リフレクション第二章 行為論の視圏──脱物象化と反省的行為

7: 第二章 行為論の視圏──脱物象化と反省的行為
一 物象化された世界
二 脱物象化の知的可能性
三 行為論的社会像
7-1: 一 物象化された世界
7-1-1: 少子化社会
第二章で考えていきたいことは、わたしたち自身が社会を形成する主体であるということだ。本書では「主体」ということばをさしあたり「責任ある担い手」といった意味で使うことにしたいが、映画や演劇でいえば「監督」や「俳優」ときには「脚本家」に相当する。まず、自分たち自身がこの社会をつくっている当の責任者だということを自覚するところからリフレクションは始まる。いくつかの事例から、このことを考えてみよう。
たとえば「少子化」と呼ばれる社会現象がある。「一・五七ショック」とか「一・五三ショック」として近年問題にされているからご存じの方も多いと思う。一九九三年ではほぼ一・五〇人である。これらの数字は合計特殊出生率といって、女性が一生のあいだに産む子どもの数の平均である。この数字が二・一を切ると人口が減少する。なにせ狭い国土である。土地も高い。受験競争も厳しい。人口が減少することのどこが問題なのだろう。
そもそも「問題」にしているのがだれかを考えてみよう。それは少なくとも一般の人びとではない。「問題」にするのは、政府やテクノクラートそして人口学・経済学などの専門家である。というのは、近い将来、高齢者が多くなる上に、それを支える若年産業人口が極端に少ない状態ができてしまうからだ。年金の問題や税収の問題が深刻なものになるために、大所高所から見ると「望ましくない」のである。「ショック」ということばを受け継いでいることからわかるように、ジャーナリズムも基本的にこの論調で伝えている。●1
ところで、この「少子化」を「女たちの反乱」と見る見方がある。男性中心的な社会環境のなかで仕事をし、夫の協力がほとんど期待できない家庭の仕事を一手に引き受けなければならない女性たちの事実上の「結婚・出産ストライキ」──もちろんそれは明確な意識に基づく統一行動ではないにせよ──だというのだ。
この見方を頭ごなしに否定し冷笑的な態度をとる論者は多い。これもフェミニズム的ディスクールが必ず呼びおこす典型的な反応である。しかし、少なくともこの見方は、「少子化」を一種の自然現象とは考えないで、当事者の主体的な行為(あるいは主体的な選択)の結果と考える点で、冷笑的態度より数段すぐれているのではないかとわたしは考えている。「主体的な行為(選択)」といっても、当然、限られた条件下での選択であるにはちがいない。しかし、「限られた条件」を絶対視することはあやまりであるし、その場合、集合的な結果として生じた少子化という現象に対して反省的な回路を閉ざすことになりがちである。自然現象のように人びとの手を離れたものではなく、あくまでも人びとの選択の結果として現象を捉えるべきではないか。それはどう考えても社会現象であって自然現象ではないのだから。
じっさい、詳しく分析してみると、女性の結婚が遅くなったこと(晩婚化)と、それに加えて、出産と育児をすませた女性が早々に再就職することが、少子化の最大の要因であることがわかっている。このふたつをあわせると「子産み期間の短縮」ということになる。では、なぜこういう選択を人びとがするのか。「経済的な苦しさを解消するため」というケースもありうるが、むしろ、一方で「家庭における子ども志向の強まり」が育児のコストを高め(子どもにお金をかけたい・かけるべきだ・かける価値がある)、他方で画一的な「幸福な家庭」イメージが拘束力を強める(「子だくさんで貧乏ぐらし」より「ひとりかふたりの子どもと中流生活」)。そのため若い夫婦は一種の板ばさみ状態のなかで「少子」を選択してきたということらしい。●2
そもそも家族はわたしたちがつくりだすものである。しかし、つくりだされた家族現象はあたかも自然現象のようにわたしたちの手を離れて解釈されてしまう。そしてその解釈が今度はわたしたちの知識に介入するのだ。
同じことがもはや古典的なテーマとなった「核家族化」の問題についてもいえる。この問題にしても、それが「問題」であるのはなぜかについて反省してみると、「問題」であること自体が「問題」ではないかと思えてくる。このことばによって、わたしたちは、家族が地域社会から孤立し、子どもが過保護になり、老人の居場所がなくなるといった局面を、すべて「時代の流れ」として誤解してしまう。そこには主体としての自分たちがいない。じっさい、近代化・都市化・産業化という流れによって自動的に核家族化するのではない。家族社会学の研究によれば、夫婦家族制の理念の浸透が重要な要因であるがわかっている。●3つまり人びとが「家族はどうあるべきか」という問いに対する答として選択した結果のインテグラルが「核家族化」として現象するのであって、核家族化という潮流に対して人びとが無抵抗に流されているのではない。しかし、議論では往々にして自動的な「時代の流れ」として処理されてしまうのである。
7-1-2: 障害
次に障害に対するわたしたちの認識を点検してみよう。
わたしたち日本人は往々にして障害をごく少数の人びとの問題と考えがちだ。たしかに日本社会における障害者の割合は非常に少ない。日本の障害者の割合はスウェーデンの八分の一である。これは「障害者が少ない」からではなく、日本社会における「障害」の概念が非常に狭くとられているからである。●4
また、わたしたちは「障害があると必ず不幸だ」とも考えがちである。これも大きな問題だ。なぜ問題かというと、このことばにおける障害の概念が、じっさいには複雑な因果系列であるものを不当に圧縮して単純化してしまっているからである。しかし現実の障害は、かなり複雑なプロセスなのである。それを示すためにWHO(世界保健機構)による障害概念の定義を見てみよう。
WHOによると、障害は、器官レベル・個人レベル・社会レベルの三つのレベルにわけられる。障害の一次的レベルは、疾病から直接生じてくる生物学的な「機能障害」(impairment)のレベルである。障害の二次的レベルは、機能障害によって、通常当然おこなうことができると考えられる行為が制限されたり不可能になる状態をさす「能力低下」(disability)である。三次的レベルは、その結果、かつてもっていたか、当然保障されるべき基本的人権の行使が制約または妨げられ、正当な社会的役割を果たせないことをさす「社会的不利」(handicap)である。
