着地せよ、無翼の大人たち(5)

着地せよ、無翼の大人たち(5)
野村一夫(国学院大学教授・社会学者)
第五章 消費文化の主役になる
一 大人が自分のために買うということ
■シルバー世代にはほど遠く
二一世紀なって、広告や雑誌の見出しに、とみに「大人」の文字が使われるようになってきた。消費の世界において、あきらかに「大人」が注目され始めているのである。
注目のされ方はさまざまだ。
若い女性向けの雑誌では「大人」は三〇歳前後を指している。「ちゃらちゃらしていない」とか「シンプル」とか「シック」といった概念が寄り添うことが多い。
しかし、大人を冠した商品展開において主流をなしているのは、あきらかにシニアとかシルバー世代向けのものである。
典型的なのはJR東日本の「大人の休日」キャンペーンである。ここには年齢制限がある。「大人の休日倶楽部ジパング」は男性満六五歳以上、女性満六〇歳以上の入会条件になっている。五〇歳以上の「大人の休日倶楽部ミドル」が追加されているものの、「豊かな時間をお過ごしの皆さまに、さらに積極的に人生を楽しんでいただくために生まれた『大人の休日』」とあるように、あきらかに定年後のシルバー世代を主たるターゲットにしている。
『サライ』のようなシルバー世代向け雑誌も次つぎに創刊されて、こちらは一種のブームのようになっている。このような雑誌は、それがターゲットにする人たち向けの広告が掲載できることが条件なので、それだけ広告需要があるのだろう。
たしかにここでは大人という言葉が使用されてはいるが、これは大人志向というよりは、正確には熟年志向と呼ぶべき傾向である。「大人の休日」に典型的に表現されているように、中年は熟年層の予備軍として位置づけられている。
なるほど熟年論というか老年論が盛んだ。中野孝次の『清貧の思想』はその先駆的代表格だった。白洲正子的な世界もブームである。老いをテーマにした本もたくさん出ている。しかし、中年の私にはとてもこういう境地にはなれない。熟年と大人は違う。
考えてみれば、若者も熟年も、その他の社会的属性から比較的自由だ。それに対して大人は、組織内の役割や家族役割に強く拘束されていて、その役割を果たすのに精一杯だ。日常生活においては「課長として」「親として」といった役割が「大人として」よりも前面に出てくる。大人役割は後景に退きがちだ。その点、若者や熟年は自由である。だからこそ、そのカテゴリーが前面に出てくるのである。
少子高齢化の傾向の中で、熟年概念も拡張している。大人概念は熟年に浸食されつつある。熟年という言葉はよくできているけれども、大人概念とはズレがある。熟年には、定年後の人生のように、組織的責任や子育てなどの他の社会的責任から離れているという意味が付加されている。
そういう意味では、消費の世界では、まだまだ大人が主役とは言えない。
■買うという主張行為
大人が大人自身のために何かを消費するということ。これが、ここで「大人文脈の消費」と名付けたい消費のありようである。子どものために買うというのでもなく、家のために買うというのでもない、大人が自分の文脈の中で消費するということである。
こういうものは、いわゆる「シニア・マーケティング」が目指している世界とはもともと性質が違うような気がする。
シニア・マーケティングによると、熟年あるいはシニア世代は新しいものに飛びつかないものなので、消費においても保守的になるが、お金自体は持っているので、高級感や伝統などを売りにしたものをアピールすることで消費行動を刺激できるとする。
よくニュースの話題コーナーで取り上げられるような「シニア向けの○○が今話題です」式のものは、多くの大人にとっては「趣味に合わない」とか「ばかにされている」と感じるものである。
大人文脈の消費は、もっと能動的なものだと思う。こういう大人文脈の消費行為は、周到にマーケティングされた消費行為ではなく、それ自体がマーケットに対する主張になっている。それはこれからますます主張性を強めていくと思う。
