9: 第四章 権力作用論の視圏──反省を抑圧するコミュニケーション
一 権力作用の複雑性
二 排除現象──匿名の力
三 ディスコミュニケーション
9-1: 一 権力作用の複雑性
9-1-1: 反省抑圧への抵抗として社会学的反省
社会学を学び始めた人が遅かれ早かれ直面する問題は「社会学は自分にとって敵か味方か、よくわからない」というものだ。というのは、社会学はしばしば自分たちのやっていることや知っていることの問題点を列挙して批判する。かと思うと、自分たちのことを微に入り細に入り非常によく理解してくれている記述に出会うことも多い。いずれにせよ自分たちに対して何かをいっているわけで「敵か味方か、いったいどっちなんだ」というわけである。
じっさい、人びとの知識に対して社会学は両義的(相反する意味を同時にもつこと)である。一方で、社会学は人びとの知識を最大限重視する。社会の人びとが共有している常識的知識に基づいて人びとが行為することによって具体的に社会的現実が構成されると考えるからだ。だから社会学者は、一般の人びとの知識にある「実践的な理論」の理解に努め、一般の人びとの先行的理解──つまり人びとが何を考えているか、何を前提しているか──を重視する。前章で論じた役割現象の研究はその典型例であるが、「人びとがそれをどう考えるか」が決定的に重要なのである。しかし他方で、人びとが頼りにしている知識の集積──そのなかには当然さまざまな専門的知識が含まれている──は、自明化され盲信されている場合が多く、冷静に距離をおいて観察し分析すればわかるように、しばしば物象化されている。また、ミクロな生活場面では有効であっても、マクロ場面になると、どうしても知識の拡張が必要になってくる。それゆえ、社会学は人びとの知識に対して批判的に介入しようとする。それは「人びとがそれをどう考えるか」が決定的に重要だと考えるゆえに介入するのである。この場合、常識的知識を異化する鏡の役割を社会学は引き受けることになる。
要するに、社会学と常識的知識とは相互学習する関係にあると考えておけばよい。常識的知識がじっさいに社会的現実を構成する重要な条件となる。だからこそ、社会学は常識的知識を研究し、その問題点を科学的に研究したのちに常識的知識に介入しようとする。人びとの知識に介入して人びとの反省能力を高めることによって、社会学的知識は循環して「知識事実としての社会」の構成要素となり、それによって、行為者の主体的選択の幅を広げ、自律性の領域を拡大しようとする。
では、なぜ常識的知識を異化する必要があるのか。人びとがもっている常識的知識にはそれなりの根拠と有効性があるのだから、何も外からかきまわすことはないのではないか。それは専門家としての社会学者たちの傲慢ではないのか。このような疑問に対して、わたしはこれまでそれを物象化という概括的な概念を用いて説明してきた。この物象化がほころびを見せるのは、非日常的な問題状況のときだけである。それを見るのはたまたま問題状況の内部にいる者だけだ。たとえばスモン患者のケースのように被害者の立場になってようやく全体が見えてくるのである。この章では、そのような物象化の帰結についてさらにつっこんで説明することで、以上のような疑問に答えたいと思う。
さて、ギデンスのことばを借りると「社会の生産ないし構成は、その成員による熟達した達成であるが、成員によって完全に意図されたり、あるいは完全に了解された状態のもとでおこなわれる達成ではない。」●1つまり、わたしたちは知識と能力をもった有能な主体として社会に参加し、おたがいに影響しあいながらも、自分の思いを込めて行為する(あるいは行為したのちにそれを意味づける)。その行為の流れや積み重ねの複合によって社会的現実がつくりだされる。しかし、その行為によって結果的につくりだされた社会的現実が、当事者たちの思惑通りになるとはかぎらないし、また当事者がその社会的事実を的確に理解しているともかぎらない。あるいはその社会的現実に事実上関与している当事者であるとさえ自覚していないことも大いにありうる。社会学ではこのような事態を「有意味行為の意図せざる結果」と呼ぶ。善良な人びとが善かれと思ってやっていることや、私生活を犠牲にしてまで全うしている職務によって、思いがけない悲劇が生じることがあるものだが、じつはこれが社会のノーマルなあり方なのである。
だから社会学にとっては、社会的世界のなかで生活している人びとがその社会的世界をどのように考えているかを明らかにするだけでなく、人びとのじっさいの行為がおよぼす予期せぬ影響や、行為者自身が意識していないような行為の決定条件を明らかにすることが重要な課題になる。それによって人びとが自分たちの行為の現実の意味を反省的に認識することを可能にするためである。
しかし、これはいうほどかんたんではない。なぜなら反省的認識を妨げる働きが社会の内部にあるからだ。おそらくこれが「社会学者あるいは社会的に醒めた者」(ゴッフマン)にとっての仮想敵である。社会に対する社会学的反省の思想的意義もここにある。マルクス主義やフロイト主義を連想させる「抑圧」ということばを安易に使うのは理論構成上のリスクを負うことになるが、かりにそれを使って表現すると、社会学的反省は反省抑圧への抵抗である。そしてその抑圧の力を「権力作用」というのである。
9-1-2: 権力作用とは何か
そもそも権力という概念は、国家権力とそれに類するものに適用されるのがふつうである。しかし、正統派の政治学やマルクス主義とちがい、現代社会学は権力を国家権力に限定しない。ゼロ-サム概念としての権力(一方に百パーセントの権力をもつ階級があり他方にまったく権力をもたない人びとがいるといった権力観)でもない。しかも、ミシェル・フーコーが斬新な権力論を展開して以降は、権力をネガティヴな現象と決めつけないで、むしろポジティヴな側面に着目する議論さえでてきている。●2
この章では、それらの議論のなかから、網の目のように広がった非対称的関係としての権力に着目して考察しようと思う。それは、従来的な権力概念や「狭い意味での権力概念」●3から区別するために「権力作用」と呼ばれている。
この概念を採用する根拠は、現代社会においてはもはや「権力の向こう側とこちら側」という見方が妥当性をもたなくなりつつあることにある。つまり、「向こう側」に権力を行使できる人びとがいて、権力を行使できない「こちら側」を一方的に苦しめる──こういった構図がもはや成り立たなくなっているのである。この従来的な見方は、切実な現実を批判的に取り上げアピールするにはつごうのよい便法ではあるが、複雑化した現代の権力状況を捉えるにはあまりに単純すぎる。
