Socius  ソキウス   著作+制作 野村一夫
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リフレクション

第二章 行為論の視圏――脱物象化と反省的行為
三 行為論的社会像

行為論的人間像

 脱物象化の視点に立つと、社会は自然現象のようなものではなくて、他ならぬわたしたち人間によってつくられる現象であることがわかる。それは「つくられる」といってもよいし、「生産される」といってもよいし、「構成される」ともいえる。したがって社会学ではしばしば「社会の生産」とか「社会の構成」といった聞きなれないフレーズを使うことがある。もちろん人間がただ集まるだけで自動的に社会になるわけではない。人びとが相互に行為しあうこと(相互作用)によってはじめて社会がつくられるのである。このような考え方を「行為論」(action theory)という。

 「行為によって社会がつくられる」という考え方は一見自明に見えるかもしれない。しかし人びとはそれを徹底するということをしない。ところが、それを徹底してゆくと――「理論」とはそういう営みである――なかなかにラディカルな見方になるのだ。たとえばウェーバーは「『国家』というものは、ある種の、有意味的に方向づけられた社会的行為が経過するというチャンスが消滅するやいなや、社会学的には『存在する』のを止める」という。19ジンメルも「われわれが国家や法や制度や流行などの本質的特徴や発展について触れるさいに、それらをあたかも統一的な実在であるかのように取り扱うということは、一つの方法上の救済策にすぎない」と述べている。20このように、強固な自然物のような存在と見なされがちな国家でさえも、行為の集積の結果として流動的に捉えられてしまう。それは基本的に脱物象化の視点なのである。

▼19 マックス・ウェーバー『社会学の基礎概念』阿閉吉男・内藤莞爾訳(恒星社厚生閣一九八七年)四〇ページ。なお、マックス・ウェーバー『理解社会学のカテゴリー』海老原明夫・中野敏男訳(未来社一九九〇年)三八ページも参照。
▼20 大鐘武訳編『ジンメル初期社会学論集』(恒星社厚生閣一九八六年)三〇ページ。

 人間が社会をつくる。しかし、それはもちろん「白いキャンバスに絵を描く」ようにではない。わたしたちは、すでにある社会に生まれてくるのであり、社会のなかで一人前の個人になる。そして、社会の歴史的に積み上げられた土俵のなかで、さまざまに錯綜する複雑な条件のもとで行為するのである。ピーター・L・バーガーとトーマス・ルックマンがたくみに定式化しているように「社会は人間の産物である。社会は客観的な現実である。人間は社会の産物である」ことにはちがいないが、▼21このプロセスはとても複雑で、分析も説明も容易ではない。この点については次章以下でも引き続き考えることになるだろう。ここではさしあたり議論の始点として「社会をつくる人間」に着目して「社会に対して能動的で産出的な人間」という論点にしぼって説明しておこう。

▼21 P・L・バーガー、T・ルックマン『日常世界の構成――アイデンティティと社会の弁証法』山口節郎訳(新曜社一九七七年)一〇五ページ。

 基本構図はミードによってほぼ与えられている。ミードによると、人間はコミュニケーションによって他者の態度を取り入れる。これを「役割取得」(role-taking)という。役割取得とは、自分が他人のなかに呼び起こす反応を自分自身のなかに呼び起こすことであり、それは音声身ぶり(ことば)によって可能になるコミュニケーションである。このメカニズムについては、すでに第一章第三節で説明しておいた。自分のなかに取り入れた他者の態度(と見なしたもの)の組織化されたセットを「客我」(me)という。いわば「わが内なる他者」である。このようにコミュニケーションによって人間は他者の態度を受け入れ、その結果、社会化される。つまり、やってはいけないことを学び、他人とのつきあい方のルールを学び、何をすれば他人から評価されるかを知る。自分の身ぶりがおかれている土俵と手持ちの札を認識するわけだ。

