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社会学の作法・初級編【改訂版】

七 授業の作法――能動的な受け手として

講義を聴くということ

 これまではおもに自分ひとりでおこなう知的作業について述べてきたが、これからは大学や研究会などの具体的な学問的場面におけるコミュニケーションについて述べていこう。その第一のものは講義である。

 朝日新聞によると、明治学院大学法学部政治学科B日程において外国語一〇〇点と講義理解力二〇〇点の二科目だけの入学試験がおこなわれ、定員二〇名のところ一〇〇〇人以上の人が受験したという。1講義は「ポスト冷戦と国連の役割」というタイトルでおこなわれ、それを受講して次の問い(全三問)に答えるものだった。

▼1 朝日新聞(東京本社版)一九九四年三月一六日付夕刊第4版「窓──論説委員室から」

「問1 講義内容にそって、これまでの国際政治の変遷を整理した上で、今後の国連のあり方について論じてください。」「問2 この講義に疑問を感じた点を指摘し、自分の意見で批判してください。」(問3省略)──合格者は四〇人。そのうち約四分の三は高校時代の成績がABCDEの五段階評価のCで、いわゆる優秀な生徒はバタバタ落ちたという。朝日新聞のコラムではこれを「講義理解力」として紹介していたが、ここで問われているのは、いわゆる優秀な生徒が得意とする暗記力でもなく瞬発的な条件反射力でもない、総合的な実践的コミュニケーション能力である。あるいは「語られたことばへの感受性」であるといってもよい。このデータが物語るように学校教育はこのような基礎的なコミュニケーション能力や感受性を排除してきたのである。

 本来、大学入試はこのようなものであるべきなのである。これなら社会人も高校生とひけをとらないはずである。しかし、大学側の採点作業が地獄化するのは目に見えている。過剰適応するスタイルが一般的になっている現在の受験体制では困難なことだ。だからこそ、それは大学に入ってすぐに再構築しなければならないのだ。

 ところで講義というコミュニケーション形式のメリットはどこにあるのだろう。それはたしかに数多くの学生が一度に受講できる。しかし、それは大学運営上のメリットであって、受講生や教員にとってのそれではない。では、わたしたちにとってどこにメリットがあるのか。

 印刷メディアが未発達な時代の名残りともいわれる講義形式であるが、現代の大学においてわたしたちが講義形式に見いだせるメリットは三点ある。第一に、最新の事例をあつかうことができる。これは印刷メディアに対してもつ講義のメディア特性である。印刷物はかんたんには改訂できない。しかし講義はちがう。いつでも新しい事例やデータや研究成果を盛り込むことができる。第二に、むずかしい本を読まないで概要を知ることができる。現代において社会学系の本を読むことは非常に困難なことである。講義にでていないと、テキストでさえ試験前日まで(あるいは当日まで)読む気がしないものだ。しかし講義を聞けば「ああ、そんなこといってたなあ」という感じでテキストも読める。なぜかというと、全体のマッピングが頭のなかにできていることと、それぞれのテーマについて動機づけがなされるからである。第三に、語る人の人柄と情熱が学問への親しみをもたらす。すべての教員にカリスマ性を期待するのはむずかしい。しかし人を通じてしか学問はありえないのであり、それがコミュニケーションであるかぎり、学問を語る人とのかかわりや交流が学問への道を拓くのである。

 以上三点は、学生にとっては「なぜ出席し参加することがたいせつなのか?」の解答でもある。と同時に教員にとっては「どのような講義をしなければならないか?」の解答でもある。社会学の印刷メディアには盛られていないような現代的事例をたえず取り込み、それぞれの社会学的テーマに対する問題関心を喚起するよう、情熱を込めて講義したいものだ。

ノートをとる

 講義に臨む学生のあるべき作法はノートをとることである。しかし学生には三種類いる。ノートをとる学生、板書だけノートする学生、ノートしない学生である。ノートしない学生はいかにも無作法だが、出席者の多くを占めるノートする学生も板書を写すだけで、受動的な姿勢が気になる。

 「近ごろの学生はノートのとり方がなってない」と嘆く教員は多い。そういうわたしもそのひとりだ。しかし、ノートのとり方をトレーニングさせているという教員にはお目にかかったことがない。これは大学にかぎらない。わたしは十年ほど塾で教えた経験をもっているが、そこで生徒に聞いたかぎりでは、小学校から高校にいたるまで、それはまったく同じなのだ。つまり、世の先生方は嘆くだけで何も具体的に指導しないのである。

