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社会学名言集

公共哲学としての社会科学

 公共哲学としての社会科学は、たんにその発見物が学者世界の外の集団や団体にも公共的に利用可能あるいは有用であるから「公共的」だというのではない。それが公衆を対話へと引き込むことを目指しているから「公共的」なのである。
(ロバート・N・ベラーほか)

 お待たせしました。社会学名言集の第3弾です。今回は社会科学のありようについてヒントになることばを取り上げました。出典は次のものです。

ロバート・N・ベラー、R・マドセン、S・M・ティプトン、W・M・サリヴァン、A・スウィドラー『心の習慣──アメリカ個人主義のゆくえ』島薗進・中村圭志訳(みすず書房一九九一年)364ページ。

 著者の4人のうちベラーは日本でも有名な宗教社会学者ですね。『徳川時代の宗教』という原題の研究があります。これは江戸時代の宗教的価値体系が一種の経済倫理として機能して、日本の近代化の出発点を用意したというような内容です。マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を江戸時代の心学と近江商人の関連性に応用した内藤莞爾先生の論文に強く影響された研究でもありました。

 さて、ベラーらの『心の習慣』は、アメリカ人のもつさまざまな個人主義の内実を丹念にインタビュー調査した研究です。この本は卒業論文などの見本になるような本でもありますね。さまざまな人へのインタビューを基本にして、それを類型化して再構成することによって、問題の核心へ迫るという、とても素朴ですが手堅いフィールドワークのお手本のような研究です。ちょっと長いので、通読しにくいかもしれませんが、書いてあることは比較的やさしいです。

 で、今回の「名言」ですが、これは本論ではなく、付論として巻末に収められた「公共哲学としての社会科学」という独立した小論にある一節です。

 「公共哲学」(public philosophy)というのは、どうも古典的な概念ではあるようなんですが、とりあえずかれらが必要だと主張する「公共哲学」にしぼって説明すると、おおよそ次のような性格をもつものだそうです。わたしなりにくだきながら説明してみましょう。

 第一に「同時に哲学的でも歴史的でも社会学的でもあるような創観的(synoptic)な見方」であること。つまり、総合的な視野をもつ知識であるということです。限定された研究領域に閉じこもらないで、わたしたちが生きている世界を全体的に見渡せるような知識を提示するということですね。

 第二に、それは「社会自身の自己理解あるいは自己解釈の一形態」であるということ。それによって「社会に向けて鑑を掲げる」という意義をもっているような知識であること。つまり、「公共哲学としての社会科学」によって、あたかも社会が自分を反省するような構図が成り立つ ということですね。社会学史に必ず登場する「近代社会の自己意識」にきわめて近いことをいっているのだと思います。

 第三に、それは価値をあつかうということ。「こうした社会科学は、現在ばかりでなく過去もまた探ることによって、また『事実』と同じほどに『価値』にも目を向けることによって、定かには見えない連関を見出し、困難な問題を提示することができる」とかれらはいいます。もちろん「事実」を客観的に観察することもするわけですが、同時に価値判断をともなう決断も必要とあればするということです。これは従来的な没価値的に禁欲的な研究スタイルを一歩踏み出すことを意味します。なぜ踏み出すか。それは、社会科学がその対象とする社会を生きる人びとのために存在するからです。

 第四に、「公共哲学としての社会科学」は、それ自身が対話的なコミュニケーションの実践であるということ。ここでかれらは「公共哲学としての社会科学は、たんにその発見物が学者世界の外の集団や団体にも公共的に利用可能あるいは有用であるから『公共的』だというのではない。それが公衆を対話へと引き込むことを目指しているから『公共的』なのである。」と述べるのです。つまり「公共哲学」の「公共」とは、対話的コミュニケーションの場のことをいうわけです。

 このような「公共哲学としての社会科学」に対して「狭く職業的な社会科学は、無能というよりも無関心であった」とかれらはいいます。「狭く職業的な社会科学」とは、専門性を標榜する専門家による専門科学です。わたしたちの知っている社会科学は基本的にこれですね。しかし「公共哲学としての社会科学」はこれと正反対の概念です。たしかに現代社会において専門性は「役に立ち」それゆえ社会的に尊重され制度的に援助されます。しかし、「公共哲学」は、ほとんどそうはなりませんね。これを世間では「役に立たない」といいます。でも、それにもかかわらず「公共哲学」は社会にとって必要だというのです。なぜなら、それによって、人びとは自分たちの社会についてさまざまな対話的コミュニケーションを始めることができるようになるからです。

 ここで思い出すのは、1959年に『社会学的想像力』のなかでC・ライト・ミルズが述べていたことばです。「個人的問題をたえず公共の問題に翻訳し、公共の問題をそれがさまざまの人びとにとっていかなる人間的意味をもつのか、という形に翻訳すること、それが社会科学者の──すべての教育者にとっても同じであるが──政治的任務である」と。ベラーたちと、社会学は「一種の公共的な知的装置」であるというミルズのこの考え方、根っこは同じですね。

 極度に専門分化した社会科学をそれはそれとして生かしながら総合し、トータルに社会のあり方を考察し、よく磨かれた鏡のように自分たちの社会を映しだし、人びとの反省能力を高め、人びとのあいだに合意形成の意思をもった対話を誘発する知識──「公共哲学としての社会科学」とはこのようなものではないでしょうか。

 このような問題を日本の社会科学について反省した論考としては、

石田雄『社会科学再考――敗戦から半世紀の同時代史』(東京大学出版会1995年)

があります。石田さんはジェンダー問題と環境問題を重要な転機として取りあげています。とりわけ従軍慰安婦問題に対して戦後の日本の社会科学がほとんど何もしなかったことを深く反省しています。戦後日本の社会科学が無視したり軽視したり気がつかなかった問題はほかにもいろいろあるぞと、さらにわたしは思いますが、こうした反省を石田さんのような大物の社会科学者がされたところに、現在の社会科学のおかれている歴史的地点が示唆されているように思います。

1995年執筆

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SOCIUS.JPドメインへの初出 1/5(Wed), 2005  
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