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健康クリーシェ論(一〜三)


目次

初出 佐藤純一・池田光穂・野村一夫・寺岡伸悟・佐藤哲彦著『健康論の誘惑』(文化書房博文社、2000年10月20日)第二章の野村一夫「健康クリーシェ論――折込広告における健康言説の諸類型と培養型ナヴィゲート構造の構築」全11節のうち一から三まで。

 一 健康言説に関する予備的考察
 二 健康クリーシェと広告
 三 折込広告における健康関連広告

 四 近代医学模倣言説系クリーシェ
 五 伝統回帰・減算主義的言説系クリーシェ
 六 道徳言説系クリーシェ
 七 救済言説系クリーシェ
 八 身体アイデンティティ言説系クリーシェ
 九 自己言及言説系クリーシェ
 一〇 汎用言説系クリーシェ
 一一 ヘルシズムという共同言説空間

一 健康言説に関する予備的考察

社会構築主義とは何か

 本研究の目的は、現代日本社会において顕著な健康志向文化――かつてゾラが「ヘルシズム」と呼んだもの(Zola [1972]1997=1984)――について社会構築主義(social constructionism)の見地から分析することである。

 社会構築主義はスペクターとキツセの共著『社会問題の構築』(Spector and Kitsuse 1977=1992)を嚆矢として、さまざまな社会問題に適用されている分析視角であり、その中心的論点は、社会問題を「なんらかの想定された状態について苦情を述べ、クレイムを申し立てる個人やグループの活動」と定義するところにある。かれらは「ある状態を根絶し、改善し、あるいはそれ以外のかたちで改変する必要があると主張する活動の組織化が、社会問題の発生を条件づける」と主張する(Spector and Kitsuse 1977=1992: 119)。したがって「クレイム申し立て活動」(claims-making activity)に注目することが社会問題研究の中心課題だとする。*(1)

 構築主義は、ある状態が最初から「問題」と考えないし、「客観的に」問題だと定義することもできないとする。それは「問題」と定義する「クレイム申し立て活動」があってはじめて「問題」となると考える。たとえばトロイヤーとマークルによると、喫煙問題は、アメリカの反喫煙運動による「悪の創出」過程とそれに対する喫煙擁護勢力との「問題の定義」をめぐるせめぎあいの社会史として記述されるべきものである(Troyer and Markle 1983=1992)。  社会問題論におけるこの視角は今日では社会構築主義として各専門分野の経験的研究に採用されている。たとえば家族社会学では家族について語られる言説によって当の家族が構築されるとの視点による研究がある(Gubrium and Holstein 1990=1997)。また、近年の教育社会学でも構築主義による研究がさかんになっている(今津・樋田 1997; 上野 1996; 朝倉 1995; 北澤・古賀 1997)。

 一口で社会構築主義といっても、じつはかなりヴァリエーションがあり、社会学における社会問題論の領域では激しい議論も行われているが(中河 1999)、ここでは最大公約数的な意味において使用することにしたい。ヴィヴィアン・バーの整理を借りて整理しておくと、社会構築主義とは次のように文化や知識を理解する見方である(Burr 1995=1997: 4-7)。

(1)自明の知識への批判的スタンス
 世界が存在すると見える、その見え方の前提を疑う。なぜなら、人間が世界を把握するさいに使用するカテゴリーが必ずしも実在する区分を示すものではないからだ。

(2)歴史的および文化的な特殊性
 世界を理解する仕方・カテゴリー・概念は歴史的かつ文化的に特殊なものであり、相対的なものであるという認識を徹底する。

(3)知識は社会過程によって支えられている
 世界についての知識は、人びとが互いに協力して構築する。具体的には日常的な相互作用によって構築する。したがって、人びとが相互作用において日常的に使用する「ことば」が重要な意味をもつ。

(4)知識と社会的行為は相伴う
 世界を特定の「ことば」で理解することは、それ自体ひとつの社会的行為であり、ある種の社会的行為を支持したり排除したりする行為である。つまり知識は社会的行為なのである。

 社会構築主義では、人びとが日常世界においてものごとを理解するさいに重要な役割を果たす「ことば」すなわち「言説」(discourses)を主要な分析対象とする。その調査研究を「言説分析」(discourse analysis)と呼ぶ。社会構築主義は、歴史的・文化的に規定された特定の言説の自明性を疑い、その歴史的由来を調査し、文化的位置づけを探ることによって、その言説によって指示された現象の構築過程にアクセスしようとするのである。

