お知らせ

野村一夫『インフォアーツ論』(2003年1月、新書y、洋泉社)全文公開08第六章 つながる分散的知性——ラッダイト主義を超えて

*第六章 つながる分散的知性——ラッダイト主義を超えて
¶一 共有地としての情報環境
■インターネットは共通のメタ言語
インフォアーツはネットワーク的知性である。この知性にとっては、知識を自分が囲い込む必要がない。そのつど情報環境上のリソースから引き出せればよい。インターネットがメタ言語の役割をして、それが構築する情報環境が共有地(共有知!)になるわけである。
では、いかにしてリソースとなる共有地=共有知をプールしてゆくか。知のコモンズとしてのネットをどう育てていくか。自分たちにとって意味あるものにできるかが問われている。共有地にはまだまだ空白地帯が残っている。これには積極的な関与と実践が必要である。
インフォアーツという明確な目的意識をもって、今度はアクターの構築ではなくシアターの構築の観点から、情報環境という共有地(コモンズ)の開墾に取り組むことについて考えてみたい。
■それでもネットは社会化する
私は、ネットがもはや市民をつくりだす力を失ったのではないかと書いた。それゆえ苗床集団において手堅いコミュニティでインフォアーツを育む戦略が必要だと説明してきた。
しかし、よくよく観察してみると、ネット上において、人びとはお気に入りの環境において(たとえば掲示板で、あるいはウェブ日誌で、あるいはメーリングリストで、あるいはマニアサイトやファンサイトで)それぞれの流儀や作法に適応していることがわかる。一般常識的に見て「無法者」系の人びとでさえ、そのコミュニティ特有のジャーゴンを用い、共通のものを「敵」と想定して罵り合って攻撃していたりする。それは社会学的には「集団への適応」であり「集団への忠誠」に他ならない。「市民化」というわけにはいかないにしても、ネット上でも十分「社会化」は生じるのである。
その意味では、あらゆる方向からインフォアーツ的な情報環境を創造していくこともまた重要なのである。かつては苗床の役割を果たしていた市民主義的コミュニティは孤島のようになってしまっているので、それだけに期待するのはもはや現実的ではないだろうが、それぞれの文化において、適切な「社会化」を期待することはできるだろう(ここでも第一章二の「ネットにおける大人のなり方」を思い出してほしい)。
■インフォアーツ支援情報環境の三つの核
共有地としての情報環境整備の問題をコミュニケーション・スタイルごとに考えていこう。インターネットを中心とするネット系の情報環境は、コミュニケーション・スタイルの理念的モデルから見て、ほぼ三つのタイプが核になる。
(1)市民主義モデル
(2)市場経済モデル
(3)公共サービスモデル
第一に、市民主義モデルは、互恵性原則に基づく一種の贈与文化をベースにしている。担い手は個人(しばしばネティズンと呼ばれる)やガバナンス的な集団(正式にはボランタリー・アソシエーションという)である。
第二に、市場経済モデルは、市場原理に基づく経済行為をベースにしている。有料、広告、パブリシティ、無料、オークション主催など、形態的には多様である。担い手は企業である。
第三に、公共サービスモデルは、行政情報サービスや図書館などの活動である。財源があり、営利を目的としていない組織が担い手である。教育研究機関もこれに含めていいだろう。
というわけで、理念的に考えるかぎり、関与の仕方にはさしあたり三種ありうる。
第一に、市民主義モデルからの関与。すでに確認したように、私たちは職業生活や趣味生活などにおいてエキスパートとしての知識をもっている。その一部を、多くの人たちのために整理して公開することで情報環境の構築に参加できる。どんなテーマでも、いかに小さなものごとについても、その知識があれば有益だという状況の人たちはいるものだ。まして、専門家として生活している人たちは、積極的に公共的な役割を担うことができる。
第二に、市場経済モデルからの関与。企業組織によって担われる関与。会員制や有料の場合もあるだろうが、広告であれパブリシティであれ無料にできるサービスはあるものだ。商品情報や企業情報として公開できるものを公開することで、情報環境に貢献できる。消費者側もそうした貢献を評価することで一過性のものでなくなる。やはり持続的かつ組織的な取り組みがないと情報環境は豊かにならない。オークションや掲示板のように、人びとのコミュニケーションの仲立ちとして貢献することもできる。こういう「ことばの市場経済」を活性化させることも重要な役割だ。