たとえば、事故によって片足を切断した人の場合、機能障害のレベルでは、ひざから下がないことである。能力低下のレベルは、そのままでは歩けないということだ。そして社会的不利のレベルは、一部の肉体労働やラッシュ時の通勤の困難を理由として会社勤務ができなくなるということに相当する。たいせつなことは、この三つのレベルが自動的に連鎖するとはかぎらないということだ。片足がなくても、車イスや松葉杖を使用して移動することは可能だし、サッカーはできないにしても座って作業する労働や事務労働については支障はない。このように機能障害がただちに能力低下を意味するわけではない。それが社会的不利へと連鎖するかどうかは、少なくとも本質的には、わたしたちのリアクションしだいなのである。
障害概念を三つのレベルに分析的に区別することは一見アカデミックな行為に見えるかもしれない。しかし、それによって、障害の本質がじつは障害と社会環境の関係であることをはっきりと認識できるようになる。わたしたちは障害をあたかも物理的現象(あるいは生物学的現象)であるかのように議論し、そのことを通じてじっさいに差別の一翼を担っているのであるが、障害はまぎれもなく社会現象なのである。「障害は不自由ではあるが不幸ではない。障害者を不幸にしているのは社会である」というヘレン・ケラーの有名な指摘はこの点を突いている。
要するに、因果関係の順序が逆なのだ。結果にすぎないことを原因と錯誤してしまっているのである。さらにその錯誤自体が原因となって──たとえば企業の人事に決定権をもつ人が、機能障害を能力低下と一体のものであるという知識をもつことによって、採用のさいに障害者を何の考えもなく自動的に排除してしまうことを通じて──障害者の生活チャンスがじっさいに制約を受ける。その結果、障害者はほんとうに「不幸」になってしまう。悪循環の構造に気づいていくことが必要なのはこのためである。
7-1-3: 自然的態度
少子化と障害についての考察は、わたしたちにさしあたり次のようなことを教えてくれる。すなわち、反省的な態度で現象を見定めるのはたいへんにむずかしいということ、これは日常的意識のレベルにおいても、また、科学的研究のレベルにおいてもそうだということだ。
日常的意識の水準における非反省的な態度を、かつてアルフレッド・シュッツは「自然的態度」(natural attitude) と呼んだ。●5「自然的態度」とは日常生活の諸々のできごとを自明視することだ。つまり、日常生活者は日常のさまざまのできごとが現に目の前にあらわれている姿以外のものであるかもしれないという疑念をあらかじめ封じてしまい、あたりまえのことと感じてしまう。わたしたちは「ふだんのこと」に関しては、とくに関心を払わず「そんなものだ」と信じてしまっていて、「ひょっとすると別の可能性もあるな」とは考えないものだ。そのような状態が「自然的態度」である。
ふだんわたしたちは、このような自然的態度において、型にはまった知識に基づいて行動したり判断をする。そのような知識は一般に「常識」と呼ばれている。典型的には「ステレオタイプ」(stereotype)とか「クリーシェ」(cliche`)といわれる言語形式として、わたしたちの頭のなかに宿っていて、日常生活においてあたかも合言葉のように頻繁に使用される。ウォルター・リップマンが指摘するように、それは一種の「思考の節約」のためである。わたしたちは、とりたてて支障のないかぎり、なるべくコストとトラブルの少ない方法で生活するのである。●6
かつてカール・マルクスがこういう指摘をしたことがある。資本から利子が生まれ、土地から地代が生まれ、労働から労賃が生まれるということが、生産当事者にとって自然なことのように感じられていることは、ちょっと考えてみると不思議なことであるというのだ。あるいは、たんなる紙にすぎない貨幣があたかも一定の価値を内蔵しているかのように見なされているという事実も、考えてみれば不思議なことだとマルクスはいう。モノがたんなるモノ以上のものとして──つまり価値が宿っているモノとして──人びとが認識し、尊重し、ときにはそれをめぐって醜い争いさえしてしまう。これは古代や中世の人びとが山や天候に神が宿っていると考えたり神の意志の現われと見なし怖れたのとまったく同じである。そこで、マルクスはこのような現象に対して「物神性(フェティシズム)」(Fetischismus)●7とか「日常生活の宗教」(Religion des Alltagslebens)●8といった表現を使った。これらは一種の信仰のようなものだというのだ。
7-1-4: 物象化
他方、社会現象を科学的もしくは理論的に見ようとする場合にも、非反省的な態度があらわれる。さきほどの例でいえば、少子化や核家族化をあたかも自然現象のように見なす人口学的な見方とそれに呼応する行政的対応がその典型である。技術的認識関心もしくは政策的意図によってなされた理論は概してそうなりがちである。
このような非反省的な社会認識への傾きを「物象化」(Versachlichung/reification)という。物象化とは、要するに、自分たちがつくりだした結果に対して、あたかも自然現象のように自明かつ自動的なものと錯覚してしまうことだ。もちろん、ここでいう「自分たち」は「自分」ではないから、自分以外の人びとが勝手にやったことなんか自分の知ったことでないのはたしかだけれども、それを自明のものと黙認し、結果だけを享受していることは、じつはその事態の再生産にかかわっていることと等しい。社会現象においては第三者的傍観者も共犯なのである。
このあたりの事情について説明するために、一種の限界事例として「カリスマ」について考えてみよう。一般には「あの人にはカリスマ性がある」とか「若者たちのカリスマ」といった使われ方をすることばであるが、「カリスマ」(Charisma)はもともとキリスト教神学の用語であり、それをマックス・ウェーバーという社会学者が宗教の成立についての議論のなかで理論的始点として設定した宗教社会学上の概念である。●9ウェーバーによれば、カリスマとは、ある人物に宿ったと見なされる非日常的な資質のことである。たとえば、予言をしたり、飢饉のときに祈祷して雨を降らしたり、神がかってトランス状態になったり、人の前世をいい当てたり、病気を癒したり、あるいはそばにいるだけで至福の気分にさせたりするといった超人間的・超自然的な能力をいう。
ウェーバーはこのような能力が自然科学的な意味で実在するかどうかは問題ではないという。それを認める帰依者が存在すれば、それはかれらにとっては実在するといえるからだ。さきほどの定義でいうと「見なされる」にポイントがある。帰依者がカリスマを承認すれば、カリスマは実在する。もちろん「社会的に」である。つまりカリスマは、帰依者たちによってつくりだされる、れっきとした社会現象なのである。
