6: 第一章 反省的知識の系譜
一 情報と明識
二 リフレクションの系譜
三 リフレクションとは何か
6-1: 一 情報と明識
6-1-1: 反省社会学の知識論(1)情報
本格的な議論に入る前に、これまで仮に「ことば」と呼んできたことがらを明確な概念に置きなおそう。「ことば」によって表現されるのは広い意味での「知識」に他ならないから、これからは「知識」という概念を使用することにしたい。
さっそく、ここで「知識とは何か」について考えてみよう。といっても定義の詮索をしようというのではない。序論で再三述べてきたように、いま問われているのは「知識のありよう」とでもいうべきことであって、とりわけ、知識に対するわたしたちのかかわり方である。
大学紛争や反戦・反公害運動などで日本や先進諸国が騒然としていた一九七〇年前後、アメリカ社会学のなかに「反省社会学」(reflexive sociology)という一種の学問運動が盛り上がったことがある。それは当時の若手社会学者たちが時代の雰囲気に敏感に反応したひとつの帰結といえるものだったが、その提唱者として有名なアメリカの社会学者アルヴィン・W・グールドナーの議論から話を始めよう。かれは、社会学者の自己認識についての議論のなかで「知識」(knowledge)を「情報」(information) と「明識」(awareness) に分けて考えていた。このふたつの概念を区別するという素朴なアイデアは、社会を構成するわたしたち全体に適用するとき、なかなか力強い視点になる。そこで、ここでは、あらかじめかれの考え方を一般化して──つまりわたしたちの問題として──論じることにしたい。●1
さて、一般に科学が追求しているのは合理的な知識の拡張である。知識といっても、自然科学が追求するのは「情報としての知識」である。これは一見中立的に見えるし、一般にもそう信じられている。というのも、研究対象(研究されるもの)と研究主体(研究する人)とが明確に分離された上で、研究主体が研究対象に極力影響を及ぼさないようにして観察や実験がおこなわれた上で獲得される知識だからである。しかしグールドナーによると、それは基本的には自然界をコントロールするために生産される知識である。自然環境を人間にとって有用な資源に変えるために、自然の成り立ちと法則を知り、その上で自然環境に対する支配力を高めるテクノロジーを発達させる──これが「情報としての知識」の根底にある発想である。いわば「支配するために知る」知識である。これを「技術的知識」と呼ぶことにしよう。
これは何も自然科学だけの話ではない。社会科学も、自然界に対するのと同じ構図で人間社会をあつかうことによって、社会・組織・人間をコントロールする技術を研究するようになった。この場合も、対象のコントロールのために調査研究しテクノロジーを発達させるという点で「情報」は「技術的知識」である。それはすぐ役に立ち、応用がきき、予測を可能にする。社会科学では、このような知識を意図的にめざす営みをとくに「政策科学」(policy science)と呼んでいるが、そこまででなくても、「客観的な情報」を追求する社会科学であれば大なり小なり政策科学の性格を帯びているといっていいだろう。
6-1-2: 反省社会学の知識論(2)明識
これに対して「明識」(awareness) は「自覚」「(自己)意識」「自己認識」「省察」「洞察」「覚醒」「覚識」などと訳される概念である。グールドナーの訳書では翻訳担当の栗原彬が「明識」という適切な用語を当てている。おそらく「明晰な自己認識」というニュアンスが込められている訳語と推察されるが、そう解釈した上で、ここでも基本的にこの訳語を採用したい。
グールドナーによれば、「明識」とは〈人間自身の時とともに変化していく関心・願望・価値にかかわりのある知識〉であり〈社会的世界における自分の「位置」についての認識を高めるような知識〉である。●2「情報としての知識」が客観性の名のもとに自分自身の存在を禁欲的に度外視してしまうのに対して、「明識としての知識」は、人びととの共生関係としてある社会的世界について、つねに自分自身との関係で反省的に理解するための知識──すなわち「反省的知識」──である。
このように、情報と明識の区別は、知識とそれを知る者との関係性に基づいている。だから「この知識が情報で、あの知識は明識だ」といういい方は適切ではない。むしろ「情報」と知る者との関係の深さが「情報」を「明識」にするのである。
したがって、こういういい方もできる。明識とは〈主体相関的〉な知識である、と。つまり、素朴な主観−客観図式で見ると、情報は客観的な知識である。これに対して、自明化された水準における経験的な個人的知識は主観的であるといえよう。これらに対して明識は、自分自身を計算に入れる点で客観的な情報ともちがうし、自分自身をも対象化する点で主観的な個人的知識とも決定的に異なる。明識は、あらゆる対象を自分自身の関数として自覚的に捉えるという点で〈主体相関的〉な知識であり、それは最終的には〈自分は何者であり、どこにいるのか〉を問いかける。
6-1-3: イデオロギーとしての技術と科学
グールドナーの考え方は、わたしたちの常識的な考え方と若干異なるかもしれないが、この種の議論としては、それほど突出したものではない。知識のありようを問う論者の多くが、大なり小なりかれと似たようなことを述べている。情報と明識に関する理解を深めるために、ここでふたりの論者の興味深い主張を検討しておこう。
