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リフレクション

第五章 コミュニケーション論の視圏――〈反省する社会〉の構造原理
一 コミュニケーション論へ

脱物象化とコミュニケーション

 社会学的なリフレクションはたんに「意識を高める」といった啓蒙主義的レベルでは終わらない。そこまでなら「自分を知るための哲学」で十分であろう。しかし、わたしたちが生きている現代社会は、そのような主観的な覚醒によって調整できるような牧歌的な光景ではもはやなく、わたしたちの生のすべての局面を巻き込む複雑きわまりない活動の複合体である。わたしたちの意識も人格形成もさりげない挙動でさえもこの社会の権力作用の網の目にからみとられているわけで、ドライな認識をもつかぎり、素朴な「哲学的啓蒙」でことたれりとするわけにはいかない。リフレクションの実効性の観点から見れば、哲学の時代は終わり、すでに社会学の時代になっていると思う。ただし知識と社会的条件のあいだにはタイム・ラグがつきものだという例にもれず、哲学はなお多産なのに対して社会学はいまひとつ出遅れているとの感はいなめないが……。

 さて、前章では、わたしたちの行為が生みだす権力作用の局面に着目して検証してきた。そして権力作用が社会のコミュニケーションのありようによって固定され自明視されていることを確認してきた。ディスコミュニケーションによって物象化的錯視が固定される。しかしリフレクションの理論系譜によれば、脱物象化の可能性もやはりコミュニケーションにある。コミュニケーションという概念は、もともと特定の理念をふくんでいて、脱物象化はこの理念──それはしばしば潜在化しているのであるが──を現実のコミュニケーション過程に顕在化させることによって可能になると考えるのだ。結局わたしたちはコミュニケーションに立ち返らざるをえない。とりわけコミュニケーションの潜在的な力に。

 伝統的なマルクス主義に依拠する従来の社会理論によく見られた、抑圧された現実から一挙に解放されることをめざす疎外論や、フロイト主義を加味した「抑圧─解放図式」はもはや有効ではなくなっている。そうではなくて、わたしたちのコミュニケーションの風通しをよくすることによって、つまり社会におけるコミュニケーションの反省作用を活性化させることによって、たえず問題状況を陽の当たるところにおき、社会を改訂しつづけるためのメタ環境を整備しておくことの方が実効性は高いのではないか。その意味で総じて現代社会学はユートピア的革命路線に対して概して批判的である。しかし、かといって素朴で反主知主義的な現実肯定主義に与するものでもない。やはりそこには現実内在的であると同時に現実超越的な理念もしくは思想が存在する。その方向性を本書ではこれまで「脱物象化」という包括的概念によって示してきた。いうまでもなくこの概念はあまりに粗雑であり、より具体的な議論を必要とする。本章ではこの点に焦点をあわせて脱物象化の視界について説明していきたい。

コミュニケーション論的社会像

 コミュニケーションの理想的局面に理論的根拠をあたえたのはミードである。かれのコミュニケーション論は現在でも社会理論のひとつのゼロ地点である。ゼロ地点とは、すべてがそこから始まるということであるとともに、十分には洗練されていないけれども、いつでもそこへ戻って思考を再開すべき場所であることをさしている。さっそくミードの理想的社会像が集約的に表現されている部分をかれの有名な講義録『精神・自我・社会』から引いてみよう。

 「人類社会の理想は、人びとをその相互関係において緊密に結びつけ、そうすることで、自分の特殊な機能を行使している人びとに自分が影響を及ぼしている人びとの態度を採用できるようにするコミュニケーションという必須のシステムを十分に発達させることである。コミュニケーションの発達は抽象観念の[交換という]問題にとどまらず、有意味シンボルを通してコミュニケートし、他人の態度の位置に自分の自我を置く過程でもある。他人に影響を及ぼす身振りがまったく同様に自分自身に影響を及ぼすという事実こそが、有意味シンボルの本質だったことを想起しよう。他人に与えた刺激が自分自身にも同一もしくは同様の反応をひきおこしたときにだけ、シンボルは有意味シンボルである。人間のコミュニケーションはこういう有意味シンボルをとおしておこる。だから、それを可能にする共同体をどう組織化するかが問題である。もしもこのコミュニケーション・システムが理論的に完全にできていたら、人は、どんなふうに他人に影響を及ぼしても、それと同じ影響を自分自身に及ぼすにちがいない。どこでもそれが理解される論理的宇宙で到達される理想である。そこで話されたことの意味は、他のすべての人にとってと同様に、どの人にも同一である。したがって話想宇宙が、コミュニケーションの形相上の理想である。」1

▼1 ジョージ・ハーバート・ミード『精神・自我・社会――社会的行動主義者の立場から』稲葉三千男・滝沢正樹・中野収訳(青木書店一九七三年)三三九─三四〇ページ。ただし一部訳注を省略。

