着地せよ、無翼の大人たち(2)

着地せよ、無翼の大人たち(2)
野村一夫(国学院大学教授・社会学者)
第二章 フィクションとしての大人
一 大人の条件
■「大人だねえ」の意味
では、大人の側から見て、大人とは何だろう。私たちが他人に対して「大人だねえ」と感じるときは、何をイメージしているのだろう。
大人的なものとして語られることがらとして、たとえばオシャレで高級なお店を知っていることや、ほどほどの距離感を保ったおつきあい、文化的な素養のある会話ができること、ゆったりくつろいだ雰囲気、酸いも甘いも噛み分けた分別ある態度。こういうことが世上でイメージされるものだろう。
とすると、大人の要素としては、次のようなものがあると考えられそうだ。
第一に、心理的な落ち着き。一般には心理的成熟と見られていることだ。態度や意識の構えをいうということか。
第二に、豊かな見識と冷静な判断。大人には知的なイメージが似合う。知的と言っても、高等教育を受けているかどうかということではなく、経験を積んだ人間ならではの知恵のようなものを指している。
第三に、文化的な感受性。高級感のある商品やサービスのことを大人向けとするのは、大人が高級なものの価値を知っていると見なされているからである。伝統的なものへの関心や、枯れたものへの関心などが大人ならではの感受性と見なされる。
こうして見ると、ご隠居っぽい大人のイメージが一方にある。それに対して、修羅場をしたたかに処理する、トラブルに強いイメージもある。ちなみに、オトナ語で「大人になる」とは「なんらかの衝突が起こったとき、事態の泥沼化を避けるために、あえて損をする側を引き受けたり妥協したりする」ことを指している(糸井重里監修『オトナ語の謎。』新潮文庫、二〇〇五年)。
第一章で紹介した福田和也氏の決断主義的な大人像も、この路線に位置づけていいだろう。政治的に決断して、人びとに強制し、その決断には責任を取るという行動様式である。
いずれにしても、このような生活態度や行動様式において、おそらく「成熟」ということが想定されてきたのだろう。しかし、それはなかなか困難なことに思える。
■大人適齢期
大人の指標の第二のものは年齢である。
たとえば、大人であることを証明するにはどうすればいいだろうか。大人料金、十八歳未満お断り、成人指定、選挙権、年金加入。これらはすべて年齢で区画している。証明できるとすれば年齢で区切るしかない。
成人という概念は、この点では比較安定している。二〇歳以上か一八歳以上を指している。それ以外に成人という言葉は使われない。
それに対して、大人という概念は微妙である。成人と大人は違う。大人はいつから大人なのかが曖昧である。若者という言葉を使うとすると、若者の次ということになるが、この境目がわからない。昔の研究では二五歳を目安にしていたようだが、これは結婚適齢期というものが存在していた時代の産物であって、それが完全に崩壊した今では、この目安はまったく当てにならない。若者の最高値は三〇歳、それとも三四歳であろうか。中年という概念がおもに四〇代と五〇代を指すという合意があるとすると、若者の最高値は三九歳ということになる。ありえる話である。
一方で、老人が大人であるというのも、じつは問題である。老人は大人とは違う局面を生きている。老人はある意味では若者に似ている。「大人から老人になる」というとき、大人の諸々の役割や責任を喪失していくことを意味している。それは年を取ることによって、組織の仕事から離れ、子どもの養育活動が終わり、身体的機能の衰えや、どんな人でも病気や障害との関わりが急速に深くなってくることに関連している。
そういう意味では、私は「大人適齢期」というものが存在すると思うのである。統計調査では六五歳から高齢者扱いするが、大人適齢期となると、せいぜい六〇代いっぱいぐらいまでではないかと思う。七〇代はさすがに老人だろう。
■人間のライフサイクル
