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書評『構築主義の社会学』


紹介と書評 平英美・中河伸俊編『構築主義の社会学――論争と議論のエスノグラフィー』

初出 『大原社会問題研究所雑誌』第508号(2001年3月)67-71ページ


社会問題の基礎理論へ

 ある状態を問題だと指摘する社会問題研究は、日本の場合、観察可能な事実に即してではなく、ある種の素朴な正義感やイデオロギーに基盤をもつ狭小なパラダイムの中でなされてきたのではないか。社会科学とは言いながら、その認識が一定の感情構造と(結果的に)党派的な解釈共同体に適合的な枠組みに即応する形でのみ洗練化されてきたにすぎないのではないか。私はずっとこのような疑念を抱いてきた。ただ、それが「ある種の問題は指摘され大声で語られるのに、なぜこの種の問題は差別であるとさえ指摘されないのか」といった不満の水準にとどまっていたために、ジェンダーや薬害の問題に対して読者として関心を寄せる一方で、せいぜいダブル・スタンダード問題という形でしか問い直しすることしかできなかった(「ダブル・スタンダードの理論のために」『法政大学教養部紀要98号社会科学編』1996年)。

 ところが健康文化の共同研究に携わるようになって、こうした曖昧な疑念を理論的に解決する必要に迫られた。近代医学は高度に制度化されて権威をもち、それに対して身体に関する言説はかぎりなく主観化されている。この種の研究を始めてから気づいたことだが、社会科学研究者は全般的に医学そのものに対して過剰と言ってもいいほど信仰心が強いのではないだろうか。手続き過剰な素朴実証主義からすると、医学は「治療」までしてしまう強力な科学として完成されているように見えるせいでもあるし、また、一部の社会学を除くと身体について社会科学する思考トレーニングを積んでいないせいもあって、批判的にあつかうことが困難になっているように思う。しかし科学としての医学そのものの存立根拠を問うことなく、現代の健康文化や医療問題を分析することは不可能である。

 そういう事情があって、しだいに社会構築主義に接近して研究を続けてきたのだが、折しも「社会構成主義」「科学人類学」として社会構築主義が紹介されていた金森修『サイエンス・ウォーズ』(東京大学出版会)が昨年2000年7月あたりから読書界で話題となり、そのおかげで、従来「社会学の一領域としての社会問題論」という非常にローカルなところで議論されていた構築主義が、多くの読者をもつ科学論・現代思想の俎上でも大いに議論されるようになった。あとは「流行りもの」として消費されないよう見守っていくだけである。

構築主義による事例研究

 さて、本書は「社会問題の社会学」における社会構築主義関連の基本文献8編を翻訳したアンソロジーである。読みづらい構築主義系の論文がていねいに訳された日本語で一気に読めるのはありがたい。社会学内部の論争とは言え、構築主義にともなうさまざまな問題が先取り的に批判的討議にふされていて、熟読したい翻訳書である。

 全体は二部構成になっている。前半は「オントロジカル・ゲリマンダリング」をめぐる構築主義論争、後半は具体的イシューに即した構築主義的研究が紹介されている。構築主義のおもしろい部分は事例研究にあるので、まず後半の論文から紹介しよう。

 まずジョエル・ベストの「クレイム申し立てのなかのレトリック」は「行方不明の子ども」(missing children)の言説構築過程を描いたもので、この種の研究論文のモデルになった有名な論文である。ベストは、クレイム申し立てがレトリカルな活動であることに焦点を当て、1981年につくられた「行方不明の子ども」という言葉をどのような人たちがどのような戦略のもとに流布させ、解釈の道筋をつけていったかを追っている。

「行方不明の子ども」の場合は、もともとは離婚した親が子どもを連れ去る事件を扱っていた「チャイルド・ファインド」という組織が、家出や第三者による誘拐をあえて含める形でこの言葉を定義しキャンペーンしたことに始まる。そして「切断され、首を切られ、レイプされ、絞め殺された子どもたちがこの国じゅうにごみのように捨てられている」と警告し、感情を釘付けにしていったのだ。

 ベストは、こうした議論が「かけがえのない子ども」「落ち度がない罪のない被害者」「悪としての逸脱者や大衆文化」「政策の不備」などを論拠として使用し、残虐な実例を利用して「行方不明の子ども」問題を反論の余地のないものにすることに成功したと分析している。ベストのこの事例研究は、クレイム申し立てする人たちのレトリカル・ワークの決定的な重要性を強調する点で、典型的な構築主義的社会問題研究のスタイルを提供している。

