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社会学の作法・初級編【改訂版】

二 読書の作法――何をどう読むか

どう読むか

 大学に入る直前のことだ。古本屋で買った『講座社会学』というシリーズを読み始めたことがあった。若気のいたりというやつで、全巻読破の野望を抱いていたのだが、何度同じ箇所を読んでも意味がわからず、たいへん苦労した思い出がある(結局、第二巻の途中で挫折)。今にして思えば、それはすこぶる無謀な行為だったのだが、その苦労は最近でもハバーマスやブルデューを読むときに精神修養として役立っているといえなくもない。しかし、大方の人はそれでいやになってしまうのではなかろうか。

 最近でも課題図書として古典を読まされることが多い実情があるが、たいていのビギナーは奥深い迷路にはまったような気分になってしまう。たしかに古典はぜひ読まなければならないが、それはおそらく中級レベルである。その前にやっておかなければならない初級レベルがあるのだ。それなしにいきなり中級レベルのものを読もうとするから挫折するのである。では、そうした課題をだす教員が悪いのかというと、そうとばかりはいえない。初級レベルは本来自分で自発的にしておくべきものだからだ。つまり、たとえば古典や専門書を読む課題がでる前に、とりあえず自分が読めるやさしい本を自発的に読みこなし、そのなかで「読書する快楽」をからだに覚えさせておく必要がある。これが読書に関する初級編の作法である。

 結論からいうと、めちゃくちゃに多量の本を読み飛ばすのが、この分野に精通するコツである。線を引いて読んではいけない。読めないと思ったら別の本にする。今は読めない本も、いつか読める日がきっとくると信じて……。

 まずはハンディかつ安価な本を手当りしだいに読んでみよう。勢いをつけることがたいせつだ。さしあたり、やさしいもの・すでに少し知っている問題・好奇心をそそるテーマに身をゆだねよう。「私にとってむずかしい本は、私にとって必要でなく、私にとって必要な本は、私にとってかならずやさしい」と加藤周一はいっている。1学生時代は多少の背伸びをするようでないと見込みはないが、それでも自分の関心から出発するのは正しい。

▼1 加藤周一『頭の回転をよくする読書術』(光文社カッパブックス一九六二年)二一一ページ。これはマスコミ論の限定効果説いうところの「先有傾向」に見合う指摘だ。先有傾向とは、メディア接触する以前の受け手の考え方や態度のこと。なおこの本は『読書術』(同時代ライブラリー一九九三年)として岩波書店から再刊されている。こちらの版では二〇三ページ。ちなみにここで「むずかしい本」として加藤が挙げているのは著名な社会学者タルコット・パーソンズの本である。

まず何を読むか

 本さえ読めばいいというものではない。本の選択は重要である。

 大まかな目安を示そう。近づきやすさの点からいうと次の順序で読み始めるのが無難である。

(1)ノンフィクション系(ジャーナリストが書いたルポルタージュや社会問題についての一般書)
(2)日本の社会学者の入門書・一般書・新書など
(3)日本の社会学者の研究書
(4)社会学の翻訳書(古典や欧米社会学者の著作)

 このうち(1)(2)あたりがほぼ初級編にあたるのではなかろうか。自力でこなしておくべき領域である。では、なぜ社会学を学ぶのに社会学の専門書や古典から入ることを勧めないのかというと、それはビギナーにとっては「社会」の具体的イメージをつかむことがたいせつだからだ。とりわけ社会問題を具体的に知ること。これが貧困であると、どんな理論もどんな古典もあなたのなかでは抽象的にしか響かない。だからおもしろくないということになってしまいがちである。まず「素材」を知る。分析や理論はあとでよいのである。たとえば、自殺未遂の経験者か、友人の自殺を経験している人でないかぎり、「社会現象としての自殺」といった論点でデュルケムの『自殺論』を読むよりは、たとえば吉岡忍の『死よりも遠くへ』を読む方がはるかに実感がわくはずである。その方が結局『自殺論』を読んでみたくもなるのではないだろうか。

