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社会学の作法・初級編【改訂版】

九 ゼミの作法――討論の主体として

社会学とゼミの相性

 学生時代のわたしはものぐさな学生だった。大学に行かず、かといってバイト人生でも遊び人生でもなく、ただものぐさな日々を送っていた。じつをいうと、わたしは講義を聴くのが苦手だったのだ。だから、このような本を書く著者として、わたしほどふさわしくない人はいないかもしれない。皮肉なものである。

 ところが、である。三年生になってゼミに入ってみると、これが俄然おもしろくなってきた。自分で調べて発表し、先生やみんなと議論する。先生も結論を押しつけるのではなく、そこそこのところで話にかんでくる。授業時間の終わりにも気づかず、いつのまにか陽がとっぷりと暮れているといった日も多かった。それはたんに授業のひとつというよりは、何か特殊な時空であり、そこに何かしら社会学の実体があるという気になったものだ。こうしてわたしはようやく社会学に目覚めた。

 ゼミのこのような効用は昔からよく知られていて、近年のカリキュラム改革のさいにも、一年生から履修できる教養ゼミの開設やゼミの必修化などがその目玉となっているのもそのためだろう。とりわけ社会学は論争点の多い科学であるために、討論の自由度が高く、それだけにゼミとの相性はよい。社会学の実質はゼミにおいてのみよく学習できるとさえいえると思う。たとえば次のようなぐあいである。

 近年の家族社会学のテーマに「少子化」がある。少子化とは出生率の低下のこと。ときに一九八九年に合計特殊出生率が、それまでの最低記録だった丙午(ひのえうま)の年(一九六六年)の一・五八人を下まわって「一・五七ショック」と呼ばれ、一気に社会問題化した。合計特殊出生率というのは、ひとりの女性が生涯に出生する子どもの数である。丙午(ひのえうま)とは干支(えと)のひとつで、この年に生まれた女性は夫を殺すという迷信があった。そのため将来の結婚難をおそれてこの年の出産が大幅に控えられたのであるが、一九八九年はそれをも下まわったわけである。

 この現象について、さまざまな議論が可能である。

 そもそも、少ないといっても何がその基準なのか。なぜ出生数ではなく特殊合計出生率なのか。子どもを何人生むかどうかはそれぞれの夫婦の自由なのだから、平均をとって問題視することにそんなに意味があるのか。少子化によって子どもや若い世代が相対的に少なくなった社会のことを「少子社会」と呼んでいるけれども、結局これもお役所ことばではないのか。つまり国策として危機感を煽っているのではないか。少子化の原因は何か。背景には何があるのか。女性の社会進出が原因といわれるのはなぜか。理由としてあげられている女性の晩婚化をどう考えるべきか。たしかに二〇歳代後半の女性の未婚率がこの二〇年間に約二倍になったのだが、なぜ女性は晩婚化したか。男のほうはどうだ。ひとりっ子は問題か。子どもがいないと家族でないのか。子育てが女性だけの負担になっていることが問題ではないのか。他の国はどうなのか。そもそもだれが困るのか。団塊ジュニアのわたしたちの老後はどうなるの。みんなどうやって避妊するのか。それにしても近ごろの子どもはぜいたくでわがままだ……。

 素朴な質問から各自の価値観があらわになった意見まで、少子化をめぐって討論すべき論点は多い。もちろん結論はひとつではない。けれども、ただたくさんあるというのでもない。多様な考え方のなかには、利害関係を反映しただけの意見もあれば、科学的根拠のある意見もある。自分たちを正当化するための論理もあれば、深い反省を込めた誠実な知見もある。政府にとって意味のある分析もあれば、自分たちにとって意味のある分析もある。それらを集団で吟味するのがゼミなのだ。吟味される意見には、受け売りもあれば信念もあって、ときにはせっかく調べてきたデータの思わぬ政治性を指摘されることもあるだろうし、生まれてこのかた信じて疑わなかった信念を批判されることもあるだろう。その過程でひとりひとりの社会認識が深まってゆく。

 社会学者たちが学界などで議論しているのも、じっさいこのようなものである。ひとりで考えるというのも、むしろ討論を自分の頭のなかで模擬実験しているようなものだ。この「討議の世界」こそが社会学の実体なのである。

