Socius  ソキウス   著作+制作 野村一夫
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リフレクション

第二章 行為論の視圏――脱物象化と反省的行為
一 物象化された世界

少子化社会

 第二章で考えていきたいことは、わたしたち自身が社会を形成する主体であるということだ。本書では「主体」ということばをさしあたり「責任ある担い手」といった意味で使うことにしたいが、映画や演劇でいえば「監督」や「俳優」ときには「脚本家」に相当する。まず、自分たち自身がこの社会をつくっている当の責任者だということを自覚するところからリフレクションは始まる。いくつかの事例から、このことを考えてみよう。

 たとえば「少子化」と呼ばれる社会現象がある。「一・五七ショック」とか「一・五三ショック」として近年問題にされているからご存じの方も多いと思う。一九九三年ではほぼ一・五〇人である。これらの数字は合計特殊出生率といって、女性が一生のあいだに産む子どもの数の平均である。この数字が二・一を切ると人口が減少する。なにせ狭い国土である。土地も高い。受験競争も厳しい。人口が減少することのどこが問題なのだろう。

 そもそも「問題」にしているのがだれかを考えてみよう。それは少なくとも一般の人びとではない。「問題」にするのは、政府やテクノクラートそして人口学・経済学などの専門家である。というのは、近い将来、高齢者が多くなる上に、それを支える若年産業人口が極端に少ない状態ができてしまうからだ。年金の問題や税収の問題が深刻なものになるために、大所高所から見ると「望ましくない」のである。「ショック」ということばを受け継いでいることからわかるように、ジャーナリズムも基本的にこの論調で伝えている。1

▼1 マス・メディアは非常に高い割合で官公庁の見解をそのまま増幅して伝える。官公庁の見解は基本的に「テクノクラートの視角」からなされているから、それをうのみにすることはジャーナリズムの理念から見て問題がある。これを原寿雄は「発表ジャーナリズム」と呼ぶ。原寿雄『新聞記者の処世術』(晩聲社一九八七年)。

 ところで、この「少子化」を「女たちの反乱」と見る見方がある。男性中心的な社会環境のなかで仕事をし、夫の協力がほとんど期待できない家庭の仕事を一手に引き受けなければならない女性たちの事実上の「結婚・出産ストライキ」――もちろんそれは明確な意識に基づく統一行動ではないにせよ――だというのだ。

 この見方を頭ごなしに否定し冷笑的な態度をとる論者は多い。これもフェミニズム的ディスクールが必ず呼びおこす典型的な反応である。しかし、少なくともこの見方は、「少子化」を一種の自然現象とは考えないで、当事者の主体的な行為(あるいは主体的な選択)の結果と考える点で、冷笑的態度より数段すぐれているのではないかとわたしは考えている。「主体的な行為(選択)」といっても、当然、限られた条件下での選択であるにはちがいない。しかし、「限られた条件」を絶対視することはあやまりであるし、その場合、集合的な結果として生じた少子化という現象に対して反省的な回路を閉ざすことになりがちである。自然現象のように人びとの手を離れたものではなく、あくまでも人びとの選択の結果として現象を捉えるべきではないか。それはどう考えても社会現象であって自然現象ではないのだから。

 じっさい、詳しく分析してみると、女性の結婚が遅くなったこと(晩婚化)と、それに加えて、出産と育児をすませた女性が早々に再就職することが、少子化の最大の要因であることがわかっている。このふたつをあわせると「子産み期間の短縮」ということになる。では、なぜこういう選択を人びとがするのか。「経済的な苦しさを解消するため」というケースもありうるが、むしろ、一方で「家庭における子ども志向の強まり」が育児のコストを高め(子どもにお金をかけたい・かけるべきだ・かける価値がある)、他方で画一的な「幸福な家庭」イメージが拘束力を強める(「子だくさんで貧乏ぐらし」より「ひとりかふたりの子どもと中流生活」)。そのため若い夫婦は一種の板ばさみ状態のなかで「少子」を選択してきたということらしい。2