ライフサイクルと言えばエリクソンのものが有名であるが、要するに、人生は段階を踏んで発達するという見方である。エリクソンは全部で八段階のライフサイクルを考え、晩年にもうひとつを追加しているが、ここでは経験科学的な研究を参照しよう。
社会心理学者のレビンソンは、アメリカ人中年男性の研究『ライフサイクルの心理学』の中で、男性の一生を区分けしている。これは、聞き取り調査の結果、だいたいこのようになっているという経験的なものであると強調されている。
それによると、
未成年期(児童期と青年期)〇歳〜二二歳
成人前期 一七歳〜四五歳
中年期 四〇歳〜六五歳
老年期 六〇歳〜八五歳
晩年期 八〇歳以上
それぞれに重なりがあるのは「重複域」と呼ばれる過渡期が存在するからである。過渡期には経験的に四年か五年かかるとされる。たとえば「成人への過渡期」は十七歳から二二歳まで続き、「人生半ばの過渡期」は四〇歳から四五歳まで続く。
レビンソンの強調点は、子育て期とか巣立ちといった区分ではなく年齢にこだわっていること、いわゆる成人期を二つに分けたことと、その中間にある「人生半ばの過渡期」に注目したことである。
女性はどうなのだという疑問が生じるが、かれは共同研究者の研究を参照して、発達段階的には大きな年齢差がないとしている。ジェンダー論的には異論もあり得るが、ここでは深入りしない。
レビンソン説によると、大人適齢期は一七歳から六五歳ということになる。これはこれで納得できる部分もあるが、今の日本人の場合は、これより四歳ほど後ろにずれているか、過渡期が十年近くに及んでいるという気がする。というのは、レビンソンが対象とした人たちは一九三〇年代生まれの男性が中心だからだ。一九五〇年代生まれの人たちの、大学生や専門学校生の時代を基準にすると、大人への入口は就職活動が始まる二一歳あたりである。となると、たとえば四歳ずれているとした場合、次のような区分が考えられる。
未成年期(児童期と青年期)〇歳〜二六歳
成人前期 二一歳〜四九歳(大人前期)
中年期 四四歳〜六九歳(大人後期)
老年期 六四歳〜八九歳
晩年期 八四歳以上
こちらは机上の空論ではあるが、私としては、これが実感に近い。あきらかに青年期は延びているのだから。どうだろうか。
これだと大人適齢期は二一歳から六九歳ということになる。その最初と最後の五年間が過渡期にあたるので、狭義には二六歳から六四歳が比較的安定した大人適齢期である。ただし、中間の四四歳から四九歳に「人生半ばの過渡期」がくるというわけである。この過渡期を境にして、本書では、大人適齢期の前半を「大人前期」と呼び、後半を「大人後期」と呼ぶことにしたい。
それにしても気になるのは、この種のライフサイクル論には「直線的な人生」が想定されていることである。直線でなくとも曲線なのかもしれないが、「やり直し」とか「心機一転」ということが人生にはあるわけで、年齢だけでは割り切れない。レビンソンの主張にもかかわらず、そのあたりがどうもひっかかる。また、最近の格差社会の議論が語るように、日本人は階層的に大きく二つに分かれつつある傾向があり、それによって大きく人生のスケジュールも違ってくるはずだ。
現代日本においては、結婚や就職や転職や転居や出産などの人生の一大イベントが一定の年齢で予定調和的に生じるわけではなくなっている。まして「近代家族」の幻想が崩壊した今日では、ライフサイクルというもの自体を相対的に位置づける必要を感じる。その意味では、より具体的な社会的条件で見ていく必要もあるだろう。
■社会的条件としての大人
ジョーンズとウォーレスの『若者はなぜ大人になれないのか』(新評論、一九九六年)によると、大人というのは一定の社会的条件を満たす者のことを指すべきだと言う。
この本はイギリスの青年社会学の研究書で、近年大いに読書界をにぎわせた「パラサイト・シングル」論の知的源泉のひとつとなった本でもある。