ゼミの進行

 基本的にゼミの進行はゼミ学生(あるいはゼミナリステン)の自発性にゆだねられている。しかし「討議の世界」を有効に作動させるのは非常にむずかしく、ある程度の見識が不可欠なので、ふつう当初は担当教員が進行を指導する。

 ゼミの時間の構成は通常次のようなものになる。まず、あらかじめ決められた報告者が二〇分から三〇分程度の口頭発表をおこなう。そのあと、素朴な質問や基本的な概念などについて質疑応答がある。そして討論に入る。ゼミ学生が多いときや、一冊の本を輪読するときは、このサイクルを一回のゼミで二回か三回くりかえす。参加者が慣れないうちや不勉強なときは、討論も不発に終わりがちなので、発表会の様相を呈することが多い(つまり討論がない)。しかし、ゼミ学生間の親睦が深まり、学習意欲が向上すると、ゼミの討論も盛り上がってくるので、ワンサイクルでも時間がたりなくなるはずである。

 ひとりが報告するのでなく、数人がチームをつくって共同で報告するというのも可能である。これは、弱気な人やシャイな人たちに向いているかもしれない。あるいはこんな方法もある。それは格闘技型とでも呼べるもので、報告者だけでなく、あらかじめ討論者も決めておくのである。討論者は必ず報告者の発表についてコメントしなければならないから、とりあえず静寂は回避できる。討論者は「わたしは○○さんが指摘した第三の論点に少しこだわってみたいと思います」とか「○○さんの報告では『△△は××だ』という結論でしたが、ぼくはそう考えません」といった形で切り込んでゆく。どちらかというと、報告者とのちがいを強調すると盛り上がる。けれども、共鳴できるところをきっちり評価しておくのもゼミの作法である。

 ここまでであると、いわゆるパネル討論(壇上で代表者が議論する)になってしまうが、これを口火にして、その他の参加者を巻き込んでゆくことに真のねらいがある。リング上の格闘がやがて場外乱闘にいたるという筋書きである。

 この合わせ技として、報告内容に批判的な討論者と好意的な討論者を前もって決めておくという手もある。プロレスと同じように「助っ人」や「悪役」は欠かせないのだ。ごく最近、小中高校教育で注目されている「ディベート授業」も、ほぼこのような形式である。争点をめぐる立場をあらかじめ分けておいて論を競う。社会学的にいえばロール・プレイング方式と呼べそうだが、「やらせ」とか「八百長」と呼ばれても文句はいえない。しかし、討論の世界が一種の演劇的世界であることは事実で、せいぜい「仕込み」の程度差の問題であると思う。

報告の組み立て――友だちを眠らせないために

 さっそく報告者になったときのことを考えてみよう。問題は何をどのように発表するかだ。

 ゼミの報告内容はレポートの構成とほぼ同じである。ただ、「書く」か「話す」か、コミュニケーション・メディアがちがうだけだ。けれどもメディアがちがえば内容にも若干の修正が必要になる。たとえば、新聞記事をそのままテレビのニュース・キャスターが読み上げても、視聴者はメッセージを捉えきれないだろう。それと同じように、専門書の文章を読み上げるだけでは、だれも理解できない。やはりそこにはそれなりの工夫がいる。

 まずテーマの設定について。社会学系の教養ゼミや基礎ゼミの場合、まったくの自由テーマで報告することがある。そのときは自由課題レポートと同じように中くらいのテーマを選ぶとよい。たとえば『朝日キーワード』などで項目を立てているものは議論しやすい。たとえば「戦後補償」「地方分権」「ゼネコン汚職」「先住民族」「在宅介護」「個人視聴率」「酸性雨」「就職氷河時代」「エイズ教育」「国際平和維持活動」「いじめ」「不登校」「外国人労働者」「看護婦不足問題」といったように。もちろん自分なりのこだわりがあれば、それを取り上げるのが何よりである。二〇分の報告であれば以下のような構成にしてみよう。

(1)歴史・経過――時系列で事実関係を整理して要領よく解説する。一〇分。
(2)問題点の整理――何が問題なのか、どこが問題なのかを提示して、論点を整理する。七分。
(3)自分なりの問題提起――主張したいことや討議したいことをはっきり提示する。三分。