まず取り上げたいのは、現代ドイツの代表的社会学者ユルゲン・ハバーマスの初期の論文集『イデオロギーとしての技術と科学』(一九六八年)である。●3
ハバーマスはこの本のなかで、学問(Wissenschaft)の動機(正確には「認識を導く利害関心」)を三つの類型に分けている。かれによると、そもそも何のために人間は「知る」ことを始めるのかというと、それは当然のことながら、みずからの生を維持するためであり、そのためには、現実に対して一定の態度をとらなければならない。そのような態度のとり方として三つあるというのである。その第一に挙げられているのが、自然科学を中心とする経験的で分析的な科学を形成する「技術的認識関心」である。グールドナーの「情報」つまり技術的知識の根っこにあるのがまさにこれにあたる。ハバーマスは、近代自然科学の根底に、さまざまな情報に基づいてできるだけ行動の結果を確実かつ広範囲にコントロールすることへの関心を見いだした。●4
よく「技術は使い方しだいだ」とか「どんな技術も平和利用すればよい」「技術それ自体は中立だ」といわれる。しかし、それはたぶん正確ではない。悪い使い方であれ、平和利用であれ、それはもともと技術それ自体に備わっている傾向性が顕在化したにすぎないと考えるべきだ。いかなる技術もそれが開発され研究され実用化されるときは、いつでも「よい」とされているものだ。たとえば原子力、化学兵器、軍事技術……。つまり、技術のあり方が「よい」か「悪い」かは歴史的価値判断であって、事後的に判定されるものである。いずれにしても技術と科学が一般の人びとに何らかの影響を及ぼさないことはない。「客観中立」というのは、じつは科学者の自己欺瞞なのである。
技術的知識の動機となっている、いわば〈対象をコントロールする意志〉は、わたしたちの日常生活にも浸透している。それはあまりにも深く浸透しているために、なかなか違和感を実感しにくいので、ここでは「対象」すなわち「コントロールされる側」の視点から説明してみたい。
たとえば、人間を「対象」とする現代医療の問題を見てみよう。人びとが医療のありようを非難するとき、よくいわれるのが「患者不在の医療」と「こまぎれ医療」だが、これらは、たまたま現在の医師たちが専門に走りすぎていたり人情味がない、といった現代特有の事情によって生じるのではない。それはもともと近代医学それ自体が内在していた傾向性──それは近代自然科学全体がもっている認識関心である──が、「コントロールされる側」の一般の人びとの眼にはっきりと映ずるようになっただけなのだ。
第一に、近代医学は、まず病気と患者を分離して考える。そして病気の方だけを徹底的に分析していく。したがって、医師が科学的に厳密であろうとすればするほど、患者の〈人間〉の側面を捨象して〈病気〉だけを細かくみていこうとするのは当然のなりゆきである。ときには患者に重い負担をかけることになるになるにもかかわらず検査データはなるべく多い方がいいとの発想もここに由来するし、若い医師であれば、教科書的にあつかいやすい〈病気〉だけを診ることになりがちになってしまう。これが「患者不在の医療」になる理由である。●5
第二に、近代医学は他の多くの自然科学と同様、全体を部分に分解してこまかく分析することによって真理に到達すると考える。そして「部分の欠陥を的確に指摘し、巧みに修理すればたちどころに全体としての人間が元通りになるはずであるという信念」に支えられている。●6いわゆる要素還元主義である。その結果、臓器別に診療科が細分化され、医師はますます専門への傾斜を深め、部品修理的医療すなわち「こまぎれ医療」へ傾斜してしまう。
近代医学のこのような傾向性は、病院死の圧倒的な増加のなかで、なんともやりきれない悲劇的な状況を日常化させている。医師である山崎章郎が『病院で死ぬということ』の前半部で赤裸々に描いているように、何よりも峻厳であるはずの死の場面において、近代医療は、ただコントロールの意志だけを貫徹するためだけに過剰な技術的処置を、静かに死者へと移行しつつある患者に施すのだ。●7
客観的な技術的知識を追求する近代自然科学は、人間に対して「中立」でもなければ「無害」でもない。それは特定の方向へ人間を向かわせしめる力をあらかじめもつのである。「イデオロギーとしての技術と科学」というタイトルは、おおよそこのような意味である。
以上述べたような「技術的認識関心」に対して、ハバーマスは第二の類型として「実践的認識関心」、第三の類型として「解放的認識関心」を挙げるのだが、ここでは、このふたつをまとめて〈反省的知識を導く認識関心〉にあたると位置づけておくにとどめておくことにし、もうひとりの論者の方に話を進めたい。
6-1-4: 解釈する知識
次に、経済学者の佐伯啓思の一連の論考を見ていこう。●8佐伯の著作はいずれも経済学の〈社会学化〉の兆候として興味深いものがあるが、なかでも知識論に関するかれの概念は、わたしたちの議論にちょうど符合する。
かれもまた知識をふたつのありように分ける。そして克服されるべき主流派の知識を〈演技する知識〉と呼ぶ。このさい〈演技する知識〉は〈技術としての知識〉と〈遊びとしての知識〉のふたつからなり、両者の共鳴と反発をさしている。このうち〈技術としての知識〉は、もちろんグールドナーの「情報」つまり技術的知識、ハバーマスの「技術的認識関心」にほぼ対応する。さらにかれが〈遊びとしての知識〉あるいは〈遊戯的知識〉と呼ぶのは、ポストモダンを掲げる一連の現代思想のことである。●9
