Socius  ソキウス   著作+制作 野村一夫
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リフレクション

第一章 反省的知識の系譜
三 リフレクションとは何か

リフレクションとコミュニケーション

 まず第一に確認しておきたいことは、リフレクションは基本的にコミュニケーションの力であるということだ。このことについて最初に系統的説明を与えたのはアメリカの社会学者(哲学者でもあった)ミードである。24

▼24 ミード、前掲訳書。

 ミードは、まずコミュニケーションを複数の個体の動作のやりとりと考える。個体Aの身ぶりに対して、個体Bが反応する。この反応がBの身ぶりとしてAの刺激となりAの反応を呼び起こす。これがコミュニケーションのもっとも原初的なユニットであり、このレベルでは「犬のけんか」も「恋人たちの会話」も同じである。これを「身ぶり会話」(conversation of gestures)という。しかし、後者――つまり人間のコミュニケーション――の場合、かれらは動物にはできない特殊な身ぶりを使っている。それは話しことばである。ミードはこれを「音声身ぶり」(vocal gesture) と呼ぶ。

 音声身ぶりが、動物の身ぶりや人間の他の身ぶりとちがうところは、相手に聞こえるのとほぼ同じように自分自身もそれを聞くということだ。他の身ぶり――たとえば表情――は自分には見えない。しかし、音声身ぶりによって、人間は相手に引き起こす反応を同時に自分自身のうちにも引き起こすことができる。つまり、人が他者に話しかけるとき、その人は自分自身にも話しかけているのであり、他者に呼び起こすのと同様の反応を自分自身のなかにも呼び起こすのだ。その結果、他者の反応(態度)を自分のなかに取り入れることができる。つまり、自分のやっていること(身ぶり)が自分自身にも理解できるというわけである。

 こうして、Pという「身ぶり」にはQという反応つまり「意味」が対応するという知識が蓄積される。「こういう状況で、こういうことをいえば、だいたいこういう反応(意味)になるんだなあ」といったぐあいである。25このように人間のコミュニケーションは音声身ぶりの使用によって反省的な過程になっており、その意味で人間コミュニケーションの本質はその「反省作用」(reflection)にある――というのがミードのコミュニケーション論の重要な論点だった。つまり、リフレクションは人間のコミュニケーション能力のもっとも重要な要素なのである。

▼25 ただし、あくまでも、情報そのものが移動するのではないから、これはどのような場合にも近似的なものにすぎない。なお、ブルーマーは「身ぶり会話」の水準を「非シンボリック相互作用」(non-symbolic interaction)と呼び、ミードが「有意味シンボルの使用」と呼んだ反省的な水準を「シンボリック相互作用」(symbolic interaction)と呼ぶ。ハーバート・ブルーマー『シンボリック相互作用論――パースペクティヴと方法』後藤将之訳(勁草書房一九九一年)一〇ページ。

 リフレクションを内包したコミュニケーションの現実的なプロセスのなかから音声身ぶりを媒介にして自我が生じる。したがって、自我があってコミュニケーションが生じるのではない。むしろ逆である。26ミードは、人間が、自分自身を行為の対象にできる存在であり、そのリフレクションの能力が、まさに社会を可能にする基本的な要因と見なしていた。27

▼26 たとえばミードは次のように述べている。「精神は、経験の社会的過程あるいは社会的文脈のなかで、身振り会話によるコミュニケーションをとおして生まれるのであり、コミュニケーションが精神をとおしていとなまれるのではない。」ミード、前掲訳書五六ページ。
▼27 ブルーマー、前掲訳書一〇三ページ。

 この観点を継承したハーバート・ブルーマーは、ミードのリフレクションへの着目を評価し、この過程を「自己との相互作用」(self-interaction)と呼ぶ。「自己との相互作用というメカニズムを持つことによって、人間は、自分の外部内部またはその双方からの作用によって単に動かされているだけの反応する生命体ではなくなる。反対に、自分が直面したものを解釈し、この解釈にもとづいて自分の行為を組織立て、自分の世界に向けて行為するのである。」28ここから、人間の結びつきの全領域を人間の能動的な形成過程として捉える視点が開けてくる。ここにリフレクション概念の第一の意義がある。

▼28 ブルーマー、前掲訳書八一ページ。

自己理解と他者理解

 第二点目は、リフレクションが自己理解と他者理解を同時にふくんでいることだ。あるいは、こうもいえる。リフレクションにおいて自己理解と他者理解は一体の現象である、と。