第三に、公共サービスモデルからの関与。図書館や各種の情報支援の行政サービスの役割は大きい。情報開示の社会的責任があるだけに、できることをやるとかなりのことができるはずである。国会図書館については、これからに期待したい。
では、どのような情報環境を育てていくのか。知識の供給側として何が必要なのか。ポイントになることをいくつか指摘しておこう。
■「私有地の平安」としての情報の囲い込み
情報環境を共有地として考えると、環境社会学や環境倫理において議論となる「共有地の悲劇」問題が想定される。といってもハーディンのいう「共有地の悲劇」のようなことは情報環境については考えにくい(シュレーダー=フレチェット編『環境の倫理(下)』京都生命倫理研究会訳、晃洋書房、一九九三年)。情報環境において「共有地の悲劇」が生じるとすれば、(情報過多によって)損失されるのは人びとの生活時間ということになりそうだ。
それはともあれ、「共有地の悲劇」以前とも言うべき問題がある。それは特定の組織による情報の囲い込みである。これは「私有地の平安」問題とでも呼べばいいのだろうか。
たとえば、旧・学術情報センター、現在の国立情報学研究所は、多くのデータベースを各種研究学会から上納させて統合させてきたが、その成果は限定された組織と人への有料公開だった。この姿勢の問題性はあきらかである。世代交代と組織改編に伴って、ずいぶんと改善されてきたものの、抱えているリソースの公共性を思えば、未だに社会還元されていないと思う。
このような閉鎖系の組織は、私から見ると総じて発想がインフォテックなのである。インフォテックなところは閉架式図書館のようなもので、不便で一覧性がないからこそ事故も悪さも少ないように見えるし、じっさい少ないのだろう。組織の事なかれ主義と相即していることが多い。
企業でさえ、開放系のところがたくさんでてきている。公共性の高い情報をもつ組織を、閉鎖系から開放系へと転換させることが、まず何より重要である。
■ナヴィゲート構造の対抗的構築
情報環境としてのネットは、けっして均等なハイパーテキストではない。それを形作るリンクはさまざまな主体の意図的行為であって、中性的なものとは言えない。それゆえ、ハイパーテキストは、濃淡の激しいナヴィゲート構造を構成している。
だから、パソコンを使い始めたばかりの中学生はいつのまにか電話回線が国際通話に切り替えられるようなサイトにつかまり、大学の放置されたパソコン教室ではけたたましい音楽があちこちで鳴り響き、オヤジたちはエッチ系サイトの閉じたリンク構造に閉じ込められ、世の中に何か文句を言いたい人たちは特定の掲示板内部のミクロなやりとりから眼を離せなくなるのである。
このようなナヴィゲート構造は意外にも強力である。共有地の密林には「けもの道」があって、そこをたどるのが安易な冒険であるように、ネットにも強力な「けもの道」ができあがっていて、人びとはささやかな冒険をしている気になっている。
そういうものが「けしからん」などと言うつもりはない。言っても始まらないだろう。そもそも情報環境は共有地ではあるが、加算性の共有地である。土地は開拓すればするだけ増える。勝手に私有地を開拓して、通行人たちを呼び込むことはまったくの自由である。力任せにやれば自分たちなりのナヴィゲート構造をネットに構築するのは、だれでもそれなりにできる。
だから結論から言うと、インフォアーツのための情報環境も勝手に作ればよいだけである。つまり、通行人(=しろうと)たちの溜まり場への広い道に対抗して、強力なナヴィゲート構造を整備していけばいいだけの話だ。ところが、これがなぜかかんたんにはいかないのだ。
私の見るところでは、今後、次の三者がどのようなものになるのかによって、インフォアーツのためのナヴィゲート構造は決まる。
(1)専門家の役割
(2)眼識ある市民と苗床集団の役割
(3)組織による公共サービスの役割
それぞれについて、問題点などを考えていこう。
¶二 専門家の役割
■なぜ専門家はネットに出てこないのか
