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社会学感覚

15 現代家族論

15−1 家族機能の変容――伝統家族と現代家族

伝統家族の機能

 家族は社会に対して、また個人に対して、さまざまな働きをしている。そうした働きのことを「機能」(function)という。「機能」は、意図してそういう働きをしていることでなく、結果的にそういう働きをしてしまっていることをさす。現代家族論にさいして、家族が結果的に果たしている機能にはどんなものがあるか、ということから始めよう▼1

 世界的視野からみると、家族には、大きくわけて五つの機能があるといわれてきた。

 (1)性的機能――結婚という制度は、その範囲内において性を許容するとともに婚外の性を禁止する機能を果たす。これによって性的な秩序が維持されるとともに、子どもを産むことによって、社会の新しい成員を補充する。

 (2)社会化機能――家族は子どもを育てて、社会に適応できる人間に教育する機能をもつ。子どもは家族のなかで人間性を形成し、文化を内面化して、社会に適応する能力を身につけていく。

 (3)経済機能――共同生活の単位としての家族は生産と消費の単位として機能する。

 (4)情緒安定機能――家族がともに住む空間は、外部世界から一線をひいたプライベートな場として定義され、安らぎの場・憩いの場として機能する。

 (5)福祉機能[保健医療機能]――家族は家族成員のうちで働くことのできない病人や老人を扶養・援助する働きをする。

 これらは伝統的な家族には大なり小なり観察される機能である。ところが、このような家族機能を現代家族にそのままあてはめるとなると、大きな問題につきあたることになる。

現代家族における家族機能の縮小

 たとえば、性的機能についてみれば、結婚以外の性に対する統制力がゆるんだため、婚前交渉や不倫などのように性的関係がかならずしも夫婦だけの特権的なことでなくなったし、少産化傾向や後述するディンクスに示されるように、子どもを産むことが家族の必要条件ではなくなってきた。子どもの社会化についても、もはや社会化のエージェントは学校や塾・スポーツクラブそしてマス・メディアヘと主軸が移動しつつある。また経済機能も、第一次産業中心の時代にもっていた生産の場としての機能はほぼ喪失したといっていいだろう。生活維持の責任を家族が負う形で、いまはかろうじて消費の単位であるにすぎない。

ゲマインシャフトとしての家族

 こうした変化のなかで、経済機能のように家族にとってかならずしも本質的でない機能は外部に排出されるが、情緒安定機能や福祉機能のように家族でなければ果たせない専門的な機能の重要性は増すという考え方がでてきた▼2。これは、たとえば多くの人が「安らぎの場」として家族を位置づけ、老後は家族とともにすごしたいと考えている社会意識状態にほぼ対応している。

 社会学でも一九六〇年代まではそう考えることが多かった。古くはフェルディナンド・テンニエスの『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』が家族の超歴史的かつ通文化的な本質を〈ゲマインシャフト〉に求めている。ゲマインシャフトとは「信頼にみちた親密な水いらずの共同生活」のことだ▼3。テンニエスは「家族生活は、ゲマインシャフト的生活様式の普遍的な基礎である」としていた▼4。また、クーリーは家族をフェイス・トゥ・フェイスの親密な結びつきと協力を中心とする「第一次集団」(primary group)に位置づけ、家族の社会化機能を重視した▼5。そしてパーソンズは社会化機能と情緒安定機能――かれのことばでは「子どもの社会化」と「成人のパーソナリティの安定化」――に家族の本来的機能をみた▼6。このような考え方は〈ゲマインシャフトとしての家族〉論と総称すべきものであり、多分に理想的局面――より正確にはイデオロギー的局面――をもっていた。

 ところが、この考え方は現在いくつかの現実的局面から挑戦を受けている。第一の局面は共働きによる家族役割構造の変化であり、第二の局面は高齢化によってつくりだされる福祉構造の変化であり、第三の局面はライフスタイル意識による家族形態の多様化である。この三つの局面をぬきにして現代家族を語ることはできない。結論からいうと、この三局面は〈ゲマインシャフトとしての家族〉が現代において幻想あるいは幻影であることを鮮明に提示しているのである。本章ではここに論点をしぼって、家族についての常識的知識を洗い直すことにしたい。