 そもそもリフレクションは自分を主題化し理解することである。つまり自己理解である。しかし、それは自分の内部から自分を捉えること(内観や悟り)を意味しない。リフレクションとは、自分自身を「外部の視点から見る」ことである。かぎかっこの部分は「距離をおいて見る」といってもよいし、あるいはまた「他者の立場から見る」といってもよい。いずれにしても、自分自身をあたかも他人を見るかのように捉え返すことである。したがって、この場合に理解される自己とは、他者としての自己である。

 人間においては、自分の存在自体が自分にとっての環境である。したがって、そもそも、わたしたちは、自己を理解するように他者を理解するというより、他者を理解するように自己を理解するのだ。自己の理解された局面――これをミードは「客我」(me)と名づけた――は、自己のなかの他者、あるいは他者化された自己なのだ。

 自己理解も他者理解も、事実的相互作用(じっさいにかかわりあうこと)としての言語的コミュニケーションにおいてのみ実現される。自己理解が新たな他者理解によって深まっていくこともありうるだろう。他方、他者の行動によって生じた社会現象を当事者の視点で捉え返すことによって自己理解も深まるのである。29

▼29 アンソニー・ギデンス『社会学の新しい方法規準――理解社会学の共感的批判』松尾精文・藤井達也・小幡正敏訳(而立書房一九八七年)二〇ページ。

実践的反省と社会学的反省

 リフレクションは他者理解を媒介した言語的な自己理解である。では、このとき「理解」するのはだれか。

 伝統的な社会学とりわけマックス・ウェーバーの理解社会学において「理解」は方法論的概念だった。つまり、自然科学者が経験的観察によって自然現象を科学的に分析するように、社会科学者とくに社会学者は社会現象を「理解」によって科学的に分析するとされ、社会学者の科学的分析方法として「理解」が位置づけられてきたのである。ところが最近は「理解とは、それ自体社会における人間生活の存在論的条件にほかならない」30とするギデンスのように、「理解」を社会学者の特権的行為とは考えなくなった。それは社会を可能にする重要な契機に他ならない。

▼30 ギデンス、前掲訳書二〇ページ。

 リフレクションはわたしたちの日常生活のなかにある。わたしたちは反省する。これが「動物の社会」と呼ばれるものと「人間の社会」との本質的なちがいである。

 したがってリフレクションには一種の階梯を想定することができる。たとえば実践的反省と社会学的反省を分析的に分けることは可能である。つまり、人間的コミュニケーションに普遍的な要素としての実践的反省一般と、高度な合理的推論による社会学的反省という段階にである。日常生活者の実践的反省は不徹底で均質でない。それに対して社会学的反省は論理的に首尾一貫していて均質であろうとする。とはいえ、この基準ではじっさいに両者の境界を定めることはむずかしい。というのも、この点では両者は連続しており事実上一体のものともいえるからだ。社会学的反省は実践的反省に根拠をもち、実践的反省は社会学的反省から影響を受けうるからである。

 むしろ、こう考えるべきだろう。社会学的反省は実践的反省を反省する、と。つまり日常生活における実践的反省それ自体を反省する「反省の反省」として社会学的反省を位置づけるのだ。いわば「メタ反省」である。

 人間は反省的であり、反省的に社会を形成していくが、個々の生活場面においては十分反省的であっても、社会全体については不十分なことが多い。それにはそれなりの理由(反省抑圧の構造)があり、社会全体について反省的に認識し行為しなければならない理由(市民社会の主体的形成)もある。社会システムが拡大し複雑化しているから、それはかんたんなことではない。そこで社会全体についての反省的認識が要請される。社会学はその人間的な反省的営みのひとつの「工夫」である。社会学の実践的意義もここにある。

反省する主体

 反省する主体は何かという問題に関してもうひとつ確認しておかなければならないことがある。反省する主体が社会学者であれ日常生活者であれ、それは第一次的には、もちろん人間である。人間だけが他者を理解し自己を理解することができる。では、人間だけか、というと話はそれほど単純ではない。もし人間だけが反省の主体であるというのなら、リフレクションの議論は自我論や社会的人間論にとどまることになる。もっと広がりのある展望――すなわち社会理論――に対しても議論が開かれていることに注意しなければならない。

