Socius  ソキウス   著作+制作 野村一夫
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リフレクション

第三章 知識過程論の視圏――社会はいかにして可能か
二 役割現象の動態

〈として〉規定

 人びとの知識が社会的現実を構成する条件となる。ジンメル自身が示しているように、その典型的な現象が「役割」をめぐる一連の社会現象である。本節では、ジンメルが開示した「社会認識論」を「役割現象論」として整理し直して、常識的知識の意義について考察していきたい。20それによって「知識事実としての社会」のダイナミズムを浮き彫りにできると思う。

▼20 野村一夫「ジンメルと役割理論――受容史的接近」『社会学史研究』第九号(いなほ書房一九八七年)。なお「役割現象論」という用語はウータ・ゲルハルトにヒントをえた。Uta Gerhardt, Toward a Critical Analysis of Role, in: Social Problems 27(5), June 1980. Uta Gerhart, Georg Simmels Bedeutung fu`r die Geschichte des Rollenbegriffs in der Soziologie, in: Hannes Bo`hringer und Karlfried Gru`nder(Hg.), A`sthetik und Soziologie um die Jahrhundertwende: Georg Simmel, Frankfurt am Main, S.71-83.

 「役割現象」(Rollenpha`nomen)とは、日常生活において人びとがじっさいに使用している知識としての「役割」を中心とした一連の社会的相互作用過程をまとめてさす概念である。要するに、わたしたちは社会的場面において他者とかかわっていくとき、自分たちの頭のなかに知識として貯蔵されている一定のパターン化された役割の知識に沿って、じっさいのふるまいをしていくのである。じっさいのふるまいは、自分にとっても相手にとっても、必ずしもイメージ通りでないこともあるが、それでもそこで提示された役割が他者に理解でき納得できるようなものであれば、お互いの交渉はスムーズに進行する。そうでない場合は、自他ともに緊張関係のなかで調整の道を模索することになる。わたしたちの日常的な社会生活とは、おおよそこのような現象から成り立っている。これが役割現象である。

 役割現象は社会を可能にする骨組みである。その構造にもう少し踏み込んでみよう。

 ジンメルは「として見る」ことから議論を始めている。「男として」「女として」「母として」「長男として」「店員として」「患者として」他者を見る。これは自分に対してもまったく同様である。相手を「店員として」見ると同時に、自分を「客として」見る。自分を「教師として」見ると同時に、相手を「生徒として」見る。このように役割現象の始点は「として」にある。著名な哲学者カール・レーヴィトはこれを「として規定」(Als-Bestimmtheit)と呼んでいる。21

▼21 カール・レーヴィット『人間存在の倫理』佐々木一義訳(理想社一九六七年)。なお本書では「レーヴィト」と表記する。レーヴィトの「として規定」については、ふたりの日本人哲学者による理論展開が有名である。和辻哲郎『倫理学――人間の学としての倫理学の意義及び方法』岩波講座哲学[概説](岩波書店一九三一年)。『倫理学』上巻(岩波書店一九三七年・改版一九六七年)。廣松渉『世界の共同主観的存在構造』(講談社学術文庫一九九一年)。

 「として規定」は一種の「類型化」(typification)である。類型化とは、まず相手を「何者かとして」実践的に推論することである。たとえばウィリアム・I・トマスはこう述べている。「たとえば、私が君の客だとする。[その場合]私が君の金銭あるいはスプーンを盗まないということは君にはわからないし、科学的に決定することもできない。ただ推論上、私は盗まないであろうとされ、推論によって私を客として君は迎えているのである。」22

▼22 引用文はE・ゴッフマン『行為と演技――日常生活における自己呈示』石黒毅訳(誠信書房一九七四年)四ページによる。

 わたしたちは、他者が何者であるか、他者の行為が何を意味するかを把握するために、自分の知識在庫にある類型化図式を目の前の人物にあてはめていく。たとえば「カウンターのなかにいる目の前の人物は店員である」というように他者類型化がおこなわれる。それと同時に、自分が他者に対して何者であるべきかを推論し、多くの場合「何者かとして」ふさわしい行動をとろうとする。これが自己類型化である。たとえば「自分はこの店の客である」というように。このとき、自分と相手との社会関係がいかなる種類のものかをわたしたちは想定している。この場合は「商品の売買」という関係類型化である。