それは落語家のCD全集を買うというのでもいいし、高級スピーカーを買うというのでもいいし、クラシックカメラを買ったり、紬にはまるというのでもいい。そこから、寄席や落語の世界やオーディオやクラシックの世界や写真の世界や着物の世界という、狭いようでいて奥行きのある文化の小宇宙へ入っていく。それは必ずしも大金を必要とするものでもないし、高級でなければならないというものでもない。しかし、わくわくするような知的な楽しみがあるものである。
ファミリー向けの商品などはかんたんになっているが、少し趣味性の強いものや文化的なコンテンツを買うとなると、消費という行為は、それなりの学習なしには不可能になっている。どの分野であっても選択肢は多い。その多様性の中から、自分が納得できるものを選択するという手続きを踏まなければならない。たとえば、専門雑誌やネットで下調べするというのは常識である。値段を調べるというだけではなく、さまざまな評判を調べて、商品を吟味していく。その吟味のプロセス自体が楽しみである。知識がつき、鑑識眼がついていく。仲間を求めて、趣味のサークルに入っていくということも多い。ネットでの情報交換や趣味的コミュニケーションにはまることも多い。
■銀塩写真とマニュアルカメラにはまる
私の場合が適切な事例になるかどうか自信がないが、手がかりとして少し述べてみたい。
世の中はすっかりデジタルカメラの時代だというのに、じつは今年になって銀塩写真に目覚めた。銀塩写真というのは、要するにフィルムを使った写真ということだが、デジタル写真に対して、あえてこういう言葉を使うのである。
カメラはマニュアル・フォーカスにこだわって、中古で一から買いそろえた。今はオート・フォーカスが当たり前だが、やはりピントは自分で見て合わせたいのである。デジタル一眼レフカメラが大々的に広告され販売されているご時世なのに、なぜかそちらにはまったく興味がわかないで、正反対のことをしたくなっている自分がいる。
もちろん、若いころから写真は好きだった。しかし、高価な一眼レフなんて買うゆとりがまったくないような貧乏ぐらしをしていたので、父親のお古の安いポケットカメラをもって、山歩きしては風景を撮っていたものだった。
やがてデジタルカメラの時代になり、デジタル好きな私はすぐにデジタルに変えた。フィルム代や現像代やプリント代がいらないのが理由だ。記録という点では、デジカメはいつでもどこでも、そこそこ写る。
しかし、デジカメ時代がそろそろ十年になろうとする最近になって、不満が募ってきた。気がつけば、写真がきちんと残っていないのである。たしかに画像ファイルは大量にある。しかし、何世代ものバソコンを取り替えてきた中で、行方不明になったものも多く、今は使えないメディアに入っていたりして、系統的に残っていないのである。それに、おそらく色アセか、昔使っていたプリンタの性能のためであろう、自分でプリントアウトした写真がちっとも美しくない。
しきりなおしたいと思った。
私は一九九五年の夏には個人サイトを公開して、昨今のブログのようなことをしていたような新しがり屋であるが、あえて一周遅れのランナーになるのも悪くないと思うようになった。そこで注目したのが銀塩写真でありマニュアルフォーカスのカメラだった。
もちろん、あこがれもあった。気がつけば、かつて遠い世界だと思っていたフラッグシップ・クラス(各メーカーの最高級品)のカメラが買えるようになっている。もちろん中古としてであり、時間がずいぶん立っているから安いのである。
私の場合は、プレミアのつくのようなクラシックカメラに凝っているわけではないし、四〇万円近くもするM型ライカでなければならないということもない。二〇年ほど前に新発売されていたマニュアルフォーカスカメラを、今、買っているだけである。言ってみれば、時間を二〇年戻そうとしている。いや、その「空白の二〇年」を、今さらながら、たどり直そうとしているのである。
写真を撮るということに関して言うと、自分が美しい思ったものを丁寧に記録したいと思ったということも大きい。ドッグイヤーな日々を過ごしていた四〇代半ばに体調を崩して以来、私はすっかり癒し系の感受性になっていて、なんともスローライフな生活感覚になっている。そんな中で、眼に映る美しいものを記憶しておきたいと思うようになった。何でもない花や枯れ葉がきれいだと素直に思えるようになったのである。