 リフレクション概念の外延的コノテーション(わざわざその概念を使う含み)は、おそらく、たんに人間だけが反省の主体でないことにある。集団・組織・地域・国家などの社会単位(これらを社会形象という)も一種の反省の主体と見なしうる。もちろんこれら社会形象の擬人化は慎まなければならない。第一次的には反省の主体は人間である。しかし、人間たちが形成するさまざまな社会形象が、その内部でおこなわれる人びとの反省的なコミュニケーションによって、あたかも〈反省の主体〉であるかのように現象することは十分ありうることである。だから、リフレクションの思想家たちは一様に反省主体を拡張してきた。たとえばミードは人間的コミュニケーションにおけるリフレクションの文化的意義を強調したのちに「社会の反省」を構想している。いわば「反省する社会」である。また反省社会学の創始者グールドナーも「合理的討議の共同体」「批判的言説の文化」を構想しているし、批判理論の最前線にあるハバーマスも「理想的発話状況」をテコにして「市民的公共圏」の再建をめざす。日本では今田高俊が、「自己の社会化」に力点をおいて理解されがちだったミードの「反省作用」論に対して、「社会の自己化」に力点をおいた「自省作用」を区別して「自省社会」を理論的に展望しようとしている。人間のリフレクションと社会のリフレクション――この両者を故意に混同することは避けなければならないにせよ、リフレクションの議論はこの両者を連動するものとしてともに問題にすることになる。おそらくここにシステム論的発想の理論的不可避性が存在するのだろう。社会システム論の魅力は何といっても人間だけが主体ではないことを提示しているからである。

 ところで、反省概念を中核に設定して社会を論じていくことのむずかしさは、それがしばしばヘーゲル主義へと傾いてしまうことにある。「ある究極的な主体の壮大な反省過程としての社会」のイメージがそれである。したがって、とくに注意を払うべきことは、反省する主体を実体化しないことである。独我論ではなく対話的場面に議論を引きずりだすスタンスをたもつことが重要だ。つまり、反省主体とはコミュニケーション主体であること、さらにいえば、むしろ反省主体とは社会的学習過程そのものであって、特定の担い手(たとえば労働者・浮動する知識人など)を想定しないと考えた方がいいかもしれない。だから本書で使用される「わたしたち」も、社会のメンバーひとりひとりが個人の資格において反省的コミュニケーションの場に立ち合うという意味においてのみ使われると考えていただきたい。

現実と理念

 第五に、リフレクションは、現実をさす概念であると同時に理念をさす概念である。

 たとえばミードは次のように述べている。「もしもコミュニケーションが完全におこなわれ、とことんまで遂行されたら、わたしが言及しておいたような種類の民主主義が実現し、そこではすべての人が共同体内に自分が呼びおこしたことを知っている反応を自分自身のなかにいだくだろう。こうしてコミュニケーションは、意味深長な意味でその共同体における組織化過程になっていく。それは単なる抽象的シンボルの移動過程ではない。それはいつでも、他人たちのなかに呼びおこすのと同一の行動傾向をその人自身のなかに呼びおこす、社会的行動としての身振りである。」31ここで言及されている民主主義とは、みんなが同じように平準化されるような社会秩序のことではなく「個人が、その人の遺伝という可能性の枠内でできるかぎり高度に発達でき、さらには自分が影響を及ぼしている他人たちの態度にまで参入できること」である。32

▼31 ミード、前掲訳書三四〇ページ。
▼32 前掲訳書三三九ページ。ただし一部修整した。

 ミードは、リフレクションの現実的基礎について論じるとともに、その基礎の上に理念としてのリフレクション――つまり「コミュニケーションを通して合理化されつくした社会」33――の可能性を描くのである。ミードが理想とするのは、カール-オットー・アーペルの用語を借りれば「コミュニケーション共同体」である。34

▼33 ユルゲン・ハーバーマス『コミュニケイション的行為の理論(中)』藤沢賢一郎・岩倉正博・徳永恂・平野嘉彦・山口節郎訳(未来社一九八六年)二五三ページ。
▼34 カール-オットー・アーペル『哲学の変換』磯江景孜ほか訳(二玄社一九八六年)。

 ハバーマスはミードの「理想的なコミュニケーション共同体の構想を目指している行為論」に着目し「理想的な共同体というユートピアは、諸個人相互の強制のない了解と強制なしに自分自身を了解する個人のアイデンティティとをともに可能にするような、傷つけられていない相互主観性を再構成するのに使える」として、みずからの社会理論に採り入れている。35

