着地せよ、無翼の大人たち(7)

着地せよ、無翼の大人たち(7)
野村一夫(国学院大学教授・社会学者)
第七章 大人の宿題、大人という宿題
一 システムとコモンズに介入する
■私は、私と私の環境である
最後の章である。新しい大人について考えてきた思索の旅もそろそろ終点である。
これまで考えてきたことを、大人が社会に対して果たすべき課題は何かという問題としてまとめてみよう。言わば宿題のようなものが大人にはあるのではないか。いつも頭の中に置いてあって、いざというときに片付けるような。そんな「大人の宿題」があると思うのである。
『大衆の反逆』で有名なオルテガ・イ・ガセットは、最初の著作である『ドン・キホーテに関する思索』の中で次のような言葉を残している。
「私は、私と私の環境である。そしてもしこの環境を救わないなら、私をも救えない」(オルテガ『ドン・キホーテをめぐる思索』佐々木孝訳、未来社、一九八七年)
自分というものは結局、環境との相関物だということだ。だから自分を救うためには環境を救うことが不可欠だというのだが、こういう発想こそ大人のものであると思う。では、この場合の「私の環境」とは何だろう。
こういう哲学的なフレーズは自由に解釈してかまわないだろうから、私なりに大胆に解釈させてもらうと、大人が救うべき「私の環境」とは「システム」と「コモンズ」である。
システムとは、組織や制度の世界である。学校や企業や行政や病院などの世界である。これらは法律や規則によってコントロールされた環境である。役割が厳密に定められており、裁量の余地が少ない。指定されない他の役割は排除される。
たとえば、学校では教員としてふるまうことを期待され、企業では課長としてふるまうことを期待され、行政では住民としてふるまうことを期待され、病院では患者としてふるまうことを期待される。それらの役割はあらかじめ何をするかが指定されており、それにしたがっているかぎりは問題なく目的が達成できる。万事合理的に設計されているのである。現代社会にあっては、これが「私の環境」のかなりの部分を占めることになる。
それに対してコモンズとは、人びとが自発的に切り開いた共有地のことである。共有地というのは比喩で、必ずしも土地である必要はない。環境問題の文脈では自然環境の意味で使われるが、インターネットのサイバースペースもコモンズであるし、身近なご近所付き合いやサークル活動などでの社交的な世界もコモンズである。文化的な活動もコモンズを形成する。要するに、みんなで自発的に協力し合って維持存続させている社会空間・公共空間である。こういうところでは掟のようなルールが自然発生的に生成するが、それも絶対的なものではなく、人びとがどのように考え、どのようにふるまうかによって、そのつど変容する。人びとの裁量の余地は大きい。
システムとコモンズという二つの環境に対して、大人は深い関わりを持つことになる。では、どのように関わっていけばいいのか、もう少し突っ込んで考えてみよう。
■システムの信頼性を高める
職場において、私たちは組織人として、しかし大人としても動く。この二重性が重要で、これが組織人として単一の役割を生きるのであれば、それはシステムの関数にすぎない。大人の自覚を持つ大人たちが、組織の役割に対して大人役割を意識して活動することは、システムの風通しをよくすることに通じるはずである。
いわゆる組織悪に内部で抵抗するというのもあり、組織の外部的信頼の担い手として活躍するというのもありだ。やはり組織のありようがリスク社会にとって重要である。
私たちの社会のシステムは、それなりによくできている。けれども、制度設計の問題から現場サイドでの運用の問題まで、さまざまなレベルで齟齬を来すことがある。
たとえば、公害企業や薬害企業と名指しされることは企業にとって致命的なリスクである。それにもかかわらず、企業はそのリスクを冒してしまう。それはなぜなのか。
社会学者の宝月誠氏によると、つぎのような場合に企業は道を外してしまうという(宝月誠編『薬害の社会学——薬と人間のアイロニー』世界思想社、一九八六年)。
第一に、企業経営者や担当者が環境への対処の必要から、組織能力や現実を無視した企業戦略をあせって実行しようとするとき。ワンマン社長が「やるっきゃない」と言い始めたら危険である。
