Socius  ソキウス   著作+制作 野村一夫
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リフレクション

序論
一 消費のことば、権力のことば

充満することば

 「ことば」が満ちあふれている。多数派の意見をますます多数派に増幅するテレビ、どの知識が検定済みかを告知し教育する学校教科書、広報担当者の演出通りにたれ流される官製情報、ほとんど毎日がお祭りのようなスポーツ紙、電車のなかの饒舌な中吊り広告、十年先ではなく半年先を将来予想するビジネス書の平積み、食べるより語られるグルメ、ニューモデルについての新着情報、凶悪犯人の経歴と「素顔」、それ自体が難易度を高める受験情報・就職情報・住宅情報……。

 こうした「ことば」の洪水をわたしたちは、あるときは「メディア文化」として、あるときは「情報化」として、あるいは「消費されるべきサービス」として、さしたる疑念もなく、その恩恵を日々享受している。わたしたちにとって問題なのは、それが「役に立つ」か、あるいは、それで「楽しめる」かであり、多くの「ことば」はその要求に応えるために絶えることなく生産されている。もともとこうした需要には限界がないから、人びとの一定の要求水準を満たして支持された「ことば」は、さらに限りなく再生産され、大量に提供されつづける。

 たしかに「ことば」は満ちあふれている。それゆえ現代社会は相当な自負とともに――それはたぶんに「ことば」の供給者の思惑が含まれてはいるが――「高度情報社会」とも呼ばれている。しかし、もっぱら「ことば」の消費者(受け手)であるわたしたちにとっても、ほんとうにそういえるのだろうか。このさいわたしたちが問いかけてみなければならないのは、現代社会に満ちあふれているこれらのさまざまな「ことば」の内実である。

消費のことば

 たとえば大学のクラスやサークルあるいは就職したばかりの会社で新人として自己紹介したときを想いおこしてみよう。はじめて出会った同級生や先輩に、自分がどういう人間なのかを伝えなければならないとき、わたしたちはしばしば「好きなもの」でそれを表現しようとする。「〜が好きな自分」という形で自己を提示すること――すなわち、スポーツ・旅行・オーディオ・音楽・パソコン・クルマ・バイク・ゲーム・コミック・ファッション・食べ物・タレントなどに関する趣味によって自己を表現すること――これこそ、今もっとも無難な自己提示の方法である。

 このようにわたしたちは、自分を〈他人とはちがう〉個性的な存在であることを示すために、しばしば消費社会という文脈を利用する。消費の世界では、購買力と〈好き―嫌い〉の選択だけが消費者にとっての唯一の権力源泉(他者に思い通りの影響を与えることを可能にする根拠)であるから、現代社会は、とにもかくにも〈好き―嫌い〉をはっきり表明することが尊重される社会である。だから、わたしたちは〈好き―嫌い〉に関しては明確な答をあらかじめ用意しているものである。それによって自分を似たような他人と区別する。こうしたことの積み上がりの結果、自我形成もこの座標軸にそっておこなわれるようになる。「〜が好きな自分」というクリーシェ(型にはまった考え方や表現)は、たんに無難な自己提示というだけではなくて、現代人とくに若い世代にあっては、もはや自分そのものでさえある。1それだけわたしたちは消費生活に深く依存しているわけであるが、逆に「〜が好き」をのぞくと、自分が何者でもないことに今さらながらに気づかされるものだ。

▼1 消費社会における自我形成に関しては、山崎正和が『柔らかい個人主義の誕生――消費社会の美学』(中公文庫一九八七年)において、現代の購買行動が「商品との対話を通じた一種の自己探究の行動」であると指摘している。九七ページ。また最近では、上野千鶴子が『増補〈私〉探しゲーム――欲望私民社会論』(ちくま学芸文庫一九九二年)において、数ある商品の中からわたしたちが特定のモノを選択することは、表現すべき〈私〉を探すためであることを、さまざまな角度から分析している。一二三ページほか。

 こうした自己イメージを維持するためには、絶えざるルシクラージュが欠かせない。「ルシクラージュ」(recyclage) とは、商品にまつわる意味づけについての――さらに意味づけのコード(規則)についての日常的な再教育・再学習のことである。消費によって自己を効果的に提示するためには、商品をめぐって微妙に変化する意味づけ(のコード)をいつも学習していなければならない。それゆえジャン・ボードリヤールはこういいきるのである。「消費社会、それはまた消費の仕方を学習する社会、消費についての社会的訓練をする社会でもある」と。2

▼2 ジャン・ボードリヤール『消費社会の神話と構造』今村仁司・塚原史訳(紀伊國屋書店一九七九年)一〇一ページ。

 商品情報に通じていることはもちろん、商品にまつわるマニュアル的知識・作法・付随するアイテムに通じていることが、わたしたちの重要な日常的課題となっている。ファッション誌や音楽雑誌やイヴェント情報誌を欠かさず購読し、基本的なノリをよく理解し、微妙なニュアンスの変化をいち早く察知し、事情通でありつづけること。これが、モードやクルマのみならずスポーツやアウトドアから園芸や幼児教育あるいは病院選びにいたるまで、さまざまな消費領域を貫徹する〈消費の論理〉なのである。

 現代社会に満ちあふれた「ことば」の多くは、このような文脈のなかでなされる「消費のことば」である。それはあくまでも消費社会に内属したディスクール(要するに商品にまつわる断片的情報の集積)である。その焦点は、社会でもなければ他者でもない。あくまでも〈自分〉にある。「消費のことば」は基本的に「自分を語るボキャブラリー」であり、その意味で、一見社会に開かれているように見えて、じつは本質的に私的に閉じられたことばといえよう。

