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社会学の作法・初級編【改訂版】

六 パソコンの利用――現代人のメディア・リテラシーとして [1999年改訂版]

パソコンの早期導入を

「この本はおそらくこの章から陳腐化する」と初版(一九九五年春に刊行)で書いてから数年。じっさいその通りになった。この章の文章は改訂版にするにあたって一九九八年末に書き改めたものである。しかし、数年を待たず、再び陳腐化するのは確実である。それほどパソコンをめぐる環境は変わりつつあり、かつまた、わたしたちのかかわり方も著しく変化している。だから、ディテールにこだわった議論はしたくない。

 結論からいえば、現代の社会学的生活にパソコンはもはや欠かすことができないものになっている。それはインターネット時代に入ってパソコンがコミュニケーションのメディアとして社会に定着したからだ。もはやたんなる事務処理機でも文書作成機でもなくなってしまった。

 したがって、パソコン導入だけでなくインターネット導入も不可欠になった。プロバイダーへの加入もしなければならない。こういうことは初級編段階で習熟しておくとあとあと有利である。早めに自力で身につけてしまうことをお勧めする。

インターネットの利用

 今はパソコンを買ったその日からインターネットに接続しようという時代である。コマーシャル・ベースの関連情報も格段に多くなった。多言は要すまい。ここではいくつかの典型的な学術利用の仕方を提示するにとどめよう。

(1)電子メールを使う。
 携帯電話も便利だが、電子メール(以下「メール」と省略)もたいへん重宝する。つい最近まではメールを送る相手が限られていたが、これからは電話並になるだろう。メールは相手が不在でも(毎日メールボックスを確認する相手であれば)確実に連絡がとれるので、忙しい人との連絡では欠かせないものになっている。また、ネットワーク文化の産物としてある種の「軽さ」がともなうので、目上の人・疎遠な人・はじめての人に対しても比較的コミュニケーションをとりやすいところがある。こうしたメディア特性を上手に生かしたいものだ。

(2)ウェッブ(ホームページ)を見る
 昔はパソコンを買っても使わない(使えない)まま放置する人が少なくなかったが、今はウェッブを見て回るだけでもキリがない。ポイントはサーチエンジンの使いこなしにあるが、はじめのうちは Yahoo!Japan のような、定番サイトを集めたディレクトリ・サービスで調べるとよい。網羅的なサーチエンジンだと、かえって手間がかかるものである。いくつかの定番サイトでリンクされているものを軸に見ていくとハズレが少ない。1

▼1 なお、文献情報・学術情報を得るためのノウハウや場所については、私のウェッブでサポートしているので、インターネットへの接続ができるようになったら、Socius(http://socius.org)を参照してほしい。

(3)メーリングリストなどに参加する。
 インターネットは「メーリングリストに始まり、メーリングリストに終わる」とも言われるように、インターネットの特徴であるヴァーチャル・コミュニティはメーリングリストで形成されているのが常である。2 なるべく知的なメーリングリストに入っておくと、けっこう勉強になるものだし、何かあったときなどに予想外の支援を得られたりする。仲間内で新規に立ちあげるのもいいが、できればさまざまな社会人の参加しているメーリングリストに入ることをすすめたい。

▼2 古瀬幸広・廣瀬克哉『インターネットが変える世界』(岩波新書一九九六年)一七三ページ。

(4)ウェッブを公開する。
 インターネットは、受け手として参加するだけでなく送り手として参加できるメディアである。自分の趣味や勉強を生かしたウェッブを構築して公開することは、発信者自身に一種の社会参加の機能を果たす。社会(他者)のまなざしの中に自分の世界をさらすことから予想外の交流が始まることも多い。ウェッブそのものはインターネットのサービスの中でも一方通行でもっとも放送に近いメディアであるが、それでも相互にリンクしあうことで、ゆるやかなネットワークを形成し、さまざまなコミュニケーションが始まるものである。このようなネットワークに参加していることがたいせつだ。

