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書評『社会問題の社会学』


紹介と書評 中河伸俊『社会問題の社会学――構築主義アプローチの新展開』

初出 『大原社会問題研究所雑誌』第497号(2000年4月)90-95ページ。


社会問題の理論へ

 本書は、社会構築主義的社会問題論の第一人者である中河伸俊氏によって1990年代後半に公表された研究を集大成したものである。書き下ろしを含む最新の社会問題論である。一見コンパクトな本に見えるけれども、内容はかなり厚く、濃い。構成は、理論的議論が事例研究をサンドイッチする形になっており、個別事例の分析に焦点があるというより、むしろ事例研究によって理論を検証しようとする指向性が強い。その意味で、有害図書問題などの詳細な具体的分析が多くを占めるにもかかわらず、基本的に理論色の強い研究書である。

 じつは私が本書に惹かれるのも、ひとえにこの理論指向にある。というのも、最近にわかに「社会問題」にかかわる仕事がふえ、具体的問題について判断しなければならない状況に直面するのだが、そのさい、従来の社会問題研究にありがちな慣習的処理に依存できないケースとしばしば出会うからである。私はそれに対して距離を置くべきだと考え始めている。理論的考察の必要をひしひしと感じる。

慣習的処理の問題

「ありがちな慣習的処理」というのは、平たくいうと「正義と悪の二分法」に基づく告発というやり方である。例外が多々あることは承知しているが、研究にせよ評論にせよ報道にせよ、これまで日本で語られてきた社会問題に関する批判的言説は、おおよそ「正義と悪の二分法」を準拠枠組みにしてきた。いうまでもなく正義は味方で、悪は排除すべき敵である。

 この場合たいてい議論のはじめから非難対象は決まっている。さしあたり名指しされた集団や個人が対象となり悪の側に位置づけられる。分析なるものも多くは事後解釈であって(つまり悪者がなぜ悪いか、悪者がどのような悪事を重ねてきたかを後付けして説明する)、分析された結果として「元凶」が対象化されるのではない。

 他方、語り手の側は、自らが客観中立であることを装いながら、じっさいの言説においては社会正義の立場から断罪する特権的な立場をとろうとする。その言説は、しばしば一定の糾弾の構図に持ち込むこと自体を目標とし、問題の「元凶」として類型化された悪者像に批判対象を押し込めて非難することになる。悪者の「一理」についてふれるのは(弁護することになりかねないので)しばしばタブーである。せいぜい「そんなことは理由にならない」と退けられるのが関の山である(つまり結論は分析の前に決まっている)。そして糾弾主体の正義そのものについてはなんら反省がなされないまま自明視される。これはあきらかにダブル・スタンダードである。

 このように、自らは「学問」であり「社会科学」であり「客観的研究」や「公正な報道」と称しているが、内容は事実上「道徳十字軍」であり「魔女狩り専門官」になっているケースがあまりにも多いように思う。二分法的構図において研究者やジャーナリストがおこなう作業は、勧善懲悪主義的傾斜に身を任せることになりがちだからである。社会学には「道徳事業家」(moral entrepreneurs)という概念があるが、それはまさに「道徳の請負人」「道徳の執行者」の言説そのものではないのか。

 しばしば指摘される、マス・メディアによる社会問題報道の質の低さも、社会問題を分析するさいに使用される理論的枠組みの弱さに起因するといえるのではないだろうか。とくに、メディアの活動自体が特定の社会問題を対象としてつくりあげているということ、つまり、「それ」を論じる研究者やメディア関係者の活動そのものが、社会問題としての「それ」の内部的な構成要素であるということ、この自己言及性の問題を理論的に解決していないことが大きい。自らが「道徳事業家」であることが見えていないのである。  このような、無自覚に政治的な言説と、冷徹であるべき社会科学的分析(本質的には政治的であることはたしかだが、それを自己言及的に自省する回路を開いた言説)とを混同するような理論的甘さが日本の社会問題研究にあったのではなかろうか。おそらく日本ではマルクス主義的社会問題論が社会科学に残した19世紀的構図がまだ生きながらえているせいもあるだろう。社会学自体が他の社会科学者たちに理解されていない日本的事情もある。

 とはいえ、もちろん理論の水準と研究の水準とはイコールではない。理論的には単純であっても、実証研究や実務において多産的であるということは大いにあり得ることである。むしろ通常科学(normal science)とはそういうものであり、それをパラダイムとして受容することが専門家の第一条件となるのである。

直面する問題とのギャップ

 しかし、現在、私自身が関わっている「健康と病いの問題」や、インターネット上で社会問題をどのようにあつかうのが適切かということを考えると、このような通常科学の埒内での慣習的処理ではうまくおさまらないのである。