健康と病いの社会学

 さらに医療社会学の文脈では、次の諸点が問題になる。サラ・ネトゥルトンによれば、近年の医療社会学は大きく転換しつつあるという(Nettleton 1995)。かんたんにいうと、その研究対象が変容しているのである。以前の研究対象は病院、医師、ナース、薬、救急箱といったものであった。それが今日ではそれらに健康食品、ビタミン剤、アロマセラピー、民間療法、サイクリング、ヘルスクラブ、エアロビクス、ウォーキングシューズ、ランニングシューズ、セラピー、趣味のよい飲み物、健康チェックといったものが加わった。メディアによる「健康関連問題」(health-related issues)への注意と、専門家以外の人びとによる知識の拡大が、その大きな変化である。要するに、もはや公式の医療制度に属するものだけが医療社会学の対象ではなくなったということだ。もはやそれは「医療社会学」ではなく「健康と病いの社会学」(sociology of health and illness)と呼ばれるべきだというのがイギリス系(オーストラリアをふくむ)の社会学的医療研究の新傾向となっている。

 ネトゥルトンは「健康と病いの社会学」の焦点が、西洋近代医学とそれに対するさまざまなリアクションにあるとする(Nettleton 1995: 3-5)。

 そもそも西洋近代医学は「生物医学」(biomedicine)をメインパラダイムとする。このモデルは五つの仮説を基礎とする。

(1)心身二元論(精神と身体は分離して取り扱うことができる)
(2)機械メタファー(身体は機械のように修理できる)
(3)技術的命令の採用(過剰な技術的介入)
(4)還元主義(生物学的変化によって病気を説明して社会的・心理学的要因を無視)
(5)特殊病因論の原則(19世紀の微生物病原説のように、すべての病気がウィルスやバクテリアのように同定可能な特殊な作用因によってひきおこされると考える)

 このような生物医学は、この二〇年ほどのあいだに多くの批判にさらされてきた。ネトゥルトンはその挑戦的批判の論点を六つあげている(Nettleton 1995: 3-5)。

(1)医学の有効性は強調されすぎてきた。
(2)身体を社会環境的文脈に位置づけるのに失敗している。
(3)患者を全体的人格ではなく受動的対象としてあつかう。
(4)出産を病気のようにあつかう。
(5)科学的方法によって病気の真実を確認していると想定しているが、じっさいにはそれは社会的に構築されたものである。
(6)医学的専門家支配の存続を許してきた。

 このような論点をカバーするものとして「健康と病いの社会学」が位置づけられる。そこで問題となるが医学的知識の社会的構築の問題である。

 一九七〇年代あたりに精神医学の現状に対する批判があいついで現れた。これがそもそもの発端であった。ゴッフマンの『アサイラム』やサズの『狂気の製造』がその代表的な研究である。さまざまな診断的カテゴリーの適用は問題を呼び起こし、医学的知識の適用は技術的に中立な営みというよりむしろ政治的な営みではないかと指摘された。この精神医学をめぐる議論は医学の他の領域にも適用されていく。その結果、あらゆる知識は社会的に偶発的(contingent)であり、医学的知識も社会的に構築されるものだということ、すなわち異なる他のありようにもなりえたということ、そして、病いに対する人びとの態度や常識的観念も社会的に構築されたものであるということが明確に指摘されるようになったのである。

医療的世界の社会的構築

 要するに、医学的な「事実」は社会的に構築されるのであって、私たちが前提している「安定した現実」もじっさいにはさまざまな言説的文脈の中で現実化されたものなのだ。その中で、あるものが問題とされ、他のあるものが問題とされないのは、ある社会集団が一定の条件のもとで特定の問題を発見し、さらには発明するからである。そのような社会集団が活動しなければ、どんな深刻な問題も「問題」として定義されないまま放置される。そして、ひとたび構築されたカテゴリー(たとえば特定の病気)は現存の社会構造を強化するために適用される可能性があり、その適用は社会関係をあたかも「自然」であるかのように見せる。とくに医療に関する専門的な言説は客観的であるとされており、そのためその社会的由来が見えにくくなるのである。社会的由来が隠されるために、医療の言説は社会統制の強力な制度としてしばしば作用する。つまり、それは権力として機能するということだ。近年は、従来の範囲をこえて、老化や出産といった領域にまで浸透しつつある。これを「医療化」(medicalization)と呼ぶが、こうした現象に対して社会構築主義は注意を促すのである。

