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メディア仕掛けの民間医療

1 メディア仕掛けの健康言説

初出 佐藤純一編『文化現象としての癒し――民間医療の現在』(メディカ出版、2000年12月)の第3章「メディア仕掛けの民間医療――プロポリス言説圏の知識社会学」。ここでは3分の2に短縮したリライト版(400字詰め原稿用紙換算75枚)を公開します。


 現代日本の健康ブームは枯れるところを知らない。それはあきらかに健康情報ブームでもあって、専門家とメディアが媒介する言説宇宙の増殖過程あるいは再生産過程でもある。そしてまた健康ブームは民間医療ブームでもある。

 というのは、民間医療が基本的に「正規医療」の残余概念であるかぎり、そこにはさまざまな医療類似行為が関与するはずで、それはたとえば伝統的民間療法、癒し、ヒーラー(癒しの技をもつ人)、ニセ医者、逸脱医療、呪術、俗信、詐欺師、宗教、代替医療といったファクターをふくむ。これら正規でない医療従事者、基本的には国家によって公認されない医療の従事者は、自己言及的にその正当性を提示しなければならない。いかに信頼を確保するかが日常的な仕事にならざるをえないのである。それが過剰とも見える健康情報ブームの一因になっている。つまりそれは本質的に「メディア仕掛け」なのである。

 本稿では、日常生活における健康の概念に対して、「メディア仕掛けの民間医療」の観点から問題を設定・照射して、メディア上に展開された健康言説空間の構造について知識社会学的に分析したいと思う。

 まず民間医療に対する問い方を確認しておこう。

 第一に、正規医療と民間医療を互角に置いて相互作用から見ること。相互作用あっての両者である。

 現代の民間医療はかつての伝統的なものと異なり、正規医療への批判をその構造要素としていることが多い。医療問題としてリストアップされる数々のテーマが示しているように、正規医療が人びとを必ずしも満足させていないのは明らかである。その残余への希求(病気が治ることだけでなく、心理・精神性・美・知性・自然性において満たされること)が民間医療を支えている。つまり、人びとが「たりないものはないか」と問うことによって支えられていると考えられる。医者は専門的だが、病人はいつも総合的(何でもあり)なものである。そして正規医療にないものが民間医療側に読み込まれる。ときには過剰に読み込まれる。

 他方、民間医療の繁栄は正規医療の啓蒙の結果である。そのマーケットは正規医療がつくりだしたとも言える。この点についてはポーターは両者の相補的関係の重要性を強調して「啓蒙のジレンマ」と呼んでいる。

 また、中国の場合がそうであるように、正規の医療そのものが西洋近代医学に限定されるとはかぎらない。これには供給側の事情が大いに作用している。両者の線引きを絶対視すべきではない。むしろ相互作用があってはじめて正規医療も民間医療も定義されうるのである。  第二に、クライアントのインセンティブを問うこと。もちろん身体の主観的不調と健康志向から選択しているのであるが、消費社会において選択肢はふたつある。正規医療と民間医療である。しかも二者択一ではなく、ふたつ選んでよいという選択である。クライアントたちは、かなり大きな裁量の余地を状況から与えられていると言える。たとえば入院患者が主治医にないしょでクロレラを服用することはかんたんにできる。

 そのさい、身体的にも社会的にもクライアントが自己に不利な状況を招くような行動を選択するとは考えにくい。人びとが民間医療を採用するとき、かれらがおかれた状況に対して、主体性と能動性と知性と反省と批判性を満たした行為がおこなわれたと、少なくともいったんは考えてみることが必要である。言ってみれば、この人たちは自己責任の先取りをしているわけであり、全体性回復をめざして自己コントロール行動を自覚的にしている人たちなのである。したがって、しばしば優秀な医師が無自覚に前提しているような「だまされやすい人たちの愚かな行動」と決めつけないことだ。それこそそれは「(社会)科学的根拠のない」やり方であろう。

 そのさい注意しなければならないのは、あれこれと「試行錯誤」している過程と「決断をともなう賭け」とを区別することである。「信じている」と見られる場合でも、ひとつは複雑系経済学のいう「合理性の限界」を考慮する必要がある。もうひとつは信頼する誘因が状況そのものの中にあるということだ。内面的な動機(あるいは愚かさ)だけで考えるべきでない。

 第三に、実体を問うのではなく、実体についての語りを問うこと。社会学者として民間医療について真偽や正当性を判断することはできない。それが「事実」であるかどうかでさえ決めつけることはできないし、最初から「あやしげなもの」「まがいもの」と決めつけることもできない。同様に、「医療のもう一つの道」として可能性を謳うことも回避しなければならない。事実判断も道徳的判断も留保する必要がある。

 私たちが問えるのは言説だけである。言説の中から、リスクを覚悟して民間医療を採用するクライアントたちの自己了解の論理(あるいは納得の構図)を取り出すこと。その意味では、あくまでも「語られた民間医療」が主題となるわけで、社会構築主義・批判的言説分析と呼応した方法論的立場を自覚する必要がある。

 その視点から概観すると、民間医療とその周辺(正規医療を含む)の言説圏を問うことが私たちの具体的課題となる。構築主義的には、その言説圏を言説構築の闘争の場と見ることになる。「事実」について語る言説間の闘争、「AではなくBだ」といった二分法的言説や批判的言説の闘争、さらにそれを論じるメタレベルの言説間の階層性の闘争(つまり「事実」レベルとメタレベルの闘争、メタレベルとメタメタレベルの闘争といったメタレベル設定の闘争)を分析していく必要がある。

 そしてそこに健康言説のナヴィゲート構造を発見するのが目標となる。これによって、制度的側面ばかりが研究される医療問題研究の現状に対して、自明視されがちなクライアントたちの意味世界を浮き彫りにできるかもしれない。また、言説の文脈をとりだして、そこにかかわる「語る主体」たちの共同性を浮き彫りにできるかもしれない。本稿の目的は、さしあたりその糸口を探ることにある。

2 健康食品の二重に自由な言説圏

 民間医療の中でもっともお手軽なものは健康食品である。たとえば折込広告を眺めてみれば、そこには入手可能な健康食品が網羅されている。スッポンパワーエキス、ローヤルゼリー、キトサン、牡蠣エキス、黒酢、アガリクス、アロエエキス、海洋深層水、霊芝、プロポリス、クロレラ、オオバコ、モロヘイヤ粒、鮫の軟骨、イチョウ葉エキス、青汁、しじみエキス、ウコン、プルーン、アマゾンのタヒボ茶・・・。どこの薬局かと思えば、これは漢方薬局のチラシであった。これらの健康食品のオプションからひと通り試してみるだけでも、多大なコストがかかりそうである。

 関係文献の中でもっとも網羅的と思われる『健康・栄養食品事典』(奥田 1998)では、四百以上の品目が一品目ごとに一ページないし二ページで解説されており、それだけで五七六ページが費やされている(ちなみにこの本は全体で九五六ページある)。ちなみに、この事典は栄養科学の立場から編集された、かなり醒めたテイストが特徴である。

 「あやしげなるもの」として一括されがちな健康食品であるが、その中には、医療的世界に近いものもあれば宗教的世界に近いものもある。後者のものとしては「ウコン(鬱金)」のように、まさに現代宗教そのものの文脈に位置づけられた健康食品もある。ウコンはおもに沖縄に自生する薬草で、沖縄ではウッチン茶として飲用する。食品業界では染色用に黄色の粉末として流通している。八木橋(1995)によると、「ほんぶしん」という天理教系の教団が一九八五年から病気治しの手段としてウコンを大幅に導入し、教団にとって呪術的手段からの脱皮を期したという。この場合は、ハワイの教団施設で栽培された「かんろうこん」の効用がキャンペーンされ、世界平和運動と病気治しのシンボル的存在になっているという。