 結論はいらない。しかし方向性は示しておきたい。というのは、報告者は基本的には問題提起者であるべきだからだ。「どう考えますか?」と問うことが重要であって、完璧な解答を用意することではない。したがって報告者の仕事はふたつである。討論素材の提供と論点の仮設定である。その意味では週刊誌記者の世界でいうデーターマン(取材記者)だと考えよう。1データーマンが苦労して取材したものをリライトして署名するアンカーマンではなく。おいしいところはもっていかれるかもしれないが、ゼミの場合はおたがいさまである。なお、データーマンといっても、つまらない講義のマネはしなくてよい。たとえば統計データをだらだら読み上げても、それはコミュニケーションにならない。図式化するか、グラフにするか、一覧表にするか――工夫が必要だ。

▼1 本書では「データ」と表記を統一しているが、「データーマン」の場合は、通常このように発音されるので「データー」にした。

 初級編では多いケースであるが、一冊の本(古典や教科書)を章ごとに分担して輪読する形式のゼミの場合は、(1)の部分が章の要約になる。内容は書評レポートに準ずるが、この場合、対象となる本によっては多少の批判的読みが必要かもしれない。そのときはすでに論じた「比較」の手法を駆使して考えよう。2

▼2 第五章の「書評を書く」を参照してほしい。とくに九六−九七ページ。

 また、大枠の決まった自由テーマの場合、たとえば、家族・都市・労働・マスコミ・宗教・組織・差別・理論・学者研究といった領域設定が定められていて、そのなかで自由選択になっているときは、基本事項を整理することに目的がある場合と、現代的問題について討論する場合のいずれにポイントがあるか確認して臨もう。いずれの場合も、他方を取り入れることがコツだ。

 さて、内容構成もさることながら、それを話すさいの態度も重要である。とくに、報告の基調が明確であると、訴求力も反発もともに大きくなってゼミは盛り上がる。ウケをねらう・告発する・ともに悲しむ・怒る・迷う・挑発する――いずれにせよ「これでいってみよう」と決めてしまうことだ。不謹慎に聞こえるかもしれないが、感情をコントロールして演技することも重要なコミュニケーション方法である。3

▼3 純粋な言語情報だけが相手に特権的に伝わるわけではない。身ぶり手ぶりや口調や意気込みもコミュニケーションの重要な要素である。これらを「ノンウ゛ァーバル・コミュニケーション」(nonverbal communication)という。

 先ほども述べたように、ゼミ報告の主眼は、自己表現や自己提示ではなく、討論の争点を明示することにある。マスコミ論の概念を流用すると「議題設定」(agenda setting)にあるのだ。みんなに「すごいなあ」とほめられることを考えるのでなく、みんなに「むしろこうじゃないのか」といわれる叩き台になってほしい。もちろん「よく調べたし、考え方もしっかりしてる。おもしろかった。じゃあ、この問題はどうなるの?」程度であれば心の傷も少なくて済むのだが……。

レジュメの書き方

 黒板を使いながら報告するというのは案外むずかしい。ふつう初心者は話すだけで精いっぱいなはずだ。そこで、あらかじめ板書すべきことがらを書いたメモをコピーして、それを配布しておく。それを見てもらいながら話すのである。聴くほうも文字を見ながらだと理解しやすいし、それを見ながらコメントできるので、報告のあとの討論にたいへん役立つ。これをレジュメという。

 レジュメの書き方にとくに作法があるわけではないが、少しくわしい板書、もしくは要旨つきの細目次ほどのものと考えるといいだろう。口頭発表には、レジュメを見ながら話す場合と、別のノートを見ながら話す場合とがあるが、もし前者であれば、ある程度くわしいレジュメにしておかないと話につまる心配がある。しかし30分以内の報告であればB4のコピー一枚で十分だろう。

 当然、人に見てもらうものであるから、なぐり書きでは困る。きちんと整理・清書されたものにしたい。そのためにもワープロやパソコンは有効だ。たとえば、あらかじめ報告原稿をパソコンで書き、それがいったん仕上がったら、それを別名で保存する。そこからポイント以外を削除し、細目次よりややくわしいくらいの内容まで整理して、それをプリントアウトすればレジュメのでき上がりである。あるいはレジュメを最初につくり、いったんそれをプリントアウトしたのちに、そのファイルに大幅に書きたして報告原稿とするという手もある。