▼1 家族機能についてのスタンダードな説明として、森岡清美・望月嵩『新しい家族社会学』(培風館一九八三年)一九章参照。
▼2 前掲書。
▼3 F・テンニエス、杉之原寿一訳『ゲマイシャフトとゲゼルシャフト――純粋社会学の基本概念』(岩波文庫一九五七年)(上)三五ページ。
▼4 前掲訳書(下)二〇二ぺージ。
▼5 C・F・クーリー、大橋幸・菊池美代志訳『社会組織論』(青木書店一九七〇年)。
▼6 パーソンズ、ベイルズ、橋爪貞雄ほか訳『核家族と子どもの社会化』(黎明書房一九七〇−七一年)。

15−2 家族の役割構造――共働きによる構造変動

性別役割分担

 家族の役割構造の基本となっているのは、「男は仕事、女は家庭」「夫は外、妻は内」という性別役割分担である。たとえばある調査によると、九割近くの家庭が「生活費を得る」のを夫(父親)の役割としているのに対して、掃除洗濯・食事のしたく・食事のあと片づけ・家計管理・日常の買い物は、ほぼ九割の家庭が妻(母親)の役割になっている。また、子どものしつけと勉強・親の世話・近所づきあい・親戚づきあいがもっぱら夫の役割という家庭は一割以下である▼1

 性別役割分担はあたかも封建時代の遺物のように論じられることが多いが、日本の場合、「男は仕事、女は家庭」式の性別役割分担が一般化したのは、ちょうど高度経済成長が本格的にはじまった一九六〇年あたりからのことである。家事労働だけに携わるいわゆる「専業主婦」が一般化したのも同じころと考えてよい。もちろん一部の上流・中流の家庭ではずっと早く性別役割分担は存在していたが、多くの一般庶民は農業を中心とする職住一体の生活をしており、ともに家業に従事していた。広い意味での「共働き」だったわけだ。性別役割分担はいわば近代の産物であり、これを日本古来の伝統とみなす考え方は一種のイデオロギーなのである▼2

 六〇年代に〈腰かけ就職→退職・結婚→主婦として出産・育児〉という女性の生活史のスタイルが確立するが、このころから育児を終えた既婚女性の職場進出がさかんになる。いわゆる「M字型就労」のはじまりである。つまり〈腰かけ就職→退職・結婚→主婦として出産・育児→パートタイム〉というパターンである▼3。そして現在、少なく見積もっても八〇〇万組をこえる共働き家族が存在し、これに農業や商工自営をふくめると一五〇〇万組以上の共働き家族が日本に存在する▼4

 この場合の「共働き」は、伝統的な意味での共働きではなく、妻の賃労働者化をともなう共働きのことである。この意味での共働き家族の圧倒的な増加によって、家族のあり方が大きく変わりつつある。

新・性別役割分担と女性の二重役割

 共働きの目下の主流パターンは〈夫定職・妻パートタイム〉である。出産と育児が一段落したのち妻がパートタイムとして再就職する形だ。なぜパートタイムかというと、夫の了解をえるさい「家庭内のことをおろそかにしない」という条件をつけられているからである。家事と子どもの世話を専業主婦なみにこなそうとするとフルタイムではむりなケースが多いのである▼5

 この場合の問題点は、家庭の責任は妻が負うという前提に夫も妻も立っていることだ。つまり、夫と妻が対等に家庭責任を負担するものだという認識が希薄なのである▼6。こうして「男は仕事、女は家庭と仕事」という「新・性別役割分担」が成立する。つまり、妻は賃労働者の役割と家事労働者の役割というふたつの役割を同時に背負い込むことになる。

 この場合、二重役割を抱えた妻は微妙に役割葛藤を回避するとはいえ▼7、パートタイムではなくフルタイムの労働者として共働きする場合、役割葛藤を起こすのは時間の問題である。というのは、現状において共働き家族の夫は意識面では性別分担に否定的だが、じっさいの家事参加となると、妻が無職の夫とたいして差がないからである▼8。「わかってはいるんだけどカラダが動かない」夫がまだまだ多いということだ。