 まず安くてハンディな本から始めよう。ほんとうはこういった本は、オリジナルの論文や単行本(親本という)にくらべると、あきらかに鮮度が落ちているのだが、それでもテレビや新聞や雑誌や世間話にはでてこない事実がいっぱい語られている。その意味で本は現在でも先端的なメディアであることを強調しておきたい。だから社会学の場合「本を読め」というのは、古めかしい伝統に身を浸すことではなく、むしろありきたりのメディアの型通りに語りつくされた陳腐な知識を脱ぎ捨てることなのだ。

 この種の本のなかで鮮度が比較的いいのは新書である。岩波新書・中公新書・講談社現代新書が代表的なもの。ちくま新書も刊行され始めた。学び始めた人にとってなじみやすいのは講談社現代新書だ。ここから始めてみよう。それでも重く感じたら思いきって岩波ジュニア新書を読み飛ばしてみよう。ここにもけっこうよい本がある。岩波新書や中公新書にはその分野のスタンダードになっているものが多いので、調べものをするときやテーマがはっきりしているときは、ここから始めると効率がよい。また新刊であれば興味をもてる現代的テーマにも出会えるだろう。

 次に文庫。文庫が古典中心から現代ものに移行して久しい。おかげで社会系ノンフィクションも次つぎに文庫化されるようになった。この分野で点数が多いのは講談社文庫である。すべてがそうではないようだが、グリーンの背表紙がノンフィクションである。朝日文庫もほぼ全編がノンフィクションだ。とくに本多勝一のものは読んでおきたい。また、ノンフィクションについては、ちくま文庫・ちくま学芸文庫・現代教養文庫などが近年力を入れている。

 そして忘れてならないのが双書である。NHKブックス・別冊宝島・ちくまライブラリー・岩波ブックレットなどがある。NHKブックスは安くしかも社会学系が多いので注目しておこう。別冊宝島はムック(雑誌と本の中間)の代表的存在。雑誌の文体なので読みやすく、その徹底的なフィールドワーク▼2とテーマの選択が秀逸である。一方、ちくまライブラリーは点数はまだ少ないものの先端的な文化論を読むことができる。これらが量的に重いと感じる方は、岩波ブックレットの連鎖読みに挑戦してみよう。薄く広く知るには便利なテキスト(パンフレット)である。すぐ読めるので勢いがつくし、充実感も味わえる。学び始めの段階では、無理して一冊の本にてこずっているより、この方が発展的である。

▼2 フィールドワークとはもともと野外調査のこと。ここでは現場や当事者たちに対する直接的な取材のこと。

 この他にも最近は平凡社・岩波・小学館がND判という判型のシリーズを始めた。文庫本よりちょっと大きくB6より小さいサイズだ。これらは「○○ライブラリー」と呼ばれ、もっぱら学術系だ。文庫ほどではないにせよ、高価な学術書が安く書棚に常備される点では歓迎できる。まだ社会学系は少数だが、今後に期待したい。

 いずれにせよ本の世界には一種の「知の連鎖」があり、その連鎖に乗ると次つぎに読みたい本がでてくるようになる。だから自分なりの連鎖を見つけられたらこっちのものである。たとえば、同じ著者の本を全部読んでしまうとか、同じテーマの本を全部読んでしまうとか、同じシリーズを追求してみるといったように。そして勢いに乗ったら、その周辺の領域の本に少しずつ手を広げてゆくのである。「社会学以前」ともいうべきこの段階が、自分のなかにさまざまな「ひっかかり」をこしらえてゆくことになる。この「ひっかかり」があなたを敏感にするのだ。

 なお、わたしが一般教育の社会学などの講義で最近課題に指定した図書の実例を別表に示しておく(六〇−六二ページ)。「推薦図書」というにはまったく不完全なリストだが、参考にしていただきたい。

