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リフレクション

第六章 高度反省社会への課題
三 社会学的な感受性

異世界としての日常生活へ

 第二章から第六章までの各章でわたしたちは次のことを確認してきた。第二章では、わたしたち自身が社会形成の主体(担い手)であること。この単純な事実が、複雑に機能分化した現代社会では見えにくいこと。第三章では、自分たちが知識過程の主体であること。社会形成における知識の重要性を見てきた。第四章では、自分たちが権力作用の主体(共犯者)でもあること。ときには大量排除現象を引き起こす権力作用は、歪められたコミュニケーションによってわたしたちの知識が的確に現実を捉えていないことと一体のことである。第五章では、自分たちのコミュニケーションが理想を内蔵していること。近代人としてのわたしたちはそれをあまり意識せずに頼りにしていること。第六章では、自分たちが市民的公共圏の理念の主体でありうること。これらのことを確認してきた。わたしはその確認作業そのものもふくめた、このようなポリフォニック(多声的)で重層的なプロセスに対して「リフレクション」ということばを当てて語ってきた。社会学とは、現代社会の複雑性に潜むこのような事実を自分のこととして理解するリフレクションの実践なのである。

 すでに述べたように、学校教育にせよマス・メディアにせよ、総じて日本社会は社会学を文化装置として十分に組み込んでいないので、本書で論じてきたことに違和感を感じる場合が多いかもしれない。逆に社会学的世界になじんでくると、今度は日常生活において体験するあれやこれやが不自然でぎこちない世界として見えてくるはずだ。危機・できごと・事故・極端な事例・病理的事例・とるにたらないこと、不測の事態・統計的に少数のものとして退けられていたもの・構造やシステムを混乱させるものが、きわめて重要な現象として感じられるようになる。36こうして日常世界は異世界として再発見される。

▼36 エドガール・モラン『出来事と危機の社会学』浜名優美・福井和美訳(法政大学出版局一九九〇年)二一三ページ。

 このような感じ方の変化を劇作家ヘルベルト・ブレヒトは「異化」(Verfremdung)と呼んでいた。かれによると「異化」とは「まずその出来事ないしは性格から当然なもの、既知のもの、明白なものを取り去って、それに対する驚きや好奇心をつくりだすことである。」37社会学的反省は多かれ少なかれ「異化」を伴うのである。

▼37 ブレヒト「実験的演劇について」千田是也訳編『今日の世界は演劇によって再現できるか――ブレヒト演劇論集』(白水社一九六二年)一二三ページ。

社会学的な感受性とは何か

 日常世界を反省的に異化する知的な力を「社会学的な感受性」と呼ぶことにしよう。わたしの前著のタイトルになっている「社会学感覚」はこの「社会学的な感受性」の短縮形である。「社会学的な感受性」とは、本書のこれまでの議論に即して定義すると「社会を反省的にする実践を誘発する高度なコミュニケーション能力」ということになる。

 ここでまず注意していただきたいのは、「感受性」とか「感覚」ということばを使っているからといって、一九八〇年代日本の成熟消費社会において流行した「感性」なるものとはまったくベクトルが異なることである。当時の「感性」の使い方には、たぶんに反主知主義の傾向があった。それは「理屈抜きに感じる」ことであって、実質的には「消費のことば」へのエポケー(判断停止)的適応要求を意味していた。「社会学的な感受性」はこのような反主知主義に与するものではない。むしろ主知主義に属している。それは「反省のことば」によるコミュニケーションの能力に根拠をもつ明確に知性的な能力である。ただ「鋭敏に感じること」「いちはやく気づくこと」「センシティヴになること」という意味で「感受性」なのである。直感ではない。生活者としての直感ではもはや読み解けない社会的現実があまりに多くなっている。そうではなくて、透明な自己理解を可能にする社会学的知識に裏打ちされた「見識ある市民」「自省的市民」の感度が問われているのだ。