たとえばジャーナリストが庶民の立場から公害問題を告発する場合を考えてみよう。告発は結果的に庶民の利益になると想定される。自分たちは庶民の味方であると想定し、同時に庶民は告発の(いまだ啓蒙されざるゆえに)潜在的な味方であると想定される。しかし、その場合の「庶民」とは「権力をもたない一般大衆」という素朴な定義において捉えられているにすぎない。しかし「庶民」とひとつに括られた人びとに共通の利害が存在するといえるだろうか。むしろさまざまな利害に分裂しているのがふつうではないのか。たんに「権力をもつ者」の権力行使に対して受動的であるというだけで「ひとつの主体」とみることはできない。それは「権力側」とされた人びとにもいえることである。●4
「権力側」の人びとを断罪するという権力批判の伝統的流儀は、単純であるだけでなく、複雑な現実を単純化してすませてしまうことによって、すべての責任を「権力をもつ者」の側に転嫁してしまいがちである。たしかに運動の活力をそれは生むけれども、同時に自分たちの反省を断ち切ることにもなりがちである。その点で罪深いものであることも認識しなければならない。主観的意図において正しいけれど、客観的結果として自己欺瞞を導く可能性さえあることをあえて指摘しておきたい。
9-1-3: 受益圏と受苦圏
権力批判の硬直した伝統的流儀がなぜ現代社会において破綻しているかについて、もう少しきちんと説明しておこう。端的に一括すると、それは現代の権力作用の複雑性による。それをかいま見せてくれる研究として船橋晴俊・梶田孝道らの研究チームによる「受益圏と受苦圏」の議論がある。●5
受益圏と受苦圏の概念は社会問題を研究するさいの理論的枠組みとして考案されたものである。「受益圏」とは、問題とされる組織の活動による利益を何らかの形で享受する人びと(さらに組織や地域や階層や世代や人種)であり、「受苦圏」とは、その組織の活動によって平安な生活環境が保持できなくなる人びとなどをさす。たとえば、工場が有害な廃液を川へたれ流すことによって、まわりに住んでいる人が悪臭に悩まされたり、健康を損じたりした場合、工場をもつ企業とその関係者が「受益圏」であり、まわりに住んでいる人びとは「受苦圏」にあたる。この場合「圏」とは、境界線がはっきりしていることをしめすことばであって、地域に特定されるわけではない。もちろん地域だけでなく階層・年齢・人種・民族などの属性によって受益圏と受苦圏が分離することもある。可視性が乏しいということはあるかもしれないが、おそらく性についてもいえるだろう。
この対概念を使うメリットは、両者の重なりと分離をはっきり捉えられるところにある。たとえば、廃液を流す工場の周辺住民は基本的に「受苦圏」であるが、そのなかには工場で働く人もいるし、下請けの仕事をしている人びともいる。また、そこで働く人びとのための商品やサービスによって糧を得ている人びとも多いはずである。つまり、その人たちは「受苦圏」に属しているとともに「受益圏」にも入っているわけだ。この領域の人びとは一種のジレンマに陥ることになる。他方、工場内で働く人びとは、その労働によって利益をえている点で受益圏であるが、有害物質を貧弱な対策の下でとりあつかわされているケースも多く受苦圏になっていることがあるかもしれない。
受益圏と受苦圏の範囲の重なりと分離は現代社会の場合じつに多様になっている。これこそ現代の社会問題を認識する上での最大の困難なのである。
たとえば、自動車の排ガスや騒音の問題において受苦圏の幹線道路周辺住民と受益圏の自動車業界の労働者のあいだにある溝は深いが、階級対立ではないし、後者の加害者意識は薄い。まして道路に排ガスと騒音を直接だしている自動車のドライバーに加害者意識はないのがふつうである。●6また、国鉄時代に名古屋で問題になった新幹線公害問題では、利用者(乗客)・国鉄・建設業界・メインテネンス業界・旅行業界・停車駅周辺の商工業界などが受益圏にあたり、建設のさいの立ち退きによって生活基盤の立て直しを迫られた人びとや開業後に騒音・振動・電波障害などの公害を被った人びとが受苦圏にあたる。●7
近年の社会問題とくに一九六〇年代の高度経済成長期以降における大規模開発問題では「拡大化した受益圏」と「局地化した受苦圏」の対立が基本構図になっていて、その分、一方では受益圏にある人びとの加害当事者意識が薄く、他方で受苦圏の人びとは孤立無援の状態のなかで不利益を一方的に被ることになりがちである。たとえばゴミ処理場建設問題のように受益圏と受苦圏がほぼ重なっている場合(重なり型紛争)は、問題への関心が人びとに高まり、受益の無限拡大に歯止めがかかりやすく、ゴミ減量や清掃工場の無公害化など反省的な動きが活性化しやすい。ところが、受益圏と受苦圏が分離している場合(分離型紛争)には、受益圏が一方的に受益を享受し、局地化した受苦圏が一方的に社会的損失を受けつづけることになり、しかも両者のあいだのコミュニケーションも困難になってしまうために、問題の解決がたいへんむずかしくなる。そして現代社会において国家規模の非常に広域な事業が多くなると、受益圏が拡散してしまって、受益圏にいる人びとが自らを加害者側に位置づけられず、問題に対してもっぱら傍観者的態度をとることになってしまう。●8
社会問題の多くは「テクノクラート・対・住民運動」の対立構図として現象するので、一見「国家権力・対・一般大衆」のように見えるけれども、その内実はこのように複雑化しているのである。このような事態は、「権力側」とは自分たちのことかもしれないという重要な知見を示唆する。わたしたちはそれを見ようとしていないだけなのかもしれない、と。
9-1-4: 相互共犯性
受益圏と受苦圏の区別を性に関して見ることもできる。つまり男性が受益圏を占め、女性が受苦圏を占める場合だ。もちろん逆のケースもありうるが、切迫度から見ておそらく問題ではなかろう。ただし「男らしさのジレンマ」といった問題もあることはたしかで、現実の方が旧来のフェミニズムの問題圏を超出していることも認めなければならない。●9それゆえ近年はこの種の議論を「ジェンダー論」と呼んでいる。「ジェンダー」(gender)とは社会的な性のことだ。ここには、性という属性に関して社会的に生じる区別は、生物学的な性の問題ではなく、社会的に定義された性の問題であるという基本認識が込められている。
「男は仕事、女は家庭」といったステレオタイプな性別役割分担は、ひところにくらべるとずいぶん様変わりした。しかし、一九九二年から九四年にかけての女子学生の就職難や、いわゆる「寝たきり老人」の家族介護者の九割が女性であることなどに典型的にあらわれているように、日本社会は本音のところで今なお古い性別役割分担に依存している。●10他方、働く女性の多くは「男は仕事、女は家庭と仕事」という「新・性別役割分担」に追い込まれている。男性の単一役割に対して女性は二重の役割と責任を負わされてしまう。その現実が「性差別」(sexism)として異議申し立てがなされ、女性(解放)運動が活発になる。しかし、問題はそのあとである。
