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社会学の作法・初級編【改訂版】

五 レポートの作法――どう書くか

作文の種類

 知的生産者とはいわないまでも、ひとまずは、成熟した知的消費者になること--それが初級編の第一目標だ。しかし、じっさいにはそうとばかりはいっていられない。大学生であればレポートを書かなければならない。社会人であれば報告書を書かなければならない。市民運動にかかわっていれば調べたことを会報に書かなければならない。たいていの場合「まず必要ありき」で文章を書くことになる。これはしばしば義務ではあるが自分を知的に成熟させるチャンスでもある。書く経験があると、社会学の「読み書き討論」能力--第一〇章で説明することばを先取りすれば「社会学的リテラシー」--は格段に進歩する。

 社会学系の学生が書かなければならない作文は三種類ある。小論文試験とレポートと卒業論文である。このうち卒業論文は中級編の部類だろうから本書では述べない。小論文試験については第八章で論じることにして、本章ではレポートにしぼって論じることにしよう。

 レポートにも種類がある。課題が決められているもの、自由課題、そしてその中間のものである。じっさいレポートにはある程度の自由裁量の余地があり、その裁量の程度はさまざまでありうる。それぞれについての取り組み方を考えてみよう。

書評を書く

 第一に課題図書を読んで書くもの。この場合は「感想文を書け」といわれることが多い。そうでなくても課題図書が指定されたとき、多くの学生は「感想を書けばいいんだな」と、小中高校の読書感想文の連続線上で受け取りがちである。しかし、それはまちがいだ。

 そもそも「感想」は主観的で情緒的な反応である。それは学問でもなければ科学でもない。だから感想文は学問を主題とする大学教育にふさわしいものとはいえない。しかし現実には、一年に一冊も本を読まない学生(この学生は実在する!)やまったく専攻の異なる学生に専門書を読んでもらうのだから、まともなレポートを期待できない場合がしばしばあり、そこで仕方なく「読んだ証拠--アリバイ--として何か書いてこい」といったニュアンスで「感想文でいいよ」というのが多いのではなかろうか。教員の妥協の産物としての「感想文」なのだ。したがって「○○を読んで」と題して「ここが好き」「ここがきらい」「むずかしくてよくわからなかった」といった作文は、アリバイ以上のものではなく、もちろん社会学でもない。

 では、課題図書を読むレポートの場合、何が求められているのか。

 簡潔にいおう。それは「書評」(book review)である。書評とは、(1)本の紹介をし、(2)その重要な論点を整理して、(3)各論点について自分なりに考察することである。したがって書評レポートのアウトライン・フォーマットもだいたいこの三部構成になる。

(1)本の紹介--著者はこの本で(a)何について(テーマ)(b)どのようなアプローチで(方法・着想)(c)いかなる主張や結論をだしているか。目次を眺めながら、思いきりよくまとめる。

(2)論点の提示--著者にとって重要な論点と、自分にとって重要と思われる論点を明確に提示する。あわせて三点程度に集約させるのが無難。「第一に」「第二に」とパラグラフ(段落)を分ける。

(3)考察--各論点について論評する。これは各論点を提示した直後にそれぞれ論評してもよいし、あとでまとめて論評してもかまわない。論点によっては、さしてコメントすることもないものもあるだろうから、そういうものについては丹念に要約しておけばよい。ただし一点ぐらいは若干のこだわりをもって議論してみよう。

 さて、そうはいっても、自然とアウトラインは浮かんでくるものではない。それはむりやりに自分の内部に生じさせるのである。そのためのいくつかのコツがある。

(1)本の読み方--書くために読むときは、あらかじめチェックを入れながら読まなければならない。5B程度の濃い鉛筆でチェックするか、借り物のときは付箋紙をはさむ。引用したい部分に傍線を引くのはけっこうだが、それ以外にも引くとなるとわずらわしいので、縦書きの本は該当文章の上部に横線を引き、横書きの本は該当文章の左側に縦線を入れておくとよい。重要度の高い箇所は二重線にしておく。

(2)チェックの入れ方--著者が強調しているところ。自分が重要だと思うところ。引っかかるところ。疑問を感じたところ。同時に、それを読んだときの自分の反応も書き止めておく。長くなるときはポストイットのようなメモに書いてはさみ込んでおく。これは多ければ多いほど、あとがらく。

