Socius  ソキウス   著作+制作 野村一夫
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リフレクション

第六章 高度反省社会への課題
一 コミュニケーションの透明性と対称性の獲得

現代日本社会における自省

 理想的コミュニケーション共同体である市民的公共圏の理念に、現代の日本社会はどこまで迫っているだろうか。あるいはその可能性はあるのだろうか。この章ではこの問題について具体的に考えてみたい。

 さて、井上俊は近代の日本文化を総観的に分析した論文のなかで、文化の基本的機能として「適応」「超越」「自省」を挙げている。1「適応」とは現実の利害関係に実用主義的にあわせていく働きであり、「超越」とは理想や理念を掲げてそれを追求する働きである。これらに対して「自省」は「みずからの妥当性や正当性を疑い、みずからそれについて検討する機能」「その文化がよしとする理想や価値をも疑い、相対化する力」のことである。2かれはこの三つの機能的要因の拮抗として近代の日本文化を見ていくのであるが、戦後の場合「自省」がはっきり認められるのは一九七〇年前後の数年間だという。

▼1 井上俊「日本文化の一〇〇年──『適応』『超越』『自省』のダイナミクス」『悪夢の選択──文明の社会学』(筑摩書房一九九二年)。
▼2 前掲書九四─九五ページ。

 たしかにこの時期は、六〇年代の高度経済成長の副産物として公害問題が次々に顕在化し、被害者救済運動が急速に盛り上がった時期であり、安保闘争、学園紛争、消費者運動など、既成の日本社会のあり方を問うさまざまな動きが格段に強くなった時期でもある。

 しかし、その後の二〇年あまりの期間に文化の再編と安定化が進み、「適応」が強くなり、「超越」「自省」が衰弱・変質し、三者間のバランスが崩れてしまったと井上は診断する。つまり、戦後の啓蒙主義的理想主義がほとんど解体し、人びとが「きれいごと」と感じてしまうようになった。むしろ身近な利害関心に即したものごとが歓迎される状況が醸成されている。この価値意識をよくあらわしているのが「ノリ」ということばである。一般に近年の若い世代は「ノリ」にこだわり、「ノリが悪い」のを嫌う。井上は、このような「ノリの文化」について次のように述べる。「もともと、ノリとは、人が周囲の状況や他者としっくり適合し、したがって自意識や反省の作用から解放されて、のびのびと動ける状態をいう。その意味で、ノリの文化は、適応要因と結びついている一方で自省要因を排除する面をもっているともいえる。」3もちろんこれはひとつの側面にすぎないが、さまざまな要因によって結果的に現状肯定的な傾向が強くなり、文化全体が「適応」に一元化してしまった。これが現代日本文化の状況だという。4

▼3 前掲書一〇四ページ。
▼4 前掲書一一七ページ。

 井上の論文は一九八九年の時点で発表されたものだから、ここで「ノリの文化」といわれているのはほぼバブル時代の風潮をさしていると見られるわけで、ここ五年間の変容が語られていないのは当然である。リクルート事件からバブル崩壊・平成不況・リストラ・政権交代といたる近年の流れのなかで、日本文化の「自省」が一九八九年前後から顕在化しつつあるとわたしは考えている。

 すでにわたしは序論で「臨界の兆候」として現代日本の「自省」の必要性を示唆しておいた。それらは「兆候」というよりもむしろ「危機」というべきだったかもしれない。ほんとうの危機とは当事者が危機と感じていないところにこそあるのだから。しかし、そこには部分的ながら自己批判や自己点検のすでにはじまった領域もあれば、たんなる萌芽にすぎない領域もある。社会には、もともと「自省」の傾向の強い社会領域もあれば、そうでない直進的発展の支配的な社会領域もあるだろうから、一刀両断の時代診断を下すわけにはいかない。この節では、それらのなかから、反省的コミュニケーションが焦点になって久しいいくつかの領域を検討して、今後の方向性を探っていくことにしよう。

ディスクロージャー

 最初に検討したいのは「知る権利」の行使に関するさまざまな動向である。民主主義であるためには、政治的決定や経済的決定をするさいに、その影響を受ける者が有効な声をあげることができなければならない。その声をあげるには、まず何よりも「知る」ことが必要である。しかし、わたしたちが「見識ある市民」として必要な知識を手に入れようとしても、じっさいにはたいへんなコストがかかるだけでなく、まったく入手不可能なケースも多い。これを改善しなければ市民的公共圏どころではない。知識の社会的配分の偏在性を解消すること。そこで注目されるのが「ディスクロージャー」である。