 このような研究が、たんに医療専門家に適用されるばかりでなく、一般の人びとの健康観・ライフスタイル・リスク認識に適用されていくのは当然の流れである。「素人の健康観」(lay health beliefs)すなわち「健康についての人びとの理解と解釈、および健康に関連する行為」もまた社会的に構築されたものであり、それはエキスパートの知識的世界のたんなる従属変数つまり「医学的知識のうすめられたヴァージョン」ではないのである(Nettleton 1995: 37)。

 ネトゥルトンは、この分野での社会構築主義の新しい議論を五つの研究テーマに整理する(Nettleton 1995: 19-28)。

 第一に、現実の問題化。病気はたんにリアルであるだけなく、社会的推論と社会的実践の産物でもある。ひとつの実体としてはっきりと区別された病気が社会的文脈から独立に存在するのではない。それは医学が一定限の時間と空間のなかで実験室の試験と理論の助けを借りて定義する仕方なのである。したがって、それは「発見されたもの」ではなく、むしろ「製作されたもの」であり「発明されたもの」というべきだということ。

 第二に、「事実」の社会的創造。医学の主要対象(病気と身体)は「安定した現実」ではない。では、それらに対する考え方はいかにしてつくられたのか。この問いに対してはふたつのアプローチがある。クーンの科学社会学は、世界に関するあらゆる科学的「事実」は科学的共同体の産物であるとした。フーコーは、われわれが前提している安定した現実はじっさいにはさまざまな言説的文脈の中で現実化されるとした。いずれにせよ科学的事実の出現は科学的共同体と社会的文脈に関連する。

 第三に、医学的知識が社会関係を媒介するということ。病気カテゴリーは現存の社会構造を強化するために適用される可能性があり、その適用は社会関係をあたかも「自然」であるかのように見せることがある。病気のことばは客観的であるとされており、そのためその社会的由来が見えにくくなる。たとえば高い教育を望んだ一九世紀の女性たちは、しばしばヒステリーを患っているとレッテルを貼られた。また、「炭坑夫眼震症」と呼ばれた、一九世紀末の炭鉱労働者を患わせたある状態は、雇用者と労働者と会社と医師と法律家たちとのあいだで戦わされた討論と妥協の産物だという。このように病気カテゴリーはたんに科学的分析の産物のみならず社会的かつ政治的な闘争の帰結でもある。

 第四に、技術的知識の適用。医療専門家は、その本質的に卓越した営みゆえにヘルスケア分業内で優位な位置を獲得したのではなく、特定の技術的な手続きと実践の制御手段を作りだし維持することに携わってきたゆえに、そうなのである。

 第五に、医療化。医学は社会統制の強力な制度として作用する。それは、老化・出産・アルコール依存・子ども行動といった、従来は医学の対象と見なされてこなかった生活領域についての専門的知識にクレイムをつけることによってそうなるのだが、こうして医学は通常の生活のさまざまな側面を医学的問題として構築し再定義する。

 以上のネトゥルトンの整理によって明らかなように、「健康と病いの社会学」は、「生物医学」(biomedicine)をメインパラダイムとする西洋近代医学への厳しい批判のもとに生まれた。医学は、身体を社会環境的文脈に位置づけるのに失敗しているにもかかわらず、その有効性が過度に強調され、その結果、専門家支配が強化されてきた。それに対して社会構築主義は、医療専門家の知識と素人の知識をともにそれなりの妥当性をもつ知識として対等にあつかうことで、医学に対するもうひとつの「身体の経験科学」たらんとするのである。それは「身体の社会科学」の誕生といってよいのではないかと思う。

健康言説の諸類型

 社会構築主義的医療研究のポイントのひとつは言説分析にある。これはフーコーが切り開いた手法であるが、日本ではまだ経験的研究が始まったばかりである(黒田 1995; 佐藤・黒田 1997)。言説といっても、健康をめぐる言説(以下「健康言説」と省略)には、じつにさまざまなものがあり、その広がりと分節は、類型設定の基準の取り方によって多様な相貌を呈する。詳細な展開の必要な部分だが、試論的に四つの分類基準を提示しておこう。

