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社会学名言集

社会研究と自己反省

 知識の探究者が一方では自己を知ること――つまり自分は誰であり何者でありどこにいるのかといったこと――と、他方では他者およびかれらの世界について知ることとは、同じひとつの過程のふたつの側面なのである。
(アルヴィン・W・グールドナー)

 自己反省の社会学として1970年前後の社会学を一世風靡したアルヴィン・W・グールドナーの『社会学の再生を求めて3』栗原彬ほか訳(新曜社一九七五年)214ページにある一節です。社会学することの意味をよく集約していると思うので、ちょくちょく紹介していることばです。わたしの『社会学の作法・初級編』の冒頭にも引用しておきました。なお、この本は現在合本されていますが、合本が手元にないので、古い分冊版のページにしてあります。

 社会学は第一義的には他者の研究です。けれども、それが自分にはねかえってくるという特質が社会学にはあります。いわゆる自己言及性(self reference)の問題です。「クレタ人はウソをつかない」とクレタ人がいった、という問題ですね。自己言及性はもちろん他の知識活動全般にいえることですが、「客観性」を標榜する制度的科学の場合には潜在化していることが多く(気がつかないのか、しらんふりをしているのかわかりませんが)、「客観性」を括弧に入れてしまう社会学の場合に顕在化しやすいのです。

 たとえば家族の研究をすると、かならず「ふつうの家族」でない家族が問題になります。ある種の家族を「病理的」と呼んで研究する場合、その家族を「病理的」と評価する研究者の価値判断が問われるのです。幸せな家族に育った人ほど、無自覚に「幸せな家族」を基準に判断してしまいがちです。でも、それはほんとうに「基準」にしていいのでしょうか。ほんとうに「ふつう」と決めつけられるのでしょうか。たとえば離婚によって母子家庭になったケースを一昔前の家族社会学の教科書は「病理家族」に分類していました。これを見ていると、「幸せな家庭に育った人たちが、そうでない家族に『不幸』や『病理』や『異常』を読み込んでいる」と感じたものでしたが、そういうところが社会学研究にはあるのです。それは「もはや性別役割分担は時代遅れだ」と男性社会学者が教壇で講義するときも同じことで、そういうとき「ところで今日の晩飯はだれがつくるの?」とききたくなりませんか。

 自己言及性の問題は社会学史上「社会学の科学性を困難にする問題」とあつかわれてきました。けれども、逆にいうと、ここにこそ社会学の特異な思想的意義があるといえるのではないでしょうか。つまり、わたしたちが社会学するのは他者を知るためであると同時に、自己を知るためでもあるのです。他者たちが織りなす複雑な社会的現実を調査し分析し議論にかけることによって、わたしたちはそのプロセスに投影される自分自身を直視することになるのです。その意味で社会学は自己反省の学問なのです。

1996年執筆

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SOCIUS.JPドメインへの初出 1/5(Wed), 2005  
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