インフォアーツ支援的情報環境の構築ということになると、専門家の役割は非常に大きい。しかし、現状は、大公開時代の幕開けから七年がすぎているにもかかわらず、相対的に貧しいと言ってよい。なぜ専門家は豊富な知識と言語表現能力をもっているのに、専門家としてネットでの役割を引き受けようとしないのか。
第一に、「お金にも業績にもならない文章を書き続けられるか」という、ある意味では思想的な問題が個人的に解決されていない。
第二に、ネットにかける時間がとれない。専門家だけの話ではないが、要するに忙しい。ゆとりがない。じっさいやり始めてみると、予想以上に時間をとられるという問題がある。
第三に、情報過多の問題。比較的限定された専門家集団の言説に対して、ネット上での関連テーマに関する言説には専門家以外の多くの人びとがかかわるので、言説が無数に存在することになる。専門家の流儀にしたがって、これらをチェックした上で、リンク集を作るなり、反論するなり、情報提供するなりのことをするには、あまりにも手間ひまがかかることになる。しろうととしてであればかんたんに発言できても、こと専門家としてとなると、無防備にはいかない。
第四に、専門家は実名で発言する。印刷メディアには当然のように実名とともに論文なり発言なりが公開される。しかし、ネットにおいて実名でそれをやるのはとてもリスキーなことである。少しでもネットの実態を知れば、事なかれ(雉も鳴かずば撃たれまい)の態度になってしまうのは否めない。
第五に、そもそも専門家というと個人の自律的判断が要請される職業であるが、じっさいの判断は専門家集団の標準化され規範化されたルールを適用しているだけである。その意味で専門家は職業集団への忠誠度・埋没度は高い。ところが、多くの専門家集団は、ネットを主要なメディアと定義していない。つまり、長年にわたって公式の報告と印刷物を主要メディアと定義してきた。それだけに、ネットでの積極的活動は専門家集団における「逸脱」と見なされる可能性が依然として高いのである。「先駆的事例」と評価されているケースも、守旧派からは「あんなものは業績ではない」とか「よけいなことをして」といった反応を返されたりするものなのだ。苦労して何かを公開しても、これでは何もいいことがない。たんにリスクを伴う無益な行為である。
というようなわけで、専門家集団においては意外なことに「インターネットなんていらない!」といったラッダイト主義が健在なのである。しかし、私はこれでいいとは思わない。
■インターネットは図書館ではない
ネットを情報環境として評価すると、ひとつ決定的な欠陥のあることが指摘できる。つまり「インターネットには何でもある」と言われながら、じつはもっとも市場価値のあるコンテンツが見事に欠落しているのだ。すっぽり抜けているのが市販書籍のコンテンツである。これはとても大きな限界である。だから「インターネットは巨大な図書館だ」という言説は、たとえとしては大きなまちがいなのである。図書がほとんどないのであるから、「文書館」とは言えても、まだ「図書館」にはなっていない。「デジタルライブラリー」は未だにヴィジョンにすぎないのだ。
本がすっぽり抜けている理由はあきらかだ。出版社側から見ると、販売促進・広報としてのネット活用は理解できても、現に販売中の本のコンテンツ自体を採算の見込みのないネットで公開することはとてもできない。とにかくこの出版不況の中、本が売れなくなるリスクが怖い。だからせいぜい品切書について有料公開を試みるのが関の山なのであるが、これはこれでそれなりの(主としてテキスト化と校正の)経費がかかるため、大きな潮流にはなっていない。
このリスクを飛び越えられるのは、著作権をもつ「著者」だけである。少なくとも理論的には、著者の動き方しだいで何とかなるはずだ。その点で専門家の役割は大きいのである。問題はどのように実践するかである。
■出版物とネットをシンクロさせる
越え方には、いろいろありうるだろう。
第一に、単純に過去を公開するやり方。論文を公開するのはかんたんだ。現役の本の場合も、一部を公開することはむずかしくない。共著の場合の自分の持分だけを公開するのであれば販売への影響は少ないはずだ。品切れの著作は、よほどのことがないかぎり復刊や文庫化はないだろうから、出版社の了解はとりやすい。要はそれをする意志があるかどうかである。問題は若干の費用がかかることで、テキストファイルが残っている場合以外は、テキスト化と校正の費用がそれなりにかかる。しかし、これも自分でやってしまえばタダですむ。