 もともと伝統的な民間医療は伝統的民俗宗教の世界観とシンクロしていることが多い。現代の民間医療はいったんは伝統医療と切れているが、しばしば伝統を再発見し、自らの正当性根拠に利用することがある。その意味で、民間医療は宗教的世界と医療的世界のはざまを行きつ戻りつしていると考えた方がいいだろう。

 たとえば、それ自体は世俗的と言える食品を軸とした健康法も、カリスマ的人物と独自の世界観をもつと、宗教としての実質を備えてくる場合がある。たとえばマクロビオティック運動(正食運動)がそれである。これは、一八九〇年代に生化学者である石塚左玄によって創始された食養会運動から発しているが、それは、近代栄養学と共鳴しつつ(当初は先行してさえいた)独自の食養論を展開したものだった。一九二八年前後、実質的な指導者になった桜沢如一(ゆきかず)が、数年間の渡仏生活ののちに独立して一九四〇年に無双原理講究所を設立し、本格的にマクロビオティック運動を展開する。これはただたんに食を通して癒しを実践するだけでなく、「身土不二の原則」と「無双原理」を中心に構成された世界観をもつ運動である。現在では欧米に数百の研修センターをもつニューエイジ系の代表的な運動体にまでなっているというから、実質として宗教と見なすこともできる(島薗 1999)。

 ウコンの対極にあると思われるのがプロポリスである。プロポリスは数ある健康食品の中でもかなり医療的世界に近いところで語られているものである。プロポリスはローヤルゼリーなどミツバチ生産物のひとつで、日本では蜂やにと呼ばれていたもので、それをアルコールなどで抽出して飲用したり塗布したりする。ルーマニアなど主に東欧の民間療法でよく使われている。

 さきほどふれた『健康・栄養食品事典』(奥田 1998)でもミツバチ関連は健康食品の筆頭にあげられている。その点で健康食品としては代表的なものであろう。しかもプロポリスはごく最近再発見された新しい健康食品であり、しかも「ガンに効く」という学会報告がつけられたものでもある。健康食品業界では「切れがいい」と言われる。それだけに問題を指摘する人たちもでているが、最近はアピセラピー(apitherapy)※として位置づけられつつあるようだ。

 本稿では、このプロポリスのケースを事例として考えてみたい。たとえば、ここにひとりの中年男がいて、かれはもともと病弱であるとする。不定愁訴の多い男である。かれがプロポリスの話を親戚から聞いた。かれは非常に興味を持った。そのかれが出会うであろうメディア言説はどのようなものになるのか。プロポリスをめぐる言説の世界で展開される「健康」の概念とはいかなるものなのか。

 まず、新聞広告におけるプロポリスの事例を見てみよう。

「ブラジル原産のプロポリスは、ヨーロッパにおいて脚光を浴び、今日本でも話題です。このプロポリスの組成はミツバチの唾液と樹液からつくられた混成物であるため一定していません。特に第一の有効成分といわれるアルテピリンCは含有量が明確になっていませんでした。このたび協和発酵が製造したプロポリスAは、このアルテピリンCが安定的に含まれているのが大きな特徴です。」「これまでのプロポリスの効用は、プロポリスに多く含まれているフラボノイドによるものと考えられていました。それが最近の研究発表では、その主役はフラボノイドだけでなく、アルテピリンCという物質が重要であることが確認されたのです。」(『毎日新聞』東京本社版二〇〇〇年七月一三日夕刊2版6面)

 ここではきわめて控えめにプロポリスがフラボノイドとアルテピリンCを含有していることが語られている。それが何に効くのかはまったく語られていない。それは広告主が控えめだからではない。語ってはいけないのである。プロポリスは医薬品ではなく、あくまでも食品にすぎない。これがプロポリス自体の広告であるかぎり、その広告には多くの規制がかかるのである。

 不当表示規制として問題になるのは、第一に効用効果に関する不当表示と安全性に関する不当表示である(内田 1990)。

 効用効果に関しては、医薬品的効用効果とその他の効用効果とに分けて考える必要があるが、前者に関しては薬事法の規制がある。たとえば「ガンを予防する効果がある」と表示すれば、それは不当表示として問題になる(内田 1990:262-264)。それを暗示する表示も問題とされることがあるので、きびしい規制と言わざるを得ない。

 薬事法違反事例としては次のようなものがある(植条 1993:281-282)。「中国5000年の歴史の中で磨き上げられ、更に漢方医の名門○○家において200年の改良が加えられた伝統と実績をもつ。」「細胞に活力を与え、全身の機能を改善する働きがあります。」「今、医学会、歯学会で注目の成分――」「あきらめてはいけません。○○○があります」これらも不当表示になる。現に『毎日新聞』東京本社版(一九九六年七月三日付夕刊4版)によると「医薬品でないのに『がんに効く』と薬効を宣伝したポスターをJRの駅に張るなどして健康食品『プロポリス』を販売したとして」販売会社社長が薬事法違反容疑で逮捕されたと報じている。

 じっさいには、このほかに自主規制も加わる。新聞広告倫理綱領(日本新聞協会)・雑誌広告倫理綱領(日本雑誌広告協会)・テレビ放送基準(日本民間放送連盟)・CM倫理綱領(全日本CM協議会)がそれぞれ倫理基準を取り決めている(植条則夫 1993)。

 しかし、これらの規制はあくまでも商品を直接広告する場合に限られる。パブリシティや記事はその埒外である。たとえばこういう記事がある(『佐賀新聞』一九九九年一〇月一五日付、共同通信配信記事)。

 「〈ハチの産物を活用〉 九月十二日から六日間、カナダ・バンクーバーで開かれた『アピモンディア』は、世界六十四の国と地域から約四千人が参加した最大の養蜂(ようほう)国際会議。今年が三十六回目で、最先端の養蜂技術とともに、ローヤルゼリーなどのハチの産物を医療分野に利用する『アピセラピー』のさまざまな試みが各国から発表された。オーストラリアの研究者は、はちみつに抗菌作用があると報告。日本から参加した亀井千晃・岡山大教授(薬理学)は、ミツバチが巣箱の中に塗り固める『プロポリスの抽出エキスが肝機能障害に対し改善効果がある』と発表した。ハチ毒の医療応用研究で先進国の米国からは、ハチ毒が免疫力を高める作用をエイズウイルス感染者の治療に利用する研究の発表もあった。今回、アピセラピー分科会委員に選任された松香光夫・玉川大教授(昆虫学)は、『日本でも多方面の研究者らを巻き込んでアピセラピーの研究を進めていきたい』と語った。アピセラピーは、ルーマニアなど主に欧州の民間療法が起源。アピモンディアのレイモンド・ボルネック会長は『アピセラピーを一つの科学として確立していく時だ』と締めくくった。」

 この記事では明らかに「プロポリスが肝炎に効く!」と広告する以上のことがおこなわれている。〈国際会議〉で報告する〈大学教授〉、そしてそれを淡々と報じる〈新聞〉。公認する権威的主体が三重になっている。相当な後光効果が期待でき、プロポリス販売業者にとってはパブリシティ効果が大きいだろう。そしてこの場合、プロポリスが未だ解明されていない研究途上の物質であることが前提になっている。これがポイントである。研究上で発生した言説は社会的に規制されない言説である。研究者の言説こそ無条件の無規制広告になりうる。

 また、広告は広告でも、こうした規制がまるでないかのような言説も同居している。それは出版物の広告である。「ガンが治る」と宣伝しても、それが本の広告であれば薬事法にふれない。広告している商品はあくまでも著作物であるからだ。これがいわゆる「バイブル商法」と呼ばれる広告のトリックである。