ネットワークの作法と無作法

 パソコンの利用法そのものに作法はない。けれども、ひとたびそれがネットワークにつながってコミュニケーション・メディアとして利用されるとなると、そうはいかない。接続先に人間がいるとなると多少の作法が必要になってくる。ここを軽く見てはいけない。

 たとえば、メールでのレポート提出が認められていないにもかかわらず、締切に間に合わなかったために添付文書としてレポートを送信する人がいる。「出席もしてないし試験もできなかったけど、このままでは進級できないので単位ください」という虫のいいメールもある。こんな使い方をしていると、そのうち教員のアドレスが非公開になってしまう事態さえ生じかねない。ダメモトでこういうことをするのはまちがっている。オープンであることに甘えてはいけない。

 そもそも、未熟な若者が本質的にオープンなインターネットに参入する方法にはふたつある。ひとつは、新人であることを自覚して、そこから少しずつメンバーとして必要なネットワーク文化の知識を身につけようとするやり方である。もうひとつは、はなから温情的配慮をアテにして身勝手にふるまうやり方。極端な場合では、自分のプライドを守るためにネットワーク文化を頭から否定して強気の野蛮主義に走るケースも少なくない。「身勝手」にしても「荒らす」にしても、そういうことでしか自分の存在意義を見いだせないのも悲しいが、未熟とはそういうものであろう。だから大人はそういうふるまいに対して黙ってただ無視するのである。

 自分自身がネットワーク上で何かを得ようと思うなら、ネットワーク文化に謙虚に学ぶ姿勢が必要だ。そして自分自身が人に何か貢献することが必要である。ことのほか「誠実と感謝」がものをいう世界でもある。学校社会で見られるパターナリズム的な人間関係や、組織社会に見られる利害関係や支配関係などとは異質の原理(コミュニケーション合理性?)で動くことを意識しておきたい。相手は生身の人間であることを忘れずに臨みたいものだ。

必要な能力は何か

 以上のようなことを考慮すると、大学などでおこなわれている「情報リテラシー教育」の目標とすべきことは、ネットワーク・コミュニケーションの能動的な主体となるチャンスの提供であり、市民として公共の場で発言できるコミュニケーション能力を開花させることであろう。つまり、理想的なネットワーク・コミュニケーションの思想とスタイルを学び、じっさいにそれをモデルとして学習者自身が実践して、その社会的意味を反省的に把握することこそ、大学教育における「情報リテラシー教育」の主軸になるべきなのだ。3

▼3 ここでは「ネットワーク・コミュニケーション」ということばを、インターネットだけでなくイントラネットやパソコン通信などをふくむ広い意味で使っている。CMC (Computer Mediated Communication) ということばもある。

 しかし、情けないことだが、現状ではOSや表計算ソフトの使い方を学習するのが関の山のようである。ほんの数年でスクラップ化するような技術の修得が中心になってしまっている。これでは、交通規則をまったく知らないドライバーを大学が量産しているようなものである。もっとしなければならないことがあるはずなのにと思う。となれば、学習者自身が自分でマスターするしかあるまい。それはたとえば以下のような項目である。4

▼4 基本書として、古瀬幸広・廣瀬克哉、前掲書。村井純『インターネット』(岩波新書一九九五年)。村井純『インターネットII――次世代への扉』(岩波新書一九九八年)。ネット上の作法を解説したものとして、ドナルド・ローズ『ネチケット入門――インターネットの行儀作法』池尻千夏訳/(株)メディアプラス編(海文堂一九九六年)。その他、岩波新書・講談社ブルーバックス・ちくま新書のインターネット関連書を参照してほしい。

(1)ネットワーク文化論(理論)
 ネットワーク・コミュニケーションの文化・歴史・作法・倫理・ダークサイドの学習。たとえば「なぜ匿名の発言が問題なのか」について思想的な理解をすること。