(3)論点のつくり方--チェックを入れたところを何回も眺めて、それらをグループ化する。三つ前後が標準的。枝葉にあたるようなチェック項目は思いきって捨てるのがコツ。そしていったん論点を決めたら、本を読み返して関連することがらを加えて多少ふくらませる。

(4)要約の仕方--本文ツギハギ型は最悪である。そして困ったことに最悪のケースが圧倒的な多数派なのだ。本文を見てかんたんなメモをつくり、今度は本文を見ないでメモだけを参照しながら自分で文章を書く方がうまくいく。「わたしはこう読んだ」というつもりで書く。要するに、自分というフィルターを通すことだ。徹夜仕事にありがちな「自動書記」は絶対避けなければならない(それは知性的でもなく主体的でもなく能動的でもない)。

(5)引用のあつかい--必ずかぎカッコに入れる。入れないと自分が書いた文章として読まれてしまう。これは剽窃(ひょうせつ)である。原稿用紙五枚程度のレポートであれば、引用文は短いのをひとつかふたつ程度がふつう。あまりに長いもの(一枚以上におよぶもの)や多量の引用は「枚数稼ぎ」と見られてしまう。どうしても必要なときは、その分、多めに書いたほうがよい。

(6)論評の仕方--読んだときの自分の反応をつなぎとめ、それを反省的にふくらませる。それでも書くことがないと感じるときは「比較」をしてみよう。第一に、同じテーマをあつかった他の文献との比較。別の本を一冊読むのはたいへんだから、事典や教科書などの記述とくらべてみる。第二に、常識との比較。世間で一般に考えられていることとのちがいに注目してみる。社会学系の本では「脱常識」的なものが多いので有効である。第三に、自分の思い込みとの比較。書評レポートのねらいは自分を変えることだ。今までの自分の考え方にとどまる「感想」を乗り越えることがテーマなのだ。だから、従来の自分の考え方をその本を鏡にして批判的に反省してみることは、社会学の作法にかなっている。第四に、現在との比較。どんな課題図書も執筆された時点からそれなりに時間がたっている。このタイムラグにこだわってみるのもおもしろい。いずれにせよ比較してみると「ずれ」が見えてくるはずだ。その「ずれ」について考えたことが、あなただけのオリジナルな論評になる。

テーマ指定のレポート

 第二に課題テーマが指定されているレポートについて考えよう。たとえば「少子化現象について」「マックス・ウェーバーのカリスマ論について」「犯罪報道の抱える問題について」「外国人労働者問題について」といったようにテーマが指定されたレポートだ。この場合は、出題の意図を十分にくみとることがたいせつだ。

 この種のレポートのねらいは三つある。第一点は「自分で調べる」経験を積んでもらうことだ。基本的に文献調査のトレーニングを要求していると受け取ろう。文献調査の基本については第四章ですでに述べた。よくいわれることだが、まず「足を使って調べる」ことだ。事典・教科書・概説書の索引を利用して概要を知って、土地カンを養うことから始めよう。そしてそれらが共通に参照要求している文献に直接あたることである。本を選ぶ眼がたいせつで、それが的確であれば、教員も「社会学仲間」として読んでくれるはずだ。ここが勝負どころである。このあたりはスタンダードにこだわりたい。その上で新しい文献を補足すると初級編としては申し分ない。なお、参考文献はあけっぴろげにしておくこと。手の内をすべてさらした上で議論するのが社会学の作法である。

 第二のポイントは「問題をつかむ」ことだ。文献を読むなかで、そのテーマの問題点が何なのかをきちんと整理しなければならない。文献を読めば読むほど、さまざまな問題が見えてくる。むしろ錯綜してくるという感じにとらわれるのではなかろうか。そのときは各文献の最大公約数をとるつもりで整理していこう。1

▼1 中級編以上になると、それ以外の要素を細かく研究することが多いが、初級編では深入りせず最大公約数程度にとどめておく方が無難である。ただし、とくに興味をもったところがあれば別である。

