Socius  ソキウス   著作+制作 野村一夫
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リフレクション

序論
二 臨界の兆候

選挙における棄権

 一九九三年の衆議院選挙は、政権交代の鳴り物入りでおこなわれたにもかかわらず、三割強の有権者が棄権するという戦後最低の投票率(全国平均六七・二六%)だった。しかし、同時に、テレビの選挙速報がかなりの高視聴率をはじき出したのもこの選挙の特徴だった。関心はあるが依然として参加はしないという人が非常に多いのである。いわゆる「有権者の観客化」である。

 棄権する人びとは多様である。まったく政治に関心がない、いわゆる政治的アパシーもある。あるいは、野次馬的なかかわり方しかしない人びともいる。また、既成政党――ときには政治全体――に対して不信を抱いているために、批判的に棄権する人びともいる。

 もちろん、人びとの生活の世界から遠く隔たった政治システムの構造的な問題が背景に存在する。そのために「生活者の視角」で政治過程を捉えるのは、たいへん困難なことになっている。なるほど、政治についてのことばは満ちあふれている。しかし、その多くは「権力のことば」であり、そこには「テクノクラートの視角」が染みついていることが多い。これでは、自分の生活の世界に政治を位置づけるのはむずかしい。

 もちろん棄権だけを問題にするのは一面的であろう。既成政党に投票した人たちも、自らの主体的選択ではなく、計算し尽くされた組織票として機械的に投票しているという側面も指摘されなければならない。そこに自発性はあるだろうか、あるいは、個人としての社会認識が反映されているだろうか、これも問われなければなるまい。しかし棄権は、それがかりに批判的な意図をもったものであるとしても、結果的には確実に組織票の影響力を押し上げることになる。棄権が増えればそれだけ利害団体や圧力団体の力が選挙結果に反映されやすくなるからである。

 さて、一九九三年の衆議院選挙について政治社会学者の栗原彬は、この選挙の棄権率を絶対得票率との関係で分析し、棄権者の代表的なタイプはふたつあるという。6

▼6 栗原彬「市民社会の廃墟から――『心の習慣』と政治改革」『世界』一九九三年一〇月号。

 ひとつは「何度投票しても同じ」として政治に失望した「非政治」層。もうひとつは、自分に合うもの以外に関心の回路をもたない、若くて明るい「非政治」層。かれらに見られるのは、生活保守であり、政治への無効性の感覚である。栗原は、このような市民社会側の問題として五つの「心の習慣」を指摘する。それは「欲望の達成方式」として、わたしたちの社会に定着してしまったことがらである。その五点とは――

(1)お上による利益誘導と利益配分の制度が育てた「お上意識」 (2)第二のムラやイエとしての組織に依存して欲望の達成をはかる「組織依存志向」 (3)機構化と管理化のなかから生まれる、普通の人びとの「権力志向」 (4)組織や権力に自己欺瞞的に服従する「自発的服従」 (5)社会全体の幸福量の増大のためには多少の犠牲はやむをえないとする「最大多数の最大幸福」志向

 これらの「心の習慣」が結果的に、人びとに政治参加しない傾向を導き、それが政党政治そのものの地盤沈下に手を貸してきたし、現に貸しているとかれは分析する。栗原はいう。「腐っているのは政治の世界ばかりではない。市民社会もまた、明るさと清潔さの中に静かに腐っている。政治改革の声は、政治の世界に向けられるだけでなく、市民社会にも投げ返されねばならない。」7これはたいへんに厳しいことばであるが、政治に責任をもつ市民として真摯に受け止めるべきだろう。テレビ報道ではもっぱら政治家の反省が求められていて有権者の側が批判されることは少ない。ジャーナリズムは受け手批判が苦手(むしろタブーというべきか)であるためにこういうことになりがちだが、今問われているのは、政治家の反省だけではなく有権者の反省なのである。

大学教育における私語

 次に現代の大学の問題を見ていこう。あいかわらずのマスプロ教育・大学設置基準の「大綱化」によるカリキュラム改革・一八才人口の減少にともなう「大学冬の時代」問題など、さまざまな問題が今の大学にはあるが、なかでも現代的な問題として日常的に教員を悩ませているのが大学生の私語である。

 教育社会学者の新堀通也によると、一九六〇年代後半からすでに私立の女子短大で問題化し始めていた「大学生の私語」という現象は、一九八〇年代に入って一気に全大学共通の問題へと一般化したという。歴史的にも文化的にも、これは、現代日本の大学にほぼ特有の現象である。私語は、授業中の教室という公的な場でなされる私的なおしゃべりであり、結果的に講義という公務を妨害してしまう逸脱行動(ルール違反の行動)である。けれども当事者の学生に悪気があるわけではなく(悪いことをしているという自覚もない)、他方、教員の側にも不満こそあれ、私語そのものに科学的分析のメスを入れるまではいたらず、たいていは「学生ダメ論」(「学生の質が落ちた」という嘆き)としてくすぶっていることが多い。8

