Socius  ソキウス   著作+制作 野村一夫
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リフレクション

第四章 権力作用論の視圏――反省を抑圧するコミュニケーション
二 排除現象──匿名の力

さまざまな排除現象

 権力作用があきらかにはっきりと目に見える形で暴力的な実体をあらわすのは排除現象すなわち「スケープゴーティング」(scapegoating)である。一六〇〇年前後の一世紀にピークを迎えた、中世末期のキリスト教世界における魔女狩りなどはその代表的な歴史的事例であるが、これを「啓蒙されざる愚かな人びとの所業」などとあなどることはできない。二〇世紀にもこれ以上の大量排除現象が何度も生じている。ナチズムによるユダヤ人の大量虐殺(「ホロコースト」)、スターリン時代のソビエト連邦における「トロツキスト」「修正主義者」の排除(「粛正」)、 戦前の日本では関東大震災のさいの朝鮮人虐殺や戦時中の「国賊」「非国民」の排除、第二次世界大戦後のアメリカにおけるマッカーシズムの「アカ狩り」(レッドパージ)、ポルポト政権下のカンボジアにおけるベトナム人や知識層の大量殺人……。

 いずれも政治的権力闘争や戦争や災害の存在が直接間接の背景になっているとはいえ、これらは敵国人との戦闘によってひきおこされた悲劇でないことに留意しなければならない。すべて「内なる敵」「内なる他者」に向けられた現象である。つまり、少し前まで同じ生活圏で暮らしていた人びとに排除の矛先が向けられたのである。なぜか。同じ社会・同じ集団にいる人間であるからこそ、社会や集団の内部矛盾が「内なる敵」に投影でき、かれらを排除することによって社会や集団の「浄化」が効果的に可能になるからだ。

 スケールはちがうが、この点では教室におけるいじめも同じ構造をもっている。いじめも「いけにえをつくり出すことで集団的にまとまり、その中で安心し、さらにいけにえにすべての欠陥を転嫁(投影)することで自らを浄化しようとする"儀式"」だからである。15ここにもスケープゴーティングの構造が存在する。

▼15 間庭充幸『日本的集団の社会学――包摂と排斥の構造』(河出書房新社一九九〇年)一三一ページ。

 企業社会も同様の構造をもっている。日本の場合、高度経済成長期に入るあたりからテーラー・システムあるいはインダストリアル・エンジニアリングが大企業に導入された。それによって労働の単純化と職場集団の崩壊が生じた。労働者のアトム化である。これに相即して能力主義的競争をそそる労務管理が徹底され、人事考課と査定の圧力もあって、日本の労働者は「自発的に」会社側の要請に同調するようになる。いわゆる会社人間である。このような会社人間への傾斜が職場の雰囲気を強く規定している場合は、結果的に、そう考えない人を異端として排除することになってしまう。16

▼16 熊沢誠『新編 民主主義は工場の門前で立ちすくむ』(現代教養文庫一九九三年)二三─二九ページ。熊沢誠『日本的経営の明暗』(筑摩書房一九八九年)も参照されたい。

 労働問題の専門家である熊沢誠は、企業のなかで問題となるケースとして次のリストを掲げている。17

▼17 熊沢誠『新編 民主主義は工場の門前で立ちすくむ』五九─六〇ページ。

 これらが該当すると見なされた従業員は、さまざまな不利な待遇を受け、さらに「職場の同僚に迷惑をかけた」と見なされると差別待遇の対象となり、職場からの自発的退職を引きだそうと「職場八分」が展開される。こうなると、社内に助けを求めるのは完全に不可能になる。もちろん企業内組合も「八分」にする側である。18仕事への無限定的なかかわりを要求され、しかもそれが「自発的な」ものでなければならない。日本の労働現場の多くが、これを規律化した社会的空間となってしまっている。