 ところが、人間は社会化されることによって、他者の期待を知って社会に適応するだけではない。じっさいには、この客我に対して自己の内部に新しい反応が生じるのである。これを「主我」(I)という。主我は、他者の期待に対する個性的な反応であり、新しいものをつくりだす創造性である。これを「主我は創発性をもつ」という。たとえば、学者が既存の理論を読みこなすことによって新たな理論の着想をえるように、あるいは詩人や芸術家が自然物の観察から独創的な表現を編みだすように、もっと日常的な場面に即していえば、対人関係のなかで相手が自分に期待している役割をそのまま演じるのではなく自分なりにアレンジしてふるまうように。

 客我と主我という概念は機能的な概念(作用を表す概念)であって実体を表しているわけではない。つまり一種のメタファー(隠喩)と思ってもらえばよい。ただそれが「自分」をめぐって表示されているのは、「社会」という新しい(創発的な)存在を生みだす、その実践的根拠が人間に備わったものであるとの確信をあらわしている。人間だけが「社会」を生産する。その秘密は人間独自のこのような特質にあり、さらにその始発点には社会化と個性化を同時に可能にするコミュニケーション――音声身ぶりを用いた反省的なコミュニケーション――がある。

 既存の社会を受容し、それに対して主体的にリアクションを返してゆく能力をもった人間。これが行為論的人間像である。それを社会の側から見ると、社会は、人間を一人前の行為者にする一方、その行為者によって修正されつづける存在である。これが行為論的社会像とでもいうべき社会のイメージになる。だから「人間がつくる」といっても、むしろ「修正する」とか「改訂する」といった方が近いかもしれない。人間は、すでに用意された完成品から、それとは少しちがう別のものをつくりだすのであり、目の前に完成品があるからこそ、別のものをつくりだそうとする、ともいえる。前と同じ社会を反復的に再現しつづけることももちろんありうることである。ギデンスはこれを「社会の再生産」(reproduction of society)と呼び、新しい社会をつくりだす「社会の生産」(production of society)と区別しているが、しかしたいせつなことは「すべての再生産は、必然的に生産である」ということである。22

▼22 アンソニー・ギデンス『社会学の新しい方法規準――理解社会学の共感的批判』松尾精文・藤井達也・小幡正敏訳(而立書房一九八七年)一四五ページ。

社会現象の原型としての言語

 「人間が社会を生産し再生産する」とはどういうことか。社会現象のひとつの例として言語について考えてみよう。

 そもそも言語は社会現象のプロトタイプ(原型)である。それゆえこれまで多くの社会理論家が言語に注目してきた。構造主義しかり、ミシェル・フーコーしかり。あるいは言語学者自身が社会理論家として読まれてきた。社会学者がそのことに気づいたのは比較的最近のことである。さっそく基本的な構図を説明しよう。

 まず第一に、言語は行為の媒体である。「媒体」はmediaの訳語である。たとえば、わたしとあなたが容易に対話でき、それによっておたがいの気持ちを伝えあうことがたやすくできるのは、共通の言語があるからだ。ミード流にいえば、そんなものがないとしてもコミュニケーションは可能だが、あれば短時間で効率よく思い通りのコミュニケーションがとれる。この場合、言語はコミュニケーションの媒体であり、行為のやりとりの中心的媒体である。なぜ媒体として機能するかといえば、ふたりともその言語とその使い方と背景的なさまざまなことがらについての知識をほぼ共有しているからである。このように言語は日常生活者の共通の「常識」として既定性をもち、あたかも道具のように行為の媒体となる。

 ところが、言語は、モノのようにどこかに客観的に存在しているかというと、そんなことはない。話されたことばは形をとどめないし、文字でさえも、それを理解できる人間がいてはじめて言語といえるのだから。つまり、それをわかる主体(人間)がいなくては言語は言語として存在しないのである。たとえばそれは空気の振動でありインクのしみであり磁気の分布にすぎない。その言語を理解し話す能力をもつ人間がじっさいに対話し、読み書きの行為をするときにのみ言語は実在する。この場合、言語はそれについての知識をもつ人間たちの行為の産物であり結果である。