 「ディスクロージャー」(disclosure)は、これまで「情報公開」「情報開示」と訳されてきた。最近はたんに「開示」やこのようにカタカナ表記されることが増えてきているようだが、法律的な議論では「情報公開」「情報開示」が一般的に用いられている。ちなみにゴルバチョフが始めた「グラスノスチ」はこれを拡張したような政策だった。

 ディスクロージャーがとくに問題になるのは、政治権力・行政権力・企業(経済権力)である。前二者の場合、国家と地方自治体とで事情は大きく異なる。地方自治体では一九八〇年代に急速に情報公開条例が施行されているのに対して、国の情報公開法は今だに実現していないからだ。企業の場合も相当遅れている。こちらには「企業秘密」という名分があるからだ。しかし、安全や環境など社会的責任のある分野については行政の監督下にあるわけだから、行政のディスクロージャーでかなりの部分が解明できるはずである。その意味でも、国家行政のディスクロージャーが決定的に重要である。

 地方自治体から情報公開が制度化されたのには事情がある。八木敏行によると、情報公開運動が盛んになった背景には三つの動機があった。

 第一に、一九六〇年代にあいついで生じた公害・環境破壊・都市問題・消費者問題などで日本各地に草の根的な市民運動・住民運動が権利救済を目的に起こり、それらが行政や企業に対して情報公開を求めるようになったこと。これが「第一の起爆剤」である。第二に、一九七二年の「外務省機密文書漏洩事件」によって「知る権利」がクローズアップされ、一九七六年のロッキード事件や一九七八年末のダグラス・グラマン事件など一連の航空機疑惑が政治や行政の密室性を問題化し、開かれた政府と情報公開が求められた。第三に、地方自治への参加の要請がある。一九七三年の石油ショック以後の経済成長優先主義への反発・脱物質主義・地方回帰・コミュニティ復権の流れのなかで「地方の時代」ブームが起こった。そこで地方の自治・参加・分権を志向する議論が活発になり、情報公開条例が次々に実現することになる。5

▼5 八木敏行『情報公開──現状と課題』(有斐閣一九八六年)「序論 いまなぜ情報公開か」とくに三五─三七ページ。

 このように情報公開制度はこれ自体すでに日本社会の「自省」の産物である。「見識ある市民」による運動によって主体的につくられたものだ。現在は地方自治体にとどまっているこのディスクロージャーの流れを国や企業におよぼすことが今後の課題であるが、またさらに医療現場や学校・大学など、公開性の原則をさまざまな分野に拡大適用していくことも忘れてはならない。

 ところで「情報公開法」によって何がわかるのだろうか。たとえばアメリカの情報自由法(the Freedom of Information Act: FOIA)によって引きだされた開示事項の数々を分類した「フォーマー・シークレット」は以下の項目を立てている(なおカッコ内は補足説明ないし事例)。(1)消費財の安全(欠陥商品の発見)、(2)薬の安全性・政府の人間行動コントロール(食品医薬品局へ提出された製薬企業の新薬データによる危険性の発見と新薬の人体実験の公開)、(3)環境と原子力(放射性廃棄物や殺虫剤の処理状況)、(4)不正行為・浪費・政府の支出(納税者による監視)、(5)労働者と市民の権利(差別待遇の実態)、(6)ビジネス(食品薬品局などによる企業査察報告書を企業が開示請求し情報収集に利用)、(7)歴史(現代史的研究)、(8)外交と国防、(9)政治的活動への政府の介入(FBIやCIAによる諜報活動の実態)、(10)税(国税庁の活動を知る)。6

▼6 自由人権協会(編)『情報公開法をつくろう──アメリカ情報自由法に学ぶ』(花伝社一九九〇年)一二三─一六五ページ。

 このように行政の情報公開法(条例)によって相当の知識を社会的コミュニケーションに乗せることができるのである。八木のまとめによると、情報公開は権利救済・監視と批判・行政参加・情報利用の四つの機能を果たすという。だれもがこのようなチャンスをもっているとすれば、たとえば公害企業が企業秘密をたてに重要な情報を独占・隠蔽するといったことは無意味になる。そもそも企業が情報を独占・隠蔽するのは、被害者をふくむ当事者たち──かれらはすでに事実を少なくとも体験的に知っている──以外の第三者にそれが伝わって、企業の信頼やイメージが損なわれたり、経営に響くのを怖れるからである。それが行政サイドから流れるとすれば、独占・隠蔽の効果がないだけでなく、かえって企業イメージを損なうことになってしまう可能性さえ生まれる。