 このように役割現象で生じているのは、社会的場面において〈他者−自己−関係〉に関する類型化が適切におこなわれることである。役割は類型化図式に相当する。わたしたちの常識的知識には、このような類型化図式がたくさんふくまれている。類型化図式はそれぞれの文化によって多様でありうるが、基本的には同一文化圏内においては一定限の妥当性をもっている。わたしたちは社会化の過程においてそれを学習し、じっさいにそれを使用し、その妥当性を検証していくのである。

鏡像効果

 類型化は単独では生じない。複数の主体が相互にかかわりあうとき、自他相互に「として」が生じるのである。「わたし」はひとりでいるとき――あるいは眠っているとき――父親であったり店員であったりするわけではない。「わたし」が父親であるのはあくまでも子どもに対してであり、「わたし」が店員であるのも客に対してである。他者とのかかわりから「――に対して」類型化が発動されるのだ。

 「――に対して」については鏡のメタファーが有効である。鏡の反射や照らしあいのように人間はお互いを映しだす。この「鏡像効果」ともいうべき現象は、いわばリフレクションの第一水準である。

 クーリーは有名な「鏡に映った自己」(looking-glass self)の概念でリフレクションの原型的なアイデアを提出しているが、かれは「お互いがお互いにとって鏡であり、その前を通る人を映している」という句を引いて、このような自我のありかたを「鏡に映った自己」と呼んだ。23要するに、他者という鏡に照らして(reflect)はじめて自分を感じ自分を知ることができる、ということだ。あらかじめ自分というものがあって、その上で他者とかかわるものだと、わたしたちは思っているけれども、じっさいには、他者とかかわる過程で他者という鏡に映った自分を認識することによって自分を感じているというのである。

▼23 C.H.Cooley, Human Nature and the Social Order,1902, p.184.

 この考え方は、わたしたちが自明のものと考え実体化してしまっている「自分」を、他者との関係において捉えるという点で――つまり、項に対する関係の第一次性を提示している点で――画期的なものだ。しかし、このような発想はマルクスやレーヴィトのようにフォイエルバッハの系譜にある哲学者たちにしばしば見られるものでもある。たとえば、すでに引いたマルクスの一節にも明らかにその発想がある。「およそこのような反省規定というものは奇妙なものである。この人が王であるのは、ただ、他の人びとが彼に対して臣下としてふるまうからでしかない。ところが、彼らは、反対に、かれが王だから自分たちは臣下なのだとおもうのである。」24ここで「反省規定」と訳されているのは、鏡の照らしあいのように相互に規定しあう事態をさしている。ここはむしろ「反照規定」というべきだろう。反照規定はリフレクションの第一水準であり、社会を可能にする根源的な事実である。ここからいっさいの社会は始まるのである。

▼24 カール・マルクス『資本論1』岡崎次郎訳(国民文庫一九七二年)一一一ページ。

 しかし、たとえばクーリーのいうreflectが具体的にはどのようなプロセスなのか、じつは相当あいまいである。照らしあうといっても、じっさいにはそれは応答的になされるはずではないか。鏡像効果を「応答」としてプラグマティックに改良して、このアイデアを本格的に仕上げたのがミードだった。ちなみにプラグマティズム(pragmatism)は一般に「実用主義」と訳されて誤解されていることが多いけれども、「プラグマ」(pragma)とは「行為」のことであり、むしろ「行為主義」と訳すべき考え方である。25なおミード自身は「社会的行動主義」(social behaviorism)と自称している。

▼25 鶴見俊輔『アメリカ哲学(上)』(講談社学術文庫一九七六年)一八ページ。

 ミードの「身ぶり会話」論で語られていたのも、相互に相手を照らしあう「反照規定」である。しかし、ミードは「反照規定」が、コミュニケーションとして現実におこなわれる事実的行為の客観的なプロセスであると論じた。第一章でかんたんに述べておいたように、ミードはコミュニケーションを身ぶりのやりとりと考える。自分の身ぶりに反応して相手が身ぶりを返す。この相手の反応の身ぶりそのものが自分を映す鏡になる。わたしたちは相手の反応の身ぶりによって自分の身ぶりの「意味」を知るのである。身ぶりがより高度になれば、この「意味」はより分節化されていくが、それについては後論にゆずるとして、ここでたいせつなのは、リフレクションがこうした行為のやりとり自体に基礎をもっているということだ。かれによると、個人の孤独であくまでも主観的な「内省」はリフレクションのほんのひとこま――中継地点――にすぎない。26

