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社会学の作法・初級編

引用文掲示

「いずれにせよ、『専門家の権力』や『専門的能力』の独占が社会学の領域以上に危険で、許しがたい領域は、おそらくない。いわんや社会学が専門家だけに任された専門的知識でなくてはならないとしたら、それは一時間の苦労にも値しないだろう。」
 ピエール・ブルデュー『社会学の社会学』田原音和監訳(藤原書店一九九一年)七ページ。
「知識の探究者が一方では自己を知ること──つまり自分は誰であり何者でありどこにいるのかといったこと──と、他方では他者およびかれらの世界について知ることとは、同じひとつの過程のふたつの側面なのである。」
 A・W・グールドナー『社会学の再生を求めて3』栗原彬ほか訳(新曜社一九七五年)二一四ページ。

凡例

 「凡例」は「はんれい」と読む。本を読む上での約束ごとが提示される部分である。

 本書は本文(上段)と脚注(下段)から構成されている。脚注は補足説明と参考文献の提示にあてられている。そのさい、文献の表示については次のように統一した。

   著者『書名』訳者(出版社・刊行年)ページ。

 ただし、本書の性格から、文庫や新書などのシリーズものは出版社名のかわりにシリーズ名を表示し、刊行年もオリジナルの刊行年ではなく、シリーズとしての刊行年を表示した。

 なお、一般の作法に反することではあるが、出版社名と刊行年のあいだに入るべき読点を省略した。これは割付上の制約と美的評価を優先させた結果であるが、読点を略しても誤解の生じようがないと判断したからである。

 同じ章のなかで同じ文献をふたたび提示するときは、「同上書」「前掲書」と略記する。直前の文献と同じものであれば「同上書」を使い、すこし離れたところであれば著者名のあとに「前掲書」と表記する。したがって、「前掲書」とあれば、脚注をさかのぼって確認しなければならない。これは一般の作法に準じた処置である。なお、翻訳書の場合は「前掲訳書」になる。

はじめに――流儀をこえて

社会学教育の空白地帯

 本書が想定している読者は次のような方々である。それは、第一に社会学専攻の一・二年生、第二に文系・理科系を問わず一・二年生で一般教養(一般教育科目もしくは総合科目)の社会学を履修している方、そして第三に自主的な研究会や読書会などで社会学系の読み書きや討論を始めようとしている方である。要するに、何らかの縁あって社会学系の知識を学び始めた人に語りかけたいと思う。

 この方々が共通に直面するのは、おそらく次のような事態だろう。

 社会学系の知識の学習の特徴は、たんに暗記をしたり問題を解くといったことよりも、自分で調べてレポートを書いたりゼミで報告したりするといった自学自習的な作業が多いことである。まったくのしろうとであるはずの自分の意見を求められることも多い。試験も小論文形式である。それまで原稿用紙数枚の感想文を書くのにも苦労していたのに、そこではまがりなりにも学問的な知識に基づいた小論文を一時間あまりでまとめなければならない。概して大学の学習がこのようなものであるにしても、社会学はこの点でかなり徹底している。

 しかし、そうした要求をするからといって、学び始めた人に対して教員が「読み書き討論」の仕方を系統的に教えてくれるわけではない。何を読めばいいのか、どう書けばいいのか、いかに報告すればいいのか──かつて教員自身がそうであったように、自力で試行錯誤しろというわけである。

 ここで多くの人たちがとまどってしまう。それは当然のことだ。というのも、大学に入るまでにそうした教育とトレーニングをほとんど受けていないからである。あるいは、少科目入試に過剰適応する受験スタイルをとってしまうために「現代文」や「現代社会」を早々に捨て科目にしてしまう人が多く、日本語の読み書き能力自体が高校一年生程度にとどまっているためでもある。

