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社会学の作法・初級編【改訂版】

八 論文試験の作法――誠実な応答をめざして

基本的な作法

 試験はいやなものである。される側も、する側も。まして論文試験となるとたいへんである。もちろん、される側も、する側も。しかも社会学系の試験はたいてい小論文試験である。理系の学生は困惑することが多いのではなかろうか。論文試験をたくさん受けている文系学生でも、とりたてて作成方法を教えてもらっているわけではないので、いつも不安はつきまとう。教える側が採点の基準を公開しているわけではないから、なおさらだ。この章では、このようなあいまいさのベールにつつまれた小論文試験の対策について考えてみよう。

 小論文試験といっても、五行前後で解答する短答型の問題と、三〇行一〇〇〇字程度(B4一面)で解答する長答型の問題とがある。社会学系では両者をとりまぜることが多いようだが、短答型の場合はそれなりに書けても長答型が書けない学生が多い。問題は後者であろうが、さしあたり両者に共通するポイントを指摘しておきたい。

 まず記述内容について。とくに指定のないときは授業内容すなわち講義ノートに即して書くべきだ。指定教科書でもなく、まったく別の参考書でもないことに注意しよう。指定教科書でないのは、社会学の場合、教科書どおりに講義が進行するケースがきわめて少ないからである。1まったく別の参考書でもないのは、授業内容に対して力点のおき方がずれてしまうおそれがあるからだ。社会学の場合「社会学者の数だけ社会学がある」といわれてきたが、それは現在でもそう変わってはいない。社会学にはそれだけ論争点が多いのである。したがって、まったく別の参考書は使用しないほうが無難だ。あくまでノートが基本である。

▼1 したがって社会学系の授業は出席していないと、まずAはとれない。案外、単位取得がむずかしい科目ではなかろうか。出席を取らない教員が多いだけに、長期に欠席するとフェイントを食らうことが多い。

 ところで、講義にもいろいろあって、「あれもある、これもある」式の両論併記型講義もあれば、「ああではなく、こうだ」式の常識批判型講義もある。この両者の見極めがたいせつで、前者ではバランスが重視され、後者では「なぜ、ああではなくて、こうなのか」という批判点が重視される。解答内容も当然これに即して決まってくる。両論併記型であれば、さまざまな学説をバランスよく説明し、それぞれの特徴や問題点を整理しなければならない。常識批判型であれば、まず一般的な常識や通念を述べて、それがふくんでいる問題点を整理し、そののちに社会学的にはどう考えられているかを提示して、その社会学的見地から見えてくる現実の問題点を整理することになる。

 このような内容上の同調は、教員に媚びることではない。それは応答の感度の問題である。「Aについてどう思う?」ときいているのに「Bについてこう思う」と答えたとしても、それは答になっていない。小論文試験もコミュニケーションの手段であるかぎり、応答が噛み合うことが何よりの前提条件だからである。所詮、試験は厳密なものなのだと観念しよう。

 次に確認しておきたいのは、すみからすみまで文章化することだ。板書をそのまま写しただけの箇条書きの羅列は、よほどでないと評価されない。たしかにキーワード(基礎概念)が入ってはいるが、理解されていないことが明白だからである。そもそも採点のやっかいな小論文試験をするのは、文章化するとその人の理解度がはっきりわかるからである。参照しているノートが自分のものかどうかさえ、ほぼ判別できる。なお、どうしても羅列しなければならないときは「第一に」とか「第一点は」といういい方を使う。

 次に、設問に対応した基本知識が正確にとらえられているかが重要だ。設問が要求している基本知識=基礎命題を最低ひとつはつかまえなければならない。これを損ねたり逆にしてしまうと致命的だ。これは「トピックセンテンス」などと呼ばれているが、どんな問題でも必ずこれに相当するものを要求している。受講のさい、あらかじめノートに「重要」の印をつけておけば、見逃すことはないだろう。

小論文構成の基本型

 今度は長答型の設問にしぼって考えていこう。この場合、構成がカギである。

 設問は大きく分けて二種に分けられる。ひとつは「○○について論じなさい」式の中範囲型である。つまり中範囲のテーマについて自由に説明するタイプだ。もうひとつは「○○の○○について○○の観点から説明しなさい。そのさい○○にも言及すること」式の特定型である。この場合は、説明の仕方まで特定されるので、それにそって記述することになる。

 中範囲型の設問を見たとたん、これを「好きに書いてよい」と解釈する学生がいるが、じつはそうではない。基本的には講義内容に即して書かなければならない。その上で、さらに自分で自発的に調べた内容や、自分なりに考察した内容を付け加えていかなければならない。たしかに自己裁量の余地は大きいが、自分勝手に好きなことを書くわけではないのだ。したがって、このタイプのときは、まず、よりくわしい問いを自分で設定することから始めなければならない。問題設定まで要求されているのであるから、これは本来かなり高度な設問である。しかし、講義内容に準拠して設定すれば問題はない。それに答える形で説明することになる。