ところで、近年のオカルト文化(呪術的大衆文化)の流行のなかで、かつては占い師や超能力者が、昨今は霊能者がさかんにもてはやされている。真摯に信じている人もいるが、おおかたは一種のエンターテイメントとして受け取っているようだ。しかし一方では科学的な合理主義の立場からの批判もなされている。これは新新宗教をふくむ新宗教(幕末期以降に成立した宗教教団や宗教運動)に対する日本の知識人の厳しい非難にも共通する反応で、要するに、非合理なカリスマは科学的には(より正確には自然科学的には)認められないというのである。超能力や霊能力は自然現象ではなく、それを信じる人の錯覚や自己暗示によるのであり、よしんばそのように観察されたとしても何らかの形で自然現象として──たとえばプラズマ現象として──説明できるとするのである。
このようにカリスマをはじめとする宗教的現象を人びとは自然現象として論じている。実在するという人たちでさえ(たとえば呪術者や宗教者側)「科学がまだそこまで達していないだけだ」という主張をする。要するに、いずれの側も、社会現象であるカリスマを自然現象として論じているのである。社会現象を自然現象としていくら議論しても始まらない。議論の土俵そのものがちがっている。プロレスのリングで相撲をするようなものだ。
これが物象化の内実である。わたしたちがかかわりあうなかで発生する社会的事象を、あたかもモノのような自然現象として錯覚し自明化してしまうこと──これが社会認識の最大のむずかしさなのである。
さきほど取り上げた貨幣にしても、じつは商品と商品の関係に基礎をもっており、さらに根底には商品と商品を交換する人間の行為が存在する。この交換という〈人と人との関係〉が、結果的として、あたかも貨幣に価値が内在しているかのように現象するのだ。物象化は通常「人と人との関係がモノとモノの関係としてあらわれたり、モノ自体の属性としてあらわれること」と定義されるが、それはこのようなことをいう。
わたしたちは社会的事象を既定性の枠内でとらえがちだ。それは自然の事物のように変更不可能な存在なのだ、と。しかし、それは物象化的錯視である。それを疑うことから社会学的反省は始まる。
7-2: 二 脱物象化の知的可能性
7-2-1: 予言の自己成就
物象化の認識上の帰結は、社会現象の原因と結果をしばしば取りちがえてしまうことだ。つまり、一連の活動や意識や関係の〈結果〉として生じた現象を、逆に一連の現象の〈原因〉と錯視してしまうのだ。
社会現象にはしばしば「結果が原因となり、原因が結果となる」因果系列のメビウスの輪が生じる。これに関連するふたつの社会学的名言を紹介しよう。
まずエミール・デュルケムのことば。「われわれが犯罪を非難するのは、それが犯罪だからではない。われわれが非難するから、それは犯罪なのだ。」●10次にカール・マルクスが『資本論』の注の片隅に書いた一節。「この人が王であるのは、ただ、他の人びとが彼に対して臣下としてふるまうからでしかない。ところが、彼らは、反対に、かれが王だから自分たちは臣下なのだとおもうのである。」●11
いずれも反省的で主体的な捉え方といえよう。つまり、「犯罪」とはわたしたちが非難した行為をいうのに、わたしたちは「犯罪」だから非難されるべきだと素朴に考えてしまっている。「犯罪」にするのは他でもないわたしたち自身であることをわたしたちは忘れている。また「権力者」は権力をもつから権力者なのではなく、人びとが自発的に服従するからこそ「権力者」なのである。そしてこの権力の〈秘密〉に、服従する人びとはなかなか気づかない。デュルケムは常識を偏見に満ちたものと考えていたが、わたしたちも同じように常識を物象化的錯視に満ちたものとひとまず考えておこう。社会学的反省は、物象化的錯視を徹底的に疑い、認識しているわたしたち自身の実践の産物として捉え返すことから始まる。
ところで、この物象化的錯視はそれ自体が社会の構成要素として作用し、少々やっかいな問題を社会にもたらす。この点について明晰に指摘したのは、アメリカの社会学者ロバート・K・マートンだった。かれは「自己成就する予言」(self-fulfilling prophecy)として、いわゆる「予言の自己成就」のメカニズムを明確に説明した。●12
マートンは著名な社会学者ウィリアム・I・トマスの「もしひとが状況を真実(リアル)であると決めれば、その状況は結果においても真実(リアル)である」という記述に着目し、これを「トマスの定理」と呼んだ。そしてそれを展開する形で「予言の自己成就」について論じた。●13
たとえば「地価は必ず上がる」と人びとが信じると、結果的に土地は上がる。「株は必ずもうかる」と人びとが信じているかぎり、株価は上がり続ける。人びとが信じるのをやめたとき、それは客観的に事実ではなくなる。「あの信用金庫は危ない」という事実無根のうわさを町の人びとが信じて一斉に預金を降ろしてしまったら、ほんとうにその信用金庫は倒産の危機に直面してしまう。さきほど問題点を指摘した「障害者の不幸」も同じメカニズムである。
あるいはこういうのはどうだろう。ひと通りの「常識」を身につけた白人のアメリカ人が、他人の行動を評価する場合。「リンカーンが夜遅くまで働いたことは、彼が勤勉で、不屈の意志をもち、忍耐心に富み、一生懸命に自己の能力を発揮しようとした事実を証明するものだとされる。ところが外集団のユダヤ人や日本人が同じ時刻まで夜働くと、それは彼らのがむしゃら根性を物語るものであり、また彼らがアメリカ的水準を容赦なく切りくずし、不公正なやり方で競争している証左だとされるだけである。」●14
また、レイベリング理論の示唆するところによると、人びとが前科のある者を「ふたたび犯罪を犯す可能性の高い危険な人物」と見なすことによって、服役終了後に社会復帰しようとする者の再就職の道が閉ざされ、じっさいの生活が追い詰められることによって、結果的に犯罪を犯してしまう。逆の例だと、ある政治家が「陰の実力者」であるとの評判が広まることによって、さまざまな人がその人物を頼りにし、実力者として遇することによって、その人物はますます政治的な実力者となってゆく。
このプロセスは受験界でもしばしば観察される。ある学校の偏差値が上がると、翌年の受験生はそれを知っているから、高い偏差値の受験生が志望するようになる。それによってその学校の偏差値はますます上がる。
「予言の自己成就」とはこういうことだ。人びとが自分たちの共有している知識に基づいて行為することによって、その知識が現実のものとなって自己成就する。このようなしばしば悲劇的な循環運動こそ、自然現象とは根本的に異なる「社会」現象特有のものである。この循環運動を悲劇的なものにしないためには、個々の社会現象に対するわたしたちの認識を反省的なものにしていくことが必要だ。わたしたちの常識のなかに潜む物象化傾向を排除していく知的努力が必要なのだ。それゆえ社会学は「自明化された常識を疑う」ことから始める。「脱常識」が要請されるのである。●15