デジカメをお蔵にして、じっさいに銀塩カメラで身近なものを撮ってみると、ネガであれ、リバーサルであれ、思いのほかきれいだった。ピントもマニュアルで自分でじっくり合わせると、シャッターを押すのも、それなりに重みのある行為になり、押すたびに解放感を覚えるようになる。
まったく自分だけの文脈で、銀塩の魅力に気がついたつもりだったが、同じような人たちがたくさんいることにあとで気づくのである。昔からのカメラ好きやアマチュア・カメラマンと呼ばれる人たちの世界は、今なお健在である。クラシックカメラブームもあったらしい(中川右介『ブームはどう始まりどう終わるのか』岩波アクティブ新書、二〇〇四年)。私は「遅れてきた愛好家」として、その世界の入口にいる。
二 大人文脈の消費とは何か
■温故知新的発見
こういう自分のことを反省してみると、ここには、いろんなファクターがあるように思う。
第一に、温故知新的発見。
大人になると、必ずしも最新型や流行ものがいいとは思わなくなる。若いころには、さんざんトレンドを意識して、新しいものが無性に欲しいものであるが、大人になると、それはかなり和らぐ。そこで何も買わなくなってしまったり、家族のものしか買わなくなるから、大人向けの商品というものが世の中になかなか出回らないことになってしまうのである。
しかし、新しい大人たちは違う。積極的に古いもの・懐かしいもの・古典的なものを掘り起こす。若いころに通り過ぎたモノや現象に対して、大人になると「あれは何だったんだ」という疑問がわいてくる。それが、大人の温故知新型消費を導く。
たとえば、私は数年前にロックのリマスター盤にはまったことがあった。リマスター盤というのは、音源をデジタル処理で鮮やかな音によみがえられたものである。
私は中学時代からプログレッシブ・ロックが好きで、キング・クリムゾンやピンク・フロイドなどのコアなファンだった。しかし、三〇代からは、当時は珍しかったオリジナル楽器演奏に凝って、バロックや古典派などのCDを集中的に聴いていたために、プログレは自分にとって過去のものと思っていたのである。
ところが、リマスター盤がけっこう出回っていることを知り、紙ジャケの復刻版も系統的に出ていることもあって、大きく旋回したのである。きっかけは、音の悪いイエスの古いアルバムがリマスターですっかりきれいな音になっているのに感激したことだった。
これは、クラシック用にオーディオをチューニングしてきたせいで、ロックもリアルな音で再生されたこともあった。若いころに安手のオーディオでレコードを再生していたころとは雲泥の差の音に驚いたわけである。
カメラの場合も、銀塩写真自体は過去のものという位置づけだったのが、デジタル化の波の中で新鮮に感じられたことから始まった。じっさい、プリントしてみると、美しさの点では銀塩のほうに一日の長がある。マニュアルフォーカスカメラとしての頂点も二〇年ほど前にあり、新しいからすぐれているというわけではない。総じてアナログ的なものは、そのころに頂点があるもので、たとえばハイファイオーディオの世界もそのころのモデルがけっこういいのである。
これも温故知新である。雑誌『サライ』が特集するような「古都」や「老舗」や「レトロ」ばかりが温故知新ではないのだ。サンダーバードだって、ガンダムだって、現代に再生してかまわないのである。
こういう文化の温故知新的発見(かつてのサブカルチャーをふくめて)が、たんに消費行動を超えて、社会に「文化のリサイクル」をもたらすのである。これが「大人の文化」というものではなかろうか。
■若者重視マーケティングへの抵抗
第二に、これが若者重視マーケティングへの抵抗になっていることである。