第二に、企業組織内の自己規制力が低下して、無理な企業戦略が抑制されず、集合的無責任が強化されるとき。組織にはいろんな人がいるから、無茶なことは通らない。それなりに自己規制するのである。けれども、社内民主主義が低く、現場の社員が、言わなければならないことを言えなくなってしまうとき、社内コミュニケーションが悪化し、みんなが「おれは知らないよ」という気分になったら危ない。歯止めがなくなるからだ。
第三に、企業が行政機関の監視や指導や審査能力、あるいは消費者や世論の反作用といった統制環境の能力を低く評価したり、不当とみなす度合が高いとき。こういうときは、戦略的に対応してしまうので、企業自体が深く反省して、改善に乗り出すチャンスを失ってしまう。
第四に、現在の企業環境に満足できない経営者は業務上必要な相手と共謀関係を形成して自分に好都合な環境をつくろうとするが、そのさい、しばしば逸脱的な手段が用いられる。談合や癒着や天下りといった手段で、企業が自分に都合の良い環境づくりをしてしまうと、「業界の常識」という非常識がまかり通ってしまう。
今はずいぶん企業も「リスク管理」という名目で、こういうことを改善しているようになったとは言うものの、こうしてみると、私たちが組織人として反社会的活動に関与してしまう可能性がないとは言えない。
いくら良心的に働いているつもりでも、組織人としてのみ行動しているかぎり、こうした企業の反社会的的行為の歯止めにはならないケースが多い。なぜなら、社会に迷惑をかけるというのは、企業システムにとって想定外だからだ。非合理だからではない。システムとしての合理性がときとして犠牲者を産み出すのである。
もちろん組織人として努力できることもあるだろうが、同時に、大人という別の役割と視点から行動することが有効ではないかと思う。つまり、自由な大人としての私たちは、一方では組織人として関与しながら、他方でシステムの「内なる他者」としてそれを監視できる。組織内での自分自身を、そして組織のありようを、大人の目線で批評するのである。そしてときには声を上げる。異議申し立てをする。わざとポイントを外す。こうしてできる「ぶれ」「ずれ」というものが、システムの暴走の抑止力になるものである。
■コモンズに貢献する
大人が大人としていきいきと暮らしていける環境としてコモンズがある。すでに述べたように、ここでは自然環境、インターネット、コミュニティ、文化にまたがったさまざまな共有空間・公共空間という幅広い概念として用いている。
コモンズは社会のメンバーが任意で自発的に支えるものである。そのさい、参加資格と言えば、ひとりの大人としてであろう。自然保護活動に取り組んだり、ネット上で情報提供したり議論を交わしたり、コミュニティ活動に精を出したり、同好の趣味の会を運営したりと、これらは資格を問わない。あくまでも大人として参加するものである。そして、それは大人の楽しみでもある。その活動の結果としてコモンズが発展する。すべてが大人しだいだ。
第四章で考えてきたように、政治や経済だけでは社会はよくならない。こうした自由な活動が社会を居心地のいいものにする。ちなみに一九九〇年前後の東欧の民主化の背景には、このようなコモンズの独特のありようがあったと言われている。強権な国家の、あのくずれようを思い出していただきたい。
その理屈を解く鍵は「公共圏」と「ガバナンス」にある。
公共圏とは、自由な言論空間のことである。原則的には参加者は対等かつ民主的に語り合う空間である。コモンズには、こういう空間があちこちにできる。その空間においては、友情が生じ、互酬性の規範が形成される。一般化された信頼が醸成される。
こうした空間の形成原理になるのがガバナンス原理である。
人びとが自発的に参加し、ボトムアップで意思決定を進め、問題があればお互いに批評し合って解決する。これがガバナンス原理である。通常の組織は、ガバメント原理であり、トップダウンで意思決定がなされ、人びとはそれに従って動くことになるのと、ちょっと正反対の原理である。