▼2 E・ベック=ゲルンスハイム『出生率はなぜ下ったか――ドイツの場合』香川檀訳(勁草書房一九九二年)の訳者による「解説」。なおこの本の本文のドイツの分析は近未来の日本の少子化を考える上で参考になる。「板ばさみ」については、江原由美子『ラディカル・フェミニズム再興』(勁草書房一九九一年)「出生率低下と〈家族の幸福〉」。

 そもそも家族はわたしたちがつくりだすものである。しかし、つくりだされた家族現象はあたかも自然現象のようにわたしたちの手を離れて解釈されてしまう。そしてその解釈が今度はわたしたちの知識に介入するのだ。

 同じことがもはや古典的なテーマとなった「核家族化」の問題についてもいえる。この問題にしても、それが「問題」であるのはなぜかについて反省してみると、「問題」であること自体が「問題」ではないかと思えてくる。このことばによって、わたしたちは、家族が地域社会から孤立し、子どもが過保護になり、老人の居場所がなくなるといった局面を、すべて「時代の流れ」として誤解してしまう。そこには主体としての自分たちがいない。じっさい、近代化・都市化・産業化という流れによって自動的に核家族化するのではない。家族社会学の研究によれば、夫婦家族制の理念の浸透が重要な要因であるがわかっている。3つまり人びとが「家族はどうあるべきか」という問いに対する答として選択した結果のインテグラルが「核家族化」として現象するのであって、核家族化という潮流に対して人びとが無抵抗に流されているのではない。しかし、議論では往々にして自動的な「時代の流れ」として処理されてしまうのである。

▼3 森岡清美・望月嵩『新しい家族社会学(三訂版)』(培風館一九九三年)一八六―一九六ページ。

障害

 次に障害に対するわたしたちの認識を点検してみよう。

 わたしたち日本人は往々にして障害をごく少数の人びとの問題と考えがちだ。たしかに日本社会における障害者の割合は非常に少ない。日本の障害者の割合はスウェーデンの八分の一である。これは「障害者が少ない」からではなく、日本社会における「障害」の概念が非常に狭くとられているからである。4

▼4 大野智也『障害者は、いま』(岩波新書一九八八年)一〇ページ以下。

 また、わたしたちは「障害があると必ず不幸だ」とも考えがちである。これも大きな問題だ。なぜ問題かというと、このことばにおける障害の概念が、じっさいには複雑な因果系列であるものを不当に圧縮して単純化してしまっているからである。しかし現実の障害は、かなり複雑なプロセスなのである。それを示すためにWHO(世界保健機構)による障害概念の定義を見てみよう。

 WHOによると、障害は、器官レベル・個人レベル・社会レベルの三つのレベルにわけられる。障害の一次的レベルは、疾病から直接生じてくる生物学的な「機能障害」(impairment)のレベルである。障害の二次的レベルは、機能障害によって、通常当然おこなうことができると考えられる行為が制限されたり不可能になる状態をさす「能力低下」(disability)である。三次的レベルは、その結果、かつてもっていたか、当然保障されるべき基本的人権の行使が制約または妨げられ、正当な社会的役割を果たせないことをさす「社会的不利」(handicap)である。

 たとえば、事故によって片足を切断した人の場合、機能障害のレベルでは、ひざから下がないことである。能力低下のレベルは、そのままでは歩けないということだ。そして社会的不利のレベルは、一部の肉体労働やラッシュ時の通勤の困難を理由として会社勤務ができなくなるということに相当する。たいせつなことは、この三つのレベルが自動的に連鎖するとはかぎらないということだ。片足がなくても、車イスや松葉杖を使用して移動することは可能だし、サッカーはできないにしても座って作業する労働や事務労働については支障はない。このように機能障害がただちに能力低下を意味するわけではない。それが社会的不利へと連鎖するかどうかは、少なくとも本質的には、わたしたちのリアクションしだいなのである。

 障害概念を三つのレベルに分析的に区別することは一見アカデミックな行為に見えるかもしれない。しかし、それによって、障害の本質がじつは障害と社会環境の関係であることをはっきりと認識できるようになる。わたしたちは障害をあたかも物理的現象(あるいは生物学的現象)であるかのように議論し、そのことを通じてじっさいに差別の一翼を担っているのであるが、障害はまぎれもなく社会現象なのである。「障害は不自由ではあるが不幸ではない。障害者を不幸にしているのは社会である」というヘレン・ケラーの有名な指摘はこの点を突いている。

