着地せよ、無翼の大人たち(6)

着地せよ、無翼の大人たち(6)
野村一夫(国学院大学教授・社会学者)
第六章 大人はクールに批評する
一 大人のメディア・リテラシー
■メディアを大人志向に
文化的環境を考えると、やはりメディアを大人向けに変えたいものだ。
私も、読みたい雑誌がない、見たい番組がないという状態が続いている。とくにテレビの幼稚っぽいつくりや、あざとい編集には、いやになってしまう。ケーブルテレビには百ほどのチャンネルがあるというのに、ニュース以外に見たい番組はほとんどない。スポーツや映画やアニメばかりで、そういうものが好きでない私は見るものがないのである。
昔は、仕方ないので、有料の競馬専門チャンネルを契約して、そればかり見ていたり、あるいは、だらだらと大して見たくもない音楽番組や旅番組を見ていたが、最近は、きっぱりスイッチを切ることにした。メリハリのあるメディア行動をしたいと思ったからだ。大人の限られた人生の残り時間を費やすには、今のテレビはあまりに貧困すぎる。どうにかならないものだろうか。
それに対して、雑誌の世界では、これまでにないような大人志向のものが出てきた。三〇代や四〇代の世代に向けた女性誌や男性誌が創刊され、ちょっとしたブームになっている。それなりに採算も取れているようだ。けれども、広告収入に頼る雑誌の宿命か、消費をあおる記事が大部分を占める。若者志向のファッション誌がたんに高額商品に移行しただけのようにも見える。
メディアを大人志向にするためには、それでも、少しでも芽があれば、それを支持すること、つまり買うべきなのだろう。適切なクレームも発信しつつ、読者として育てていくスタンスがないと、育つものも育たない。だめだとあきらめてはいけないのだろう。
■あえて頑固な受け手になる
最近のメディア論界隈では「メディア・リテラシー」がはやっている。これはとくにマス・メディアに対して批評的に見ていこうという運動である。マス・メディアのコンテンツをたんに受け身で無批判に受け取るのではなく、批判的に解読しようということである。
これは、マス・メディアというものがそれぞれ組織を形成し、経営的な側面を持つために、そのコンテンツを劇的に改善することが困難であるとの前提がある。
それなら、受け手の眼識を鍛えて、受け手のほうでコンテンツのバイアスをただしていけばいいではないか。こういう発想の転換である。
たとえばニュースである。メディアが伝えたことに対して悪口を言うのは比較的やさしい。しかし、それを裏読みしたり、行間を読むとなると一気に難しくなる。まして、メディアによって伝えられていない重要なことを想像したり、テレビカメラのフレームの外側で何が起こっているかを想像するのは至難の業である。しかし、注意深くメディアを読む訓練をしていれば、そしてときには能動的に情報探索をすれば、こういうこともある程度は可能である。
メディアを鵜呑みにしない。その意味では大人は「頑固な受け手」でありたい。その頑固さが、たんに意地を張ることではなく、知性的な裏付けをもつものになっていないと実効力がない。そう、もっと眼識を鍛えようではないか。
■マス・メディアの法則
メディア・リテラシーの基本は「メディアが現実を構築する」ということである。それは仕掛けとか演出とかデザインとか戦略などと呼ばれている送り手側の作業によって、私たちの認識する現実がつくられてしまうということである。
そこにはいくつかの法則めいたものがあって、たとえば次の三つが有名だ。
第一に、議題設定機能。メディアがそのときそのときのテーマを決めてしまうというもの。あるテーマを複数のメディアがよってたかって大きく取り上げることによって、受け手はそのテーマが今議論されるべき問題だと思ってしまう。そのテーマについて、例えば賛成だとか反対だとかについて影響を与えるのではなく、いずれにしても今議論されるべきテーマはこれだと指定するという影響である。
テーマの選定は、ほんとうにそれが重要だということよりも、メディアの内部事情によるところが大きい。テレビであれば「絵になるかどうか」が現場では重視されるので、絵にならない論点は小さく扱われやすい。だから、集中豪雨的にメディアが扱っているテーマは注目されるけれども、そうでないテーマには気がつかなくなってしまうのである。