▼18 前掲書。

 こうした背景にあるものを間庭充幸は「同調競争」と呼ぶ。「普通同調と競争が結びつくというときは、同調すべき目的(金銭、地位、あるいは天皇への忠誠、何でもよい)があって同調し、さらにその目的に早く近づくために競争する。それはまさに目的内容を介しての同調的競争、競争的同調である。しかしそれがある限界を超えると、かんじんな目的が脱落してしまい、同調という行為(多数者)自体への同調や競争が発生する。ある目的に向かっての同調や競争とは別に、皆がある目的に志向すること自体が価値を帯び、それへの同調と競争が新たに生まれる。」19

▼19 間庭充幸、前掲書五一ページ。

 権力作用は同調を呼び起こし集団の統合と秩序をもたらす。しかし「若干」の暴力的排除をともなうことによって。そして、その「若干」の視点から見てはじめて、権力作用が本質的に「構造的暴力」(structural violence)であることが認識できるのである。20

▼20 「構造的暴力」概念については、ヨハン・ガルトゥング『構造的暴力と平和』高柳光男・塩屋保・酒井由美子訳(中央大学出版部一九九一年)。

いじめの四層構造

 まったく規模の異なるこれらの社会現象を「排除現象」としてその同型性にあえて注目することは、いささか奇異に思われるかもしれない。しかし、権力作用とはそれらを貫通する構造論理であり、「ホロコースト」や「粛正」は過去の遠い国のできごとではなく、わたしたちの身近な生活の場に宿っていることを強調しておきたい。ちなみに、一見異質なさまざまな現象に同型性を発見するというこの手法こそ、かつてジンメルが「形式社会学」と呼んだものであるとわたしは考えている。それはアカデミックな分類法ではなく、むしろかなり過激な知的戦略であると思う。

 さて、そこで排除現象のしくみについて考えるために、排除の原型をしめす構造モデルとして学校内のいじめについて検証してみよう。

 現代のいじめは、大人たちが子ども時代に経験し、また現在想像できるものとはかなり異なっていて、複雑な様相を呈している。いじめの実態調査をした森田洋司によると、いじめの場面において学級集団は「加害者」「被害者」「観衆」「傍観者」という四層構造をなすという。いうまでもなく「加害者」はいじめっ子であり、「被害者」はいじめられっ子である。「観衆」とはいじめをはやしたておもしろがって見ている子であり、「傍観者」とは見て見ぬふりをしている子である。いじめの過程で重要な役割を果たすのは、じつは「観衆」と「傍観者」の反作用(反応)である。かれらが否定的な反応を示せば「加害者」はクラスから浮き上がり結果的にいじめへの抑止力になるが、逆に「観衆」がおもしろがったり「傍観者」が黙認するといじめは助長される。ほかに「仲裁者」という役割も存在するが、いじめの場面では極端に減少し、クラスは「四層化」されている場合が多いという。21

▼21 森田洋司「いじめの四層構造論」『現代のエスプリ』二二八号「いじめ・家庭と学校のはざまで」特集。

 さらにかれらの行動の基盤になる価値意識を調査してみると、かなりはっきりした傾向が存在するという。まず、学級集団の中心的価値に対して肯定的か否定的か、教師や生徒間の影響力に対して自立的か服従的か、このふたつの座標軸をクロスさせてえられる四象限を考えてみる。ここに四つの役割を位置づけてみると、「被害者」はふたつの象限にわかれている。ひとつは、学級の中心的価値への志向が強く、しかも力に対して服従的な「集団的統制管理受容型」(弱い子)である。権威や集団統制に従順な態度をもつことがかれらの弱さになっている。もし拒否的な態度をもっていれば対抗することも可能なはずである。もうひとつの象限は、学級の中心的価値への志向がなく、しかも力に対して服従的な「集団価値からの疎外型」(はみだしっ子)である。「いじめっ子」グループとの関係を断ち切れず──したがって「加害者」になることもあるが──追いつめられていく子がこのタイプである。それに対して「加害者」と「観衆」は「被害者」の対極の同じひとつの象限に属している。学級の中心的価値への志向がなく、しかも力から自立的な「集団的統制管理否定型」(強い子)である。かれらは自己中心的な欲求の満足を志向する傾向が強い。残りの一象限に「傍観者」がいる。学級の中心的価値への志向があり、しかも力から自立的な「集団価値への没入型」(よい子)である。じつは「仲裁者」もこの象限にいるが、かれらはより積極的でたくましさをもっているが、これに対して「傍観者」の子どもたちは「学級活動へはコミットしながらも『加害者』の意識と親和性を示すことによって『加害者』『観衆』の行動の意識基盤を暗黙のうちに支持し、傍観者としての身の安全を確保している。」このグループの特徴は大学進学を希望する者が多く成績もよいことである。22