 ここでひとつの理想を描くと、企業が内部情報を白書のように公開することによって社会的責任を果たし、消費者がそれを信頼性として高く評価することによって、結果的に企業のシェアを上げることになれば、日本の閉鎖的な企業文化も開放的なものに変わっていくだろう。消費者の成熟に対応して、広告戦略やイメージ戦略一辺倒の企業コミュニケーション政策を見直しする時期もそう遠くないかもしれない。けれどもしばらくは試行錯誤がつづきそうである。7

▼7 近年、企業社会において問題になっている「ディスクロージャー」は証券取り引きのさいの開示のことであり、きわめて狭い概念であるので注意してほしい。なお、日本の実情については、朝日新聞情報公開取材班『日本での情報公開──開かれた政府を』(朝日新聞社一九八一年)。十年以上前の本だが、残念ながら今だに通用する記述が多い。

マス・メディアの両義性

 さて、とりあえず現時点で自発的なディスクロージャーがないとなれば、だれかが意識的に開示・公開する作業をしなければならない。ここで「知る権利の代行」が必要となる。それが厳密な意味でのジャーナリズムである。現在では、それはもっぱらマス・メディアの仕事になっているが、市民運動グループが代行することもふえている。しかし社会的に大きな影響をおよぼすとなれば、何らかの形でマス・メディアが関与しなければならない。

 すでに述べたように、現代人のコミュニケーションは「メディアを媒介にした相互作用」になっているため、コミュニケーションが当事者たち(送り手であろうと受け手であろうと)の意図をこえてメディアの自律性によって左右される。つまりメディア自体のさまざまな事情によってコミュニケーションが大きく変容してしまうのである。とりわけマス・コミュニケーションは技術的な要素だけでなく、市場原理や経営方針といった経済的要素や、政府の許認可や行政指導などの政治的要素が濃厚にコミュニケーション内容を規定し、またそこで働く人たちの意識や知識のありようにも大きく左右される。

 現在のマス・メディアの抱えるもっとも根本的な内部事情は「総合情報産業化」である。社会が複雑化してジャーナリズムの機能強化がますます必要になっているにもかかわらず、マス・メディアの総合情報産業化によって、ジャーナリズムは慢性的な危機状態が続いている。8

▼8 石坂悦男・桂敬一・杉山光信(編)『メディアと情報化の現在』(日本評論社一九九三年)に収められた二本の論文を参照。塚本三夫「『高度情報社会』における情報操作の問題──マス・メディアの総合情報産業化は何をもたらすか」ならびに柳井道夫「情報化と世論──環境認知の視点から──情報の受け手が遭遇する情報環境の変化」。

 「ジャーナリズム」と「総合情報産業」のどこがちがうかといえば、前者が権力をもつ側──政治権力であれ経済権力であれ専門家の権力であれ──に対するチェック機能を主軸とするのに対して、後者は「経済的価値を生む情報」を売るわけだから結果的に権力をもつ側によって発表された情報を市場に供給することになる。前者が権力作用に抵抗するコミュニケーションだとすると、後者は権力作用に内在するコミュニケーションであり、ディスコミュニケーションの再生産になりがちである。そしてマス・メディアにおける総合情報産業化の傾向とジャーナリズムの衰退は、「権力のことば」「消費のことば」の過剰な流通をもたらすことになる。

 このような送り手の事情がある一方で、ジャーナリズムそのものに対する受け手側の不信も募っている。誤報・やらせ・センセーショナリズム・集中豪雨的取材・マンネリ・難解……。これらの不信は、ともすればPTA的な「俗悪」マスコミ批判・自民党関係者やタカ派文化人の「偏向報道」批判・「法律で取り締まれ」という「お上意識」の強い庶民による強権発動待望論などを誘発する。今日ジャーナリズム批判をすることのむずかしさはここにある。