第二に、将来に備えるやり方。とにかく完全なテキストデータを手元に残すことである。出版時に校正で大幅に赤字を入れるケースもしばしばあるものだ。そういう場合は刊行されたものとテキストデータにずれができてしまう。校正作業の中で、そのずれをきちんと処理しておくことだ。本来は残念なことだが、いまどきの本の販売期間は短い。数年たてば品切れのまま放置されることになりがちだ。そのときはネット上で延命させればよい。
第三に、現在に同居させるやり方。ネットとの共存アプローチと言ってもよい。ここが一番高度な合わせ技を必要とするが、すでにさまざまな試みがなされている。
有名なメールマガジンでは連載原稿を次つぎに本にしている。バックナンバー公開については調整をすることもあるようだが、ウェブだけがネットではないわけだから、こういう同居の仕方があるわけである。研究者では、自分の個人サイトを文字通りの「研究室」とみなして、アイデアや資料紹介や草稿から公開してしまうやり方で成功している人も少なくない。ネットでの研究を出版物に仕立て上げていくことで、着実に業績としていけるわけである。この場合、出版物とネットのコンテンツとで異同があったとしても、途中経過から公開するのは読者にとって得がたい学習過程そのものになるはずだから、情報環境の充実には十分貢献していると言える。また、出版社契約を前提にしたシェアテキストのシステムを利用することもできる。割高になるが部数の多少を気にしなくても済むオンデマンド出版の活用もできるようになった。
とくに学術系については、以上のような手法はそれほど困難ではないだろう。学術系出版の場合、著者たちには利益獲得という動機よりも業績蓄積という動機がまさる。多くの場合、著者はすでにそれなりの給与を得ているし、学術系では業績が結果的にポストや給与などに反映するからだ。
要は専門家個人の裁量にかかっている。専門家が自らの知識を社会にどのように還元していくかについて、インフォアーツ的な考え方をとれば、実行まですぐである。
しかし、納得の仕方さえも、いろいろあってよいのだ。純粋に自分の知的世界を構築する悦びとして納得できればそれはそれでよいし、専門家として社会貢献する仕方として理解することもできる。一市民として専門知識を公開して役立ててもらうという理解もできる。控えめな自己宣伝としてでもよいし、専門家としての自らの信念を啓蒙するという納得の仕方もある。そして危機意識や批判意識の発露としておこなうというのも大いにありうる。せっかくまとめたものだから「もったいない」ということがあってもいいし、「どうせならみんなに使ってもらいたい」という気持ちからでもいいと思う。
■議題設定と科学ジャーナリズム
研究者自身が系統的に専門知識を整理したサイトを公開するとき、わかりやすく気軽なインターフェイスで専門分野について発信することの意義を確認しておこう。それは科学ジャーナリズムの機能を果たすということだ。ラフなスタイルを尊ぶネット文化のおかげで、印刷物ではなかなかできないようなスタイルで専門知識を語ることができるようになった。この効用は大きい。これは一種の科学ジャーナリズムなのだと思う。
日本のジャーナリズムは概して科学ものに弱いと言われる。専門の記者を育てない風土が背景にあるからだが、やはり専門家自身がふだんから専門知識の社会的配分に気を配るべきなのだ。
戦前の思想家・戸坂潤に「アカデミーとジャーナリズム」という有名な論文がある。かれは両者の対立構図を論じながら、〈アカデミズムの専門性と原理性〉と〈ジャーナリズムのアクチュアリティと批評性〉とを連接するような社会科学を構想した。戸坂自身が考えていたものは、たぶん現代では陳腐なものであるが、かれが必要と感じたアカデミズムとジャーナリズムの連接可能性自体は現代においても意味があると思う。ここで私が主張したいのも、このような可能性であり、マス・メディアを介さない学問のジャーナリズム化である。