さて、佐伯が技術的知識をあえて〈演技する知識〉に位置づけるのは次のような理由からだ。悟性の神話を打ち立てることによって、宗教や神秘主義などの前近代の神話を打ちこわしてきた近代科学も、今日ではその客観性を無邪気に信じる人も少なくなっている。そのかわり人びとは悟性の神話をあくまで神話として納得した上で、効果のあるものは使ってみる、という実用的な態度に転じたという。したがって知識人あるいは科学者のしていることは、現実には科学の客観性の演出であり演技になってしまっている。経済学を中心とする政策科学化した社会科学は、その意味で〈演技する知識〉だというのだ。●10
これに対置されるのが〈解釈する知識〉である。佐伯は次のように述べる。「〈解釈する知識〉は、ひとつの時代の精神の古層を知ろうとする作業であり、時代精神の背後に隠された普遍的なものを発掘しようとする作業だ、といってよかろう。それは自己意識のもうひとつの形態である。というより、もはや自己意識(セルフ・コンシャスネス)ではなく自己理解(セルフ・アンダースタンディング)と呼ぶのがふさわしい。しかも〈解釈する知識〉は、その最も根源的な意味で、なおかつ〈演技する知識〉とは反対の意味で、ひとつの実践なのである。それは[中略]事物の意味を解釈することによって、隠された価値を次の時代へ伝承するという実践である。その意味でそれは、やみくもな進歩と新奇を信奉する時代にあっては反時代的な作業であり、しかしそのような時代にこそ必要とされる作業ではないか。」●11
縮約的な表現のため、いささか理解しにくいところもあるが、佐伯が示唆しているのは、自己理解のための〈解釈する知識〉の重要性である。経済学のように科学的客観性を〈演技する知識〉に対して、佐伯は〈解釈する知識〉を対置し、それをみずからの知的課題としているのがわかる。二〇年以上前に社会学内で大きな議論となったことは今だに古びていない、きわめて現代的な課題と認識されているのがわかる。そして、ありがたいことに、社会学はその解答を相当数すでに用意してくれているのである。
6-1-5: 明識性をもつ科学
社会学を学ぶ意味は、技術的知識と異なる動機とスタイルをもつ反省的知識──すなわち明識──に接することにある。換言すれば、透明な自己理解の手がかりとなる「反省のことば」を学び・発見し・討論することにある。
そもそも社会学には情報の側面と明識の側面とがある。しかし、これまでの歴史的経緯から考えても、また現在の研究状況から考えても、社会学の供給する知識は明識性がとても強いといってさしつかえないだろう。とくに一九六〇年代以降の現代社会学には、情報=技術的知識が一見して中立的に見えてじつはきわめて権力的な性格をもっていること(対象をコントロールする意志!)に対して過敏であって、理論的立場を問わず明識志向が強いといえよう。この点で社会学は他の社会科学の比ではない。ここに現代社会学の最大の特質があり、そこがまた同時に社会学のわかりにくさの要因にもなってきた。つまり「役に立つ」情報(技術的知識)の側面はわかりやすいが、「役に立たない」明識(反省的知識)の側面は「何のために」学ぶのかがわかりにくいのである。
経験科学ではないが、人文学といわれる知識領域すなわち哲学・文学・宗教・思想などには、このような明識が存在した。本来の意味でのジャーナリズムもそうである。したがって、社会学はけっして孤立した営みではないはずだが、じっさいにはそうでなかった。つまり、経験科学でありながら明識を追究するというのは、なかなか困難な課題なのである。ところが近年では、とくに環境問題の深刻化がひとつのターニング・ポイントになって、自然科学の領域においても、主体相関的で反省的な知識を追求しようとする研究がでてきた。これによって、明識の科学としての社会学に対する理解も深まるかもしれない。
たとえば科学史研究者の村上陽一郎は、地球環境問題が従来の科学や技術のあり方に対するラディカルな挑戦を要求すると指摘している。かれは、伝統的な科学の知識を寄せ集めるだけではもはや不十分であり、知識の構造自体を変革しなければならないと述べる。では何がたりないか。「それは問題を作り出すエイジェントが、一方では、問題を記述し、解決すべきエイジェントと重なっている、という視点がないことであろう。」●12「地球環境問題は、それを問題にし、観察し、記述し、解明し、解決しようとしているエイジェントたるわれわれと、その問題を作り出し、その問題を論じるに当たって、観察され、記述され、解明されるべき対象としてのわれわれとが、重なっている、ということをどうしても免れられないような種類の問題なのである。」●13そのために伝統的な科学を超えて自己言及的な知識が必要であると指摘する。
また、高木仁三郎は、現代の巨大事故が、技術の後進性や未熟性の結果ではなく、まして偶然に生じるものでもなく、むしろ現代技術システムの本質からきているのではないかと主張し「事故学」を提唱している。●14たとえば十万回に一回の事故率といわれていたスペースシャトルが二五回目の打ち上げで爆発したように、巨大技術にとって事故はもはや「ノーマル・アクシデント」(正常な事故)である。●15これは、現代の巨大技術が複雑な相互作用性をもち、非常に緊密に作られているために、たったひとつの要因であっても共倒れや将棋倒しを起こして巨大事故にいたる可能性が高いためである。高木は、これら巨大事故を不幸な運命と捉えて、産業側や行政当局の責任だけをとりあげるのは適切でないと考える。「そうではなくて、私たちはこれらの事故を自分たちの社会の生み出したもの、自分たちに責任あるものとしてとらえ、この『不幸』を克服するために、正面から直視していかねばならない」とする。●16