 そこでお勧めしたいのは「疑問文で考える」ということだ。「○○とは何か」「○○とは具体的にどういうことか」「○○にはどんなタイプ(パターン)があるか」「なぜ○○が必要なのか」「なぜ○○が問題になったのか」「この問題に対してどのような立場があるか」「では、どうしたらよいのか」これをきちんと文章にして、そののちにそれに答えるつもりで書くと、すっきり論旨が通る。そしてさらに疑問形を重ねる。「では、○○はどうなるのか」「ということになると○○が問題になってくる」「それはそうかもしれないが、こっちの問題はどうすればいいのか」といったように。問題がしっかり提示されていないと答もしどろもどろになりがちである。レポートが試験と異なるのは自分で問いを立てるところであり、あくまで自問自答が基本である。だから文献調査の段階から意識的に問いをふくらませて--それを記録しつつ--いくことが重要だ。2

▼2 このことは、名詞つまり概念ではなくて文で考えるという意味もある。概念中心で考えると、どうしても話が抽象的になり、抽象的な議論に慣れない初心者はコントロールできなくなってしまいがちである。それを防止する意味でも疑問形の効用はあると思う。

 第三のポイントはやはり構成である。書評レポートのアウトラインを拡張したものになるので繰り返さないが、注意点だけを補足しておこう。それは、主観的なものをはじめにもってきてしまうことだ。自分の思い込みや偏見や体験などはイントロダクションにすぎないので、後半にもってくるものではない。それはレポートのなかで批判的に捉え返されるべきものである。しばしば強調される「自分がどう考えたか」は情緒的な感想ではなく、あくまでも論理的に「どう考えたか」だからだ。

自由課題

 第三にまったくの自由課題がある。案外途方に暮れるのが、この自由課題ではなかろうか。「なんでもいい」という課題は、すでに自分なりのテーマを見つけている学生には最良のものだが、そうでない学生にとっては巨大な迷路にひとり取り残されたようなものになる。もちろん、科目名が「家族社会学」であったり「マスコミ論」や「都市社会学」であれば、おのずと範囲は限定されるが、「社会学」であれば範囲はほぼ無制限に近くなる。その意味では、このような課題のだし方は卒業論文レベルの中級編に属すものであり、初級編として好ましいものではない。しかし、でたものに対しては対処しなければならない。教員の期待が大きいのだと考えよう。さて、こういうときに、これまでの章で述べてきたような読書やマス・メディアとのつきあいがものをいう。しかし「明日からにしよう」と引き延ばしつづけてきた人は仕方がない、次のようなことから始めるしかない。いわゆるネタ探しである。

 手がかりとして考えられるのは次のようなことだ。

(1)新聞一週間分を隅から隅まで読んでみる

(2)ある日のすべての新聞を集めて読みくらべてみる

(3)現代用語事典(『現代用語の基礎知識』『知恵蔵』『イミダス』など)を繰ってみる

(4)『日本の論点』(文芸春秋社・年刊)から興味のもてる争点を探す

(5)社会学事典や教科書から気になることばや問題を拾い上げる

 もちろんこれらの資料だけでレポートを書き上げるのは論外である。これらはたんなる糸口にすぎない。3ひとたびテーマを決めることができたら、今度は徹底的に文献調査をすることが必要だ。

▼3 とくに『日本の論点』は政治的なねらいをもって編集されているので、とりあつかいは慎重に。

 あるいはフィールドワークしてみるのもいい。図書館が苦手な人はぜひ一度試していただきたい。

(6)注目点を決めて街を歩く--いわゆる路上観察である。一時期流行した「トマソン」はその一例だが、今どき「トマソン」に注目しても何の新鮮味もないから、そっくりそのままのマネはしないように。人のふるまいや生活のありようを考える上で指標になりそうなものを探す。

(7)ひとつの地点から人を一日中定点観測する--街頭でもいいし、駅頭でもいいし、ある場所に集まる人びとでもいい。

(8)聞き書きする--インタビューは社会調査の基本である。これには三つのパターンが考えられる。第一に、ひとりの人物に徹底的にこだわって、その人の生活史を書いてみる。年輩の人や特殊な体験をした人にすると効果的だ。第二に、同じカテゴリーの人たちに話を聞く。若いお母さんたちに子育てのあれこれについて聞いたり、看護婦や警察官の人たちにその職業的生活について聞く。第三に、共通の質問をさまざまな人にたずねてみる。家族や友人のツテを頼ってみよう。案外、道は開けてくる。