江原由美子によると、性差別の告発のあとにくるのは、たとえば「男と女は差異があるか?」といった問いである。この問いは一見客観的に見える。けれども、なぜかこの問いは男性ではなくもっぱら女性の側に向けて発せられ、女性側が答えることを強要されてしまう。しかも、これは女性にとって「ある」とも「ない」とも答えられない種類のものである。というのは、「ある」といえば「だから女性と男性は平等に処遇できない」といわれるし、「ない」といえば「では女性は何でも男性と同様にできるはずだ」と判断されてしまうからだ。ジレンマを現出させる問いなのである。そしてこの問いをめぐって女性運動も内部で論争が絶えない状況に陥ってしまう。●11
江原は、この問題のたて方自体が抑圧的で構造的に歪められていると考える。異議を申し立てる者が否応なしに立たされる社会の構造論理がこの問いに集約して現象しているのだ、と。
それは次のような形でもあらわれる。栗原彬によると、反原発運動・ゴルフ場建設反対運動・反農薬運動・食品添加物追放運動のような、生命の安全を求める運動のなかでしばしば反対理由として「奇形が生まれる」「障害が発生しやすい」ということが「産む性」の立場から主張されるという。この現状についてかれは「しかし、その運動に障害児が加わっていれば、あなたは本当は生まれないほうがよかった、生まれてきてはいけない存在だったのだ、と親や仲間の市民たちから告げられたに等しい。このとき、心やさしい市民が障害児にとっては自分を排除する権力者になる、と言える」と指摘する。●12
障害者運動のなかでもこの種のジレンマはある。江原由美子は「差異」と「差別」について論じた注目すべき論考のなかで「重い障害者」と「軽い障害者」の対立を取り上げている。「軽い『障害者』は往々にして、自己の『障害』がほとんど日常生活に支障をきたさないのに、様々な『偏見』によって『差別』されていることに怒りを感じざるをえない。それゆえ、『差異の存在』自体を否定する論理にむかいがちである。他方、重い『障害者』はまさにその論理の中に自己の存在の『否定』を見出してしまう。『差異がないのに差別されている』と怒ることは、では、『差異があれば差別されていいのか』という後者の側からの問いかけを必ず生む。それゆえしばしば、軽い『障害者』と重い『障害者』の間の対立は『健常者』と『障害者』との間の対立以上に深刻になる。[中略]被差別者の側に分断をもたらし、相互の理解を不可能にさせてしまうものこそ、『差別の論理』なのである。」●13
このように、理不尽な不利益を一方的に被っている人びとが、異議申し立てしたり痛みを訴えることによって、かえって不利な立場に追い込まれてしまったり、結果的に自らを社会の逸脱者(「大人げない」「ムキになってる」「ことば狩りだ」といった非難を受ける者・社会的協調性のない者)にしてしまったり、共闘すべき仲間をも傷つけてしまったり、その運動を分裂させられたりしてしまう。逆に、一九九三年に日本てんかん協会の抗議をきっかけに断筆宣言したSF作家筒井康隆の場合のように、異議申し立てされた側が反省ではなくしばしば被害者意識をもち反批判しやすいのもおそらく同じ問題圏である。
何か「見えない構造論理」が社会に内在しているのである。江原はこれを「作用した痕跡を消す権力。すなわち行為者の自発的な行為を巻き込む権力。それは社会構造自体にはらまれた権力であり、特定の個人の意図には還元できない権力作用」と呼んでいる。●14
結局、権力作用とは、一見等質に見える「わたしたち」を内と外に引き裂く力である。「わたしたち」を〈むこう〉と〈こちら〉へ線引きする匿名の力である。そしてそれは社会に秩序を生み、そのなかに生きる多くの人びとに秩序への自発的服従を供給する。
これに対して、おそらく「わたしたちは共犯者であるかもしれない」という自覚から出発するのが現代社会の場合もっとも展開力のある認識になるのではなかろうか。これを「相互共犯性の立場」と呼んでおきたい。これは悪意をもった共犯者という意味ではなく、知らず知らずのうちに権力作用の媒体に自分たちがなってしまっているということを自覚する立場である。
狭い意味での政治的権力・国家権力に注目しているだけでは差別の問題を反省的に正しく理解できない。そこで権力作用に注目する。現代社会学の立場はおよそこのようなものだ。では、なぜこういう事態になるのか、わたしたちはなぜ共犯者の立場におかれてしまうのか、なぜそれに気づかないのか、その力に抵抗するのは無理なのか。こういった疑問に答えることが次の課題になる。しかし、その前に権力作用の実態と帰結をもう少し検証してみなければならない。
9-2: 二 排除現象──匿名の力
9-2-1: さまざまな排除現象
権力作用があきらかにはっきりと目に見える形で暴力的な実体をあらわすのは排除現象すなわち「スケープゴーティング」(scapegoating)である。一六〇〇年前後の一世紀にピークを迎えた、中世末期のキリスト教世界における魔女狩りなどはその代表的な歴史的事例であるが、これを「啓蒙されざる愚かな人びとの所業」などとあなどることはできない。二〇世紀にもこれ以上の大量排除現象が何度も生じている。ナチズムによるユダヤ人の大量虐殺(「ホロコースト」)、スターリン時代のソビエト連邦における「トロツキスト」「修正主義者」の排除(「粛正」)、 戦前の日本では関東大震災のさいの朝鮮人虐殺や戦時中の「国賊」「非国民」の排除、第二次世界大戦後のアメリカにおけるマッカーシズムの「アカ狩り」(レッドパージ)、ポルポト政権下のカンボジアにおけるベトナム人や知識層の大量殺人……。
いずれも政治的権力闘争や戦争や災害の存在が直接間接の背景になっているとはいえ、これらは敵国人との戦闘によってひきおこされた悲劇でないことに留意しなければならない。すべて「内なる敵」「内なる他者」に向けられた現象である。つまり、少し前まで同じ生活圏で暮らしていた人びとに排除の矛先が向けられたのである。なぜか。同じ社会・同じ集団にいる人間であるからこそ、社会や集団の内部矛盾が「内なる敵」に投影でき、かれらを排除することによって社会や集団の「浄化」が効果的に可能になるからだ。
スケールはちがうが、この点では教室におけるいじめも同じ構造をもっている。いじめも「いけにえをつくり出すことで集団的にまとまり、その中で安心し、さらにいけにえにすべての欠陥を転嫁(投影)することで自らを浄化しようとする”儀式”」だからである。●15ここにもスケープゴーティングの構造が存在する。
企業社会も同様の構造をもっている。日本の場合、高度経済成長期に入るあたりからテーラー・システムあるいはインダストリアル・エンジニアリングが大企業に導入された。それによって労働の単純化と職場集団の崩壊が生じた。労働者のアトム化である。これに相即して能力主義的競争をそそる労務管理が徹底され、人事考課と査定の圧力もあって、日本の労働者は「自発的に」会社側の要請に同調するようになる。いわゆる会社人間である。このような会社人間への傾斜が職場の雰囲気を強く規定している場合は、結果的に、そう考えない人を異端として排除することになってしまう。●16