それはたとえばこういうことだ。ネットワーク上で複数の専門家たちが自発的に研究成果や社会的発言を発信する。それはマス・メディアからの注文ではないメッセージである。つまり研究者自身があくまでも内発的に議題設定から立ち上げたものである。それを眼識ある市民たちがネットワーク上に見いだして勝手に学習する。もちろんマス・メディアがそれに気づけば、それを取材源にすることもあるだろう。専門家自身が「今、何が問題なのか」という議題設定にかかわることがポイントである。
■研究組織の支援
しかし、これまで述べたことも無償のボランティアでは限界がある。大学や学会などの研究組織が長期的な展望に立って研究者のこのような行為を推奨し具体的に支援しないと定着しないだろう。しかも、囲い込みの発想ではなく、分散的知性を集合させるという発想で「この指とまれ」的な役割を担ってほしいものだ。
具体的には、次のような役割がありうる。業績データベースの自主的一般公開。所属メンバーの業績の完全なリソースリスト(ウェブへのリンクや公開メーリングリストの案内など)の公開と更新。機関誌バックナンバーなど全刊行物のネット公開。社会問題・時事問題への社会的発言の場所提供。業績のネット公開への助成・サポート。ネットへの公開を伴ったオンデマンド出版の助成・サポート。
要は、欠落しているコンテンツを埋めるということである。しかし、以上のことは、すでにやられているように見えて、じつはあまりやられていない。業績データベースについても、国立情報学研究所上でのみ公開しているケースが多く、無料の自主的一般公開をしている研究組織は、少なくとも人文社会科学系では少ない。メンバーのサイトのリンク集ぐらいはできそうなものだが(直接アンケートできるのだから)、満足に更新されているものは少ない。できているのは小さな学会や研究会ぐらいである。機関誌バックナンバーの読める研究組織のサイトは数えるほどしかない。
古文書や貴重図書などのウェブ公開は、研究助成が受けられやすいせいか、比較的順調に進んでいるようだ。しかし、新しいメディアが登場するときには「ボトルネック効果」というものがあって、案外古いものは新メディアに移し変えられやすいが、ほんの少しだけ古いものは放置されるというのがある。それには当てはまっているところが多いのではないだろうか。あと「この指とまれ」的な企画も、もっとあっていい。たとえば定義集や事典のようなものを編集するようなことだ。それぞれの専門分野についての情報環境の構築を支援してもらいたいものだ。
¶三 眼識ある市民の役割
■社会問題の構築
知識と人間の関係についてふれたときに「眼識ある市民」という役割についてかんたんに説明した。人は職業生活においてしばしば「専門家」であるが、他の領域については「しろうと(通行人)」である。しかし、この二つの役割に安住しないで、さまざまなものごとを知っていこうとする意欲をもつときがある。そのとき私たちは「眼識ある市民」として情報環境にアクセスし、そして関与しているわけである。このような関わり方(ある種の人間が「眼識ある市民」なのではなく、あくまでも知識や情報との関わり方であることに注意してほしい)も、専門家の役割と同様に重要である。
おそらくそれは社会問題の構築や世論の構築において重要なのだと思う。ここでは「着地」の一例として、社会問題の構築にしぼって説明しよう。
従来の社会問題化のプロセス(「社会問題の自然史」すなわち、ある出来事や現象が人びとによって社会問題として認識され、承認され、公式に解決されていく動的過程)は次のようなものである(J・I・キツセ、M・B・スペクター『社会問題の構築』村上直之・中河伸俊・鮎川潤・森俊太訳、マルジュ社、一九九〇年、第七章を参照して作成)。
(1)当事者の苦悩や疑問
(2)異議申し立て
(3)専門家・行政・関係者による問題の定義
(4)マス・メディアによる社会問題化(異議申し立ての承認)
(5)人びとの反応(世論)
(6)公式的政策
(7)当該問題に対する関係者の再定義
社会問題の構築過程では、専門家やマス・メディアが大きな役割を果たし、公式には行政機関が認知して政策を実施する。しかし、これらの各段階で「眼識ある市民」として多くの人びとがインフォアーツを生かして積極的に関与すれば、社会問題化のプロセスは、より自省性の高いものになりうるし、従来以上の速度をもちうるだろう。そして、こうした変化はすでに始まっている。
■眼識ある市民の役割