なぜ読むのか

 社会学の勉強をするのに、なぜ講義を聴いたり教科書を暗記するだけでは不十分なのか。そしてまた、なぜ本を読まなければならないのか。

 それは第一に、社会のできごとを知りその分析をしなければならないとの動機をもつためだ。これは一般に「問題関心」とか「問題意識」と呼ばれている。「べつにそれでいいんじゃないの」では社会学は始まらないのだ。この問題関心は基本的には社会経験から生まれる。たとえば差別の経験のある人は差別現象全体に対して高い感受性をもつ。企業で苦労してきた人は組織の問題に強い関心をもつ。家庭内のもめごとに翻弄されてきた人には家族問題は切実である。たとえば、通信教育のスクーリングや看護学校のように、さまざまな年齢の人たちが混在しているところでわたしが教えた経験では、六〇代以上の男性や二〇代後半以上の女性となると講義に対する反応がちがってくる。なぜか。それはかれらが社会の不公正さや非合理性をその社会経験を通じて身に染みているからであり、怒涛のように自分を襲ったさまざまの社会的な力のもつれを社会学が分析的に解きほどくからだと思う。社会学を学ぶには、ある程度自分の感受性を高めておくことが必要なのだ。

 その意味でいうと、高校を卒業して一年か二年の若者は、社会学を学ぶには早すぎるのだろう。社会学は大人の学問である。学ぶ人の成熟を問う。だから一般教育課程の社会学は、マイナスもルートも知らない小学生に複素数を教えるのと同じようなものになっている。教育において「過剰」は「無」に等しい。ものごとには順序があるのだ。だからこそ「社会学以前」が重要なのである。ルポルタージュなどによって、できごとの具体的事実を知り、現場のディテール(細部)を知り、自分とは縁のない他人の痛みや思いを知る。それは代理体験にはちがいないが、これも一種の社会経験として機能するはずである。それらがあなたに問題関心を呼び起こし、あなたを敏感にし、そしてあなたに知的個性をつくりあげる。

 しばしば誤解されていることだが、個性はその人にもともと備わっているものではない。個性とは周囲とのコミュニケーションの反応として現象するものなのだ。さまざまな人や自然との出会いがあり、その反応として個性が形成される。知的個性もまた、さまざまな知識との出会いがあって、その反応として形成されるのだ。ところが、わたしたちの社会には、流通しやすい知識とそうでない知識とがある。政治的であれ経済的であれ権力をもつ者が人びとに伝えたいと思うような知識は流通しやすい。逆に少数派の人びとの生活や考えに関する知識は流通しにくい。とくに自分が能動的にアクセスしないかぎり、わたしたちの視野に入ってくる知識は流通しやすい知識である。だから、もっぱら流通しやすい知識との出会いだけであれば、それなりの凡庸な知性しか形成されない。凡庸さを否定するつもりはないが、しかしひとついえることは、そのような凡庸さからは社会学の世界を楽しむことはできないということだ。

 本を読むしかない。その反応としての個性的な問いが自分のなかにでてくるのを確認するために。

図書館を歩く

 まず足を運ぶべき場所は図書館である。大学図書館であれ公立図書館であれ、図書館は基本的にタダである。この経済的な条件は何にもまして代えがたい。それに図書館には歴史がある。たしかに書店で現在はわかる。しかし過去はわからない。

 学生の場合、利用しやすいのは大学図書館である。それを自由に使えるのは、日本社会のなかではむしろ特権といってもよい。とくに社会学系の学部のある大学の図書館を使える場合は多言を要すまい。しかし、それはごく一部の人にとどまるだろう。