カメラの世界では、デジタルカメラ一辺倒の時代になっている。銀塩のマニュアルフォーカスカメラの新品となると、ほんとうに数が限られるし、マニュアル用のレンズとなるとメーカーが限られる。二〇〇五年に京セラが撤退して、マニュアルにこだわったコンタックスが市場から消滅した。そんな潮流の中で、あえて銀塩マニュアルにこだわるというのは、安直ではない逆行型消費である。これを一般に趣味と呼ぶわけだが、大人の趣味は大いに振興すべきではないかと思うのである。
私の場合はデジタル離れという形を取っただけだ。はっきりとは言えないが、すべてデジタル頼みには危ういところがある。そこから距離をとりたいだけだ。
そもそも主流が正しいとは限らない。若者を狙い撃ちしてブームを起こせば、他の世代もついてくるという考え方は、大きなマーケットを目指したものだ。たしかに多数派の感覚の人たちは取り込めるかもしれないが、時流に逆らう感覚や、傍流・少数派の感覚の人たちもそれなりにいるのだ。
大人文脈の消費は、こうした主流派からはずれていることが多い。高級品路線やファミリー路線ではなく、自分で何かを発見するような消費だからだ。もちろん、それを見越して仕掛けている企業や業界があるからこそ「発見」も可能なのであるが。
大人文脈の消費は、同時に、シニア・マーケティングへの抵抗にもなっている。
じっさいシニア・マーケティングが注目しているのは、団塊世代が定年で受け取る退職金である。そのせいか、シラケ世代以後の大人から見ると、これら団塊世代向けシニア商品というのは、どことなく恥ずかしい。見ていられないのである。当の団塊世代がどう感じているのか知りたいぐらいの恥ずかしさである。新しい大人の消費世界は、そんなものではないという気がする。それはお金を使うことではなくて、文化を支え、文化を担うことだからだ。
■情報探索型の能動的消費
第三に、情報探索型の能動的消費になっているということである。
マーケットの主流が若者向けだったり、ファミリー向けだったりする中で、大人が自分のためにする消費行動は、どうしても主流に抵抗する形になる。このとき問題になるのは情報の偏りである。
主流の商品についての情報はあふれている。しかし、そうでない「自分だけの」こだわりを通そうとすると、俄然、情報は少なくなる。少なくとも、ぼうっとしていては手に入らない。自分から積極的にアクセスしていかないと何も始まらない。
私が銀塩マニュアルカメラに注目したときには、デジタル一眼レフの広告や特集ばかりで、一つの出版社だけが関連するムックを出していた。それらを集めて、読みあさっては見たが、結局、コアな情報や評判はネットに頼るしかなかった。
たとえば、R型ライカという一眼レフがある。いわゆるライカというはM型ライカのことで、これについてはさまざまな情報がある。しかし、レンジファインダーカメラという種類で、今の私には興味がないし、何よりも高価である。それに対してR型ライカはぐっとマイナーな存在になる。人気がないので、雑誌のライカ特集では、たいてい無視されているほどである。しかし、じつはこれの古いモデルがなかなか魅力的なのである。中古も手が届く値段であり、カリスマ的なレンズがいくつかある。
だが、それについての情報はほんとうに限られている。解説本をアマゾンやBK1で検索しても、ほんの少しである。古本や洋書にあたっても少しだけしか入手できない。結局、ネット上のファンサイトが一番役に立った。R型ライカのすべてのカメラとレンズについて解説してあるサイトがあり、それに準拠して、購入計画を立てた。
中古情報も、じっさいにお店をまわる暇はない。大学教授というと、いかにも暇そうな職業ではあるが(まあ、そんな人もいるが)、今どきのフツーの大学教授は、授業以外にも、日々増殖する膨大な学務と申請書やら報告書の締切でてんやわんやの毎日なのである。
そこで、徹底的にネットで情報を集めることにした。今では中古業界はすっかりデータベース化されていて、あちらこちらをサーチすれば、それなりに全国の中古情報がわかる。それに基づいてじっさいに買った結論としては、多少の失敗はあるものの、総じて正解であった。
このように、大人文脈の消費は、マーケットの主流からはずれるがために情報探索型にならざるをえない。しかし、それがまた楽しみにもなるわけである。お仕着せではない、自前の消費行動である。