 第一に、語る主体による類型群が考えられる。言説にはエージェントが明確なものと、そうでないものとがある。後者は主に引用的に言及される「匿名言説」。「〜といわれている」と受動態表現で語られることが多い。前者については「だれが語っているか」によって言説の構築効果と経過は異なる。大きく見ても、各種の医療専門家による「専門家言説」、メディアによって玉突き的に相互引用され増幅される「メディア言説」、そして専門家から見てクライアントにあたる「素人言説」の三種が考えられる。

 社会構築主義の視角から現在の健康文化を眺めるとき、その重要な構成要素は「素人言説」である。構築主義の視点から見ると、専門家言説による知識的世界もたいせつなのだが、素人の方の知識的世界も同様にたいせつな変数である。しかも民間医療や民俗宗教のコスモロジーが示すように、それはたんなる「医学的知識のうすめられたヴァージョン」(Nettleton 1995; 37)以上のものである。

 さらに「メディア言説」の構築的意義も強調しておきたい。メディアは現実を反映する鏡のような存在ではなく、それ自体が独自の現実であり、たえず社会的現実の構築に関与する。とくに注目しておきたいのは、メディアが言説に公共性を付与することである。メディアはできごとを公の場で議論できるできごとに変換する機能をもっている。*(2)

 第二に、「残余概念としての健康」か「積極的価値としての健康」かによる分類。まず健康は「問題状況の欠如としての健康」といえる。残余概念といっても、健康の対概念は病気だけではない。健康は「病気でない状態」としても語られるが、障害や老いや死やスティグマや不幸のない状態としても語られる。じつはこの広がりにこそ注目しなければならない。このあたりに専門家の言説空間と素人の言説空間の大きなちがいがあるわけで、たとえば従来的な公衆衛生専門家の方が健康に関する言説空間はあきらかに狭い。他方、「積極的価値としての健康」は身体文化のありように関連している。スポーツや肉体美やダイエットやファッションなど、消費文化の中で意味づけられた身体についての言説が中心である。健康が消費社会における幸福の代替概念に成り代わる事態さえある。まとめると、「残余概念としての健康」対「積極的価値としての健康」の二項は、「総体的スティグマ化の反転としての健康文化」か「肯定的身体文化としての健康」かという二項に整理できるだろう。

 第三の類型設定の基準として考えられるのは、「予防言説」(問題未然形)か「臨床言説」(問題対応形)かのちがいである。これは時間軸による分類である。「予防言説」の場合、健康に対するリスク因子について語られる。「環境としての健康」や「心の健康」になると、健康概念は限りなく包括的になると同時に道徳的傾向を強める傾向がある。他方、「臨床言説」は「病気言説」とほぼ同じである。特定の病いにフォーカスした臨床言説(痛みのことば)とフォーカスのあいまいな臨床言説(癒しのことば)がある。ただし、このそれぞれにおいて非健康な問題状況との「闘争」か「共生」かの選択があり、それによって様相はかなり異なるはずである。

 第四に、「個人意識の析出としての健康」(身体表象された自意識)か「社会の理想としての健康」か。健康言説が言及する対象の焦点は何か、それによって表象されるものは何かという基準である。個人にフォーカスする言説と社会にフォーカスする言説。前者の焦点は「ボディコンシャスな自我意識」にある。つまりアイデンティティ構築にかかわる行為として健康言説が語られるケースだ。ここでは「問題状況としての身体が自我(アイデンティティ)を構築する」という事態が問題になる。幸福概念からの健康概念の分離、その媒介としての医療化(身体化するまなざしを供給する言説の生産、それが健康文化)である。後者の「社会の理想としての健康」というのは公衆衛生的な言説や、感染症に対する社会防衛論的言説に見られるものだ。そのコインの裏側に逸脱の創出やレイベリング作用が存在し、一定の道徳的効果をもつことが多い。両者の相乗効果によって、「自己への配慮」がはからずも「支配の貫徹」に通底するという事態が生じることに留意したい。