 女性が家庭責任を果たしつつ職業労働者としても責任を果たすべきだという二重役割=二重負担=二重責任が、多くの働く女性を苦しめてきた。ただでさえ二重役割をこなすのにたいへんな思いをしているのに、彼女たちは、職場と家庭の両方から「無責任だ」などと非難されつづけてきた。この不当な状況に対して異議申し立てしようとしたのが、ほかならぬ六〇年代から七〇年代にかけて台頭した女性解放運動すなわちフェミニズムだった▼9

 問題はあきらかに「女性のみが家庭責任をもつ」という考え方にある。すでに実生活にそぐわない性別役割分担意識を変え「男も女もすべての労働者が二重役割・二重労働を行うべき位置にあるのだという認識を確立させていく方向にしかない。女性が家庭責任を放棄するのではなく、男性にも家庭責任を強く要求する必要がある」ゆえんである▼10

 今後、女性の高学歴化と専門職化にともなって、共働きは確実に家族の役割構造を変えることになると予想される。共働きによって家族の再編がうながされつつあるわけだ。

▼1 総理府広報室「家族・家庭に関する世論調査」一九八六年全国調査。湯沢雍彦編『図説現代日本の家族問題』(NHKブックス一九八七年)八一ページによる。
▼2 上野千鶴子『家父長制と資本制――マルクス主義フェミニズムの地平』(岩波書店一九九〇年)。たとえば一九七ページ。要するに、産業界の性別役割分業に対応して家族内の性別役割分担が確立したと考えてよい。
▼3 鹿島敬はこれを「日本型『職』生活」と呼んでいる。鹿島敬『男と女変わる力学――家庭・企業・社会』(岩波新書一九八九年)一三一ぺージ以下。
▼4 布施晶子『新しい家族の創造――「母親」と「婦人労働者」のはざまで』(青木書店一九八四年)四−八ぺージ。なお、この本の巻末には「共働き家族研究文献抄録」がおさめられている。
▼5 鹿島敬、前掲書。これにくわえて税制上の配偶者特別控除(一九九一年時点で非課税限度額の合計は百万円)への考慮が大きく響いている。菅原眞理子は「税制は本来家族のあり方に対して中立的であるべきだが、この配偶者特別控除は女性を家庭中心に生活するよう奨励するものである」とのべ「既婚の女性は一人前の労働者ではなく家計補助者であると位置づける制度」としている。菅原眞理子『新・家族の時代』(中公新書一九八七年)一〇八ぺージ。
▼6 鹿島敬、前掲書一三二ぺージ。
▼7 上野千鶴子、前掲書二一七ページ以下。
▼8 長津美代子「共働きは性役割にどう影響するか――日本の場合」湯沢雍彦・阪井敏郎編『現代の性差と性役割――性別と家族の社会学』(培風館一九八二年)七七ページ。雇用職業総合研究所の調査によると、共働き家庭での家事の九〇パーセント以上を妻が担当しているという。これは先進諸国ではまったく異例のことである。湯沢雍彦編、前掲書九二ページ。
▼9 江原由美子「性別分業論は成立するか――これからの女と男」『フェミニズムと権力作用』(勁草書房一九八八年)一七七−一七八ぺージによる。
▼10 前掲書一七九ページ。なお、少年犯罪・家庭内暴力・校内暴力・登校拒否などの増加の原因を共働きの母親に帰す議論や報道が八〇年代あいついだが、母親の就労が子どものトラブルの直接の原因とみる見方は、社会学の多くの調査研究によって否定されている。その大方の結論は「子どものパーソナリティに及ぼされる影響は、母親が就業しているかどうかではなくて、いかなる質の世話が子どもに与えられているかという問題であること」だという。布施晶子、前掲書三〇−三四ページ。

15−3 家族による看護と介護

家族における老人の介護担当者

 共働きとならんで、将来ますます現代家族の大きな問題になるのは老人の介護である。一般に六五才以上を高齢者と呼ぶが、二〇二〇年ごろには八○才代の超高齢者――六○代の「ヤング・オールド」に対して「オールド・オールド」といわれる――が主流になってくる。これらの人びとを家族が介護できるかという問題だ。