(9)アルバイト体験をルポする--業界のしきたりや掟は外部から見えないものだ。アルバイトして初めて知ることも多い。それを潜入ルポのつもりで報告する。4

▼4 やみくもにやってみるのも意味がないわけではないが、ある程度の心がまえを学ぶことは必要だ。参考書として、佐藤郁哉『フィールドワーク--書を持って街へ出よう』(新曜社一九九二年)。

 この種のレポートのポイントはふたつある。第一点は「まともにやってみる」ことだ。中途半端はよくないし、弁解がましいのも見苦しい。そしてまともにやるために必要なことはただひとつ。テーマを一点に絞ることだ。第二に、データをとことん具体的に提示すること。具体的であればあるほどよい。学生は「某大企業」とか「某新聞社」といった書き方を好んでする傾向があるが、これは「自主規制」といって好ましいことではない。レポートは教員ひとりしか読まないのであるから、こうした自主規制は--たとえ冗談めかしたニュアンスで書かれていたとしても--事実から逃避する態度に見える。これは社会学的ではない。事実を事実として明確に提示するのが原則だ。もし他にもれるとつごうの悪いことがあるときは、秘密保持のお願いをレポートに注記しておけばすむ。

かのようにふるまう

 ここで、作文に対してどういう態度で臨んだらよいかについて原理的に説明しておこう。この態度があいまいだと作文は息苦しい作業になりがちである。では、それは何か。

 それは「演技して書く」ということだ。文章のなかで「かのようにふるまう」ことである。

 そもそも「ものを書く」という作業は演技である。自分のなかに生じる多様な意見のなかから特定の意見を選択して書くとき、書き手はあたかもその意見の持ち主として演技することになる。まるでその意見しかもっていないかのようにふるまうのだ。だから「自分の考えをありのままに書けばいい」といった国語教育の指導法は、じっさいに「書く」ということをしていない人のいうことだ。「ありのままに」書かれた文章なんて、とても読めはしない。5

▼5 社会学者である清水幾太郎は『論文の書き方』(岩波新書一九五九年)において、ひとつの章を「『あるがままに』書くことはやめよう」に当てている。初心者向けに書かれた本で、じっさいミリオンセラーになったものだが、むしろ中級者や上級者にとって得るものの多い本である。

 「演技して書く」ことによって首尾一貫した文章が書けるのである。わたしたちはさまざまな問題に対してあらかじめ解答を用意できるわけではない。むしろ迷いだけがあるといってもよい。初心者であればなおさらである。その状態でものを書くと「ああでもない、こうでもない」と、どこにいくのかわからない迷いばかりの骨格のない文章になってしまう。判断の迷いはかんたんに解消できるものではないから、いっそのこと決めてしまうのである。課題図書のレポートの場合は、著者に説得されてしまおう。テーマ設定の明確なレポートの場合は、新しい文献の立場に立ってしまうと、あとがらくだ。自由課題の場合は、自分がそのテーマに興味津々である人間としてふるまおう。もちろんそれぞれの逆もありうるだろう。特定の立場に立つと決めれば、それ以外の見解は自分のなかでいったんペンディングしておくことになる。こうして作成に臨めば、それなりに首尾一貫した文章になりやすい。

 ただ、たんに首尾一貫した文章ができるということだけが「演技して書く」ことの唯一の目的ではない。わたしたちは「演技して書く」ことによって、自分の頭のなか(あるいは胸のうち)にある考えや感情をはじめて知ることができる。そしてまた、それによって、書かれた意見や感情以外のものも自己認識することができるのだ。つまり、自分が書いてしまったことを読み返してみると「どうもちがうなあ」と感じることがあるはずだ。その「ちがい」をさらに明確にことばにしていく。それが「考える」ということなのだ。迷ったままの文章だとこうした「ちがい」が見えてこない。いったんわりきり、あとで修正する。こうしてわたしたちは自分自身の知識や価値観を反省的に捉えることが可能になり、また、今までの自分を超えることも可能になるのだ。6