 このように言語は、一方で人間の行為を可能にする媒体であると同時に、他方では人間の行為によって現実のものとなる行為の産物である。人間の行為に対するこの二重性こそ社会現象の基本性格といえるものだ。

 このことをさらに考えてみよう。言語には一定の抽象的法則がある。それをわたしたちは一般に「文法」と呼ぶ。ネイティヴ・スピーカーは「文法」に即して上手にしゃべることができる。しかし、これもどこかに「文法」として存在するものではない。わたしたちが母国語を使って対話するそのプロセスそれ自体に「文法」が作用しているのであり、それは特別に成文化されないかぎり、話す主体には意識されないのである。この場合、「文法」は規則であり構造である。見えないが、それは行為のただなかにあって行為を規制する。

 このあたりの事情をギデンスは次のようにまとめている。「発話者は、文を発話するとき、その発話行為を産出するにあたって構文規則構造に依拠している。規則はこの意味において発話者がいうことをうみだしている。しかし文法的に話すという行為はまた、発話を産出する規則を再生産するのであり、規則はただこのようにしてしか『存在』できないのである。」23

▼23 A・ギデンス『社会理論の現代像』宮島喬ほか訳(みすず書房)一二〇ページ。

 今度は創造性について目を転じると、わたしたちは、かぎられた語彙と規則のなかで、無限に文を創造することができる。複雑な哲学的思索を語ることもできれば、シュールリアリズムの詩人のようにまったく新しいことをいうこともできる。ノーム・チョムスキーはこれを「言語能力」(linguistic competence)と呼んだ。24これは構造的枠組みのなかでも行為にほぼ無限の可能性があることを示唆する。いわゆる「規則に支配された創造性」(rule governed creativity)である。

▼24 ノーアム・チョムスキー『言語と精神(新装版)』川本茂雄訳(河出書房新社一九八〇年)一八二ページ。

 それに対して、わたしたちが自由に文を使用するなかで、しだいに変形が生じ「文法」そのものが結果的に変形してしまうことがある。最近話題になった「食べれる」の使い方のように。それは文法規則を修正したり洗練したり単純化や複雑化をもたらす。もちろん発話者たちの使い方に原因があるはずだが、当事者たちはたいていの場合それを意識していない。意識していないが、自分たちなりに使っているうちにそれを変えてしまう。いわゆる「規則を変える創造性」(rule changing creativity)である。

 このように言語は、独立した社会現象として人間の行為の媒体として利用されるとともに、それ自体、行為の産物である。それは構造的枠組みとして行為を条件づけ規制するとともに、行為の創造性の源泉ともなる。言語は社会現象のすべての特性をもつわけではないが、基本的な特性を兼ね備えた社会現象だから、以上のようなことがさまざまな社会現象について公約数的な意味でいえる。

 たとえば次章でくわしく論じる「役割」にしても、わたしたちの行為は他者から期待された役割によって条件づけられ規制されるとともに、わたしたちはその役割を媒体にして――それを自分なりに演じることにより――自己表現したり自己実現を果たしたりするのである。

行為の諸類型

 さて、行為と一言ですませるには、行為はあまりに多様である。また、そこには相当に性質の異なるタイプがふくまれているのであって、せめてこれらを分類し、きめ細かく分析するのは当然のなりゆきである。そこで次に「行為の諸類型」といわれる分類を見ていこう。

 もっとも古典的な分類はマックス・ウェーバーのものである。ウェーバーは社会の基本単位である社会的行為を四類型にわけている。25

▼25 ウェーバー『社会学の基礎概念』前掲訳書三五ページ以下。

(1)目的合理的行為――目的・手段・副次的結果を予想し考慮した行為。目的と手段の関係が合理的。
(2)価値合理的行為――倫理・芸術・宗教など固有の絶対的価値を意識的に信じることによって生じる行為。予想される結果にとらわれない。
(3)感情的行為――感情や情緒による行為。
(4)伝統的行為――身についた習慣による行為。