 レジュメはノートや板書のように、箇条書きや図表を駆使する。しかし、報告の骨子にあたるところはきちんと文章にしておいたほうがよい。そのほうが討論しやすいからだ。また、話しことばではつかまえにくい概念や命題を提示しておくと、初歩的な誤解を受けずにすむ。このさい、話しことばでは表現しにくい参考文献のデータなども加えておくとよい。

 最後に一言。構成をしっかり打ちだすことにも配慮してほしい。論点は全部でいくつあって、どこが結論なのかといったことが明確に伝わるようにアウトラインを提示する。そもそも口頭発表はシークエンシャル(時系列的)なものである。したがって、耳だけで全体の構成を理解してもらうのはむずかしい。構成は建築学的な比喩であり、どちらかというと空間的な性格のものだからだ。報告内容の全体が空間的に一覧できるレジュメは、それを補うのに有効な手段である。

討論の仕方

 報告者が口頭発表を済ませると、今度は全員参加の討論に移る。討論者が設定されているときは、討論者がその口火をきる。さあ、討論の世界へ!――といいたいところだが、これがなかなかやっかいなことなのだ。どのように討論していいのか、だれもわからないからである。4

▼4 わたしは、この本を書くために各分野のさまざまな資料を集めて読んでみたが、不思議に感じることがひとつあった。それはゼミ討論に関する本がおそろしく少ないということだ。これは作文に関する本が山のようにあるのとあまりに対照的である。討論という近代コミュニケーションの基本型が日本社会にとって切実でないのは、「以心伝心」を宗とする日本型コミュニケーションが依然として日本社会において主流をなしているからだろうか――などと、社会学的印象批評のひとつも繰りだしてみたくなる。

 では、参加者はどのような態度で討論に臨めばいいのだろう。いくつかのヒントを提示しておこう。

 第一に、素朴な質問を連発しよう。そこから論点が見えてくることがある。

 第二に、同じ意見でも発言しよう。賛成だ、と。そして、なぜ賛成かを述べること。たしかに批判するのも大事だ。でも、評価できるところは、おたがいに評価しあうようにしないと、かえって遠慮なく批判ができなくなる。それに、同じ意見でもじっさいにはニュアンスがちがうことが多い。自分の頭のなかで意見をめぐらせるのではなく、討論の場のなかで発言として具体化させて、思考を進めよう。ゼミの討論過程は、美学者だった中井正一の概念を使うと「集団的主体性」である。要するに、みんなで賢くなるのがゼミである。

 第三に、ありのままをよしとする自然主義ではなく、「かのごとく」ふるまう作為が必要。「ボランティア精神」といってもいい。あえて発言しようとする態度で臨もう。その意味で、お客さま意識や傍観者気取りは無作法である。ふだんの大教室の講義に臨むような態度はゼミにおいては唾棄すべきものだ。わからないなら質問すればいい。ついていけなければ議論を止めればいい。討論に責任ある主体として。

 第四に、討論が進むと「おまえはどうなんだ」という問いがでてくる。この問いは社会学的テーマの場合、必然的にでてくる。たえずこの問いに留意しよう。これが社会学の自己言及性なのだ。しかし、これは自分自身に適用するときには有意義な問いになるが、相手に適用するときには人格批判の武器になりがちである。したがって、自問するとき以外は、この問いはペンディングしておく方が無難である。なぜならこの問いが発せられたとたん、討議の世界は「沈黙が金」の世界に変質してしまうからだ。というのは、発言することが自分を危うくするからである。せいぜい夜の酒場のアフター・ゼミにとっておくことが望ましい。

どうなればゼミ報告は成功といえるのか

 どんなにうまく進行した討論であっても、そこからひとつの合意形成が成就することはめったにない。たいていは歯切れの悪いドタバタで終わってしまうものだ。「これでいいのかな」と初心者は迷う。では、どうなればゼミ報告は成功といえるのか。しかし、これは意外にむずかしい問題である。