▼22 森田洋司、前掲論文。

 森田らの調査によると、いじめの被害の大きさは「加害者」の数とは相関性がないという。いじめ被害の増大と相関するのはじつは「傍観者」の数である。「傍観者」が多くなるほど被害が多くなる。そして学年が上がるほど「傍観者」の数は多くなる。ここに現代型いじめの大きな特徴がある。23

▼23 森田洋司「いじめに四層構造」『朝日新聞』東京本社版一九九一年四月六日付夕刊4版。

 多くの排除現象の場合、わたしたちは「傍観者」であるか「観客」である。自分が直接の被害者にならないかぎり、けっして公共的問題に関与しようとせず、ひたすら私生活に引きこもる。現代の排除現象をしばしば悲劇的なものにしているのは、この傍観者的態度である。さきほど「相互共犯性」として述べたことは、たんに道義的に共犯だというのではなく、現実に排除現象の重要な要因になっているという厳密な意味で共犯なのである。そしてこれも「わたしたちが社会をつくる」ことのひとつの局面である。

逸脱の医療化

 排除現象は、事後的に見れば、あるいは外部から距離をとって見れば、それがいかに異常で感情的な悲劇であるかということがわかるけれども、内側からそれを的確に認識し、市民として冷静な判断を下すのは困難である場合が多い。すでに述べたように、排除されている側が異議申し立てしても、かえってそれを無効化する動きを活性化させるだけである。権力作用とはそのようなものなのである。

 異議申し立てを無効化し、排除を正当化する論理として、現代社会において重要な機能を果たしているのが「逸脱の医療化」(medicalization of deviance)である。「逸脱」とは「ふつうでないこと」「異常なこと」である。犯罪・非行・狂気・性的倒錯・極端な性格・極度の貧困・かたくなな宗教的信念などをさす。といっても「もともとこれは逸脱、あれはふつう」と決めつけることはできない。そのときその場所その社会で人びとが「ふつうでない」と非難するふるまいが「逸脱」である。他方「医療化」とは、これらの逸脱が一種の「病気」であると見なし、社会が──具体的には医療専門職が──「治療」しなければならないと考える傾向をいう。医療の視点から見ると、治療対象の拡大を意味する。

 人間の歴史において逸脱はさまざまな隠喩図式によって表象されてきた。徳岡秀雄によると、古代においては「体液もしくは聖霊にとり憑かれた」とされ、中世前期では「鬼神にとり憑かれた」とされ、中世後期は「悪魔のいけにえ」、ルネサンス期は「悪魔との提携」、後期ルネサンスでは「サタンの具現化」、ルネサンス以降は「神に呪われた」そして近代は「医療」のメタファーが使用され、烙印と監禁の処遇があたえられてきたという。24

▼24 徳岡秀雄『社会病理への分析視角──ラベリング論・再考』(東京大学出版会一九八七年)一八二ページ。 

 このように「医療化」は、今日の権力作用の重要な正当化装置になっている。とりわけ精神医学は現代社会の公認イデオロギー装置として機能しており、複雑であるがゆえに不可解な逸脱がすべて「精神の病」として解釈されて、排除する側の人びとを免責する。たしかに医療化は「病気だから本人の責任を免除する」という人道上の配慮や、犯罪者の刑罰を軽くする便法として展開してきたのも事実である。しかしその反面、本人の主体的判断や意思が無視され、相当の強制力が本人の生活と人格に作用する。しかもその強制力は「本人のために」働くのであって、周囲の人びとの善意や職業的倫理によって実行されるのである。