 たとえば大学教育の現場における教員の行為を考えてみよう。初回の授業を通常より短いオリエンテーションですませるのは伝統的行為である。文系学部で授業の前後10分程度の余裕をもたせるのも伝統的行為である(ただしこれは理系学部では通用しないことがある)。学生の評価として受講者全員に一律Aをつけないで、学生と教員の双方に大きな負担となる試験やレポートを課し、手間ひまかけて評価するのは「学問的良心」に基づく価値合理的行為である。学生の私語に対して注意するのは、授業を円滑に進行させるための目的合理的行為であるが、しばしば感情的行為でもある。

 では、学生の場合はどうだろうか。出席をとらない授業にでないのは目的合理的である。その分コストは格段に節約できるからだ。しかし一方で、学問への知的興味をもつ学生にとって魅力ある講義に出席するのは、それなりに目的合理的である。しかし「授業を休むのはよくないことだ」という道徳的動機であれば、それは価値合理的といえるし、あまりに出席者が少ないために教員をかわいそうだと感じてムリして出席していれば(こういう学生が実在するとは思えないが)それは一種の感情的行為であろう。

 会社で働くサラリーマンの場合を考えてみよう。ある商品を売るために新たに販売戦略を練り、計画通りに実行していくとき、それは目的合理的行為である。しかし、前任者と同じ方法で定番商品をあつかうときはむしろ伝統的行為に近い。ワーカホリック(仕事中毒症)といわれる人びとの行為は、その仕事への情熱の源泉が仕事そのものの魅力にある場合は感情的行為の側面をもつし、それを管理職としての義務と感じていれば価値合理的行為である。しかし、それによって上司に「仕事ができるやつ」と思わせて人事考課をよくしようとするためであれば、たぶんに目的合理的行為である。

 ウェーバーの行為類型の区分の基準は合理化の程度と質であるが、このなかでとくにおもしろいのは価値合理的行為だろう。たとえば宗教行為は一般的に非合理的と考えがちだが、ウェーバーの行為類型によると価値合理的行為ということになる。つまり宗教行為はある価値(神・法・戒律など)に対して徹底的に合理的な行為なのである。医療行為や看護行為やボランティア活動も人間の生命や福祉に対する近代的な価値観に基づく価値合理的な色彩の強い行為である。ジャーナリズム活動も、それがときには危険をともなうことを考えれば価値合理的であるとしてもかまわないだろう。犯罪・非行・暴走・暴力などの行為も、目的のためには手段を選ばない点では目的合理的行為であるが、準拠する逸脱集団の価値観に基づいているならば一種の価値合理的行為でもありうる。

 わたしはウェーバーの行為類型をいささか乱用しすぎたかもしれない。しかし、あえてそうしたのは、わたしたちのさまざまな行為が意外な共通点をもつことを理解していただきたかったからである。それに加えて〈合理―非合理〉の軸によって人間の活動を見ることのおもしろさにも注目してほしかった。なおこのうち「伝統的行為」は「社会の再生産」につながる行為であるが、「社会の生産」に関わる重要な行為が欠落しているように思われる。もちろん「目的合理的行為」はそのひとつと考えていいだろうが……。そのあたりをもう少し考えてみよう。

予期しない結果・潜在的機能・文化の悲劇

 ところで、目的合理的行為のように人間があれこれと計算して行為した場合でも、結果が思惑通りになるとはかぎらない。むしろちがうのがふつうである。行為の主観的意味とその客観的結果のあいだにはズレがある。このズレのことを社会学では「予期しない結果」(もしくは「意図せざる結果」ともいわれる)(unanticipated consequences)とか「潜在的機能」(latent function)といった概念によって定式化している。

