤廃運動・フェミニズム運動・環境保護運動・地域的課題についての住民運動・反核運動・消費者運動・患者運動・公害被害者救済運動・反原発運動・同性愛運動・平和運動・えん罪被害者救済運動・報道被害者救済運動・少数民族運動・地域分権運動・反精神医学運動・非学校的教育実践運動・コミューン運動・ゴルフ場開発阻止運動・嫌煙運動・有機農法運動・子どもの人権運動など、それはあらゆる問題圏におよんでいる。これらを一括して捉えることはほとんど不可能といってよいが、しかし、これらにはある程度の共通点があり、またそこにこそ時間的な新しさだけでなく構造的な新しさがある。では、その何が新しいのか。●17
それは第一に、ライフスタイルの自己決定権を要求することにある。かんたんにいえば「自分の生き方は自分で決める」という明確な態度がそこには存在する。社会運動はこのポジティヴな価値観の実践としておこなわれる。かつての労働運動を中心とする社会運動の眼目はもっぱら富の配分に関わるものだった。ところが「新しい社会運動」はむしろ生き方つまりライフスタイルを問うのである。たとえば、主題になっているのは、豊かな自然環境・生活スタイル・性的アイデンティティ・自己実現・参加・民主的権利・平和といった脱物質的な価値と要求である。産業社会すなわち国家と経済のシステムを貫く「物質的な貧困からの脱出」という価値に対して「エコロジカルな貧困と日常生活における意味と間主観性の貧困からの解放」がそこではめざされるのである。●18いわば「生活の質」に向けられている「新しい社会運動」のこのような特性について、ハバーマスは巧みに「制度化された富の分配をめぐる抗争」ではなく「生活形式の文法の問題」が焦点になっていると括っている。●19たとえばフェミニズム運動の場合は社会に遍在している男性中心の生活形式(ライフスタイル)を変えることに大きな目標がある。
第二に、性・人種・民族・世代・障害などの属性によって差別や格差が生じることへの異議申し立てと平等要求が中心になった運動が多いということ。つまり属性をめぐる闘争が重要な位置を占めている。その属性は、社会のなかで不当に否定的にあつかわれている属性であり、産業社会の中核的システム(国家・政党・大企業・労働組合)から排除された属性である。それゆえ属性的要因によって生活が左右されやすい人たちが担い手になっているし、既成の労働運動ではまったく話にならないのである。しばしばアイデンティティ追求の運動の色彩を帯びるこの種の社会運動は、結果的に、異議申し立て活動を正当化し、排除された〈声〉の復権をめざすコミュニケーションの実践になっている。それ自体が、理想的なコミュニケーション共同体を構築する有効な実践なのである。それは、社会全体の学習能力を高める機能を担い、社会のリフレクションの触媒の機能を果たす。
第三に、「新しい社会運動」はネットワーキングなどの運動形態をとることが多い。つまり、組織原理の優先した抑圧的な運動ではなく、自律的個人を優先する運動形態をとる。これは、参加者を数でしか捉えない結集中心の運動方式への反発も背景にあるが、重要なのはむしろ個人の自律性・自発性・能動性の尊重である。大文字の大義ではなく、個人の生活が主題であるから、当然といえば当然である。となると、運動の内部におけるコミュニケーションも、従来の運動組織に見られたトップダウン式の一方向的なものではすまなくなる。運動体内部自体がひとつの市民的公共圏であることを要請される。●20
このように「新しい社会運動」は、社会に自省をもたらすコミュニケーションの実践である。もちろんすべての運動を美化するつもりはないが、少なくとも以上のような潜在的な力をもっているのである。
11-2-2:
「受苦忘却」型から「受苦覚醒」型へ
個々の社会運動がテーマ化する社会問題は、その多くが高度に複雑化した巨大な事象である。それは事象の内部にいる者にとっても、外部にいる者にとっても、不透明な現実である。それは反省的なコミュニケーションを困難にする。この複雑化した社会問題をより反省的にする方向性はないものだろうか。
ここでも受苦圏と受益圏の対概念が有効である。梶田孝道によると、一九六〇年代の高度経済成長以後の現代日本における開発問題は「漸進的グロテスク化」したという。狭い国土のなかで、日増しに高まる電力需要・交通需要・石油需要・水需要・ゴミ処理需要に対処するために、スケール・メリットを追求しシステムを拡大する方向で開発事業がおこなわれたために、施設はますます巨大化し、施設の周辺住民にとってはグロテスクなものと化していった。大規模化した開発事業では受苦はごくかぎられた地域に集中し、受益は全国的規模に拡散する。●21
そして梶田は次のようにいう。「受益圏の拡大と受苦圏の局地化」という状況下では、受苦圏の人びとは放置され、開発主体であるテクノクラートはこの受苦を回収せず、受益圏の人びとの欲求の増大に追従し、受益圏の人びとは自分たちの欲求充足の行為の集積が受苦圏を発生させている事実を忘却し無感覚・無責任となる。紛争当事者として登場するのはテクノクラートだが、かれらが代弁している当の受益者が自分のことと気づかない。とりわけ大都市の新中間層居住地域はまさに「多種類の受益圏の集積したもの」「各受益の享受にともない受苦を外部へと放置してきた存在」なのである。●22それゆえ梶田はこのような状態を生みだす開発を「受苦忘却型」かつ「受苦放置型」と指摘する。受苦圏から空間的にも社会的にも遠く離れた受益圏の人びとにおける「欲求の無限増大」と「共通問題の共同処理への無関心」が、問題の解決をむずかしくしている最大の要因である。