 まず何のためにノートするかを確認しよう。まず、試験のときに講義内容を再現できるようにするためである。第二に、講義に対する自分の反応をつなぎ止めるためである。そして第三に眠らないためである。

 第一の目的を達成するには再現可能性の高いノートにしなければならない。板書を写すだけでは客観テストには対応できても、社会学系科目のほとんどがそうであるような小論文形式の試験には対応できない。というのは、小論文にするには当然のことだが文章化しなければならない。ところが板書は、どんなにていねいなものでも、基本的に断片的なものである。「Aという現象が原因となってBという結果になったと考えられている」という文は「A↓B」と板書される。小論文試験では、この「A↓B」から文を再構成しなければならない。そのためには板書だけではダメで、聞き書き的なメモを添えておく必要がある。

 このようなノートをとるには、日本語のディクテーション(聞き取り)を意識的にトレーニングするのが有効だ。ニュースを聴きながらメモをとり、それを文章に復元してみよう。もとの放送原稿とちがっていてもかまわない。自分なりに再構成できることが大事である。トレーニングのさしあたりの目標は、できるだけ長い文章に再現できることである。

 これをしてみると、ひとつのことに気づくはずだ。それは接続語が決定的に重要だということだ。「しかし」「だから」「なぜなら」「というわけで」「たとえば」といったさりげないことばは、けっして板書されない。しかし、それが流れ(文脈)をうみだすのだ。一般には矢印で表示することが多いが、あとでその意味を復元できないことが多いので、かなでメモしておく必要がある。

 また、黒板に向かって細かい字で板書してばかりの理科系の授業と異なり、社会学系の授業は漫談風であることが多い。とくに具体的事例のところは、つい聞き入ってしまったり聞き流してしまうものだ。わたしは比較的多く板書するほうであるが、それでも事例説明になるとどうしても板書が止まってしまう。すると、とたんに受講者のノートも止まってしまう。じつはこの事例のあつかいがクセモノである。ここはしっかりメモして、ディテールにこだわりたい。具体のなかにのみ社会学的事実は存在するのだから。

 文章化するさいに重要な役割を果たすもうひとつのポイントは重要度である。断片的な情報を文章化しようと思えば、それらの情報の重要性の評価をしていかなければならない。本題にとってとるにたりないエピソードを大きくあつかえば、答案はピントはずれなものになってしまう。どれが重要でどれが二次的なことかの判断が適切でないと文章構成に響く。◎○△などの記号を使って重要度を明示するのはごく初歩的なワザであるが、けっこうものをいう。

 とくにわたしが勧めたいのは、ノートの文章化を講義の日の夜に済ませることだ。時間は自分を他人にしてしまうもので、二ヶ月ぐらいたってしまうと、自分のノートでも理解できなくなるものだ。その日のうちに手書きのノートをもとにパソコンに文章化しながら打ち込んでゆく。形式ばった書き方ではなく、その場の雰囲気を再現しておくとよい。おそらくこれがあなたの重要なデータベースになるにちがいない。

 さて、第二の目的を達成するには、自分の反応を書き込む必要がある。ノート段階ではフキダシにしておくと混乱がない。パソコンに文章化するときには[……]なり◆なりの表示を統一して記録するよう心がけたい。この集積があなた自身の問題関心の源泉となりオピニオンになる。これがまた第三の目的を達成することに通じる。やはり楽しくノートすることだ。そのためには、教員の講義内容と自分との仮想対話をノートするのが理想であろう。2

▼2 第三の目的について一言。わたしが社会学を教えるようになったとき、成績不良者のすくい上げと出席率向上をねらって毎回レジュメを配って講義に臨んだ。ところがやがて、レジュメ配布の授業はさまざまな要因が重なると眠くなってしまうことに気がついた。レジュメは便利だが、刺激が少なく、昼食後となるとどうしても眠くなる。しかも熱心な受講生にとっては自分なりのノートを構成できない不自由さもあるようだし、要領のいい欠席常習者との差ができないこともあって案外不評なものである。手を動かすという原始的なことも軽視できない。