■大人買いの哲学
もう一つ、大きな論点がある。それは「大人買い」ということである。
そもそも大人という言葉の使い方の中で、私が心情的に一番近しいと思う言葉は「大人買い」である。
大人買いとは、若い頃に買えなかったものをまとめ買いする行動のことだが、ある意味では非常に子どもっぽい消費行動とも言える。子どもはどこまでも際限なく欲しがるものである。きりがない。しかし、たいていの子どもはこづかいの限界と親の制止によって踏みとどまらざるを得ない。悔しいものだ。「いつか大人になったら買いまくってやる」と思うが、いざ大人になってしまうと、興味はまったく別のことに移っている。ただ「あの頃は悔しかったなあ」という感慨が残るだけであった。
ところが、最近の大人はそうでない。悔しさをしっかり覚えている。残された課題という意味では、人生の宿題のように思ってしまう。四〇歳前後になっても、あるいは子どもがいても、おたく的なコレクションに夢中な人たちが少なくない。ブランドにはまる人も多い。
私にしても、若いころ買えなかったロックやジャズのCDを大人買いしてそろえたりすることがしばしばある。最近ではビル・エヴァンスのCDをほぼ全部そろえた。高校時代に中古で買ったライブアルバムを一枚だけ持っていて、何度も何度も繰り返し聴いたものである。しかし、ロック等に割り当てるのがさきで、ジャズについてはほとんど買えなかったのである。
コレクションしようとかという収集衝動ではないのだが、中途半端になっていたミュージシャンの作品を全部そろえて聴きたいというのも、われながら正気でないと思う消費行動である。しかし、昔に比べてそろえやすくなっているので、その気になればかんたんなのである。
大人買いする大人は、若者としての自分の世界のしっぽを残しているように見える。いわゆる若者文化の延長線上にいるからこそ、その何かが欲しいのであって、別の大人文化に転向したというのではないからだ。
すでに本書の前半で確認してきたように、今どきの大人は若者の連続線上にあると言える。若者と大人との境目がぼやけてきた時代なのである。結論から言うと、かつての若者が自分たちの文化をそのまま持ち込んで大人になるだけなのだ。新しい大人はみずから新しい大人をつくりだすということだ。
けれども「大人買い」には、若者からの意識的断絶が含まれていることにも注目したい。それはたんに「もはや貧乏でない」ということだけではない。消費行動にすぎないのではあるが、「大人買い」はそこに勝負をかけているのである。それは完結への意思を含んだ決断である。若者文化からの卒業行為としての側面を持つ。若者としての自分の世界のしっぽを切る行為でもある。こういう両義性が今どきの大人にはある。一方では肥大化した若者概念に自分を位置づけながら、他方ではそれから訣別しようとする。
多くの大人は、それを「リベンジ」と表現する。
たとえば、食玩などで海洋堂フィギュアを集めたりする。そこには、一方で「懐かしい」「ノスタルジー」「レトロ」を楽しむ方向性がある。他方で、そういうのではなく、むしろ子ども時代にかなわなかった達成感とか征服感を満たすという方向性が存在する。大人買いによって一挙に物語創造を楽しむ。いいではないか。これが今どきの大人の道楽というものである。
■文化的社交の世界へ
これらが「大人文脈の消費」と私が呼ぶものだが、もちろん大人の消費行動であるから、グレードアップというファクターがある。「高嶺の花に挑戦する」「上質にこだわる」という路線はあるだろう。
私のカメラ道楽も、かつての高級カメラを買うことが、それなりのこだわりになっている。おもちゃのようなカメラからは卒業したいということだ。
でも、この点については、私は任でない。私はカメラや音楽の話しかできなかったが、ほんとうは車やファッションや時計や海外旅行等を語らなければならないのだろう。
私が言わなければならないと感じるのは、そんなことよりも、文化的社交への連動である。これが第四点目の論点になる。