受け手の意見をどうこうするという影響ではない。メディアは「洗脳」などしないのだ。そうではなく、議論の土俵をメディアが総掛かりで決めてしまうという影響であり、私たちは自分の意見はメディアの影響ではないぞと思っているが、結局、メディアの指定したテーマについて議論させられているわけである。
第二に、沈黙のらせん。日本のように「みんなに合わせろ」という同調圧力が働きやすい風土では、少数意見は発言しにくい。へたに発言すれば孤立するからだ。そこで、私たちは自分の意見を発言する前に、それが多数派か少数派かを調べるのである。そのさいに参照するのが圧倒的にマス・メディアなのである。
そのため、マス・メディアが優先意見として提示しているものと同じ意見を持つ人は、声高に自分の意見を発言し、そうでないと思った人は沈黙してしまう。意見というものは発言されてはじめて社会的に存在するものだから、沈黙された意見は事実上存在しないのと同じになる。こうして、多数派の意見はますます多数派に見え、少数派の意見はますます少数派に見えてしまうという悪循環が生じる。その結果、マス・メディアが提示した意見が圧倒的な優勢を占めるかのように現実が構築されるのである。
第三に、培養効果。ドラマやニュースでは、演出上の都合やニュース価値との関係で、どうしても現実とは異なる世界が描かれる。たとえばテレビが描く世界は、暴力や犯罪が満ちあふれ、権謀術策が張り巡らされた日常生活になっている。これは現実とは確率的に異なるはずだし、私たちもそれを承知して見ているはずだが、それがきわめて長期間にわたっていくと、私たちの現実認識が歪められてしまうのである。
テレビは現実の世界から都合の良いことだけを拾ってきてブラウン管というシャーレの中でそれを純粋培養して、私たちに提示するのである。シャーレを長く覗き込んでいると、それが客観的な世界の現実だと勘違いしてしまう。これが培養効果である。
こうしてみると、自分では評論家のようにシニカルにメディアと接触しているように思っていても、意外にそのことがメディアの思うつぼになっているという感じである。今どきのメディアの影響というのは、ひねくれているのだ。
これらの影響から距離をとるためには「メディアは構築されている」という逆の側面を認識しておくことが重要だ。つまり、放送は免許制であるために、どうしても政府批判が徹底できないということや、メディアにも系列があるために、系列内部の批判はできないといったことである。日本テレビや読売新聞がジャイアンツびいきであるのと同じような構図が、メディアにはいっぱいあるのだ。とくに地方メディアにはたくさんある。それから、放送では演出や編集の文法のようなものがあり、雑誌は広告とのタイアップやパブリシティなしには成り立たない現実もある。そういうようなことを頭に置きながら、メディアを使いこなす大人になりたい。こういうことは子どもや若者には無理だと思う。
■クールな批評的コミュニティとしてのネット
受け手としての眼識を鍛えようというメディア・リテラシーから私たちはさらに一歩進むこともできる。インターネットを使えば、私たちはかんたんに送り手にもなれるからだ。
インターネットが一般に開放されてから、私自身、ずっと送り手として関わってきたが、インターネットには期待した時期もあり(野村一夫『インターネット市民スタイル』論創社、一九九七年)、失望した時期もあり(野村一夫『インフォアーツ論』洋泉社、二〇〇三年)、状況に応じて大きな振幅で評価が揺れてきた。
けれども、他のメディア状況を考えると、やはりネットには期待せざるをえない。今のところ、これだけが、実質的に私たちの手で直接変えられる参加型のメディアだからだ。マクルーハンのいう「クールメディア」である。
その期待は、二つの局面にある。ひとつはアーカイブとしての可能性であり、もうひとつは批評的コミュニティとしての可能性である。そしてブログは両者の可能性を持っている。
アーカイブの可能性というのは、私たちがコンテンツを発信することによって、インターネット全体が百科事典状態になることを意味している。すでに、そういう状態になっているものの、テーマにも内容にもかなりの濃淡がある。ヤフーなどに項目が立てられるようなものは、たいてい企業や組織が提供していて、それなりに情報がある。しかし、そこから少しでもはずれると、とたんに寂しくなってしまう。人びとの眼識を高めるコンテンツは意外に限られているものである。