 そもそも規制は自由と合わせ鏡になっている。あることを禁止することは、禁止されたもの以外に許可を与えていることになる。広告の厳しい規制は、プロポリスの場合、逆説的な自由をもたらしていると言えそうだ。それは二重の自由である。第一に「プロポリスは医薬品でなく食品である」という自由。医薬品として語ることはできないが、食品として語る分には相当な自由が確保できる。第二に、研究・書籍・報道のように、それがプロポリスそのものの広告でないかぎり、どんな言説も規制されないという自由である。この二重の自由こそが膨大なプロポリス言説圏を構築可能にさせている。

3 プロポリスをめぐる〈解釈の社会集団〉

 じっさいにそれらの著作物の中で展開されている内容をつぶさに読んでみると、その言説は必ずしも商売に直結するものばかりではないのがわかる。それはさまざまな意図の交錯する、もう少しふくらみのある言説群である。では、そこに誰が何をどのように語っているのか。  「一般の人が現在入手可能な解説書」という条件が必要と考え、まずオンライン書店「紀伊國屋書店BookWeb」で「プロポリス」を検索してみた。すると四五件検索された(二〇〇〇年六月段階)。ちなみにこの時点で国立国会図書館に収書されているのは四二件だった。書誌情報から判断するかぎり、そのすべてがプロポリスの「薬効」に肯定的なものである。批判を主題にしたものはない。そこから特徴のありそうなものを中心に二七件注文してみた。そのうちじっさいに到着したのは二〇冊だった。まず、著者がどのようなカテゴリーに属しているかにそって概観してみよう。

 医学博士自身によって書かれたとする四冊に共通するのは、じっさいの治療に漢方や民間療法を大幅に導入している専門家の視点で書かれているということだ。瀬長は基本的には漢方医であり、木下はプロポリスに注目する以前に馬の油の薬効についての啓蒙書を書いている。二人ともその後のプロポリス普及に大きな影響力をもった。

 理学博士・薬学者によって書かれた三冊は、体験談提供や饒舌な長いタイトルに編集側の意図がそれぞれ存在するものの、いずれも著者は研究者姿勢でプロポリスについて語っている。自分の関わった実証的データを利用して解説するところが他のグループとちがうところである。とくに、プロポリスが医学的に注目されるきっかけをつくった松野の著作は、プロポリスの抗ガン作用についてのわかりやすい論拠となった。

 ライターによるものに分類した二冊は、あえて制作依頼を明かしながら、調査し取材していくスタイルを取る。あとから来た読者と同じ目線で書かれており、それが説得力を生むしかけになっている。

 生産業者・販売業者によるプロポリス解説書は一応独立した著作としてあつかわれるが、実態としては「規制されない広告媒体」という色彩が強い。基本的には一様にプロポリスの「研究者」であり、「研究」の成果と謳っているにもかかわらず、およそ研究書のイメージとはほど遠い仕様である。しかし、これまた一様に感じられるのは啓蒙への強い意志であり、一部たりとも隙を見せない強い確信と情熱である。少なくとも語られたことに関してはかれら自身が確証をもっていることはたしかである。問題があるとすれば、トラブルについて語らないことぐらいである。

 雑誌的編集が施されたプロポリス解説書はそれぞれユニークなもので、関係者揃い踏みといった観のある編集になっているものもあれば、研究者による論文を前面に押し出しているものもある。かなり徹底した製品調査リストをふくんだものもあり、好意的に見れば『暮らしの手帖』的消費者主義がのぞいていると言えそうである。いずれも最近の刊行で、プロポリスが健康食品の定番となったことを印象づけるものである。

 このように見てくると、プロポリスについて肯定的に語る人たちには、さまざまな職種のあることがわかる。

 論点を作り出しているのは主として研究者である。舞台は各種の学術研究学会。プロポリスの場合はとりわけ日本癌学会が大きな役割を果たしてきた。一九九一年以来ほぼ毎年プロポリスに関する報告がなされてきた。しかし、癌学会の機関誌は英文である。そのため、年に一回開催される大会での報告がそのまま鵜呑みにされやすい。報告の水準と学会専門誌への投稿論文の水準とはかなりちがうはずであるから、ここにひとつの問題がある。

 邦語文献で先発だった研究誌は『医学と生物学』で、一九九二年に二本、一九九三年に一本、一九九五年に一本、一九九六年に二本掲載されている。一九九二年以前の日本語文献はなく、一九九三年に『生薬学雑誌』と『一宮女子短期大学』にそれぞれ一本でているだけである。

 九〇年代後半に関して言えば専門誌『ミツバチ科学』の存在が大きい。「雑誌記事索引データベース」で「プロポリス」とカタカナ書きで検索すると四〇件の論文がでてくるが、そのうちの一三件が『ミツバチ科学』である。内訳を見ると、一九九六年に二本、一九九八年に五本、一九九九年に六本となっており、むしろ俗説を後付けする形で検証するという役割を果たしている。

 以上は正確には「自然科学する人たち」である。研究が近代自然科学の手続きに則って行われなければならないという理由はない。他にも研究の道筋はいくらでもある。そのさい重要な役割を果たしたのが、近代医療を修めながら、それに対して批判的で、患者たちとのコミュニケーションの世界に生きている医師たちである。この人たちは漢方治療に熱心で、民間医療を熱心に研究する。プロポリスの場合は瀬長と木下がそれである。この人たちはしばしば「研究する人たち」と「啓蒙する人たち」とをつなぐ重要な役割を果たすことで、結果的にカリスマ性をもったようだ。診療体験を重視するという、素人にもわかりやすい「実証性」で言説を構築するのが特徴である。

 しかし、追随者があってはじめて先行者が認識される。追随者・広告提供者として養蜂業者と生産販売業者がいる。この中には、たんに商品を売るということだけでなく、文化として・科学として宣揚しようとしている人たちも少なからずいる。たとえば養蜂業者の中には、自分たちの仕事に新しい社会的意義を付与して誇りをもとうとする人たちもいる。この人たちの活動と言説に対して、たんに「売らんかな主義」として一括するのは実態に即さないところがあり、社会認識としては幼いと言わざるを得ない。たとえば学術書の著者でさえ、ある程度は自著が売れることを願うものである。それは儲かったことを自慢したいのではなく、身銭をはたいて買ってくれるほどの支持者の多数性を誇っているのである。経済的評価を求めているだけではない。

 このような肯定的プロポリス言説の芯を確信を持って構築する人びと(マスコミ論の用語では「ハードコア」と呼ぶ)の周辺あるいは後続に、プロポリス生産者や販売業者、健康ライターや業界団体が位置している。かれらは先行者の言説を復唱し、いいとこ取りし、若干の知見を追加し、我田引水的に差別化したりする。

 直接プロポリスを主題としないまでも、それを特定の文脈に位置づける人たちもいる。じつはこの位置づけが決定的に重要である。それは「図と地の関係」や「ことばと身ぶりの関係」や「旋律と伴奏の関係」になぞらえることができる。いずれも主題と主張は前者にあるが、それが受け取られるコンテクスト(たとえばトーンや雰囲気や誠実性や嫌悪感情)を規定するのは後者である。言説は必ずこうしたコンテクストの中で解釈されて反応を引き起こすものなので、こうしたコンテクストを構成する環境的言説が重要である。そのようなものとして五点指摘しておこう。私はこれらを「健康言説」と総称して類型化を試みたことがあるので詳しくは野村(2000a)を参照してほしい。

 第一に、栄養学的言説。栄養学(栄養科学)は、「国民」の食生活を科学的に改善するための制度化された学問分野である。栄養士法に基づく栄養士・管理栄養士の資格条件となる科学として、地域の栄養指導や学校給食や病院給食などを知的植民地あるいは知的権威として作動する。「バランスのとれた食事」が基本原理である。