7-2-2: 問題状況と脱物象化
「こうであって、ああでないのはなぜなのか?」「世界は、われわれに見えているのとはちがうかもしれない」という疑いをもつことから覚醒した反省的認識は始まる。では、どういうときに反省的認識は生じるのだろうか。あるいは、物象化的錯視から逃れる方法はあるのだろうか。
ピーター・L・バーガーとスタンリー・プルバーグは「脱物象化」の一般例として三つの場合をあげている。●16
(1)自明視されていた世界の崩壊を必然的に伴う社会構造の全面的崩壊。
(2)文化接触によるカルチャー・ショック。
(3)社会的にマージナルな位置にある個人や集団。
わたしたちの文脈でいえば、この三ケースは反省的認識が生じやすいチャンス(機会もしくは可能性)を意味する。これらがきっかけとなって脱物象化としてのリフレクションが生じる。もう少し説明を加えよう。
まず第一に、社会構造が全面的に崩壊して、それまで「あたりまえだ」とされていたことが「あたりまえ」でなくなってしまう場合。たとえば半世紀前に太平洋戦争が終結したとき日本人が共通に経験したことが、まさにこれだった。戦争や革命、急速な技術革新や都市化、経済恐慌、インフレーションなど、既成の日常生活を支えていた安定した社会構造が何らかの理由によって不安定化してしまったとき、わたしたちは生きるために根本から考え直す。それは切実な生存欲求に基づいた実践的な反省である。
第二に、文化接触によるカルチャー・ショックの場合。江戸時代末期から明治時代初期の「文明開化」のケースのように、閉鎖的な自国文化が他国の異質な文化を受け入れるとき、さまざまな驚きが体験される。あるいは外国を旅行する人は、当地ではごくあたりまえの日常的なことがらにいちいちショックを受けるものだ。この驚きやショックは異文化に対する違和感や拒絶からはじまるが、やがてその異文化を理解でき受容できるようになると、今度は異文化の視点から自分たちの文化に対して距離をとって見ることができるようになる。「他者の視点から自分を見る」──つまり反省である。
第三に、マージナルな位置にある個人や集団の場合。社会学においては「マージナル・マン」(marginal man)とか「マイノリティ・グループ」(minority group)と呼ばれる。「マージナル」とは「周辺的」「周縁的」「境界上の」のこと。「中心」に対して「周辺」「周縁」である。あるいは複数の集団の「あいだ」に位置することをいう。たとえば、序論で論じたような企業社会のあり方の問題性に最初に気づくのは、男子正社員の中核社員ではない。むしろ新人・パートタイマー・女性・外国人・障害者・フリーランス・派遣社員の方だ。家族の性別役割分担の非合理性に問題を感じるのは、働く妻である。社会制度が一見公平に見えてじつは差別的な構造をもっていることを感じるのは、差別されている側の人びとである。
このように習慣的パターンが正常に生じないときや予期しない反応に直面したとき、あるいは不本意な待遇を受けたとき、つまり「問題状況」(問題をはらんだ事態)において人びとはそれまでの物象化された目で見ることをやめ、反省的な知性を作動させることによって脱物象化をおこなうのである。自明性が失われた非日常的な問題状況においてリフレクションが活性化するのは、一種の異化効果が生じるからだ。「異化」(Verfremdung) とは「まずその出来事ないしは性格から当然なもの、既知のもの、明白なものを取り去って、それに対する驚きや好奇心をつくりだすこと」である。多くの人びとにとっての既定の事実が、疑わしいものに見えるようにすることだ。●17対義語は「同化」である。
一般に、問題状況がリフレクションを活性化させる。問題状況が反省的な感受性もしくは感受能力を生むのだ。その意味でリフレクション──わたしはこれを「社会学的な感受性」と呼びたいのだが──も社会状況の関数のようなものなのである。
7-2-3: 社会の複合性
異化効果をもつ非日常的な問題状況をのぞくと、自明性の深部に存在する物象化現象は露出しにくい。おそらくそれは日常生活者の知的怠慢のせいではあるまい。社会のありようがそうさせていると、ひとまず考えることができる。というのは、現代社会においては相互依存性がますます増大しているために、多少の異化効果が生じても、かんたんには構造が見えにくいからである。当然、錯覚することも多いし、ステレオタイプやクリーシェのイデオロギー的役割も大きくなる。
たとえば、社会問題の現象の仕方にそれは鮮明にあらわれる。梶田孝道は一九七〇年代なかごろの自動車排出ガス問題を事例にして、明晰にこの点を分析している。
梶田によると、現代の社会問題は、ひとつの特殊な領域だけではもはや処理できないほど、さまざまな領域と複雑に連鎖している。たとえば自動車排出ガス規制問題は、たんに公害問題であるだけでなく、自動車産業問題であり、道路建設問題であり、運輸問題であり、エネルギー問題でもある。関係する主体も、自動車産業・関連業界・道路建設者・通産省・ユーザー・歩行者・道路周辺住民など、じつに広範囲にわたる。これらが「加害者」「被害者」にふりわけられるわけだが、人びとはあるときは歩行者として被害者であるが、あるときにはユーザーとして加害者である、というように、すべての人びとが被害者であると同時に加害者でありうる(相互共犯性)。しかも加害はしばしば迂回的にあらわれる。たとえば、みんながクルマに乗るから道路が込み、そのためバスなどの公共交通手段のサービスが低下し(いつ来るかわからない朝のバス)、その結果、マイカーが増加する……といったように。このような場合、問題が深刻であっても、被害を集中的に被っている人びとがいないので運動が形成されにくく(つまり声を上げる人がいない)しかも加害者が拡散しているため焦点も定まりにくい(敵をしぼれない)。●18
社会全体が相互依存性を高めているとは、こういうことである。その社会的現実をつくりだしているのは、たしかにわたしたち自身の日々の活動であるにもかかわらず、わたしたちはそれを自分たちのものと認識できず、したがって、それとは別の現実をつくりだせるという可能性に気がつかないでいる。
その意味では、今どきのリフレクションは手間ひまのかかることになっている。「反省」ということばで一般に思われているような単純な心理的過程ではすまないのだ。それは多くの科学的な認識装置を準備してはじめて可能になるようなことなのだ。それを現代人は覚悟しなければならない。社会学が、自己反省の回路が閉ざされ物象化された意識をひらく知的営為として、つまり〈社会学的反省〉を促進する〈明識の科学〉として存在意義をもつのは、こういう理由からである。