この本によると「大人である」とは「自立したシティズンシップをもった状態」である。シティズンシップとは、言ってみれば「社会への完全な参加」のことだ。さまざまな権利と義務を果たす市民であること。雇用され、税金を払い、それなりの政治的権利と社会保障の対象となることを意味する。
日本では「成熟」という心理学的基準で「大人であること」を測ろうとし、一昔前の「アダルト・チルドレン」の流行に見られるように、内面的な負の記憶が「大人であること」を阻害するかのような語りが一般的だけれども、ジョーンズとウォーレスはそんな主観的でナイーブな言説には一顧だにしない。
若者が大人になれるかどうかは、雇用・教育・社会保障といった公共領域、家族という私的領域との関係に大きく左右される。イギリスでは、雇用状況の悪化によって経済的自立が果たせず、教育課程の長期化によってますます宙ぶらりん状態がつづき、しかも離家してしまえば数々の保障が得られない社会保障制度になっている。若者に自己決定権があるようでいて、じつはアクセスの可能性が狭くなっているのだ。そのため大人への移行期間が長期化し、その分、家族への依存も長期化している。だから「大人になること」が困難になっているというのである。
要するに、ある程度恵まれていなければ大人になれない。これが著者たちの言い分である。その点で、女性や高齢者や障害者やマイノリティも、この点では若者と同様ではないかと示唆する。
この見方を日本に応用できるだろうか。日本では心理学的な「成熟」の基準で見るから「豊かであるがゆえに自立できない」とされてきたが、シティズンシップを基準とするジョーンズとウォーレスの主張は完全にその逆になることに注意してほしい。少子化が進んでほぼだれでも進学できる大学全入時代、ところがその出口では丸抱え的正規雇用がもはや高嶺の花になってしまっている現在、彼女らの分析は妙にリアルである。大人になるのが困難な日本社会を若者たちは生かされているのかもしれない。ナイーブな若者たちの心象風景はその結果にすぎないと考えた方がよさそうだ。
社会参加という点に重点を置くと、家族に埋没している親は必ずしも大人とは言えないことになる。親の社会的責任を自覚することによって初めて「大人である」とは言えるだろう。しかし、子どもを育てるということは、子ども中心主義であれば、親が子ども時代の文化と生活をたどり直すという側面がある。必ずしも大人の条件ではない。
■大人の諸類型
以上のように、大人であるということが、おもに三つの要素を持つことがわかった。その他にもいろいろあるとは思うが、とりあえずここまでにしておいて、まとめて考えてみよう。
(1)年齢・世代(大人適齢期は二一歳から六九歳)
(2)態度・意識(心理的な落ち着き・豊かな見識・文化的感受性・決断主義)
(3)社会的条件(社会への完全な参加)
しかし、考えてみれば、この各項目を満たすことは必ずしも当たり前ではない。この各項目をしっかり満たしている場合を○とし、不十分な場合を△とすると、論理的には合計八つのタイプが想定できる。○が三つそろう場合と、○が二つある場合が三タイプ、○が一つしかない場合も三タイプ、そしてすべてが△の場合である。
タイプ   1 2 3 4 5 6 7 8
年齢・世代 ○ ○ ○ △ ○ △ △ △
態度・意識 ○ ○ △ ○ △ ○ △ △
社会的条件 ○ △ ○ ○ △ △ ○ △
タイプ1が三拍子そろった「真の大人」「正しい大人」である。タイプ8は三拍子そろった「子ども」「若者」あるいは「大人を引退した老人」である。ひょっとすると「大人になりきれないまま老人になってしまった人」もいるかもしれない。とにかく大人でない人である。
問題なのは、三拍子そろった「大人」と、三拍子そろった「大人でない者」のあいだに六つの過渡的形態がありうるということなのである。大人と大人でない者との間には明確な境界線があるわけではなく、グレーゾーンが存在しうるということである。これは大人の要素を増やして行けば行くほど、濃淡の階調が増えていく。
タイプ2の場合は、たとえば失業者である。大人の社会的条件である仕事がない。