 第二に、ヘルス・プロモーション言説。たとえば厚生省の「一日三〇食品を目標に」キャンペーン(一九八五年)や「生活習慣病」キャンペーン(一九九六年)がそれである。ちなみに「生活習慣病」は臨床医学の概念ではなく「性病」と同じく保健政策的な概念である。これらの国家政策的キャンペーンは自己管理・能動的予防・自己責任の重要性を国民に教化し、来るべき事実上の介護不能社会に備えろと警告する。

 第三に、現代医療批判言説。小間切れ医療・薬害・院内感染・医療ミスなど、現代医療がいかにリスクに満ちたものであるかを主張する。同時に抗ガン剤などの無効性を強調して、ガンなどに対して現代医療は無力であり、ときには有害でさえあると主張する。この場合の対抗原理は人間的尊厳である。社会派的な問題関心と連動する点で知性的であるが、じっさいにはルサンチマンに満ちた言説である場合が多い。

 第四に、自然志向・伝統志向言説。自然のものは人間の手が加わっていないので安全であり、伝統社会の中で伝承されてきたものはそれなりに淘汰されているので信頼できるという言説。自然食品や無農薬・低農薬食品を志向する減算主義が評価基準であり、人工的なるものによる汚染への嫌悪が感情的原則になっている。生協的価値観や『買ってはいけない』的世界観がこれにあたる。

 第五に、代替医療言説。ここでは一元的に「代替医療」(alternative medicine)としておくが、漢方医学やアーユルベーダ医学など民族文化固有の伝統療法や、全人医学・ホメオパシー・ハーブ療法などをふくめた総称として使うことにする。これら代替的な原理と方法を肯定的に評価する言説がある。キーワードは癒しと自然治癒力である。調和的世界観をもつのが特徴で、しばしばコスモロジーに則って生きる(死ぬ)ことを推奨する。哲学的志向が強いが、バラバラの健康言説にひとつのトータルな世界観を与え、積極的方向性を提示して正当化する点では強力である。アンドルー・ワイルの本が代表的なものだが、これに正面から反論するには相当な学識が必要であり、じっさいにはきわめて困難である。

 一応五つにまとめてみたが、これらの言説群はそれぞれプロポリス言説圏の環境を整備し背景思想を提供する。忘れてはならないのは、プロポリスはその忠実な優等生だということである。つまり、(1)栄養学的には栄養満点で、(2)健康の自己管理手段として有効で、(3)リスクが少なく、(4)自然の産物で、(5)伝統的な民間医療で使われてきたものである。これほど完璧な優等生はないだろう。

 たとえば現代医療批判が必ず自然志向になる必然性がないように、これらは本来相互に矛盾し、ときには敵対し合う社会集団の解釈を提示する言説群である。たとえば無農薬野菜にこだわる人たちがアーユルベーダ医学に好意的であるとはかぎらないはずである。それにもかかわらず、プロポリス言説圏にかかわる「語る主体」たちには、プロポリスに関して、ある種の鷹揚な共犯性が存在する。追随的プロポリス解説書の言説の多くが、じつはこれらの援用から成り立っているのであるが、これらの言説群が何の問題もないかのように同居しているのである。

 プロポリス言説圏に入ったクライアントにとっては、健康言説の一本の大きな幹から、栄養科学や現代医療批判などの太い枝が分岐し、それぞれが豊かな枝と葉を広げているように見えるはずである。言説間の矛盾の同居が、文化的奥行きを感じさせる豊穣さとして現象するのである。相互に批判し、差別化することによって、むしろそれぞれが引き立て合っている構図である。

 マス・メディア自体は新しい情報を創造しない。基本的に再出情報である。しかし、テレビ・ラジオ・新聞・雑誌のパブリシティで取り上げられることによって、販売や売名のような私的利害や異常心理の絡んだリスキーな言説と見られていたものが一気に公的な言説に格上げされる現象が生じる。あるいは、ごく専門的な研究者や業界での言説が一気にお茶の間の話題に転換する。つまり、マス・メディアは情報を提供していると言うより、プロポリス言説が読まれるコンテクストを公共的なものに再定義するのである。

 たとえば、その言説がプラスイメージかマイナスイメージかについてはおおむねここで決定すると言ってよい。たとえば前にふれた『佐賀新聞』(一九九九年一〇月一五日付、共同通信配信記事)では次のようにプロポリスの文脈を指定している。

 「〈バイオセラピー最前線〉 病の治療はもともと薬草や自然界の産物を使って始まった。いまも漢方や世界各地に伝わる民間療法に生かされている。医食同源も同じ思想だ。最近、こうした伝統と最新の科学を融合させる『バイオセラピー』の研究が盛んだ。より自然で体に優しい療法として期待を集めている。」このあとミツバチの生産物による療法を「アビセラピー」として紹介している。「自然」「医食同源」「伝統と科学の融合」「体に優しい」といったフレーズがプロポリスを確固たるプラスイメージに位置づける。

 たとえば、ごく最近の『毎日新聞』(二〇〇〇年七月一九日朝刊12版12-13面)は「代替医療注目浴びる」という特集を組んでいる。「ここ数年、『代替医療』『統合医療』といわれる療法が大きな注目を浴び始めた。西洋医学だけでなく、食事療法、ビタミン療法、アロマセラピー、免疫療法など、さまざまな療法を病気の予防や治療に生かそうという動きだ。米国など外国でも大きなうねりを見せている。」これは日本補完・代替医療学会を中心に取材した記事のリードである。一方で「健康ブーム」を批判的に総括する動きがあるが、こちらは肯定的に統括評価しようとするメディア言説である。今後、このような記事が増えてくると予想されるが、公共性付与機関としてのマス・メディアは節目節目に大きな役割を果たす。

 一般雑誌の動向を『大宅壮一文庫目録』で調べてみると、「食品による健康法」一〇七五件のうちミツバチ関係が集められている「ローヤルゼリー、はちみつ」は四五件、そのうちプロポリスが主題になっているものは一七件である。

 その顕出数を見ていくと、プロポリス解説書を除く一般のマス・メディアにおいては、一九九二年が元年にあたることがわかる。一九九一年までに十冊を数えているプロポリス解説書よりもワンテンポ半遅れているという印象である(表5参照)。しかも、この年の四件の見出しはいずれも疑心暗鬼の段階にあり、第一印象としては「あやしげ」なマイナスイメージがある。しかし内容がむしろ逆であることを考えると、これは見出しをつける編集者が何らかの事故を用心しているからであろう。「他もやっている」という言い訳がまだ効かないからであるし、うち二件はアルゼンチンの事故に即したものだったからであろう。

 たとえば「健康飲料『プロポリス』の安全度 日本の輸入業者、愛飲者ひと安心 アルゼンチンでは死亡事故」(『週刊時事』一九九二年九月五日)、「死者も出た健康食品『プロポリス』の人気度」(『週刊新潮』一九九二年九月一〇日)とある。もっとも早い段階にでた大朏博善(おおつき・ひろよし)「奇跡の新薬? プロポリスの秘密 20世紀のクスリか、最後の大ウソか?」(『文藝春秋』一九九二年五月)は、ブームの有力な火付け役になった。

 一九九三年から疑心暗鬼は一気に影を潜めて、「ヨーグルトきのこの次はこれ ガン、『育毛に効く』と大評判!!はちみつプロポリスって何だ ブラジルでは、日本人による買い占め騒動も」(『週刊ポスト』一九九四年三月一八日)といった、ほぼ肯定的な紹介記事がつづくことになる。「?」は単独で使われることはなく、せいぜい「!」と併用され、プラスイメージを付与する「!」が頻用される。

 一九九五年に一件になっているのは、新奇性がいったん失われたためであろう。プロポリスの存在そのものは一般に知られるようになり、健康食品として定着したとメディア側が判断したためと考えられる。その意味で、この年が現在(二〇〇〇年)に連なる段階へのひとつの節目である。その他、夕刊紙やスポーツ紙などの動向も考えあわせなければならないが、きりがないので本稿では割愛する。今度は時間軸で整理してみよう。