第一段階「当事者の苦悩や疑問」から第二段階「異議申し立て」の過程では、しばしば切実な動機による情報探索がおこなわれる。ネットを活用すれば、しかるべき専門知識や情報にアクセスできるし、協力者や専門家に接触することもしやすい。異議申し立ては、内部告発としてなされる場合もあれば、社会運動として組織化する形で地道におこなわれる場合もある。クレームサイトを立ち上げて、広くアピールするというのは、むしろ基本であろう。
当事者やたまたま現場に近い人たちが、ネット上でちょっとした疑問をぶつけたり悩みを公表したりすることによって、オーディエンスとして参加していた専門家やマス・メディアの人がそれにいち早く気づく可能性もある。というのは、ネット上ではかなり細分化された主題ごとに場が分かれており、社会構造上の関係者が出会いやすい仕組みになっているからである。つまり主題媒介的な関係形成が行われやすい。
第三段階「問題の定義」というのは、その出来事がどのような意味をもつのかについて、さまざまな主体が解釈をぶつけあうという段階である。専門家集団や関係者が日常的にネットワークを作っていれば、それぞれより洗練された定義が構築できる。
とくに社会問題化において決定的なターニング・ポイントになるのが第四段階の「マス・メディアによる社会問題化」であるが、ジャーナリズム業界では近年、ネット取材やコンピューター利用調査報道の可能性が追求されている。すでに日本の新聞でもインターネットからのニュースソースの発見はぐんと増えている。いずれにしても検索の容易さ・出会いやすさという特性が社会問題化のプロセスを短縮するはずである。
マス・メディアはその情報量ではなく、その知識の統合力と正当性付与力に特性がある。ネットにこれらの力は弱い。マジョリティをまとめる力はない。それは特権的なゲイトキーパーがネットに存在しないからである。その意味ではネットによってマス・メディアが駆逐されるとは思えない。むしろ共生すると見るべきだろう。
第五段階「人びとの反応(世論)」が社会問題の流れを決定づける。人びとの反応はさまざまな場で生じるが、ネット世論は、マス・メディアでの論調に対する批判的論評から始まるものなので、ここが「眼識ある市民」たちの腕の見せ所といえる。つまり、マス・メディアに対する対抗言説・対抗世論の足場となる可能性がある。これは、第七段階においても同様である。
まとめると、社会問題の構築過程において「眼識ある市民」は、言わば楽器の共鳴板の役割を果たすのだ。どれだけそれを聴き取る「しろうと(通行人)」が出てくるかは、条件しだいだろうが、共鳴がなければ「しろうと」はそもそも見向きもしないだろう。
■苗床集団の力
メーリングリストや掲示板などで、専門家というわけではないはずなのに、どんなテーマについてでも知識があって、鋭い批評をする人がいるものである。こういう「眼識ある市民」という関わり方は、自然にできるものではない。ネット上で見かけるこのような人たちは、たいてい実名か固定ハンドルでネットと付き合ってきて鍛えられた人たちが多いようだが、すでに指摘してきたように、匿名主義がメインストリームになってしまうと、ネットの拡大にもかかわらず、そういうチャンスはぐんと少なくなってしまう。今では、いつまでたっても「しろうと(通行人)」としてしか関われない人たちが多数派である。
私が苗床集団と呼ぶものに期待するのは、そうした現状を打開する要素をもつからだ。
苗床集団は、いずれも、特定の問題について志向性をもっているものだ。生協であれば商品情報や環境問題であろうし、労働組合やユニオンであれば労働問題である。学校のクラスや大学のゼミであれば「特定テーマについて知る」という志向性をもっている。市民運動や何らかの社会運動組織であれば、議論すべき問題は明確に定義されていて、そこに集う人たちはそれを共有している。それが辺境意識や被差別意識の場合もあるだろう。マイノリティ意識や文化的マイノリティとしての自覚(先端的であるケースもふくめて)が共有されている場合もあるだろう。
つまり、苗床集団は、インフォアーツの苗床であるとともに、もともと社会問題や世論の苗床でもある。言わば社会の「病床」を分担している作業集団なのだ。
それゆえ社会問題の構築については、個人(「眼識ある市民」として関与する人)だけでなく、苗床集団の取り組みが重要な役割を果たしうる。そのさい対面集団としての「濃さ」を高度なインフォアーツによってネット上で表現できるかどうかがポイントである。