それに対して小規模開発の場合は受益圏と受苦圏が重なる。その場合は地域住民に問題が十分自覚されやすくなる。当然、葛藤はあるが、それによって受苦の回避ないし補償の努力が払われやすくなる。梶田はこのような開発を「受苦覚醒型」かつ「受苦回収型」であるとする。そして「日常生活の知覚レヴェルにおいて『受苦忘却』的であるか『受苦覚醒』的であるかという点での相違が、問題解決のうえで大きな意味をもっている」と梶田は強調する。●23かれがここで語っているのはもっぱら開発問題についてだが、同じような構造が社会問題全般にも観察できると思う。
つまり人びとが「受苦覚醒」的なリフレクションをおこなうには一定の適正規模があるのではないか。すなわち、不可視性を高める巨大なシステムを「受苦忘却」型から「受苦覚醒」型へ転換するにはシステムの縮小が必要ではないかということである。おそらく地方分権化の議論はこの文脈に位置づけ可能である。「受苦覚醒」型になれば、おそらく地域紛争はふえるにちがいないけれども、「相互了解」つまり「合意」という理想へ向けた反省的コミュニケーションを活性化させやすくなることはまちがいない。
11-2-3: 環境問題と生活環境主義
近年急速に問題化し、常識的知識としても定着しつつあるものに環境問題がある。環境問題が問題化すること自体は、「見識ある市民」の成熟と、社会のリフレクションのひとつのあらわれにはちがいない。しかし、環境問題に対するスタンスのとり方にまったく問題がないかといえば、そうともいえない。その一例を見てみたい。
琵琶湖のフィールドワークに携わった鳥越皓之たちの研究グループは、環境の改変に対する態度をおおよそ三つに整理できるとしている。●24
第一に近代技術主義。たとえば、大雨が降ると増水して集落を水浸しにしてしまう川と湿地帯に対して、住民を洪水から守るために、川を直線化し、三面コンクリート張りにする、さらに車道を広げるために暗渠にするといった発想がそれである。この立場によると、たとえば水源地の水は「資源」と捉えられる。資源とは「利用・開発されるべき自然」のことに他ならない。●25
第二に自然環境主義。自然保護運動はこれに立つ。人の手が加わらない自然がもっとも望ましいとする立場である。先ほどの例の場合では、湿地帯のアシ群生を守り、川のコンクリート化による生態系の破壊を拒否することになる。
日本の場合、行政当局による巨大開発は近代技術主義に立つことが多い。また環境問題に関わる研究者やプロジェクト担当者も、そのほとんどが自然科学畑の人たちであるため、近代技術主義と自然環境主義がそれぞれ力をもち鋭く対立してきた。近代技術主義は「住民を守る」といいながら、開発によってその生活を破壊することがしばしば見られる。それに対して自然環境主義は今日のエコロジー・ブームのなかで多くの支持をえてきている。都市型マス・メディアもまた、自然へのノスタルジーから安直に自然環境主義に立つことが多い。この立場は一見「正義の味方」的なニュアンスでもって受け取られたり表明されたりするけれども、ともすれば「自然科学博物館構想」に陥りがちで、そこに居住する人びとの生活のことを無視してしまう傾向をもつ。たとえば琵琶湖の湖岸堤工事によってヨシ原がなくなるとき、地元住民に「琵琶湖の自然が破壊される」との危機感はなく、むしろ「今じゃだれも使い手がなく、ゴミばかりがひっかかっている。ヨシを守れというなら、言うもんがちゃんと手入れをしてくれ」●26と感じている。このように自然環境主義は生活現場から遠い地点にいるからこそ可能な論理でもある。
そこで鳥越は第三の立場として生活環境主義を提唱する。生活環境主義はその地域社会に生活する居住者の立場に立つ。生活の必要に応じて自然環境の「破壊」も認める。先ほどの川の例では、雨水の浸透や鮎の産卵場所の確保のために川底をそのままにして両岸だけをコンクリート化するという選択をすることになる。この立場は、あるときは自然を破壊し、あるときは大規模開発を拒否する点で、前二者に対して独自である。
鳥越たちによる生活環境主義の選択は、琵琶湖という具体的フィールドのなかで模索されたものであるだけに、他の二者の選択よりも相当現実的であり、それゆえ非常に複雑なプロセスへの関与を強いるものといえる。というのは、近代技術主義の発想だと、人間につごうの悪い自然は変えてしまえばいいということになるし、全体の利益のために必要な場合には、そこに住んでいる人間にも変わってもらう──生活様式を変えてもらうか、どこかに移転してもらう──という一貫した態度で済む。要はコストの問題である。一方、自然環境主義の場合は、そこで生活していないのだからもともと無責任なものである。それゆえ住民の生活上の不便さや災害による苦しみは二次的なものと決めつけることができる。「ありのままの自然」こそが第一に配慮しなければならないことだ、と。しかし、生活する人びととその人たちをつつみ込む社会的なプロセスを極端に単純化している点で、いずれも反省的とはいえないとわたしは思う。