4 プロポリス言説圏の社会的構築過程

 もともとプロポリスは東欧の民間薬として使われてきたものである。それが日本において高い評価を獲得するようになったのには、それなりのきっかけがあった。五段階に整理してみよう。

 第一段階は、ヨーロッパでの再評価の動きである。いわばこれが前史にあたる。一九六六年、フランスのレミ・ショウバン(ソルボンヌ大学生化学室長)が「昆虫を侵すバクテリアの研究」の中でプロポリスが天然の抗生物質様成分をもつことを発見する。これはニュースになったようで、それを見たデンマークの養蜂家ルント・アーガードが自ら実行してみたところ効果があり一九六七年から研究を開始、一九七三年まで続ける。この成果はのちに『プロポリス――それは健康への道』としてまとめられたが、このふたりの研究がヨーロッパでのプロポリス再評価の流れを構築することになる。一九七二年には第一回国際プロポリス・シンポジウムがチェコスロバキアで開催されるに至った。この流れは基本的にミツバチ科学の枠組みの中で生じている。

 そして決定的だったのは一九八〇年にルーマニアのブカレストで開催された第五回国際プロポリス・シンポジウムでのベント・ハーブステン(ドイツのキール大学)の報告だった。タイトルは「フラボノイドを多量に含むプロポリスの生化学的作用」というもので、ここで植物性色素フラボノイドが一躍注目され、生化学的研究の道が開かれた。なお、ドイツでこのような研究がなされた背景にはレホルム運動※が関係しているようである。

 日本での再評価は明確に一九八五年から始まっている。これが第二段階である。業界団体の評価が構築されたのは、この年名古屋で開催された第三〇回アピモンディア国際養蜂会議(名古屋)でプロポリスの治療効果に関する複数の報告(東欧諸国のもの)がなされたことによる。日本人三人もミツバチ治療学分科会で「日本産プロポリスの化学成分および抗微生物活性」を報告し、これで日本にプロポリスが広く知られるようになる。日本の養蜂家たちはここから動き始める。瀬長良三郎『プロポリスの驚異』が一九八七年三月にでたのを皮切りに、九月には深沢光一『プロポリス健康法』、翌年七月には徳永勇治郎『即効!!プロポリス健康法』と、いわゆるプロポリス本が出版され始める。

 一九九〇年、松野哲也(国立予防衛生研究所ウイルス室長)が、偶然手にしたブラジル産プロポリス(ミセル化抽出物)から、プロポリス研究に着手する。

 そして一九九一年に第三段階が始まる。この段階で大衆的評価が一気に構築されることになる。きっかけは、この年、第五〇回日本癌学会において松野哲也がプロポリスの抗ガン効果について報告したことである。これがのちに「ガンに効く」としてマス・メディアに紹介され大きな反響を与えることになった。その突破口を開いたのが翌一九九二年五月の『文藝春秋』に掲載された大朏論文で、これによってプロポリスは一気にポピュラーになる。つづいて九月四日『週刊朝日』の「黒いヤニ ミツバチが集める謎のプロポリスはガンに効く!?」も松野報告をあつかっている。また、これらに先行して、一九九一年一一月二五日には『朝日新聞』がフラボノイドの抗ガン作用の研究(小野克彦グループとマーク・フィッシャーのグループの研究)を紹介している。

 じつは一九九一年という年は健康食品全体がブレイクした年でもあった。『健康・栄養食品事典』(奥田 1998)によれば、この年、数々のヒット商品が登場したという。ウーロン茶、杜仲茶、キチン・キトサン、DHA、クロレラ、ニンニク食品がそれである。この年九月から厚生省が特定保健用食品制度を導入し、健康食品業界に活気がみなぎったことも誘因としてあったようだ。特定保健用食品とは「健康表示」(健康への効用を示す表現)を厚生省が許可した食品のことである。多くの健康食品がすぐに指定を受けるというわけではなかったようだが、この制度の導入が業界全体に明るい雰囲気をつくっていた。

 一九九三年の第五二回日本癌学会総会で今度は林原生物化学研究所がプロポリスの不活化作用(ガン細胞増殖を抑制する働き)を実験で確認したと報告する。この研究所は丸山ワクチンでも知られるところである。このあたりから「ブラジル産プロポリスの抗ウイルス作用」(『生薬学雑誌』1993)といった論文が発表されるようになる。つまり研究テーマとしてひとつの領域が学術的に構築されたと言える。

 第四段階はプロポリス差別化の時代である。一九九五年前後からプロポリスそのものについて新奇性はなくなり、定着したと言ってよい。そのかわり参入業者が増加し、競争が激しくなった。各社は他社の商品との差別化を主張するようになる。表5に示したように、タイトルにプロポリスが含まれた本の年ごとの刊行点数を並べてみると、一九九五年から一九九七年が大きなピークになっているのがわかる。このピークは、もちろんバイブル商法的な側面をもつが、同時に差別化志向がもたらしたものと位置づけることもできる。このころから抽出方法と原産地のちがいを強調するものが俄然多くなるからである。漠然とプロポリス・ブームに乗っかるだけでは不十分で、自己主張せざるを得ない状況が生まれていると言えよう。

 そのさい特に焦点にされているのが抽出方法と原産地である。抽出方法については、従来のアルコール抽出の限界が指摘され、水抽出と超臨界抽出が提案されるようになった。原産地についても、現地の植生しだいで成分がかなり変化するところから、中国産かブラジル産か、ブラジルでもどこがいいのか、といったことが論点となる。

 差別化は他のプロポリスおよびプロポリス言説への批判をともなう。したがって、この段階からマイナスイメージの言説もでてくるようになる。ただし、それは「粗悪品があるのでご注意を」という文脈に限定される。

 プロポリス言説圏内部では、今日までほぼこの状態が続いていると見ることができるが、外在的な総論的批判がプロポリスそのものにも波及しつつあって、これを第五段階の始まりと見ることもできる。これは、正規科学の専門家たちからの批判言説がでてくる段階である。これは一九九八年あたりから始まっている。加熱する健康食品ブームに水を差す動きである。栄養学者や医師や薬剤師など、制度化されたプロフェッショナルにとって、現状はもはや放置できなくなったということだ。

 まだ大きなメディアは注目していないが、おそらく近い将来、大規模な副作用事件が生じたときに社会部的正義感※に火がついて、こちら側の言説が一気に加熱する可能性がある。とくにプロポリスは「切れがいい」だけに、問題点もはっきりと指摘しやすい。すでにここに注目する論者も出てきているので、社会問題化するのはそう遠くないと思われる。執筆時点ではそういう雰囲気である。

 では現在、ひとたびプロポリス言説圏に入った人がどのような言説に遭遇することになるのか。紙数の関係でプロセス抜きの印象批評的な説明にならざるを得ないが、それなりに共通するものと変奏されるものとに分けて整理しておこう。

 第一に、それは徹底した自己中心性の言説である。他の民間医療や健康食品については言及しない。と同時に他の健康食品を批判する言説もまたほとんどない。禁欲的なまでの自己完結性と言っていいかもしれない。それは神話について語ったレヴィ−ストロースの次の説明そのままである。「中心にどんな神話を選ぼうとも、その変異形がその周囲に広がっていて、バラ模様の形を作っているのです。それがだんだん広がっていきながら複雑な形を作り上げる。またそのバラ模様の周辺に位置している変異形を一つ選んで、それを新しい中心に据えるとしますね。すると同じことが起きて、別のバラ模様が描き出されるのです。この新しいバラ模様は、最初のバラ模様と部分的には重なり合っていますが、それからはみ出したところもある。」(レヴィ=ストロース 1988=1991:230)