 たとえば、これらの概念の提案者であるマートンによれば、ホピ族の雨乞いの儀式は一般的に「未開民族の迷信的慣行」と片づけられてしまうが、じつは、各地に散在するメンバーが一同に会して雨乞いという共同活動に参加することによって、結果的に集団としてのアイデンティティを強化する潜在的機能を果たしているという。ただ、儀式の目的とその現実的結果とが一致しないだけだ(それゆえ、その機能は「潜在的」である)。26

▼26 マートン、前掲訳書五八―五九ページ。

 またウェーバーは、プロテスタントの宗教的動機による世俗内禁欲(この世での生活をできるかぎり質素でムダのないものにしようとする生活態度)から資本主義の離陸が始まったと主張した古典的論文「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」のなかで「宗教改革の文化的影響の多くが[中略]改革者たちの事業から生じた、予期されない、いや全然意図されなかった結果であり、しばしば、彼ら自身の念頭にあったものとは遥かにかけはなれた、あるいはむしろ正反対のものだった」と再確認している。27 

▼27 マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』大塚久雄訳(岩波文庫一九八九年)前掲訳書一三四ページ。

 人びとが行為するときにはそれなりの理由があるものだが、その行為によって新たにつくりだされた社会的現実は、当事者の人びとの考えていた理由と一致するとはかぎらず、むしろ当事者の思いもかけなかった結果を引き起こすものだ。しかも、その「予期しない結果」は、第三者から見てようやく発見できるものであったり、事後的に見てはじめて解釈できるものであったりする。新たにつくりだされた社会的現実は当事者の意味を離れて、多様に解釈可能な多機能体に変じるのだ。

 このような事態に対して、かつてジンメルは「文化の悲劇」と名づけた。28こうなると、結果としての社会現象から、それをつくりだした人びとの行為と意味をたどるのは至難の業である。しかし人間は、悲劇的な状況をくりかえさないために、さまざまな工夫をこらしてそれをしようとする。それが「反省的行為」である。

▼28 ゲオルク・ジンメル「文化の概念と悲劇」『文化論』阿閉吉男編訳(文化書房博文社一九八七年)。

自省的行為のモデル

 わたしたちが自分たちの行為によって生みだされた「予期しない結果」に直面したとき高度のリフレクションが発動する。前節で述べた「問題状況」である。これは自分たちがやっていることについての知識と、現に観察できる結果とのずれを認識し、自分たちの知識を修正する作業である。本書ではこれを「反省的行為」と呼んでおきたい。

 すでに論じたように人間の行為にはさまざまなものがある。それらはいずれも何らかの形でリフレクションが作用しているはずである。ただしこの場合のリフレクションは、ミードが人間の行為に固有のものとして設定した一般的なリフレクションである。他方で、高度のリフレクションが前面にでた行為もある。つまり行為とその結果自体が主題になったリフレクションである。最近の社会学の行為論のなかには、この行為類型をとくに抽出して、その意義――理論的意義と実践的意義――を強調する動きがある。

 その代表的な試みとして今田高俊の「自省的行為のモデル」がある。29かれによると、行為とは「規則に従いつつこれを使用し、規則に従うことの意味を考えながら目的を達成すること」と定義される。30そして行為を「慣習的行為」「合理的行為」「自省的行為」の三類型にモデル化する。この場合の「規則」(ルール)は、さしあたりここでは、それぞれの社会において通用している文法や作法のようなものと理解していただければよいと思う。企業社会にはそれなりのルールがあり、官僚の世界や僧侶の世界にもそれなりのルールがあり、女子高生にもやはりそれなりのルールがあるということだ。わたしたちの行為はこのような規則(ルール)との関係で質的に異なる行為類型に分類できる。