(2)リソース利用法(受け手としてのスキル)
 ネットワーク上のリソースの具体的な利用法について学ぶ。特定の目的を達成するためのアクセスの仕方や検索の仕方や情報の信頼性の見極め方など、受け手としてネットワークを活用するためのノウハウを学ぶ。

(3)コンテンツ制作法(送り手としてのスキル)
 ネットワークに送り手として参加する仕方を学ぶ。コンテンツ制作の動機、読まれる文章の書き方、HTMLの文法、ハイパーテキストの編集方法などについて学ぶ。じっさいにテーマを設定し、ウェッブを構築して公開する。必ず作品の相互批評をおこない、読者という他者の目の洗礼を受けることがポイントである。

(4)ネットワーキング技術(関係形成のスキル)
 ネットワーキングとは、人と人との対等かつゆるやかなつながりをそのつど自発的に形成して問題を解決していくことをさす。5 有効な議論の仕方やネットワークの広げ方、公共の場に自分を開いてゆく仕方を学ぶ。これは実地にネットワーク・コミュニケーションの経験を積むしかないが、このさい、関係形成にともなって生起するさまざまな問題に対処する技術も学ぶことができれば、それに越したことはない。

▼5 J・リップナック、J・スタンプス『ネットワーキング――ヨコ型情報社会への潮流』正村公宏監修・社会開発統計研究所訳(プレジデント社一九八四年)がこのことばの発祥地。通信システムで使われていた「ネットワーク」を比喩的に社会運動の形成局面に適用したもので、日本でも広く用いられるようになった。インターネットの議論でこれを持ち出すと「技術としてのネットワーク」と「人間関係としてのネットワーク」がかなり重複して混乱するが、実態としてもそういうところがある。

 以上の項目は高度と言えば高度かもしれない。また、きりがないと言えばきりがない。けれども、むしろこういう文脈に身をおいてこそ、パソコンの技術的操作を覚え、パソコンを使って説得力のある文章を書き、ネットワークについて理解が深まるものなのである。パソコンでレポートや論文を書く段階は、むしろそのあとの話である。

パソコンで文章を書く

 パソコンの普及によって若い人たちもずいぶん饒舌に文章を書くようになった。レポートを読んでみても、その量におどろくことが多い。その理由はいくつかある。まず、それはどこからでも書き始められるから、とりあえず文章を書き進めるさいの敷居が低い(心理的抵抗が少ない)ということ。また、リライトや推敲がかんたんだから文章の完成度が確実に高くなるということ。しかも構成案と下書きと清書がひとつの文書の時間的生成過程として位置づけられるわけだから、作業上の二度手間・三度手間が省ける。文学的な気負いがとれる効果があり、結果的に創作意欲・表現意欲を高める。

 そもそも、従来、原稿用紙を使用して論文を書くとき、プロが使う道具は鉛筆や万年筆だけではなかった。消しゴムと修正液はもちろん必要だが、それだけでなく、さらにノリとハサミが欠かせなかったものだ。何度も草稿を読み返し、微調整を加えながら効率よくリライトするにはそれしかなかったのである。

 わたしの師匠にあたる先生も、仕上げ段階で使っていたのはもっぱらノリとハサミだった。世界的に著名な社会学者が一字一句のためにせっせと切り貼りする姿に一種の感動さえ覚えたものだ。ちなみに、ノーベル賞作家となった大江健三郎も、その最後となるかもしれないと言われた小説を「書き上げた」瞬間に使っていたのはノリとハサミだった。ことほどさように論理的な整合性を高めるためには、書きなぐった文章ではダメなのだ。プロのもの書きほど何度もリライトを繰り返し、切り貼りの労を惜しまない。それゆえ、もの書きは職人芸たりえたのである。