労働問題の専門家である熊沢誠は、企業のなかで問題となるケースとして次のリストを掲げている。●17
(1)いまの仕事の範囲や負担がふえること、新しい仕事を覚えることなどを嫌う
(2)果たすべきノルマが残っているのに「私生活大事」のため残業や休日出勤を拒む
(3)QC活動などの「改善」活動に熱心でない
(4)「個人的な理由」から配転、応援、赴任などの人事異動に応じない
(5)安全や働きぶりなどに関する職場の慣行に無条件には従わない
(6)職場のなかまとの仕事外のつきあいを大切にしない
(7)職場の慣行に従うよりは、憲法や労働法にもとづく市民・労働者の権利に固執する
(8)企業と協調関係にある労働組合の活動に批判的である
(9)会社の製品のもつ社会的意義に疑問をもつ。公害や欠陥商品など「企業悪」の内部告発を試みる……
これらが該当すると見なされた従業員は、さまざまな不利な待遇を受け、さらに「職場の同僚に迷惑をかけた」と見なされると差別待遇の対象となり、職場からの自発的退職を引きだそうと「職場八分」が展開される。こうなると、社内に助けを求めるのは完全に不可能になる。もちろん企業内組合も「八分」にする側である。●18仕事への無限定的なかかわりを要求され、しかもそれが「自発的な」ものでなければならない。日本の労働現場の多くが、これを規律化した社会的空間となってしまっている。
こうした背景にあるものを間庭充幸は「同調競争」と呼ぶ。「普通同調と競争が結びつくというときは、同調すべき目的(金銭、地位、あるいは天皇への忠誠、何でもよい)があって同調し、さらにその目的に早く近づくために競争する。それはまさに目的内容を介しての同調的競争、競争的同調である。しかしそれがある限界を超えると、かんじんな目的が脱落してしまい、同調という行為(多数者)自体への同調や競争が発生する。ある目的に向かっての同調や競争とは別に、皆がある目的に志向すること自体が価値を帯び、それへの同調と競争が新たに生まれる。」●19
権力作用は同調を呼び起こし集団の統合と秩序をもたらす。しかし「若干」の暴力的排除をともなうことによって。そして、その「若干」の視点から見てはじめて、権力作用が本質的に「構造的暴力」(structural violence)であることが認識できるのである。●20
9-2-2: いじめの四層構造
まったく規模の異なるこれらの社会現象を「排除現象」としてその同型性にあえて注目することは、いささか奇異に思われるかもしれない。しかし、権力作用とはそれらを貫通する構造論理であり、「ホロコースト」や「粛正」は過去の遠い国のできごとではなく、わたしたちの身近な生活の場に宿っていることを強調しておきたい。ちなみに、一見異質なさまざまな現象に同型性を発見するというこの手法こそ、かつてジンメルが「形式社会学」と呼んだものであるとわたしは考えている。それはアカデミックな分類法ではなく、むしろかなり過激な知的戦略であると思う。
さて、そこで排除現象のしくみについて考えるために、排除の原型をしめす構造モデルとして学校内のいじめについて検証してみよう。
現代のいじめは、大人たちが子ども時代に経験し、また現在想像できるものとはかなり異なっていて、複雑な様相を呈している。いじめの実態調査をした森田洋司によると、いじめの場面において学級集団は「加害者」「被害者」「観衆」「傍観者」という四層構造をなすという。いうまでもなく「加害者」はいじめっ子であり、「被害者」はいじめられっ子である。「観衆」とはいじめをはやしたておもしろがって見ている子であり、「傍観者」とは見て見ぬふりをしている子である。いじめの過程で重要な役割を果たすのは、じつは「観衆」と「傍観者」の反作用(反応)である。かれらが否定的な反応を示せば「加害者」はクラスから浮き上がり結果的にいじめへの抑止力になるが、逆に「観衆」がおもしろがったり「傍観者」が黙認するといじめは助長される。ほかに「仲裁者」という役割も存在するが、いじめの場面では極端に減少し、クラスは「四層化」されている場合が多いという。●21
さらにかれらの行動の基盤になる価値意識を調査してみると、かなりはっきりした傾向が存在するという。まず、学級集団の中心的価値に対して肯定的か否定的か、教師や生徒間の影響力に対して自立的か服従的か、このふたつの座標軸をクロスさせてえられる四象限を考えてみる。ここに四つの役割を位置づけてみると、「被害者」はふたつの象限にわかれている。ひとつは、学級の中心的価値への志向が強く、しかも力に対して服従的な「集団的統制管理受容型」(弱い子)である。権威や集団統制に従順な態度をもつことがかれらの弱さになっている。もし拒否的な態度をもっていれば対抗することも可能なはずである。もうひとつの象限は、学級の中心的価値への志向がなく、しかも力に対して服従的な「集団価値からの疎外型」(はみだしっ子)である。「いじめっ子」グループとの関係を断ち切れず──したがって「加害者」になることもあるが──追いつめられていく子がこのタイプである。それに対して「加害者」と「観衆」は「被害者」の対極の同じひとつの象限に属している。学級の中心的価値への志向がなく、しかも力から自立的な「集団的統制管理否定型」(強い子)である。かれらは自己中心的な欲求の満足を志向する傾向が強い。残りの一象限に「傍観者」がいる。学級の中心的価値への志向があり、しかも力から自立的な「集団価値への没入型」(よい子)である。じつは「仲裁者」もこの象限にいるが、かれらはより積極的でたくましさをもっているが、これに対して「傍観者」の子どもたちは「学級活動へはコミットしながらも『加害者』の意識と親和性を示すことによって『加害者』『観衆』の行動の意識基盤を暗黙のうちに支持し、傍観者としての身の安全を確保している。」このグループの特徴は大学進学を希望する者が多く成績もよいことである。●22
森田らの調査によると、いじめの被害の大きさは「加害者」の数とは相関性がないという。いじめ被害の増大と相関するのはじつは「傍観者」の数である。「傍観者」が多くなるほど被害が多くなる。そして学年が上がるほど「傍観者」の数は多くなる。ここに現代型いじめの大きな特徴がある。●23
多くの排除現象の場合、わたしたちは「傍観者」であるか「観客」である。自分が直接の被害者にならないかぎり、けっして公共的問題に関与しようとせず、ひたすら私生活に引きこもる。現代の排除現象をしばしば悲劇的なものにしているのは、この傍観者的態度である。さきほど「相互共犯性」として述べたことは、たんに道義的に共犯だというのではなく、現実に排除現象の重要な要因になっているという厳密な意味で共犯なのである。そしてこれも「わたしたちが社会をつくる」ことのひとつの局面である。
9-2-3: 逸脱の医療化