 大きな大学の場合でも、キャンパスが分かれていることがある。その場合、キャンパスにあるのは学部図書館である。専門図書館とか学部図書館というと聞こえはよいが、裏を返すと専門外の図書がほとんどないということだ。また、新設大学や新設学部・新設大学院を抱える大学図書館の場合は、設置基準との関係で揃えなければならない図書によって予算の大半がなくなってしまったり、一部の担当教員の専門図書ばかり(洋書や資料の類い)が優先されるという現状がある。そのような場合、学生が読みたい本、読まなければならない本が、大学図書館の場合かえって購入できないという皮肉な事態もしばしば見られる。とくに私立大学の場合は、もともと予算枠が厳しく限定されているために、こうなりがちである。3

▼3 通常、図書館員は大学スタッフのなかでもっともサービス精神に充ちあふれている人たちだ。しかし図書館の運営はもっと上層の人たちによって決められ、当然、予算によってかれらのサービスも限定される。学生のリクエストを優先したり、司書が教育的配慮のもとに独自に選定したりといったことがなかなかできない事情がある。その結果、大学図書館には、わかりやすい一般向けの本がないことが多い。

 だから「社会学以前」の段階では、むしろ近くの公立図書館の方を勧めたい。一般向けの本がよくそろっているはずだし、本を借りても近所だから返しやすいというメリットもある。大学図書館のように専門家の配慮が優先されず、市民のリクエストによって蔵書の収集がおこなわれる公立図書館を見直したい。リクエストを尊重して新規購入してくれたり、それぞれの地域ネットワークで他の図書館からとりよせてくれたりと、最近の公立図書館はサービスもよいし、新刊書の購入も早い。じっさい、週に一度はこうした図書館に顔をだすようでなければ社会学はわからないといっておこう。

社会学の場所

 社会学系の本や「社会学以前」の本はどこにあるのだろう。図書館をぶらぶら歩くときチェックすべき場所について説明しておこう。なお、指定された資料の探し方については第四章で述べることにしたい。

 国立国会図書館をのぞく一般の図書館は原則的にNDC(日本十進分類法)によって分類されている。4NDCは知識の全体を1と見立てて、それを十区分して分類する方法である。たとえば社会心理学は0.3614となるが、便宜的に361.4と表わす。以下すべてこのように書くことにする。NDCの上一桁(百番台)は次のようになっている。

▼4 もり・きよし原編『日本十進分類法(新訂八版)』(社団法人日本図書館協会分類委員会一九七八年)。この分類法の実際的運用については、鮎澤修・芦屋清『資料分類法(現代図書館学講座4)』(東京書籍一九八四年)を参照した。

0 総記
1 哲学
2 歴史・地理
3 社会科学
4 自然科学
5 技術
6 産業
7 芸術
8 言語
9 文学

 なお、「総記」とは細かく分類できないものという位置づけであり、事実上「その他」と考えてよい。NDCの〇はどの桁にあってもそのような意味である。

 さて、社会学は社会科学の一分野であるから300番台である。360番台が「社会」であり、さらに361が「社会学」だ。基本的にここが社会学の場所である。「社会学」361の内部は次のように区分されている。

361  社会学総記
361.1 社会哲学
361.2 社会学史(国別に配列)
361.3 社会関係・社会過程
361.4 社会心理学・パーソナリティ(国民性・パニック・群衆心理・世論など)
361.5 文化・文化社会学
361.6 社会集団(組織・世代など)
361.7 地域社会・人間生態学(農村・都市など)
361.8 社会的成層(階級・階層・身分・社会的地位・同和問題など)
361.9 社会測定・社会調査・社会統計

 これで終われば話はかんたんだ。ふつう工学の本は工学のところにあり、法学の本は法学のところにある。しかし社会学はふつうでもそうではないのだ。たしかに「社会学」は361にある。しかし、社会学からみて不幸なことだが、NDCの分類規定には、研究対象の特定されている特殊社会学(連字符社会学ともいう)はそれぞれの主題の下に収めるとの原則がある。たとえば宗教社会学は宗教学・宗教思想のなかにあり、法社会学は法学・法哲学のなかにある。したがって「○○社会学」については「○○」のところに行かなければならない。361以外のそのおもな場所(分類記号)を示そう。