 ところが、パソコンとワープロ専用機はこの職人芸を一挙に身近なものにしてくれた。いつでもどこでも文章を書き換えられる。パラグラフの順序を入れ替えたり、文中に書きたしたり、用語法を機械的に統一したり……と自在である。これらを駆使すると、わたしたちのようなものぐさでも何とか整合性のある文章をものにすることができる。

 というわけで、パソコンを手に入れたら、文章をどんどん書いてみよう。もちろん、じっさいにはメールを書いたり、メーリングリストに投稿したりというところから始めるのはいいことだ。相手があってこそコミュニケーションは始まり、文章を書く意欲もわくものだ。そして、文章の独りよがりなところも相手の反応によってチェックされるもの。当初はこういうことに意識的に取り組んでほしい。

 それと並行して、自分自身の勉強のために、知的な文章を書くようにしてみよう。ニュース日誌、読書ノート、思索ノート、授業ノート、そして課題レポート……。これらはやがて自分にとってのデータベースになる。パソコンのよいところは自分の知的世界が良くも悪くもあからさまになるところで、それだけに、居直りさえしなければ健全な発展も望める。

 このような文章はなるべく同じ種類のソフトで書いた方が、あとあと再利用するのに便利だ。通常はワープロソフトで書くことが多いが、たしかにレイアウトに凝ることができて、しかもプリントするのに便利だが、互換性が少ないのが難点。長い目で見ればエディターソフトで書くのが無難である。エディターソフトは装飾なしのテキストファイルで保存する。このほうが、どのソフトでもどのOSでもインターネット上でも読めるという互換性と汎用性があり、何かと便利だからである(若干の変換は必要だが、かんたんにできる)。プリントするときにはワープロソフトに読み込ませれば不自由はない。あるいはワープロで書いたとしても必ずテキストファイルとしても保存するとよい。ここでは「テキストファイル保存法」と呼んでおこう。

 さらにクロスプラットフォームで行こうとすれば、HTMLで保存する手がある。HTMLはウェッブを作成するときに使用する約束事だが、これで書いておくと、将来どんなにパソコン事情が変わろうが、ソフトがヴァージョンアップしようが(消滅しようが?)、自分のマシンのOSを変更しようが、読めないということはまずないだろう。多少勉強が必要だが、ウェッブ作成用のオーサリングソフトを使えばかんたん。最近はワープロソフトでもHTML書類として保存できるようになったので、そうむずかしく考えることはない。HTML(正確にはHTML4.0とCSS)で書くと見栄えも操作でき作表も容易なので、私自身はエディターを使って最初からHTMLで原稿や講義ノートを書いてしまうことも多い。HTMLを使うと、そのままハイパーリンクするノートになるし、MacintoshでもWindowsでも使える融通さが貴重である。

書評レポートを書いてみる

 さて、パソコンでどのようにレポートや論文を書くか。指定された課題図書を書評するレポート作成のケースを考えてみよう。

 まず課題図書を読む。ただし、ものを書くために読むときは、鉛筆か付箋紙で気になったところや重要と思われるところをチェックしておくのがコツである。読み終わったらチェックしたところだけ何度も読み返す。これによって論点がおぼろげながらまとまってくるはずだ。そこでまず本の順序にしたがってデータを書く込む。チェック箇所で引用したい箇所はあらかじめかぎカッコつきで打ってしまう。長いものはその段階で要約する。このとき本の文章をそのまま打ってはいけない。「著者はここで○○○が○○○であることを指摘している。p.107」といったぐあいにしておく。これを全編にわたって打ち込んだあと、それらを眺めながら、カット・アンド・ペーストをくりかえしてまとまりをつくっていく。三つぐらいの論点にまとめることができれば上出来だ。この過程でいくつかのチェック項目は捨てることも必要。捨てることで論旨がすっきりする。従来この作業はメモやカードでやってきたことだが、パソコンだとはるかに効率よくできる。ここがすでに構想の段階である。