たとえば、私は、これから写真サークルに入ったりするかもしれないし、写真コンテストに応募したりするようになるかもしれない。それなりの社交的世界が広がる可能性がある。
最近、大人の女性の中では、ちょっとした着物ブームが始まっている。若い人たちは夏に浴衣を着るのがすっかり普通になったが、その次の局面として、ふだんっぽい紬やむかし着物を、ちょっとしたおでかけのときに着るのである。雑誌で言えば『七緒』がそのコンセプトをよく表現している。文化人で言えば、杉浦日向子、林真理子、群ようこ、檀ふみ、田中優子あたりがその先駆者である。彼女たちの着物へのこだわりは、その前までの人たちとは異なる。現代的な目線から着物を再発見しているところが明らかに違う。そして、そのまなざしは知的である。大人の鑑識眼を感じる。
着物の世界は、仕立てから入るとすると、非常に個性的になるので、お店の人たちとの濃密なコミュニケーションを楽しむ側面がある。また、着付け教室に通ったりすることになるので、そこでのおつきあいも生じる。そして、これが重要なのだが、着物を着ていく場所が欲しくなるのである。お稽古ごとを始めたり、懐石料理を楽しんだり、日本の伝統芸能に接してみたくなったり、着物の似合う街を散歩するといったことをしたくなる。レトロ気分を楽しむという感じだろうか。
このように、着物は文化的社交の世界を広げるところがある。これは消費行動の概念を超えている。むしろ文化的行動であり、社交的活動である。
大人の習い事にもそういうところがある。今では「大人の音楽教室」のような仕掛けも、あたりまえのことになったので、チャンスはたくさんある。
この点では、一足先にこの道に入った井上章一氏の話が面白い(井上章一『アダルト・ピアノ』PHP新書、二〇〇四年)。井上氏は四〇代になってからピアノを習い始めた。ナイトクラブでホステスにもてたいとの邪心があってのことだと書いてあるが、もともとジャズ・ピアノを弾きたいとの思いがあったようだ。これは同世代としてよくわかる。じっさいに苦労しながら、いきなりジャズに挑戦し、人前でも演奏するようになる。ただし、ピアノに関しては非常にセンシティブになっているのがわかる。ささいなコミュニケーションも、ピアノに関するものになると、自分の中で大きく響くようだ。そして今では、素人でピアノトリオを組んでライブハウスで演奏しているというから、新しい世界を開いているなあと感心する。
たしかにビル・エバンスやレッド・ガーランドなんかをピアノで弾けたら、どんなに楽しいか。社会学者では、サドナウの『鍵盤を駆ける手』が有名で、かれもやはり大人になってジャズ・ピアノに挑戦したのである。こちらはかなり内省的・自己分析的になっている。しかし、そこには音楽内在的な豊かな世界が広がっている。こういう楽しみは大人ならではないかと思うのである。
「四〇の手習い」と言うが、習い事の文化も大人が支えるようになれば、深みが違ってくる。文化的社交の世界も広がってくるはずだ。
三 したたかに消費文化をずらす
■はまり場を発見する
消費文化には二つの側面がある。ひとつは経済の側面、もうひとつは文化の側面である。供給側は経済の論理で進んでいく。ファミリー向けやそれに類した消費も経済の論理で進む。
それに対して、大人文脈の消費は文化の論理で進む。どうだろうか。
自分の文化的感受性に忠実に展開していればいいのである。文化的感受性と言っても「高感度」かどうかではない。それは所詮、仕掛人たちに都合の良い感受性がすぐれているというのにすぎない。たんに受け手としての感度である。
そうではなくて、自分の文化的文脈をきっちり構築できているかということなのだ。自分の文化的世界をもち、それを自由に自分文脈で「はまり場」を発見し、その世界を発展させていくというスタイルをもちたいものだ
流行がどうであろうが、ブームがどうであろうが、かまわない。同じようなことを求めている人は必ずいて、すでに実践している人も必ずいる。どのはまり場にも同好の士がいるものだ。たまたま、その数が多いときにブームと呼ばれるだけのことだ。
