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社会学名言集

ひとつの社会科学?

 経済的なもの、政治的なもの、社会的な、あるいは社会−文化的なものといった、人間の集団的行動にかんして想定されている三つの活動舞台は、社会的行動の自律した活動舞台ではない。それらには別個の『論理』などない。
(イマニュエル・ウォーラーステイン)

 世界システム分析を提唱しているイマニュエル・ウォーラーステインの確信に満ちた一言。出典は、ウォーラーステイン『脱=社会科学--一九世紀パラダイムの限界』本多健吉・高橋章監訳(藤原書店1993年)350-351ページ。第18章「パラダイム論争をもとめて」からの一節です。

 ここでかれが批判しているのは、別々の主題を首尾一貫してまとめた「学問分野」の集合体として社会科学を捉える従来的な考え方です。もちろんそれは常識になっていることがらであり、明確に制度化されており、その意味で「パラダイム」と呼びうるものですが、それはきわめて19世紀的なパラダイムだというのです。

 経済的なもの → 経済学
 政治的なもの → 政治学
 社会的なもの(社会−文化的なもの) → 文明的 → 社会学
                   → 原始的 → 人類学

 これらが分割して制度化されてきた根拠は、経済的なもの・政治的なもの・社会的なものが自律的な論理で動いているという見方です。しかし、それはほんとうにそうだろうか、これらの諸要素を切り離すことはできないのではないか、というのがウォーラーステインの主張です。たとえば次の指摘。

「学問分野のどれか一つの内部で許される話題、方法、理論や理論化の間にある相違の方が、いわゆる『学問分野』の相違よりも、はるかに大きいのである。この実際の意味は、学問分野の重なり合いが現に存在しており、これら四つの学問分野すべての歴史的進歩という観点からすれば、その重なり合いは増大しつつある、ということである。」(同上書、350ページ。ただし傍点を太字に変更。)

 思い当たる節がありませんか。私はあります。たとえばネットワークや医療やメディアについて議論するとき、へたな社会学者よりも、心理学・人類学・社会医学・政治学などの研究者の方が話が通ることがままあります。どのディシプリンに属するのかがあいかわらず大きなファクターであることは事実であるにしても、それと同じくらい、どのテーマ領域に関心をもっているかが、けっこう大きいのです。そして、経済学者は非経済的要素に興味を持ち、社会学者は歴史研究に傾斜し、歴史学者は統計資料の操作に新鮮味を感じ、人類学者がエスノメソドロジーと同じような視角で状況を眺めていたりするのです。

 あとは、このまぎれもない研究状況に対して何をするかの決断でしょう。ディシプリンの再編成をめざした制度の組み替えをおこなうのか、あるいは、すでに制度化されている古いディシプリンの枠を拡張して対応するのか。私自身はこれまで後者の流れで、つまり「脱領域の知性としての社会学」路線で書いてきましたが、最近、ウォーラーステインの『脱=社会科学』や『社会科学をひらく』を読み、じっさいに隣接分野の研究者たちとの共同研究に参加し、「社会科学の基礎」といったマクロな科目を担当するなかで、少しずつ考えが前者に変わってきたように思います。そして、そんな中で「あえて社会学的である」とはどういうことなのか、思案しているところです。


補講1「社会科学の歴史と現在」



 ここで、上記の議論の前提となっている「社会科学の歴史と現在」についての基本知識を、ウォーラーステイン+グルベンキアン委員会『社会科学をひらく』山田鋭夫訳(藤原書房1996年)を中心に紹介しておきましょう。

 この本によると、1945年までの社会科学の歴史的形成過程において、社会科学には三つの分割線が引かれたといいます。

  1. 近代・文明世界の研究 対 非近代世界
  2. 近代世界内部での 過去 対 現在
  3. 法律定立的社会科学の内部での 市場 対 国家 対 市民社会

 自然科学と哲学の間の中間領域に複数の社会科学が誕生したのが、19世紀前半。それらがやがて学問分野別に大学の中に制度化されます。時期は1850-1914年期。場所は五つの国(イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、アメリカ)です。生き残った名称は5つ。歴史学、経済学、社会学、政治学、人類学。

 ところが1945年以降、このような構図は新しい現実によって変更を余儀なくされます。その要因として三つのものをかれらは指摘しています。

  1. 世界の政治構造の変化
  2. 世界の生産能力や人口が前代未聞の大膨張
  3. 大学制度の膨張と、職業的社会科学者の激増

 要するに、アメリカや非ヨーロッパ民族が力をつけることによって、それまでもっぱらヨーロッパの視点からなされていた社会科学の前提が問題化したのです。研究対象となる人間活動のスケールそのものが一気に拡張され、他方、研究主体となる研究者も激増して「学問のスキマ」を求めて競う状況になったために、新しい声が登場してきたのです。