 たとえば、1999年にライフスペースの遺体放置事件が問題になって「定説」のいかがわしさが報じられたが、記者会見で「現代医学の正当性をあなたたちは認めないのか」と記者が自信たっぷりに問いつめるのを見ていると、逆に「それほど現代医学というのは絶対的なものなのか」と問い直したくなるのである。医療社会学や医療人類学を勉強すればするほど、生物医学(biomedicine)に基づく現代医学がいかに慣習の集合体であり、専門家集団の自己保持そのものを自己目的とする活動であるかということがわかってくる。現代医学の正当性はひとつの信仰ともいうべきものであって、非正統的な民間医療に対して指摘される「いいかげんさ」と、じつはそれほど変わりがない。中国の医療状況を見てもわかるように民間医療や伝統医療においても治癒や癒しは十分ありうるのであり、控えめに見積もっても西洋近代医学と同格の医療システムのひとつと考えることができる。つまり「何が問題なのか」は必ずしも自明ではないのだ。

 また、インターネットにおいては、従来「声なき声」として排除・無視されてきた声が、正当に声として存在でき、第三者も容易にそれを確認することができる。アトピー治療の失敗を非難する一患者の口汚い呪詛も、立てこもり事件を実行中のテロリスト集団の主張も、そこには存在する。それらは権威ある病院のエリート医師の声や政府当局の声明と並列的に存在し、自動的に排除されることはない。これまでの慣習的処理のように、勝手に断罪してしまうことでそれらの声を排除してしまうことはできない。むしろ人びとはそれらを、専門家やジャーナリストの言説とまったく同次元の言説として見てしまうのだ。当然、激しい異議申し立てもありうるだろう。社会問題を取り扱う人たちには、「自分たちが専門家である」という自負以外に、それに反論するだけの論拠があるだろうか。

社会問題の社会学

 そういう思いを抱えて社会学史を見直すと、社会問題に対するこのような慣習的処理が、20世紀初頭まで尾を引いた社会福音運動・社会改良運動の亜種にすぎないことがわかる。トマスやパークといったシカゴ学派の人びとはそれらと批判的に対峙することで自らの社会学を立ち上げたのだった。

 その後、20世紀アメリカを中心に展開した「社会問題の社会学」の歴史は、社会科学の名の下に語られてきた、以上のような「自らの中立を主張しつつなされる道徳的言説」のダブル・スタンダードに対して、いかに距離をとるかの歴史である。トマス、パーク、ベッカー、マートン、コーエン、スペクター、キツセといった社会学者たちの仕事、そして機能主義理論・価値葛藤学派・逸脱行動論・レイベリング理論・社会構築主義など、社会問題にかかわった社会学者の真摯な思考と、そこで幾たびも重ねられてきた激しい論争を知らずして個々の社会問題を議論することの理論的リスクを想起したい。

 では、「社会問題の社会学」がこれまで考えてきたことは何か。本書が指示している徳岡秀雄『社会病理を考える』(世界思想社、1997年)によると、社会問題の構成要素には客観的要素と主観的要素があり、社会学的社会問題論の共通認識は、その両者が一致するという素朴な前提をとらない点にあるという。たとえば機能分析をとるマートンは、社会問題を顕在的社会問題と潜在的社会問題とにわけ、世間の人びとが認識していないが客観的実態として存在する潜在的社会問題を発見することに研究者の主要な役割を見た。徳岡氏はこれを「実態主義」に位置づける。それに対して、魔女のように客観的に存在しなかった状態を人びとが社会問題とすること(魔女狩り)もあるわけで、それに注目すると、人びとの主観的な定義によってこそ社会問題が形成されるとする考え方もでてくる。徳岡氏は「定義主義」と呼んでいるが、社会学ではレイベリング理論がその典型である。レイベリング理論は、逸脱現象を行為や人に本来的に内在する属性ではなく、行為や人に対する人びとの反作用によってうみだされると考えるのである。

 本書で論じられている社会構築主義は、定義主義的パースペクティブをいっそう徹底させた理論である。それは社会成員による主観的定義づけの活動そのものを社会問題として研究しようとする点で、レイベリング理論よりも一歩進んだ新しい立場とされている。

 一般に、社会構築主義は、客観的事実とみなされている現実があくまでも社会的に構築されたものであって、その構築のされようによってはいくらでも他のありようをとりえたものだと考える。つまり唯一絶対の客観的事実はないのだ。そこにあるのは「これが事実だ」と言明するさまざまな実践だけだというのである。これはどういうことなのか。

社会構築主義とは何か

 あえて「社会問題とは何か」を問う理由を説明する必要性を感じたため、いささか前置きが長くなってしまった。本書は、社会構築主義の立場からこの課題に正面から応えようとする試みであり、以上のような理論状況にある日本ではとくに貴重な貢献である。まずはその成果を正確に読みとり、構築主義的社会問題論の具体的な展開可能性について考える手がかりにしたいと思う。