ただし、これらがうまく機能するのは、これらの空間の担い手が分別のある知的な態度を持った大人であるときだけである。あとはうまくいかない。大人たちが大人としてふるまおうとする場合に、ガバナンス原理はうまく回転し、公共圏が息づき、居心地のいい空間ができるのである。
こうした社会を構想することは楽しい。なかなかそううまくはならないのかもしれないが、一気に革命的に社会が変わるなんてことを考えるより、よほど希望が持てる。団結なんてしなくていいし、使命感なんて必要ない。正義もいらない。正義ではなく適切さがあればいい。大人としての適切さという、穏やかな透徹性があれば十分である。未熟であっても、そういう大人であろうとする意志を持った人たちがたくさんいること自体がたいせつなのである。
私はしみじみ思うのである。大人という存在の可能性はこういうところにあるのではないかと。
二 新しい大人の公共哲学へ
■中間考察
これまでの議論の中から重要な論点をまとめてみよう。これらは結論のようなものではなく、むしろ、いったん議論を回顧して、論点として整え、次のありうべき議論に備えるという中間考察のようなものである。
第一に、変態モデルからエレベーター・モデルへ見方を変えること。芋虫がサナギをへて美しい蝶に変態するように、子どもが若者をへて大人に成熟するのではない。新しい世代は、成熟なんかしないまま、新しい大人にすべり上がるだけであることを認めよう。もちろん成熟する人もいるかもしれないが、それが大人の条件ではない。未熟者の大人、大いにありということだ。
第二に、大人というのは、ある種の知的態度を含む役割であり、それと自我とを同一視する必要はなく、距離を感じながらあえて演じられるものだということ。したがって、本質的に大人であるという人はいない。その場その場で大人としてふるまうだけである。しかも、私たちが大人としてふるまうとき、私たちの他の役割(ジェンダーや年齢や職業)は重複しながらも後景に退く。それらの役割を相対化しているわけである。そこに大人役割の意義がある。つまり、男だ、女だ、父親だ、母親だ、課長だ、部長だ、といった役割を絶対的なアイデンティティにしない工夫になる。多元的な自己を生きることを可能にしてくれる便利な役割である。そのほうがルーズでいいではないか。
例えば組織上の仕事が、それがすべてでないことを大人役割は気がつかせてくれる。もちろん職務になりきることのすばらしさというものもあるけれど、たえずそこから半身離れた自分を確保するということも大事ではないかと思う。自分の中の大人としての「もう一つの声」を聴きながら、目の前の仕事をすることが、適切さを保つ担保になる。
第三に、新しい大人は、心理や経済や権力において語られるべきものではなく、むしろ文化やコミュニティや社交性において語られるべきではないのか。
世代交代によって大人像は変化する。現在の新しい大人たちは、必ずしも成熟感を持たないし、必ずしも経済力や権力の向上を実感してもいない。それらを大人の基準にすると、多くの新しい大人たちは「自分はまだ大人ではない」と感じてしまう。そうではなくて、こだわりの消費行動や地域での活動やご近所付き合いやネット上の交流そして趣味の活動などの場面において、すでに分別ある自律的な大人としてふるまっているはずなのである。そういう目線で見ると、みんな「自分がいい大人である」ことに気づくはずなのだ。「新しい大人たち、目覚めよ。私たちは大人だ」と言いたい。
第四に、大人をコモンズと関連づけて考えることが、社会構想として意味があるのではないか。ここではコモンズを共有空間・公共空間という広い意味で使いたいが、その担い手は大人である。大人という緩い連帯が期待できるのではないか。
社会構想と言うと大げさな感じがするかもしれない。しかし、経済の原理(市場)や政治の原理(国家)とは異なる「社会の原理」のようなものがあって、その担い手は経済人・消費者でもなく政治家・国民でもなく、大人なのだ。大人たちの緩やかな絆がコモンズを活性化し、その集積が、コミュニタリアンたちの言う「よい社会」(the good society)を産み出すのである。大人の社交力や文化力がその基盤である。
■未熟者論争
以上が、私の問題提起である。とは言うものの、私の頭の中では、早々に反論がいくつも立ち上がる。大人はそれなりに成熟するのではないか。大人の条件は経済力や権力ではないのか。大人はもっとエゴイスティックに動かざるを得ないのだよ、と。