いずれにせよ、わたしたちは環境問題を考えるとき、知らず知らずのうちに自然科学的発想に立ってしまっている。たしかにこのこと自体にはそれなりの有効性はある。近代技術主義ののいうように工学的技術を駆使して準備しておけば将来の大災害から人命を救うことができるし、自然環境主義のいうように人の手の加わらない自然の自己完結的な摂理に畏敬の念をもつこともできる。しかし、そのときわたしたちは具体的な社会生活の複雑性をすっかり忘れてしまっているのではないか。そこに生活している人びとと自分の生活とその他大勢の人びとの生活の連関性を。
生活環境主義から見えてくるのは、この複雑な社会的連関性である。古くからの住民の地域環境に関する知識、人びとの道徳、環境史、「言い分」をめぐるダイナミックな意思決定のプロセス、汚染のメタファー、語られることば、集団形成、突如始まる合意、そして住民の自己反省……。環境問題が「問題」であるのは、じつはこちらの方であり、それを無視してはリフレクションの実践たりえないのである。
11-2-4: 政治的社会化と社会科学教育
日本人の場合、市民的公共圏の話はほとんど異文化であるといっていいかもしれない。たとえばジャーナリズム論の原寿雄は、日本には「国家的公共性」しか存在しなかったとし「市民的公共性」への転換が必要だと述べている。●27なるほど日本人はあらゆる議論を「ホンネとタテマエ」図式に押し込めてしまう。「あるべき」論がからむと「そんなのタテマエにすぎない」でおしまいである。このような捉え方は、公共性が「お上」に代表されていた「国家的公共性」に長年慣らされてきたせいかもしれない。ごく大ざっぱにいうと、日本には市民的公共圏のような言論空間が存在しなかったのである。
市民的公共圏の活性化は、参加者のコミュニケーション能力に依存する。この能力は生涯を通しての社会化によってたえず更新されている必要がある。「いま、ここ」についての事実に習熟した「見識ある市民」「自律的市民」でありつづけることが不可欠である。その人たちのコミュニケーションの実践が市民的公共圏を活性化させ、「反省する社会」の重要な担い手となる。そしてそのコミュニケーションの実践のなかから次の世代の「見識ある市民」の社会化が可能になる。第一に個人としての「見識ある市民」「自律的市民」、第二に関係・行為としての「コミュニケーション」、第三に場としての「公共圏」「反省する社会」──この三者は相互依存の関係にあるわけである。したがって、制度の成熟も必要だが、主体の成熟も必要なのである。しかし、以上のような理由から、日本においてこのような社会化は必ずしも達成されていない。
このような社会化を既成の社会学用語で正確にあらわすと「政治的社会化」(political socialization)という。市民的公共圏と連動する政治的社会化を構想すると、重要な内容は社会科学とジャーナリズムであり、重要なエージェント(担い手)は学校とマス・メディアである。●28
小中高校教育における社会科学教育は、児童生徒の成人性をあらかじめ期待できないという限界があるにしても、たいへん貧弱である。教科書を見るかぎり、たとえば「公民」それ自体は社会科学入門というより法律制度と経済制度の学習にとどまり、ニュースの視聴にさえ役に立たない。「現代社会」も同様である。現場の教員の力量と努力に依存するところが非常に多いのが現状である。とくに社会学教育は非常に立ち遅れている。それはたとえば数学教育や文学教育などと比較してみるとき歴然としている。
さて、大学教育・専門学校教育になってはじめて本格的な社会科学が登場するわけであるが、社会科学の専攻学部でない場合は、事情はあまり変わらない。それは一般教育科目として、しばしば大教室でおこなわれ、しかも「初歩」だからということで基礎概念や学説史に終始しがちである。社会科学においては理論的討議が重要な意味をもつにもかかわらず、二百人以上の大教室では事実上不可能である。近年注目されている新聞利用教育(NIE)もレポート形式にするしかないだろう。この傾向は大学設置基準の「大綱化」の影響で、専門重視の方針と対をなしてますます強化されている。こうして、専門職やテクノクラートや企業管理職として社会の「システム」の担い手になるかれらが「見識ある市民」「自省的市民」として自己定立するイニシャル・ステップは往々にして失敗してしまうのである。
さらに成人教育を考えてみると、さらに希望をもてなくなるが、現代日本の場合はマス・メディアが事実上、成人の社会化機能を引き受けているといってよく、ジャーナリズムのなかに社会科学が導入されることが社会のリフレクションを高める上でたいへん重要である。これは第一にジャーナリスト教育(とくに中堅の再教育)に社会科学を取り入れること、第二に個々の問題に関して社会科学者の協力をえることである。
ところでカレル・ヴァン・ウォルフレンが『日本/権力構造の謎』の「儀礼とおどし」の章の「みんなと一緒の儀式」の項に──この位置づけが重要なのだが──次のような一節がある。「学者の間でさえ、慣習にしたがうことが真理の探究に徹するよりも重要とされる。そこで、自尊心の高い日本の学者は、最近の政治動向や時事問題を取り上げようとせず、ジャーナリストにまかせる。このような問題は雑談の領域に属するものと考えているようである。」●29ジャーナリストとの協力関係がマス・メディアを媒介とするコミュニケーションに反省性を高めるにもかかわらず、社会科学者にこうした傾向があったことは事実である。しかし、この傾向は世代交代とともに近年大きく変わりつつあることもたしかで、とくに若手の政治学者の活動が注目される。