それに対して、大人が大人としてコンテンツを提供し合えば、多少なりとも濃淡を埋められるだろう。趣味であろうが、商品であろうが、仕事関連であろうが、専門的知識であろうが、自分にとっては身近な知識や情報であっても、他人には知り得ないものがある。たとえば、業界内の常識のようなことや、古い商品の使い勝手や、地元ならではの情報といったものは、流通していないものである。こういうコンテンツを提供し合えば、最近は検索が的確になってきたので、きちんと情報共有できる。労力を提供し合って共有地をよくするという感覚(互酬性の規範!)が大事で、これがある人を大人というのである。
批評的コミュニティとしての可能性のほうは、掲示板やメーリングリストなどであれこれ議論したりするわけだが、コモンズ(共有地)になっている情報環境を支える意欲を持ち、かつ適切にふるまえる人たちはすでに数多く存在する。たんなるエゴイスティックな私人たちばかりではコモンズは成立しない。公共世界に関与しようとする大人、あえて大人役割を担おうとする人たちがたくさんいて初めて成り立つのである。
この批評的コミュニティに参加する能力を、私は勝手に造語して「インフォアーツ」と呼んでいる。ネット時代の新しい大人の教養みたいなものだと考えている。
ブログは、こういう支えあいのツールとしては最適である。個人として自律的な発言空間を維持しながら、しかも公共的な議論空間に参加できる。ここはひとつ、テーマを持った人として、ネット上のコモンズに参加するというのはどんなものだろう。新しい大人のたしなみではないかと思う。
二 ことばの現実構築力を駆使する
■システムの力
職場にせよ、生活の場にせよ、ネットにせよ、これらの空間において大人が大人として発言することの意味は何だろうか。
答はいろいろあっていいのだろうが、「大人として」ということを重視すると、「権力のことば」と「消費のことば」への抵抗であると私は考える。
「消費のことば」についてはすでに前章で述べた通りである。「権力のことば」というのは、たとえば「少子高齢化」「IT」「構造改革」「リストラ」のように新聞などで自明の事柄として語られているようなことばのことだ。大半の経済用語や政治用語がそうであり、多くの専門用語がそうである。
これらは、私たちが努力しなくても私たちの元に届く。それだけ、力を持った組織がある意図を持って発信し続けていることばなのである。つまり権力システムのどこかから発信されたことば、それゆえ「権力のことば」と総称できる。
「権力のことば」にせよ「消費のことば」にせよ、いずれにしても、強い力を持っているシステムが発することばが私たちを取り囲んでいる。私たちはそのことばを用いてものごとを考えるので、どうしても思考の枠組みが決められてしまう。これが「システムの力」というものである。システム化された現代社会において、私たちはこの力から逃れることはできない。
大人自身も、職業人として、このシステムの力に日々貢献しているわけで、それを考案し、キャンペーンし、利用することで、それを支えている。断っておくが、それ自体が悪いことではない。これが秩序をつくりだすのだから。
しかし、これらのことばが私たちの思考の枠組みを規定し、私たちの認識する現実を構築していることを考えると、「そうでない可能性」を想像してみることが重要になる。
すでに「大人思考」については述べた。自明のものとして存在するものごとを、いったん相対化し、そうでない可能性があることを想像して、それとの比較において、ものごとに対処していく。こういう「抵抗」が必要だと思う。
私はこの抵抗のことばを「反省のことば」と呼んでいる。自分たちの生活と人生を的確に反省できる一連のことばのことである。「権力のことば」でもなく「消費のことば」でもなく「反省のことば」を駆使することで、私たちの自己理解と他者理解は深まるはずである。そういうことばの使い手になりたいと思う。
本書のはじめに「大人とはある種の知的態度である」と述べたのは、つまりこういうことである。
じつは若者たちも「抵抗」する。いわゆる若者ことばがそれである。それはそれとして意味がある。しかし、若者ことばを学習して使うような大人はバカにされるだけだろう。大人は大人思考で抵抗したいものだ。