排除現象は、事後的に見れば、あるいは外部から距離をとって見れば、それがいかに異常で感情的な悲劇であるかということがわかるけれども、内側からそれを的確に認識し、市民として冷静な判断を下すのは困難である場合が多い。すでに述べたように、排除されている側が異議申し立てしても、かえってそれを無効化する動きを活性化させるだけである。権力作用とはそのようなものなのである。
異議申し立てを無効化し、排除を正当化する論理として、現代社会において重要な機能を果たしているのが「逸脱の医療化」(medicalization of deviance)である。「逸脱」とは「ふつうでないこと」「異常なこと」である。犯罪・非行・狂気・性的倒錯・極端な性格・極度の貧困・かたくなな宗教的信念などをさす。といっても「もともとこれは逸脱、あれはふつう」と決めつけることはできない。そのときその場所その社会で人びとが「ふつうでない」と非難するふるまいが「逸脱」である。他方「医療化」とは、これらの逸脱が一種の「病気」であると見なし、社会が──具体的には医療専門職が──「治療」しなければならないと考える傾向をいう。医療の視点から見ると、治療対象の拡大を意味する。
人間の歴史において逸脱はさまざまな隠喩図式によって表象されてきた。徳岡秀雄によると、古代においては「体液もしくは聖霊にとり憑かれた」とされ、中世前期では「鬼神にとり憑かれた」とされ、中世後期は「悪魔のいけにえ」、ルネサンス期は「悪魔との提携」、後期ルネサンスでは「サタンの具現化」、ルネサンス以降は「神に呪われた」そして近代は「医療」のメタファーが使用され、烙印と監禁の処遇があたえられてきたという。●24
このように「医療化」は、今日の権力作用の重要な正当化装置になっている。とりわけ精神医学は現代社会の公認イデオロギー装置として機能しており、複雑であるがゆえに不可解な逸脱がすべて「精神の病」として解釈されて、排除する側の人びとを免責する。たしかに医療化は「病気だから本人の責任を免除する」という人道上の配慮や、犯罪者の刑罰を軽くする便法として展開してきたのも事実である。しかしその反面、本人の主体的判断や意思が無視され、相当の強制力が本人の生活と人格に作用する。しかもその強制力は「本人のために」働くのであって、周囲の人びとの善意や職業的倫理によって実行されるのである。
9-2-4: 〈消費の論理〉と〈排除の論理〉
最後にもうひとつ、排除現象の社会的促進要因を指摘しておきたい。
現代社会は消費社会とも呼ばれる。消費社会とは〈消費の論理〉が〈生産の論理〉を主導する社会のことである。ときに大衆消費社会とも呼ばれるように、企業よりも消費者である大衆が主役の社会である。それゆえ〈消費の論理〉は一見平等に見える。しかし、これは意外な感じがするかもしれないが、〈消費の論理〉にはその論理的帰結として〈排除の論理〉が裏面に存在する。
そもそも消費社会は「差異化の論理」によって動いている。生産者側では他のライバル商品とちがう要素が付加され、流通の過程でその差異が過剰に強調される。広告業界でいう「差別化」である。一方、消費者側でも商品の微妙な差異を読みとる能力と感性が尊重される。それがないと的確な消費ができないからである。的確な消費によって現代人は自分を微調整する。つまり商品をめぐってさまざまな立場の人びとが「差異化の論理」を機軸に動いているのである。差異化とは「とはちがう」ことを主張することだ。だから「あれはダサイ、こっちがオシャレ」といったぐあいに「何がちがうのか」「何とちがうのか」を設定せざるをえない。うつろいやすく説明しにくい微妙な差異を直観的に説明するには「ああいうのじゃなくて」と否定的に説明するしかない。つまり排除項の設定が不可欠なのである。こうして消費社会は排除の論理を内部に組み込む。
それは具体的には、センスのよしあしであったり、身体の美醜であったり、年齢の高低であったり、趣味の品格であったりするが、それらの差異によって、一方が他方を排除する関係が社会の隅々にまで重層的に設定される。このなかである属性だけがすべての差異化のコードにおいて排除されることはないにせよ、それでも「社会福祉対象者」や「ひとり暮らしの老人」や「知的障害者」のように、商品を売る側から見てマーケットの小さい属性は、肯定的な意味づけをされることが極端に少なくなってしまいがちである。そして売る側から見てマーケットの大きい属性──たとえば「若くて行動的でよく遊ぶ」学生・会社員・中間層の文化的価値ばかりが肯定的にあつかわれるなかで、それらは無言のうちに排除項化(かやの外)されてしまうのである。
9-2-5: 自発的服従の視点
権力作用とそれに付随する排除現象は、なぜわたしたちの社会に生じるのか。ここで「わたしたち人間のなかには本能として権力欲と加虐性があるからだ」といったたぐいの短絡的な心理学主義に陥ってしまうとリフレクションにはならない。それは「では、なぜ権力欲や加虐性が生まれるのか」に答えていないからだ。それはむしろ結果である。結果を原因と取りちがえてしまう物象化のワナがここにも待ち受けている。注意を払いながら進まなければならない。
排除は残念なことに社会の「正常な」現象である。とりたてて高度な理念による意識的な介入をしないかぎり必ず起こるという意味で「正常な」現象である。デュルケムの「犯罪は正常な社会現象である」というテーゼがかつて物議をかもしたように、このようないい方をするとたちどころに非難の声が上がりそうだが、現実を直視すればこういわざるをえない。しかし「正常」と認識することと、その事態の悲劇的な帰結を肯定することとはちがう。●25
「正常」と認識することの第一の理論的意義は、わたしたちが権力作用から解放されることはありえないというシリアスな認識をもつことにある。現実科学としての社会学は、抑圧から解放された世界があるというロマン主義的幻想とは無縁の地点から出発する。権力作用は──したがって排除現象は──社会の存立にとっても、わたしたちの生存にとっても、基本的には不可避である。第二の理論的意義は、不可避であるがゆえに自己点検を絶やさない姿勢で臨む必要があるということである。政権交代や革命で抜本的に解放されることなどありえないのだ。
さて、これまで検証してきたように、排除という構造的暴力を内部に宿す権力作用を生みだしているのはわたしたち自身である。この場合、わたしたちの行為は権力作用に対して「自発的服従」という性格を帯びる。「自発的服従」という古典的概念は、ゲオルク・ジンメルによって再発見され、マックス・ウェーバーによって定式化されたものだ。●26ここでは「この人が王であるのは、ただ、他の人びとが彼に対して臣下としてふるまうからでしかない。ところが、彼らは、反対に、かれが王だから自分たちは臣下なのだとおもうのである」●27というマルクスのことばに立ち返ろう。このことばが示唆する論点は、王権は人びとに押し上げられて王権となるという逆説的なメカニズムである。宗教現象の始発点にある「カリスマ」も、一群の帰依する人びとによって担ぎ上げられて「カリスマ」になる。これらは「上方排除」である。それに対して本節でこれまで検証してきた暴力的な排除現象や差別は「下方排除」である。排除の方向が上か下かの差であって、メカニズムは基本的に同じである。