▼8 新堀通也『私語研究序説――現代教育への警鐘』(玉川大学出版部一九九二年)。

 もちろん、多くの論者が指摘しているように教員側の自己点検がまず必要だ。しかし、昨今の大学論・教授論モノの出版ブームに見られるように、おそらくこちらの方は分析が容易である。9むしろ私語する現代学生の意識と行動についての分析の方がはるかにむずかしい。というのも、私語はそれが無邪気におこなわれるだけに問題としての根が深く、たんに「学生の質」の問題ではなく、むしろ「現代日本の教育的問題状況の象徴」といえるものをもっているからだ。10

▼9 鷲田小彌太『大学教授になる方法』(青弓社一九九一年)。鷲田小彌太『大学〈自由化〉の時代へ――高度教育社会の到来』(青弓社一九九三年)。桜井邦朋『大学教授――そのあまりに日本的な』(地人書館一九九一年)。桜井邦朋『続大学教授――日々是好日』(地人書館一九九二年)。
▼10 新堀通也、前掲書三一―三二ページ。

 新堀通也が指摘する学生側の問題点を任意に列挙してみると、(1)公私のけじめの消滅、(2)私的行動・レジャー行動としてのテレビ視聴の構図を授業に持ち込むこと、(3)大学入学以前の段階で子ども中心(本位)のあつかいを受け、許容されることになれていること、(4)学校の事なかれ主義の風潮のなかでマジメに対する冷笑的態度が多数派になっていること、(5)学生の大衆化(かつて大学への進学者は同年齢の一割だったが現在はほぼ四割)、(6)不本意就学・不本意在学・不本意出席、がある。他方、大学側の問題として、一八才人口減少にともなう学生消費者主義(大学は学生にサービスしなければならないという考え方)があるという。11

▼11 前掲書。

 これらの背景にあるのは、消費による自己形成である。こうした傾向にいち早く気づき「モラトリアム人間」論を展開した精神科医小此木啓吾は、これに関して次のように説明している。「旅行であれ、デパートでの買い物であれ、映画鑑賞であれ、いずれも消費行動であり、気楽で気分本位な暫定的・一時的なかかわりである。"本当の自分"を賭ける必要のない遊びである。そして、人々は、その営みのなかで解放感を味わい、お客さま気分を楽しみ、このお客さま気分が自己評価を高め、人間的な満足感を誘う。」12成熟消費社会の申し子たる現代の大学生たちが「お客さま気分」を無自覚に教室に持ち込むとき、私語が発生するのは時間の問題である。

▼12 小此木啓吾『モラトリアム人間の時代』(中公文庫一九八一年)五二ページ。

 さて、新堀は、もうひとつの背景である「情報化」が反主知主義を社会に生み、それが現代の大学生にも反映しているという重要な指摘をしている。反主知主義とは、知性よりも感性を重んじる考え方である。

 一九七〇年代から顕著になった情報化の潮流のなかで、(1)情報取得がかんたんになった分、情報の希少価値(いわゆる「ありがたみ」)がなくなり、(2)情報が短命化することによって使い捨ての傾向が強まり、人びとは長期間の学習を避け結論や要約だけを要求するようになり、さらに(3)本来は主体的な判断を人びとに要求するはずの情報の多元化が、それに対応できない人びとに、かえって〇×式思考や一刀両断的解答への要求を生み、(4)情報が市場価値をもつ商品として生産されるため、努力をきらう消費者の性向に合致した情報だけが大量生産され流通するようになる。13大学が直面しているのは、このような反主知主義の洗礼を受けた学生である。かんたんには接近できない高度な学問や、「すぐ役に立つ」わけでない教養への積極的態度をかれらにつくりだすのはむずかしい。これが私語の背景にあるというわけだ。

▼13 新堀通也、前掲書一二二―一二六ページ。

 このように分析していくと、私語する大学生は、「質の悪い」一部分ではなく、まさに現代日本社会そのものであり、ただでさえ古い体質の残る教員側と大学側がこれに対処できないのは、むしろ当然のなりゆきといえそうである。おそらく当の大学生自身が「消費のことば」によってのみ自己を理解しているかぎり、事態の改善は見込めないだろう。

企業における反社会的行為

 第三の兆候として取り上げたいのは企業の問題である。日本企業はすでに世界有数の地位を占めている。しかし、その一方で、国内では犯罪・不祥事・スキャンダル・不法行為・反社会的行為などがあいついで発覚し社会的非難を招いており、他方、海外からは――たとえば日米構造協議などを皮切りに――その経営の実態が「アンフェア」であると批判されつづけている。