宗教社会学 161.3 
法社会学 321.3 
産業社会学・労働社会学 366.9
家族社会学・フェミニズム・女性学・老年社会学 367
社会病理学 368
社会福祉 369
教育社会学 371.3
科学社会学 401と402
医療社会学 490
公害問題 493と519
芸術社会学 701.3
音楽社会学 760.13
言語社会学 801.03

 また社会理論と呼ばれる領域は他の多くの分野と連接しているために、002の「知識・学問一般」や116.5の「科学方法論」あるいは301の「理論・方法論」におかれていることがある。社会学の巨匠ゲオルク・ジンメルは134のドイツ・オーストリア哲学にあり、現代の代表的な社会学者ユルゲン・ハバーマス(「ハーバーマス」とも表記される)も100の哲学に分散していることがある。代表的な社会学者マックス・ウェーバーの原典や研究書は332.06の近代経済史・資本主義あたりにも集中している。日本では経済史の分野でウェーバー研究が盛んだったからである。ちなみにそこでは「ウ゛ェーバー」と表記されることが多い。

 現代文化論(文化社会学)やマスコミ論となると、分散度は高い。もちろん「社会心理学」361.4あたりに集中しているはずだが、「社会学」の棚だけをみて「うちの図書館はダメだなあ」と嘆く前に次の棚も確認しておく必要がある。

情報科学(コミュニケーション論・情報と社会・情報産業など) 007
ジャーナリズム 070
文化事情(日本)302.1
論文・評論・雑著 304
若者文化(児童・青少年問題) 367.6
広告・宣伝 674
放送事業(テレビ・ラジオ) 699

 また都市社会学は361.78にあるが、都市問題となると318の「地方自治」や518の「都市工学」あたりもチェックしておきたい。同じ地域研究でもグローバルなレベルになると、国際関係論や国際政治学だけでなく316の「国家と個人・宗教・民族」も見なければならない。

 要するにNDCではテーマ優先であって方法優先や理論優先ではないわけだ。したがってテーマの分散している社会学書はテーマ先に分散配置されることになる。ここに社会学の本探しのむずかしさがある。なお「社会学以前」の読み物として勧めたルポルタージュやノンフィクション作品もたいていテーマ先にあるが、テーマがひとつでないものなどは916におかれている。またNDCによると双書・文庫・新書などのシリーズは基本的に単行本と同様に分類されるべきとされているが、じっさいには一括して080あたりに並べられることが多い。だから社会学関連の場所を探すだけでは、とんでもなくポピュラーな本を見失うことになりがちだ。

 書店を歩くときも、図書館の場合と同じように、社会学のコーナーだけでは不十分である。書店における社会学コーナーの定義は図書館よりもはるかに狭く、そのわりに行き場のないノンジャンルな本が集まっているものだ。「社会」「現代思想」「哲学」「人類学」「民俗学」「文化」もまわってみよう。家族社会学のようにテーマやフィールドのはっきりしたいわゆる特殊社会学(連字符社会学)なら、「家族」「教育」「宗教」「政治」「法」「女性」「マスコミ」「広告」「都市」「差別」などのコーナーを回ってみなければならない。

学術書特有のアイテム

 いわゆるノンフィクションやルポルタージュといわれるもの、そして新書などは、他の本とそう変わっているところはないが、社会学の専門書となるとそうはいかない。学術書であれば、そこにはふつうの本に見られないものがついている。注・索引・文献目録である。これらのアイテムが付属していることによって学術書はたんに読むだけでなく自由に利用することができるようになっている。これらのアイテムについて説明しておこう。