自発的服従という概念は上方排除についてはいえるが、下方排除についてはふさわしくないように見える。けれども、先述の教室のいじめや職場での差別待遇などの実態からもわかるように、教室の秩序や職場の秩序への自発的な同調がもっとも重要な要因になっており、この場合でも服従ということばは当てはまる。権力作用について考察するさいに重要なことは、「支配する」「統治する」という観点から見るのでなく、「自発的に服従する」観点から見ること、権力の送り手ではなく受け手(支え手)の視点から見ることが必要である。つまり、上からの「圧力」ではなく、自ら進んで禁止する、下からの「自主規制」として。
ミシェル・フーコーの「権力は遍在する」「権力は下からくる」「権力の司令塔を求めるのはやめよう」という有名だが一見奇妙な提言は、おそらくこのようなことを主張しているのだ。「資本の陰謀」といったように何か強力な統制機関が操作しているかのように見えるのも、ひとつの物象化的錯視である。フーコーが権力を「意図的であるが、非主体的」というのもこういうことであろうし、「抵抗や闘争も権力の内部要素」という考えもこの文脈で理解できる。●28
こうなると、権力作用を批判することは、もはや「権力者が悪い、悪いやつらをやっつけろ」式の勇ましいプロパガンダではなく、かえって自分たちの存在根拠を疑う反省的な作業になってくる。
9-3: 三 ディスコミュニケーション
9-3-1: 自発的服従を供給するメカニズム
自分がいま風上にいるのか風下にいるのかをふだんわたしたちは意識しない。意識するのはタバコの煙が自分の方へ流れてくるときであり、しかも、タバコを吸っている人ではなく、吸わない人がいち早く感知するものだ。それと同じように、上方排除であれ下方排除であれ、排除された側は敏感にならざるをえない問題状況に追い込まれる。おそらくこの地点は権力作用の全体的認識が可能な──あるいはそれを強要される──ほとんど唯一の場所である。それに対して権力作用の具体的担い手であるわたしたち自身は、自分たちの行為がいかなる意味をもち、いかなる結果を引き起こしているか、なかなか気づきにくい。あるいは「タバコの煙が風下にいる人に流れるのは、たまたま向きの変わった風のせいであり、その人が非喫煙者だったのはいかにも運が悪かった」と、自然現象に見立てた(つまり自分たちではコントロールできない)環境や時代のせいにしたり、むしろ自分の方が被害者であるように装ったりすることによって、自己正当化に陥りがちである。このように権力作用の認識においても両者は非対称的である。
では、なぜ気がつかないのか。あるいは何となく気がついていても、はっきりとそれを自覚するチャンスが少ないのはなぜか。
その要因としてさまざまな理由が考えられる。たとえば「時差」の問題である。わたしたちが自分の行為の意味を知るのはいつもすべてが終わってからだ。そもそも体験に対する意味づけは過去をふり返ることによってはじめて可能なのだから。「生きられつつある行為に意味はない。」●29すべては事後的評価である。したがって気がついたときにはもう遅いということがしばしば生じる。また、伝統的行為とか慣習的行為の場合は自明性におおわれているから反省的評価は発動されない。また「役割への没頭」もありうる。つまり、たとえば会社人間と呼ばれる人びとのように役割へのコミットメント(関与)が強く、あまりに深く役割に没入してしまうために、役割関係の外部に対して極端に視野が狭くなる場合である。また「急進的でもなければ反動的でもない。反応がない」現代人のアパシーも大きな理由である。●30あるいは、普遍的な集団力学として「内集団」に対しては配慮をするが「外集団」に対してはいっさい配慮しないという「ダブル・スタンダード」(double standard)も考えられる。外部の視点から隔離されているために内部の視点の魅力を距離化できない場合もある。自発性や異議申し立てを体制へ編入してしまう「コアプテーション」(coaptation)も重要である。栗原彬は、工場内における自主管理・QCといった小集団活動に見られるように、それなりの自発性が許容され、代補的アイデンティティの充足がおこなわれるために、人びとは自発的服従に充足してしまうと指摘する。●31サービス残業もこれにあたる。
以上のような要素の複合体を「反省抑圧の構造」と呼ぶことにしよう。すでに論じてきた物象化とは、とりもなおさず「反省抑圧の構造」である。問われなければならないことは、自発的服従そのものではなく──これ自体は社会の存立の基本的メカニズムである──自発的服従に対するわたしたちの非反省性なのである。自発的服従に対する当事者の反省的評価が活発であれば、少なくとも極端な排除現象や悲劇的事態はくりかえされずにすむはずである。つまり、行為者の反省的評価が何らかの形で抑えられているのだ。
そもそも反省的評価を可能にするのはコミュニケーションである。本来はリフレクションを可能にするはずのコミュニケーションが何らかの形で損なわれていると考えることができる。つまりわたしたちのコミュニケーションは、その完全な反省作用を発揮していないコミュニケーションなのである。わたしはこのようなコミュニケーションを「ディスコミュニケーション」(dyscommunication)と呼ぶべきであると考えている。ふつうこの概念は「自分の思っていることがそのまま相手に伝わらない」との意味で使われるが、その前提にはコミュニケーションを「情報移転」と捉えるシャノン-ウィーバー・モデル的なコミュニケーション観がある。送り手中心的なこの工学的モデルでは人間的で社会的なコミュニケーションを捉えることはできない。●32それに対してミード的なコミュニケーション観に立つと、むしろディスコミュニケーションとは非反省的もしくは反省抑圧的なコミュニケーションであり、権力作用の正当性を供給するプロセスである。●33したがって、権力作用の実態を検証してきたわたしたちの次の課題は、このディスコミュニケーションがいかなるプロセスであるかを鮮明にすることである。
9-3-2: 歪められたコミュニケーション
信頼できるディスコミュニケーションの理論はまだない。そこでここではクラウス・ミューラーの「歪められたコミュニケーション」(distorted communication)についての研究を参考にして議論を進めていきたい。●34
かれは「歪められたコミュニケーション」として三つのタイプを提示する。第一に、強制指導型コミュニケーション(directed communication)。これは「言語やコミュニケーションの内容を規定しようとする政府の政策から生まれてくる」コミュニケーションのことである。●35国語辞典まで改訂した、かつてのファシズムや社会主義の国家に見られた、露骨な政治的干渉による統制がこれにあたる。ジョージ・オーウェルのSF『一九八四年』に登場する有名な「ニュースピーク」はこれを皮肉ったものだ。