▼35 ハーバーマス、前掲訳書一八二ページ。ただし一部の用語法を修整した。

 リフレクションは基本的には主体形成の基礎ロジックであり、個人の主体性・自律性・能動性を可能にする原理である。しかし、同時に理念的な社会の構想を可能にする現実的基盤でもある。それはユートピア性をもつが、たんなる夢想ではない。これを「経験科学からの逸脱」と否定的に評価することはかんたんだが、すでに現実が理念を含んでいる点から出発しているから経験科学の範疇を逸脱しているわけではない。そもそも社会理論としての意義は、全体社会の現実を分析し、理念の根拠を問いただし、理念の現実化を具体的に展望するところにある。とすれば、社会学的反省がめざすところも「反省する社会」というひとつの理念である。しかし、その理念的要素は現実のなかに存在し、現実を更新する。じっさいには現実のなかの理念的要素は歴史的な経過によって抑圧されていることが多い。社会学的反省はその抑圧を鮮明化し、現実に内在する理念的要素を解放するにすぎない。  以上のようにリフレクション概念には、社会学者と日常生活者、個人と社会、認識と実践、現実と理念……といった対立的契機を連接する働きがある。その分、概念としては明晰性を欠きがちであるという弱点をもつが、その反面、社会理論としては独特の展開力を発揮するわけである。本書では、この連接的機能に焦点を集めて議論を進めてゆきたい。

〈明識の科学〉の視圏へ――本書の構成

 これからリフレクション概念を導きの糸にして〈明識の科学=社会学〉についてくわしく論じることにしよう。そのさい、行為論・知識過程論・権力作用論・コミュニケーション論の四つの視圏に議論を分けることにしたい。「視圏」ということばは、ひとつの視点から見渡すことの可能な社会領域といった意味で、かつて阿閉吉男がウェーバーの複眼的な社会理論を把握するさいhorizonの訳語として導入したものである。36ここでは「見える範囲」と押さえておいてほしい。

▼36 阿閉吉男『ウェーバー社会学の視圏』(勁草書房一九七六年)。「地平」という訳語もあるが、わたしは「視圏」の方が的確だと考えている。なお、この概念は現象学的社会学の重要概念でもある。

 〈明識の科学=社会学〉はさしあたり複数の視圏のアンサンブルとして記述できる。それらの視圏は相互に関連し、相互参照する関係にある。ときには同一の現象がまったく異なる相貌のもとにとらえられることがあるかもしれない。視圏とはそういう概念である。それぞれの視圏のなかで、リフレクションのさまざまな局面について考えていきたい。

 まず第二章「行為論の視圏」においては、物象化の問題を取り上げ、その非反省性を確認し、脱物象化としてのリフレクションについて説明する。そして「行為や運動の主体としての人間」と「人間によって生産され再生産される社会」という一対の見方を提示したい。前半ではおもに認識の問題としてリフレクションを論じ、反省的認識の必要性を主張したい。後半は具体的な実践としてのリフレクションについてふれ、状況によって人間が反省的に行為することを提示したい。

 第三章「知識過程論の視圏」では、そのような人間がいかにして社会をつくりだすかについて考える。その基本条件としての知識の重要性を論じたい。人びとがもっている知識によって社会はいかようにも生産されることを説明したい。そのなかで、人間はみずからを反省しながら社会を形成するという構図を確認することになろう。

 つづいて第四章「権力作用論の視圏」では、前章において豊かな可能性として提示されたリフレクションが、現実にはしばしばその可能性を制限されたものになっていることを指摘したい。人びとの反省的知識を制約する「歪められたコミュニケーション」を現代日本社会に即して具体的に点検する予定である。

 最後に第五章「コミュニケーション論の視圏」と第六章「高度反省社会の課題」では、権力作用に距離をとる対抗的な戦略としてリフレクションを位置づけ、高度に反省的な社会形成の可能性を探りたい。この場合のリフレクションは高次の社会学的反省である。第五章では「反省する社会」の構造原理と実現可能性を考える。つづく第六章では、現実がどこまで迫っているかを具体的に展望したい。

 なるべく議論を複線化したりツリー状にさせたりしないで単線的に進めたいと思うが、ことの性質上、議論は直線的なものではなく、らせんのように、視圏を交替させつつ何度も同じ場所に立ち戻りながら、徐々に反省の階梯を高めてゆくことになるだろう。

 ともあれ、わたしたちの社会に反省性を高めなければならないというのが本書の主張である。そのために社会学は何ができるか、わたしたちは社会学から何を学べるか――について考えたい。この問いに対する本書の基本仮説は、社会形成には反省的コミュニケーションが不可欠であり、社会学は反省的知識(明識)の科学として高度に反省的な社会形成に貢献できる、ということだ。

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