7-3: 三 行為論的社会像
7-3-1: 行為論的人間像
脱物象化の視点に立つと、社会は自然現象のようなものではなくて、他ならぬわたしたち人間によってつくられる現象であることがわかる。それは「つくられる」といってもよいし、「生産される」といってもよいし、「構成される」ともいえる。したがって社会学ではしばしば「社会の生産」とか「社会の構成」といった聞きなれないフレーズを使うことがある。もちろん人間がただ集まるだけで自動的に社会になるわけではない。人びとが相互に行為しあうこと(相互作用)によってはじめて社会がつくられるのである。このような考え方を「行為論」(action theory)という。
「行為によって社会がつくられる」という考え方は一見自明に見えるかもしれない。しかし人びとはそれを徹底するということをしない。ところが、それを徹底してゆくと──「理論」とはそういう営みである──なかなかにラディカルな見方になるのだ。たとえばウェーバーは「『国家』というものは、ある種の、有意味的に方向づけられた社会的行為が経過するというチャンスが消滅するやいなや、社会学的には『存在する』のを止める」という。●19ジンメルも「われわれが国家や法や制度や流行などの本質的特徴や発展について触れるさいに、それらをあたかも統一的な実在であるかのように取り扱うということは、一つの方法上の救済策にすぎない」と述べている。●20このように、強固な自然物のような存在と見なされがちな国家でさえも、行為の集積の結果として流動的に捉えられてしまう。それは基本的に脱物象化の視点なのである。
人間が社会をつくる。しかし、それはもちろん「白いキャンバスに絵を描く」ようにではない。わたしたちは、すでにある社会に生まれてくるのであり、社会のなかで一人前の個人になる。そして、社会の歴史的に積み上げられた土俵のなかで、さまざまに錯綜する複雑な条件のもとで行為するのである。ピーター・L・バーガーとトーマス・ルックマンがたくみに定式化しているように「社会は人間の産物である。社会は客観的な現実である。人間は社会の産物である」ことにはちがいないが、●21このプロセスはとても複雑で、分析も説明も容易ではない。この点については次章以下でも引き続き考えることになるだろう。ここではさしあたり議論の始点として「社会をつくる人間」に着目して「社会に対して能動的で産出的な人間」という論点にしぼって説明しておこう。
基本構図はミードによってほぼ与えられている。ミードによると、人間はコミュニケーションによって他者の態度を取り入れる。これを「役割取得」(role-taking)という。役割取得とは、自分が他人のなかに呼び起こす反応を自分自身のなかに呼び起こすことであり、それは音声身ぶり(ことば)によって可能になるコミュニケーションである。このメカニズムについては、すでに第一章第三節で説明しておいた。自分のなかに取り入れた他者の態度(と見なしたもの)の組織化されたセットを「客我」(me)という。いわば「わが内なる他者」である。このようにコミュニケーションによって人間は他者の態度を受け入れ、その結果、社会化される。つまり、やってはいけないことを学び、他人とのつきあい方のルールを学び、何をすれば他人から評価されるかを知る。自分の身ぶりがおかれている土俵と手持ちの札を認識するわけだ。
ところが、人間は社会化されることによって、他者の期待を知って社会に適応するだけではない。じっさいには、この客我に対して自己の内部に新しい反応が生じるのである。これを「主我」(I)という。主我は、他者の期待に対する個性的な反応であり、新しいものをつくりだす創造性である。これを「主我は創発性をもつ」という。たとえば、学者が既存の理論を読みこなすことによって新たな理論の着想をえるように、あるいは詩人や芸術家が自然物の観察から独創的な表現を編みだすように、もっと日常的な場面に即していえば、対人関係のなかで相手が自分に期待している役割をそのまま演じるのではなく自分なりにアレンジしてふるまうように。
客我と主我という概念は機能的な概念(作用を表す概念)であって実体を表しているわけではない。つまり一種のメタファー(隠喩)と思ってもらえばよい。ただそれが「自分」をめぐって表示されているのは、「社会」という新しい(創発的な)存在を生みだす、その実践的根拠が人間に備わったものであるとの確信をあらわしている。人間だけが「社会」を生産する。その秘密は人間独自のこのような特質にあり、さらにその始発点には社会化と個性化を同時に可能にするコミュニケーション──音声身ぶりを用いた反省的なコミュニケーション──がある。
既存の社会を受容し、それに対して主体的にリアクションを返してゆく能力をもった人間。これが行為論的人間像である。それを社会の側から見ると、社会は、人間を一人前の行為者にする一方、その行為者によって修正されつづける存在である。これが行為論的社会像とでもいうべき社会のイメージになる。だから「人間がつくる」といっても、むしろ「修正する」とか「改訂する」といった方が近いかもしれない。人間は、すでに用意された完成品から、それとは少しちがう別のものをつくりだすのであり、目の前に完成品があるからこそ、別のものをつくりだそうとする、ともいえる。前と同じ社会を反復的に再現しつづけることももちろんありうることである。ギデンスはこれを「社会の再生産」(reproduction of society)と呼び、新しい社会をつくりだす「社会の生産」(production of society)と区別しているが、しかしたいせつなことは「すべての再生産は、必然的に生産である」ということである。●22
7-3-2: 社会現象の原型としての言語
「人間が社会を生産し再生産する」とはどういうことか。社会現象のひとつの例として言語について考えてみよう。
そもそも言語は社会現象のプロトタイプ(原型)である。それゆえこれまで多くの社会理論家が言語に注目してきた。構造主義しかり、ミシェル・フーコーしかり。あるいは言語学者自身が社会理論家として読まれてきた。社会学者がそのことに気づいたのは比較的最近のことである。さっそく基本的な構図を説明しよう。
