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社会学名言集

ジンメルと差別

排除されていない者は包括されている。
(ゲオルク・ジンメル)

 社会学名言集第二弾はゲオルク・ジンメルです。社会学を学び始めた方ならすぐに耳にする社会学の巨匠ですが、今回とりあげた「名言」は、社会学者の先生でもあまり知られていないと思います。これもオルテガと同様わざと定番をはずしたわけではないのですが、この夏、【SOCIUS】と並行して書いていた論文の中心命題ですので、その流れで紹介したいと思います。なにせわたしは流れに逆らわないところがありまして、ただし自分自身の流れにですが(^_^)。

 このことばはジンメルの名著『社会学――社会化の諸形式についての研究』(1908年)の中の「秘密と秘密結社」の章にあります。この章は従来『秘密の社会学』として知られていましたが、その訳者である居安正先生があらたに『社会学』の全訳という覇業を果たされ、昨年、白水社から刊行されました。上下全2巻の大冊です。

 「排除されていない者は包括されている」は、かんたんなことばですが、差別や排除について考える上で非常に示唆に富んでいる考え方だと思います。

 というのは、わたしたちは差別現象を考えるにあたって、ふつう三つの立場を想定していると思います。差別する人、差別されている人、関係ない人――この三者です。そして差別する人と差別される人との関係について思考の焦点が合わされます。したがって、関係ない人は文字どおり関係ない人として問題の後景に退くことになります。ジンメルのこのことばは「それはちがう」といっているのです。関係ない人すなわちとりあえず差別されていない人は、ほんとうは差別側に属しているのだというのです。つまり差別に関係ある人なんですね。

 じっさい、現実の差別現象において、いわゆる傍観者や無関心層の存在は、じつはかなり大きいのではないかといわれています。たとえば、森田洋司さんたちの注目すべきいじめ研究によると、いじめの被害の大きさは、いじめっ子の数ではなく、傍観者の数に相関するといいます。見て見ぬふりをする人たちの存在が、いじめっ子たちに無言の支持をあたえて歯止めをなくしてしまうんですね。

 ジンメルは、傍観者の役割をとる人たちも、結局、排除する側の内集団に取り込められているということを指摘したかっんではないかと、わたしは考えます。この点は案外手薄なところではないでしょうか。社会学的な反省がないと気づきにくい問題だと思います。

 ジンメル自身は非常に差別現象に敏感な人でした。それは、かれが「商人」「ユダヤ人」「よそ者」「貧者」といった存在にたえず言及するところにはっきりあらわれています。それはかれ自身の人生が差別される側におかれていたことに関係しています。ジンメルが「社会学を研究している」ことと「ユダヤ人であること」というふたつの理由によってベルリン大学教授になれなかったという話は社会学史上有名な話です。

 このような排除現象は今の日本もそんなに変わらないという実感はあります。それについては、この夏書いた論文が刊行されたあとにまたふれたいと思います。ごく最近読んだ本でいうと、たとえば高橋和巳の『わが解体』(河出文庫BUNGEI Collection)の冒頭の話なんか、古い話ですけれども、ひどいですね。わたしは大学紛争後のシラケ世代ですので、高橋和巳とこの本の神話的名声は知っていましたが、この夏、はじめて読みました(団塊の世代のみなさん、あのころのわたしには高橋和巳よりキング・クリムゾンの方が重要でした!)。あの京都学派周辺の大教授たちでこれかとあきれますが、じっさいこれは今のわたしたちの生き方でもあるんです。相当な社会学的感受性と自己分析力がなければ「包括」されてしまっていることに気がつかないという場所にわたしたちは立たされているのです。

1995年執筆

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SOCIUS.JPドメインへの初出 1/5(Wed), 2005  
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