権力のことば

 そして、もうひとつ、満ちあふれている「ことば」がある。それは「権力のことば」とでも呼ぶべきものだ。お役所ことば・白書・調査報告書・業界用語・専門用語・流行語……。好むと好まざるとにかかわらず、自分たちの社会について語るとき、わたしたちは、こうしたことばを使わざるをえない。リゾート・バブル崩壊・国際貢献・政治改革・地球環境保護・ダウンサイジング・長びく不況・リストラ……。合言葉のように何度も連呼され徹底される「ことば」の数々――しかし考えてみれば、これらは、それぞれ官僚・政治家・企業・経営者・専門家・メディアなどによってつくられ流通させられたものである。たいしてアクセス(情報への接近)の努力をしていないわたしたちのもとにそれらが届くのは、その発生源が一種の権力をもつからである。つまり、マス・メディアなどのコミュニケーション手段を容易に利用しうる資源(財力・人力・時間)を豊富に所有しているからである。ということは、それらのことばが広く流通しているのは、必ずしもその「ことば」自体に価値がふくまれているからではないということだ。だからこそ、これら「権力のことば」に対しては批判的なリテラシー(読み書き能力)が必要なのである。しかし、わたしたちは、これらをむしろ「専門家のことば」として不用意に信用していることが多いのではあるまいか。

 「権力のことば」の生産者で、とりわけ強い力をもっているのはテクノクラートである。テクノクラートとは、専門的政策立案能力をもつ行政官僚や専門家のことだ。かれらは行政指導などの手段によって実質的に強力な意思決定権と実行力をもち、社会全体の危機に対して積極的に対応する。3一見強力なマス・メディアも、もとをただせば、テクノクラートのことばを再生産したり増幅させているにすぎないケースが多い。

▼3 テクノクラートの定義については、梶田孝道『テクノクラシーと社会運動――対抗的相補性の社会学』(東京大学出版会一九八八年)七八ページ。

 テクノクラートが強力な影響力をもつ社会状況を「テクノクラシー」(technocracy)と呼ぶ。多少の意味のずれに目をつぶれば、それを「専門家支配」(professional dominance)と呼んでもよい。問題は「権力のことば」に浸み込んだ「テクノクラートの視角」が必ずしも「生活者の視角」と一致しないことだ。この不一致はしばしば大規模開発や公害問題において鮮明化する。たとえば社会問題の研究者である梶田孝道は次のように述べている。「一般にテクノクラートと生活者は、極めて異なった視角から問題をみているように思われる。テクノクラートは、諸々の利害の全体の考量と調整を自己の課題とし、それゆえ政策の『体系的整合性』の必要性を強調し、すべての利害・要求を『部分的』なものとみなし、これらを『全体的』文脈のなかで相対化する。」「これに対して被害者住民たちは、自己自身が直接的・具体的に感受する切実な利害・要求を行動の原点におき、それゆえ自己のかけがえのない要求の正当性を主張し、その実現にむかって努力する。」4

▼4 前掲書四―五ページ。

 一般にテクノクラートは「社会運動の担い手たちを、社会全般への配慮を欠き自己の利害のみに固執するエゴイストたちという形で把握しやすい。」そして被害住民たちの抵抗を「不誠実」とみる。その底流には「テクノクラートの認識の全体性 対 大衆の認識の部分性」という図式が存在するという。5

▼5 前掲書六ページ。

 わたしたちは生活者であるにもかかわらず、必ずしも「生活者の視角」をとっているとはかぎらない。とくに自分たちの利害に直接かかわりのない領域――といっても間接的には必ず何らかの関連があるものだが――については、メディアを介するなかでその意図が拡散されてしまうために「権力のことば」を無批判に使用してしまい、その結果、わたしたちは知らず知らずのうちに「テクノクラートの視角」をとっていることが多いのではなかろうか。その意味で、このふたつの視角はわたしたち自身の内部においてさえ非対称的(力関係に偏りのあること)である。こうして「権力のことば」によって、わたしたちはしばしば自己欺瞞に陥ってしまう。

不在のことば

 「消費のことば」と「権力のことば」。このような「ことば」の氾濫は、たしかにわたしたちの生きている社会的空間をすき間なく埋めてくれる。わたしたちは、それによって社会的真空の不安を感じないですませられる。しかし、それらがわたしたちに結果としてもたらすことについて注意しなければならない。

 わたしたちは不用意にこれら既成の「ことば」を使って自分たちの生活や行動や社会現象を認識したり考えたりしているけれども、「自分たちを語るほんとうのことば」でない場合が多いのである。そして「こんなものだ」といったシニカルな認識が空気を決することによって、それらは、わたしたちがみずからの行為について自己理解するチャンスを確実に奪うのだ。

 たとえば、ここでランダムに選びだされた四つの問題を見ていくことにしよう。選挙における棄権、大学教育における私語、企業における反社会的行為、医療における院内感染――これらはそれぞれの社会領域に固有の問題として近年注目されているものばかりである。若い読者でも何らかの形で耳にしたことがあると思う。これらの問題は一見ばらばらに生じているように見える。しかし、これらには共通の根のようなものがあり、「構造」というほど厳密なものではないにせよ、ある程度の共通の構図を見取ることができる。それが各問題の根本的な〈解決〉を困難にしているのだ。結論からいうと、これら共通の構図を支えているものこそ「消費のことば」や「権力のことば」であり、裏返していうと、ある種の「ことば」の不在なのである。

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SOCIUS.JPドメインへの初出 7/18(thu), 2002  
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