 これまでじっさいに老人の世話をしてきたのは、もっぱら女性だった。ねたきり老人の介護のじつに八九パーセントが女性によってなされている▼1。「粗大ゴミ」「濡れ落ち葉」という的確な表現で知られる樋口恵子の表現をかりると「女は老いを三度生きる。親の老い、夫の老い、自分自身の老い」それゆえ「老人問題は女性問題」なのである。

 ところが、これまで介護の主軸になってきた嫁・妻・娘も共働きなどでずっと家庭にいるわけではない。六〇年代に一気に小規模化した日本の家族は、もはや福祉機能=保健医療機能を果たしえなくなっている。しかも、その家族は地域から遊離し孤立してしまっているために、家族の保健医療機能の点からみると、現代の家族はきわめて不安定かつ脆弱である。

 ここから政府や財界のノスタルジックな大家族待望論がでてくる。たとえば「夕べの食卓で孫を抱き、親子三代の家族が共に住むことが、お年寄りにとってもかけがえのない喜びであると思うのであります。……明るい健康な青少年も、節度ある家庭の団らんから巣立ちます」とする一九八二年の中曽根元首相の施政方針演説などはその典型である▼2。介護サービスはきわめてコストのかかる社会資本であり、しかも教育とちがって生産にほとんど寄与しない。そのために社会資本整備の問題が家族というプライベートな問題に解消され、そのなかでの解決を要請するという構図になっている。しかし、これはもはやプライベートな問題ではなく、社会のあり方そのものを変えていくしかない問題だ。

対策の方向性

 社会のなにを変える必要があるか。方向性として考えられるのは、さしあたりつぎの三つである▼3。第一に、家族内の性別役割分担を見直し、固定された性役割からの解放を意識面と実践面の両面でおこなうこと。とりわけ夫が家事・育児・介護の担い手であるという自覚をもち実践することが必要だ。つまり、男女の役割分担の相互乗り入れの方向である。第二に、性別役割分担を個々の家族に強いてきた男性型企業文化を再編成する方向。すでにサービス業で多く実施されている看護休暇・フレックスタイムの導入、そして女性・男性を問わず有給の育児休暇・看護休暇を認めていくことも必要だ。総じて労働時間の短縮が求められる。第三に、地域に看護・介護サービス体制を確立すること。現状では老人ホームや医療施設の充実が急務であるが、なによりもそこで働くホームヘルパーや看護職の待遇改善が急がれなければ深刻な事態になることは目にみえている。

▼1 湯沢雍彦編、前掲書一五六ぺージ。
▼2 布施晶子、前掲書二三一ページによる。
▼3 鹿嶋敬、前掲書一九八ぺージ以下と、金城清子『家族という関係』(岩波新書一九八五年)一八六ページ以下による。

15−4 多様に開かれた家族

家族の比較社会学/歴史社会学

 家事を女性の当然の仕事と考えたり、老人の世話は家族ですべきだと思うことは自由だが、そのことが結果的に女性に一方的責任を押しつけることになっているという認識までくもらせてはならないだろう。そして、その前提にある家族観に対して科学的な反省をくわえることも市民としてとてもたいせつなことだ。

 わたしたちが「家族とはなにか」「家族はどうあるべきか」という問いに接して考える家族像は、一見普遍的なものにみえて、じつはきわめて歴史的な産物である。それを最初に明らかにしたのはフランスの歴史社会学者[社会史研究者]のフィリップ・アリエスだった。アリエスは、わたしたちが自明なものと考えている「子ども時代」がじつは十七世紀末以降に成立したものであり、子どもをイノセントな存在として愛情を注がなければならないとする考え方も近代の産物であることを実証した▼1。この研究以来、わたしたちが普遍的なものとして想定している家族のあり方が歴史的にも文化的にもきわめて特殊な近代特有のものだということ、したがってそれは正確には「近代家族」(modern family)と呼ぶべきものだということがしだいに明らかになっている。

「近代家族」の理念型

 落合恵美子によると、「近代家族」は、つぎのような特徴をもつという▼2

 (1)家内領域と公共領域の分離――そもそも家族がプライベートな領域として成立したのは近代になってから。近代市場の成立とともに、市場に参加者である個人を供給する装置として分離して位置づけられるようになった。