 いったん論点がまとまってきたら、それぞれに項目名をつけて「第一点は、○○○」とまとめておく。今度はその論点を頭におきながら本をパラパラ読み返してみる。すると関連する箇所が新たにでてくるはずだ。それを補いながら各論点についてバランスよくまとめていく。そのさい、ひとつの論点をふたつにわけたり論点をずらしたりして修正するといったことがあるかもしれない。そのあと、それぞれについて自分なりの評価を加える。すでに論点として提示したこと自体が自分なりの評価だから、すべてに論評することはないが、ひとつぐらいはきちんと論じてみたい。論じてみたいが論じることが何もないときは──こういうことはよくある──「◆ここで一考」なり「◆ここで決めること!」なりと打って、しばらくほっておく。何ごとも時間は必要である。そのあいだにイントロ・序論・結論・タイトルなど書けるところを書けばいい。未確認のことについては「◆要確認」と打っておく。アイデアが浮かんだら、とりあえずどこかに書き込んでおく。これで第一次稿のできあがりだ。

 次に第一次稿で不十分なところをひとつずつ埋めていく。確認すべきことを確認し、考えるべきことを考える。そのために、本を読みなおしたり、図書館で事典を引いたり、同じテーマを論じた他の本や記事を手にとってみたり、友人と議論したり、感想を並べたりする。自分のなかからことばを引きだすには、必ず何らかの刺激が必要である。何かをじっさいに行動しなければならない。何かの行動の反応としてことばがうまれるのだ。──こうして第二次稿つまり下書きが完成する。

 ここから推敲(すいこう)に入る。いったんプリントアウトしておいたものに赤字を入れるようにすると効果的だ。赤字を打ち込む。それをプリントアウトしてさらに赤字を入れる。これを何度も繰り返す。ときには大胆な構成変更もあるだろう。むしろそれがふつうである。「どうもイマイチだな」と手を入れる──この「ずれを埋める作業」こそが「思考」そのものなのだ。

 最後に仕上げである。エディターで作成したテキストファイルをワープロソフトに読み込んで、指定された様式でプリントアウトする。ワープロソフトは自動的に禁則処理をしてくれるから、それ以外について点検すればいい。表紙をつけることも必要だ。

 ゼミ報告や卒業論文なども、結局、書評レポートでの作業を複数化するだけの話だ。テーマや資料を調査して自分で決めるところがちがうだけである。

アウトライン機能を使う

 このような作業を効率よく実行できるのがアウトライン・プロセッサーである。アウトライン・プロセッサーは、ツリー状(階層的に)に配列された細目次のひとつひとつの項目にカードがぶら下がっているようなエディターである。文章を書いたカードに項目名をつけ、それをツリー状に配列したようなものであるといってもよい。そのひとつひとつのカードに文章を書き込んでゆく。位置を変えたいときには目次の項目を移動するだけで中味の文章も移動する。

 最近はたいていのワープロソフトにアウトライン機能が装備されているので、とくに購入する必要はなくなった。目次構成案を発展させながら、各項目に付属する文章を書いていくやり方は、少し大きめの構成的な著作を書くのにたいへん適している。初級編ではあまり必要ないが、百枚程度の卒業論文では有効な機能である。とはいっても、欧米の作文教育は全体のアウトライン(目次構成案)を決めて書いていくそうだから、学び始めの段階から使い始めるメリットはあると思う。積極的に使ってほしい。

 具体的には、全体の構成案を箇条書きにして、それを目安にして、書きやすいところから本文を書いてゆくことになる。ある部分がふくらんできたら、項目を細かく分けて、それぞれに小見出しをつける。なかなか書けない項目があれば、思いきって切り捨ててしまう。全体のバランスを考えて、足りないところや過剰なところがないか吟味する。