 おそらくバラ模様を描くプロポリス言説圏の場合も、アガリクス言説圏、クロレラ言説圏、キチン・キトサン言説圏、霊芝言説圏、そして赤ワイン=ポリフェノール言説圏などと相互に重なり合いながら、それぞれの自己中心的世界を描くのであろう。比較の視点は用意されない。

 第二に、それは実証への強い意志に満ちた言説である。プロポリスの場合、癒しという曖昧なものではなく、基本的には自然科学的実証性がめざされている。しかし、じっさいには業者が実証する手だてをもたないために、結局、体験の重みに依存せざるを得ない現実がある。もっぱら「自分でじっさいに試してみろ」という原始的な説明モデルである。それゆえに、一方では難問としての「ガンの治癒」を謳うとともに、他方で「何でも効く」と万能な薬効を謳うことが可能なのである。この説明モデルの問題点は、俗流化された科学的実証性の観念に寄生しながら、真正の科学的実証性でないことにあるのではなく、むしろ、いくらでも「あとづけの解釈」が構築できる点にある。プロポリス解説書には夥しい数の体験談が掲載されているが、「思えば、あれがそうだったのか」といった「あとづけの解釈」がなされるパターンが多い。じつはこの「あとづけの解釈」そのものがクライアントの「納得」を支えている。

 第三に、環境的言説とのリンクが過剰になされている、開放的な言説である。天然の物質であることが終始繰り返され、民間薬(薬・薬効)としての歴史性と伝統が強調される。フィトンチッドによる森林効果的癒しのあることも付随的に指摘される。自然治癒力を軸にした代替医療との親和性ある説明もおこなわれる。近代医療批判も厳しい。とくに病院での医療の無力さについては厳しく指摘される。これら、読み手にとって肯けるような言説群との連接をつけることに腐心する。この点については、論理的にルーズである。しかし、注意しなければならないのは、世の中に流通しているそれらの各種言説の中心にはプロポリスが位置づけられているのであり、そこにはプロポリスしかないのである。

 次に、変奏されるのはどういうものか。一点だけ指摘しておこう。それは好転反応についての説明である。

 一部の研究者をのぞくと、多くの解説者が好転反応という概念を使用する。これはプロポリスを服用し始めたときに生じる一連の障害をさしている。吹き出物がでたり、身体が急に重く感じられたりする。これがまさにプロポリスの「切れの良さ」と言われるゆえんなのであるが、初心者はびっくりしてしまうので、あらかじめ予期された好転反応であることが強調されるのである。「身体の中の毒素がまずでてくる」というような説明がされる。

 しかし、それを認めない人たちもいる。それは生化学系の研究者である。たとえば松野哲也は「これを、いわゆる”好転反応”とする考え方もありますが、特にその根拠はありません」として、「一種のアレルギー反応」と見なすべきだとしている(松野[5]94-95)。それゆえ、かれはあえて「副作用」と呼ぶ。好転反応言説についてはいずれ機会を改めて論じなければならないが、最近では健康食品全般に使われるようになっている。現象自体については誰も否定しないので、これは完全に解釈とレトリックの問題である。

 また、これを品質の問題として定義する言説もある。一九九二年八月アルゼンチンでプロポリス服用者が一二人死亡した事件があり、製造したウィレン社がジエチレングリコールを使用したのが原因とされているが、これを典型例として「粗悪品に注意しろ、うちのは安全です」というところに持っていくものである。

 以上、まったく簡略な論点にとどまるが、紙数の関係でここまでにしておこう。これらは民間医療言説圏全体にある程度共有されている言説類型であることが予想できる。批判的言説分析の手法を用いて詳細な検討が可能であるが、それは別の機会に譲りたい。

5 制度的立場からの逆襲

 プロポリス関係で社会問題になるケースがないわけではない。『朝日新聞』一九九五年一〇月二五日付朝刊30面には「1億8000万円脱税容疑 健康食品ブームで急成長の企業を告発」という見出しで、東京国税局による業界大手「蜂の宝本舗」の脱税容疑告発を報じている。四億八千万円の所得隠しというから規模は大きい。

 また『朝日新聞』一九九六年一一月二七日付朝刊34面では「健康食品『プロポリス』を薬として無許可販売 容疑の社長らを逮捕」の見出しで、「がんに効く」といった効能や服用者の体験談を載せたパンフレットなどをつけてプロポリスを販売した疑いで健康食品卸会社社長ら四人を逮捕したと報じている。

 これらは、おきまりの脱税事件であり無許可販売のニュースの枠組みに、プロポリスがはまった形になっている。アガリクスでもウコンでも霊芝でもいいのだろうが、ちょうどこのころプロポリスが「旬」だったのだろう。そういう位置づけだったことがうかがえる記事である。

 これに類した記事を『毎日新聞』で探してみると、東京本社版では一九九六年七月に連続して三件の記事を社会面で報じている。七月三日付夕刊4版では「健康食品プロポリス 『がんに効く』と販売」の見出しの三段の記事を掲載している。「医薬品でないのに『がんに効く』と薬効を宣伝したポスターをJRの駅に張るなどして健康食品『プロポリス』を販売したとして」販売会社社長が薬事法違反容疑で逮捕されたとしている。その翌日には続報として「女優使いPR」という二段記事が掲載された。

 ところが、今度はまったく意趣の異なる記事が五日付で掲載された。「月100万円で契約同意 プロポリス製造会社と予防衛生研の室長 研究委託の報酬」という見出しの七段記事である。記事によると、室長はプロポリスの販売製造メーカーから月額百万円の研究委託契約を結び報酬を受け取ろうとしていたことが国家公務員法の副業禁止違反のおそれがあるというもの。つづいて記事はおもに室長の釈明を掲載しているが、要するに「未遂」であるので、その後の続報は見つからなかった。この記事は31面に掲載されているのであるが、その反対側紙面の30面では薬害エイズの連載記事があり「企業との癒着を絶て」との見出しになっている。

 これは前後の流れから想像して、プロポリス問題で業界を取材していた中で得られた公務員汚職の特ダネという感じであるが、問題とされたのが国立予防衛生研究所の松野哲也室長だったことはかんたんに特定できる。渡米直前で退職予定であったのが、体調を崩して渡米が遅れたようで、退職のタイミングが遅れてしまい、報酬を受け取る時期が退職前に来てしまったという事情のようだ。

 すでに紹介した松野哲也[5]の「追補――改訂にあたって」は一九九六年八月五日付で「ニューヨークへの転居を控えて」となっている。この中でかれは「私が、自分にとっても未知で不思議なこの物質に対する興味のみで仕事を進めてきたのに対し、世の中では、プロポリスがお金もうけの手段であり、正確に言えば、お金そのものであることをうかつにも気付かず、多大な迷惑をこうむりました。公務員の立場を離れ、アメリカ・コロンビア大学で私財も使いながらプロポリスに含まれる有効成分の解明に邁進するつもりです。」(松野[5]:206)と述べていることは、この報道に対応しているのであろう。「私財も使いながら」と書いているところに無念さがにじんでいる。

 ここで事実がどうであったかについては問わない。私たちが注目しておきたいのは、一九九五・九六年あたりに、社会部的正義感に基づく批判的まなざしがプロポリスに向けられているということである。スキあらば突こうという姿勢がここにはある。

 プロポリス研究の第一人者である松野が国立予防衛生研究所の室長であったことは別の文脈でも注目された。それは国立予防衛生研究所(一九九七年から国立感染症研究所に改組)の移転問題に対する運動団体に研究所の体質の証拠として語ることを可能にした。