 ミードの議論はそれなりに明解なのだが、その即物的なまでにプラグマティックな発想──かれはそれを「社会的行動主義」(social behaviorism)と呼ぶ──がわたしたちの常識的思考になじまないため、理解するのにたいへん苦労する。このままでは多くの読者にとってここが〈つまずきの石〉になる怖れがありそうだ。そこで現代人のコミュニケーションに即して、ここで述べられているかれの考え方を徹底的にほぐして説明してみよう。これまでもそうだったが、ここでも「原典に忠実な解釈」からはいったん身を退いておきたい。

コミュニケーションの三水準

 わたしたちのコミュニケーションは質的に大きく異なる三つの水準として分析することができる。第一水準は「身ぶりに媒介された相互作用」第二水準は「記号に媒介された相互作用」第三水準は「メディアに媒介された相互作用」である。ちなみに「相互作用」(interaction)は「相互行為」とも訳される。本書では「相互作用」に訳語を統一してある。

 コミュニケーションのもっとも原初的な水準をミードは「身ぶり会話」と呼ぶ。人間Aの身ぶりPに対して人間Bが身ぶりQの反応をしたとき、人間Aは身ぶりQに対して反応してRという身ぶりをする。これがコミュニケーションの最小単位である。つまりお互いの身ぶりに反応しあって身ぶりを交しあうことがコミュニケーションなのである。この場合、共通のことばも知能もいらない。だから動物たちにもコミュニケーションは生じているし、次のようなケースも考えられる。「外国人が向こうから近づいてくる。語学の苦手なわたしはそれを見て思わずうつむいてしまう。それを察知した外国人は、わたしに道を尋ねるのをあきらめる。」この場合、コミュニケーションは始まっていないように見えるかもしれないが、ミードのいう身ぶり会話の水準では、すでに終わっていることになる。「近づいてくる」という外国人の身ぶりに対して「わたし」が「うつむいてしまう」という身ぶりを反応としてしてしまったために、外国人は「道を尋ねるのをあきらめる」という反応をしたのだから。このようにコミュニケーションの第一水準においては、送り手の意図や思惑とは関係なくコミュニケーションは事実的行為の反作用(じっさいのふるまいに対して、じっさいのふるまいで応えること)として進行する。相手(わかりやすく「受け手」と呼んでもよい)がどう反応したかが、現実に生じたコミュニケーションの「意味」なのである。この場合の「意味」は観念でもなければことばでもない。相互作用に客観的に存在する相手の反応そのものである。

 ところが人間の場合は他の動物とちがって特殊な身ぶりをすることができる。その身ぶりとは「音声身ぶり」すなわち話しことばの使用である。この音声身ぶりが他の身ぶりとちがうところは、自分の身ぶりが相手に引き起こす反応とほぼ同じ反応を自分のなかにも引き起こすことができることにある。なぜなら話しことばは相手にも届くが、同時に自分にも聞こえるからである。つまり自分がひとりの人間に話しているとき、それを聞いているのは目の前の相手だけでなく、相手と自分の「ふたり」なのである。この場合、自分の身ぶりによって生じた相手の反応の身ぶりをまるで自分の身ぶりの解釈であるかのように理解することが可能になる。たとえば「ダメ!」という音声身ぶりと、それが相手に引き起こす反応とがひと組の「記号と意味」として認識される。ミードはこれを「有意味シンボル」(significant symbol)と呼ぶのである。これがコミュニケーションの第二水準であり、人間的な反省的コミュニケーションの水準である。

 しかし、現代人のコミュニケーションがこの水準にとどまらないのは実感として自明である。わたしたちはしばしば何らかのメディアを使ってコミュニケーションをおこなう。それは手紙かもしれないし電話かもしれない。ラジオやテレビであることもあるし、カラオケやギターであるかもしれない。とにかくいえることは、現代人のコミュニケーションは「メディアに媒介された相互作用」だということだ。これをコミュニケーションの第三水準に位置づけよう。

 おおむね以上の三つの水準が重層的に積み上がることによって、わたしたち現代人のコミュニケーションは成立していると考えることができる。たとえば、恋人たちの深夜の長電話は、まず、電話というメディアを媒介したコミュニケーションである(第三水準)。つぎに、話しことばによって、相手にほぼ伝わるであろう意味を自分自身で確かめながら話しつづける、という点で第二水準のコミュニケーションである。しかし、最終的には、自分がしゃべったことばは、相手によって、その声の質や話し方・積極性や通話時間(時刻も)など、電話によって確認できるすべての身ぶりとともに照合されつつ解釈されてしまう身ぶりの一要素として、現実の相互作用過程に投げ出される刺激にすぎない。それは当人によってさえもコントロールできない本質的に偶発的な性質を帯びている(第一水準)。

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