たとえば「工学部において多くの学科は、生産(物)に主眼をおいて設立されているが、廃棄(物)に主眼をおいて設立されている学科はほとんどない」●17という指摘がある。このことは、日本において、いかに近代自然科学がわたしたちの反省を抑圧してきたかの証拠になるが、環境問題や巨大事故問題の深刻化によって、ごく一部とはいえ、変化の兆しがでてきたことは注目しておくべきだ。
社会学はよくも悪くも先端的であって、明識性もそのひとつである。本書での議論は社会学の内部にあっては復古的といってよいくらいだが、現在はその外部環境がずいぶんちがってきている。その意味では、社会学の明識性が生きてくる時代になったといえそうである。
6-2: 二 リフレクションの系譜
6-2-1: リフレクションの訳語
これまでわたしたちは、自分を度外視した客観的な技術的知識(情報)に対して、自分とのかかわりを重視する主体相関的な反省的知識(明識)の重要性について見てきた。そして社会学という知的営みが、じつは反省的知識に向けられていることを確認した。
さて、この段階であらためて確認しなければならないことがある。それは「反省」ということばである。わたしはここまで「反省」をほぼ日常的用法に準じて使用してきた。そのためとりたてて説明を加えることもしてこなかった。しかし、これから社会学の内部的議論に入るにあたり、このことばを概念としてきちんと対象化しておくことが必要だろう。
概念としての「反省」にあたる英語はreflection/reflexionである。社会学においてこの概念は、これまで「反照」「反射」「再帰」「内省」「反省」「自己反省」「自省(作用)」「循環性」などと訳されてきた。このことば、すこぶるありふれたことばだが、じつは概念としての歴史は長く、さまざまな意味と文脈で使用されてきた。このうちもっともポピュラーな訳語は「反省」であるが、概念としてさらに伝統のある哲学的文脈を例外として、概してこの訳語を避ける傾向がある。一方で「反省会」といった使われ方をする日常的な語感(押しつけがましさと偽善的ニュアンス)を回避したいためと、他方では、いささか古めかしい意識哲学などといっしょにされたくない、という研究者の思いがこうさせているといってよい。あるいは、この概念に格段の重要性を認める最近の研究では、研究史的な配慮やリフレクションの主体の問題などから「自省(作用)」を使うことが多くなっている。●18
本書では、このような訳語の多様性に対処するため、原則的に「リフレクション」を使いたい。しかし、形容的に用いたり合成語の処理などで使いにくい側面があるので、「リフレクション」の他に基準的な訳語として「反省」または「反省作用」をこれと互換的に用いることにしたい。しかし「社会の反省」といういい方ではたぶんに擬人法的なニュアンスが強くなってしまうので、この文脈では「自省」を使うケースもある。いずれにせよ本書では同じことをさしている。●19
訳語もさることながら、じつは原語そのものにもヴァリエーションがある。reflection/reflexionにそれぞれselfを冠する場合と、reflexivityを使う場合、さらにreflexivenessを使う場合もある。多くの場合、これらとreflection/reflexionとは区別されていない。たとえば、すぐこのあとで紹介する予定の社会学者ミードはreflectionとreflexivenessをほぼ互換的に用いている。●20したがって問題なのは、どの単語を用いているかではなく、どのような定義において使用しているかである。●21
6-2-2: リフレクション理論の四系譜
リフレクションという概念は、若干の例外を除けば、概して地味な存在だったといえよう。しかし、よく注視してみると、非実証主義的な社会学(自然科学の研究方法をそのまま社会の研究に持ち込むのは適切でないとする社会学の立場)●22において、あたかも通奏低音のように、理論の底流を一貫して流れ、その方向性を定めてきた概念であることがわかる。またそれはしばしば理論的動機であり研究を押し進めるエートスだった。その点では「黒子」のような概念である。ここで社会学におけるリフレクションのこれまでのとりあつかいをかんたんに見ていこう。ただし、本書の議論で利用するさまざまな社会理論を系譜的に概観しておくことがここでの目的であるから、個々の理論は、各章においてそれぞれの課題に見合う形でそのつど詳しく解説することにし、ここではさしあたりトルソー(頭や手足のない胴体だけの彫像)にとどめておくことにしたい。
思いきった整理をすると、社会学では、ほぼ四つの系譜においてリフレクションが直接間接に論じられてきた。