▼29 今田高俊『自己組織性――社会理論の復活』(創文社一九八六年)。以下の説明はおもに二六四―二七七ページによる。
▼30 前掲書二六四ページ。

 まず慣習的行為とは「動機の実現ないし目的達成と規則に従うこととが一致融合している行為」である。31わたしたちは通常それぞれの社会の規則にしたがっていることを意識しない。自分の目的を達しようとして障害にならないかぎり規則は問題化しないからである。このとき行為者の意識は非反省的な自然的態度の状態である。この場合、行為は構造によってすべて決定されているといえる。わたしたちは自分の生活する社会の一員としてふさわしい欲求をもち、それを適切な手段で実現しようとしているのだから、すべて規則通りである。ウェーバーが「伝統的行為」と呼んだものはこれに相当する。

▼31 前掲書二六七ページ。

 慣習的行為が「規則に従った行為」とすれば、合理的行為は「規則を使った行為」である。目的が意識的に設定され、その目的を達成するためにもっとも合理的な手段が選ばれる。このとき規則は破られるわけではないが、打算的に考慮されることになる。ときには目的を実現するために道徳的でない手段が選ばれることもありうる。その意味で行為者は相当に意識的である。

 ところが、いかに合理的な行為であろうと「意図せざる結果」は避けることができない。それはしばしば社会問題という形で現象する。あるいは世代交代による価値観の変化もある。従来の行為が自明でなくなり、もはや妥当でないと考えられるようになる。自省的行為は、この合理的行為の限界から始まる。32

▼32 今田は、これらの行為類型はあくまで分析的なもので、具体的な行為には多かれ少なかれこの三種の行為類型がふくまれていると考えている。要は、どれが前面にでてくるかである。前掲書二六五ページ。

 わたしが「反省的行為」として強調したいのは、まさに今田の示唆する「自省的行為」である。わたしは本書の後半で「リフレクションの実践」といういい方もするが、これも同様である。ただし、わたしは、リフレクションにとってコミュニケーションが決定的な重要性をもつと考えており、さらに理念的な作用を含めて考えているので、かれの概念をそのまま使用することは、結果的にかれの概念を不当に拡張しているとの批判を招くおそれがあるかもしれない。それを避けるためにも本書では「反省的行為」を使うことにしよう。

 さて、反省的行為というと、たとえばロダンの「考える人」のイメージを浮かべてしまったりするかもしれない。しかしそれは反省的行為のひとつの局面にすぎない。反省的行為はむしろダイナミックで活力のみなぎったものなのだ。たとえば反省的行為が前面にあらわれた具体的行為のひとつに社会運動がある。そこで反省的行為の代表として社会運動について検討し、「人間が社会をつくる」こと――とりわけ「社会の生産」の側面――の具体的イメージをえておきたい。

反省的行為としての社会運動

 社会運動は集合的な行為として影響力も大きく、その社会的意義が評価されてしかるべきであるにもかかわらず、従来は「非合理的である」とか「感情的である」として、何かと過小評価されることが多かった。じっさい、社会学研究においても――とくに社会心理学的な研究において――社会運動を非合理的かつ感情的な性格において捉えることが多かった。つまり、人びとの不満が非合理的な形で噴出したものと考えられていたのである。その一方で別の文脈において社会運動は、社会主義をめざす労働者による階級闘争と同じことと見なされた。「社会運動イコール労働運動」の図式もかつてはごく自明のものだった。

 ところが一九六〇年代のさまざまな社会運動の噴出は、こうした考え方を大きく変えることになる。人種差別撤廃を主張した公民権運動の全米的盛り上がりと、それにつづく先進諸国における学生運動・フェミニズム運動・ベトナム反戦運動・環境保護運動・公害被害者運動などは、一部に感情的な動きをふくみつつも、大勢としては冷静な現実認識と方法論に貫かれていた。非合理的でもなく「歴史の必然」でもなく、自分たちの主体性に基づいた新しいタイプの社会運動の登場である。社会学ではこれを「新しい社会運動」(new social movements)と呼んで、労働運動中心だった従来の社会運動と区別している。その分岐線は高い反省性にある。