 感染研の移転問題については反対運動が起こっている。訴訟を起こした反対運動団体のサイトには次のような記述が見られる。

「*92/11/12 『健康産業流通新聞』の『プロポリスの抗腫瘍作用を確認、松野哲也・予研室長が発表』の記事。後述『毎日新聞』(96/7/5)で報道された松野哲也予研室長がすでにプロポリス会社と癒着していたことを示す。だからこそ、後者は癌学会での発表を事前に知り取材して宣伝記事を作り上げた。予研の企業との癒着体質を示す]」(http://village.infoweb.ne.jp/~yoken/nenpyou04.html)

 これ自体を見るかぎり、いささか強引な言説と思わざるを得ないが、しかし、それをあえて市民団体が指摘するのは「プロポリス」のもつ「金まみれ体質」と「インチキくささ」のマイナスイメージを運動資源として利用しようとしているからである。日本の旧左翼系科学主義による対抗言説(日本型市民主義)はもともと商業主義との距離をおく。基本的には素朴な啓蒙主義なので新宗教・神秘主義・迷信などを頭ごなしに否定する。そういう立場からの批判である。

 総じて新しい健康食品や民間医療は、もともとヒッピー・ムーブメントや新左翼的文化(および新左翼くずれ的文化)と親和性がある。旧左翼的な運動論理と生理的にソリが悪いのは当然かもしれない。

 正規医療からの批判も本格的に始まった。かつては思いつき・頭ごなしの批判が多かったのだが、一九九八年あたりから本格的な対抗言説が出始めている。

 健康食品については高橋久仁子が栄養学の見地から批判する新書を公刊した(高橋 1998)。高橋はフードファディズム(Food faddism)ということばをキーワードにして、食品に対して過剰に薬効を期待する風潮を個々のアイテムごとに具体的に批判している。彼女は、そうした短絡的な食品情報に対してきわめてまっとうな栄養学的知識を対置する。その点では、じっさいに「氾濫」している「誤った知識」をていねいに拾っているにもかかわらず、穏健なヘルス・プロモーションの立場と言えよう。なお、プロポリスについては基本的な解説が中心で、若干の副作用報告のあることを指摘し、過剰な期待をしないよう戒めている程度である。しかし、流通するメディア言説を調査し、批判的分析を加える姿勢はそれまでの制度的立場の人たちにはなかったものである。

 それに対して『アトピービジネス』(竹原 2000)は周到かつ攻撃的である。これは日本で最初の本格的な「正規医療からの逆襲」と言ってよい。この逆襲には理由がある。アトピー性皮膚炎の治療には通常ステロイド剤が使用されるが、民間医療はその治療法を悪魔化することで成立しているところがあるからだ。治療現場では患者の信頼を戻すところから担当医が始めなければならないというシビアな現実がある。民間療法で症状を悪化させるケースも多いという。この本は日本皮膚科学会の「アトピー性皮膚炎不適切治療健康被害実態調査委員会」(一九九八年一〇月発足)での議論に即して書かれているが、そのような実態に対して正面から向き合おうという姿勢が濃厚である。そのため、本稿の用語法で言えば「アトピー言説圏」の分析を大量にふくんでいる。その意味では、たんなる揺り戻しではなく、批判対象についての分析をふくんだ対抗的メタ言説に位置づけることができるだろう。

 同様の試みとしては、小内亨「健康情報の読み方」(http://www.page.sannet.ne.jp/onai/)が本格的である。これはごく最近『危ない健康食品&民間療法の見分け方――それでもあなたは信じますか!』というタイトルで本としても出版されたが(小内 2000)、プロポリスについてはこのサイトの「プロポリスの副作用」(http://www.page.sannet.ne.jp/onai/Safety/Adv-propl.html)が、今回私の調べた範囲内ではもっとも徹底したものだった。小内もまたメディア言説を収集して詳細に批判している点で対抗的メタ言説に属する。

 このような議論は二〇〇〇年に入って、ひとつの言説圏を構築しつつある。『アメリカ医師会がガイドする代替療法の医学的証拠』(アメリカ医師会 2000)も翻訳され、基礎資料も少しずつ整いつつある。これらのシリアスな対抗言説は、脱神話化の点で影響力をおよぼしそうだ。今までは正規医療はときどき口汚く罵るだけで、まともに言及してこなかった。そのため一種の棲み分けが維持されてきた。それがここにきて論争的状況になってきたのである。しかし未だ健康食品・民間療法まるごと批判にとどまっているのが現状で、たとえばプロポリス使用者に有効なプロポリス批判をするには優に一書が必要であろう。すでに述べたように、プロポリス言説圏は広大なその環境的言説と連接されており、多少の批判を取り込めてしまうからである。「それは調査に使ったモノが悪かったのだ。後者のを使っていれば、そんなことはない。なぜなら・・・」というように。プロポリスの場合は品質が均一でないので、かえって批判をかわして我田引水するのに都合よくできているのである。また、医学的批判が教科書的なものに終始すれば、かえって感情的反発を誘発するかもしれない。そもそもプロポリス言説自体が、制度化された近代医療に対する「アンチテーゼ的知識」(サイード 1981=1986:185)だからである。

6 信頼と不信の重層構造

 サイードはいう。「いいかえれば、ここで扱っていることは、たいへん広い意味での解釈の社会集団である。多くの集団が対立しあい、多くの場合、文字通り戦う準備をしており、すべての集団が自らを創造し、明らかにし、自らの存在のまさに中心的な特徴として解釈を生み出している。」(サイード 1981=1986:68-69)かれが指摘しているのは「イスラム」をめぐるメディア言説状況のことである。これとまったく同様の事態がプロポリス言説圏を始めとする民間医療言説とその対抗言説のはざまで生じている。

 では、この言説状況においてクライアントたちはどのようなジレンマに陥っているのだろうか。あるいは、そもそもジレンマなどないのだろうか。

 クライアントが出会う言説群に整合性がなく対抗的状況にあるかぎり、基本的にクライアントはプロポリス言説圏とその対抗言説において社会的ジレンマに置かれていると考えるべきだろう。しかし、それはかなり複合的なジレンマである。ジレンマ・ゼロのケースもふくめて考えてみよう。

 最初のジレンマは、正規医療という正統システムか、民間医療という代替システムかというジレンマである。かんたんな理念型を構成してみよう。

 
正規医療への信頼××
民間医療への信頼××
状態相互補完制度依存対抗的投企脱システム

 「相互補完」は「いいとこ取り」の発想である。たとえば、『毎日新聞』一九九八年八月二四日付によると、都内八病院の外来で糖尿病治療を受けていた患者計八一〇人を対象に実施した調査で、その約半数が民間療法を併用していたという(立川相互病院の宮川高一副院長らの聞き取り調査による)。使われていた民間療法は二一四種もあった。民間療法を半年以上実施した人の八七%は治療を中断せずに、きちんと通院していたというから、この立場は多数派かもしれない。しかし、これには「相互作用」という落とし穴がある。2の「制度依存」は「いい病院、いい医者」にめぐりあえた場合にのみ充足可能であるが、近代医学の能力を超えたときはなすすべがない。3の「対抗的投企」は近代医療不信のケースであるが、世界観レベルの堅い信念をもたないかぎり、非常に不安定な状態になる。なぜなら制度的システムが用意されていないことが多いからである。たとえば先ほどの病院での調査では把握されない人たちになる。しかし末期ガンのように近代医学による治癒が望めない場合は、ここに活路を見いだすケースがある。プロポリスの場合は進行したガンやウイルス肝炎がそうなりやすい。そして4の「脱システム」。これは無作為の状態であるが、これまた把握不可能である。

 プロポリスの場合はどちらかというと「相互補完」におさまりやすいと思われる。なぜなら、プロポリス言説圏においてプロポリスは二者択一ではなく近代医療を補完するものと位置づけられることが多いからである。しかし、体験記には3の「対抗的投企」のケースもしばしば記述されている。