ここでひとつの例を提出しておきたい。一九九三年に生じたテレビ朝日報道局長の証人喚問事件である。問題となった発言については、ジャーナリズムに携わっている者自身が自分たちの行為を反省的に捉え損なっていることを浮き彫りにしており、しかもその発言を問題化した産経新聞の伝え方にも問題がある。けれどもここで取り上げたいのはその後の議論である。国会やメディア上の議論において大前提とされていたのは「マス・メディアの影響力は絶大である」ということだった。「だから偏向報道は問題だ」ということになるし「だからジャーナリストは襟を正すべきだ」ということになる。しかし、すでに述べたように、メディアの影響力についてはさまざまな説があり、しかも単純ではない。名指しされた「ニュース・ステーション」にしても、力を入れていた「選挙に行こう」キャンペーンはむしろ史上最低の投票率という事実によって、むしろ無力さをこそさらしていたのではなかったか。また、一般企業とちがって放送局は個人やチームの自律性が格段に高いという独特の組織文化をもつことについて考察が薄いのも気にかかることである。つまり、報道局長の意図によって政権交代したかどうかは慎重な経験科学的分析にゆだねられるべきことで、科学的検証に耐えられないことを前提に議論するのはきわめて危険である。こういうときこそ「社会科学的ジャーナリズム」●30が必要なのである。
そもそも視聴者や読者は、ステレオタイプなコメントのくりかえしを望んでいるのではない。「ほんとうにそういえるのか」を知りたいのである。リフレクションの要求が潜在的に存在したはずだ。「潜在的」と書いたのは、この場合、アナウンス効果について科学的な研究が存在すること自体が一般に知られていないからである。多少の難解さをいとわず、ジャーナリズムはもっと社会科学を「引用」すべきではないかと思う。
さらにわたし自身は「ジャーナリズムの社会学化」「社会学的ジャーナリズム」を主張したい。けれども、ここはそれを主題に展開できる場所ではないので、一点だけ理由を指摘しておきたい。それは社会学だけが「総合的認識」をもともとめざした社会科学であるということだ。現状の社会学はフィールドによる専門分化が著しいが、それでも「総合的認識」を放棄したわけではない。たとえば社会科学や哲学・言語学に通暁したハバーマスは「社会学は社会科学的学問のなかでただ一つだけ、社会全体の問題に関係をもち続けてきた。社会学は、つねに社会の理論でもあるのだ」と述べている。●31現代社会に生じるできごとは、もはや単一の要因によって生じるのではない。非常に複合的な現象である。しかも全体社会の文脈を考慮しないかぎり、ひとつの現象や事件を分析できなくなっている。その意味で社会学の有効性はますます高くなっていると思う。
すでに述べたように、日本には、私人たちが集合し国家に対抗する市民的公共圏はほとんどなかったといってよい。たしかにそれは戦後少しずつ成長はしてきたが、日本社会の指導原理にはなっていない。したがって、これまで論じてきたような理念を内に秘めた社会学に接することは、多くの日本人にとっては一種の異文化体験であり、それはときには「地理的移動を伴わない『カルチャー・ショック』」を引き起こすこともありうる異文化間コミュニケーションである。●32しかし、それだけに社会学はこれからの日本社会に必要な〈リフレクションの実践〉なのである。
11-2-5: 高度反省社会はいかにして可能か
社会の反省性もしくは自省性を高めるには、これから何が必要だろうか。市民的公共圏と呼べるものを構築し定着させるにはどのような条件と努力が必要だろうか。この章ではこの問題について考えてきた。もちろん結論を下すには遠いまでも、これまでの議論から導かれるさしあたりの方向性をまとめておきたい。
まず第一に、知識の社会的配分の偏在性の解消。知識はそれが大きな影響力をもつほど独占されがちである。一般的に知識は政治権力や経済権力の方に偏って配分されている。具体的にはテクノクラートや専門家や利害関係者に偏っている。これを均等かつ公正に再配分するしくみが必要である。第二に、リフレクションを活性化させるようなコミュニケーション制度の構築。情報産業の巨大化が必ずしもコミュニケーションの反省作用を活性化することにならないことは、すでに「権力のことば」「消費のことば」として示唆しておいた。個人ひとりひとりが「見識ある市民」の資格においてリフレクションを発動できるようなコミュニケーション環境が必要である。第三に、異議申し立て活動の正当化。排除された〈声〉をとくに重点的に拾い上げ、有効に社会的コミュニケーションに組み込む実践が必要である。それによって、歪められたコミュニケーションに対称性を確保することができる。第四に、生涯を通しての社会科学教育の充実。市民的公共圏の活性化は、参加者の反省的なコミュニケーション能力に依存する。この能力は生涯を通しての社会化によってたえず更新されている必要がある。ここでもマス・メディアの役割は大きい。