 この場合、教員は学生を責めるわけにはいかないだろう。学生は受験制度に適応しただけであり、大学に入るまではそうせざるをえない立場だったのだから。他方、教員がレポートの書き方などを教えないのにも、それなりの事情がある。まず、個別指導をともなうためにたいへん面倒であることがあげられる。そして作文には流儀が存在し、ひとつの特定のスタイルを強要できないこと、あるいは強要するだけの自信がないこと。また、そんなことをすれば、学生の個性やオリジナリティを抑圧してしまうかもしれないおそれがあること。じっさいに読み書きについて指導するとなると、とてつもなく時間がかかり、授業時間がおしい。何より、多くの私立大学の一般教育課程がそうであるように、あまりに受講生が多すぎて、じっさいそれどころでないのである。こうして、ここが社会学教育の事実上の空白地帯となってきた。

 その結果、ごく初歩的なつまずきが両者に不信感を生んできた。たとえば「本を読んでまとめたのに評価が低いのはなぜ」と思う学生に対して、教員は「ビジネス書なんかでレポートにするなよなあ。きちんとした本を選ばなければダメ」と思っている。「なぜ著名な学者の本を苦労してまとめたのに評価してくれないのか」と学生は考えるのに対して、教員は「地の文と引用が区別されず、全体が剽窃(ひょうせつ)になっている」と考える。あるいは学生が「解答用紙いっぱいに自分の意見を書いたのに評価はD(不可)だった」と不満をもつのに対して、教員は「授業で教えた基本的な概念や理論をいっさい無視して、独断と偏見と思いつきを書き散らしといて、このどこが科学だ」と怒っていたりする。

 このような行きちがいはさまざまなレベルで生じるが、学び始めた人の場合によく見られるのは、今述べたような、広い意味での「学問の作法」に反しているケースである。わたしの見るところ、両者のコミュニケーション・ギャップは、社会学という学問の作法に関する両者の無為無策によって生じていることが多いと思う。そしてそれは、ほんの少しのアドバイスでかんたんに克服できることなのである。

学問の作法

 そもそも学問には四つの重要な要素がある。それは知識と思想と技法と作法である。このような要素の複合体を、科学社会学では「パラダイム」と呼ぶ。パラダイムとは、科学者集団が共有している思考の枠組みである。いわば「学界の常識」のことだ。天文学でいえば「天動説」と「地動説」はそれぞれ別のパラダイムである。

 さて、学問はそもそも「知識」である。「知識」はしかし中立的なものではない。どの「知識」にもかならず一定の「思想」が前提されている。あえて強調しておくが、その例外はない。経済学なら経済法則を認識してそれを利用して経済に破綻を起こさせないような操作方法を手に入れるために研究するのであり、自然科学なら自然現象を認識してそれを人間にとって有用な資源に変えることをめざして研究するのであり、医学なら人体を研究して病気を治したり健康をコントロールする技術を手に入れるために知識を深め拡張する。これはまぎれもなく「思想」である。そうした「思想」にもとづいて「知識」が生産されるのだが、そのさいの手続きが「技法」である。統制された実験方法・公正な観察・緻密な概念定義・首尾一貫した論理構成・数学的に破綻のないデータ処理など、それぞれの「知識」にふさわしい「技法」が対応させられている。

 さらに学問にはそれぞれ「作法」がある。「作法」とは、人と人とがかかわるさいの適切さの感覚である。学問もしくは科学は、自然物のように客観的に存在するものではない。それはあくまでも人びとの営みである。それに関心をもつ人びとのかかわりによって学問は存在する。特定の主題に対して、専門家たちが論文を書き、教壇で語り、学界で論争する。そうしたコミュニケーションの活動に他ならない。人びとのかかわりであるかぎり、そこには適切な「作法」が必要とされる。

 しかし「作法」は一種の不文律であるから、語られることはあっても、書かれることはそれほど多くない。わざわざ教えられるものというより、具体的な知識を教授するなかでにじみでるものであり、学生はそれを自然に学びとっていくべきものと考えられてきたからだろう。たしかに「作法」とは本来そういうものだ。しかし、教員側にとって自明である「作法」も、さしあたり「よそもの」である学び始めた人にとってそれは不可解なブラックボックスとして立ちはだかるのである。