 では何に対して感受するのか。権力作用に対して、自分の行為の帰結に対して、他者の言動に対して、そして、あるかもしれない別の可能性に対して……。つまり「社会学的な感受性」とは、自分を権力作用の媒体にしてしまうのでなく、不透明な自己理解を超越する反省的な能力であり、自らの行動を理性的に監視する能力であり、他者とのコミュニケーションに敏感に反応して能動的に合意をつくりだそうとする意思と能力であり、そしてシビアな歴史的現実的条件の認識から「別の可能性」を構想する想像力である。

 「社会学的な感受性」「社会学感覚」に対して社会学はさまざまな貢献をすることができる。その第一の仕事は概念化することである。ことばを手がかりに、わたしたちは自分と社会的現実とのかかわりを感受できるのだから。ハーバート・ブルーマーのことばを借りれば、結局、社会学で使われている概念は「本質的にはものごとを感受するための道具」38なのである。かれはこれを「定義的な概念」(definitive concept)に対して「感受概念」(sensitizing concept)と呼ぶ。感受概念は、概念の抽象的な枠組みのなかに実例を埋め込むのではなく、概念から出発して、実例の現実的な個別性に至るために使われる。39つまり、具体的現実を感受するための概念なのである。

▼38 ハーバート・ブルーマー『シンボリック相互作用論──パースペクティヴと方法』後藤将之訳(勁草書房一九九一年)一九一ページ。
▼39 前掲訳書一九四ページ。

 この考え方はウェーバーの理念型ともよく似ている。「発見的意義」を第一義としたウェーバーは具体的な歴史研究から理念型を構成し、理念型とのずれからさらに具体性へ迫っていく道をとった。その意味ではブルーマーの感受概念は古典的な考え方である。ウォルター・リップマンが簡潔に述べているように、結局、わたしたちは文化的に定義されたものしか見ないのだ。40だからこの文化的定義を異化して「反省のことば」を感受概念として現実の具体に迫っていかなければならない。

▼40 W・リップマン『世論(上)』掛川トミ子訳(岩波文庫一九八七年)一一一ページ。

 社会学の目的は、感受概念を駆使して社会的現実を経験的に研究してえられた反省的知識──すなわち「反省のことば」──を積極的に公開することによって、人びとの社会学的感受性を高めることにある。社会学は、社会学的感受性をもつ「見識ある市民」の実践によって社会全体が高度に反省的に再編されることを支援する科学であり、まさにそのような人びとによって生みだされ、強化され、現に必要とされている科学なのである。

敵対的情報の受容

 「反省のことば」は無難なことばではない。それはむしろ自分を傷つけるかもしれない危険なことばでもある。グールドナーは次のように指摘する。「明識とは、悪いニュースに開かれていることであり、そのニュースを受容し用いることへの抵抗を克服しようとする人間の容量の大きさから生まれる。つまり明識は、枢要な点で、脅威にさらされてもなお自己を支配しようとする能力に必然的に結びついている。」41

▼41 A・W・グールドナー『社会学の再生を求めて3』岡田直之ほか訳(新曜社一九七五年)第十三章「社会学者として生きること/自己反省の社会学をめざして」(栗原彬訳)二一六ページ。

 「社会学的な感受性」が意味するもうひとつの側面は、このような敵対的情報の受容能力を高めることにある。敵対的情報を受容し、それを利用する能力は、政治家の場合は「現実主義」といわれ、学者の場合は「客観性」といわれる。42「見識ある市民」「自省的市民」の場合は「市民性」もしくは「成人性」というべきかもしれない。ひとつの具体的問題でこれを考えてみよう。

▼42 グールドナー、前掲訳書二一六ページ。

 わたしはかねがねそう思ってきたが、社会正義を主張したり反権力を標榜したりする人びとにとってタバコはひとつの試金石である。たとえば反核平和運動・反原発運動・PKO反対運動・環境保護運動などは国家や大企業を批判する。そこでは批判する本人やその周辺の知人を問うことがない。相手はソト(外集団)の人たちである。しかも批判する人自身が問題にはならない。しかし、タバコはちがう。それらが問題化するとき、タバコをめぐって市井の人びとが二分されてしまい、討議の世界は居心地の悪い異世界になってしまう。同じことがフェミニズムや宗教のケースにもいえる。嫌煙権の必要を説けば発言者は「タバコ嫌いだからこういうのだ」と見られ、信教の自由を説けば特定教団の手先のようにいわれてしまう。フェミニズムを語る女性も同様である。素朴なイデオロギー論によって、ことばが構造的に歪められてしまう。それは発言が相手にとって敵対的情報であるからだ。敵対的であるために受け入れたくない。