タイプ3は、仕事か家庭を持って、そこそこ大人しているのに、態度や意識が幼い場合である。若者気分を引きずっている人や、幼稚な精神構造を維持している人がここに入る。これこそ、オヤジやオバタリアンとして語られる「未熟な大人」である。
タイプ4は、年齢が満たない場合だと、十代で結婚したり独立した若者や、早熟な若者やベンチャー企業の若い社長のような人だ。あるいは超老人でありながら、仕事を持ち社会的責任を果たしているような人である。
タイプ5はいい年をしながら社会的にはふらふらしていて、態度も子どもっぽい人である。子どもっぽいとは限らないが、ニートや引きこもりをここに入れてよさそうである。おたく系で、しかも職業的に安定していない人などもここに入る。
タイプ6は大人びた子どもや若者というところであろう。こういうしっかり者はいる。
タイプ7は若い人というよりは、かたくなで頑固な老人で社会的なステイタスを持っている場合だろう。
○とか△と言っても、あくまで一定の社会常識を想定して、それに照らしてのことであって、それが絶対的なことでないのは言うまでもない。結婚していることを大人の条件とするかどうかは大いに議論のあるところだろうし、子どものいるいないが大人の条件であるとも思えない。しかし、それを重視する人もたくさんいると思う。
いずれにしても、どの軸を重要と考えるかによって、大人像は変わる。かりに年齢・世代を絶対的な基準にしたとしても、じっさい「大人らしさ」ということになると、政治的側面や文化的側面も考慮しなくてはならなくなるはずで、いくらでもヴァリエーションは広がる。
二 大人役割と「ほんとうの自分」
■役割としての大人
だれが大人なのかという問いは実体を問う問いである。それが実体を問うかぎり、概念は限りなく無数のヴァリエーションに解体していってしまう。目の前に広がるのは、白から黒へと連なる無数のグラデーションである。これはきりがない。そこで、アプローチの仕方を変えてみよう。社会学の古典的な理論に戻ろう。そのほうが話はわかりやすくなるはずだ。
社会学的に見ると、大人というのは役割のひとつである。もちろん私たちは必ずしも大人としてだけ生活空間を生きているわけではない。男か女か、既婚か未婚か、親であるかどうか、親が生きているかどうか、職業や所属集団を持っているかなどによって、私たちの役割行動は異なる。大人役割は、その中のひとつの役割にすぎない。
そもそも、私たちは役割の担い手として社会的場面に登場する。何者か「として」のみ、私たちは社会の舞台に上がれないようになっている。かつて哲学者のカール・レーヴィットは「として規定」と呼んだが、社会学では役割現象と呼んでいる。つまり、私たちは「ありのままの自分」として社会に出ることはあり得ないのである。役割成体つまり役割の担い手としてのみ社会的場面に登場する。
自分の役割は相手との関係で決まってくるものなので、店員に対しては客として、部下に対しては上司として、子どもに対しては親として、病人や障害者に対しては健常者としてふるまうことになる。
こういう、相手との相互規定性が真に社会的な現象の特性である。他者という鏡に照らして自分が決定され、相手もまた自分によって決定されるのである。
私たちは、自他の役割についての知識をある程度共有している。共有しているからこそ、たとえば店員に対して客としてふるまうことが可能になる。私たちは店員として店にいる人間が「いらっしゃいませ」と客に対して言うのを知っているし、「何にしにきたんだ」とは言わないことを知っている。こういう知識が、役割期待というものである。
大人役割に対する役割期待には、たとえば次のようなものが含まれている。
第一に、心理的な大人らしさ。「大人げない」というフレーズが示すのは、大人は落ち着いていて、穏やかであり、性急でないということだろう。
第二に、社交的な大人らしさ。コミュニケーション的慣れと言ってもよい。誰とでもつつがなくコミュニケーションがとれることである。援助的な能動性(世話を焼くこと)なども含まれるだろう。