健康言説分析の戦略

 以上、天下り式のごくかんたんな理念型ではあるが、一見平板に見える健康言説の空間的広がりと分節ぐあいを予想することで今後の研究の展望と焦点をえることができる。

 第一に、このようなさまざまな健康言説が重要なのは、「予言の自己成就」の社会的メカニズムによって健康文化の現実を構築するからである。「衛生」「養生」「清潔」「健康」「健全」「元気」「スリム」「スポーティ」「癒し」と、人びとは健康を語ることによって健康文化を構築し、拘束される。言語行為論の指摘するように、言説は指示する行為であるとともに事実行為でもある。健康言説によって自己(そして他者)の身体についてのモニタリングとリアクションが生じることになろう。したがって、言説の自己言及性に着目することが重要になる。

 第二に、意味空間の輪郭が不明確で、しかも指示範囲の広い一連の健康言説類型にとくに注目する必要がある。上記の理念型においてそれぞれ対立項の一端に位置する「匿名言説」「積極的価値としての健康」「予防言説」「社会の理想としての健康」がそれである。これらはたんに健康を語るだけではなく、健康を語ることを媒介に何かを指示する言説であり、「予言の自己成就」的に独自の現実を構築する可能性がある。「自己への配慮」がはからずも「支配の貫徹」に通底しているという事態を構築する言説類型である。このようなプロセスに対して、私はマスコミ論における「培養効果」(cultivation effect)に引き寄せて「培養型ナヴィゲート構造の構築」と呼ぶことにしたいと思う。この点では、たとえば戦時中やエイズパニック時などにさまざまなエージェントによって強調された公衆衛生的言説の果たした役割を想起したい。

 第三に、健康文化を構築するさまざまな「解釈の社会集団」(サイード)のダイナミズムの探求をすること。健康文化を構成する諸主体の内的過程と相互連関を浮き彫りにするエージェント別アプローチが必要であろう。ここではとくにメディア言説の重要性を強調しておきたい (Signorielli 1993) 。いずれにせよ将来的には社会史・文化史的な「分厚い記述」が必要である。

二 健康クリーシェと広告

クリーシェとは何か

 以上のような課題意識のもとに、手始めとして本稿では、健康関連広告におけるクリーシェの諸類型を抽出し、その健康言説が構築する培養型ナヴィゲート構造の基本性格を見定めることにしたい。さしあたり類型学的に言説世界の構成要素を把握することに努めたい。

 ここでいう「健康関連広告」(health-related advertisement)とは、健康を志向する商品およびサービスに関連する広告のことであり、具体的には医薬品・美容・健康食品・健康器具・整体・ダイエット・セミナーそして身体技法に焦点を当てた呪術的宗教などの広告をさす。もちろんこれでは膨大な作業量となってしまうので、本研究では媒体を絞り込むことにした。今回、調査対象として選択したのは折込広告である。折込広告は総じて洗練度が低く、語り口が直截かつ饒舌なため、かえって読解が容易だと判断したからである。さらに薬事法などを意識した自主規制も事実上ないに等しいという側面があり、あえてそこに期待した。

 クリーシェ(cliche`)は、「決まり文句」や「常套文句」と訳されるフランス語であるが、そのまま英語でも使われている。型にはまった陳腐な表現のことであり、長年にわたって乱用されてきた通俗的な言い回しのことである。

 多彩な広告表現の中で、とくにクリーシェに着目するのは、健康関連広告が、ヘルシズムを社会的に構築する言説(私たちはそれを「健康言説」と呼んでいる)のすでに重要な一部をなしており、ある種の典型性をもっていると考えられるからである。その中核が健康関連広告に表現されたクリーシェ的言説なのである。

クリーシェの機能

 文化社会学の研究者アントン・C・ザイデルフェルトは、理論的指針としてクリーシェを次のように定義している。

「クリーシェとは、社会生活のなかで繰り返し用いられることによって、それがもともともっていた巧妙で索出的な能力を失っている、(言葉、思惟、感情、身振り、行為による)人間の伝統的な表現形式のことである。それゆえにクリーシェは、社会的相互行為やコミュニケーションに積極的に意味を与えることはできない。だがそれは、社会的には機能している。クリーシェは、意味への反省をまぬがれている一方で、行動(認知、感情、意志、行為)に刺激を与えることはできるからである。」(Zijderveld 1979=1986: 21)