まず第一に、言語は行為の媒体である。「媒体」はmediaの訳語である。たとえば、わたしとあなたが容易に対話でき、それによっておたがいの気持ちを伝えあうことがたやすくできるのは、共通の言語があるからだ。ミード流にいえば、そんなものがないとしてもコミュニケーションは可能だが、あれば短時間で効率よく思い通りのコミュニケーションがとれる。この場合、言語はコミュニケーションの媒体であり、行為のやりとりの中心的媒体である。なぜ媒体として機能するかといえば、ふたりともその言語とその使い方と背景的なさまざまなことがらについての知識をほぼ共有しているからである。このように言語は日常生活者の共通の「常識」として既定性をもち、あたかも道具のように行為の媒体となる。
ところが、言語は、モノのようにどこかに客観的に存在しているかというと、そんなことはない。話されたことばは形をとどめないし、文字でさえも、それを理解できる人間がいてはじめて言語といえるのだから。つまり、それをわかる主体(人間)がいなくては言語は言語として存在しないのである。たとえばそれは空気の振動でありインクのしみであり磁気の分布にすぎない。その言語を理解し話す能力をもつ人間がじっさいに対話し、読み書きの行為をするときにのみ言語は実在する。この場合、言語はそれについての知識をもつ人間たちの行為の産物であり結果である。
このように言語は、一方で人間の行為を可能にする媒体であると同時に、他方では人間の行為によって現実のものとなる行為の産物である。人間の行為に対するこの二重性こそ社会現象の基本性格といえるものだ。
このことをさらに考えてみよう。言語には一定の抽象的法則がある。それをわたしたちは一般に「文法」と呼ぶ。ネイティヴ・スピーカーは「文法」に即して上手にしゃべることができる。しかし、これもどこかに「文法」として存在するものではない。わたしたちが母国語を使って対話するそのプロセスそれ自体に「文法」が作用しているのであり、それは特別に成文化されないかぎり、話す主体には意識されないのである。この場合、「文法」は規則であり構造である。見えないが、それは行為のただなかにあって行為を規制する。
このあたりの事情をギデンスは次のようにまとめている。「発話者は、文を発話するとき、その発話行為を産出するにあたって構文規則構造に依拠している。規則はこの意味において発話者がいうことをうみだしている。しかし文法的に話すという行為はまた、発話を産出する規則を再生産するのであり、規則はただこのようにしてしか『存在』できないのである。」●23
今度は創造性について目を転じると、わたしたちは、かぎられた語彙と規則のなかで、無限に文を創造することができる。複雑な哲学的思索を語ることもできれば、シュールリアリズムの詩人のようにまったく新しいことをいうこともできる。ノーム・チョムスキーはこれを「言語能力」(linguistic competence)と呼んだ。●24これは構造的枠組みのなかでも行為にほぼ無限の可能性があることを示唆する。いわゆる「規則に支配された創造性」(rule governed creativity)である。
それに対して、わたしたちが自由に文を使用するなかで、しだいに変形が生じ「文法」そのものが結果的に変形してしまうことがある。最近話題になった「食べれる」の使い方のように。それは文法規則を修正したり洗練したり単純化や複雑化をもたらす。もちろん発話者たちの使い方に原因があるはずだが、当事者たちはたいていの場合それを意識していない。意識していないが、自分たちなりに使っているうちにそれを変えてしまう。いわゆる「規則を変える創造性」(rule changing creativity)である。
このように言語は、独立した社会現象として人間の行為の媒体として利用されるとともに、それ自体、行為の産物である。それは構造的枠組みとして行為を条件づけ規制するとともに、行為の創造性の源泉ともなる。言語は社会現象のすべての特性をもつわけではないが、基本的な特性を兼ね備えた社会現象だから、以上のようなことがさまざまな社会現象について公約数的な意味でいえる。
たとえば次章でくわしく論じる「役割」にしても、わたしたちの行為は他者から期待された役割によって条件づけられ規制されるとともに、わたしたちはその役割を媒体にして──それを自分なりに演じることにより──自己表現したり自己実現を果たしたりするのである。
7-3-3: 行為の諸類型
さて、行為と一言ですませるには、行為はあまりに多様である。また、そこには相当に性質の異なるタイプがふくまれているのであって、せめてこれらを分類し、きめ細かく分析するのは当然のなりゆきである。そこで次に「行為の諸類型」といわれる分類を見ていこう。
もっとも古典的な分類はマックス・ウェーバーのものである。ウェーバーは社会の基本単位である社会的行為を四類型にわけている。●25
(1)目的合理的行為——目的・手段・副次的結果を予想し考慮した行為。目的と手段の関係が合理的。
(2)価値合理的行為——倫理・芸術・宗教など固有の絶対的価値を意識的に信じることによって生じる行為。予想される結果にとらわれない。
(3)感情的行為——感情や情緒による行為。
(4)伝統的行為——身についた習慣による行為。
たとえば大学教育の現場における教員の行為を考えてみよう。初回の授業を通常より短いオリエンテーションですませるのは伝統的行為である。文系学部で授業の前後10分程度の余裕をもたせるのも伝統的行為である(ただしこれは理系学部では通用しないことがある)。学生の評価として受講者全員に一律Aをつけないで、学生と教員の双方に大きな負担となる試験やレポートを課し、手間ひまかけて評価するのは「学問的良心」に基づく価値合理的行為である。学生の私語に対して注意するのは、授業を円滑に進行させるための目的合理的行為であるが、しばしば感情的行為でもある。
では、学生の場合はどうだろうか。出席をとらない授業にでないのは目的合理的である。その分コストは格段に節約できるからだ。しかし一方で、学問への知的興味をもつ学生にとって魅力ある講義に出席するのは、それなりに目的合理的である。しかし「授業を休むのはよくないことだ」という道徳的動機であれば、それは価値合理的といえるし、あまりに出席者が少ないために教員をかわいそうだと感じてムリして出席していれば(こういう学生が実在するとは思えないが)それは一種の感情的行為であろう。
会社で働くサラリーマンの場合を考えてみよう。ある商品を売るために新たに販売戦略を練り、計画通りに実行していくとき、それは目的合理的行為である。しかし、前任者と同じ方法で定番商品をあつかうときはむしろ伝統的行為に近い。ワーカホリック(仕事中毒症)といわれる人びとの行為は、その仕事への情熱の源泉が仕事そのものの魅力にある場合は感情的行為の側面をもつし、それを管理職としての義務と感じていれば価値合理的行為である。しかし、それによって上司に「仕事ができるやつ」と思わせて人事考課をよくしようとするためであれば、たぶんに目的合理的行為である。