 第二のジレンマは代替システムの中のどのアイテムを信頼するかというジレンマである。これにはn個の選択肢がある。どれがカラダにいいものなのかについてアンテナを張り巡らし、試行してみることが日常的な仕事になる。かつてボードヤールが指摘した「ルシクラージュ」(再学習)である。この段階のジレンマは比較不能のジレンマである。すでに述べたように、メディアは比較をしない。それがタブーになっていると言ってもよいくらいである。たとえばプロポリス啓蒙者は「杜仲茶とどちらが有効か」といったことはけっして議論しないのである。その高度な選択をクライアントは引き受けなければならない。

 第三のジレンマは、同一アイテムにおける差別化の論理から何を選択するかというジレンマである。プロポリスの場合は、アルコール抽出がいいのか、飲みやすい固形状のものがいいのか、水抽出か、超臨界抽出か、原産国は中国かブラジルか国産か、といっためくるめく世界が展開している。調べれば調べるほどそのジレンマに閉じこめられてしまう仕掛けである。その有効性や副作用がプロポリス一般の問題なのか、その製品の問題なのかがまったく特定できないまま、放浪してしまうこともあるだろう。しかしこの放浪(消費)は、むしろ、そのジレンマを解決するための能動的行動なのだ。

 第四のジレンマは、主観的身体感覚という個人的経験と、プロポリス言説圏において展開される社会的物語とのいずれにおいて有効性の確証を得るかという問題である。多くの体験談(創作された体験談もふくむ)が示すように、両者がほどよくマッチするような感覚を得ることができれば理想的であるが、必ずしもそうとはかぎらない。プロポリス自体の多様性と身体的個人差の相乗によってヴァリエーションは無数に拡がりうるからだ。そのずれをどのように解釈するかがいつも問われている。民間医療においてクライアントはいつも孤独な評価者である。

 クライアントが健康言説において直面する複合的なジレンマは、とりもなおさず消費のジレンマそのものである。消費こそ現代の社会生活における快楽であり、そして困難な仕事である。それは幾重にも絡まった何本もの紐をほどく作業に似ている。それを解決するには相当な学習が必要であり、知識の絶えざる更新が欠かせない。メディア上の健康言説は、そうした学習に必要な知的資源を準備する。これが第一の仕掛けである。この仕掛けは正規医療も民間医療もスポーツやレジャーにも共通のものである。つまりメディアは、健康と病いについて能動的にふるまう仕方を日常的に提示し、クライアントは日常的に学習する。

 しかし、じっさいにはクライアントに「合理性の限界」があり、民間医療の道を選んだとしても、それについて自分にふさわしいアイテムが何であるかという追求を途中であきらめてしまったり、あるいはいつも試行錯誤の途中であったりする。つまり民間医療の多くのクライアントは宙ぶらりん状態におかれているのが実態なのである。その過程において一時的に信頼を担保するのがメディア言説である。つまり、正規医療の場合は専門家言説によって最初から容易に信頼を確保できるのに対して、民間医療はそれができない。メディア上に無数の解説と体験談を用意して、模範となるべき経過モデルを提示し続けなければ、クライアントの信頼を維持することがむずかしい。いきおい言説は過剰になる。

 さらに民間医療の場合は、試行錯誤中のクライアント自身でさえも、しばしばそれを語らなければならない場面に遭遇する。民間医療の場合、売る側だけでなく買う側にも自己言及性が高い。民間医療の言説圏では、そのための言説を解説や体験談といったさまざまな形で過剰なほど供給して、語りに活用しうるリソースを用意しているが、こうしたジレンマの中でクライアントたちは、むしろ他者に語ることで自分を納得させてしまう。納得の語りを促進するのもメディア言説の役割である。

 このように民間医療がメディア環境内に構築してきた信頼担保の仕掛けが、クライアントの具体的消費行動の誘因となっている。逆に言うと、今日の民間医療繁栄をもたらしたクライアントたちの消費行動は、この仕掛けの内部では、それなりに理にかなっているとも言える。その「理」を理解すべきであろう。

 以上、本稿ではメディア上の民間医療言説の構造を問うてきた。私自身、二年間ほど持続的にアルコール抽出の国産プロポリスを「服用」していた経験があり、それがおよぼす身体経験は知っているつもりである。それを抜きにして議論することのリスクが、ことプロポリスに関してはあるかもしれない。ある程度の刺激があれば、身体感覚が個々の言説を新鮮にたもつことがあるからだ。

 正規医療と民間医療――「メディア仕掛け」である点では、両者とも似たようなものである。しかし、正規医療においては公衆衛生やヘルス・プロモーションの名のもとに「メディア仕掛け」であることが正当化されているのに対し(税金も大量に投入される)、民間医療の「メディア仕掛け」の方は、「いかにもいかがわしいこと」に位置づけられてしまっている。しかし、私たちが見なければならないのは、いずれの領域であれ、健康言説はメディア媒介的に自己成就する仕掛けになっているということであって、その意味では「メディア仕掛けの民間医療」のいかがわしさは、「メディア仕掛けの正規医療」のいかがわしさでもあるのだ。

※本稿は、佐藤純一編『文化現象としての癒し――民間医療の現在』(メディカ出版、2000年)に執筆した「メディア仕掛けの民間医療――プロポリス言説圏の知識社会学」を一部改稿したものである。一つを除いて図表は省略した。

参考文献

・米国医師学会編, 2000, 『アメリカ医師会がガイドする代替療法の医学的証拠――民間療法を正しく判断する手引き』泉書房.

・デボラ・ラブトン, 1996=1999, 無藤隆・佐藤恵理子訳『食べることの社会学――食・身体・自己』新曜社.

・クロード・レヴィ=ストロース/ディディエ・エリボン 1988=1991, 『遠近の回想』竹内信夫訳, みすず書房.

・野村一夫, 2000a, 「健康クリーシェ論――折込広告における健康言説の諸類型と培養型ナヴィゲート構造」佐藤純一・池田光穂・野村一夫・寺岡伸悟・佐藤哲彦『健康論の誘惑』文化書房博文社.

・野村一夫, 2000b, 「健康の批判理論序説」佐藤純一・池田光穂・野村一夫・寺岡伸悟・佐藤哲彦『健康論の誘惑』文化書房博文社.

・奥田拓道監修, 1998, 『'98-'99 改訂新版 健康・栄養食品事典――機能性食品・特定保健用食品』東洋医学舎.

・小内亨, 2000, 『危ない健康食品&民間療法の見分け方――それでもあなたは信じますか!』フットワーク出版社.

・ロイ・ポーター, 1987=1993, 田中京子訳『健康売ります――イギリスのニセ医者の話 1660-1850』みすず書房.

・エドワード・W・サイード, 1981=1986, 『イスラム報道――ニュースはいかにつくられるか』浅井信雄・佐藤成文訳, みすず書房.

・島薗進, 1999, 「食――マクロビオティックの世界観」田邊信太郎・島薗進・弓山達也編『癒しを生きた人々――近代知のオルタナティブ』専修大学出版局.

・高橋久仁子, 1998, 『「食べもの情報」ウソ・ホント――氾濫する情報を正しく読み取る』講談社.

・竹原和彦, 2000,『アトピービジネス』文藝春秋.

・東洋医学舎, 1996, 『プロポリス健康読本1』(シリ−ズ健康の科学 3).

・植条則夫, 1993, 『広告コピー概論』宣伝会議新社.

・内田耕作, 1990, 『広告規制の課題』成文堂.

・八木橋伸浩, 1995, 「第三章 ウコン(鬱金)をめぐる癒し手段と民間療法的癒し」新屋重彦・島薗進・田邊信太郎・弓山達也編著『癒しと和解――現代におけるCAREの諸相』ハーベスト社.

・その他、プロポリス解説書多数。本稿では一覧表を省略。


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