 中範囲型にくらべると、特定型の場合のほうがかえってやさしい。問題は、自分がその限定されたテーマ範囲でどれだけいうべきことをもっているかである。ここでも設問に徹底的に対応させることが鉄則である。特定型の場合、書くことがあまりないと感じるケースがしばしばあるが、「埋め草」として設問に関係ないことや周辺的なことを書くのは控えたほうが無難である。それは、設問にきちんと答えたあとか、あるいは設問に全然答えられない場合だけにしておいたほうがよい。前者であれば「ふくらみ」として評価される場合がある。後者の場合はたんに「白紙よりマシ」なだけだ。というのも、特定型の場合、採点基準があらかじめ設定されていることが多く、それは「○○について説明されていたら○○点」という形になっているからだ。したがって、設問が要求していないことがらについて、いくらくわしく説明しても配点しようがないのである。たとえば、ある章のひとつの論点に特定した設問に対して、その章の全体を書いてしまうことがしばしばあるが、これは労の多いわりに評価されない。指定された論点についての説明しか点数にならないからだ。2

▼2 もう少しくわしく説明しておこう。たとえば講義(あるいは教科書)の第三章の第三節にふくまれた論点が出題されたとする。ありがちなのが、これを「第三章がでた!」と思い、第三章の最初から順にまとめていくケースだ。この場合、たいていはじめのほうはくわしく書いてしまうものだから第一節はきわめて充実した答案になる。つづいて第二節をまとめる。あせりと疲れから、これはほどほどにまとまる。そして「いよいよ第三節!」というあたりで、もう時間がないことに気づく。見れば答案用紙も字でずいぶん埋まっている。そこで三行ほどでかんたんにまとめて済ますことになったところでチャイム。「でも、よく書いたなあ」とそれなりの充実感が残る……。ところが、である。このような答案は、肝心の設問に応答した部分は三行しかないので、原則的には三行分の点にしかならないのだ。悲劇の一例である。

 さて、具体的な構成について説明しよう。ポイントは、いきなりトピックセンテンスで基本知識を提示することである。イントロはいらない。つまりショートアンサーを最初に済ませておくのである。それを展開するつもりで少しずつ周辺的なことがらに言及していくのが小論文試験の作法である。テーマによってウ゛ァリエーションはさまざまだが、具体的にはおおよそ次のようになるだろう。

  1. 問題設定・問題提起(中範囲型の場合)
  2. 基本知識・概念定義・結論・概要(設問に対するショートアンサー)
  3. 批判されるべき考え方と批判の根拠(常識批判型の場合)
  4. 問題の背景・具体的事例・さまざまな類型(社会的現実や現象についての説明)
  5. 将来展望・残された問題
  6. まとめ・私見

 このように重要なことから周辺的なことへと説明する構成を「逆三角形型」と呼ぶ。横軸を重要度、縦軸を順序(上から下)とすると、逆三角形のように表されるからである。じつは本来これは新聞記事の作法である。紙面を大きく割いた新聞記事を眺めてみよう。まずリードがある。三段か四段を抜いた、行の長い部分である。ここで事件などのあらましが説明される。いつどこでだれが何をなぜどうしたかという基本的な情報はそこですべて提示されているので、読者はそこを読むだけでおおよそのことを知ることができる。段組みの部分に入ると、記事はくわしい内容説明にはいる。そしてそれはやがて背景説明になり、最後に識者のコメントなどが付されていたりする。

 逆三角形型の記事のメリットは二点ある。第一点は、読者にまずニュースのポイントを伝えるためである。もうひとつは、どこで中断しても文章として成立するからである。たとえば共同通信社の『記者ハンドブック』中の「記事の書き方」には次のように述べられている。「記事はその日の都合やニュース内容の相対的重要度によって、新聞編集者の手で切られ、短くされることが多い。本文が長くなるときは、できるだけワンテーク、一節ごとに記述をまとめ、編集者が記事を切りやすくするよう心掛けたい。逆三角形の文体が求められるのは、このためでもある。」3なお、一般的にデスク(新聞編集者)は、取材記者が書いた記事をうしろから削って調整する。

▼3 『記者ハンドブック──用字用語の正しい知識(第六版)』(共同通信社一九九二年)三八九ページ。

 同じことが小論文試験についてもいえる。小論文試験の場合、デスクにあたるのは時間制限である。時間があまるのはそうあることではなく、たいていは時間との戦いだ。その点、逆三角形型は、どこで時間を切られてもダメージが少ない。

 逆三角形型の構成をとるということは、講義やテキストの順序とまったく異なる構成になるということを意味する。つまり、一般の文章と逆なのだ。一般の文章では、結論は最後になることが多いし、講義や教科書もそうした構成になっていることが多い。したがって、ノートの順序でまとめていくと重要なことがらにいたらないまま時間がきたりすることがある。また、教科書の持ち込みが認められている場合、章の冒頭から順に書き写す人が少なくないのだが、そのような答案がまず点にならないのも、このためである。4

▼4 持ち込み不可の試験の場合は、ある程度の情報量があれば、多少の評価は受けられる。しかし、持ち込み可の試験では、一般に要求水準が高いので、丸写し的答案はほとんど評価されないと考えたほうがいい。持ち込み可の試験のほうが、じつはむずかしいのだ。