社会学的生活へのイニシャル・ステップ

 本書の目標は社会学的生活への準備をすることだ。この場合「社会学的生活」とは社会学的知識に基づいた知的生活のことである。といっても、一般教育科目として「社会学」を履修した理科系学生なら週に九〇分ほどの社会学的生活であろうし、社会学科の学生でもせいぜい四年程度のことだろう。多くの学生にとってそれは人生のほんのひとこまのエピソードにすぎない。しかしこのわずかの時間で、ことによるとその後の人生そのものを大きく転回させるかもしれない可能性を社会学は秘めている。すなわち、その後の生活が社会学的な認識によって高度に反省的なものになり、さまざまな経験が自己理解と他者理解の触媒として相乗的に生かされるような生活態度を、社会学はそれを学ぶ人に引き起こすのである。本書は、社会学との出会いが読者の方々にとってこのような本格的な「社会学的生活」への離陸であってほしいとの願いを込めて企画されたものである。そのためには、いま読者の方々が直面しているわずかな時間の社会学的生活を、離陸するのに十分なほど充実したものにする必要があるからだ。

 とくに「読み書き討論」を中心とする主体的な知的作業は、それが社会学的生活にとって重要であるだけに、なるべく効率のよいものでなくてはならない。多くの教員が考えるようにたしかに試行錯誤こそたいせつであるが、じっさいにはたんなる迷子で終わってしまうケースがあまりに多い。ある程度まで──少なくとも初級編まで──は確実な出発地点を用意すべきなのだと思う。そのためには、系統的に語られることの少ない「社会学の作法」についてディスクロージャー(情報公開)が必要ではないだろうか。ときには社会学者自身も自覚していない、その「作法」の根幹にある「思想」を鮮明化することも必要であろう。これが本書の立場である。

 そもそも教育とは本来的に傲慢な行為である。それは教育者側もしくは専門家側の意図を押しつける。わたしたちはそうした押しつけがましさに対してときに反発を覚えるものの、しかし一方で、わたしたちの心と身体は、教育という権力にすっかり慣らされている。だから、社会学教育のように、教員が強権を発動せず、「自分でやってみなさい」という態度をとりつづけると、とたんにわたしたちは何をしていいかわからなくなってしまう。「何をしなければならないかを教えてほしい」というわけである。あるいは「もっとあれこれ細かく指示(指導)してくれ」ということにもなり、ともすれば「教員が何もしてくれない」と不満をもつことにもなりがちである。しかし、それは「社会学の作法」ではない。まずそれに気づくことから本格的な社会学的生活は始まるのだ。

 具体的な「知識」は膨大で、「技法」も奥が深い。しかし「作法」とそれを支える「思想」は比較的単純である。そこを足場にして、積極的に社会学に取り組んでほしい。たとえばあなたが社会学専攻でないとしても、縁あって「社会学」を受講する学生であるなら、あなたはもはや受験生ではないのだから科目を捨てる必要はない。できるだけ広く自分の知的世界を広げることだ。

流儀をこえて──社会学の立場

 本書が他の作文技術本や知的生産本とちがうところは、「どうあるべきか」の根拠を「世間の常識」や「大学の文化」に求めていないことだ。「世間の常識」なら「世間」によって「常識」も変わる。上流の「世間」と中間層の「世間」はずいぶんちがう。「大学の文化」も大学によって変わる。人文系・社会系・理学系・工学系・芸術系によって著しくちがう。国立か私立か、エリート養成校か大衆大学かのちがいも大きい。あるいは教員によっても大きく左右される。いわゆる「流儀」である。「流儀」は必然性をもたない、本来偶発的なものである。好みに左右されやすく、個人の経験や人脈や伝統に規定される。それはそれで意味のあることであり、格別それを否定しようとは思わないが、本書ではこのような「常識」「文化」「流儀」以外に作法の根拠を求めたいと思う。それはコミュニケーション論である。