 注には、本文の説明不足を補うための注と、引用したり参照した文献を示す注とがある。前者は、本文の流れにとって枝葉に当たるが、どうしても確認しておきたいことがらを書いたものであり、補足説明だからそれほど気に止める必要はない。注意しなければならないのは後者の「文献注」だ。これは研究者が引用した文献や参照した文献あるいは読者に参照してもらいたい文献のデータを提示したものである。たとえば次のように--

 (1)野村一夫『社会学の作法・初級編』文化書房博文社、一九九五年、四五ページ。
 (2)同上書、一〇三ページ。
 ……
 (7)野村一夫、前掲書、七八ページ。

 注(2)の「同上書」は直前の(1)の本をさす。また注(7)の「前掲書」も(1)の本をさしている。注のつけ方にはいくつかの流儀があるので一様に説明できないが、ここだけでも押さえておけば読むのに困らないだろう。ただ、もうひとつの有力なやり方として次のような略式のものも増えている。

 [野村一夫(1995)45]

あるいは

 [野村一夫,1995:45]

 このような場合、本や論文の詳しいデータは後ろの参考文献一覧に一括されている。このケースは、野村一夫の一九九五年の著作の四五ページを指定している。

 次に索引について。索引は自由な検索性を提供する。索引があれば、その本は一種の小事典として活用できるわけで、じっさいに読まなくても「使える本」になる。わたしの師匠にあたる先生は「索引のない本は研究書と認めない」といわれていたほどで、それは極論のようではあるが、「読者に勝手に検索されても大丈夫」との品質保証の側面もある。じっさい、本を仕立てるときに索引は見事にアラを示してくれる。だから著者や出版社は索引をつけるのをいやがるものだ。しかし読者には重宝な「もうひとつの目次」である。

 最後に文献目録や参考文献一覧について。参考文献は注と密接につながっている。詳しい注はそれ自体が文献目録であり、略式の注は参考文献一覧と一体で機能する。注のない文献ではしばしば参考文献一覧が注の代わりになっている。それをたどることで、わたしたちは「知の連鎖」のなかに入り込むことができる。つまり、それは次にあなたが読む本のリストでもあるのだ。

 本格的な社会学書はむずかしい。だから、学び始めからそれらをスラスラと読むことはできないかもしれない。でも、それなりに利用することはできる。教科書の注や参考文献を見ると、それぞれのテーマについて、古典的な文献はどれか、最近の主流になっている考え方が示されている文献はどれか、代表的な事例にはどんなものがあるか、突っ込んで調べるときにはどの学者の文献を読めばよいか……などを読み取ることができる。索引はその本で論じられた小テーマが一覧できるから、目次で内容を予想できないときに役立つ。また、索引は複数の本に散在する小テーマも提示してくれる。何か特定のテーマを追っているときは、多少やみくもであってもかまわないから、手あたりしだいに関連書の索引を繰ってみるべきである。

社会学書はなぜむずかしいか

 社会学への導入として提示した六〇−六二ページのリストに社会学者の書いた本はほんの少ししかない。なぜかというと、一般に社会学者の文章はとてもむずかしいからだ。だから一般教育科目の授業ではなるべく社会学者の本をはずすようにしているのである。あまり大きな声ではいいたくないのだが、じつをいうと、社会学の本はなまなかな読書家では太刀打ちできない場合が多いのだ。なぜだろうか。理由は少なくとも四点ある。

 第一に、日本では社会学の概念がほとんど知られていないからである。「核家族化」や「カリスマ」のような例外もあるけれど、社会学の概念はごく基本的なものでさえ一般には流通していない。流通しているように見えるものは、たとえば「役割」のように、たいてい日常語を借用したものである。知られていないから、一般読者が社会学書にふれるとき、まったくの異世界に入ったような気分になる。社会学のテーマが身近な分、かえって「なぜこんなわけのわからない概念を使わなきゃならないんだ」という反発を招きやすいのである。これはもっぱら読者側の事情であるにしても、経済学・法学・政治学・哲学などの本にくらべて社会学書は始めからハンディを負っているのである。5