▼6 ここでわたしが想起しているのは、マックス・ウェーバーの理念型論とゲオルク・ジンメルの距離化論である。一見むずかしい方法論も実践的に捉えなおすと他人ごとではなくなる。

 いったん立場を決めておくことは、もうひとつの効用がある。それはことばに責任をもつ態度を自然につくりだすのである。立場を決めなければ無責任でいられる。しかしひとたび特定の意見なり立場に身をおいて語るとなればそうはいかない。それが慎重な知性的判断を導く。すなわち、留保が必要だと考えたり、例外の存在を考慮したり、批判されたときの弱点を補ったりすることになる。社会学はおそらくここから始まるのだ。

提出前のチェック

 レポートの場合、形式はとてもたいせつである。教員によっては、形式を学ばせるためにレポートを課すことも多い。気負いのある人ほど形式に無頓着になるものだが、初心者はまず形から入るものだと観念しよう。内容上の形式(構成)についてはすでに述べたので、今度は清書形式について確認したい。下書きがあがった段階で以下の項目についてチェックしておこう。

(1)句読点が適切についているか--とくに句点(「。」)が明確でないものが横書きレポートに多い。自分ではピリオドのつもりでも、読点(「、」)と区別できないレポートが意外に多いのだ。縦書きと縁のない工学系の学生が横書き原稿用紙に書くときは、とくに注意してほしい。

(2)適切に改行されているか--四〇〇字詰め原稿用紙にひとつかふたつ改行するとよい。改行は、たんに読みやすさのためだけでなく、パラグラフの設定として重要な意味をもつ。書く人の論理性が改行のタイミングによってある程度わかってしまうのだ。原則的にひとつのパラグラフにつきひとつの小テーマにする。

(3)原稿用紙の使い方が標準的な作法に統一されているか--信じられないことだが、文と文のあいだに一字の空白を入れる学生や、改行後のパラグラフの冒頭に一字の空白を入れない学生がいる。原稿用紙の使い方自体は大学以前に習得すべきものであるけれども、現実にはそうなっていないようだ。清書原稿の場合は、行頭に句読点や括りのカッコをおかないように気をつけよう。そうなりそうなときは前の行末に詰める処理をする。7

▼7 これを「禁則処理」という。すべての印刷物は禁則処理をしてあるので、迷ったら手近の本を参照すれば済む。ただし新聞や雑誌は処理法が若干異なるので、本の方を参照すること。

(4)誤字脱字がないか--パソコンやワープロを使えば日本語変換そのものがスペルチェックになるから、同音異義の熟語だけ注意すればよい。手書きの場合は逐一、辞書でチェックしよう。国語の課題ではないから減点対象になるわけではないが、誤字脱字があると印象は格段に悪くなる。大学生の書くものとしては論外だからである。そして、たかがそれだけのチェックもできないほど大急ぎで書かれたと見なされるからだ。試験の場合はそうでもないが、レポートの場合、見た目と内容はほぼ相関する。8

▼8 じっさい、留学生が書いたのではないかと思うような日本語のレポートが少なくない。ただし、ほんとうの留学生の書いたレポートに誤字脱字はほとんどないのだが……。もともと留学生に優秀な人が多いせいもあるが、それだけではなく、おそらくかれらはこまめに辞書を引いて確かめるからだと思う。日本人学生も負けずに辞書を引こう。なお、留学生・帰国子女・障害者の方で、日本語表現に困難を感じている人は、そのことをレポートに注記して教育的配慮を仰いだ方がいいかもしれない。社会学の日本語はかなり高度にならざるをえないのだから。

(5)用語を統一してあるか--「門」「歴」「機」などを略字で書かない。「です・ます」調と「である・だ」調をまぜない。接続詞は原則的にひらがなに統一し、「又」などは使わない。「コンピュータ」と「コンピューター」のように外来語の表記を不統一にしない。9

▼9 用語法については『記者ハンドブック--用字用語の正しい知識』共同通信社(年刊)を参照するのが無難。

無作法なレポート

 昨今、読書界・思想界に「作法」と名のつく本が増えている。これらの本を一括して論じるのは無理かもしれない。しかし、あえて共通点を探ると次のようになるのではないか。それは、学問総じて知的活動を客観中立な存在と見なしてきた従来の学問観から距離をとり、学問をあくまでも人びとの営みとして自覚するところにある。そのとき「作法」が浮上してくるのだ。とりわけ作文技術に関するものは「書く者」と「読む者」の社会的関係にかかわるから「作法」がしばしば使われるのである。10