第三に、経済的な大人らしさ。職業をもち、一定の収入を得ていることである。あるいは主婦のように、家計の運営を担っていることである。
その他にも付随するものはいっぱいありそうである。しかし程度の差はあれ、大人に期待されるものは、このような局面である。そして、それは大人であると自覚する者にも内面化された規範(「かくあるべし」という知識)になっている。この局面において「成熟の幻想」が規範として私たちを拘束しているのである。我が内なる他者として監視していると言ってもよい。
しかし、このような「大人なるもの」への役割期待は、絶対普遍のものではない。すべてこの社会の中で学習されたものである。現在の社会というテキストに書き込まれた大人の定義を私たちは受容してきただけである。
要するに「大人なるもの」への役割期待は、一種の虚構であり理想である。社会的現実には、じっさいに観察できる行為の中に、こういった理念的な要素が埋まっていて、事実としての行為を左右しているものなのだ。
このような役割期待に対して、当の私たちは戸惑いを感じたり、よそよそしさを覚える。そんなに上手に大人を演じることはできない、と。すでに第一章の末尾で例示したような「未熟年」の心象風景は、このような古式ゆかしい大人への役割期待との距離感が表現されていると考えることができる。
■役割を生きることと「ほんとうの自分」
すでに述べてきたように、こうした期待は自動的に成立するものではない。ある意味では幻想であり、イデオロギーである。しかし、人びとに広く共有された知識であるから、強制力とは言わないまでも、ある程度の力学が働く。この力学が、人を社会的に位置づけるのである。
たとえば、若いときに、何か「ほんとうの自分」が存在するはずだと思い込んで、悩んでみたり、あれこれあがいてみたりするのだが、実体としての自分を追求するのは、ないものをあると思ってしまうことである。
若者の場合、それは職業的な所属意識であったり、恋愛の成就(相互理解の成立や結婚など段階に応じてさまざまだろうが)によって、ある程度は解決されるものである。つまり、「会社員」「恋人」「妻」といった社会的な役割関係の中に入ることによって、つまり社会的に規定されることによって、自分というものが確実なものとして感じられてくるものなのである。その役割に深くコミットメントするにせよ、そこから距離をおくにせよ、「ほんとうの自分」とは、役割との関係で感じられるものなのだ。逆に言えば、ありのままの自分でいいではないかという言い方はナイーブすぎる。私たちは、役割の中を生きているのである。
■適当にやりすごすこと
唐突に思えたかもしれないが、役割の話をしてきたのは、ほかでもない。大人役割に含まれている理念的意味あるいは理念的可能性について考えたいからである。
第一に確認したいのは「大人がいるのではない、大人を演じる者、大人としてふるまう者がいるのだ」ということだ。そもそも大人とは、大人である「かのように」あえて演じるものである。程度の差はあれ、大人役割との緊張関係がもともと存在するものなのだ。しかし、そこにこそ個性や創造的局面の可能性があるのであって、そのダイナミズムを前提に議論しなければならない。
すなわち、大人の役割を演じることは、必ずしもよそよそしい仮面をかぶることではない。「大人ぶる」ことは、「ほんとうの自分」を抑圧するわけではないのだ。
私たちは、大人役割を自分なりに解釈し直したり、ずらしてみたり、抵抗したりすることがいくらでもできる。また、じっさいに演じるときに、各人の身体性の特徴によって、さまざまに個性的に実践されることになる。役割は社会的に規定されることだと述べたが、同時に役割からはみ出るものがある。それが個性であり、「ほんとうの自分」と感じられるものも、そういう「ずれ」や「残余」のことなのである。