 そもそも構築主義的社会問題論は、スペクターとキツセの共著『社会問題の構築』によって提案された(Spector, Malcolm and John Kitsuse, 1977, Constructing Social Problems, Menlo Park CA:Cummings. = 村上直之・中河伸俊・鮎川潤・森俊太訳『社会問題の構築――ラベリング理論をこえて』マルジュ社、1992年)。かれらの社会問題論はもっぱら人びとの社会的定義づけ過程に焦点を定めたものであり、現実的条件でもって社会問題を定義するという伝統的なやり方と一線を画したものである。その中心的主張は、社会問題を「なんらかの想定された状態について苦情を述べ、クレイムを申し立てる個人やグループの活動である」と定義するところにある。

 中河氏の整理によると、キーワードは「クレイム申し立て活動」と「社会問題のカテゴリー」だという(23-31ページ)。

 社会構築主義(以下「構築主義」と略称)では、何が社会問題であるかを研究者自身が恣意的に決めない。ある人びとがある状態について「問題である」とクレイムを申し立てた段階で、それは研究対象になるとする。つまり、その「問題」が「実在」するかどうかにかかわりなく、クレイム申し立てという言語行為は観察可能だからである。だれがクレイム申し立てをするかについても限定しない。日本の従来的なアプローチでは、しかるべき運動団体が声を上げた場合だけを採り上げる傾向があった。そういう党派的な線引きもしない。だから「ダイオキシンによる環境汚染の危険」という主張も「フリーメーソンによる世界征服の陰謀」という主張も、ともにプロセスとしての社会問題を構築する活動と捉える。前者が正当で後者が不当であるから前者だけを社会問題として認めるという常識的な判断をあえて下さない。

 要するに、構築主義は言語行為に着目するのである。その言語行為は、必ず一定のカテゴリーを使用しておこなわれる。クレイム申し立ては「事実」について主張しようとしているのであるから、必ず「事実」であることを裏打ちしてくれる「社会問題のカテゴリー」を使用する。「いじめ」「登校拒否」「児童虐待」「セクハラ」といったことばがそれである。「事実」であることを提示し、道徳的態度を誘発するこれらのカテゴリーは、しかし、ある時点で発明され、さまざまな経緯で私たちの推論を枠づけるようになったものである。「同性愛」というカテゴリーの変遷に典型的に観察できるように(道徳的な罪→精神の病気→ライフスタイル)、人びとがじっさいにそのことばを使用することによって存立するのであるから、それは歴史的に定義づけや位置づけが変わりうるものなのである。

さまざまな構築主義的研究

 こうしてみると、構築主義的社会問題研究は「問題」をめぐる人びとの言語実践を分析する広義の言説分析といえそうである。ただし中河氏は「レトリック分析」ということばをおもに使っており、言説だけを研究対象にすることにも疑問をもつ。クレイム申し立ての活動であれば社会問題の言説も社会問題活動もともにあつかうべきだという(278ページ)。

 本書によると、このような分析は対象の範囲の絞り方によって、ほぼ四つの水準に分類できるという(40-43ページ)。第一のものは「社会問題をめぐるトークの研究」である。

社会問題のクレイム申し立てが成立するさいの相互作用場面の研究である。世間話からテレビ討論や審問などのそれぞれの場面での語りを言説分析ないし会話分析するものである。第二は「エスノグラフィー的な研究」で、フィールドワークによって司法・医療・警察・福祉・運動組織などの現場で社会問題の発見・探索・解決のプロセスを記述するというものである。第三は「特定の問題とその解決をめぐる複数の場面を横断する問題過程」の研究で、インタビューやドキュメントやメディア上の言説を素材にして問題過程を「一続きの糸」として全体的に描くものである。第四の「人びとの定義と分類の歴史」の研究は、より大きなタイムスパンをとって社会問題のカテゴリーの変遷を調べるというものである。

 このように、構築主義は厳格に制御された方法論というよりも、むしろゆるやかな研究原則のようなものであって、「問題とされる状態」についての評価を控えて、観察可能でレトリカルな「問題をめぐる活動」に焦点を移して社会問題を研究しようとする知的戦略のことであると考えることができる。中河氏は「別のゲーム」とこれを呼ぶ(52ページ)。従来型の社会問題論のように「社会問題の解決」という実践的な関心に基づいて事実判断や価値判断をするのではなく、構築主義は「『社会問題』をめぐる活動を記述し分析する」という別の関心によって事実判断や価値判断をおこなうのである。