■生きづらさを問題化すること
ことばというものは不思議なもので、ことばを発することがそのつど現実を構築する働きを持つのである。私たちが特定のことばを使うことで、その発話空間が規定され、自分と相手を拘束することになる。だから、使うことばを注意深く吟味する必要がある。私がインフォアーツの源泉と考えているのは、こういうことばの持つ現実構築力である。
では、ことばの現実構築力を大人としてどう使えばいいのだろうか。
第一に思いつくのは、私たちの生きづらさをきちんとことばにして他の人たちに問いかけることだ。
だれしも個人的な悩みを抱えている。それは、ささいな問題かもしれないが、声に出したり、何かに書いたりすると、必ず応答する人たちがいるものである。
というのには二つの理由があって、一つはその問題が相手にとっても共通する側面をもっているからである。もう一つは、相手が「お互いさま」という気持ちを持っていて、その信頼関係から応答してくれるという場合である。
社会学には、個人的なトラブルと感じられることも、じつはマクロな社会の問題と連動しているとの考え方がある。マクロに社会の問題が、必ずしもマクロな問題として立ち上がるとは限らず、きわめて個人的な悩みとして現象することがあると考えるのだ。だから、同じ悩みを持つ人は必ずいるし、その問題の構造はきわめて似通っているものなのである。同じ悩みを抱えている人たちは、寄り添いたいものである。自分と同じ思いを声に出した人に応答する動機を持っているわけである。
もう一つの側面。「お互いさま」という気持ちは、前に「互酬性の規範」として紹介したものだ。こういう感情が人びとに共有されているとき、「コミュニティが成り立っている」と呼ぶ。それは隣近所づきあいというコミュニティの場合もあれば、同業者の寄り合いのコミュニティかもしれないし、匿名掲示板での特定のスレッドに寄り集まった人たちのコミュニティかもしれない。人間が集まるところ、コミュニティはどこにでも成立しうる。
この場合、応答関係が重要で、これがコミュニティにとって要となる「互酬性の規範」を形成するのである。語ることが信頼を生む。語り続けること。そしてさらに私たち自身が「応答する大人」でありたいものだ。第三者気分の人たちばかりでは何も生まれない。
こうした応答関係の中で、あるいはそれらを積み上げていって形にしていくことによって、生きづらさを可視的なものにすることである。これまでいくつもの公害問題や環境問題や薬害問題が、こういうプロセスによってマクロな社会問題にまでなっていった。逆に言うと、社会問題というものはこうして構築されていくものなのである。
自分たちの生きづらさをお互いにことばで表現し合うことによって、さまざまな公共圏がつくりだされる。つまり、自分と自分の環境を問題化する「反省のことば」の公共圏をあちらこちらにつくりだすこと。井戸端会議からブログのトラックバックまで、床屋談義からメルマガまで、言説空間は多様であり得る。これが大人の社会の基盤である。
■リスク・コミュニケーション
第二点は、リスク・コミュニケーションに関わるということである。
リスク社会においては、専門家や企業や行政などがパターナリズム的に「万事お任せ」にできなくなっている。どのような政策をとろうと、必ず不確定な事態が生じる可能性がある。つまり、これがリスクというものである。それを回避できないのであれば、事前にコミュニケートして了解をとっておく必要がある。あるいは事後に誠実にコミュニケートして納得してもらう必要が出てくる。
これは利害関係者としての専門家の役割である。リスク社会においては、この役割はますます重要になっている。
若者や老年とちがって、多くの大人は、職場において、専門家として説明責任あるいは応答責任を負う立場におかれている。専門家というと大げさかもしれないが、職種や雇用形態はさまざまであっても、職場において得られる情報や知識は、一般市民や消費者として知り得る情報や知識とは雲泥の差があるはずである。ここには、専門家と一般市民の間に情報の非対称性があるのであって、それがかつては業界の「公然の秘密」だったり、企業秘密だったりするのであるが、昨今は、この情報の非対称性は埋められなければならないものになってきている。埋めなければ、組織や業界としても社会的な信頼が確保できない時代だからである。