第二に、環境制約型コミュニケーション(arrested communication)。これは「個人や集団の政治的コミュニケーションに携わる能力が制約されている場合のコミュニケーション」である。●36言語は、自分たちがおかれている環境を解読する能力を規定する。したがって、言語能力が限定されたものであると──これを「限定コード」という──人びとは自分たちの環境を的確に認識し利害を表明できなくなり、結果的に現状維持的で保守的な権力支持層になりやすい。●37
第三に、管理抑制型コミュニケーション(constrained communication)。これは「自分たちの利益を優先させようとして、私的集団や政府機関が、公的コミュニケーションに手を加えたり、制限を加えたりすることができた場合のコミュニケーション」である。●38政府や企業がしばしばおこなう情報操作や情報非公開がこれにあたる。また、権力の正当性にかかわる重要な問題を表面にださないために、別の問題をキャンペーンするという方法も使われる。このような巧妙な操作によって人びとの知識が限定されると、日常生活とは関連がないと思われるような──じっさいには見えにくいだけでめぐりめぐって自分たちの生活に影響があるにもかかわらず──政府の行為に対して人びとは評価をためらい、 結果的に政治的コミュニケーションに参加することをやめてしまう。●39棄権はその典型例である。
ミューラーの三類型は本書序論で「権力のことば」「消費のことば」として問題化しておいたことにほぼ相当する。本書の始発点は「歪められたコミュニケーション」にわたしたちはおかれているということだったのである。
9-3-3: 現代日本の言語状況
日本の場合、ミューラーのいう「歪められたコミュニケーション」はどのように存在するのだろうか。もう少し具体的に踏み込んでおきたい。
PKO以前のものであるが、日本の軍事化についての外国人研究者による興味深い研究がある。平和研究(peace research)の研究者グレン・フックは、世論調査の分析を踏まえた上で次のような疑問を立てた。「日本国民の多くは、原理のレベルでは、今なお反軍事化を保持しているのに、なぜ具体的な政策にかんしては軍事化反対の態度を明確に示さないのであろうか。さらに、多くの人びとが反軍事化であるにもかかわらず、反軍事化の運動が現在の日本社会では活発にならないのは、なぜであろうか。」●40その要因のひとつとしてフックは、軍事化を容認させる言語の役割に注目する。
たとえば本来は「死亡保険」と呼ばれるべきものを「生命保険」と呼ぶように、あるいは「有害作用」を「副作用」と呼ぶように、「聞き手が不愉快なことや怖ろしい事実を正確に把握することを防ぐ」ためにしばしば「婉曲的表現」(euphemism)が使われる。●41「軍隊」を「自衛隊」と呼び、「戦車」を「特車」と呼び、「侵略」を「進出」と言い換えるのがそれである。また「隠喩」(metaphor)もしばしば政治的に用いられる。一九八一年に訪米中の鈴木首相が発言した「ハリネズミ」、一九八三年に中曽根首相が訪米中に使った「不沈空母」、これがかえって反発を招いたために代わって使われるようになった「保険料」(防衛費のこと)などが挙げられる。古くは「核アレルギー」という隠喩もある。これは朝日新聞が最初に使ったものだが、一九六七年から翌年にかけて盛んに議論され政治的に利用された。とくに当時の佐藤首相は「正しい理解を持つならば、いわゆる核アレルギーにはならない」として、いわば医者が患者を治療するイメージに議論を置き換えた。このメタファーを使用することによって、「異常」なのは核兵器の存在ではなく軍事化反対者の方であること──そしてかれらは「治療」されなければならない──が静かに自明化されるのである。一種の「逸脱の医療化」である。
これが「権力のことば」の実態である。わたしたちはそれを使用することによって、意識しないうちに特定された政治的土俵に立たされるのだ。
ところで、フックの指摘する事例で、「進出」などは強制指導型コミュニケーションであろうし、「保険料」などは管理抑制型コミュニケーションに相当するといえそうだが、「環境制約型コミュニケーション」はどうだろうか。この文脈で問題となるのは、社会化のエージェント(担い手)である家族や階層そして学校やマス・メディアである。これらが人びとの言語能力を限定するわけだが、これらのうち学校つまり教育とマス・メディアについて分け入って概観してみよう。
9-3-4: 検定済みの知識
ミューラーが「環境制約型コミュニケーション」として取り上げていた社会化の問題としてまず教育について指摘しておきたい。とりわけ初等中等教育の問題である。
日本の教育は「文部省教育」といわれてきた。教育のすべてが文部省によってコントロールされていると考えるのは実態とあわないが、歴史教科書検定の話などを思い浮かべると、相当な政治的配慮がなされてきたと考えてよい。社会学系でも、かつて「高校現代社会」の教科書検定において社会学者の執筆した水俣病の記述などが「問題」とされたことがある。
このような目立つ側面だけでなく、もっと基本的なところに目を向ければ、現実の教育において提供される知識の傾向に着目すべきだろう。その傾向を一括すれば、第一章で説明した「技術的知識」中心ということができる。それは「客観的」というわかりやすい性質をもっているために、受け入れられやすく、「偏向」と指弾されるリスクもなく、教師の質に左右されにくく、評価もしやすい。もちろん個々の教育現場において並々ならぬ努力がおこなわれているにしても、また、教育理念に「豊かな人間性形成」「自分で考える力をつける」といったことが挙げられているとしても、結果として教育現場を支配している知識はまぎれもなく検定済みの「技術的知識」なのである。
この傾向にさらに輪をかけているのが受験である。出題者側の事情として「公正」かつ「迅速処理採点」可能な問題でなければならない。だれもが正解可能で、だれもが採点可能な問題。それは検定済みの技術的知識である。受験生の生き方や思想を試すことは、よほどのコストを覚悟しなければならない。これに受験者側が過剰適応する。受験勉強とは、検定済みの知識だけを選択的に学ぶことである。受験に関係のない科目は「捨て科目」として早期のうちにいともかんたんに捨てられる。おそらく少数科目入試の傾向はこれを増幅するだろう。また、検定されていない生々しい同時代のできごとや自分を問うような問題は「試験にでない」として無視されてしまう。「自分の頭で考えてみよう」といったことがらも同様の帰結を踏む。この文脈では塾や予備校が、実態を知らない論者の批判対象になりがちだが、塾や予備校それ自体が問題というよりも、じっさいには受験生の救済制度となっている場合の方が多い。問題なのは受験という社会的文脈のなかで受験生がとらざるをえないこのような選択の方である。