 しかし、一九八〇年代末あたりからテレビにおいてニュース戦争が過熱し、現在に至っている。これまでテレビ局において「ニュースは金食い虫だ」との声が常識だったのが、テレビ朝日の「ニュース・ステーション」の成功をきっかけに、ここにきて市場原理が働くようになったのである。なぜかというと、多くの受け手が支持するようになったからである。支持が多ければ視聴率も上がりスポンサーもつく。この受け手の支持こそ日本社会の「自省」のあらわれと見ることができる。その意味で、政界のドンの逮捕、建設業界の談合や政界工作の摘発、政権交代といった一連の転換劇はこのニュース戦争と一体のものである。9

▼9 ただし、テレビ・ニュースの論調がこれらの動きを誘発させたわけではない。

 しかし一方でこれさえもテレビ朝日の椿報道局長の証人喚問に見られるように、政治権力による露骨な圧力が加えられる。送り手も受け手もマス・メディアの両義性(相反する特質を同時にもつこと)をしっかり認識することが必要だ。その上でリフレクションを活性化させるようなコミュニケーション制度の構築をめざすべきであろう。

専門家支配とインフォームド・コンセント

 「コミュニケーション」というとマス・メディアの話、「知る権利」というと法律の話、「民主主義」というと政治の話と決めつけないでほしい。これらが絡む現場はわたしたちの社会のじつにさまざまな領域に広がっている。その一例として医療現場を検証してみよう。

 まず医療現場の人間関係を極度に単純化して、医者と患者の関係にしぼって考えたい。サスとホランダーの有名なモデル化によると、医者(あるいは治療者)と患者の関係には三つのタイプがありうる。まず第一に「能動−受動の関係」(activity-passivity)あるいは「親−幼児モデル」。これは重傷・大出血・昏睡などによって患者が自分で何もできない状態にあるとき、医者が患者の「最善の利益」を考えて処置するさいの関係である。第二に「指導−協力の関係」(guidance-cooperation)あるいは「親−年長児モデル」。患者が、何がおこっているかを自分でもよく知っており、医師の指示にしたがう能力も、ある程度の判断を下す能力ももっていて、病気をなおすために積極的に医者に協力できる段階の関係である。第三に「相互参加」(mutual participation)の関係あるいは「成人−成人モデル」。糖尿病や高血圧などの慢性疾患に妥当するタイプ。この場合、患者自身が治療プログラムを実行するわけで、医師は相談にのることによって患者の自助活動を支援するだけである。10

▼10 H・E・フリーマン、S・レヴァイン、L・G・リーダー編『医療社会学』日野原重明・橋本正己・杉政孝監訳(医歯薬出版一九七五年)二七五─二七七ページ。園田恭一・米林喜男編『保健医療の社会学――健康生活の社会的条件』(有斐閣選書一九八三年)一六五─一八二ページ。砂原茂一『医者と患者と病院と』(岩波新書一九八三年)四五─五〇ページ。

 第一と第二のタイプは程度の差こそあれ基本的にパターナリズムに基づいている。もともとパターナリズム(paternalism)とは、一家の主である父親(あるいはこれに類する成人男性)が責任をもって家族のめんどうを温情的にみることに由来するが、その分、父親は家族に対して絶対的権威をもって臨み、ひとりひとりの自由や意志を尊重しない。一種の押しつけ的干渉である。

 第一と第二のタイプは医者がこうしたパターナリズムを患者に対しておこなうケースである。したがってそこに患者の自律──あるいは自主性といってもいい──は認められていない。患者は治療者のいうなりにしなければならない。なぜか。治療者は専門的な知識と技術をもっているからである。しかも、かれらは患者のために必ず最善をつくすということになっている。親が子どものために最善のことをしてくれるのと同じように。つまり、この前提には「専門家は自分たちにとってもっともよい対策を知っていて、かならずクライアントの利益のためにそれを代行してくれる」という常識的知識が存在する。患者の自発的服従の前提には、このような一種の「信頼」がある。ところが、その委任によって患者の自律性(自分のことを自分で決めること)は失われてしまいがちである。医者の裁量権の名の下に、患者の望まない治療が承諾なしにおこなわれたり、治療を受けている患者が自身の身体に生じている事態を知ることができないといったことが生じる。この傾向は日本の場合とくに顕著である。患者は何も主張せず、医者は患者に主張されるのを極端に嫌う。