しかし、職場ではしばしば戦略的なことばを使わされる。それは組織や業界としてシステムの力を帯びた「権力のことば」である。それを使わざるを得ない場面はたくさんある。
しかし、ここで「大人変換」をしていきたいものだ。ここが大人の技の見せ所である。
その場しのぎの戦略的なことばではなく、納得を目指したコミュニケーショナルなことばに変換していけるかが問われる。
■コミュニケーションの条件とは何か
ここで、納得を生むコミュニケーションとはどのようなものなのか、ちょっと理屈を考えてみよう。
社会学者のユルゲン・ハーバーマスによると、コミュニケーションにおいて「了解」が達成される場合には、三つの条件が必要だという。もちろんお互いに一定の言語能力があることが大前提であるが、その上で真理性・正当性・誠実性の三つが満たされる場合だという。
つまり、客観的世界(物理的環境世界)に照らして発言が真理であり、社会的世界(社会的規範)に照らして発言が正当であり、内的体験世界(内的感覚)に照らして発言が誠実になされているという三拍子そろってはじめて、合意が成立する。
単純な事例で説明してみよう。だれかが「火事だ!」と発言したときについて考えて見ると、それがたき火であれば客観的事実でない。わざわざ言うまでもないことを言及しているとすれば発言に正当性がない。脅かそうとして嘘をついているとすると、この発言は誠実でない。
あるいは「ここでタバコを吸ってもいいですか」という発言の場合、相手が手にしているものが禁煙具であれば質問そのものが成り立たない。相手が小学生であれば、質問が前提している社会的規範(社会のルール)が承認されていないので、発言に正当性がない。そして、たんに形式的な手続きとしてきいているだけで、ほんとうに許可を得ようと質問したわけでないとすれば誠実でない。
このような吟味を私たちは瞬時におこない、妥当であると見なしたときにのみ、この問いかけを了解し受け入れ、それに対する自分の主張を相手に返すのである。あるいは、私たちは、これを理想として、それとの「ずれ」として現実のコミュニケーションをたえず検証しているのだ。
こうしたコミュニケーションを志向し、なおかつそれに耐えうる大人でなければならない。これには、男性も女性もないのである。
危険な食品添加物から家族を守ろうと思えば、それに関する知識が必要であり、それが専門家からしか得られないものであるとすれば、事情通の知人と話す機会をとらえて勉強し、ときにはネットで質問したり、自分の体験を語ったりする。こういうことの積み重ねが、よりよい現実構築への道になる。
■大人モデルとしてのジャーナリスト
このように考えてくると、今どきの大人のモデルはジャーナリストではないかと思うのである。
戦前の思想家で戸坂潤という人がいるが、かれがこういうことを言っている。
「元来から云うと、一切の人間が、その人間的資格に於てジャーナリストでなくてはならぬ。人間が社会的動物だということは、この意味に於ては、人間がジャーナリスト的存在だということである。」(『戸坂潤全集』第四巻、勁草書房、一九六七年)
哲学的な水準で述べているので、「元来」という言い方になっているが、これはある種の理想像について語っているのだと思う。「ジャーナリスト」というのも理想的な意味においてのジャーナリストであり、批評的精神をもって活動する人間のことである。私は「人間がジャーナリスト的存在だ」というフレーズがとても気に入っている。
新しい大人たちがジャーナリスト的存在であろうとして、それぞれの社会的位置に即したさまざまなコミュニケーションの実践──知る・聞く・見る・考える・言う・伝える──をしていくことによって、社会がより反省的な存在に変わっていく。私は、こういう大人のあり方を構想してみたりするのである。
三 翼なき思想
■若者と原理主義、老年とシニシズム
ここで、新しい大人の生活思想について考えてみたい。と言っても、私のような者がポジティブに語ることはできない。「そうではないだろう」ということを言いたいだけである。なんでないかと言うと、原理主義とシニシズムである。