 次の章はウィルバー・J・スコットによる「DSM-IIIにおける心的外傷後ストレス障害(PTSD)」である。これはアメリカ精神医学会の『精神障害の分類と診断の手引き』第三版(1980年)の改訂において、いかにしてPTSDが採用されたかの政治的プロセスを追ったものだ。DSM-IIIは同性愛を障害からはずした点で注目されたが、同性愛のあつかいと同様、PTSDのあつかいもきわめて政治的な交渉の産物だった。とくにこの過程において「反ベトナム戦争退役軍人会」の果たした役割を重視して、ルポルタージュのようにその具体的な活動を取材している。  しかし、かれの意図はあくまで社会学的なものであって、心的外傷後ストレス障害という客観的な医学知識がたんに社会的構築物であるだけでなく、それがいかにして他の客観的現実(戦争の恐怖の認識、PTSDの臨床事例として治療可能な人びと、患者が保険適用を受ける資格など)を作り出すかを明らかにしている。「心的外傷後ストレス障害の物語により、自然界の秩序がいかにしてその秩序についての説明自体のなかに見出されるのかということに私たちは改めて気づかされる」とスコットは言う(227ページ)。クレイムとして、あるいは報道として、あるいは科学的解釈として語られる言説のもつ現実構築的な重要性を主張するのである。

 第三の事例研究はヴァレリー・ジェネシス「罪としてのセックスから労働としてのセックスへ」である。売春婦の権利擁護団体「コヨーテ(COYOTE)」の明確な主張が、いかにして売春の社会問題性(売春のどこが問題かということ)を大きく転換させていったかについて、三つの言説のアリーナに分けて調査したものだ。

 コヨーテは売春を「自発的に選択したサービス労働」であると主張する。つまり第一に売春は労働であって、他のサービス業と同様に尊重されるべきであること。第二に売春婦として働いている女性はそれを自発的に選択していること。それゆえ、第三にそれを選択させないことは公民権の侵害であること。「セックスワーク」「自発的な売春」といったフレーズで売春を再定義しようとするコヨーテの活動は、売春婦を正当な労働者としてあつかうことによって、現に売春に携わっている女性たちの市民的権利を保護しようというものである。売春が違法行為になって非合法化されているために、売春ビジネスで働く男女は労働者としての法的地位がなく、税金も徴収されず、各種保険・病欠・有給休暇も得られなくなっているとする。そして売春の禁止やセックスワークに対するスティグマこそが、売春婦に対する虐待をふくめた深刻な問題を引き起こす原因になっていると主張する。

 ジェネシスは、このクレイムが「法的取り締まりの言説」「フェミニストの言説」「エイズの言説」のアリーナにおいて、それぞれ対抗言説と出会いながらも、公的に注目されるプロセスを丹念に追っている。

 最後の事例研究は、アジア系アメリカ人の入学許可をめぐる議論をあつかったダナ・Y・タカギ「差別から積極的是正策へ」である。これはアメリカのエリート大学がアジア系アメリカ人の入学を差別的に選抜しているとのクレイムに対する一連の論争過程をまとめたものだ。

 この論文のおもしろいところは、論争が一貫して、たとえば1984年バークレイのアジア系アメリカ人入学者の急激な減少といった統計学的事実をめぐって進行しているにもかかわらず、「どこが社会問題なのか」について二転三転していることの発見にある。つまり最初は「アジア系アメリカ人に対する差別」を問題としたクレイムに対して、大学当局は「人口比で見れば過剰な比率であること」を逆に問題だとして対抗した。正反対である。それが焦点を「多様性の危機」へ移すことになったが、さらに新保守主義者によって「積極的是正策がもたらす不公平な定員枠」(いわゆる逆差別)といった議論がまさに同じ統計学的事実に基づいて主張されるにいたった。「諸悪の根元は積極的是正策にあり」というのである。

 クレイムの多様性にもかかわらず、タカギはこれらの論争に関わった多様な立場の人たちに共通の信念があるという。それは、(統計学的)事実をクレイムの主張や反論の証拠として使用できるという信念である。しかし、この論争において明らかなように、その信念に基づく現実のクレイムは水と油である。所詮「何らかの設問に関わる事実とはすべて、その問い自体に依存している」(302ページ)のであって、事実は文脈依存的性質をもつと言わざるを得ない。タカギは言う。「事実それ自体は逆差別というクレイムを正当化しない。正当化するのは人々なのである。」(302ページ)

構築主義論争

 さて、これらに代表されるような構築主義的事例研究に対して、1985年以降、大きな論争が生じる。いわゆる構築主義論争である。本書の前半には、この論争の主要論文四編がおさめられている。

 論争の引き金になったのは、ウールガーとポーラッチの「オントロジカル・ゲリマンダリング」論文(第1章)である。かれらは社会問題の定義主義的アプローチ(いわゆる構築主義的社会問題研究)が共通にもつ議論の構図をマニュアル的に抽出する。さすがにウールガーは、あのラトゥールとともに科学人類学の金字塔的作品『実験室の生活』を著した人だけあって、研究者が身につけた言説構築の手管(かれらは「ムーブ」つまり「差し手」と呼んでいる)を見抜くのがうまい。