 このような状況を社会学では「専門家支配」(professional dominance)と名づけている。11わたしたちの社会では特定の分野について専門的な知識と技術をもつ人びとが実質的なイニシアティブをもっている。それに対して、しろうとは口だしできないのがふつうである。それはある人びとの自律性のために他の人びとの自律性が犠牲になるという不均衡な状況の典型であり、それゆえ権力作用の有力事例となりえる。

▼11 エリオット・フリードソン『医療と専門家支配』進藤雄三・宝月誠訳(恒星社厚生閣一九九二年)第五章。

 これに対して近年「患者の権利」を求める運動が盛んになり、その有力な方法原理として「インフォームド・コンセント」が注目されている。12「インフォームド・コンセント」(informed consent)は、以前は「説明と同意」と訳されたが、最近は「よく知らされた上での同意」と訳される。要するに、医者から治療に関する説明を受けた上で、患者がそれをよく理解し、そののちに同意するという手続きのことである。その基本原理は「リスクを伴ったり、別の方法があったり、または成功率が低いような治療や処置について患者に同意を求めるにあたっては、あらかじめ、しかるべき情報を提供しなければならない」というものである。13この場合の「同意」は「判断能力のある人が、自発的に、情報と理解にもとづいて行なうものでなければならない。」14つまり患者に完全な成人性が前提され、しかも「コミュニケーション合理的」な討議が十分になされていることを要請しているのである。

▼12 以下の説明では次の文献を参照した。水野肇『インフォームド・コンセント──医療現場における説明と同意』(中公新書一九九〇年)。星野一正『医療の倫理』(岩波新書一九九一年)。ジョージ・J・アナス『患者の権利』上原鳴夫・赤津晴子訳(日本評論社一九九二年)。砂原茂一、前掲書。
▼13 アナス、前掲訳書三五ページ。
▼14 前掲訳書四一ページ。

 インフォームド・コンセントは「見識ある市民」「自省的市民」を医療現場に持ち込むことを意味する。知識に関して「医者は専門家・患者はしろうと」の図式をはみだして、患者が自律した事情通・ジャーナリスト的存在として行為すること、そして対等の医者─患者関係(成人─成人モデル)をつくりだすこと、診療室をコミュニケーション共同体にすること、病院を市民的公共圏にすること──それが「インフォームド・コンセント」が前提としている思想なのである。15

▼15 以上は原則論であって、末期ガンの告知などの複雑な問題が他方にある。しかしそれらを考える上でも原則の確認は不可欠である。またじっさいにインフォームド・コンセントが普及しているアメリカでは「ディフェンス医療」などの新しい問題も生じており、ことはそれほどかんたんではない。このあたりのくわしい議論については、水野肇、前掲書。

 序論において「臨界の兆候」として取り上げた院内感染の問題に立ち返ると、夫を亡くした妻が「自省的市民」として医療現場で常識とされている知識と行為を問い直すことによって、医療にリフレクションを吹き込むことになった。それは一見「反医療」に見えるけれども、じっさいにはむしろ医療に主体的に参加していこうとする自発的な意志のあらわれなのである。また、第三章で紹介したように、スモン事件の被害者が裁判闘争の目標に「薬害根絶」を掲げ、確認書和解という特異な結末を引きだしたのも、「見識ある市民」「自省的市民」としての行為といえるだろう。

 結局、インフォームド・コンセントとは、劣位の立場に置かれている側に成人性を認めて、非対称的なコミュニケーションに対称性を取り戻す試みである。その意味では、わたしはインフォームド・コンセントを拡大解釈したい誘惑に駆られる。たとえば教育関係者。もちろん大学教員も例外ではない。医療と同じことが教育にもいえるのではないか。どちらも専門家支配の確立した世界だからである。とくに成人を対象とする大学教育においては、単位評価認定基準を公開することからすべては始まるのではないか。「単位評価は学問そのものにくらべれば二次的なもの」として軽視し、そればかりを気にする今どきの学生を嘆きながらも、じっさいには単位評価をブラックボックス化することで一種の権力源泉として効果的に利用している教員のあり方は、このさい問い直されてよいのではあるまいか。そして医療において患者の成熟(成人化)が重要なカギをにぎっているように、依存体質の強い学生の成熟も重要であろう。

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SOCIUS.JPドメインへの初出 7/18(thu), 2002  
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