ウェーバーの行為類型の区分の基準は合理化の程度と質であるが、このなかでとくにおもしろいのは価値合理的行為だろう。たとえば宗教行為は一般的に非合理的と考えがちだが、ウェーバーの行為類型によると価値合理的行為ということになる。つまり宗教行為はある価値(神・法・戒律など)に対して徹底的に合理的な行為なのである。医療行為や看護行為やボランティア活動も人間の生命や福祉に対する近代的な価値観に基づく価値合理的な色彩の強い行為である。ジャーナリズム活動も、それがときには危険をともなうことを考えれば価値合理的であるとしてもかまわないだろう。犯罪・非行・暴走・暴力などの行為も、目的のためには手段を選ばない点では目的合理的行為であるが、準拠する逸脱集団の価値観に基づいているならば一種の価値合理的行為でもありうる。
わたしはウェーバーの行為類型をいささか乱用しすぎたかもしれない。しかし、あえてそうしたのは、わたしたちのさまざまな行為が意外な共通点をもつことを理解していただきたかったからである。それに加えて〈合理─非合理〉の軸によって人間の活動を見ることのおもしろさにも注目してほしかった。なおこのうち「伝統的行為」は「社会の再生産」につながる行為であるが、「社会の生産」に関わる重要な行為が欠落しているように思われる。もちろん「目的合理的行為」はそのひとつと考えていいだろうが……。そのあたりをもう少し考えてみよう。
7-3-4: 予期しない結果・潜在的機能・文化の悲劇
ところで、目的合理的行為のように人間があれこれと計算して行為した場合でも、結果が思惑通りになるとはかぎらない。むしろちがうのがふつうである。行為の主観的意味とその客観的結果のあいだにはズレがある。このズレのことを社会学では「予期しない結果」(もしくは「意図せざる結果」ともいわれる)(unanticipated consequences)とか「潜在的機能」(latent function)といった概念によって定式化している。
たとえば、これらの概念の提案者であるマートンによれば、ホピ族の雨乞いの儀式は一般的に「未開民族の迷信的慣行」と片づけられてしまうが、じつは、各地に散在するメンバーが一同に会して雨乞いという共同活動に参加することによって、結果的に集団としてのアイデンティティを強化する潜在的機能を果たしているという。ただ、儀式の目的とその現実的結果とが一致しないだけだ(それゆえ、その機能は「潜在的」である)。●26
またウェーバーは、プロテスタントの宗教的動機による世俗内禁欲(この世での生活をできるかぎり質素でムダのないものにしようとする生活態度)から資本主義の離陸が始まったと主張した古典的論文「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」のなかで「宗教改革の文化的影響の多くが[中略]改革者たちの事業から生じた、予期されない、いや全然意図されなかった結果であり、しばしば、彼ら自身の念頭にあったものとは遥かにかけはなれた、あるいはむしろ正反対のものだった」と再確認している。●27
人びとが行為するときにはそれなりの理由があるものだが、その行為によって新たにつくりだされた社会的現実は、当事者の人びとの考えていた理由と一致するとはかぎらず、むしろ当事者の思いもかけなかった結果を引き起こすものだ。しかも、その「予期しない結果」は、第三者から見てようやく発見できるものであったり、事後的に見てはじめて解釈できるものであったりする。新たにつくりだされた社会的現実は当事者の意味を離れて、多様に解釈可能な多機能体に変じるのだ。
このような事態に対して、かつてジンメルは「文化の悲劇」と名づけた。●28こうなると、結果としての社会現象から、それをつくりだした人びとの行為と意味をたどるのは至難の業である。しかし人間は、悲劇的な状況をくりかえさないために、さまざまな工夫をこらしてそれをしようとする。それが「反省的行為」である。
7-3-5: 自省的行為のモデル
わたしたちが自分たちの行為によって生みだされた「予期しない結果」に直面したとき高度のリフレクションが発動する。前節で述べた「問題状況」である。これは自分たちがやっていることについての知識と、現に観察できる結果とのずれを認識し、自分たちの知識を修正する作業である。本書ではこれを「反省的行為」と呼んでおきたい。
すでに論じたように人間の行為にはさまざまなものがある。それらはいずれも何らかの形でリフレクションが作用しているはずである。ただしこの場合のリフレクションは、ミードが人間の行為に固有のものとして設定した一般的なリフレクションである。他方で、高度のリフレクションが前面にでた行為もある。つまり行為とその結果自体が主題になったリフレクションである。最近の社会学の行為論のなかには、この行為類型をとくに抽出して、その意義──理論的意義と実践的意義──を強調する動きがある。
その代表的な試みとして今田高俊の「自省的行為のモデル」がある。●29かれによると、行為とは「規則に従いつつこれを使用し、規則に従うことの意味を考えながら目的を達成すること」と定義される。●30そして行為を「慣習的行為」「合理的行為」「自省的行為」の三類型にモデル化する。この場合の「規則」(ルール)は、さしあたりここでは、それぞれの社会において通用している文法や作法のようなものと理解していただければよいと思う。企業社会にはそれなりのルールがあり、官僚の世界や僧侶の世界にもそれなりのルールがあり、女子高生にもやはりそれなりのルールがあるということだ。わたしたちの行為はこのような規則(ルール)との関係で質的に異なる行為類型に分類できる。
まず慣習的行為とは「動機の実現ないし目的達成と規則に従うこととが一致融合している行為」である。●31わたしたちは通常それぞれの社会の規則にしたがっていることを意識しない。自分の目的を達しようとして障害にならないかぎり規則は問題化しないからである。このとき行為者の意識は非反省的な自然的態度の状態である。この場合、行為は構造によってすべて決定されているといえる。わたしたちは自分の生活する社会の一員としてふさわしい欲求をもち、それを適切な手段で実現しようとしているのだから、すべて規則通りである。ウェーバーが「伝統的行為」と呼んだものはこれに相当する。
慣習的行為が「規則に従った行為」とすれば、合理的行為は「規則を使った行為」である。目的が意識的に設定され、その目的を達成するためにもっとも合理的な手段が選ばれる。このとき規則は破られるわけではないが、打算的に考慮されることになる。ときには目的を実現するために道徳的でない手段が選ばれることもありうる。その意味で行為者は相当に意識的である。