さて、以上の四点をひとつの包括的概念に括ってみよう。わたしはそれを「ジャーナリズム化」もしくは「ジャーナリズムの拡張」と括りたいと思う。社会学に「ジャーナリズム」概念を持ち込むことのリスクは承知しているが、やはりこれは「ジャーナリズム」でなければならない。ふつう「ジャーナリズム」ということばはマス・メディアの報道活動の意味で使われるが、もともとは「あるべき」理念的な活動をさしている。「それがジャーナリズムといえるのか!」「そんなものジャーナリズムじゃない!」などというときの「ジャーナリズム」はそのような規範的理念である。では「どうあるべき」なのか。ジャーナリズム論の新井直之によると「ジャーナリズムとは、いま伝えなければならないことを、いま、伝え、いま言わなければならないことを、いま、言う行為、である。『伝える』とは、いわば報道の活動であり、『言う』とは、論評の活動である。それだけが、おそらくジャーナリズムのほとんど唯一の責務である。」●33ここで強調されているのは「いま」である。「あとでゆっくりと」ではない、「いま」である。ここにこそ「ジャーナリズム」でなければならない理由がある。
コミュニケーションは送り手だけの独占物ではないから、「言う」「伝える」に「知る」「聞く」「見る」「読む」「考える」をつけ加えよう。プロのジャーナリストたちも「言う」「伝える」の前にすさまじい勢いで「知る」「聞く」「見る」「読む」「考える」を実行しているわけだから、じっさいこれらは一体のものである。わたしたちはマス・メディアに対しては受け手ではあるが、その能動的な利用において潜在的にジャーナリスト的存在なのである。戸坂潤は戦前に「元来から云うと、一切の人間が、その人間的資格に於てジャーナリストでなくてはならぬ。人間が社会的動物だということは、この意味に於ては、人間がジャーナリスト的存在だということである。」●34と述べているが、その通りだと思う。
「見識ある市民」「自省的市民」がたえずジャーナリスト的存在であろうとして、それぞれの社会的位置に即したさまざまなコミュニケーションの実践──知る・聞く・見る・考える・言う・伝える──をしていくことによって、社会の「自省」が活発に作動する。そして「社会は諸個人の自省的行為を媒介としてみずからの構造を変えていくのである。」●35このようなプロセスを「高度反省社会」と呼ぶことは可能だろう。わたしたちにとって必要なのは、送り手中心の「高度情報社会」ではなく、市民の透明な自己理解を可能にする「高度反省社会」の方ではないだろうか。
11-3: 三 社会学的な感受性
11-3-1: 異世界としての日常生活へ
第二章から第六章までの各章でわたしたちは次のことを確認してきた。第二章では、わたしたち自身が社会形成の主体(担い手)であること。この単純な事実が、複雑に機能分化した現代社会では見えにくいこと。第三章では、自分たちが知識過程の主体であること。社会形成における知識の重要性を見てきた。第四章では、自分たちが権力作用の主体(共犯者)でもあること。ときには大量排除現象を引き起こす権力作用は、歪められたコミュニケーションによってわたしたちの知識が的確に現実を捉えていないことと一体のことである。第五章では、自分たちのコミュニケーションが理想を内蔵していること。近代人としてのわたしたちはそれをあまり意識せずに頼りにしていること。第六章では、自分たちが市民的公共圏の理念の主体でありうること。これらのことを確認してきた。わたしはその確認作業そのものもふくめた、このようなポリフォニック(多声的)で重層的なプロセスに対して「リフレクション」ということばを当てて語ってきた。社会学とは、現代社会の複雑性に潜むこのような事実を自分のこととして理解するリフレクションの実践なのである。
すでに述べたように、学校教育にせよマス・メディアにせよ、総じて日本社会は社会学を文化装置として十分に組み込んでいないので、本書で論じてきたことに違和感を感じる場合が多いかもしれない。逆に社会学的世界になじんでくると、今度は日常生活において体験するあれやこれやが不自然でぎこちない世界として見えてくるはずだ。危機・できごと・事故・極端な事例・病理的事例・とるにたらないこと、不測の事態・統計的に少数のものとして退けられていたもの・構造やシステムを混乱させるものが、きわめて重要な現象として感じられるようになる。●36こうして日常世界は異世界として再発見される。
このような感じ方の変化を劇作家ヘルベルト・ブレヒトは「異化」(Verfremdung)と呼んでいた。かれによると「異化」とは「まずその出来事ないしは性格から当然なもの、既知のもの、明白なものを取り去って、それに対する驚きや好奇心をつくりだすことである。」●37社会学的反省は多かれ少なかれ「異化」を伴うのである。
11-3-2: 社会学的な感受性とは何か
日常世界を反省的に異化する知的な力を「社会学的な感受性」と呼ぶことにしよう。わたしの前著のタイトルになっている「社会学感覚」はこの「社会学的な感受性」の短縮形である。「社会学的な感受性」とは、本書のこれまでの議論に即して定義すると「社会を反省的にする実践を誘発する高度なコミュニケーション能力」ということになる。
