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書評『実践の医療人類学』


紹介と書評 池田光穂『実践の医療人類学――中央アメリカ・ヘルスケアシステムにおける医療の地政学的展開』世界思想社

初出 『大原社会問題研究所雑誌』(法政大学大原社会問題研究所)521号(2002年4月)69-70ページ


田舎町ドローレスから世界を描く

 本書は、ホンジュラス共和国西部のドローレスという山岳地帯の町と近隣村落におけるフィールドワークに基づいた詳細な調査報告を中軸として、中央アメリカ諸国における病いと健康、医療と医療援助の問題、そしてそれらを調査し語る医療人類学および医療人類学者という存在について、自省的(かつオルタナティブ想像的)に考察を加えたものである。精力的に膨大な数の論文を書きつづってきた著者約15年間の研究成果を一から組み直した完成度の高い研究書である。ちょうどこの分野の名著とされるクラインマンの『臨床人類学』が台湾のフィールドワークを軸に、病いについての医療人類学的パラダイムを構築したように、本書は中央アメリカ地域の医療的現実という研究対象に即して「病い・健康・医療」について語ろうとしている。

 そもそもフィールドワークには、おそらくふたつの考え方があると思う。ひとつは、直接にその世界を描くこと。もうひとつは、そこにパチンコ玉のようなものをおいてみて、そこに映し出された世界を克明に描くことだ。前者では、自分の仕事はあくまでも局所的に切り取られた限定されたものであると位置づけるしかない。ディシプリン抜きの多くのエリアスタディはこれにあたる。

 それに対して後者は、パチンコ玉にはそのまわりの世界がすべて映し込まれているのだから、それを微視的に記述することで巨視的な世界を論じることができるとする。しかもそれを記述している自分自身もそこには映っているのだから自ずと自省的なスタイルとなる。後者のスタイルをここでかりに「パチンコ玉理論」と呼んでおくと、本書はどちらかというと「パチンコ玉理論」に近い。つまり、著者はドローレスをはじめとする中央アメリカの踏査に映し込まれた世界像を――人類学者・調査者としての自画像をふくめて――丹念に描き込んで、それを媒介に「病い・健康・医療」という根本的な問題、とりわけ医療援助の問題に切り込んでいこうとするのである。

医療的多元論の破壊力

 たとえば、第3章と第5章では「医療的多元論」が論じられている。これは、さしあたり「ひとつの社会に複数の医療システムが多様的、多層的に存在していること」(95ページ)である。ある地域に近代医療が導入されても、それが完全に伝統医療を駆逐することはなく、たいていの場合、何らかの共存状態を生むという。

 医療援助などの名目で外部から導入された近代医療が、人びとの身体観や病気観によって土着化したり、近代的な治療方法が人びとに不安を与えて宗教的なるものへの傾斜を深めたりするものだが、ところが逆に中央アメリカでは、神父たちによるカトリック運動が土着的な呪術的治療を糾弾して近代医療の普及に貢献したりする。病気にかかると人びとは自己投薬行為をする。ところが、こうした近代的な薬品の普及を単純に近代医療の普及と理解してはならないと著者はいう。それは必ずしも近代医療への同化ではなく、たんに「工業化された」薬草として買い求められているにすぎないのだ。この現実を直視すれば、近代的な薬品の普及を単純に近代医療の普及と理解することはできないのである。

 また、中央アメリカの人びとは、日常的な病いについては薬草を用い、重篤な病気は近代医療を使うという使い分けをする。しかし、近代医療の医師に対する不信感もまた大きいようである。それは伝統医療へのこだわりによるのではない。意外にも近代医療への期待は高く、むしろ過度に期待されているために、治療がうまくいかないときに裏切られた感じを強くもってしまうことによるという。

 さらに、伝統医療そのものが不変的なものではなく、近代医療の影響を受けて「刷新」されることも多い。「伝統医療は近代医療によって発明されたものに他ならない。近代医療がある空間には必ず伝統医療がある。」(67ページ)両者の相互補完関係を直視すべきだというのが著者の見解である。

 このように、著者は近代医療を一枚岩と考える常識を粉砕するだけでなく、私たちが安易に想定しがちな単純な〈近代医療と伝統医療の対立図式〉もまた粉砕する。一見、それらのパラダイムで解読できてしまうだけに、それを裏切る事実の襞が次つぎに提示されて新鮮である。これは日本社会にも大いに利用可能な留意点だ。

医療人類学という学問の特異体質性

 しかし、いささか反映論的な「パチンコ玉理論」で本書に枠をはめるのは無理かもしれない。そうした平板な社会学地平ではなく、立体的な固有名詞的世界を直視する「地政学」の見地に立つ著者ならではの「はみ出す」ところもある。たとえば下痢についての民俗病因論に関する著者の説明は詳細で、下痢表現に関する語彙を丹念に分類して、その固有の病いの民俗的世界を描いている。このような固有な民俗的病気観のある世界に、医療援助の名の下に「健康」という概念が注入され、人びとは抵抗しつつも、必ずしも拮抗する構図にはなっていないと著者は結論づける。

 現代医療の分析を志すものにとって、医療人類学は何かよそよそしいものに映る。あるいは、福祉労働に携わる実践者にとっても、それらを政策的に議論する研究者にとっても、遠い存在のように認識されているように思う。しかし、無縁ではないどころか、身近な現場を見直す有力な視点を提供している(いささか特異な)学問であることが、本書を通じてよくわかった。本書については、著者特有の二回ひねりのロジックが、抑制の利いたものに洗練され、じつによく構成されているのが印象的だった。

・池田光穂『実践の医療人類学――中央アメリカ・ヘルスケアシステムにおける医療の地政学的展開』世界思想社、全390ページ、2001年3月。


この書評は大原社研のサイトOISR.ORGにてpdfファイルでも公開されています。
http://oisr.org/oz/521/


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SOCIUS.JPドメインへの初出 5/4(Sat), 2002  
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