反証も証明もかんたんでないし、結論はなかなかでない。しかし、言いたいことがある人はたくさんいて、次つぎに登場しては自説を主張していく。そういう成り行きが目に浮かぶ。とりあえず、これを「未熟者論争」と呼んでしまおう。
じっさい、大人についてもっと語られてもいいのではないか。ここまで私の議論につきあっていただけた方には、少なくともこの点では同意していただけるのではないかと思う。
これまではあまりにも「大人とは何か」について語られることが少なかった。大人適齢期の人たちも「未熟者」の負い目を感じていたから、自分の問題として語りにくかったのかもしれない。しかし、いったん、みんな「未熟者」なのだと居直ってみて、この社会の中で大人が自分たちのためになすべきことを考えてみよう。
これは宿題のようなものである。老いを迎える前に、きちんと宿題をこなしておきたいものだ。大人という宿題を果たすために、もっと大人を語ろう。
あとがき──未熟者ですから
若者でもなく熟年でもない、言わば「未熟者」としての大人のありようについて思索してみようというのが本書でやってみたことである。
このような考察は、あるようでいて案外ないもので、いろいろ探ってみたが、直接「導きの糸」となりそうな文献はほとんどなかった。人生論めいたものも読んでみたが、どれも熟年向けで役に立たなかった。むしろテレビドラマ『すいか』のDVDのほうがヒントを与えてくれたような気がする。じっさいには、自前で考えるしかないと観念して試行錯誤してきたわけである。
そこで、公共哲学という考え方を立ち位置に決めて、私自身が考えてきたことをストレートに書くことにした。だから当初、私なりに想定していたタイトルは「新しい大人のための公共哲学」というものだった。
固い話になるが、私自身の理論的基礎は、一九九四年に刊行された『リフレクション──社会学的な感受性へ』(文化書房博文社、新訂版二〇〇三年)に展開されている。私が若いころ考えていたことをまとめたもので、研究文脈では構築主義に転換した今となってはズレもあるのだが、今回は公共哲学的文脈なので、ここに復帰して議論を組み立てた。
結局、タイトルは編集部との協議の結果「未熟者の天下──大人はどこに消えた?」になった。これは「未熟者の天下でいいじゃないの──かつての古い大人は消えつつあるが、どっこい新しい大人は健在だ」というメッセージである。
私としては、ひとりの大人として、なりふりかまわず思考を進めてきたつもりだが、もとより本書で論じてきたような大人論が決定版だとは思っていない。異なる世代であれば異なる大人論になるだろうし、同じ社会学者であってもルーマン系の社会学者であればまったく異なる大人論になるだろう。その意味で、これは私なりのひとつの意図的な選択にすぎない。他のありようを模索することはもちろん可能であろう。読者におかれては、本書での議論とのずれや違和感を大切にして、ご自分なりの大人の思想を組み上げていただければ幸いである。
一〇代の頃にプログレッシブ・ロックに凝って以来、未だにプログレ中年である私は、おそらくプログレ老人になるだけだと思っていた。生粋の未熟者なのである。
そんな未熟者の私でも、最近は、実在する人たちの生き様を描いたものが、妙にリアルに染み込むようになった。人生の折り返し点を過ぎて「さて、これからどう生きようか」と思っていたところに出版のお話があり、はっきりした見通しのないままお引き受けした。短期間での久々のしんどい作業になったが、四〇代最後の仕事として、自分にとっても一里塚になったような気がする。編集部の川崎隆昭さんには、記して感謝したい。
もちろん、私自身がこういう大人であるというわけでないことは言うまでもない。それなりの筋道を探って「かくありたし」という大人像を考えてきたのである。「雨ニモマケズ」で宮澤賢治が「サウイフモノニワタシハナリタイ」と締めたのと同様に、私もまた未熟者のひとりとして、そうではないカナしい現実に向き合いながら、大人の人生や生活のありようを構想したにすぎない。あとは、この構想を胸に「大人という宿題」を生きるまでである。
二〇〇五年一〇月三〇日
野村一夫