▼26 ジョージ・ハーバート・ミード『精神・自我・社会――社会的行動主義者の立場から』稲葉三千男・滝沢正樹・中野収訳(青木書店一九七三年)。なお本書が、リフレクションの訳語として「自省」というキレと鮮度のいいことばを採用しないで、「反省」といういささか凡庸で鮮度の悪いことばをあえて使うのも、「反射」「反照」のイメージを残したいからである。「自省」の「自」は「自己」の意味であり、システム論的主体概念が前提されていると考えられるが、わたしはそれよりも主体間に生じる緊張関係を暗示する「反」にひかれる。

演出と印象操作

 クーリーが「鏡に映った自己」の概念で押さえたのは単純な反照関係だった。ミードの身ぶり会話レベルのコミュニケーション(第一水準)にあるのも比較的単純な「反照規定」である。じっさいにはこの「合わせ鏡の照らしあい」は相当に複雑な様相を帯びる。それを丹念に解きほどいてみせたのはアーヴィング・ゴッフマンだった。ゴッフマンは『日常生活における自己提示』(邦訳名『行為と演技』)の冒頭部分で、人びとが出会うときに生じる相互に反照する規定関係を微分するように描写している。27ここでは相互反照規定の「始まり」のシーンをわたしなりに単純化して示しておこう。

▼27 E・ゴッフマン『行為と演技――日常生活における自己呈示』石黒毅訳(誠信書房一九七四年)。

 人と人とが出会うとき、まず知りたいと思うのは相手についての情報である。相手が何者なのか。職業は何か。自分より年上か年下か。自分に好意をもっているか。装っているのか誠実か。今の気分はどうか。これらの情報がある程度即座にえられる場合でも、自分の知識のなかにある類型化図式によって相手を認識してしまっていいのかどうかが問題になる。そこで相手とのコミュニケーションのなかで、ことば以外のノンヴァーバルな要素(たとえば、しぐさ・表情・視線・服装)を手がかりに参照して、表面にでている言語コミュニケーションを評価する。というのはノンヴァーバルな要素は当人がコントロールしにくいから、相手の今の状態を知るのに好都合だからである。

 ということは当然相手も知っている。となると相手は、コントロールしにくいと思われているノンヴァーバルな要素を意図的にコントロールすることによって自分にとって都合のよい印象をあたえようとする。さりげないしぐさで自分の誠実性の印象を補強したり、相手の視線を意識しながら別の行為を演じることもある。ということを自分も知っている。相手はさりげないしぐさを演出的にふるまっているかもしれないのである。そこで……。

 といったぐあいに、探りの入れあいが入れ子式に反射しているのが相互作用のふつうの姿なのである。こうして人びとの行為は大なり小なり「印象操作」(impression management)の側面をもち、演出的な性格を帯びる。このプロセスが演劇とちがうのはただ一点。相手は舞台上の共演者であると同時に、ときには意地悪い批評家ともなりうる観客でもあるということだ。当然、話はややこしくなる。

ずれによる個性認識

 ジンメルの社会認識論が、社会を「あやつり人形芝居」と見なしがちな既成の役割理論よりすぐれているのは、個性認識をしっかり組み込んでいるところにある。28というのもジンメルは、役割演技といいながらも、社会がいかに「あやつり人形芝居」でないかについて何度も確認しているからである。

▼28 ここで「既成の役割理論」と呼んだのは、人類学者ラルフ・リントンの「地位と役割」に準拠した役割理論のことである。代表者としてタルコット・パーソンズとラルフ・ダーレンドルフを挙げておこう。ただし両者はこれを超出する論点をふくんでおり、むしろここであげた三人の役割理論の通俗的受容をさすというべきだろう。

 役割すなわち類型化図式それ自体は抽象的な知識である。その抽象性に対して役割演技(役割行為)はあくまで具体的である。それは、演劇においてシナリオが抽象的であるのに対して、俳優による上演が具体的であるのと同じことだ。この具体化が重要なのである。わたしたちはついつい抽象的な役割の方にポイントをおいて議論してしまうが、じつは役割行為による具体化の方がはるかに重要なのである。