 たとえば建設業界において談合は必要悪といわれてきた。指名競争入札制度があるかぎり、業者はそれで対抗せざるをえない、そうでないと採算割れしてしまうというのである。そこにはそれなりの切迫した理由がある。しかし、印刷業界における「シール談合事件」が脱税の調査のなかで発覚したことからも推察できるように、談合・脱税・政治家との癒着・ヤミ献金・企業ぐるみ選挙・下請けいじめといった事象は一体のものとして機能している。いってみれば、これらはひとつのシステムなのである。

 たしかにそのシステムの内部では均衡が保たれ、各要素が巧妙に整合しているように見える。しかし、その秩序は、システムの外部環境との不均衡によって成立可能になっていて、それはたとえば、有害物質のたれ流し(公害)や危険な産業廃棄物の投棄、政治家へのリベートをあらかじめ折り込んだ入札価格(税金の不正な使用)、社外労働者(パートタイマー・下請け労働者・アルバイト)や女性社員の低賃金労働(いわゆる日本経済の二重構造)、税金対策に名を借りた事実上の法人税の脱税、14消費者への危険負担(食品公害・薬の副作用による薬害)、自然環境の破壊(地方建設業界の仕事をつくるためにおこなう不必要な公共土木工事)、価格高騰による土地と人間の分離(土地所有の法人化)などを必然的にともなうのである。

▼14 税金対策としての法人税脱税の実態については、富岡幸雄「不公正税制」文芸春秋編『日本の論点』(文芸春秋一九九二年)。

 他方、企業はその内部においても「慣行」の名の下に多くの歪みを内在させてきた。過労死のように、極端な悲劇となって現象するケースは、大きな社会問題として広く知られるところである。15そこまでいかなくても、サービス残業・「研究会」「学習会」名目の早朝出勤・QC活動などを「自発的に」させる雰囲気をつくったり、過剰なノルマを課したり、企業批判する者に露骨な差別待遇をしたりするという形で労働者を追い込んできた。

▼15 過労死弁護団全国連絡会議編『過労死!』(講談社文庫一九九二年)。

 また、日本の大企業はこれまで障害者を原則的に排除してきた。日本では障害者雇用促進法によって従業員の一・六パーセント以上の障害者を雇わなければならないのだが、多くの大企業は納付金を払ってでも障害者を雇用していない。それに対して、労働組合もふくめて多くの社員は異議を唱えないのがふつうである。16しかし、ひとたび交通事故や卒中などで障害者になる可能性をだれもがもっている。当人がどんなに高い評価をそれ以前に受けていたとしても、障害者になったそのとき、ほとんどの企業は何のためらいもなく当人を障害者として排除するはずである。

▼16 大野智也『障害者は、いま』(岩波新書一九八八年)。小笠毅『就職を拒否される若者たち』(岩波ブックレット一九九二年)。

 企業はもともと人間ではないのだから「非情」であるのは当然のことだ。したがって問題は、企業を日常的に支えている人びとの意識と行動にある。一般に、有能な企業人は、人生前期に障害を負った人をきびしく排除する。しかし、そのことが、人生後期に障害を負うかもしれない――事故がないとしても老化は確実にやってくる――自分たちを潜在的に排除していることに気づいていないか、気づいていても真正面から見ようとしていない。日本では、多くの企業人が「終身雇用」ということばを無自覚に受け入れてきたが、このことばは日本企業の実態とすでに乖離してしまっているのだ。

 ここでは「権力のことば」が静かに人びとを圧しているように思える。「権力のことば」は、本来はまったく別のものであるはずの個人と会社とを一体のものと見なす視点を供給する点で、自己欺瞞を招く。たとえば「リストラ」――このことばは基本的に経営陣によって採用されたものだ。その点で基本的に「権力のことば」である。しかし、多くの会社員は「時代の要請」としてそれを受け入れている。しかし、そのことばの名の下に実行されるのは、自分たちの人事であり、望まない職場への異動であり、場合によっては出向や依願退職勧奨なのである。社員が「権力のことば」から距離をとり、何より自分自身を企業組織と同一視するのをやめることから、おそらく企業社会の「体質改善」が始まるはずである。

 思えば、一九六〇年代に顕在化した公害問題から一九九三年の談合問題まで、さまざまな企業批判がなされてきた。そのバッシングに対して、企業はこれまで主としてパッシング(やりすごすこと)の戦略をとってきた。バッシングを「不当」と見なすからである。17そのために、次つぎに形を変えながらも、企業の反社会的行為は連綿と続いてきた。18その歴史からいえば、ほんとうに必要なのは、外部からのバッシングよりも、企業内部の自己反省なのである。