 要するに、因果関係の順序が逆なのだ。結果にすぎないことを原因と錯誤してしまっているのである。さらにその錯誤自体が原因となって――たとえば企業の人事に決定権をもつ人が、機能障害を能力低下と一体のものであるという知識をもつことによって、採用のさいに障害者を何の考えもなく自動的に排除してしまうことを通じて――障害者の生活チャンスがじっさいに制約を受ける。その結果、障害者はほんとうに「不幸」になってしまう。悪循環の構造に気づいていくことが必要なのはこのためである。

自然的態度

 少子化と障害についての考察は、わたしたちにさしあたり次のようなことを教えてくれる。すなわち、反省的な態度で現象を見定めるのはたいへんにむずかしいということ、これは日常的意識のレベルにおいても、また、科学的研究のレベルにおいてもそうだということだ。

 日常的意識の水準における非反省的な態度を、かつてアルフレッド・シュッツは「自然的態度」(natural attitude) と呼んだ。5「自然的態度」とは日常生活の諸々のできごとを自明視することだ。つまり、日常生活者は日常のさまざまのできごとが現に目の前にあらわれている姿以外のものであるかもしれないという疑念をあらかじめ封じてしまい、あたりまえのことと感じてしまう。わたしたちは「ふだんのこと」に関しては、とくに関心を払わず「そんなものだ」と信じてしまっていて、「ひょっとすると別の可能性もあるな」とは考えないものだ。そのような状態が「自然的態度」である。

▼5 M・ナタンソン編『アルフレッド・シュッツ著作集第二巻社会的現実の問題[II]』渡部光・那須壽・西原和久訳(マルジュ社一九八五年)三四―三七ページ。

 ふだんわたしたちは、このような自然的態度において、型にはまった知識に基づいて行動したり判断をする。そのような知識は一般に「常識」と呼ばれている。典型的には「ステレオタイプ」(stereotype)とか「クリーシェ」(cliche`)といわれる言語形式として、わたしたちの頭のなかに宿っていて、日常生活においてあたかも合言葉のように頻繁に使用される。ウォルター・リップマンが指摘するように、それは一種の「思考の節約」のためである。わたしたちは、とりたてて支障のないかぎり、なるべくコストとトラブルの少ない方法で生活するのである。6

▼6 ウォルター・リップマン『世論』掛川トミ子訳(岩波文庫一九八七年)。 A・C・ザィデルフェルト『クリーシェ――意味と機能の相剋』那須壽訳(筑摩書房一九八六年)。

 かつてカール・マルクスがこういう指摘をしたことがある。資本から利子が生まれ、土地から地代が生まれ、労働から労賃が生まれるということが、生産当事者にとって自然なことのように感じられていることは、ちょっと考えてみると不思議なことであるというのだ。あるいは、たんなる紙にすぎない貨幣があたかも一定の価値を内蔵しているかのように見なされているという事実も、考えてみれば不思議なことだとマルクスはいう。モノがたんなるモノ以上のものとして――つまり価値が宿っているモノとして――人びとが認識し、尊重し、ときにはそれをめぐって醜い争いさえしてしまう。これは古代や中世の人びとが山や天候に神が宿っていると考えたり神の意志の現われと見なし怖れたのとまったく同じである。そこで、マルクスはこのような現象に対して「物神性(フェティシズム)」(Fetischismus)▼7とか「日常生活の宗教」(Religion des Alltagslebens)▼8といった表現を使った。これらは一種の信仰のようなものだというのだ。

▼7 マルクス、エンゲルス編『資本論(一)』向坂逸郎訳(岩波文庫一九六九年)一二九ページ以下。
▼8 マルクス、エンゲルス編『資本論(九)』向坂逸郎訳(岩波文庫一九七〇年)三二ページ。

物象化

 他方、社会現象を科学的もしくは理論的に見ようとする場合にも、非反省的な態度があらわれる。さきほどの例でいえば、少子化や核家族化をあたかも自然現象のように見なす人口学的な見方とそれに呼応する行政的対応がその典型である。技術的認識関心もしくは政策的意図によってなされた理論は概してそうなりがちである。