 つまり、クリーシェは、使い古されているためヴィヴィッドな意味は失われているが(言語上の化石)、しかし、それなりの機能を果たすというのである。たとえばザイデルフェルトは次のように指摘する。「クリーシェは、実体化されているという性質をもっているために、そしてまた繰り返し用いられるために、それ自身の自己推進力(モメンタム)を獲得しがちである。すなわちクリーシェは、社会のなかで個々人に対して相対的に自律的になる傾向をもっているのである。クリーシェは、内容と形式をあまり変えることなく世代から世代へとひき継がれ、他方、個々人は、日常的な社会生活のなかでクリーシェを使うことを学びながら、それらのクリーシェに適応していく。社会化の重要な部分は、クリーシェとそれに対する適切な感情的反射を教え学ぶことから成り立っているのである。」(Zijderveld 1979=1986: 35)健康言説もまた無反省に語り継がれることで、語る人たちを社会化すると考えられる。そこに注目したい。

 ザイデルフェルトは近代社会を「クリーシェ促進社会」だという。なぜかというと、近代社会においては「対抗し合っている複数の状況の定義が存在し、しかもそのいずれもが拘束力をもっていない」(ウィリアム・アイザック・トマスのことば)からである。近代社会においては、規範・価値・意味・動機がもはや伝統的な制度と結びついていないので、認知的に曖昧で、感情的に不安定で、倫理的に不確実である。こうした浮動的な状況においてクリーシェは確たる指針として機能する。「クリーシェは、認識を成り立たせる定点であり、拠り所となる対象であり、関わりをもつための安定した場所なのである。」(Zijderveld 1979=1986: 93-94)クリーシェは制度の代替物というわけだ。

 さらにかれはクリーシェにふたつの基本原理が作動していることを確認する。第一に、クリーシェは認知的反省をうまく逃れて、行動主義的な仕方で(機械的な刺激−反応として)人びとに行動を引き起こすということ(行動主義的な誘発機能)。第二に、そういう機械的反応が生じるまで何度も繰り返されるということ(Zijderveld 1979=1986: 111)。

 このようなザイデルフェルトの考察は、まさに健康言説にこそ当てはまる。「実際、クリーシェを切手やジョークのように収集する人がいるとすれば、おそらくその人は、死亡記事、お悔み状、弔辞のなかに豊富な探求領域があることに気づくだろう。」(Zijderveld 1979=1986: 121)まさにその通り。私たちはそれを健康関連広告に見いだし、ゴミの山からチラシ広告を探しては、そこであくことなく繰り返されているクリーシェの「自己推進力」(本稿では「培養型ナヴィゲート構造」)を想像するのである。

あとづけされた教義としての広告

 従来の広告研究が基本的に効果研究であり、しばしば行動科学的分析に依存していたのは、それなりの知識社会学的理由がある。けれども、もはや広告はそのようなマーケティング的なまなざしからのみ分析されるものではなくなっている。それは、現代文化の重要な構成要素であり、日常生活における私たちの意識や行動や身体をかなり深いレベルで規定しているはずである。*(3)私たちは、それをたんなる広告業界の自己正当化的スローガン(「企業や社会のお役に立っているのだ」という言説)としてだけではなく、自己批判的なまなざしでもって分析する必要があると考える。たしかに、すでに印象批評はおこなわれているが、さらに人文学的な深みと社会科学的な組織性が必要だろう。

 したがって、本稿では、健康関連広告が受け手に対してもつであろう広告効果の有無を行動科学的に検証することには関心がない。私たちの研究関心は「道具としての広告」の研究ではなく「文化としての広告」の研究にある。そこから「人びとが語る健康」がどのような現象であるのか、そして総体としてのヘルシズムが現代社会においていかなる作用を発揮しているのかを批判的に見定めたい。

 ところで日本では「健康志向」と一律に理解されているが、ヘルシズムという言説空間は平坦な空間ではない。むしろ異質なファクターが複雑にからみあう複合体であると予想される。なぜなら、健康を語る主体はひとつではないからだ。すでにふれたように、専門家・メディア・素人たちがそれぞれの集団的社会的規定性のもとで健康を語る。また、しばしば「〜といわれている」と受動態表現で引用される、語る主体の不明確な言説もある。広告はその一部である「メディア言説」にあたる。前節で確認したように、メディアはこと言説に公共性を付与する点では強力であること、できごとを公の場で議論できるできごとに変換する機能をもっていることが重要である。