まず第一の系譜は、社会的自我論からシンボリック相互作用論への系譜である。社会学特有の──つまり哲学とちがって現実社会に関する経験的アプローチとして──リフレクション概念は、二十世紀初頭のアメリカ社会学におけるチャールズ・ホートン・クーリーとジョージ・ハーバート・ミードによる社会的自我の理論によって本格的に始まった。とくにミードは、人間的コミュニケーションの基本構造としてリフレクションの重要性を強調した最初の理論家である。本書の理論的枠組みも基本的にミードに負っている。
第二の系譜は「日常生活の社会学」である。現象学的社会学とエスノメソドロジーとドラマトゥルギーは、それぞれ独自の色彩をもっているが、一様に「日常生活」の理論的意義を重視していることから、総称して「日常生活の社会学」(sociology of everydaylife)と呼ばれている。これらはいずれも、ミード再評価とかかわりのある一連の理論系譜にあたり、リフレクション概念とかかわりも深い。
現象学的社会学の代表的存在はアルフレッド・シュッツである。シュッツは、マックス・ウェーバーの理解社会学を哲学的に(現象学的に)根拠づける研究から出発した人で、日常生活と社会学のあるべき関係を模索し、のちの世代に大きな影響を与えた。一方、エスノメソドロジー(ethnomethodology)の創始者ハロルド・ガーフィンケルは、日常生活者の知識そのものを探究することに焦点をしぼり、日常生活の現場における人びとの実践的な知恵──これが「エスノメソッド」(ethnomethod)──を肯定的に位置づけた。また、アーヴィング・ゴッフマンの微視的な研究は「ドラマトゥルギー」(dramaturgy)と呼ばれ、さまざまな状況における人間の行動をまさに微分するかのように分析した。
この系譜では、エスノメソドロジーがreflexivityを独自の定義のもとで使用しているのをのぞけば、とくにリフレクションおよびその周辺概念が前面にでることはない。しかし、いずれも、日常生活においてわたしたちが実践していながら自明のこととして気にとめていないような約束事を、まざまざと提示してくれる点で、社会学の明識性がはっきりでている系譜である。本書ではとくに日常生活における知識の役割についての議論で活用することになるが、この文脈で先駆的な仕事をしているゲオルク・ジンメルも忘れてはいけない。かれの業績には、その後の理論的洗練と分化によって見失われがちな「日常生活の社会学」の基本構図が骨太に素描されている。
第三の理論系譜は、反省社会学と批判理論である。反省社会学はアルヴィン・W・グールドナーによって提唱された。この場合のリフレクションはもっぱら社会学者の自己反省であり「社会学の社会学」(sociology of sociology)の性格をもっていたが、専門知識と日常的知識とを分離させないことをおもな主張点にしていたから、むしろ社会学者と一般の人とが協力して〈ともに〉反省するプロセスをめざしていると考えてよい。そして知的共同体に集まった自律的知識人の合理的討論によって人間解放の諸条件を探るというヴィジョンをもっていた。
もうひとりの理論家ユルゲン・ハバーマスはドイツのフランクフルト学派の理論系譜にある社会学者で、かなり初期からリフレクション概念によって「批判理論」(kritische Theorie)を精力的に構築してきた。その後、コミュニケーション論的構成を大胆に採用し、現在の社会理論に広範な影響を与えている。
なお本書の理論的動機は主としてこの系譜に基づいている。ただし本書では、リフレクション概念がこのラディカルな路線においてのみ議論されてきたとする主張には距離をとりたい。この系譜の理論家によって告発された社会学の方にもリフレクションの動機が存在すると考えるからだ。
第四の系譜は、社会システム論である。とくにニクラス・ルーマンは「自己言及性」「自己組織性」「自己主題化」といった概念を取り入れて、リフレクションに関する理論としては最大規模かつもっとも緻密な議論を展開している。さらに「構造化」論のアンソニー・ギデンスや「自己組織性」の理論を展開中の今田高俊も、この系譜に位置づけてさしつかえないだろう。本書ではこの系譜で展開された行為論を中心に参照している。
この他にもいろいろな意味で「反省的な」調査研究をしている研究グループもあるし、多くの哲学者たちも社会的文脈におけるリフレクションについて論じている。●23また本書においてはロバート・K・マートンのいくつかの独創的な概念もリフレクションの重要な通路として数えている。これらについては折にふれて紹介していこう。
以上のような学史的経緯のなかでリフレクションが論じられ育まれてきたのであるが、そこには、完全な意味においてではないにせよ、〈ゆるやかな共通了解〉というべき論点がいくつか存在する。そして、もちろんそれらの論点にこそ、他の概念ではなくこの概念でなければならない理由も示されている。ここで予示的にではあるが──そのため抽象的な記述にとどめざるをえないが──概略提示して、後論に備えたい。
6-3: 三 リフレクションとは何か
6-3-1: リフレクションとコミュニケーション
まず第一に確認しておきたいことは、リフレクションは基本的にコミュニケーションの力であるということだ。このことについて最初に系統的説明を与えたのはアメリカの社会学者(哲学者でもあった)ミードである。●24