 伊佐山芳朗が指摘するように、いくらタバコがよくないと思っていてもかんたんにはやめられない。やめられないとなると、それに対する否定的な知識は自分のなかで矛盾してしまう。そこで敵対的情報を否定して心理的葛藤を減らすために、その知識そのものを経験的に打ち消そうとしたり(「ウチのオヤジはヘビースモーカーだけど長生きしたよ」「かえって頭のなかがスッキリする」といった発言)、あるいは「喫煙の自由」をもちだしたり、嫌煙権を主張する人の人格や性格を悪くいうことになる。43あるいは「タバコより反核だよ」といった序列主義をもちだして自己正当化をはかるケースもあるという。44

▼43 伊佐山芳朗『嫌煙権を考える』(岩波新書一九八三年)七四─七五ページほかを参照。
▼44 前掲書六八ページ。

 「……はこまる」ということばが同一共同体内では通用しても、外集団にはまったく異なる文脈と意味を付与されてしまう。話想宇宙の拡大は共同体の拡大とともにしばしば困難になってゆく。それがもっとも身近にあらわれるのが喫煙問題なのである。

 近年の日本では、公共的空間における分煙化や禁煙化の流れが定着しつつある。これも社会運動によってつくりだされた社会の「自省」であるが、具体的には、敵対的情報を受容する「見識ある市民」の成熟があってはじめてできることだ。

能動的な受け手として

 わたしはこれまでの議論でわたしたちが「主体」であることを一貫して強調してきた。しかし、じっさいにわたしたちは多くの社会関係において受け手であることを強要されている。マス・メディアの受け手(視聴者・読者)、選挙活動の受け手(有権者)、医療の受け手(患者)、教育の受け手(学生)、商品の受け手(消費者)……。だからこそ「主体」であることをあえて強調しなければならなかったのだが、そうはいっても、わたしたちが明日から新聞記者になれるわけでなく、医者や教授になれるわけではない。そうではなくて、問題なのは、わたしたちがそのような受け手であるとき、わたしたちはその社会関係において送り手に対して無力な客体(対象)として自分を捉えがちである一方、その関係の外部に「主観としての自分」を孤立させていることなのだ。そんなとき、わたしたちは、主体として能動的に関与する自分を見失いがちである。

 そこでわたしは「能動的な受け手」という概念をリフレクションの重要な要素として提起したい。

 そもそも「能動的な受け手」(active audience)とはマス・コミュニケーション受容研究とくに「利用と満足研究」(uses and gratifications research)における基本前提となる概念である。ふつう「受け手」というと受動的な存在に決まっているではないかと思われるかもしれないが、マス・コミュニケーションの影響力を調査していくと、受け手はけっこうガンコでワガママなので、マス・メディアから送られてくるメッセージをそのまま受容しないで、自分勝手に、あるいは自分につごうのよいように解釈する。そもそも気に入らないメディアとは接触しない。受け手はマス・メディアをきわめて選択的に利用するのである。

 マス・コミュニケーションにおける受け手は、このようにくわしく見ていくと、たんなる受動的な存在ではないのだが、まだその能動性は完全なものとはいえない。それはたんに先有傾向に支配された保守的な生活者にすぎない。つまり、そこには社会学的な感受性に裏打ちされた意思がない。それがあってポジティヴな意味で「能動的な受け手」なのである。

 受け手であることを強いられるあらゆるコミュニケーションに対して「能動的な受け手」であること──これこそ現代における有効な抵抗であり、社会を改訂する日常的な実践になるのではないか。病院のなかで、大学や学校のなかで、選挙運動に対して、メディアに対して、あたかもジャーナリストのように、積極的に知識を集め、隠された秘密を引きだし、事情通になり、対話を積み重ね、優位に立つ送り手に対抗していく「能動的な受け手」に。