まずはローカルなネットワークをつくって、あとでそれらをつなぐ。この順序がたいせつである。学校や大学などでいきなり全学的な掲示板をつくったりするケースがあるが、愚の骨頂だ。クラスやゼミ単位の小さなメーリングリストなどをたくさんつくることから始めるのがスジというものである。もっと小さい、班や小グループ単位からであっていいぐらいだ。
生協によってはグループ活動が相当盛んなようだが、ネットによるグループ内コミュニケーションの活性化と、その途中経過と成果の公開から、さらにそれらをつなぐ上位のコミュニケーションをうまくかみ合わせることで、グループ間に予想以上の連携ができるものである。なぜかというと、もともとネットがなくてもやっていけると思っているけれども、そこで生成しているのはオープン志向の情報だからである。グループに閉じ込められているかぎり、それらのネットワーク連結性はわからないが、ひとたび(生協内部での公開だとしても)公開すれば、連結性は作動するはずである。
ネット利用についても小グループ単位が基本。あくまでも顔の見える範囲でネットに関わることだ。しかし、そこに安住するのではなく、そこから一歩外に出ることにポイントがある。この過程が正統的周辺参加としての「情報教育」なのだ。根拠地を持つ「うるさい人」ほど強いものはない。こういう関わり方のできる人たちが苗床集団から巣立って、ネットにでていくというパターンができるといい。
■語られる社会と文脈編集力
そのためには、このような組織や集団のネット環境を整える人たちが上手にコーディネイトする必要がある。その役割は大きい。つなぐ役割を組織的にしていくことで価値が出る。分散している情報と人をつないでいく文脈をつくりだす高度な力としての「文脈編集力」が問われるだろう。
このようにして苗床集団自体とその周辺にコミュニティをネットでつくりだしていけば、ネットはお手軽で低リスクの「シビック・メディア」(市民にとっての日用品的なメディア)として、社会問題化(社会問題の構築)のプロセスを変容させる可能性をもつだろう。
ここで少し大上段の話をかぶせておくと、そもそも社会は自己言及システムである。社会はたえず社会について語りながら社会を構成する。社会について政府や組織や集団や個人が語り続けることによって社会は維持され・変容する。「語られる社会」そのものが社会の構造的構成要素なのである。したがってネット上で展開される「ハイパーテキストとしての社会」は「語られた社会」として現実の社会の構成要素なのである。いわば「社会の生成」の過程がネットを媒介にして生じているわけだ。
それが「モラル・パニック」になるか「社会の自省」になるかはわからない。しかし、苗床集団とそこを拠点とする「地に足のついた人たち」が大量にそれらの言説を支えていけば、社会の自省に何らかの寄与ができるのではないかと思う。
¶四 セクター組織の役割
■組織による公共サービスの役割
インフォアーツ的な情報環境の構築については、どうしても組織の力がものをいう。データベースはもちろんだが、特定分野のリソースリストひとつにしても、個人で維持するのはたいへんむずかしい。つくること自体は可能だが、それを定期的に更新し続けるというのがむずかしいのである。しかし、それにもかかわらず組織的な公共サービスとして、そういうものを提供できている組織は非常に少ない。たとえば、検索サイト以外で、人文社会系のリソースリストとして「使える」ものは、「アカデミック・リソース・ガイド」や「アリアドネ」でほぼ一覧できるが、じつに限定されていることもわかってしまう。そもそもこのふたつのサイト自体が個人のものであって、組織によるものではないのである。
学術系の場合、こういう仕事は、本来、図書館や研究機関が果たすべき仕事である。この仕事には、データを提供する仕事とナヴィゲート構造をつくりだす仕事のふたつがある。