ちゃらんぽらんに生きている若者はいいのであるが、「まっすぐに生きたい」とか「何か使命に生きたい」と思い込んだ若者が陥りやすいのが原理主義である。
これは筋を通そうとするから、そうなってしまうのである。知の合理化を急ぐからである。宗教であれ、政治であれ、経営であれ、ワンディシプリンだと行動的になれる。その利点は認めよう。しかし、わかりやすい単純な理念から出発することの危険性に大人は経験的に気づいている。
たとえば「正しいものはこれだ」と原理主義的に思い込むと、そうでない考え方を持つ人間はすべて「敵」となり、何をしてもいい存在と定義されてしまう。これが原理主義の怖いところで、正義は必ず「敵」を作り出さずにはおられないという性質があるのである。
他方、老年は定義上、社会をあきらめる世代である。社会を支えることをあきらて「そんなことやっても仕方ない」というようなシニシズム(冷笑主義)に陥りがちである。シニシズムは知的ではあるが、抵抗することをしない。自分の経験へ固執するだけである。
ちなみに、若者も、現実に対する無力感からシニシズムに陥りやすいところがある。じつは私自身がそうだったので、人ごとではないのだが、それだけに、ニートやひきこもりになる若者の多くがシニシズムに陥っているのではないかと想像できる。ごくふつうの大学生でも、こういう学生はけっこう多い。
■最適解の思想
原理主義に志向する若者と、シニシズムに傾斜する老年(と若者)。これらに対して、大人はアンチ原理主義・アンチシニシズムで行きたいものだ。原理主義もシニシズムも大人には似合わない。
それに対して大人の思想とは何だろうか。思想と言うと大げさかもしれないが、私は「最適解の思想」ではないかと思う。
数学では正しい答が一つに決まるのに対して、たくさんの選択肢や可能性があって、それらの中から現実の条件に合うものを実践的に選択するのが「最適解」である。最適解の思想は、原理原則に機械的に恭順することを拒否する点でアンチ原理主義であり、達観的に観照するのではなく、実践者として臨機応変に最適と考えた選択肢を決断的に実行する点でアンチシニシズムである。
もちろん、ものごとには規則やルールというものがある。その則り方が難しい。
たとえば、大原則は最優先すべきルールだが、大原則は設定の水準が高いために、それなりの融通性を持つ。大原則の緩さに対して、小原則は設定の範囲がローカルなためにリジットである。それゆえ、ケースによっては、大原則よりも小原則を優先させるという「最適解の思想」が有効である。ここで大原則をリジットに捉えすぎてしまうと原理主義に陥る。これが落とし穴だ。それを巧妙に回避するのが大人の知恵というものである。
前にスイッと進めないもどかしさを辛抱すること。しかし、少しずつずらしていく戦略的工夫をすること。こういうことの積み重ねであろう。
■着地せよ、無翼の大人たち
右翼も左翼も、大原則に殉ずるという意味で、原理主義への傾斜を持つ。だから右翼でも左翼でもなく「無翼」になる。「翼」を捨てて着地する。あえて超越的なものを求めない。
逆に言うと、大人とは、着地する無翼の人である。着地とは、生活世界に根ざす適切な思想行動を取るということだ。
無翼であろうとすると三つの倫理思想がある。それに即して、大人の思想には三種類ありうるという説を唱えたい。つまり、着地の仕方には三つあるのだ。
第一に、リバタリアニズムの大人。リバタリアニズムとは自由至上主義のことである。個人の自由と自律を何よりも優先する考え方である。こういう考え方の人をリバタリアンと呼ぶ。
第二に、リベラリズムの大人。リベラリズムは民主的自由主義のことである。個人の自由を尊重した上で、恵まれない人への配慮を欠かさないという考え方である。こういう考え方の人をリベラルと呼ぶ。
第三に、コミュニタリアニズムの大人。コミュニタリアリズムは共同体主義と訳される。共産主義(コミュニズム)とことばが似ているが、そういうものではなく、コミュニティを重視し、お互いに助け合うような社会をつくろうという考え方である。互酬性の規範を重んじる。こういう考え方の人をコミュニタリアンと呼ぶ。
着地の仕方は人によってさまざまだ。いずれにしても、着地してこそ屹立できるのである。
この三つの中で、結果的に本書ではコミュニタリアニズムの大人を最も大人らしい大人と考えてきたことになる。ここが私の着地点である。