 結論に達するのがゼミの唯一の目的ではない。討論によって相互に知識と考え方を照らしあい、それによって各々が社会学的反省を深めることがゼミの目標である。発言を通じて相互に照らしあうことによって、各自が社会学的反省を深める。安易な合意でもなく、険悪な対立でもなく……。互いの意見によって自分の意見を査定すると考えよう。したがって、相互反照の度合いが高ければゼミ報告は成功だったのである。具体的にはさまざまなケースが考えられる。

(1)全員が報告に賛同し、積極的に賛同の理由を発言したとき――賛同があっても、積極的な発言がなければ成功とはいえない。いわゆる「独演会」になってしまう。それがどんなにすばらしいものであっても、参加者の反応がなければ成功とはいえない。

(2)賛否両論半ばして、議論が白熱したとき――多少の感情的なしこりが残るかもしれないが、少なくとも論点が明確になったわけだから成功である。こうなると討論も格闘技の様相を帯びて俄然おもしろくなる。

(3)参加者の興味をひき「これはどうなるんだ」といった質問と応答に終始したとき――参加者に一定の共通了解がえられた。

(4)報告者がこてんぱんに論破されたが、その結果、参加者にある種の合意が達成されたとき――このとき報告者はスケープゴートになる。これも報告者の大事な役割である。この役割を果たした人には最後にねぎらいのことばをかけてあげよう。

(5)報告者自身がそれまでの考えや知識を相対化できたとき――できればその場か次回に「前回の反省」として言語化するとよい。

(6)報告自体は悲惨だったとしても、報告までのプロセスにおいて報告者にとって有益だったとき、たとえば調べ方に習熟できたこと自体・新たな着想や考え方などの副産物をえられたとき――この場合、二回目の報告が格段によくなるはずだ。

 ともあれ、討論の現場にいたすべての人びとが「討論は活発だった」との印象を共有できれば、そのゼミ報告は成功したのである。それまでは自分に関係ないヒトゴトと感じていた問題が、それなりに身近なことに感じられるようになれば、その人にとっては有意義だったのだ。それは、たんなる情報が反省的知識に転換する貴重な経験である。

提案

 さらに、いくつかの提案をしておきたい。

 第一の提案はサブゼミである。ゼミで討論を積み重ねてゆくなかで、自然に共通の課題が浮上してくることがある。そんなときサブゼミを企画してみよう。はじめは単発で、そのうち散発的に開くのが望ましい。サブゼミの特徴は、指導者である教員がいないことだ。ある面では気楽であるし、動機も純粋であるから、案外おもしろいものだ。

 第二の提案は、ほかのゼミとの共同討議をやってみよう。いわば他流試合である。共通のテーマを見つけて討論する。やってみるとゼミの結束がかたくなるにちがいない。

 第三に、ゼミ前のフットワークとして「ニュース三分レポート」はいかがだろう。ひとり三分の持ち時間で、一週間のニュースからひとつ選んで参加者に報告するのである。一回につきふたりか三人、順番にやってみると、一年間でけっこうな勉強になる。

 第四の提案は「ゼミナール報告」略して「ゼミ報」の発行を勧めたい。パソコンの利用についての章で「メディアをつくること」を提案した。ゼミは研究テーマをもった集団なので、ゼミ報はたんなる親睦以上のことが可能である。

 このような活発な活動はゼミのサークル化を促進するはずだ。多少の問題がないわけではないが、ゼミは学問を媒介にしたつながりであるから、大学における集団形成のあり方としては、まずまっとうなことであろう。

公共圏・シティズンシップ・対等性の作法

 最後に、原理的なことを確認しておこう。それは、ゼミという場のもつ理念性である。ゼミは、対等性の作法にもとづいて個人が自由に討論する公共圏である。公共圏とは公的な意味空間のことである。公共領域ともいう。これは、個性的な個人が対等な資格でその場に集まり、社会的な事象について語り合う、仮想的な空間である。歴史的には一八世紀前半のロンドンなどにおけるコーヒー・ハウスや、そこから派生したとも考えられるジャーナリズムや文学などのメディアに、このような公共圏が存在したといわれている。アメリカの伝統的なタウン・ミーティングも公共圏の一種と見なせる。5現代ならさしずめパソコン通信におけるフォーラムが一種の公共圏といえるだろう。そしてゼミもそのような理念的特性をもった場なのだ。