たとえば、コミュニケーションのあり方を問い、その基本技術を磨く科目である「国語」においても、とうてい現代を生きる上で不可欠とは思えない古典の解釈が重要視されてきた。「現代文」(現代国語)でさえも、たとえば清水義範の短編小説「国語入試問題必勝法」が的確に描写しているように、職人的なまでに技巧的な技術的知識の問題に変換されてしまう。●42
こうした教育環境における「勉強」は、学ばれる知識が「自分を問う」ことがないだけに、「勉強」することによって、かえって自分の社会生活や生き方をブラックボックスにしてしまい、反省的回路を断ち切ることになりがちである。結果的にこのような教育環境は、政治的に漂白された知識だけが広く流通するのを助けている。しかしそれはじつに「政治的」なことなのだ。
検定済みの知識は反省の重圧から解放する。反省を突きつけない。しかし、考えてみれば、同時代の社会について考えたり判断したりするということは、「検定済み」でない領域でこそ必要な能力ではないだろうか。そもそも社会について考えるということは痛みをともなうことだ。死刑囚の人権について考えれば被害者の家族はおこる。公害企業について考えれば企業内の人びとやその家族が傷つく。しかし、だからといって、放置すれば被害者は傷つく。およそ社会的現実とはこのようなものであって、利害調整がうまくいくとはかぎらない。むしろ闘争的・対立的なもの。そこが自然現象や数学について考えるのとちがうところだ。したがって、たいせつなのは傍観者ではなく当事者として自分を社会に位置づける反省能力であるはずだが……。
9-3-5: マス・メディアの複合影響説
初等中等教育を終えた成人に対する教育機能を果たしているのは、都市部においては事実上マス・メディアである。マス・メディアは、基礎的な教育課程を終えたわたしたちの知識のありように重要なかかわりをもつ。わたしたちはマス・メディアによって供給される知識をもとに態度を決めることが多い。たとえば商品を選ぶとき、たとえば会社を選ぶとき、政治家を選ぶとき……。だから「歪められたコミュニケーション」というとき、マス・コミュニケーションについてふれないわけにはいかない。
ところが、じっさいには、「マス・メディアの絶大な影響力──しかもしばしば操作的に歪められている」というテーゼは必ずしも自明ではない。
マス・コミュニケーション論では、一般の人が考えているような素朴な強力効果説は基本的に否定されている。たとえすべてのマス・メディアが「右向け、右」を連呼したとしても、受け手になにがしかの「右を向きたい」という気持ち(これを「先有傾向」という)がなければ受け手は右を向かない。したがって「マス・メディアの影響力は意外に小さく限定的である」という限定効果説が長らくマス・コミュニケーション論の主流だった。限定効果説は、それ以前の強力効果説が受け手の無批判性(要するに「愚かな大衆」のイメージ)を前提としていたことを否定し、受け手の能動性と自律性を再発見していたのだ。●43
ところが一九七〇年前後から変化が生じてきた。「やはり大きいぞ」というのである。これは一般に「新・強力効果説」といわれている。●44ただし限定効果説が否定されて元の強力効果説へ戻ったわけではなく、あくまでも限定効果説の受け手像の上に立って「それでも強力だ」というところにポイントがあることと、「強力」といっても必ずしもメディアの思惑通りに受け手が動かされるわけではないので、わたしは「複合影響説」と総称すべきだと考えている。当然そこには「頑固な受け手」をも屈してしまう複雑かつ巧妙な社会的トリックが存在する。
そのようなトリックとして考えられているのが「議題設定機能」「沈黙のらせん」「培養効果」である。●45
「議題設定機能」(agenda-setting function)とは、マス・メディアが「今なにが問題なのか」という争点=議題を設定することについては強力な影響力をもつということである。「どう考えるべきか」ではなくて「なにを考えるべきか」に関しては現在のマス・メディアは相当に強力であるというのだ。たとえばPKOについて各メディアがそれぞれの立場で報道し議論する。ある新聞はイエスと主張し、あるニュース番組はノーと主張する。「どう考えるべきか」はさまざまである。しかし、いずれにせよ「今はPKOについて考えるべきだ」という点では共通しているわけであり、結果的に受け手はその議論の土俵そのものを主体的な選択の余地なく受け入れてしまうというのだ。これを一般化すると、マス・メディアの強調の大小が人びとに問題の重要性を認知させるという強力な影響力があることになる。
「沈黙のらせん」(spiral of silence)もその過程はやや込み入っている。これは世論形成についての影響である。世論のもとになるのは個人の意見である。しかし、人びとは自分の意見をストレートに表現はしない。まず自分の意見が多数派か少数派かを確認するのである。自分の意見が少数派・劣勢意見であれば、孤立を避けるために意見表明は控えられ、逆に多数派・優勢意見であれば、積極的に表明される。では世論の場合、人びとは何を基準に多数派か少数派かを判断するのか。その基準となるのがマス・メディアなのである。さまざまなマス・メディアが特定の意見を多数派・優勢意見として提示することによって、反対意見は表明されにくくなり(沈黙)、そのため反対意見はますます少数派として認知されることになる。その結果、多数派はますます多数に、少数派はますます少数に見えるようになる。つまり世論の環境をマス・メディアがよってたかって固めてしまうのだ。そのため受け手の議論の範囲が事実上限定されてしまう。「天皇報道」や「湾岸戦争報道」のように「総ジャーナリズム状況」とか「パック・ジャーナリズム」といわれる集中豪雨的取材報道がなされるとき作用しているのがこの「沈黙のらせん」であり、そのとき「はだかの王様」を「はだかだ!」と名指すことが極度に困難な環境になってしまう。
これを時間軸に見たのが「培養効果」(cultivation effect)である。たとえば、どのテレビドラマでも登場する老人像が片寄っていることが多い。「がんこで融通の利かない老人」のイメージである。そのため長時間テレビドラマを視聴しつづけた受け手で、直接さまざまな老人と接するチャンスのない人は、このような老人像によって現実を捉える傾向が、テレビドラマをあまり見ない人にくらべて強くなるのである。このようにマス・メディアは長期的かつ累積的かつ非意図的に人びとに行動の基準や価値観を「培養」するのである。
受け手の自律的な反省的コミュニケーションが困難になっている。しかも、それは個々の送り手サイドも意図していない──つまり送り手さえもコントロールできない──形で生じているのだ。マス・コミュニケーションをもふくんだわたしたちのコミュニケーション総体のありようを見直すことが格別に必要なのはこのためである。