ここでまず注意していただきたいのは、「感受性」とか「感覚」ということばを使っているからといって、一九八〇年代日本の成熟消費社会において流行した「感性」なるものとはまったくベクトルが異なることである。当時の「感性」の使い方には、たぶんに反主知主義の傾向があった。それは「理屈抜きに感じる」ことであって、実質的には「消費のことば」へのエポケー(判断停止)的適応要求を意味していた。「社会学的な感受性」はこのような反主知主義に与するものではない。むしろ主知主義に属している。それは「反省のことば」によるコミュニケーションの能力に根拠をもつ明確に知性的な能力である。ただ「鋭敏に感じること」「いちはやく気づくこと」「センシティヴになること」という意味で「感受性」なのである。直感ではない。生活者としての直感ではもはや読み解けない社会的現実があまりに多くなっている。そうではなくて、透明な自己理解を可能にする社会学的知識に裏打ちされた「見識ある市民」「自省的市民」の感度が問われているのだ。
では何に対して感受するのか。権力作用に対して、自分の行為の帰結に対して、他者の言動に対して、そして、あるかもしれない別の可能性に対して……。つまり「社会学的な感受性」とは、自分を権力作用の媒体にしてしまうのでなく、不透明な自己理解を超越する反省的な能力であり、自らの行動を理性的に監視する能力であり、他者とのコミュニケーションに敏感に反応して能動的に合意をつくりだそうとする意思と能力であり、そしてシビアな歴史的現実的条件の認識から「別の可能性」を構想する想像力である。
「社会学的な感受性」「社会学感覚」に対して社会学はさまざまな貢献をすることができる。その第一の仕事は概念化することである。ことばを手がかりに、わたしたちは自分と社会的現実とのかかわりを感受できるのだから。ハーバート・ブルーマーのことばを借りれば、結局、社会学で使われている概念は「本質的にはものごとを感受するための道具」●38なのである。かれはこれを「定義的な概念」(definitive concept)に対して「感受概念」(sensitizing concept)と呼ぶ。感受概念は、概念の抽象的な枠組みのなかに実例を埋め込むのではなく、概念から出発して、実例の現実的な個別性に至るために使われる。●39つまり、具体的現実を感受するための概念なのである。
この考え方はウェーバーの理念型ともよく似ている。「発見的意義」を第一義としたウェーバーは具体的な歴史研究から理念型を構成し、理念型とのずれからさらに具体性へ迫っていく道をとった。その意味ではブルーマーの感受概念は古典的な考え方である。ウォルター・リップマンが簡潔に述べているように、結局、わたしたちは文化的に定義されたものしか見ないのだ。●40だからこの文化的定義を異化して「反省のことば」を感受概念として現実の具体に迫っていかなければならない。
社会学の目的は、感受概念を駆使して社会的現実を経験的に研究してえられた反省的知識──すなわち「反省のことば」──を積極的に公開することによって、人びとの社会学的感受性を高めることにある。社会学は、社会学的感受性をもつ「見識ある市民」の実践によって社会全体が高度に反省的に再編されることを支援する科学であり、まさにそのような人びとによって生みだされ、強化され、現に必要とされている科学なのである。
11-3-3: 敵対的情報の受容
「反省のことば」は無難なことばではない。それはむしろ自分を傷つけるかもしれない危険なことばでもある。グールドナーは次のように指摘する。「明識とは、悪いニュースに開かれていることであり、そのニュースを受容し用いることへの抵抗を克服しようとする人間の容量の大きさから生まれる。つまり明識は、枢要な点で、脅威にさらされてもなお自己を支配しようとする能力に必然的に結びついている。」●41
「社会学的な感受性」が意味するもうひとつの側面は、このような敵対的情報の受容能力を高めることにある。敵対的情報を受容し、それを利用する能力は、政治家の場合は「現実主義」といわれ、学者の場合は「客観性」といわれる。●42「見識ある市民」「自省的市民」の場合は「市民性」もしくは「成人性」というべきかもしれない。ひとつの具体的問題でこれを考えてみよう。
わたしはかねがねそう思ってきたが、社会正義を主張したり反権力を標榜したりする人びとにとってタバコはひとつの試金石である。たとえば反核平和運動・反原発運動・PKO反対運動・環境保護運動などは国家や大企業を批判する。そこでは批判する本人やその周辺の知人を問うことがない。相手はソト(外集団)の人たちである。しかも批判する人自身が問題にはならない。しかし、タバコはちがう。それらが問題化するとき、タバコをめぐって市井の人びとが二分されてしまい、討議の世界は居心地の悪い異世界になってしまう。同じことがフェミニズムや宗教のケースにもいえる。嫌煙権の必要を説けば発言者は「タバコ嫌いだからこういうのだ」と見られ、信教の自由を説けば特定教団の手先のようにいわれてしまう。フェミニズムを語る女性も同様である。素朴なイデオロギー論によって、ことばが構造的に歪められてしまう。それは発言が相手にとって敵対的情報であるからだ。敵対的であるために受け入れたくない。
