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社会学名言集

ジャーナリスト的存在としての人間

 元来から云うと、一切の人間が、その人間的資格に於てジャーナリストでなくてはならぬ。人間が社会的動物だということは、この意味に於ては、人間がジャーナリスト的存在だということである。
(戸坂潤)

 この一節は、1935年に戸坂潤が「ジャーナリズム論」という小論のなかで述べたものです。出典は次の通りです。

『戸坂潤全集』第四巻(勁草書房1967年)156ページ。

 戸坂潤は、一般に唯物論哲学者であるとみなされていて、その信奉者でさえ(信奉者だからこそ?)社会学者とはだれも見ません。じっさい、かれ自身も社会学を唯物論の敵対者として想定し、ことあるごとに批判しています。しかし、そもそもかれが社会学批判をしなければならなかったのは、かれの思想上のテーマをすでに論じていたのが社会学者(たとえばマンハイム)だったからで、それはとりもなおさず、かれが社会学的問題圏に深く足を踏み入れていたことを意味します。しかも、かれ自身が社会学批判として提示した数々の論点には、かえって社会学の原点を確認するようなものも多く、その意味で、わたしはかれの社会学性をあえて高く評価しています。

 戸坂潤のそうした社会学性のひとつのあらわれが一連のジャーナリズム論です。かれにはアカデミズムとジャーナリズムをひとつの活動のふたつの現れとみなす発想があって、知識社会学的な視点の濃厚なジャーナリズム論になっています。このあたりについては、わたし自身期するところがあって、そのうちきちんとソキウスのなかで説明したいと思っています。

 それにしても、引用した一節は、まさにインターネット時代にふさわしいことばではないでしょうか。ジャーナリストというと、ごく一部の(庶民から見て)特権的な職業ジャーナリストを想像しますが、インターネット時代はマス・メディアというオールド・メディアのように送り手と受け手が固定されていませんから、早晩そのような概念はくずれることになるでしょう。マス・メディアによって行われるジャーナリズムについては受け手でしかありえなかったわたしたちも、インターネットにおいては能動的な送り手としてジャーナリズムに参加することができます。それは身近な地域の問題かもしれませんし、職務上知った業界の問題かもしれませんし、社会運動のなかで鍛えられた主張かもしれませんし、あるいは深い思索の末にたどりついた思想上の決断かもしれません。とにかく、そうしたもろもろの情報や知識を他者に伝えていく潜在能力をわたしたちはもっており、現に今やわたしたちはそれがかんたんにできるようになったわけです。

 「見識ある市民」がたえず「ジャーナリスト的存在」であろうとして、それぞれの社会的位置に即したさまざまなコミュニケーションの実践--知る・聞く・見る・考える・言う・伝える--をしていくことによって、社会の「反省作用」が活発に作動することになります。社会は、そうした個人ひとりひとりの自省的行為を媒介としてその構造を変えていくことになります。戸坂潤のことばは、そういう「反省する社会」への展望をあたえてくれる一種の励ましのように思えます。

1996年執筆

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SOCIUS.JPドメインへの初出 1/5(Wed), 2005  
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