▼10 たとえば、鷲田小彌太『知的生活を楽しむ小論文作法』(三一新書一九九二年)、ウンベルト・エコ『論文作法--調査・研究・執筆の技術と手順』谷口勇訳(而立書房一九九一年)など。

 レポートの評価も、社会学の作法に則っているかどうかによってまず決まるといってよい。その上で内容上の細かな評価(よく調べているか・文献の選択は適切か・構成がしっかりしているか・論点が明確か・オリジナリティがあるかなど)が加わるのである。後者についてあまり期待されていない(?)初心者の場合は、したがって前者が採点評価の要になる。「無作法」なレポートはまず評価されない。では、具体的にどのようなレポートが「無作法」と見なされるのか。六種類の代表的なパターンをまとめておこう。

(1)剽窃(ひょうせつ)

 地の文(自分が述べているところ)と引用(他人が述べているところ)の区別があいまいなレポートは無作法である。学生の書くレポートの三分の二は他人の述べたことの要約である。学問的知見に謙虚であろうとすればおのずとそうなるはずだ。したがって、ある意味では要約の仕方がレポートの勝負どころといってもよい。ところが、初心者に多いのは引き写し的要約である。引用と地の文とが区別されていない。著者とそれを論じている自分が区別されていない。だから「なかなかしっかりしたことを書いているな」と思うと、それが参考文献の丸写しであったりする。これは一種の詐欺である。

 といわれても、そのテーマについて自分のなかに何もないと感じるときが初心者には多いはずである。それをむりに書くとすれば丸写しするしかないではないか、と思うかもしれない。では、どうすればいいのか。

 作法に則ったそれなりの処理の仕方はある。第一にかぎカッコを使って〈「○○」と著者は述べている。つまりこういうことだ。〉といったように、文献の引用はかぎカッコで括り、自分のことばと明確に分ける。第二に独自の論点(柱)を立てて要約する。この論点は思いきりよく立てたほうがよい。第三に注をつける。自分なりに要約できたという自信がないときは、つまり剽窃のおそれのあるときは、要約のさいに参照した箇所の情報をつけておく。レポートの場合は文末に「(同上書、二〇−二九ページ)」程度の注でよい。

 結局「書く主体」のスタンスのとり方の問題なのだと思う。要するに対話的に書くよう心がけることだ。つまり参考文献の著者に対して自分が話をきくというスタンスをとるのである。たとえば「ここで著者が問題にしているのは二点ある。第一に……。第二に……。第一点は著者のいうように……。わたしがとくに問題にしたいのは第二点だ。そもそも……」といったぐあいに、レポートを書いている自分自身を文章のなかで定立することだ。そうであれば剽窃は発生しにくくなる。11

▼11 一般に論文に「わたし」は不似合いであると信じられているが、よく使われる「思われる」「考えられる」という受け身の文体は「書く主体」をぼかして責任の所在を不分明にする働きがあり、明晰な文体とはいえないのではないかと思う。「わたし」をタブーにすべきではない。ただしこれは日本の現状では少数意見なので注意すること。

(2)表記の問題

 なぐり書きや誤字脱字ばかりのレポートは無作法である。教員は読者として「清書ぐらいしろよ!」とか「辞書ぐらい引けよ!」といいたくなる。瑣末主義でいうのではない。これは能力の問題ではなく、あきらかに時間の問題だからである。かんたんな熟語のひとつやふたつも調べる時間がなかったとすれば、レポート全体にかけた時間も相当少ないということになる。内容上の深みや厚みも当然期待できない。