伊佐山芳朗が指摘するように、いくらタバコがよくないと思っていてもかんたんにはやめられない。やめられないとなると、それに対する否定的な知識は自分のなかで矛盾してしまう。そこで敵対的情報を否定して心理的葛藤を減らすために、その知識そのものを経験的に打ち消そうとしたり(「ウチのオヤジはヘビースモーカーだけど長生きしたよ」「かえって頭のなかがスッキリする」といった発言)、あるいは「喫煙の自由」をもちだしたり、嫌煙権を主張する人の人格や性格を悪くいうことになる。●43あるいは「タバコより反核だよ」といった序列主義をもちだして自己正当化をはかるケースもあるという。●44
「……はこまる」ということばが同一共同体内では通用しても、外集団にはまったく異なる文脈と意味を付与されてしまう。話想宇宙の拡大は共同体の拡大とともにしばしば困難になってゆく。それがもっとも身近にあらわれるのが喫煙問題なのである。
近年の日本では、公共的空間における分煙化や禁煙化の流れが定着しつつある。これも社会運動によってつくりだされた社会の「自省」であるが、具体的には、敵対的情報を受容する「見識ある市民」の成熟があってはじめてできることだ。
11-3-4: 能動的な受け手として
わたしはこれまでの議論でわたしたちが「主体」であることを一貫して強調してきた。しかし、じっさいにわたしたちは多くの社会関係において受け手であることを強要されている。マス・メディアの受け手(視聴者・読者)、選挙活動の受け手(有権者)、医療の受け手(患者)、教育の受け手(学生)、商品の受け手(消費者)……。だからこそ「主体」であることをあえて強調しなければならなかったのだが、そうはいっても、わたしたちが明日から新聞記者になれるわけでなく、医者や教授になれるわけではない。そうではなくて、問題なのは、わたしたちがそのような受け手であるとき、わたしたちはその社会関係において送り手に対して無力な客体(対象)として自分を捉えがちである一方、その関係の外部に「主観としての自分」を孤立させていることなのだ。そんなとき、わたしたちは、主体として能動的に関与する自分を見失いがちである。
そこでわたしは「能動的な受け手」という概念をリフレクションの重要な要素として提起したい。
そもそも「能動的な受け手」(active audience)とはマス・コミュニケーション受容研究とくに「利用と満足研究」(uses and gratifications research)における基本前提となる概念である。ふつう「受け手」というと受動的な存在に決まっているではないかと思われるかもしれないが、マス・コミュニケーションの影響力を調査していくと、受け手はけっこうガンコでワガママなので、マス・メディアから送られてくるメッセージをそのまま受容しないで、自分勝手に、あるいは自分につごうのよいように解釈する。そもそも気に入らないメディアとは接触しない。受け手はマス・メディアをきわめて選択的に利用するのである。
マス・コミュニケーションにおける受け手は、このようにくわしく見ていくと、たんなる受動的な存在ではないのだが、まだその能動性は完全なものとはいえない。それはたんに先有傾向に支配された保守的な生活者にすぎない。つまり、そこには社会学的な感受性に裏打ちされた意思がない。それがあってポジティヴな意味で「能動的な受け手」なのである。
受け手であることを強いられるあらゆるコミュニケーションに対して「能動的な受け手」であること──これこそ現代における有効な抵抗であり、社会を改訂する日常的な実践になるのではないか。病院のなかで、大学や学校のなかで、選挙運動に対して、メディアに対して、あたかもジャーナリストのように、積極的に知識を集め、隠された秘密を引きだし、事情通になり、対話を積み重ね、優位に立つ送り手に対抗していく「能動的な受け手」に。
11-3-5: 現在形の社会学
社会学者もがんばって仕事をしなければならない。専門職としての仕事ももちろんたいせつで、その積み重ねの上でさまざまな重要な知見もまた発見されるのだが、それとともに「見識ある市民」「自省的市民」としての仕事もしなければならない。これは従来「知識人」の名の下に語られてきた仕事であるが、もはや「知識人」という特権階級を認めるわけにはいかない。そのなかでとくにわたしが重要と考える領域がふたつある。ひとつは「時代診断」、もうひとつは「公共哲学」である。前者は「いま」をあつかう点でジャーナリスティックであり、後者は専門家ではない人たちに語りかけるという点でジャーナリスティックである。したがって両者はともに「社会学のジャーナリズム化」と括るべき方向性といえよう。最後にこの点を強調して、リフレクションの錯綜した迷路をでることにしよう。
第一の「時代診断」についてはカール・マンハイムの「時代の診断学としての社会学」の構想が有名であるが、むしろわたしは「時代診断」を取り込んだエドガール・モランの「現在形の社会学」構想にひかれる。●45「現在形の社会学」は「できごと」をあつかう。「できごと」とは、社会のなかのまったく新しい現象のことである。わたしたちがふだん「ニュース」ということばで語っていることがらに見合う現象といってもよい。それはシステムを撹乱し、構造をゆるがし、不測の事態を招き、権力や人びとに脅威を与え、しばしば病理的である。それは「統計的な規則性のなかには含まれないあらゆる事柄」である。●46たとえば、うわさによって生じたパニックであったり、地域紛争や大学紛争であったり、暗殺事件であったり、事故や流行や風潮である。それらは社会に対する既存の見方や考え方を大きくゆさぶる。それらでは十分解読できないからである。したがって、このような「現在形の領域」を研究するには、独特のフィールドワークが要請される。モランは「研究者の個人的な感性を抑圧するのではなく、むしろその感性に頼る」ことを含めた最大限の観察をおこない、場合によっては状況に介入することさえするべきだという。●47