▼17 宝月誠編『薬害の社会学――薬と人間のアイロニー』(世界思想社一九八六年)。
▼18 たとえば宝月によると、大規模な薬害事件の生じたころの製薬企業は薬事行政や報道などの外部の環境を甘くみていたが、現在はむしろ過敏になっているという。しかもそれらを不当とみなす傾向が強いため、戦略的に対処することが多く、みずからをきびしく律する用意は乏しい。一般に、企業が行政機関の監視や指導や審査能力、あるいは消費者や世論の反作用といった統制環境の能力を低く評価したり、不当とみなす度合が高いほど、企業逸脱に関与する可能性も高まるという。宝月誠編、前掲書一二二ページ。

医療における院内感染

 医療には多くの問題が目下噴出中である。八〇年代後半に頻発し九〇年代になって社会問題化した、いわゆる「院内感染」もそのひとつだ。院内感染とは、抗生物質の使いすぎによって、もはや抗生物質の効かなくなった耐性菌(たとえばMRSA=メチシリン耐性黄色ブドウ球菌)が出現し、病院内に定着してしまうことである。健康な人がこの耐性菌に感染しても大したことはないが、手術直後の患者や体力の弱った患者の場合、感染すると致命傷になってしまう。そのような人に耐性菌を媒介するのは、医療現場の医師や看護婦、患者とその家族、食器、医療器具など、病院のあらゆる人と物である(交差感染)。治療者側が治療のプロセスのなかで結果的に患者を死に追いやってしまうことになるという、たいへん皮肉な現象である。それだけに医療現場の日常的な感染予防管理が問われる問題となっている。

 院内感染が広く知られるようになったのは、手術成功後の院内感染によって死亡した男性患者の妻である富家恵海子の著作によってだった。19彼女は「この院内感染の起きる原因及びそれを蔓延させる背景は、医学的であるだけでなく、多分に社会学的である」という。20医学的理由としては、まず何よりも、強力で効能の広い抗生物質(第三世代セフェム剤)を安易に長期にわたって使用してきたこと。抗生物質乱用のため耐性菌ができてしまったのが直接的な原因である。アメリカでは抗生物質はかぎられた患者しか使えないが、日本では使い放題であり、とりわけ強力な第三世代セフェム剤は薬価が三千円前後で薬価差益が大きいこと(ちなみにペニシリンは薬価一五〇円前後)もあって乱用されることになった。21つぎに、高度な医療機器や技術の発達のなかで、消毒・手洗い・清掃のような基本を軽視する傾向があったことも重要な要因である。

▼19 富家恵海子『院内感染』(河出書房新社一九九〇年)。富家恵海子『院内感染ふたたび』(河出書房新社一九九二年)。
▼20 『院内感染ふたたび』七三ページ。
▼21 保険薬の場合、それを使用することによって健康保険から病院に支払われる金額と、じっさいのその薬の実売価格とのあいだに差がある。後者の方が安いので、薬を使用することによって生じる薬価差益は、直接、病院の収入になる。当然、単価の高い薬ほど薬価差益が大きいので、病院は高い薬を大量に使うようになる。これが、患者サイドの薬願望と相乗することによって、いわゆる「薬漬け医療」が常態化してきたのである。

 これにはさらに社会学的理由があって、これが、たとえばMRSAについての研究論文を発表している院長のいる大病院でさえ患者を院内感染で死亡させているという現況の要因になっている。富家の挙げるところによると、(1)医師が、さまざまな分野に関係する複合的現象をトータルに取りあつかうのを苦手とする専門家集団であること、(2)医師や看護婦の卒後教育のシステムが整っていないこと、(3)多忙を言い訳にして病院全体で協力して取り組めないというチームワークの悪さ、(4)おそろしいほどの施設の貧困さ、があるという。22

▼22 『院内感染ふたたび』七三ページ。

 この他にも、大学病院の場合、各科のセクショナリズム、臨床より論文を競う傾向、極度に細分化された専門領域、労働力としてこき使われる研修医の問題、病院長のコーディネイト力の低下などの問題が複雑に絡み、さらにこの背後に、国民皆保険による医療費の使い道に対する国民の意識の甘さ、院内感染防止への国の無策、高い薬を使って薬価差益を稼がねばならない医療費のしくみがある。その意味でMRSAは「日本のゆがんだ医療システムのなかで構造的に生まれてきたもの」なのである。23

▼23 『院内感染』一二八ページ。

 このような現状に対して、おそらく「もっと患者の視点を!」という要求がでてくるにちがいない。しかし、患者の視点は「しろうと考え」として医学的専門知識全体がこれまで排除してきた視点である。それを改めて要求することは、医療関係者にとってたいへん酷なことであるけれども、それ以外に根本的解決の道はありえないのである。

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