教室のコミュニケーション

 しかし現代の大学において講義そのものがコミュニケーションとしてどれだけ有効におこなわれているかということになると、なかなかむずかしいものがある。教員と学生、それぞれの事情が、講義というコミュニケーション形式を困難にしている。

 教員側の事情としては、講義ノートの改訂がむずかしく、新鮮な現代的事例を結びつけた授業がなかなかできないことがある。意欲の問題もさることながら、大学行政に関する会議と論文や原稿の締切に追われているのが実態で、要するに時間がないのである。それでもカリスマ性があれば受講者も人物的魅力から学問への興味をもつこともあるだろうが、研究者というものは本来地味なものだからあまり期待できない。それに加えて専門家特有の視野の狭さが講義を硬直的なものにする。とくに一般教育科目は視野を広げることにポイントがあり、受講者もそれを期待するにもかかわらず、教員の狭い専門分野に閉塞しがちである。

 他方、学生側にも事情がある。たとえば社会学系の授業でも、社会学専攻として選択した人であればそれなりの動機づけがなされているだろうが、一般教育科目として選択した人ではそうはいかない。たとえば工学系を専攻する学生が社会科学を二科目履修しなければならないために社会学を履修するということがある。いわゆる不本意履修である。こうなると単位取得以外に受講動機がないから、学生の態度は経済合理的で戦略的なものになりがちである。しかもそういうケースにかぎって大教室や講堂でおこなわれることになるのだ。

 大教室において教員と学生とが濃密なコミュニケーションをすることはまず不可能である。大教室ほど質問がでない。大教室ほど反応が鈍い。あくまで割合の問題だが大教室ほど成績が悪い。そのかわり受講者同士でのコミュニケーションが盛んになり、大教室ほど私語が多くなる。授業中の出入りも多くなる。こうして大教室は無作法になる。3

▼ 昨今、大学改革の文脈で文章を書かれる先生方が、大教室の講義でもこんなにうまくできると自分の流儀を披露されることがある。そんなとき、いつも気になるのは「大教室」の概念が必ず「百人以上」という少人数(!)として語られることだ。百人と二百人はちがう。まして三百人や四百人はまったくちがう。じっさい四百人を動かすのはたいへんである。それはすでにひとつの社会である。さまざまな人がいて、さまざまな集団が形成され、流言が飛び交う社会なのである。わたしには経験がないが、受講者一四〇〇人の授業があると聞いた。じっさいに出席するのは半数ぐらいだというが、それにしても異常である。しかし私学における社会学系の一般教育科目の多くは、このような異常な状況でおこなわれている。こういう状況で「知と戯れてみよう」といっても栓ない話である。こういうことは、ごく一部のめぐまれた国立大学だからいえるのだと、わたしなどは思ってしまう。

談合体質

 これは大学当局の責任だろうか。教室不足などのように、それもないわけではないが、最近はそればかりではないようだ。というのも、大教室の授業の多くは自由選択科目あるいは選択必修科目だからである。

 近年の大規模なカリキュラム改革によって、学生の科目選択度が格段に高くなった。その分、人気のある授業や甘い評価の教員に学生が集まりやすいが、その傾向がだれの目にもあきらかである場合「クラスのみんなが受講するから自分もついでに」という便乗組が発生し、その結果なだれ式に学生が殺到するのである。「みんなで渡れば」式の日本的集団主義もあるが、じっさいその方が試験対策が容易だという側面もあるのだ。社会学系の講義は、一見なじみやすいテーマだから──しかも出席をとらないことが多い──しばしばこういうことになりがちである。

 このような学生集団の談合体質が、一面で、成績評価権をふりかざす教員に対する防衛的側面をもつことは否定できない。それは一種の互助的ネットワークである。しかし、それが大学特有の「研究者との学問を媒介したコミュニケーション」を損なう方向に向かっているのは残念なことだ。

 談合体質がもたらすその最たるものは、すでにふれた人マネの同一内容レポートと、もはやだれのものかもわからなくなったノートの大量コピーと、そして授業中の教室に生じる「私語の世界」である。私語は一年生ではそれほどでもないが二年生になると格段にふえる。一年たつと「みんないっしょ」という談合体質ができあがるからだろう。しかも大教室となると、ひとりひとりが匿名性を帯びるから、集合的無責任状態が現出する。