 一種のトップダウン方式で書いているようだが、じっさいには、ばらばらの素材があってそれを徐々にとりまとめて項目化していくボトムアップ方式的な側面もある。ある程度いいたいことがたくさんあって、それをどのようにいおうかというときはトップダウンの色彩が強くなろうし、逆に、まだいいたいことがなくて材料集めの段階から書き始めるときは──原稿用紙に書くときはこれができない──ボトムアップ的作業が前面にでることになる。

 たとえば講義ノートのように一年なり半年なりに講義する内容の膨大なものは、とてもエディターには手に負えない。テーマごとにファイルを分割する必要がある。アウトライン・プロセッサーならひとつのファイルとして一括して管理できる。構造上、ファイルが巨大になってもかなり高速で作業できることもあって、わたしは、型遅れの低速なマシンでガマンしていた時期にはたいへん重宝し、さらに進行表としても使っていたほどである。

 そもそも文章の書き方にはおよそ三つのやり方がある。第一にシーケンシャル・ライティング。始めから連続的に書くやり方だ。リニア(直線的)に書く。読む順序と同じように書く。流れを重視する文章法だ。第二にコンストラクティブ・ライティングともいうべきスタイル。構成感を重視した建築的な書き方である。全体のアウトラインをトップダウンで決めてから書いてゆく。たとえば結論から書き始めて本論を書き、最後に序論を仕上げるといった書き方がこれだ。第三はハイパーテキスト。非連続的な文章が相互にリンクした状態(相互参照状態)で、どこからでも読める書けるテキスト群である。

 社会学のような理論科学に関する知的作業には第二のタイプが作法にかなっている。それは結論なり主張なりがあって、それを説得するために論拠や証拠を提示するタイプのディスクール(言説)だからである。原稿用紙やノートに作文するときには、おのずと第一のタイプになってしまうが、そのままでは成り行きまかせの文章構成になってしまいがちである。だから切り貼りやリライトが欠かせなかったのである。電子情報時代にふさわしい新しい文章法として近年注目されている第三のやり方では、テクストの解釈がすべて読む側にゆだねられてしまって、書き手の意図する文脈はほとんど無効化されてしまう。社会学的な文章は、書き手によって緊密にコントロールされていなければならないから、これでは困る。しかし俗にいう「構想を練る」とはこのような状態をさすのではなかろうか。さまざまな要素がさまざまにリンクして、もつれた糸のようになった状態。そのしがらみを少しずつほどいて、よけいなリンクを切り、ひしめきあう要素をグルーピングして柱(論点)を立ててゆく。ひとたび柱が立ったら、今度は昔から柱が立っていたかのように記述を整え、前から順番に読むであろう読者の意識の流れを想定して演出してゆくのである。結局わたしたちは三種の文章形式を潜り抜けて文章を書き上げるのだ。

自分のデータベースを構築する

 自分の知的世界をパソコン上に展開するとなると、データベースソフトが必要だと考える人が多い。じっさい高価なソフトを買って(あるいは高価なデータベースソフトがバンドルされているパソコンを選んで)せっせと蔵書やCDのデータを打ち込んでいる人が多い。しかし、データは利用してはじめて価値の出るもの。入力する手間はなるべく少ない方がいいし、たいてい挫折するだけである。

 それよりも、もっとかんたんなやり方がある。それはあえてデータベースを構築しない構築法である。それが、さきほど言及したテキストファイル保存法である。自分の書いたメモ・ニュース日誌・読書ノート・授業ノートなどをテキストファイルで保存しておけば、マルチファイル検索のできる検索ソフトかエディターで特定項目についての記述をすべて拾うことができる。

 マルチファイル検索機能のこのような特性は次のことを意味する。それはデータをあらかじめ分類整理する必要がないということだ。プレーンなテキストファイルにさえしておけば、どんな書きようであってもかまわない。これはたいへん実用的で、つまり思いつきやヒントはただどんどん書き込んでおけばいいのだ。あとで必要に応じて検索し、次のステップの踏石にすればいいのである。まさに自分だけのデータベースである。