 社会運動が反省度を高めた、あるいは高めざるをえなくなったという背景には、現実の大きな変化がある。日本的現実に即して説明してみよう。

 梶田孝道の整理によると、日本の公害問題はおおむね次のような段階を経てきたという。かれは、一九六六年までが第一段階であるとする。高度経済成長政策によって水俣病や四日市ぜんそくなどが発生していたにもかかわらず、まだ「社会問題」になっていない段階である。加害企業は黙殺・隠蔽・妨害に終始し、成長と開発志向の地方自治体も公害防止に消極的な時期である。第二段階は一九六七年から一九六九年。四大公害裁判の提訴がきっかけになって、ようやく公害が「社会問題」化する。一部の地方自治体は公害防止に乗りだすが、産業界は真剣に取り組まないために政府の対策も弱体化される時期である。第三段階は一九七〇年から一九七三年。四大公害裁判の勝訴をさかいに、被害者の闘争が勝利する時期である。これに力をえて、光化学スモッグ・ヘドロ・鉛汚染・ひ素中毒・カドミウム・スモンなどの被害者たちが運動を開始する。そして一九七三年以後が第四段階である。この段階になると、空港・新幹線・原子力発電所・石油関連施設などの問題のように、公害問題と産業経済政策問題とが一体化するようになる。これらは国家の政策の方向性とじかにからむ問題であるだけに解決は非常に困難になる。さらに「来るべき次の段階」として「加害者・被害者いずれも可視的には存在せず、それゆえ被害者住民の反対運動が形成されにくい」タイプを指摘している。すでに述べた自動車排出ガス規制問題はたぶんにその要素をもっているという。33

▼33 梶田孝道、前掲書六三―六七ページ。

 第四段階以後はたいへん複雑な様相を帯びてくるので、ここでは立ち入らないことにするが、第三段階までのプロセスだけからでも次のようなモデルを見ることができる。

(1)問題が「社会問題」として開示されること
(2)被害者等の告発を起点として「社会運動」が開始されること
(3)運動体自身の組織化が進展すること
(4)新しい紛争の「土俵」が形成されること
(5)新しい状況定義、新しいパースペクティブが採用されること▼34

▼34 前掲書六三ページ。

 このプロセスをもう少しくだいて説明すると、こういうことだ。まず当事者にとって耐えられないような現実が存在する。それは当初は「仕方がない」と感じられているが、そのうちその現実を受け入れられないと拒否する人びとがあらわれる。「この現実は〈問題〉である」との告発がなされ、「仕方がない」と思ってあきらめている人びとや「問題ではない」とする人びとと活発にコミュニケーションをおこなうようになる。「今とはちがった別の現実がありえるはずで、その可能性を追求し、積極的につくりだしていこう」との強い意志が形成され、運動体の組織化が進む。「仕方がない」「問題ではない」「避けることのできない必然的な現象だ」という見方に対抗するために、問題状況が徹底的に分析され、それについての知識がより高度に更新される。運動が有効に進められるならば、その結果として社会全体に新しい合意がつくりだされ、問題状況の解消が社会的に試みられる。このように社会運動は、社会を反省的に修正してゆく有力な行為なのである。

 わたしたちは、社会の変化を、たとえば「技術の進歩」や「時代の流れ」といったフレーズとともに、一種の自然物の変化のように考えがちである。あるいは「政府の方針」や「企業の旺盛な経済活動」によってどうにでも社会が変えられてゆくようにも感じる。しかし、それは一面的な見方であり、傍観者的な見方である。あきらかにわたしたちはこの社会の内部にいるのであり、傍観者として社会の外部にいるわけではない。もっと主体相関的に捉えてゆくことが必要なのだ。リフレクションとは、まず第一に、あらゆる社会現象に対してこのような見方を徹底させてゆくことである。

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SOCIUS.JPドメインへの初出 7/18(thu), 2002  
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