▼5 コーヒー・ハウスの歴史については、小林章夫『ロンドンのコーヒー・ハウス』(PHP文庫一九九四年)。公共圏全般については、ハーバーマス『公共性の構造転換』細谷貞雄訳(未来社一九七三年)。この文脈ではゲオルク・ジンメルの社交論も参考になる。G・ジンメル『社会学の根本問題――個人と社会』阿閉吉男訳(現代教養文庫一九六七年)。

 公共圏では属性(ゼミの場合は教員か学生かの区別)は原則的に問われない。問われるのは知的な能力だけである。だから、ゼミにおいて教員は、教員であるから指導的な立場に立つのではなく、そこで議論されるテーマについて習熟しているから指導的な立場に立つのである。たとえば、ゼミであなたが「ラップ・ミュージックの社会学」を報告するとすれば、教員は「社会学」については指導するが、「ラップ・ミュージック」についてはあなたが指導的立場に立つことになる。このことはあなたがいばってよいということを意味するのではなく、教員をふくめた他のメンバーに対して「ラップ」についてわかりやすく説明する義務を負うということである。だから「ラップ」について教員の理解がえられないとすれば、それはあなたの責任である。「先生は何もわかっちゃいないんだ!」と嘆く前に、するべきことがあるということだ。もちろん同じことが「社会学」に対する教員の態度にもいえる。そして「の」つまり両者の関係については討論のなかで参加者全員で考えることになる。6

▼6 現実との通路のない理論は無効である。しかし、理論社会学や社会学史の先生にいきなり理論の無効を主張するのはやめよう。短絡的に反応するのは若者の特権で「若気のいたり」で済まされがちだが、それでも、いきなり現実へ向かうのは悪しき現場主義である。結局、体験をこえられない。だから学生としてあなたがやらなければならないのは、理論と現実をそれぞれ知ることと、たえずそれらを結びつけて考えることだ。この結びつきについては、教員と学生が同じ立場で討論できる。わたしたちが眼にしている現実は、だれにとっても新しい体験なのだから。

 このような対等性の作法は、ひとりひとりを自由に発言可能にする条件になるとともに、責任ある主体として自律的かつ能動的にその場にかかわることを要請する。つまり、公共圏においては、社会や共同体のために隣人とともに参加し、またそれを当然の義務と考える態度が要請され、それが基本的な作法となる。シティズンシップ(市民精神)と呼ばれるのがこれで、前に「ボランティア精神」と呼んでおいたものもそのひとつの要素である。ゼミの作法の基本は、あくまでシティズンシップの発露としての「自発的参加」ということだ。

 そしてあえて指導的立場すなわち「教える立場」に立つことが知的な好循環を招き寄せる。「教える立場」とは、コミュニケーションのなかで自分を変えてゆくことをしいられる立場といってよい。ものを書き、報告し、討論することによって、自分を能動的に変えてゆく。7

▼7ニュアンスは異なるが、「教える立場」の思想的意味については、柄谷行人『探究I』(講談社学術文庫一九九二年)が参考になるはずである。

 このような作法の場は、おそらく「日本的」とはいえないだろう。それゆえ日本人にとってゼミとの出会いは異文化間コミュニケーションをともなう。受容のむずかしさはここにもあるが、それだけに貴重な体験といえるのではないだろうか。

 ともあれ、ゼミ討論は、即興演奏のからみあうジャム・セッションのようなもので、参加者の自発性と対等性は保証されているが、演奏がノイズでなく音楽であるためには、主題を尊重し、キーとリズムを守ることが求められる。ひとりでもそれを守らない人がいれば演奏は台なしになってしまうし、逆にみんなが譜面通りに演奏してもスリルも新しい発見もない。もちろんオーディエンスばかりでも盛り上がらない。各自が他の音をよく聴き、すばやく呼応し、能動的かつ個性的に応答することが、結果的にノリを生みだし、ひとりひとりに思いがけない発見をもたらすのである。それが即興演奏の醍醐味である。ゼミ討論もこのようなものと考えて臨めば、そのおもしろさもしだいにわかってくると思う。

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SOCIUS.JPドメインへの初出 7/18(thu), 2002  
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