 このような非反省的な社会認識への傾きを「物象化」(Versachlichung/reification)という。物象化とは、要するに、自分たちがつくりだした結果に対して、あたかも自然現象のように自明かつ自動的なものと錯覚してしまうことだ。もちろん、ここでいう「自分たち」は「自分」ではないから、自分以外の人びとが勝手にやったことなんか自分の知ったことでないのはたしかだけれども、それを自明のものと黙認し、結果だけを享受していることは、じつはその事態の再生産にかかわっていることと等しい。社会現象においては第三者的傍観者も共犯なのである。

 このあたりの事情について説明するために、一種の限界事例として「カリスマ」について考えてみよう。一般には「あの人にはカリスマ性がある」とか「若者たちのカリスマ」といった使われ方をすることばであるが、「カリスマ」(Charisma)はもともとキリスト教神学の用語であり、それをマックス・ウェーバーという社会学者が宗教の成立についての議論のなかで理論的始点として設定した宗教社会学上の概念である。9ウェーバーによれば、カリスマとは、ある人物に宿ったと見なされる非日常的な資質のことである。たとえば、予言をしたり、飢饉のときに祈祷して雨を降らしたり、神がかってトランス状態になったり、人の前世をいい当てたり、病気を癒したり、あるいはそばにいるだけで至福の気分にさせたりするといった超人間的・超自然的な能力をいう。

▼9 マックス・ウェーバー『宗教社会学』武藤一雄・薗田宗人・薗田坦訳(創文社一九七六年)。マックス・ウェーバー『支配の諸類型』世良晃志郎訳(創文社一九七〇年)。

 ウェーバーはこのような能力が自然科学的な意味で実在するかどうかは問題ではないという。それを認める帰依者が存在すれば、それはかれらにとっては実在するといえるからだ。さきほどの定義でいうと「見なされる」にポイントがある。帰依者がカリスマを承認すれば、カリスマは実在する。もちろん「社会的に」である。つまりカリスマは、帰依者たちによってつくりだされる、れっきとした社会現象なのである。

 ところで、近年のオカルト文化(呪術的大衆文化)の流行のなかで、かつては占い師や超能力者が、昨今は霊能者がさかんにもてはやされている。真摯に信じている人もいるが、おおかたは一種のエンターテイメントとして受け取っているようだ。しかし一方では科学的な合理主義の立場からの批判もなされている。これは新新宗教をふくむ新宗教(幕末期以降に成立した宗教教団や宗教運動)に対する日本の知識人の厳しい非難にも共通する反応で、要するに、非合理なカリスマは科学的には(より正確には自然科学的には)認められないというのである。超能力や霊能力は自然現象ではなく、それを信じる人の錯覚や自己暗示によるのであり、よしんばそのように観察されたとしても何らかの形で自然現象として――たとえばプラズマ現象として――説明できるとするのである。

 このようにカリスマをはじめとする宗教的現象を人びとは自然現象として論じている。実在するという人たちでさえ(たとえば呪術者や宗教者側)「科学がまだそこまで達していないだけだ」という主張をする。要するに、いずれの側も、社会現象であるカリスマを自然現象として論じているのである。社会現象を自然現象としていくら議論しても始まらない。議論の土俵そのものがちがっている。プロレスのリングで相撲をするようなものだ。

 これが物象化の内実である。わたしたちがかかわりあうなかで発生する社会的事象を、あたかもモノのような自然現象として錯覚し自明化してしまうこと――これが社会認識の最大のむずかしさなのである。

 さきほど取り上げた貨幣にしても、じつは商品と商品の関係に基礎をもっており、さらに根底には商品と商品を交換する人間の行為が存在する。この交換という〈人と人との関係〉が、結果的として、あたかも貨幣に価値が内在しているかのように現象するのだ。物象化は通常「人と人との関係がモノとモノの関係としてあらわれたり、モノ自体の属性としてあらわれること」と定義されるが、それはこのようなことをいう。

 わたしたちは社会的事象を既定性の枠内でとらえがちだ。それは自然の事物のように変更不可能な存在なのだ、と。しかし、それは物象化的錯視である。それを疑うことから社会学的反省は始まる。

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