ミードは、まずコミュニケーションを複数の個体の動作のやりとりと考える。個体Aの身ぶりに対して、個体Bが反応する。この反応がBの身ぶりとしてAの刺激となりAの反応を呼び起こす。これがコミュニケーションのもっとも原初的なユニットであり、このレベルでは「犬のけんか」も「恋人たちの会話」も同じである。これを「身ぶり会話」(conversation of gestures)という。しかし、後者──つまり人間のコミュニケーション──の場合、かれらは動物にはできない特殊な身ぶりを使っている。それは話しことばである。ミードはこれを「音声身ぶり」(vocal gesture) と呼ぶ。
音声身ぶりが、動物の身ぶりや人間の他の身ぶりとちがうところは、相手に聞こえるのとほぼ同じように自分自身もそれを聞くということだ。他の身ぶり——たとえば表情——は自分には見えない。しかし、音声身ぶりによって、人間は相手に引き起こす反応を同時に自分自身のうちにも引き起こすことができる。つまり、人が他者に話しかけるとき、その人は自分自身にも話しかけているのであり、他者に呼び起こすのと同様の反応を自分自身のなかにも呼び起こすのだ。その結果、他者の反応(態度)を自分のなかに取り入れることができる。つまり、自分のやっていること(身ぶり)が自分自身にも理解できるというわけである。
こうして、Pという「身ぶり」にはQという反応つまり「意味」が対応するという知識が蓄積される。「こういう状況で、こういうことをいえば、だいたいこういう反応(意味)になるんだなあ」といったぐあいである。●25このように人間のコミュニケーションは音声身ぶりの使用によって反省的な過程になっており、その意味で人間コミュニケーションの本質はその「反省作用」(reflection)にある──というのがミードのコミュニケーション論の重要な論点だった。つまり、リフレクションは人間のコミュニケーション能力のもっとも重要な要素なのである。
リフレクションを内包したコミュニケーションの現実的なプロセスのなかから音声身ぶりを媒介にして自我が生じる。したがって、自我があってコミュニケーションが生じるのではない。むしろ逆である。●26ミードは、人間が、自分自身を行為の対象にできる存在であり、そのリフレクションの能力が、まさに社会を可能にする基本的な要因と見なしていた。●27
この観点を継承したハーバート・ブルーマーは、ミードのリフレクションへの着目を評価し、この過程を「自己との相互作用」(self-interaction)と呼ぶ。「自己との相互作用というメカニズムを持つことによって、人間は、自分の外部内部またはその双方からの作用によって単に動かされているだけの反応する生命体ではなくなる。反対に、自分が直面したものを解釈し、この解釈にもとづいて自分の行為を組織立て、自分の世界に向けて行為するのである。」●28ここから、人間の結びつきの全領域を人間の能動的な形成過程として捉える視点が開けてくる。ここにリフレクション概念の第一の意義がある。
6-3-2: 自己理解と他者理解
第二点目は、リフレクションが自己理解と他者理解を同時にふくんでいることだ。あるいは、こうもいえる。リフレクションにおいて自己理解と他者理解は一体の現象である、と。
そもそもリフレクションは自分を主題化し理解することである。つまり自己理解である。しかし、それは自分の内部から自分を捉えること(内観や悟り)を意味しない。リフレクションとは、自分自身を「外部の視点から見る」ことである。かぎかっこの部分は「距離をおいて見る」といってもよいし、あるいはまた「他者の立場から見る」といってもよい。いずれにしても、自分自身をあたかも他人を見るかのように捉え返すことである。したがって、この場合に理解される自己とは、他者としての自己である。
人間においては、自分の存在自体が自分にとっての環境である。したがって、そもそも、わたしたちは、自己を理解するように他者を理解するというより、他者を理解するように自己を理解するのだ。自己の理解された局面──これをミードは「客我」(me)と名づけた──は、自己のなかの他者、あるいは他者化された自己なのだ。
自己理解も他者理解も、事実的相互作用(じっさいにかかわりあうこと)としての言語的コミュニケーションにおいてのみ実現される。自己理解が新たな他者理解によって深まっていくこともありうるだろう。他方、他者の行動によって生じた社会現象を当事者の視点で捉え返すことによって自己理解も深まるのである。●29
6-3-3: 実践的反省と社会学的反省
リフレクションは他者理解を媒介した言語的な自己理解である。では、このとき「理解」するのはだれか。
伝統的な社会学とりわけマックス・ウェーバーの理解社会学において「理解」は方法論的概念だった。つまり、自然科学者が経験的観察によって自然現象を科学的に分析するように、社会科学者とくに社会学者は社会現象を「理解」によって科学的に分析するとされ、社会学者の科学的分析方法として「理解」が位置づけられてきたのである。ところが最近は「理解とは、それ自体社会における人間生活の存在論的条件にほかならない」●30とするギデンスのように、「理解」を社会学者の特権的行為とは考えなくなった。それは社会を可能にする重要な契機に他ならない。
リフレクションはわたしたちの日常生活のなかにある。わたしたちは反省する。これが「動物の社会」と呼ばれるものと「人間の社会」との本質的なちがいである。