 そもそも「作法」はコミュニケーションにかかわっている。それはコミュニケーションのルールであり文法である。社会学は、社会法則に関する何かしらの真理をさすものではなく、社会を主題とするコミュニケーションそのものだから、そこには独特の作法が生まれる。そのコミュニケーションの特徴は、ある理念的な社会空間を想定しておこなわれるところにある。その空間を「市民的公共圏」と呼ぶ。あるいは、もっとわかりやすくいえば「討議の世界」である。1そこでは、だれもが参加可能で、平等に発言することができ、個人は知識や見識によってのみ評価される。語られたことは真理性・誠実性・正当性においてきびしく吟味され討議される。その結果として、討議に参加した人びとにそれなりの共通了解をつくりだす。そのような民主主義的な社会空間はさしあたりフィクションといってよいが、あたかもそれがここにあるかのように社会学者はふるまおうとする。

▼1 「市民的公共圏」はユルゲン・ハバーマスの概念、「討議の世界」はジョージ・ハーバート・ミードの概念に準じている。なお、後者は「話想宇宙」と訳されている。ハーバーマス『公共性の構造転換』細谷貞雄訳(未来社一九七三年)。ジョージ・ハーバート・ミード『精神・自我・社会――社会的行動主義者の立場から』稲葉三千男・滝沢正樹・中野収訳(青木書店一九七三年)。

 このような作法は、社会学のみならず、社会科学や人文科学にもある程度は共通するものであり、近代大学の理念の核もおおよそこのあたりにある。したがって、これから説明する「社会学の作法」はある程度まで「社会科学の作法」「人文学の作法」にも通じるものだ。その点では、社会学の隣接分野を学び始めた方にも参考にしていただけると思う。ただし、社会学はその営み自体をも理論的に対象化してしまうので、それは「世間の常識」や「大学の文化」に照らしてしばしば無作法なほど辛辣になることがある。それが社会学のいいところであり、同時に社会学の嫌われるところでもある。

 ということで、本書では、社会学者の態度は基本的に「市民的公共圏」もしくは「討議の世界」に立っていると想定して議論を進めてゆくことにしよう。その意味で本書は「コミュニケーション論の立場」に立つことになる。このことは次のようなことも意味する。それは現状の「作法」を追認するだけにとどまらず、ときにはそれを批判的に捉え返すこともありうるということである。社会学者自身も社会学教育においてはこれまで必ずしも社会学的ではなかったからだ。また「コミュニケーション論の立場」に立つのは、わたし自身の経験不足や見聞不足による欠落が本書の大きな障害になるのを防止するためでもある。

 しかし、このような立場もひとつの「流儀」と見なされるかもしれない。特定の「流儀」から見れば、他のやり方はすべて「流儀」に見えるものだ。たしかに「中級編」や「上級編」はもはや高度に流儀の世界としてしか語りえないものになっているから、おそらくこれは「初級編」だから可能なことかもしれない。

 わたしは、いつも教えている一年か二年の学生をたえず念頭において書いた。したがってこの人たちにとって敷居の高いことは──たとえ社会学者から見てかなり初歩的なことであっても──省略し、逆にマス・メディアやパソコンの章のように、今どきの学生にとってそれほどの飛躍を要しないことについては若干踏み込むこともしてある。つまり学生の先有傾向から出発するという意味での「初級編」ということであって、社会学研究の要求水準としての「初級編」ではない。

 社会学の作法にはそれなりの理屈がある。この理屈がわかれば、おそらく何をしようと「無作法」にはならない。作法にさえかなうならば、あなたが何をしても、教員はあなたを「未熟なだけ」と見なして教育的配慮のもとにそれなりに対等なコミュニケーションをしてくれるだろう。本書をマニュアルとして読んでいただいてかまわないのだが、できればその背景にある社会学的な思想を見届けていただければ幸いである。

 いずれにせよ、わたしは、当時学ぶ意欲だけはあったが何を手にとっていいかさえ見当がまったくつかなかった大学一年生のわたしが欲しかった本を書こうと思う。教員としてというよりは、「社会学を学び始めたとき、ああしとけばよかった」と悔やむ者のひとりとして、そのころのとまどいをまだ忘れていない先輩のひとりとして……。

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SOCIUS.JPドメインへの初出 7/18(thu), 2002  
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