▼5 この原因は、高校までに社会学教育がほとんどなされていないことにある。また、大学における社会学教育が従来あまり影響をあたえてこなかったこともあるかもしれない。

 第二に、ブルデューの説明を借りると、複雑なものは複雑な仕方でしかいうことができないからである。複雑な社会的現実をその複雑さのままに捉え記述しようとすると、どうしても複雑な文章になる。しかも「自分が描いているものに対して、自分がどの位置にあるか」を述べようとするからよけいである。6

▼6 ピエール・ブルデュー『構造と実践--ブルデュー自身によるブルデュー』石崎晴己訳(藤原書店一九九一年)八六ページ。ここでブルデューはプルーストの文体に関するシュピッツァーの説明を借りて、自分を含めた社会学者の文体の難解さについて弁明している。ブルデューは「専門語彙の厳密性を放棄して、読みやすくやさしい文体を選ぶという戦略は、危険だと思います」とさえ述べている。八七ページ。

 社会学書は足場に囲まれた建物のようなものだ。常識やパラダイムといった固い土台にかんたんに依拠できない社会学者は、足場を固めながら書かなければならない。だから、できあがったものは足場だらけの構造物になる。ここが評論家たちの書く文章と大きくちがうところである。足場だけでは困るが、科学にとって足場はたいせつだ。したがって読者は反芻(はんすう)するように読むしかない。

 第三に翻訳の問題がある。これは日本の輸入学問ひいては近代日本文化全体にいえることだ。たとえば"I am a farmer."という文を訳すと「わたしは農夫です」となる。しかし今ならさしずめ「農業やってます」というところだろう。しかし、学術書の翻訳では「わたしは農夫です」式が主流である。それどころか「わたしは第一次産業従事者である」式のものさえある。だから一般の人にはピンとこない。そのときは「わたしは農夫です」という翻訳文を、実感の伴う「農業やってます」に再翻訳しながら読まなければならない。じつは社会学者だって、とくにそれを研究対象にしている人をのぞけば、たとえばシステム理論の最先端をゆくニクラス・ルーマンのいうことをそのまま理解するということはめったにないのであって、たいていは自分の分かることばに再翻訳して納得しているものである。7

▼7 これは何も社会学にかぎったことではない。社会科学系の本のむずかしさの最大の理由は翻訳語にある。これについてはぜひ柳父章『翻訳語成立事情』(岩波新書一九八二年)を参照していただきたい。なお、ここで翻訳書の読み方をくわしく述べる余裕はないが、たとえば課題図書として古典の翻訳書を読むことになったとき、心理的に初心者の負担になりがちなふたつのことばにふれておこう。ひとつは「諸」である。マルクス主義的訓古解釈の伝統ともいえるが、社会科学者は「諸」のあつかいに鈍感である。「諸個人」「諸集団」「社会的諸関係」など翻訳書には「諸」が満ちあふれている。欧米語における複数形の深い意味を逃してはいけないが、初心者はさしあたり「諸」を「さまざまな」と読み換えて読んでいけばよい。「さまざまな個人」「さまざまな集団」「さまざまな社会関係」といったように。もうひとつは「性」である。「性」も濫用されている。「合理性」「内在性」「志向性」のように。これらはそれぞれ「合理的であること」「内部に含まれていること」「特定の目標に向かっていること」を意味する。これらの場合の「性」は「そういう現象・状況・らしさ・性格・傾向・能力」などを表わしている。あるいは「公共性」を「公共圏」や「公共領域」と読み換えたり、「宗教性」を「宗教心」と読み換えると具体性が全然ちがってくることもある。