したがってリフレクションには一種の階梯を想定することができる。たとえば実践的反省と社会学的反省を分析的に分けることは可能である。つまり、人間的コミュニケーションに普遍的な要素としての実践的反省一般と、高度な合理的推論による社会学的反省という段階にである。日常生活者の実践的反省は不徹底で均質でない。それに対して社会学的反省は論理的に首尾一貫していて均質であろうとする。とはいえ、この基準ではじっさいに両者の境界を定めることはむずかしい。というのも、この点では両者は連続しており事実上一体のものともいえるからだ。社会学的反省は実践的反省に根拠をもち、実践的反省は社会学的反省から影響を受けうるからである。
むしろ、こう考えるべきだろう。社会学的反省は実践的反省を反省する、と。つまり日常生活における実践的反省それ自体を反省する「反省の反省」として社会学的反省を位置づけるのだ。いわば「メタ反省」である。
人間は反省的であり、反省的に社会を形成していくが、個々の生活場面においては十分反省的であっても、社会全体については不十分なことが多い。それにはそれなりの理由(反省抑圧の構造)があり、社会全体について反省的に認識し行為しなければならない理由(市民社会の主体的形成)もある。社会システムが拡大し複雑化しているから、それはかんたんなことではない。そこで社会全体についての反省的認識が要請される。社会学はその人間的な反省的営みのひとつの「工夫」である。社会学の実践的意義もここにある。
6-3-4: 反省する主体
反省する主体は何かという問題に関してもうひとつ確認しておかなければならないことがある。反省する主体が社会学者であれ日常生活者であれ、それは第一次的には、もちろん人間である。人間だけが他者を理解し自己を理解することができる。では、人間だけか、というと話はそれほど単純ではない。もし人間だけが反省の主体であるというのなら、リフレクションの議論は自我論や社会的人間論にとどまることになる。もっと広がりのある展望──すなわち社会理論──に対しても議論が開かれていることに注意しなければならない。
リフレクション概念の外延的コノテーション(わざわざその概念を使う含み)は、おそらく、たんに人間だけが反省の主体でないことにある。集団・組織・地域・国家などの社会単位(これらを社会形象という)も一種の反省の主体と見なしうる。もちろんこれら社会形象の擬人化は慎まなければならない。第一次的には反省の主体は人間である。しかし、人間たちが形成するさまざまな社会形象が、その内部でおこなわれる人びとの反省的なコミュニケーションによって、あたかも〈反省の主体〉であるかのように現象することは十分ありうることである。だから、リフレクションの思想家たちは一様に反省主体を拡張してきた。たとえばミードは人間的コミュニケーションにおけるリフレクションの文化的意義を強調したのちに「社会の反省」を構想している。いわば「反省する社会」である。また反省社会学の創始者グールドナーも「合理的討議の共同体」「批判的言説の文化」を構想しているし、批判理論の最前線にあるハバーマスも「理想的発話状況」をテコにして「市民的公共圏」の再建をめざす。日本では今田高俊が、「自己の社会化」に力点をおいて理解されがちだったミードの「反省作用」論に対して、「社会の自己化」に力点をおいた「自省作用」を区別して「自省社会」を理論的に展望しようとしている。人間のリフレクションと社会のリフレクション──この両者を故意に混同することは避けなければならないにせよ、リフレクションの議論はこの両者を連動するものとしてともに問題にすることになる。おそらくここにシステム論的発想の理論的不可避性が存在するのだろう。社会システム論の魅力は何といっても人間だけが主体ではないことを提示しているからである。
ところで、反省概念を中核に設定して社会を論じていくことのむずかしさは、それがしばしばヘーゲル主義へと傾いてしまうことにある。「ある究極的な主体の壮大な反省過程としての社会」のイメージがそれである。したがって、とくに注意を払うべきことは、反省する主体を実体化しないことである。独我論ではなく対話的場面に議論を引きずりだすスタンスをたもつことが重要だ。つまり、反省主体とはコミュニケーション主体であること、さらにいえば、むしろ反省主体とは社会的学習過程そのものであって、特定の担い手(たとえば労働者・浮動する知識人など)を想定しないと考えた方がいいかもしれない。だから本書で使用される「わたしたち」も、社会のメンバーひとりひとりが個人の資格において反省的コミュニケーションの場に立ち合うという意味においてのみ使われると考えていただきたい。
6-3-5: 現実と理念
第五に、リフレクションは、現実をさす概念であると同時に理念をさす概念である。
たとえばミードは次のように述べている。「もしもコミュニケーションが完全におこなわれ、とことんまで遂行されたら、わたしが言及しておいたような種類の民主主義が実現し、そこではすべての人が共同体内に自分が呼びおこしたことを知っている反応を自分自身のなかにいだくだろう。こうしてコミュニケーションは、意味深長な意味でその共同体における組織化過程になっていく。それは単なる抽象的シンボルの移動過程ではない。それはいつでも、他人たちのなかに呼びおこすのと同一の行動傾向をその人自身のなかに呼びおこす、社会的行動としての身振りである。」●31ここで言及されている民主主義とは、みんなが同じように平準化されるような社会秩序のことではなく「個人が、その人の遺伝という可能性の枠内でできるかぎり高度に発達でき、さらには自分が影響を及ぼしている他人たちの態度にまで参入できること」である。●32