「現在形の領域」における社会学者の仕事は、その具体的作業においてはジャーナリストのおこなうルポルタージュとほとんど変わらない。ただ理論との通路が意識されているかどうかの差である。たとえば、社会学者の佐藤郁哉による『暴走族のエスノグラフィー』と、フリー・ルポライターの吉岡忍による『墜落の夏』を読みくらべてみても、たしかに想定された読者層のちがいによる文体のちがいや理論志向の有無はあるけれども、いずれも社会学的感受性を駆使して「できごと」の全体性と社会的意味を捉えようとする強い意志に貫かれている点で共通している。●48
現実との通路のない社会理論は無効である。社会学にはもっと生々しさが必要だ。蒸留されすぎているのではないか、哲学のように……と思うときがある。社会学はいま新しい資質を求めているといえるだろう。●49
11-3-6: 公共哲学としての社会科学
第二の方向性は「公共哲学」(public philosophy)として社会学を生かすことである。
ロバート・N・ベラーとその共同研究者たちは、アメリカ人の個人主義を丹念に調査した『心の習慣』の付論のなかで「公共哲学としての社会科学」について述べている。この印象深い一節において、かれらが必要だと主張する「公共哲学」は次のような性格をもつ。
第一に「同時に哲学的でも歴史的でも社会学的でもあるような創観的(synoptic)な見方」である。●50第二に、それは「社会自身の自己理解あるいは自己解釈の一形態」であり「社会に向けて鑑を掲げる」ことである。●51第三に、それは価値をあつかう。「こうした社会科学は、現在ばかりでなく過去もまた探ることによって、また『事実』と同じほどに『価値』にも目を向けることによって、定かには見えない連関を見出し、困難な問題を提示することができる。」●52第四に、それ自身が対話的なコミュニケーションの実践である。「公共哲学としての社会科学は、たんにその発見物が学者世界の外の集団や団体にも公共的に利用可能あるいは有用であるから『公共的』だというのではない。それが公衆を対話へと引き込むことを目指しているから『公共的』なのである。」●53
このような「公共哲学としての社会科学」に対して「狭く職業的な社会科学は、無能というよりも無関心であった」という。●54シュッツの用語でいえば「専門家」としてではなく「見識ある市民」として研究することに現代の社会科学者は関心をもってこなかったことを反省しているのである。
かれらが社会学者であるのはおそらく偶然ではない。社会学にはそうした水脈がたえず流れていたのだから。たとえば、一九五九年にC・ライト・ミルズは次のように述べていた。「個人的問題をたえず公共の問題に翻訳し、公共の問題をそれがさまざまの人びとにとっていかなる人間的意味をもつのか、という形に翻訳すること、それが社会科学者の──すべての教育者にとっても同じであるが──政治的任務である」と。●55ベラーたちと、社会学は「一種の公共的な知的装置」であるというミルズのこの考え方とは根は同じである。●56本書で頻繁に引用してきたミードやグールドナーやハバーマス──わたしはそれを「反省的知識の系譜」と呼んできた──もこの水脈に属している。
極度に専門分化した社会科学をそれはそれとして生かしながら総合し、トータルに社会のあり方を考察し、よく磨かれた鏡のように自分たちの社会を映しだし、人びとの反省能力を高め、人びとのあいだに合意形成の意思をもった対話を誘発する知識──公共哲学としての社会科学とはこのようなものであろう。個別領域ではなく全体社会を対象とする社会理論の意義もここにある。ハバーマスがいうように「社会理論が自らの固有の力でなし得ることは、凸レンズがもつ光線集束の力に似ている。社会科学がもはやいかなる思想を燃えたたせることもできないとしたら、その時こそ社会理論の時代は終りを告げることになるだろう。」●57
最後に、グールドナーの印象的な一節を引用して、このリフレクションの旅を終えたいと思う。この錯綜した旅にここまでつきあっていただいた読者にはかれの真意を理解していただけると思う。社会学が一種の公共哲学として思想的意義をもつ科学であるのは、おそらくこのような意味においてである。
「社会学の再生は、無論のことながら、社会の再建の一側面をなすものである。明らかなことは、われわれは社会に関する自分たちのきまりきった考え方を批判的に改めないかぎり、社会を再建することはできないということである。それと同時に私が言いたいのは、われわれが新しい社会を欲する理由のひとつは、その社会のなかでなら、人々は嘘や幻想や虚偽意識といったものなしによりよい生活を送ることができるかもしれないという点にあるのだ。われわれが欲している新しい社会とは、なによりもまず、人々がおのれ自身と自分たちの社会的世界とがいかなるものであるかを、よりよく理解し話すことができるような社会である。言いかえるなら、新しい社会の目標とするところは、ある程度までは、新しい社会学を産み出すことにあるのである。」●58