一例を出そう。我田引水になるが、たとえば私が参加している法政大学大原社会問題研究所の場合、労働問題が対象分野になっている専門図書館と研究機関の役割をかねている。その公式サイトOISR.ORG(オイサー・オルグ)では、データ提供の仕事として、月刊誌の最新号およびバックナンバーの全文公開、年鑑バックナンバー(主要なもの)の全文公開、ポスター資料の全画像公開などを系統的に続けている。これらだけでも相当数のファイルになるが、戦前の貴重な現物資料も順次内容を公開している。所蔵図書の書誌データベース公開は当たり前だが、労働関係の論文だけをすべて集めた巨大な論文データベースなども継続的に更新・公開している。これらは組織内部に抱えているデータをネットに公開する仕事だ。
それとともに、ほとんどすべての労働組合のサイトの系統的なリソースリストも公開し、定期的に更新をしている。そこからリンクされているサイトの全文検索ができるようにしてあるし、それらのアーカイブも保存して、半世紀後(?)の研究に備えている。これらはナヴィゲート構造の構築にあたるだろう。
労働問題の組織ではJIL(日本労働研究機構)が同様のサービスをしており、こと労働問題については、このふたつの組織でかなりの環境整備ができつつある。労働問題について実務的に調べる人も研究する人も、他のテーマ領域に関心のある人よりも恵まれていると言えよう。同じ経済や社会についてであっても、異なるテーマとなると、とたんにさびしくなってしまうからである。
■セクターとしての役割
組織による公共サービスには、じつはもうひとつの仕事を期待したい。それはネット上でのセクターとしての役割である。
これについてはオンラインショップが導入しているアフィリエイト制が参考になる。これは、本やCDなどの商品を個人サイトで紹介してもらうことで、マージンをポイントなどで紹介者に与えるとともに、個人サイトのもつネットワークで顧客をショップにつなげていこうという仕掛けである。また、よく知られたネットオークションのシステムは、人が集まる文脈をつくりだして、そこに数多くの人たちが固有の情報を相互交換できるようになっている。一時問題になったナップスターも発想としてはセクターとしての役割に注目したものだった。要するに「この指とまれ」的な役割である。
オンラインショップの場合、これらは我田引水的な一種のナヴィゲート構造の構築であると言ってよいが、このような方式を学術系や社会問題系サイトが導入することがあってもよいのではないか。
素朴なところでは、テーマの明確な掲示板やメーリングリストのような、一般公開すると手のかかるものを積極的に引き受けられないものだろうか。そして、そこに集った人たちに相乗的な効用をもたらすような形にできないだろうか。NHKはこの点で比較的上手に運用しているように見える。できない話ではないだろう。高価な集中処理方式の巨大システムを構築する時代ではなく、分散処理方式で小さなシステムをリンクして相乗的な効果を生み出すのが、インターネット時代の情報環境のつくり方であろう。それぞれの組織は、所与のテーマについてのみ環境づくりに寄与すればいいのである。
■分散的知性をつなぐ
古典的教養主義は貯蓄型の知性だった。知のストックを自らが担う、この復古的な知性と、クローズドな情報システムはよく似ている。
それに対して、私がインフォアーツ概念によって論じてきたのは、言わばフロー型知性の構築である。個人であれ組織であれ、ストックするものは多くなくていい。また断片的でいい。ハイパーテキスト的な情報環境の、ごく一翼の持ち分を自発的に掘り下げておけばよいのである。それは分散的な知性として、しかし、ハイパーリンク的につながることによって知力を発揮できる。つまり「つながる分散的知性」なのである。
たとえば、私たちは特定の問題についてのリソースをすべて知っている必要はない。リソースへのアクセスの仕方さえ知っていればいいのだ。検索技術を磨き、情報の信頼性を見抜く眼識をつけ、能動的に関与する意欲をもって、たとえば自分が提供できる情報を情報環境に積極的に提供するような日常的実践を積み重ねていくことによって貢献する。そういうネットワーカー的な知性を構想してきた。
問題は、そういう分散的知性を上手につなげる工夫が開発されていかなければ、相乗的な効果がでないということだ。私が「文脈編集力」と呼んできたのは、そういう工夫のことである。情報に重み付けをし、巧みに要所要所をつないでいく高度なエディターシップである。信頼可能な情報環境の構築には、このような編集力、とくに組織的な文脈編集力というものが今後は必要になるだろう。