ミードは、リフレクションの現実的基礎について論じるとともに、その基礎の上に理念としてのリフレクション──つまり「コミュニケーションを通して合理化されつくした社会」●33──の可能性を描くのである。ミードが理想とするのは、カール-オットー・アーペルの用語を借りれば「コミュニケーション共同体」である。●34
ハバーマスはミードの「理想的なコミュニケーション共同体の構想を目指している行為論」に着目し「理想的な共同体というユートピアは、諸個人相互の強制のない了解と強制なしに自分自身を了解する個人のアイデンティティとをともに可能にするような、傷つけられていない相互主観性を再構成するのに使える」として、みずからの社会理論に採り入れている。●35
リフレクションは基本的には主体形成の基礎ロジックであり、個人の主体性・自律性・能動性を可能にする原理である。しかし、同時に理念的な社会の構想を可能にする現実的基盤でもある。それはユートピア性をもつが、たんなる夢想ではない。これを「経験科学からの逸脱」と否定的に評価することはかんたんだが、すでに現実が理念を含んでいる点から出発しているから経験科学の範疇を逸脱しているわけではない。そもそも社会理論としての意義は、全体社会の現実を分析し、理念の根拠を問いただし、理念の現実化を具体的に展望するところにある。とすれば、社会学的反省がめざすところも「反省する社会」というひとつの理念である。しかし、その理念的要素は現実のなかに存在し、現実を更新する。じっさいには現実のなかの理念的要素は歴史的な経過によって抑圧されていることが多い。社会学的反省はその抑圧を鮮明化し、現実に内在する理念的要素を解放するにすぎない。
以上のようにリフレクション概念には、社会学者と日常生活者、個人と社会、認識と実践、現実と理念……といった対立的契機を連接する働きがある。その分、概念としては明晰性を欠きがちであるという弱点をもつが、その反面、社会理論としては独特の展開力を発揮するわけである。本書では、この連接的機能に焦点を集めて議論を進めてゆきたい。
6-3-6: 〈明識の科学〉の視圏へ──本書の構成
これからリフレクション概念を導きの糸にして〈明識の科学=社会学〉についてくわしく論じることにしよう。そのさい、行為論・知識過程論・権力作用論・コミュニケーション論の四つの視圏に議論を分けることにしたい。「視圏」ということばは、ひとつの視点から見渡すことの可能な社会領域といった意味で、かつて阿閉吉男がウェーバーの複眼的な社会理論を把握するさいhorizonの訳語として導入したものである。●36ここでは「見える範囲」と押さえておいてほしい。
〈明識の科学=社会学〉はさしあたり複数の視圏のアンサンブルとして記述できる。それらの視圏は相互に関連し、相互参照する関係にある。ときには同一の現象がまったく異なる相貌のもとにとらえられることがあるかもしれない。視圏とはそういう概念である。それぞれの視圏のなかで、リフレクションのさまざまな局面について考えていきたい。
まず第二章「行為論の視圏」においては、物象化の問題を取り上げ、その非反省性を確認し、脱物象化としてのリフレクションについて説明する。そして「行為や運動の主体としての人間」と「人間によって生産され再生産される社会」という一対の見方を提示したい。前半ではおもに認識の問題としてリフレクションを論じ、反省的認識の必要性を主張したい。後半は具体的な実践としてのリフレクションについてふれ、状況によって人間が反省的に行為することを提示したい。
第三章「知識過程論の視圏」では、そのような人間がいかにして社会をつくりだすかについて考える。その基本条件としての知識の重要性を論じたい。人びとがもっている知識によって社会はいかようにも生産されることを説明したい。そのなかで、人間はみずからを反省しながら社会を形成するという構図を確認することになろう。
つづいて第四章「権力作用論の視圏」では、前章において豊かな可能性として提示されたリフレクションが、現実にはしばしばその可能性を制限されたものになっていることを指摘したい。人びとの反省的知識を制約する「歪められたコミュニケーション」を現代日本社会に即して具体的に点検する予定である。
最後に第五章「コミュニケーション論の視圏」と第六章「高度反省社会の課題」では、権力作用に距離をとる対抗的な戦略としてリフレクションを位置づけ、高度に反省的な社会形成の可能性を探りたい。この場合のリフレクションは高次の社会学的反省である。第五章では「反省する社会」の構造原理と実現可能性を考える。つづく第六章では、現実がどこまで迫っているかを具体的に展望したい。
なるべく議論を複線化したりツリー状にさせたりしないで単線的に進めたいと思うが、ことの性質上、議論は直線的なものではなく、らせんのように、視圏を交替させつつ何度も同じ場所に立ち戻りながら、徐々に反省の階梯を高めてゆくことになるだろう。
ともあれ、わたしたちの社会に反省性を高めなければならないというのが本書の主張である。そのために社会学は何ができるか、わたしたちは社会学から何を学べるか──について考えたい。この問いに対する本書の基本仮説は、社会形成には反省的コミュニケーションが不可欠であり、社会学は反省的知識(明識)の科学として高度に反省的な社会形成に貢献できる、ということだ。