 ただし注意したいのは、一部のメディア関係者だけが特権的に健康言説を作り出し、人びとを導くと考えてはならない。広告は共同言説空間である。これに関して私たちの導きの糸となっている考え方は、ヘルシズムが一種の民俗宗教(folk religion)として分析されるべきだということである。健康関連広告における言説はその「あとづけされた教義」と見なすことができる。人びとの自生的なコミュニケーションの中で培養され、それが広告言説に反映しているという側面に注目したい。広告は必ずしも人びとに先駆し誘導するものではない。あとから来て言説空間を構造的に組織化し公共性を付与する役割を担うのだ。本研究で広告を取り上げるのは、あくまでもこの観点からである。

三 折込広告における健康関連広告

調査対象

 本研究での基本作業は、さしあたり折込広告における健康言説(健康クリーシェ)を分類し、それらの諸類型間の関連づけを見いだすことである。

 素材として使用した折込広告は、筆者の居住地において一九九八年七月一日から九月三〇日までに配達された朝日新聞と毎日新聞に入っていたものと、一九九八年八月の産経新聞に入っていたものである。これら約一五キログラムの中から「健康関連広告」と見なされるものを選択した。この選択過程はかなり恣意的なものにならざるをえないが、すでに述べた趣旨に沿って選択した。新聞三紙の折込広告を収集したとはいえ、かなりの確率で重複しており、結果的には朝日新聞のみで収集しても大差はなかったというのが実感である。もちろん重複分は排除した。

 その結果、六三件が得られた。これは当初予想していたものよりもはるかに少なく、このこと自体が意外であった。当時の当地区では不動産関連広告が圧倒的に多く、それに比較すると、健康関連広告はごくわずかである。ただし読売新聞であれば、またちがった結果がえられたかもしれない。

 もうひとつ予想外だったのは、もっとも規制のゆるい広告として折込広告を選択したものの、意外に饒舌でないことだった。とくにドラッグストアの折込広告であると、どうしても値段が勝負どころになる。数字がことのほかモノをいうわけで、ここから経済合理性以外の何かを読みとることは困難である。そのため、健康関連広告の代表的商品といえる大衆薬については分析の対象からほぼ抜け落ちることになった。*(4)

健康関連折込広告の概要

 まず、今回収集できた健康関連折込広告の概要を示しておこう。別表の「健康関連折込広告資料リスト」(章末に掲載)をご覧いただきたい。これらは、収集した折込広告の中から健康関連広告と認められるもの六三点のうち、値段勝負のドラッグストアなどの形式的な健康関連広告やフリーペーパーなど三〇点を除いたもののリストである。したがって、実質的な健康関連広告と考えてよいと判断したものだ。言説分析はこの三三点についておこなう。なお、整理番号の順序は作業の順序によっている。

 この三三点が売ろうとする商品を種類ごとに分けると次のようになる。ただし一件重複がある。

(1)健康食品(ニガウリ茶、無添加食品、伝承すっぽんエキス粒、くろ源、シルキースリム、対葉豆、黄杞キトサン、ファット・ストップ・プチキッス、野菜ジュース、低農薬野菜、クロレラ)一八件(うちダイエット用食品三件)

(2)健康器具(禁煙楽々、シルク綿ブラウス、ピュアアロマボディソープ)三件

(3)化粧品(オージオスキンケアセット、酵素イオンパワー化粧品、基礎化粧品、天然原液スキンケア)四件

(4)ボディケア(脱毛、しわたるみ、美肌、ダイエット)三件

(5)療法(骨髄療法、気功、整体)三件

(6)セミナー(療法について)一件

(7)住宅(健康住宅、室内化学物質汚染対策)二件

 まず健康食品であるが、これらの特徴は、基本的にメーカーによる直接販売が多いところである。流通・小売り業者のものではないので、広告としてはかなり饒舌かつローテクで、センスはよくない。しかし、ハイセンスかつイメージ中心戦略でないところがかえって素材として興味深い。

 健康器具については、もっとたくさんあるのではないかと予想していたが、案外少なかった。通信販売業者のチラシにないことはないが、健康関連広告と見なすには説明が少なすぎる。無料で配布される通信販売カタログのように豊富なスペースがあってはじめて説明もゆったりなされるのだろうが、通信販売業者(流通・小売り)は返品やトラブルを恐れるため、過剰な説明を忌避するのではないかと推測される。今回の資料においても、「シルク綿ブラウス」と「ピュアアロマボディソープ」はじつはほとんど説明はなく、饒舌な「禁煙楽々」はメーカーによるものである。