 対処の仕方はかんたんだ。第一に時間をかける。少なくとも早めに手をつける。第二に提出前に他人に見てもらう。第三にワープロかパソコンを使用する。

(3)安直な批判--感情的なこだわり・頑迷な精神・居直り

 社会学系の本はどこか常識に逆らうところがある。事実に対して知的に誠実であろうとすると、結果的にそうなってしまうのだ。その結果であろうか、反感に彩られたレポートに出会うことがある。世間一般より社会学の寛容度は大きい。非道徳的な考え方も社会学は認めてしまうところがある。道徳的な人はその道徳性をかえって誘発してしまうのかもしれない。マスコミ論でいうところの「ブーメラン効果」である。議論を元の黙阿弥にしてしまう感情的なこだわり、経験外のことを受け入れられない頑迷な精神、そして「それがどうした」「べつに知ったことじゃない」「だからどうなんだ」という居直り--いずれにしも自己防衛的であるのが気にかかる。社会学的であるとはわたしには思えない。

 とくに書評レポートは、本をけなすことではなく、魅力を紹介することに主眼がある。なぜなら課題図書は教員がそれなりに評価した作品だからだ。12魅力を伝えるためには、よく読まなければならない。逆に、けなすのはかんたんだ。本を読まなければよい。

▼12 まれなことだが、批判的に読むことを学んでもらうために、批判しやすい本を読ませるケースもある。これは一種のショック療法である。

 そもそも著者たちは思いつきの〈意見〉を提示しているのではない。本のなかで提示されているのは、対象そのものへの理解とそれについてのこれまでのすべての研究をくわしく検討した結果なのである。ちなみに研究者は研究対象について書かれたすべての資料を読む、すべての資料を、だ。それを初心者が思いつきで反論しうるだろうか。反論とか批判といっても、せいぜい、自分の数少ない体験をもとに推し量ったり、自分の常識に抵触するために生じる感情的反応に身をゆだねた結果ではないのか。

 その意味で、基本的に評価する方向で書く方が無難である。批判的に書くのはたいせつなことだが、とくにその問題について多くの本を読んで考えてきたという人以外は、思いつきの感想や揚げ足取りになってしまうことが多いのでお勧めしない。きちんと評価した上で補足的な問題点を指摘するようにする。13

▼13 このようなことをいうと「学生の個性を型にはめてしまって、その個性を殺してしまう」という人がいるかもしれない。しかし、個性とは、型にはめてなお型をはみでるものをいうのであって、型にはめることによって失われるような個性など、就職したら跡形もなく消滅してしまうような個性であって、過渡期特有の一時的な光彩にすぎない。それは、子どもがしばしば斬新な絵を描いてみせるのに似ている。真の個性はそれを社会の圧力のかかる中年壮年期にも描き続けられるかにかかっている。もうひとつ社会学系の教員に多いパターンとしては、本を要約したってそこに独創的なものがないから、自分なりの意見をしっかりもつために(そしてきちんとそれを表現できるように)感想を書けということも多い。しかし、個人的な意見を評価するのはいかがなものだろうか。一種の思想管理になりはしないかという危惧がないではない。感想や意見は科学としての社会学にとっては二次的なものに過ぎない。むしろそれらを相対化する視点を獲得したかどうかが重要なのだ。むしろ「味気なさを埋めるために独創する」と考えたらどうだろうか。

(4)自分の意見だけのレポート

 社会学において各自の意見は尊重されると述べた。しかし、意見だけというのは無作法である。自分なりの意見を書いてもいいが、課題図書の内容紹介や調べた内容に基づいて書くべきだ。一般にこのようなレポートは、何も読まず何も調べていない場合が多く、意見に説得力がない。いかにも友人のレポートを読んで即興的に書いたものという印象を受ける。それが事実かどうかは問題ではなく、そういう印象をあたえること自体も無作法なのである。

(5)著者の属性にこだわりすぎる

 課題図書について論じるとき、著者がどんな人かはあまりこだわらない方がいいのではないかと思う。自然科学や人文学であればそれほど問題にならないのだが、こと社会に関する書物は素朴なイデオロギー論が適用しやすいので、著者が「東大出のエリートだから」「女だから」「現場を知らないから」で批判できてしまう。というより批判できたつもりになってしまうのだ。そのような門前払いは一種の偏見による排除であり差別なのだと気がつこう。奥付の著者紹介など気にしないで書くこと。本に書かれた内容だけで評価するのが社会学の作法である。14