〈消費の論理〉と〈排除の論理〉

 最後にもうひとつ、排除現象の社会的促進要因を指摘しておきたい。

 現代社会は消費社会とも呼ばれる。消費社会とは〈消費の論理〉が〈生産の論理〉を主導する社会のことである。ときに大衆消費社会とも呼ばれるように、企業よりも消費者である大衆が主役の社会である。それゆえ〈消費の論理〉は一見平等に見える。しかし、これは意外な感じがするかもしれないが、〈消費の論理〉にはその論理的帰結として〈排除の論理〉が裏面に存在する。

 そもそも消費社会は「差異化の論理」によって動いている。生産者側では他のライバル商品とちがう要素が付加され、流通の過程でその差異が過剰に強調される。広告業界でいう「差別化」である。一方、消費者側でも商品の微妙な差異を読みとる能力と感性が尊重される。それがないと的確な消費ができないからである。的確な消費によって現代人は自分を微調整する。つまり商品をめぐってさまざまな立場の人びとが「差異化の論理」を機軸に動いているのである。差異化とは「とはちがう」ことを主張することだ。だから「あれはダサイ、こっちがオシャレ」といったぐあいに「何がちがうのか」「何とちがうのか」を設定せざるをえない。うつろいやすく説明しにくい微妙な差異を直観的に説明するには「ああいうのじゃなくて」と否定的に説明するしかない。つまり排除項の設定が不可欠なのである。こうして消費社会は排除の論理を内部に組み込む。

 それは具体的には、センスのよしあしであったり、身体の美醜であったり、年齢の高低であったり、趣味の品格であったりするが、それらの差異によって、一方が他方を排除する関係が社会の隅々にまで重層的に設定される。このなかである属性だけがすべての差異化のコードにおいて排除されることはないにせよ、それでも「社会福祉対象者」や「ひとり暮らしの老人」や「知的障害者」のように、商品を売る側から見てマーケットの小さい属性は、肯定的な意味づけをされることが極端に少なくなってしまいがちである。そして売る側から見てマーケットの大きい属性──たとえば「若くて行動的でよく遊ぶ」学生・会社員・中間層の文化的価値ばかりが肯定的にあつかわれるなかで、それらは無言のうちに排除項化(かやの外)されてしまうのである。

自発的服従の視点

 権力作用とそれに付随する排除現象は、なぜわたしたちの社会に生じるのか。ここで「わたしたち人間のなかには本能として権力欲と加虐性があるからだ」といったたぐいの短絡的な心理学主義に陥ってしまうとリフレクションにはならない。それは「では、なぜ権力欲や加虐性が生まれるのか」に答えていないからだ。それはむしろ結果である。結果を原因と取りちがえてしまう物象化のワナがここにも待ち受けている。注意を払いながら進まなければならない。

 排除は残念なことに社会の「正常な」現象である。とりたてて高度な理念による意識的な介入をしないかぎり必ず起こるという意味で「正常な」現象である。デュルケムの「犯罪は正常な社会現象である」というテーゼがかつて物議をかもしたように、このようないい方をするとたちどころに非難の声が上がりそうだが、現実を直視すればこういわざるをえない。しかし「正常」と認識することと、その事態の悲劇的な帰結を肯定することとはちがう。25

▼25 「正常」についての古典的議論としては、デュルケム『社会学的方法の規準』宮島喬訳(岩波文庫一九七八年)。

 「正常」と認識することの第一の理論的意義は、わたしたちが権力作用から解放されることはありえないというシリアスな認識をもつことにある。現実科学としての社会学は、抑圧から解放された世界があるというロマン主義的幻想とは無縁の地点から出発する。権力作用は──したがって排除現象は──社会の存立にとっても、わたしたちの生存にとっても、基本的には不可避である。第二の理論的意義は、不可避であるがゆえに自己点検を絶やさない姿勢で臨む必要があるということである。政権交代や革命で抜本的に解放されることなどありえないのだ。