 はじめに述べたように、「正義と悪の二分法」による道徳的な研究・評論・報道を感情的に後押しし自己正当化しているものこそ「社会問題は解決しなければならない」というエートスである。この自明性に覆われた感情的前提が、研究する者の自己言及性を低くし、言説の社会学的洗練度を低めていると考えられそうだ。これをいったんペンディングして、別の「社会問題の言語ゲーム」に参加すること。構築主義の共通主張はこのあたりにあるようだ。

本書の独創性

 さて、ここまでは第1章を中心に社会問題論を再考してきた。ここは著者独自の主張というよりは、スペクターとキツセの社会構築主義的社会問題論とその後の展開の解説のようなものになっており、本書の独創性となると、むしろ有害図書問題などの応用事例研究に即した理論的考察と、一連の構築主義論争に対する著者の見解にこそある。ディープな議論になりかねないので、ここではかんたんにふれておくにとどめることになるが、本書で事例研究されているのは、1990年代はじめに和歌山県田辺市から始まった「有害コミック」追放運動と、1986年に富山県立美術館で展示・購入された大浦信行作品の問題である。前者はコミックのわいせつ表現にクレームが申し立てられ、後者は連作の版画コラージュに昭和天皇の写真が使用されていることにクレームが申し立てられたことから始まった。中河氏はこの事例研究の中でいくつかの理論的な傾向と指針を事例に即して提起している。たとえば、「問題」についてのクレイムや対抗クレイムは「何でもあり」ではなく、かなり限定されているということ(125ページ)、社会問題をめぐる論争は本来的に三者関係的であり、行政機関が要にあること(232ページ)などがそれである。

 また、構築主義者は事例研究のさいに「何が存在し、何が構築物なのか」という区分をご都合主義的に操作しているのではないか(存在論上の境界線の恣意的決定=OG問題)という批判から始まった構築主義論争については、OG問題は疑似問題であるという判断を下している。ちなみにOGとはオントロジカル・ゲリマンダーリングのこと。「たとえばマスメディアがその『中立』な『客観報道』の中で、『問題』についての相争うクレイムの一方を『事実』、他方を『意見』と読むように指示する描き方をしたり、その一方または両方を『利害』や『認識不足』や『特定の価値観』によって説明しているとき、調査者はそこにOGの実践を見いだすことができるかもしれない」(284ページ)というあたりはジャーナリズム論として興味深く感じるとともに、ダブル・スタンダードであると冒頭で指摘した社会問題研究における「ありがちな慣習的処理」にも該当することだと思う。

 その他、公式統計の問題と感情社会学についてのいささかショッキングな論考が収められている。統計も感情も社会問題の言説において重要な役割を果たすものであり、ここで述べられている論点を突き詰めれば、これまで社会問題研究と称してきた言説がいかに砂上の楼閣という構築物であったかということになろう。私自身も実感しているが、構築主義的思考はあきらかに慣習的な通常科学を根底から否定するところがある。大学院生が構築主義の批判に回ろうとするのも、自分の将来を狭めたくないからだろう。しかし、知的に誠実であろうとすれば社会的構築の問題は避けて通れないと考える点で私は著者に同意したい。

医療社会学の場合

 最後に少しだけ「無いものねだり」をしておこう。医療社会学では1995年前後から社会構築主義に基づいた「健康と病いの社会学」がいっせいに公刊されたのだが、その研究をやっていると、社会構築主義がたんに「社会問題の社会学」にとどまるものでないことがよくわかる(野村一夫「健康の批判理論序説」『法政大学教養部紀要』第113・114号自然科学・社会科学編、2000年)。たとえば、フィル・ブラウンは「名前づけと枠づけ」という論文で、医療社会学に適用された社会構築主義的アプローチには三つのヴァージョンがあると指摘している。第一のヴァージョンは、これまで論じてきたような「社会問題の社会学」によるもの。第二のヴァージョンはフーコー以来のポストモダン理論のもの。第三のヴァージョンは、科学社会学における「行為する科学」(science in action)の視角。ちなみに第三のものは、科学的事実の生産というものは、公的な場所に自分たちの業績をプロモートしようとする科学者たちの努力と結合した、実験室の単調な生活をしている科学者たちによって相互に考え出された行為の結果であると捉えるものである。(Brown, Phil, 1995, "Naming and Framing: The Social Construction of Diagnosis and Illness," Journal of Health and Social Behavior, 33:267-81. Reprinted in: Phil Brown ed., 1996, Perspectives in Medical Sociology, Second Edition, Illinois: Waveland Press, 92-122.)

 このように、構築主義の裾野はかなり広いようだ。本書の続編がすでに準備中であるとのことであるから、それを楽しみに待ちたいと思う。

世界思想社、1999年4月、viii+332ページ、定価2,500円
評者 野村一夫 法政大学大原社会問題研究所兼任研究員


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