ところが、いかに合理的な行為であろうと「意図せざる結果」は避けることができない。それはしばしば社会問題という形で現象する。あるいは世代交代による価値観の変化もある。従来の行為が自明でなくなり、もはや妥当でないと考えられるようになる。自省的行為は、この合理的行為の限界から始まる。●32
わたしが「反省的行為」として強調したいのは、まさに今田の示唆する「自省的行為」である。わたしは本書の後半で「リフレクションの実践」といういい方もするが、これも同様である。ただし、わたしは、リフレクションにとってコミュニケーションが決定的な重要性をもつと考えており、さらに理念的な作用を含めて考えているので、かれの概念をそのまま使用することは、結果的にかれの概念を不当に拡張しているとの批判を招くおそれがあるかもしれない。それを避けるためにも本書では「反省的行為」を使うことにしよう。
さて、反省的行為というと、たとえばロダンの「考える人」のイメージを浮かべてしまったりするかもしれない。しかしそれは反省的行為のひとつの局面にすぎない。反省的行為はむしろダイナミックで活力のみなぎったものなのだ。たとえば反省的行為が前面にあらわれた具体的行為のひとつに社会運動がある。そこで反省的行為の代表として社会運動について検討し、「人間が社会をつくる」こと──とりわけ「社会の生産」の側面──の具体的イメージをえておきたい。
7-3-6: 反省的行為としての社会運動
社会運動は集合的な行為として影響力も大きく、その社会的意義が評価されてしかるべきであるにもかかわらず、従来は「非合理的である」とか「感情的である」として、何かと過小評価されることが多かった。じっさい、社会学研究においても──とくに社会心理学的な研究において──社会運動を非合理的かつ感情的な性格において捉えることが多かった。つまり、人びとの不満が非合理的な形で噴出したものと考えられていたのである。その一方で別の文脈において社会運動は、社会主義をめざす労働者による階級闘争と同じことと見なされた。「社会運動イコール労働運動」の図式もかつてはごく自明のものだった。
ところが一九六〇年代のさまざまな社会運動の噴出は、こうした考え方を大きく変えることになる。人種差別撤廃を主張した公民権運動の全米的盛り上がりと、それにつづく先進諸国における学生運動・フェミニズム運動・ベトナム反戦運動・環境保護運動・公害被害者運動などは、一部に感情的な動きをふくみつつも、大勢としては冷静な現実認識と方法論に貫かれていた。非合理的でもなく「歴史の必然」でもなく、自分たちの主体性に基づいた新しいタイプの社会運動の登場である。社会学ではこれを「新しい社会運動」(new social movements)と呼んで、労働運動中心だった従来の社会運動と区別している。その分岐線は高い反省性にある。
社会運動が反省度を高めた、あるいは高めざるをえなくなったという背景には、現実の大きな変化がある。日本的現実に即して説明してみよう。
梶田孝道の整理によると、日本の公害問題はおおむね次のような段階を経てきたという。かれは、一九六六年までが第一段階であるとする。高度経済成長政策によって水俣病や四日市ぜんそくなどが発生していたにもかかわらず、まだ「社会問題」になっていない段階である。加害企業は黙殺・隠蔽・妨害に終始し、成長と開発志向の地方自治体も公害防止に消極的な時期である。第二段階は一九六七年から一九六九年。四大公害裁判の提訴がきっかけになって、ようやく公害が「社会問題」化する。一部の地方自治体は公害防止に乗りだすが、産業界は真剣に取り組まないために政府の対策も弱体化される時期である。第三段階は一九七〇年から一九七三年。四大公害裁判の勝訴をさかいに、被害者の闘争が勝利する時期である。これに力をえて、光化学スモッグ・ヘドロ・鉛汚染・ひ素中毒・カドミウム・スモンなどの被害者たちが運動を開始する。そして一九七三年以後が第四段階である。この段階になると、空港・新幹線・原子力発電所・石油関連施設などの問題のように、公害問題と産業経済政策問題とが一体化するようになる。これらは国家の政策の方向性とじかにからむ問題であるだけに解決は非常に困難になる。さらに「来るべき次の段階」として「加害者・被害者いずれも可視的には存在せず、それゆえ被害者住民の反対運動が形成されにくい」タイプを指摘している。すでに述べた自動車排出ガス規制問題はたぶんにその要素をもっているという。●33
第四段階以後はたいへん複雑な様相を帯びてくるので、ここでは立ち入らないことにするが、第三段階までのプロセスだけからでも次のようなモデルを見ることができる。
(1)問題が「社会問題」として開示されること
(2)被害者等の告発を起点として「社会運動」が開始されること
(3)運動体自身の組織化が進展すること
(4)新しい紛争の「土俵」が形成されること
(5)新しい状況定義、新しいパースペクティブが採用されること●34
このプロセスをもう少しくだいて説明すると、こういうことだ。まず当事者にとって耐えられないような現実が存在する。それは当初は「仕方がない」と感じられているが、そのうちその現実を受け入れられないと拒否する人びとがあらわれる。「この現実は〈問題〉である」との告発がなされ、「仕方がない」と思ってあきらめている人びとや「問題ではない」とする人びとと活発にコミュニケーションをおこなうようになる。「今とはちがった別の現実がありえるはずで、その可能性を追求し、積極的につくりだしていこう」との強い意志が形成され、運動体の組織化が進む。「仕方がない」「問題ではない」「避けることのできない必然的な現象だ」という見方に対抗するために、問題状況が徹底的に分析され、それについての知識がより高度に更新される。運動が有効に進められるならば、その結果として社会全体に新しい合意がつくりだされ、問題状況の解消が社会的に試みられる。このように社会運動は、社会を反省的に修正してゆく有力な行為なのである。
わたしたちは、社会の変化を、たとえば「技術の進歩」や「時代の流れ」といったフレーズとともに、一種の自然物の変化のように考えがちである。あるいは「政府の方針」や「企業の旺盛な経済活動」によってどうにでも社会が変えられてゆくようにも感じる。しかし、それは一面的な見方であり、傍観者的な見方である。あきらかにわたしたちはこの社会の内部にいるのであり、傍観者として社会の外部にいるわけではない。もっと主体相関的に捉えてゆくことが必要なのだ。リフレクションとは、まず第一に、あらゆる社会現象に対してこのような見方を徹底させてゆくことである。