 化粧品の広告は折込においてもしばしば見られる。しかし、大半はドラッグストアなどの小売り業者によるもので、ほとんど値づけ情報である。これらは美容に関するものではあるが、健康関連広告とはいえない。今回ピックアップされたものはメーカーの直接販売ないし営業所の広告であり、ドラッグストアなどに陳列された大手メーカーの商品との差別化をするために、健康関連言説を駆使しようとするのである。

 ボディケアとまとめたものは、美容サービス一般と区別されている。美容そのものは「身体の美」に関するものであって「身体の健康」に関するものとは別系列である。今回リストアップしたものは、それらの中にあってあえて「身体の健康」を志向しているものであり、その分、イメージ依存というより生々しい比較写真と体験談が主役になっている。

 療法の広告は一種の医療広告である。新規開院の診療所のチラシとそれほど変わりはない。ただし、醸し出される雰囲気は伝統的な中国風で、ぶっきらぼうで漢字が多い事典説明のようだ。

 一件しかなかったセミナーも療法の一種なのだが、実体がよくわからない。その説明自体が商品なのだから当然だが、思わせぶりな説明には注目したい。

 最後に住宅であるが、これについては若干の注意事項がある。近年、ホルムアルデヒドなどによる室内汚染が問題になっており、シックハウス症候群として社会問題化している。今回の調査においても、折込広告の相当数を占める住宅関連広告についてこの点を注目していたが、予想に反してこの点を強調したものは少なかった。現在の標準的な工法では抜本的な対策がむずかしいため、安易に強調できないためと思われる。今回は二件だけがそれをメインにしていただけだった。

 素材については以上である。サンプルは少ないだろうか。その選択性に問題はないだろうか。数量的配慮がなさ過ぎるのではないか。そういう疑念は存在する。けれども、健康言説の世界の見取り図を得るという今回の目的に限定すれば、調査件数の不足は本研究にとって網羅性を若干損なうだけである。それはまた別の機会に別の媒体などで補えばいいのである。少なくともいえることは、「健康を語ることば」を求めている人がこの期間に折込広告に見いだすことのできるほぼすべてを網羅しているということだ。

 折込広告の特徴は、それが読まれる現場において、自己完結した世界が提示できることである。スポットCMのように前後の広告に左右されない。新聞や雑誌の広告のように、隣接する広告に左右されない。読者が新聞に挟まれた多くのチラシをめくって、一枚を引き出したその瞬間に、チラシは完結した世界観を提示できる。したがってその広告が提示する世界観が重要である。ここにも注目していきたい。*(5)

 四 近代医学模倣言説系クリーシェ
 五 伝統回帰・減算主義的言説系クリーシェ
 六 道徳言説系クリーシェ
 七 救済言説系クリーシェ
 八 身体アイデンティティ言説系クリーシェ
 九 自己言及言説系クリーシェ
 一〇 汎用言説系クリーシェ
 一一 ヘルシズムという共同言説空間

*本稿のうち「一 健康言説に関する予備的考察」は、池田・野村・佐藤(1998)のうち、野村の担当分「I 構築主義による健康文化へのアクセス」を改稿したものであり、「二」以降は、池田・佐藤・野村・寺岡・佐藤(1999)における野村の担当分「第3章 健康言説の諸類型――クリーシェ諸類型と培養型ナヴィゲート構造の分析」を改稿したものである。

(1)構築主義的社会問題論については、中河(1989)、中河 (1990)、とくに中河(1999)参照。中河(1999)についての筆者の見解は野村(2000b)で示した。

(2)メディアが独自の現実を構築する点については議題設定機能研究や沈黙の螺旋理論や培養分析で指摘されてきたことである。さらに公共性付与についてはTuchman(1978=1991) 参照。

(3)この点については、ブルデューの「ハビトゥス」(habitus)に関する議論を参照されたい。ピエール・ブルデュー『ディスタンクシオン――社会的判断力批判(I・II)』藤原書店、1990年。

(4)医薬品広告については、日本でもすでにいくつかの研究がなされている。松山(1989)、松山(1990)、黒田(1998)参照。

(5)折込広告の草の根性に注目した論考として長尾(1997)がある。

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SOCIUS.JPドメインへの初出 1/19(Sun), 2003  
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