▼14 これは「対等性の作法」ともいうべき思想が前提になっている。くわしくは最終章を参照してほしい。

(6)みんなといっしょ

 社会学の場合、答はひとつでない。レポート内容もひとつではない。しかし、さまざまな条件が重なると、似たような内容のレポートが続出することがある。「みんなで渡ればこわくない」のだろうが、「青信号なのにだれも渡らない」なんてことも多い。これは完全に「談合体質」の現われである。「談合体質」は建設業界だけの話だけではなく、わたしたち自身にも存在するのだ。このようなレポートが続出するのを見るとき、わたしは「社会学的でないなあ」とつぶやいてしまう。

一歩先へ

 さらに心にとめておいてほしいことを補足しておこう。15

▼15 作文技術についてさらにくわしく学びたいときは以下の本を参照してほしい。鷲田小彌太『知的生活を楽しむ小論文作法--高校生からの小論文』(三一新書一九九二年)。木下是雄『レポートの組み立て方』(ちくまライブラリー一九九〇年/ちくま学芸文庫一九九四年)。木下是雄『理科系の作文技術』(中公新書一九八一年)。論文執筆関係では、斉藤孝『増補学術論文の技法』(日本エディタースクール出版部一九八八年)。中村健一『論文執筆ルールブック』(日本エディタースクール出版部一九八八年)。上級編の参考書として、ウンベルト・エコ『論文作法--調査・研究・執筆の技術と手順』谷口勇訳(而立書房一九九一年)。

 第一に、枚数に制限がないのであれば、できるだけたくさん書こう。どんなテーマでもひと通り書くとなると一〇枚から二〇枚程度はいるものだ。指定枚数に上限がない場合は、そのくらいを目標にして書いてみよう。一度でも長いものを書いておけば、以後レポートを書くのが楽になる。こと読み書きの初歩に関して、量は質に転化する。

 第二に、「今はどうか」と考えてみよう。わたしたちが参照する本は多かれ少なかれ古い。だからこそ「自分たちの時代・自分たちの世代はどうだろう」と考える余地と自由がある。参考文献の完成度が高いと「この上に何を付け加えられるというのか」と感じてしまいがちだが、タイムラグの点では、おそらく頭のいい著者より有利だし、オリジナリティのうまれる余地もある。最近の新聞記事や時事用語事典をヒントにして自分なりに議論を付け加えてみよう。

 第三に、読む相手を意識して書こう。そもそもレポートはコミュニケーションのひとつの手段である。印刷される場合をのぞけば、それはひとりの教員に対するコミュニケーションであって、不特定多数の相手を想定したコミュニケーションではない。だから、どうしても書けないときは、いったん「です・ます」調で書くとうまくいく。「です・ます」調は読み手を意識させる文体である。主題になっている事実に対して自分と教員とがともに向き合って討論するスタンスで語ってみよう。それを「である・だ」調に--いわゆる論文調に--リライトすればよい。

 第四に、自分を変えるために読み書きするつもりで書こう。すでに述べたように、レポートは学生を型にはめるための作業ではない。むしろ自己学習的存在に高めるための予行演習である。保守的で頑迷な知性でもなく、受動的にしか反応しない鈍感な知性でもなく、それらを内側から変えていくことのできる知性への触媒として読み書きするのだ。本を読み、考え、書くことによって、つまり、科学的に洗練されたことばの海を通過することによって、以前の自分の考えを相対化する視点ができていなければならない。自分を変えるために読むのだ。だから、たとえばノンフィクションや新書本を安易に「むずかしい」といってはいけない。それは正直ではなく、たんなる甘えである。聡明な大人としては、むしろ受験によって自分が捨ててきたものについて気づくべきなのだ。自己反省へと向かいたい。

 第五に、何度も何度もリライトしよう。リライトの重要性はいくら強調しても強調しきれないほどだ。自分で読み返すこともたいせつだし、人に読んでもらうのも効く。一度の書き下ろしで完成できるのはプロだけであって、ビギナーは最低二回のリライトが必要だ。じっさいにはプロだって何度もリライトをくりかえす。ことほどさようにリライトはたいせつ。そのためにも早い時期に課題に手をつけることだ。もしそれをおっくうに感じる場合はどうするか。リライトを容易にする方法はただひとつ。ワープロやパソコンを使って書くことである。

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SOCIUS.JPドメインへの初出 7/18(thu), 2002  
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