現在形の社会学

 社会学者もがんばって仕事をしなければならない。専門職としての仕事ももちろんたいせつで、その積み重ねの上でさまざまな重要な知見もまた発見されるのだが、それとともに「見識ある市民」「自省的市民」としての仕事もしなければならない。これは従来「知識人」の名の下に語られてきた仕事であるが、もはや「知識人」という特権階級を認めるわけにはいかない。そのなかでとくにわたしが重要と考える領域がふたつある。ひとつは「時代診断」、もうひとつは「公共哲学」である。前者は「いま」をあつかう点でジャーナリスティックであり、後者は専門家ではない人たちに語りかけるという点でジャーナリスティックである。したがって両者はともに「社会学のジャーナリズム化」と括るべき方向性といえよう。最後にこの点を強調して、リフレクションの錯綜した迷路をでることにしよう。

 第一の「時代診断」についてはカール・マンハイムの「時代の診断学としての社会学」の構想が有名であるが、むしろわたしは「時代診断」を取り込んだエドガール・モランの「現在形の社会学」構想にひかれる。45「現在形の社会学」は「できごと」をあつかう。「できごと」とは、社会のなかのまったく新しい現象のことである。わたしたちがふだん「ニュース」ということばで語っていることがらに見合う現象といってもよい。それはシステムを撹乱し、構造をゆるがし、不測の事態を招き、権力や人びとに脅威を与え、しばしば病理的である。それは「統計的な規則性のなかには含まれないあらゆる事柄」である。46たとえば、うわさによって生じたパニックであったり、地域紛争や大学紛争であったり、暗殺事件であったり、事故や流行や風潮である。それらは社会に対する既存の見方や考え方を大きくゆさぶる。それらでは十分解読できないからである。したがって、このような「現在形の領域」を研究するには、独特のフィールドワークが要請される。モランは「研究者の個人的な感性を抑圧するのではなく、むしろその感性に頼る」ことを含めた最大限の観察をおこない、場合によっては状況に介入することさえするべきだという。47

▼45 モラン、前掲訳書二〇九ページ以下。
▼46 前掲訳書三六六ページ。
▼47 前掲訳書二一五ページ。

 「現在形の領域」における社会学者の仕事は、その具体的作業においてはジャーナリストのおこなうルポルタージュとほとんど変わらない。ただ理論との通路が意識されているかどうかの差である。たとえば、社会学者の佐藤郁哉による『暴走族のエスノグラフィー』と、フリー・ルポライターの吉岡忍による『墜落の夏』を読みくらべてみても、たしかに想定された読者層のちがいによる文体のちがいや理論志向の有無はあるけれども、いずれも社会学的感受性を駆使して「できごと」の全体性と社会的意味を捉えようとする強い意志に貫かれている点で共通している。48

▼48 佐藤郁哉『暴走族のエスノグラフィー──モードの叛乱と文化の呪縛』(新曜社一九八四年)。吉岡忍『墜落の夏──日航123便事故全記録』(新潮文庫一九八六年)。

 現実との通路のない社会理論は無効である。社会学にはもっと生々しさが必要だ。蒸留されすぎているのではないか、哲学のように……と思うときがある。社会学はいま新しい資質を求めているといえるだろう。49

▼49 佐藤郁哉『フィールドワーク──書を持って街へ出よう』(新曜社一九九二年)。

公共哲学としての社会科学

 第二の方向性は「公共哲学」(public philosophy)として社会学を生かすことである。

 ロバート・N・ベラーとその共同研究者たちは、アメリカ人の個人主義を丹念に調査した『心の習慣』の付論のなかで「公共哲学としての社会科学」について述べている。この印象深い一節において、かれらが必要だと主張する「公共哲学」は次のような性格をもつ。