 大学生の私語については他にもさまざまな要因が指摘されている。4ふだんのメディア行動──ながら視聴やフリッピング──の延長線上で講義に臨むため、まるでテレビを見ているかのようなお茶の間感覚でふるまうことになるから、というのもあれば、他者指向的性格が強まり、友人関係を維持することが日常の最優先課題となっており、大教室でしか会えない友だちをつなぎ止めるためにじゃべりつづけるから、というのもある。物心ついたころから消費社会にどっぷりつかってきた世代であるために、あらゆるところにお客さま気分を持ち込むから、というのもあれば、高度情報社会にくらしてきたため、情報や知識にありがたみを感じないから、というのもある。授業で語られる知識はじっさいにはほとんど世間にあふれていないのだが、それらとスポンサーのついた情報とを区別できず、めんどうな手続きを要する科学的知識を敬遠し、その存在価値を認めない、一種の反主知主義も背景にある。しかも学生たちの内部でチェック機能が作動しないことも大きい。つまり「おまえら静かにしろよな」の一言がでないから、私語仲間が教室のなかで孤立しない。むしろ注意するほうが孤立しやすい。この構図はいじめと同じである。5

▼4 新堀通也『私語研究序説──現代教育への警鐘』(玉川大学出版部一九九二年)。
▼5 小学校で授業参観が私語で成立しないといった話もあるほどだから、これは学生だけの現象ではなく日本人全体の現象なのかもしれない。ことわっておくが、小学生が私語するのではなく、参観にきた親が私語するのだ。

 社会全体が理性的でなくなるのは、じつはこういうときである。たとえばファシズムやマッカーシズムは、このような談合体質からもっともよく生じるのだ。社会学からもっとも遠い行為であることを知ってほしいし、こうした雰囲気に抵抗することもれっきとした社会学的実践であると、わたしは考えている。

 そして教員の取り組みもまだまだこれからだということも最後に強調しておきたい。とにもかくにも教員と学生のたえまない努力なしに大教室の講義など成立するはずがないのだから。

能動的な受け手になろう

 そもそも大学にはなぜ大教室の講義が許されているのか。数百人が一斉に同じ講義を聴くような授業は小中高校まではなかったはずである。それは大学生が「大人」と見なされているからである。この場合の「大人」とは「市民性をもった自律的な成人」ということだ。つまり、公共のものごとをよく理解でき、それとの関係を考慮しながら、自分のことを自分で決めていく態度をもった理性的な人間である。大学は学生をそういう人間として見ようとする。したがって、勝手な私語によって教室内の公共的コミュニケーションを阻害したり、仲間の動向によっていともかんたんに左右されてしまうような学生を想定していないのである。ところが、大人の概念が青年期の長期化によって人生後期にずれている現在、そのような人間像はかなり非現実的なことになっている。

 談合体質に抵抗することは、自律的な市民への第一歩であろう。そしてそれも、社会学を学ぶ目標のひとつなのだ。

 では、具体的には何をすればいいのだろうか。講義の場合、それは質問である。試験についての質問ではなく、語られた内容についての質問をしよう。具体的に質問しよう。課題レポートがでていれば、題材を集めた段階で、執筆過程で具体的に質問すればよい。質問が具体的であれば、教員はていねいにサジェスチョンしてくれるはずである。そうでないときは、たいてい質問が抽象的だからである。しかも、質問は教員を鍛える。教員が鍛えられていないとすれば、適切な質問をしてこなかった先輩のせいでもある。

 社会学者加藤秀俊は次のように述べている。「知的訓練というものは、じょうずな問答の訓練のことなのである。それは、なま身の人間どうしが対面したときにはじめて可能なことだ。教室の意味は、そこで問答が展開されるというところにある。問答のない教室には、なんの意味もない。」6

▼6 加藤秀俊『取材学』(中公新書一九七五年)一〇四ページ。

 たしかに教室が応答的空間になるのが理想であろう。応答的なコミュニケーションそのものに授業のほんとうの意味がある。大教室の授業で直接的な応答が困難なときは、自分のノートに自分の反応を書きつけ、チャンスを見つけて教員にぶつけてみよう。〈出席をとられるための出席〉が現代学生の行動的特徴であるが、コミュニケーションそのものに意味の充実が見つけられるようになれば、出席を取られない授業への「参加」を空しいとは思わないだろう。

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SOCIUS.JPドメインへの初出 7/18(thu), 2002  
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