 とくに注目すべきは、エリア・スタディ(地域研究)の創設です。エリア・スタディは第二次世界大戦中のアメリカで誕生し、十数年ののち世界に広がりました。その背景には、アメリカが世界大の政治的役割を担っているからには、さまざまな地域の現実についての知識を必要とする、という政治的動機がありましたが、それが結果的に、社会科学・人文学・自然科学の研究者が共同で研究する土俵をつくったのです。そこで問題になったのは、西洋地域と非西洋地域の関係をどう理解するかということで、近代化論(発展段階説)がもてはやされることになります。法則定立的な社会科学と個性記述的な歴史学との出会いがここに生じました。

 もうひとつ重要な変化は、経済学・政治学・社会学の相互重複です。1950年代には社会学に「政治社会学」「経済社会学」ができ、政治学もこれをまねて、政治的と思われた社会現象(圧力団体・反対運動・コミュニティなど)に関心を拡張します。経済学ではケインズ的な考え方から政府や政府機関の政策を研究するようになります。このようにテーマや方法論(数量的方法)が重複するようになります。とくに重複性の大きい領域に「コミュニケーション論」「行政学」「行動科学」といった新しい名称がつけられ始めます。こうして次々に新学問が登場することになるのです。

 1945-1970年までは西欧の社会科学が非西洋でも受け入れられましたが、1960年代末あたりからさまざまな異議申し立てが始まります。とくに、欧米中心主義と男性中心主義(ジェンダー・バイアス)が、社会科学の文化的偏狭性として批判されます。じっさい、社会科学は、「非西洋全体」「女性」「西洋諸国内の少数派」「周縁層」をすっかり忘れていたのでした。

 こうして社会科学の整然とした(ように見えた?)分割線は、いよいよあやしくなりました。しかも最近は、自然科学と人文学との境界線さえあやしくなってきました。

 第一に、自然科学からの挑戦。法則定立的な社会科学がめざしたのはニュートン力学的な自然科学でしたが、ところがモデルとなった自然科学そのものが大きく変化してきました。古典的な自然科学は、世界を一個の自動機械とみなし、単純な自然法則によって客観的に説明できるとしました。しかし、1960年代から自然科学の最前線はそうした考え方をとらなくなっています。単純さではなく複雑性、測定から測定者を切り離すことはできないこと、量的精密性より質的解釈、自然の能動性と創造性、自然が混沌と撹乱をふくむ不安定な世界であること、そして自然の時間性。こうした大きなパラダイム転換の代表的なものが「複雑系」の理論です。自然科学がソフトな社会科学へ接近してきたのです。

 第二に、人文学からの挑戦。代表的な潮流がカルチュラル・スタディーズです。文学研究者や人類学者、そして「忘れられた」人びとについての研究者、ジェンダー研究、ヨーロッパ中心でない研究、歴史分析など、「解釈」という手法によって社会と文化を研究する巨大潮流が、人文学と社会科学の間の境界線をあやふやにしつつあります。

 ウォーラーステインの見方はおおよそ以上のようなものです。もはや経済学や社会学といったディシプリンにすがっているときではないという認識なのでしょうね。


補講2「社会科学の最前線」



 たしかに学問分野の細分化が進みすぎたせいで、ディシプリンが見えてこない時代です。日本でも、マクロな社会理論の必要性が叫ばれ、総合化のきざしやまとめなおしの試みが始まっています。ウォーラーステインが大々的に紹介されるのも、こういう文脈からでしょう。

 とりあえず受け皿としての「総合政策学部」「環境情報学部」「社会情報学部」そして「産業関係学科」など、伝統的なディシプリンに対してあえて距離をとるような学部や学科が次々に創設されています。これは大学設置基準の大綱化や教養部解体などの文部行政と深い関係をもつ現象なので一概に肯定的現象とはいえないですが、あきらかなことは教員もカリキュラムも従来的な学問領域にしばられていないということです。今はたんなるサラダボール状態であっても、これが少なくとも次世代に何かを創発することはまちがいないでしょう。

 要するに、規制緩和や冷戦終結などの流れの中で、おそばせながら日本語圏の社会科学も変革期に入っているのです。この変革の大まかな方向性は「社会科学のフロンティア」ともいうべき最前線の課題に読みとることができます。たとえば、相互に連接している次の六つのテーマ領域。

(1)国際社会(地球社会)

 国際社会といっても、もはやたんに「国家と国家のおつきあいとしての国際社会」ではなくなっています。トランスナショナル化(脱・主権国家の流れ)が進行し、EUという地域統合の試みやNGOの活発な活動、そして地域主義で自律的に動こうとする「地方」など、もちろん主権国家を無視することはできず、相変わらず強力な存在であることは確かですが、それだけを単位として国際社会を捉えることはすでにできなくなっています。移民・難民・外国人労働者・帰国子女・定住外国人・移住・国際人など、人の国際移動も日常化しています。「脱国境」現象としてのボーダーレス化です。メディアや輸送手段の発達、そして経済のグローバル化によって、不完全ながらも「ひとつの国際社会」が結果として実感できるようになりました。冷戦構造の崩壊によって、民族問題のような、それまで「国内問題」として抑圧されてきたローカルな矛盾も国際社会に直接露出してきました。「国際社会の学」として国際社会学が構想されるのはこういう文脈です。