 (2)家族成員相互の強い情緒的関係――家族成員は強い情緒的なきずなで結ばれている。家族愛が特権的に優先されるのは近代家族特有の現象。その始発点に位置する恋愛結婚もまた近代の産物である。これを「近代ロマンチックラブ・イデオロギー」という▼3

 (3)子供中心主義――家族のもっとも基本的な機能は子どもの社会化にあるとする考え方。

 (4)男は公共領域・女は家内領域という性別分業――家族成員は性別により異なる役割をもつ。とりわけ家事労働は家族愛のあらわれとしてとらえられる。

 (5)家族の集団性の強化――家族は開かれたネットワークであることをやめて集団としてのまとまりを強める。

 (6)社交の衰退――家族は公共領域からひきこもる。

 (7)非親族の排除――家族は親族から構成されるとする。非血縁者の排除は近代家族特有の現象。

 (8)核家族――家族の基本型は核家族である。

 以上のような家族像を普遍的なもの・規範的なものと錯覚すると、離婚の増加や共働きなどの現象が「家族崩壊」にみえてしまう。しかし、これらの現象はむしろ「脱〈近代家族〉化」ととらえた方が理にかなっている▼4。つまり〈近代家族〉がスタンダードとなった時代は終わりつつある。新しい家族への過渡的段階として現代家族をとらえるべきだろう。

ライフスタイルとしての家族

 今日ひとりひとりの個人が、それぞれのライフスタイル・生き方をいろいろ選択できるようになりつつある。そうなると、家族の形だけでなく、結婚の形や、男女の関係、個人の生き方も多様化していくことになるだろうし、すでにそうなりつつある。たとえば、つぎのような家族の形もそうめずらしくない。

 一時的に別居する家族[単身赴任家族]
 通い婚・週末結婚・長距離結婚[職の少ない大学研究者などに多い]
 ニュー・シングル[一人家族とか非婚と呼ばれる。シングルといっても、異性の友人がいたり、親と同居したりしている]
 子どもをもたない共働き夫婦[DINKS=double income no kids]
 離婚による母子家庭・父子家庭[片親家族・単親家庭]
 娘の家族と同居する三世代家族[マスオさん現象]
 婚姻届を出さないで夫婦別姓を貫く家族[事実婚・別姓結婚]
 ステップ・ファミリー[継(まま)家族と訳される。離婚者どうしの子連れ再婚]

 このようなさまざまな家族の形が社会のあちらこちらでみられるようになった。いわば〈選択されるライフスタイルとしての家族〉である。その結果、わたしたちは、家族を〈近代家族〉の型にはめてとらえることがもはやできなくなっている▼5。とくに看護職や教職やジャーナリズムに携わる人には、この点を強調しておこう。

 最後に、ひとつの方向性を示すものとして、菅原眞理子のことばを引用して終わりたい。「役割分業によって部品化してしまう夫や妻ではなく、弾力的に互いの役割をカバーする適応力をもつこと、血縁で結ばれ同居している家族の間でだけ扶養や援助や感情的サポートを分かちあうのではなく、外部の個人や機関に支えられ、また支えあうネットワークをつくること、そのためには、家庭を社会から隔離するのではなく開かれた場とし、男性も女性も、人間としてトータルな能力をもつことなどが、これからの家族の活性化について不可欠である▼6。」