 さて、これまで検証してきたように、排除という構造的暴力を内部に宿す権力作用を生みだしているのはわたしたち自身である。この場合、わたしたちの行為は権力作用に対して「自発的服従」という性格を帯びる。「自発的服従」という古典的概念は、ゲオルク・ジンメルによって再発見され、マックス・ウェーバーによって定式化されたものだ。26ここでは「この人が王であるのは、ただ、他の人びとが彼に対して臣下としてふるまうからでしかない。ところが、彼らは、反対に、かれが王だから自分たちは臣下なのだとおもうのである」27というマルクスのことばに立ち返ろう。このことばが示唆する論点は、王権は人びとに押し上げられて王権となるという逆説的なメカニズムである。宗教現象の始発点にある「カリスマ」も、一群の帰依する人びとによって担ぎ上げられて「カリスマ」になる。これらは「上方排除」である。それに対して本節でこれまで検証してきた暴力的な排除現象や差別は「下方排除」である。排除の方向が上か下かの差であって、メカニズムは基本的に同じである。

▼26 ジンメル『社会分化論 社会学』居安正訳(青木書店一九七〇年)。ジンメル『社会学──社会化の諸形式についての研究(上)』居安正訳(白水社一九九四年)。マックス・ウェーバー『社会学の基礎概念』阿閉吉男・内藤莞爾訳(恒星社厚生閣一九八七年)。マックス・ウェーバー『支配の諸類型』世良晃志郎訳(創文社一九七〇年)。
▼27 カール・マルクス『資本論1』岡崎次郎訳(国民文庫一九七二年)一一一ページ。

 自発的服従という概念は上方排除についてはいえるが、下方排除についてはふさわしくないように見える。けれども、先述の教室のいじめや職場での差別待遇などの実態からもわかるように、教室の秩序や職場の秩序への自発的な同調がもっとも重要な要因になっており、この場合でも服従ということばは当てはまる。権力作用について考察するさいに重要なことは、「支配する」「統治する」という観点から見るのでなく、「自発的に服従する」観点から見ること、権力の送り手ではなく受け手(支え手)の視点から見ることが必要である。つまり、上からの「圧力」ではなく、自ら進んで禁止する、下からの「自主規制」として。

 ミシェル・フーコーの「権力は遍在する」「権力は下からくる」「権力の司令塔を求めるのはやめよう」という有名だが一見奇妙な提言は、おそらくこのようなことを主張しているのだ。「資本の陰謀」といったように何か強力な統制機関が操作しているかのように見えるのも、ひとつの物象化的錯視である。フーコーが権力を「意図的であるが、非主体的」というのもこういうことであろうし、「抵抗や闘争も権力の内部要素」という考えもこの文脈で理解できる。28

▼28 ミシェル・フーコー『性の歴史I知への意志』渡辺守章訳(新潮社一九八六年)一二一−一二四ページ。たいへん乱暴ないい方をすれば、ここで問題とされている「権力作用」は、かつてウェーバーが「規律」(Disziplin)と呼び、「価値の内面化」を重視したパーソンズが「社会システム」(social system)と呼んだものである。ただ、ウェーバーの場合は「他人の抵抗を排してでも」という権力概念の定義の方がひとり歩きしてしまい、パーソンズはそれを社会のすべてと見なしてしまって批判を招いてしまった。フーコーはそれに当たるものをまったく別の知的領域で新たに「産出的な権力」として議論したのである。それ以降、現代社会学ではエスノメソドロジーが注目していたこともあって、現在このように「権力作用」として感受されるようになったのである。なお、フーコーの権力論の位置づけについてはさまざまな捉え方があり、異論も生じやすいと思われるが、この点については次のものを参照されたい。アクセル・ホネット『権力の批判──批判的社会理論の新たな地平』河上倫逸監訳(法政大学出版局一九九二年)第六章。

 こうなると、権力作用を批判することは、もはや「権力者が悪い、悪いやつらをやっつけろ」式の勇ましいプロパガンダではなく、かえって自分たちの存在根拠を疑う反省的な作業になってくる。

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SOCIUS.JPドメインへの初出 7/18(thu), 2002  
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