(2)ジェンダー

 近代文化が男性中心主義の傾向をもつことがさまざまな生活場面で指摘されてきました。女性はさまざまな局面で差別され排除されてきました。それを当然と見るのではなく「おかしい」と声をあげる人たちがフェミニズム運動に参加しました。これは異議申し立てになりますから抵抗も大きいし激しい論争になります。この種の論争を闘うには完璧な分析を突きつける必要があります。というわけで、80年代あたりから研究がさかんになり、「女性学」あるいは「ジェンダー研究」という土俵に結集しています。ここでは社会科学や人文学の垣根はほとんどないといっていいでしょう。

 そして重要なことは、同じような問いが他のさまざまなカテゴリーの人たちにも当てはまるということです。高齢者、障害者、病人、トランスジェンダー、マイノリティなど、これらの人たちの社会環境では、客観中立の名の下に不公正なことがまかり通ってきました。社会科学はその正当化の機能を果たしてきたのです。今度はその現実を批判し反省するための知識を社会科学が担う番です。

(3)言説と表象

 現代文化(とくにメディア文化)についての社会科学的研究がさかんになるにつれてジェンダー・バイアスのような現象が批判されるようになりました。無批判な文学研究や芸術研究では無視されてきた(むしろ後押しさえしてきた?)文化的バイアスを「権力作用」と捉える一連の社会科学的研究が始まっています。たとえば「スマートな身体」というメディア上の言説が拒食症を現象させるように、あるいは「みんないっしょだよ」「みんな友だちだよ」という言説が微妙な差異をめぐって「いじめ」という排除を作動させるように、生活空間やメディア上に流通している言説が人びとを身体レベルから拘束するという事実があります。これがいまどきの「権力」(権力作用)の姿なんです。権力はことばを通じて(寄生獣のように)私たちの身体や精神に宿るのです。近年、社会構築主義とかカルチュラル・スタディーズと呼ばれる知的潮流はこのあたりに焦点を当てています。そして、これは言説だけでなく表象にも関係していて、そのため図像の解読も重要な研究方法となります。これは歴史学や人類学ではすでにさかんになっています。

(4)ネットワーク

 サイバースペースという新しい社会空間が登場しました。この空間はたんに情報の流通空間であるのではありません。そこで人びとがコミュニケーションをおこない、関係を取り結び、文化形成がまさになされつつあるという点で、まぎれもなく社会的な空間です。社会科学がこの新空間に取り組むのは当然の成りゆきです。「情報」をモノのようにあつかう古くさい工学的視点では読めない現象です。なぜなら、ここで生起するさまざまな問題は「関係」に関して生じているからです。「情報」ではそれは見えない。とくにインターネットは分散処理型・双方向のネットワークですから、従来のマス・メディア主導の文化とは異質の動き方をしています。ユーザーしだいでどうにでもなりうるからです。自生的なヴァーチャル・コミュニティをどう見るか。n×nのコミュニケーションが何をもたらすのか。主役はネティズンか、クラッカーか。いずれにせよマス・メディア主導型の文化構造にゆらぎが生じるのはまちがいなく、分散処理型のメディアを理解するための理論が模索されているところです。

(5)地球環境

「近代は自然と女性を排除した」といわれます。しかし、レイチェル・カーソンが『沈黙の春』で指摘して以来、人間と社会が自然との循環構造にあることがしだいに理解されてきました。つまり「自然という書物」を読む人間もまた書物の一部であることに気づいたのです。自己言及性は自然科学にもあったという発見ですね。地球温暖化に対する、国を超えた政策調整が始まっています。それにつれて環境政策や公共政策と呼ばれる研究がさかんになっています。社会学でも環境社会学が立ち上がりました。

(6)身体と精神(内なる社会)

 社会科学にとって最後の時空間、それが身体と精神です。かつてこの領域は医学と心理学の独壇場でした。つまり自然科学的に研究されてきたわけです。ところが、身体は社会的身体であり、心はひとつの社会でもあるんです。社会学ではピエール・ブルデューが「ハビトゥス」という概念でこれを強調しています。感情社会学では「母性愛」というような「自然な感情」さえ文化的産物であることを強調しています。「わたしはだれ?」を問うアイデンティティ問題も社会現象です。こういう問題を既成の学問分野別に研究するのは、もはや困難でしょう。たんに社会学の拡張で済むとも思えません。

 このように、社会科学のフロンティアは、社会科学自身の(ひいては知的営み全体の)再編をふくんでいます。それがどのようになるのかはよくわかりません。しかし「この新局面を無視して21世紀の研究活動は成り立たない」とはいえそうです。ある意味ではキツイ、またある意味ではおもしろい時代に私たちは生きているということでしょう。

1998年7月5日執筆・公開

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