 かれらによると構築主義系の研究は、対象とする事態についての人びとの定義を問題にするのであるが、その一方で自分たちの分析の前提についてはひそかに自明視するという。つまり「問題であると理解されるべき前提とそうでない前提との間に境界線を設ける」という「バウンダリー・ワーク」(境界線を引く作業)をしているという(22ページ)。たとえば、「状態は変化しないのに社会問題の定義は変化する」とか「Xは永遠であるのにもかかわらずYはほんの最近である」といったパターンがそれである。

 この批判に対して応えたのがイバラとキツセの「道徳的ディスコースの日常言語的な構成要素」論文である。この論文はスペクターとキツセの『社会問題の構築』に続く綱領改訂版と見なすことができる基本論文になる。

 かれらは「オントロジカル・ゲリマンダリング」批判などに応えて、従来「想定された状態」と呼んでいたものを「状態のカテゴリー」に置き換えることを対案として提案する。これは、いわゆる客観的な社会的状況についての言及をきっぱり切り捨てて、人びとがその状況に対して駆使するシンボルや言語に研究対象をしぼるという提案のようだ。構築主義はディスコースにのみ言及する、ただしディスコースは言説だけでなく表現行為もふくむものと考えられている。かれらの方針は次のようになる。

「社会構築主義は、シンボルを用いて境界設定された社会的現実(私たちが状態のカテゴリーと呼ぶもの)をメンバーが知覚し、記述し、評価し、それについての行動をする際に拠り所にする固有のやり方を研究するのである。」(61ページ)

 構築主義のディシプリンは、もともと指針程度の単純なものだったが、この論争によって一気に理論的洗練がなされたと言ってよいだろう。本書第3章と第4章はその概観を整理した短い論評になっている。

レトリックとスタイルと場面の理念型

 構築主義に入門したばかりの研究者として全体を通してもっとも興味深かったのは、第2章の本論部分(二から四)だ。このあたりは「使えるマニュアル」として読める。研究プログラムとして提案しているのだから当然といえば当然なのだが、これをもとにすれば『ああ言えばこう言う社会問題の語り方』というハウツウ本ぐらいなら書けそうな気さえする。真摯な提案なのだが、そこはかとないユーモアを感じるのである。それはおそらく「それ、言えてる!」といったような、距離化された実感に由来するのだろう。

 イバラとキツセは、社会問題のディスコースにおけるレトリックに四つの次元を区別し、それぞれについての複合の仕方を説明するのが構築主義的社会問題研究の仕事だという。

(1)レトリックの慣用語(イディオム)
(2)対抗(カウンター)レトリック
(3)モチーフ
(4)クレイム申し立てのスタイルと場面(セッティング)

 たとえば反中絶組織が「かけがえのない無垢な生命が失われる」というクレイムをしたときには「喪失のレトリック」という慣用表現が使用されているのであり、それは「保護すべきだ」という道徳的感情を誘引し、うまくいけば「救助者のヒロイズム」も呼び出せるかもしれない。たとえば「レトリックの慣用語(イディオム)」として指摘されているのは、こういう構図を明確に取り出すことのようだ。このほか「権利のレトリック」「危険のレトリック」「没理性のレトリック」「厄災のレトリック」といった構図が例示されている。

 それに対する対抗レトリックもまた類型化可能である。「自然の成り行きなんだから仕方ない」といった「自然現象化」というレトリックや、コストに見合わないと退ける「解決にかかるコスト」というレトリック、「やるだけの資源や能力がない」と退ける「無能力の表明」、「それはひとつの見方だね」で済ませようとする「パースペクティヴ化」といった類型が例示されている。

 モチーフは、これらのレトリックにおいて繰り返されるテーマのことで、疫病、脅威、災難、危機、暗雲、多数の死傷者、氷山の一角、戦い、虐待、隠れたコスト、スキャンダル、時限爆弾などがしばしば使用される。これらのモチーフが一定の文脈にはめこまれることで、クレイムは一定の効果を期待することができる。

 そして最後はスタイルである。クレイム申し立てがどのようなスタイルで実行されるかが重要な要素となる。それが問題だとクレイムが申し立てられるとき、それが「科学的なスタイル」でなされるのか、「コミック(冗談めかした)スタイル」でなされるのか、計算された「演劇的なスタイル」でなされるか、純然たる義憤や怒りによる「市民的スタイル」でなされるかによって成り行きは大きく変わる。

 このような言説の実践のありように焦点をしぼって研究するのが構築主義的社会問題論の課題であるとかれらは主張するのである。これは非常にすっきりした提案ではないだろうか。

 ただし、クレイム申し立ての場面として例示されているメディアの問題は、それほど単純に処理できないように思うし、言説の実践(パフォーマンスの部分)や音楽のような言語化できない表象についての扱い方についても膨大な記述が必要だろう。そうした研究課題を具体的問題研究に即してひとつずつ解決していくことが今後の課題であり、それについてはまだまだやるべき作業が残っていると言えそうである。

世界思想社、2000年、vi+336頁,定価2,300円
評者 野村一夫 法政大学大原社会問題研究所兼任研究員
『大原社会問題研究所雑誌』第508号(2001年3月)67-71ページ。


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