というわけで、私たちは大人役割を適当かつ、それなりに適切にこなしているのである。これが役割戦略その一である。適当にやり過ごすことだ。
役割戦略その二は、規範そのものを変えることである。役割の規範は、自分たちの具体的な役割行為の中で、あるいは言説の中で、徐々にずらして修正できるものなのだ。古式ゆかしい伝統的な「大人らしさ」に疑問符をつけ、新しい世代の新しい大人の「大人らしさ」について語り始めることこそが本書の課題になるはずである。
■大人であろうとすることの意味
ここで二つのことを確認しておきたい。
第一に、たとえば、同じ大人だと言っても、男と女とでまったく違うではないかとの疑念が出てくるに違いない。なるほど男の人生と女の人生は違う。ジェンダー論を引き合いに出さずとも、男と女の区別を無視することはできない。
大人であることにこだわることは、案外難しい。他の役割のほうが強力だからだ。
たとえば、私たちは男であり女である。大人という概念を持ち出しても「大人の男」「大人の女」として考えてしまうだろう。それだけジェンダーは私たちの身体に浸透した文化的概念なのである。それに対して「一人の大人」という概念は非常に抽象度が高いのである。
大人という役割に焦点を定めるとき、ジェンダー役割は後景に退く。男であれ、女であれ、「大人として」生きるという社会的水準があるのである。私はそこを問題にしたい。だからあえてジェンダー的側面については語らないようにしているのである。大人にこだわることは、そういう含意がある。
つまり、大人という役割を強調することは、他の多くの社会的役割を相対化することなのだ。大人は数多くの責任ある役割を同時に果たしている。職場での役割や家族内での役割などである。これらに埋没するのではなく、それらから距離をおいた自分を屹立させることが「大人であること」を意識する意義なのだ。
第二に、消費社会における大人役割の変容がある。どのようなものを演じればいいのか、大人役割の属性は昔とは違ってきている。違ってきているが、案外このレベルで考える機会が少ないために、前に「成熟の幻想」と呼んだような時代錯誤な観念が大人役割に残っているのである。
目の前には、いかにも大人が生きづらい世の中がある。グローバルな競争社会にあって雇用関係が大きく変化して、リストラと配置転換が日常的なものになった。ひと昔前なら大きな労働争議になったであろうことが、今では当たり前のことのように実行される。年功序列も崩れた。労働者としても管理者としても安閑としていられない。専業主婦の座でさえも今では貴重な役割資源になりつつある。夫にそれなりの年収がなければ専業主婦にはなれないのだから。
ひと昔前までは自明だった明確な大人概念が崩壊している。だからこそ、自他ともに認める若者たちが大人になろうとしないのも、よくわかる。「一人前の大人」というものが若者の目指すものでなくなっているのだ。私たち中年でさえ、その直中にいながら、逃げれるものなら逃げてみたいと思っている。若者時代への郷愁に逃げ込むことも多いのではないか。
現在において大人は困難である。だからこそ魅力ある新しい大人概念が必要なのだ。二一世紀の「新しい大人」のあり方をあえて俎上に載せる必要があるのはこのためだ。
社会学者ゲオルク・ジンメルは、「社会はいかにして可能か」を考えるときに三つの水準を設定している。第一に、社会的なるもの。第二に、社会外的なるもの。第三に、理念的なるもの(社会的なるものに内属していながらも、実現されざるものとして社会外にあるもの)。
一般には、すべてのものごとを社会的産物と見立てて社会的背景をあれこれ述べ立てるのが社会学だと思われている節があるが、このようにじっさいには「たえず外側に半身を置く姿勢」が社会学的な発想である。本書でも、こうした発想法に基づき、現にある事実と、そこからのずれ、そこに含まれる理念的要素を問題にしていきたい。
以下の諸章では、現代社会における大人の条件を考えてみよう。新しい大人像を求めて、大人の文化の思想的局面を問題にしたいと思う。