 さて、この具体化の段階ではじめて生じることがある。それは「文学的にも現実的にもただひとりのハムレットしか存在しないのに演劇的には多くのハムレットが存在する」ということだ。29演劇は台本に書かれた役割の再現ではない。いわば「演劇的個性」がじっさいの上演においてそのつど創造されるのである。つまり俳優はたんに役割のマリオネット・役割の奴隷・役割の媒体ではないということだ。

▼29 ジンメル「俳優の哲学」『ジンメル著作集11断想』土肥美夫・堀田輝明訳(白水社一九七六年)二七三ページ。なおこの小論は未完の草稿である。

 これは日常生活における行為者もまったく同じである。抽象的な類型化図式の知識を手がかりにそのつど役割は具体的な事実的行為によって創造される。そして創造された現実の行為と、共有された知識としての役割との「ずれ」から、他者はその人の個性を組み立ててゆく。このように個性は直接、個性として認識されるのではない。あくまで「ずれ」として認識されるのだ。

距離化

 ジンメルは役割と自己と他者認識とを単純に一体化していない。むしろ相互に距離のあることを重視している。この「距離」こそが社会関係にダイナミズムを生む原動力になる。役割現象は、他人から期待される行動様式を無反省に実践することではなく、本質的には反省的な行為である。したがって、その結果なされる役割行為はとうてい単純なものではなく、相当に入り組んだものになる。この点に焦点を当てた概念のひとつに「役割距離」がある。

 「役割距離」(role distance)はゴッフマンによって提唱された概念である。30人は役割を演じるだけでなく、演じるふりをする場合もある。さらに演じるふりをしていることを役割行為のなかで表現することがある。「役割距離」とは「個人とその個人が担っていると想定される役割とのあいだに〈効果的に〉表現されている鋭い乖離」である。31つまり、自分が担っている役割に〈ほんとうの自分〉が宿っていないことを相手に伝えることである。

▼30 E・ゴッフマン『出会い――相互行為の社会学』佐藤毅・折橋徹彦訳(誠信書房一九八五年)。
▼31 前掲訳書一一五ページ。ただし若干修正した。

 ゴッフマンはわかりやすい事例としてメリーゴーランドの木馬の騎手の役割をあげている。この役割は幼児にはそれなりの困難があるものの、三歳か四歳になればなんとかなる。このころの子どもは木馬の騎手の役割に自分を没入する。自分と役割のあいだに距離はない。しかし、これが五歳の男の子になると、たんに乗りこなすだけですまなくなってくる。自分にとって何の困難もない仕事であることを一生懸命に表現しようとするのだ。手を離したり、鞍の上に立ってみたり……。木馬の騎手という役割をこなすことによって表現されてしまう〈自分〉に対して距離をおこうとする。七歳か八歳になると、機械を操作する大人から注意を受けるようなさまざまな限界に挑戦する。十代になると、できれば乗らないにこしたことはないが、乗るはめになったときは、競争馬に乗ったようなオーバーなしぐさをして「冗談」としてその役割を演じていることを表現したりする。

 これが大人になると、さまざまな技巧をこらす。「ある大人は冗談に安全ベルトを強く止めて見せる。また、別の大人は手をクロスさせて、左手のポップコーンを右の人に、右手のコーラを左の人に渡す。横鞍に乗った婦人は、鈴を転がすような声で、『おお、冷たい』と言い、彼女を眺めている男の友だちに、『乗りなさいよ、意気地なし』と、声を掛ける。デートをしているカップルは、その状況に自然に気持ちを合わせるために、手を繋ぎながら隣り合った馬に乗る。二組でデートしているカップルも、それなりの技巧を凝らす。前の馬の男性は後向きに乗って、自分の写真を撮っている後ろの馬の男の友だちの写真を撮る。そして、もちろん、大人のなかには、怖がっている二歳半の男の子の側にぴったり乗って、乗ること自体を出来事とは見ず、自分の唯一の関心はすべて子どもだけにあるのだぞ、ということを慎重に証明するための顔をつくっている者もいる。」32このように、役割との距離を示すためにさまざまな工夫がいる点で、メリーゴーランドの木馬の騎手という役割は、年齢が上がれば上がるほど難しい仕事になる。

▼32 前掲訳書一一六―一一七ページ。ただし若干の字句を改めた。

 わたしたちの日常生活においても、大なり小なりこのような距離化の表現が必要である。ここで確認しておきたいのは、役割現象において有能な行為者は覚めていることである。人間の行為は距離化の程度によって自然的態度と完全なる覚醒のあいだにあるといえる。

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