ノートと答案のあいだに

 小論文試験は、客観テストとちがって、始まるとまちがいなく時間との戦いになる。多くの人にとって文章を書くということは慣れないことだからだ。しかし勝負はすでに準備段階でついている。

 社会学の場合、頭の良しあしや要領の良しあしはあまり影響しないように思う。すでに確認したように基本はノートである。授業に出席していたか、くわしいノートを取ったか、それをあらかじめ章ごとに文章化しておいたか──これらの作業の積み上げがあるかないかでほぼ決まるといってもよいのではないか。

 というのも、それなりの理由がある。社会学系の科目の場合、適当に解答用紙を埋めること自体はかんたんである。しかし、そこには落とし穴があるのだ。それは「適当に」書くとき、わたしたちはつい常識的なことを書いてしまうことだ。ところが、社会学的な知識は、しばしば常識と異なるのである。たとえば、何かのまちがいではないかと思うようなことがテキストに書いてあったりする。逆ではないか、と。ところが逆ではないのだ。受講体験があれば──出席していれば──このあたりの免疫が自然とできているのだが、それがないと設問の要求と逆のことを滔々とまくしたててしまいがちである。

 たとえば、わたしはG・H・ミードのコミュニケーション論を説明するさい、コミュニケーションを「情報の移転」と考える常識的な考え方の問題点を批判的に説明するのだが、受講体験がないと常識の範囲で人のノートのコピーやテキストのことばを解釈してしまい、「コミュニケーションとは情報の移転であるとミードは述べている」といったことを書いてしまう。こういうとき、本人はよく書けたつもりでも、教員にとっては「これじゃあ『わたしは授業にでませんでした』といってるようなもんだ」ということになる。

 あるいは、「うわさの社会学」と称して流言研究を紹介した部分を出題すると、必ずあるのが「うわさとは、連続的伝達による歪曲である」という答案だ。講義の主題が、うわさを「連続的伝達による歪曲」ではなく「即興的につくられるニュース」として理解する点にこそあるにもかかわらず。

 まことに先有傾向はおそろしい。わたしたちは常識的な範囲で社会的なものごとを見るのにあまりに慣れすぎているのだ。脱常識の科学である社会学は、ことごとく常識に疑いの眼を向け、常識を自明視するわたしたちに知的反省を迫るわけだから、もはやオリジナルのはっきりしないようなノートのコピーをもとに我見で社会学的な答案が書けるわけがないのである。

知的誠実性

 講義もレポートも試験も、とどのつまりはコミュニケーションの形式である。コミュニケーションにはコミュニケーションなりの要件があり、コミュニケーションを有効におこなおうとすれば、それなりに要件をみたさなければならない。社会学的コミュニケーションの場合、それは知的誠実性といえるのではないか。

 先ほど、社会学は脱常識の科学であると述べた。しかし、社会学は、意図的に常識からはずれるのではない。調査研究や理論的考察を推し進めることによって、結果的に常識(いわゆる公式的見解)がひっくり返ってしまうのである。たとえば、一般には「母子家庭は非行の原因になる」と信じられているが、じっさいには、人びとがそう思っているために、母子家庭の少年の非行は見逃されにくくなり、結果的にあたかも母子家庭であることが非行の原因と見られてしまうことがわかっている。5また、いじめは「いじめっ子」の数に比例して深刻になると一般には考えられがちだが、じっさいには、それはまったく関係なく、いじめの深刻さはむしろ傍観者の数に比例する。6そんなことはないと思っていても、その事実に対して知的に誠実であろうとするメンタリティがここで要請される。常識に反することを書くのは、じつはたいへんなことなのだ。少数派であることを宣言してしまうところがあり、過剰な責任を問われる。激しい論争に巻き込まれることも覚悟しなければならないし、組織や集団に抗議されることもありうる。しかし、社会学者がそれに身をさらすリスクを引き受けてまで、耳障りの悪い事実を論じつづけるのは、あくまでも知的に誠実であろうとするからである。

▼5 徳岡秀雄『社会病理への分析視角──ラベリング論・再考』(東京大学出版会一九八七年)。
▼6 森田洋司「いじめの四層構造論」『現代のエスプリ』二二八号「いじめ・家庭と学校のはざまで」特集。森田洋司・清水賢二『新訂版いじめ──教室の病い』(金子書房一九九四年)。

 もちろん、そうした社会学的ディスクールに対して、わたしたちは十分批判的でなければならないが、その批判は周到な準備を必要とするものであって、安易になされうるものではない。

 前に文章は演技だと述べた。「ありのままの自分」をさらけだすのは知的でもないし正直でもない。無作法なだけである。そして知的誠実性も演じるものである。一方で社会学者がリスクを引き受けながらそれを実演しているのに、他方で学生がそれにのってこなければ、その演劇的世界の深みを理解することは不可能だろう。リスポンスの悪い学生が評価されないのはこのためである。

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SOCIUS.JPドメインへの初出 7/18(thu), 2002  
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