 第一に「同時に哲学的でも歴史的でも社会学的でもあるような創観的(synoptic)な見方」である。50第二に、それは「社会自身の自己理解あるいは自己解釈の一形態」であり「社会に向けて鑑を掲げる」ことである。51第三に、それは価値をあつかう。「こうした社会科学は、現在ばかりでなく過去もまた探ることによって、また『事実』と同じほどに『価値』にも目を向けることによって、定かには見えない連関を見出し、困難な問題を提示することができる。」52第四に、それ自身が対話的なコミュニケーションの実践である。「公共哲学としての社会科学は、たんにその発見物が学者世界の外の集団や団体にも公共的に利用可能あるいは有用であるから『公共的』だというのではない。それが公衆を対話へと引き込むことを目指しているから『公共的』なのである。」53

▼50 ロバート・N・ベラー、R・マドセン、S・M・ティプトン、W・M・サリヴァン、A・スウィドラー『心の習慣──アメリカ個人主義のゆくえ』島薗進・中村圭志訳(みすず書房一九九一年)三五八ページ。
▼51 前掲訳書三六二ページ。
▼52 前掲訳書三六二ページ。
▼53 前掲訳書三六四ページ。

 このような「公共哲学としての社会科学」に対して「狭く職業的な社会科学は、無能というよりも無関心であった」という。54シュッツの用語でいえば「専門家」としてではなく「見識ある市民」として研究することに現代の社会科学者は関心をもってこなかったことを反省しているのである。

▼54 前掲訳書三五八ページ。

 かれらが社会学者であるのはおそらく偶然ではない。社会学にはそうした水脈がたえず流れていたのだから。たとえば、一九五九年にC・ライト・ミルズは次のように述べていた。「個人的問題をたえず公共の問題に翻訳し、公共の問題をそれがさまざまの人びとにとっていかなる人間的意味をもつのか、という形に翻訳すること、それが社会科学者の──すべての教育者にとっても同じであるが──政治的任務である」と。55ベラーたちと、社会学は「一種の公共的な知的装置」であるというミルズのこの考え方とは根は同じである。56本書で頻繁に引用してきたミードやグールドナーやハバーマス──わたしはそれを「反省的知識の系譜」と呼んできた──もこの水脈に属している。

▼55 C・ライト・ミルズ『社会学的想像力』鈴木広訳(紀伊国屋書店一九六五年)二四六ページ。
▼56 前掲訳書二三七ページ。

 極度に専門分化した社会科学をそれはそれとして生かしながら総合し、トータルに社会のあり方を考察し、よく磨かれた鏡のように自分たちの社会を映しだし、人びとの反省能力を高め、人びとのあいだに合意形成の意思をもった対話を誘発する知識──公共哲学としての社会科学とはこのようなものであろう。個別領域ではなく全体社会を対象とする社会理論の意義もここにある。ハバーマスがいうように「社会理論が自らの固有の力でなし得ることは、凸レンズがもつ光線集束の力に似ている。社会科学がもはやいかなる思想を燃えたたせることもできないとしたら、その時こそ社会理論の時代は終りを告げることになるだろう。」57

▼57 ハーバーマス『コミュニケイション的行為の理論(下)』四〇〇ページ。

 最後に、グールドナーの印象的な一節を引用して、このリフレクションの旅を終えたいと思う。この錯綜した旅にここまでつきあっていただいた読者にはかれの真意を理解していただけると思う。社会学が一種の公共哲学として思想的意義をもつ科学であるのは、おそらくこのような意味においてである。

 「社会学の再生は、無論のことながら、社会の再建の一側面をなすものである。明らかなことは、われわれは社会に関する自分たちのきまりきった考え方を批判的に改めないかぎり、社会を再建することはできないということである。それと同時に私が言いたいのは、われわれが新しい社会を欲する理由のひとつは、その社会のなかでなら、人々は嘘や幻想や虚偽意識といったものなしによりよい生活を送ることができるかもしれないという点にあるのだ。われわれが欲している新しい社会とは、なによりもまず、人々がおのれ自身と自分たちの社会的世界とがいかなるものであるかを、よりよく理解し話すことができるような社会である。言いかえるなら、新しい社会の目標とするところは、ある程度までは、新しい社会学を産み出すことにあるのである。」58

▼58 A・W・グールドナー『社会学のために(上)──現代社会学の再生と批判』村井忠政訳(杉山書店一九八七年)一四六ページ。
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