小さなブームであっても、消費社会に文化的な渦を作り出していることは、結果的に消費文化を大人志向にずらすことになる。こうした渦をあちこちにいくつもこしえることができれば、若者志向の強い現代の消費文化を大人志向にずらせるはずだ。
■静かなクレーマーになる
大人になると、欲しいものがないということがある。みんな若者向けで「なんだかなあ」と思う商品ばかりである。かと言って、老人向け商品も「なんだかなあ」と思ってしまう。意外に大人向けというのがないのである。ファミリー向けで済ませざるを得ないという現状である。
しかし、新しい大人はそうはいかない。若いときから消費の修行を積んでいる。それなりに大人の鑑識眼もある。
クレームばかりごねる人もいるが、そこまで行かなくとも、それなりにリアクションを返すことも大人の役割である。静かなクレーマーになろう、とでも言うべきか。
最近は、さまざまな組織がクレームに敏感になっている。クレームに正しく誠実に対応しないと、ときとして大事に至ることがわかっているからである。
電話や手紙でなくても、サイトからメールを送ればいい。アイデアもあっていいし、なにより、こういうものが欲しいと言うことである。そういう声が組織を少しずつ変えていく可能性がある。これが昔と違うところである。
私自身はものぐさで、トラブルを感じても泣き寝入りしてしまうほうなのだが、私の友人にはなかなかなクレーマーがいて、ことあるごとに商品やサービスの問題点をメールしては、それを自分のブログに掲載している。原稿料もでないのに、じつに細やかな問題解説を企業や組織に対してメールしているのを見ると、つくづく感心してしまう。こういう人は嫌われないクレーマーである。企業からすれば、得難きチェッカーになる。
言うまでもないが、クレームをつけて何か商品やサービスを要求するのは、オヤジやオバサンのテリトリーである。こういうことは企業や組織をかえって警戒させてしまう。あえて「静かなクレーマー」と呼ぶのは、公共的な役割を果たす大人のことである。私的な利益のためのクレームはいただけない。それは大人ではない。
■消費のことばに逆らう
若者の文化消費を観察していると、それなりに感度のいい人は必ず映画に流れるのがわかる。昔からそうだったと言えばそうなのだが、映画はプロモーションがさまざまなメディアでなされるために、そのつどミニブームをメディア上で生じさせている。パブリシティも多いが、週刊誌のコラムでも、頼まれたわけでもないのに映画の話が出たりするものだ。
これは「消費のことば」と私が呼ぶものの典型である。とくに努力しなくても自分のところにまでやってくる情報がある。それは、何らかの意図を持って仕掛けている組織の力によるものであることが多い。コマーシャル、パブリシティ、トレンド情報など、さまざまな形でやってくる情報に対して、私たちは何の努力もしないで、それを受け取っている。こういうものが「消費のことば」である。
何か欲しいものができたときに、雑誌の特集記事を読んでみたり、カタログを読みふけってみたりすることがある。それによって、特定の商品やサービスにナビゲートされていく。「消費のことば」には、こういうナビゲート構造がある。あみだくじのように、入口によって事実上、出口がきまってしまうような構造ができあがっている。こちらも「消費言説中毒」とも言うべき状態になる。それを買うしかないような気持ちになってくる。
もちろん、こういうものに乗っかってみるのもいい。しかし、あえて逆らってみるのも大人の文化的力量ではないかと思う。言ってみれば、あみだくじに自分なりにどんどん横線を加えてしまうのである。
あるいは、そのあみだくじには、仕掛人たちによっても、たえず新しい線が引かれているので、じつは出口はいつも動いている。そこで自分なりにそのタイミングをはかって入るのである。こういう「ずらし」をしていかないと、いつまでたっても大人志向の消費文化は構築できないだろう。
それには批評精神と文化的感受性を磨く必要がある。言葉に惑わされる世界において、言葉に対する感受能力を鍛えることが、新しい大人の条件である。