 第四に、社会学者に概念フェティシズムの癖(へき)があるからである。フェティシズムとはモノに特別な愛着を感じることである。「物神崇拝」「物神性」と訳される。性的な文脈では、たとえば女性の身体ではなく下着に愛着を覚えるのはフェティシズムである。宗教的文脈では自然物を神と崇める信仰がフェティシズムである。社会科学の文脈ではカール・マルクスが『資本論』で貨幣や商品のフェティシズムを指摘して以来、広く使われるようになった。たとえば、ただの紙切れにすぎない紙幣に対して、わたしたちがあたかも一定の価値が備わっているかのように感じるのがこれである。どの社会科学者もそうであるが、とりわけ社会学者は理論的概念を愛好する傾向がある。これにはそれなりの科学的理由があるのだが、なまじ身近な現象を研究しているだけに、それはいささか目立つらしい。一九五九年にラディカルな立場に立つチャールズ・ライト・ミルズが『社会学的想像力』という有名な本のなかで、機能主義の旗頭だったパーソンズの難解な文章を徹底的に批判したにもかかわらず、これはパーソンズ批判以後の若い世代にも一種の「心の習慣」として引き継がれている。8理論社会学とくにシステム論関係の文献となると極致である。

▼8 C・ライト・ミルズ『社会学的想像力』鈴木広訳(紀伊国屋書店一九六五年)。

 しかし、初心者の方々も、はじめはまったくわからないかもしれないが、修行を積んでゆくと、しだいに読めるようになるものである。しかし、読めるようになったら今度はくれぐれも「概念フェチ」に陥らないように気をつけよう。すでに「現代思想」の分野では、概念フェチによる概念フェチのためのディスクール(語られたこと)が市場を形成し、秘教的な魅力を競っている。現実との通路を見失わないことがたいせつだ。

 本書ではあくまでも現実的に等身大で語りたいと考えているが、しかし、少しは背伸びもしてほしい。そうすれば少しずつ身の丈が伸びてゆくものである。いつも背伸びをするようにしていないと、すぐにステレオタイプや我見に縮まってしまう。好奇心を満たして、ゆくゆくは社会学の研究書にも挑戦してほしい。

戦後史を押さえる

 歴史の好きな人でも案外手薄なのが二〇世紀の歴史すなわち「現代史」である。とくにここ半世紀の日本の歴史、これを「戦後史」と呼ぶ。これがきちんと頭のなかに入っていれば、社会学で学ぶことが相当すんなり入ってくるはずだ。というのは、社会学的説明において事例として引き合いにだされるのは、きまって現代のできごとだからであり、いつも最新の事例とはいかないので戦後史の範囲内で説明されることが多いからである。その意味で、戦後史は社会学の必須科目である。これは高校までに学習済みであるということになっているが、じっさいには相当優秀な人でも空白に近いことがあって油断できない分野である。

 社会学の場合、ポイントになりやすいのは、二〇世紀前半ではファシズムである。戦後史では一九六〇年代の高度経済成長、一九七〇年前後のカウンターカルチャーや反公害運動などの動き、一九七三年のオイル・ショック、一九八〇年代の成熟消費社会である。

 文化史と社会史を押さえたコンパクトな社会学的戦後史があればいいのだが、現状ではない。次善の策として、次の四冊をお勧めしたい。まず、宮本憲一『昭和の歴史10経済大国』(小学館ライブラリー一九九四年)。高度経済成長から昭和の終わりまでをフォロー。公害などの社会問題を重視しているところなど、社会学と相性がよい。もっと薄く広くとなると、中村政則編著『昭和時代年表増補版』(岩波ジュニア新書一九九〇年)。年表といっても各年ごとにできごとをコンパクトに説明した概説書。ルビ(ふりがな)が多く、親切。資料として手元にあると便利なのが、正村公宏『図説戦後史』(ちくま学芸文庫一九九三年)。苦手意識をもっている人は、榊原昭二『キーワードで読む戦後史』(岩波ジュニア新書一九九四年)から入るといいだろう。なお、一九九五年は戦後五〇年という括りになるので戦後史の再評価がさかんになされるはずである。新刊をチェックしておこう。

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