▼1 フィリップ・アリエス、杉山光信・杉山恵美子訳『〈子供〉の誕生――アンシャン・レジーム期の子供と家族生活』(みすず書房一九八〇年)。
▼2 落合恵美子『近代家族とフェミニズム』(勁草書房一九八九年)一八ぺージ以下ならびに一五五ページ以下。あわせて金井淑子編『ワードマップ家族』(新曜社一九八八年)も参照した。なお、この本は現代家族について考える上で手ごろな新感覚の入門書。
▼3 上野千鶴子の要領のいい説明をかりると「未婚の男女が恋愛に陥り互いに結婚の約束をする。そして婚礼の床で二人は結ばれる。ついでに言うならこのセックスは再生産(生殖)に結びつくものでなければならないから、この夫婦の結びつきから嫡子が生まれ、二人は幸福な父と母になる。――こういうプロセスが『自然』だとする考え方のこと」上野千鶴子「ロマンチックラブ・イデオロギーの解体」『〈私〉探しゲーム――欲望私民社会論』(筑摩書房一九八七年)一四九−一五〇ページ。ミシェル・フーコーはこれが〈愛−性−結婚〉の三位一体をつくりだしたことを実証した。ミシェル・フーコー、渡辺守章訳『性の歴史I――知への意志』(新潮社一九八六年)。
▼4 落合恵美子、前掲書二二−二三ページ。
▼5 家族を集団ととらえることは自明な常識となっているが、このことから疑って考えてみなければならない。たとえば、一九七〇年代以降の東南アジア研究によると、東南アジア[とくにマレーの農村社会]では家族のあり方がかならずしも集団としてのまとまりをもたず、また特定の家族イデオロギーをもたないため、家族の概念が、出生や結婚のさいに各個人が自分を中心に認知する〈関係の集積〉ともいうべきものになっているという。家族の境界がきわめてルーズなのである。これを「家族圏」という。北原淳編『東南アジアの社会学――家族・農村・都市』(世界思想社一九八九年)二三−二六ページ。
▼6 菅原眞理子、前掲書一一ページ。なお、新しい家族のあり方についての実感のこもったエッセイとして、宮迫千鶴『ハイブリットな子供たち――脱近代の家族論』(河出文庫一九九一年)がある。

増補

家族社会学再入門

 森岡清美・望月嵩『新しい家族社会学(四訂版)』(培風館一九九七年)は、データ中心のスタンダード・テキスト。公務員試験などでは必須。データ集としては、湯沢雍彦編『図説 家族問題の現在』(NHKブックス一九九五年)。現代家族に関する最新データを百のテーマに整理した定番データ集の新版。百テーマが見開きになっており、左が解説、右が図表という構成になっている。コンパクトな本だが、あらゆる家族問題が多角的な視点で網羅されている。たとえばゼミの討論資料としても使いやすい本。

 それに対して、フェミニズムやエスノメソドロジーなど最新理論を通過した新しい世代の家族社会学としては、山田昌弘『近代家族のゆくえ――家族と愛情のパラドックス』(新曜社一九九四年)。他とくらべると理論志向が強く、考えさせてくれる。

 また、落合恵美子『21世紀家族へ――家族の戦後体制の見かた・超えかた』(ゆうひかく選書一九九四年)は、歴史社会学的(社会史的)あるいは変動論的な視点から日本の近代家族について解説したテキスト。「です・ます」調の語り口で、通読しやすいが、「目からウロコ」的な解釈がいろいろある。

結婚の社会学

 山田昌弘『結婚の社会学――未婚化・晩婚化はつづくのか』(丸善ライブラリー一九九六年)。結婚難の実態を赤裸々に分析した現代社会学らしい結婚論。ハイパーガミー(女子上昇婚)の厳然たる事実と経済状態とのからみによって、「経済力が高い父親をもつ女性」と「経済力が低い男性」の結婚が困難になるしくみがわかりやすく説明されている。経済階層と男女の差と「魅力の階層」という論点には、たいへん説得力がある。

働く女性

 竹信三恵子『日本株式会社の女たち』(朝日新聞社一九九四年)は、働く女性たちの現状を徹底的な取材で描いた力作。著者は新聞記者だが、新聞記者にありがちなその場しのぎの分析ではなく、社会学的によく練り上げられた見識が全編を貫いている。実感のない人(とくに男性)は、まずはここから読んでほしい。

高齢化

 日本の高齢化が特殊なのは、それが高速に進んでいることである。この「高速高齢化社会」の到来によって何が生じるか、また、どういう社会を構想すべきなのか。このマクロな視点で高齢化を論じた、金子勇『高齢社会・何がどう変わるか』(講談社現代新書一九九五年)がでて、ようやく推薦できる一書ができた。「高齢化は役割縮小過程である」との観点からの政策提言には社会学的見識を感じる。

 なお、よりコンパクトに概要を知りたいときは、金子勇・長谷川公一『マクロ社会学――社会変動と時代診断の科学』(新曜社一九九三年)におさめられた金子の「高齢化」の章が便利である。

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