 社会学は哲学ではないのでひとりで思索すればよいというものではないが、問題関心を広げたり深めたりすることについては、それなりに思索が必要である。それは結論をだすといったことではなく、自分なりのテーマをみつけることを目標とするような思索である。文系学生であれば卒業論文に備えてそれは必要である。卒業論文のない学生や社会人の方も、自分を自己学習的存在へと高め、自分で自分に影響をあたえ、それによって自分をさらに変えてゆく反省的循環を確立するためにも必要である。このようなありようを「自己組織性」(self-organity)というが、知的側面でこれを自覚的に成し遂げることは、かつては相当にまめな努力を要した。ノートやカードやファイリングシステムなどの使いこなしが必要だった。それがパソコンを使うと比較的かんたんにできる。わたしもパソコンを使うようになって、ずいぶん悩むことが少なくなった(とくに文房具についてのこだわりから解放された)。そして、一〇代末期から二〇代にわたって書き上げたあのノート群はいったい何だったんだろうかと、かえって悩んでしまう今日このごろである。

送り手になること

 パソコンを使いこなすというのは、じっさいどういうことだろうか。マシンやソフトの新製品情報に詳しいことだろうか。裏ワザ的な操作法を知っていることだろうか。いやいや、おそらくそうではない。それらは所詮、ゲームやアニメのおたくと同様、消費行動の一ヴァリエーションにすぎないのだ。

 忌憚なく言えば、そもそも学問のほとんども知的消費であって、知的生産とか知的創造といえるものはほんの少しである。その意味では学び始めは知的消費に徹するというやり方もあるとは思う。しかし、じつはそうした受け身な態度では、なかなか一歩先の知的創造の局面に踏み出せないものである。ならば、さきに一歩踏み込んでやってみて、それを反省することで半歩後退し、ふたたび次を展望するというやり方のほうが実際的ではないだろうか。

 そのやり方というのは「送り手になること」だ。具体的には、メディアをつくってコンテンツを公開することである。

 たとえば「演習」であれば「ゼミナール報告」略して「ゼミ報」の発行をすすめたい。クラスの仲間で「ニュース研究会」「社会問題研究会」「時事問題研究会」をつくって会報をつくるのもいい。音楽がすきなら「音楽社会学研究会」──べつに社会学でなくてもいいのだが──をつくるということがあってもいい。以前は経費を集めなければならないのでかんたんにはいかなかったが、今はパソコンとコピーのおかげで、ずいぶんかんたんになった。

 もっと安価で効果的なのはウェッブ形式にしてインターネット上で公開することだ。著作権侵害に注意してさえいれば、それほど問題にはならないだろう。コンテンツとして充実していれば、それなりの反応がえられるものである。もちろん批判されることもあるだろうが、それもふくめて「矢面に立つこと」がたいせつなのである。それが自分を知的に鍛える。そういう道具としてパソコンを利用できれば、それこそ生産的な使い方ではなかろうか。

 送り手になる経験は社会学的見地から見ても重要である。というのも、こうした作業は、やや大仰ないい方が許されるならば、ジャーナリズムの系統発生的な歴史を自分たちの経験として個体発生させることになるからだ。「教室に印刷機を」とピエール・フレネはいったそうだが、草の根ジャーナリズムを体験することは、成熟した主体的市民となる第一歩である。ひとりひとりがメディアをもつことによって、いうべきことがいわれないままになることを防止する。これは健全な市民社会の基本的条件だ。ぜひ自分の知的生活にこのような好循環をつくりだして創造的な局面を切り開いていってほしい。6

▼6 すでに個々のデータが古びてしまっているが、以上に述べた考え方の詳細については、野村一夫『インターネット市民スタイル【知的作法編】』(論創社一九九七年)。

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SOCIUS.JPドメインへの初出 7/18(thu), 2002  
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