Socius  ソキウス   著作+制作 野村一夫
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個人ホームページの力、電子メールの力
社会学専門ウェッブSOCIUSの経験から

初出『日本語学』(明治書院)1996年11月号
「特集 電子社会のコミュニケーション」


 個人ホームページを公開して一年がたった。この一年間にわたしがおこなったコミュニケーションの量と広がりは、おそらくこれまでの十年分以上に相当する。幸いなことに、それで失ったものはあまりなく、それで得たものは多い。この新しいコミュニケーション経験について中間考察してみよう。

ハイパーテキストへのあこがれ――HTMLの魅力

 わたしがインターネットで自分のウェッブの公開を開始したのは1995年8月15日だった。折りしも戦後50周年のこの日、わたしがプロバイダーとして登録していたASAHI-NETがFTPとパソコン通信形式によるホームページの登録を始めた。それまで実験的な方法はあったのだが、事実上この日からASAHI-NETで会員が自由にホームページを公開できるようになったのである。

 もともと公開することに格別の意図をもっていたわけではなかった。わたしにあったのは、基本的にふたつのものである。ひとつはハイパーテキストへのあこがれ、もうひとつはインターネット上で送り手としてコミュニケーションをやってみたいということだ。

 前者についてはそれなりに長い個人史がある。わたしは社会学を教えることを主な仕事としているが、社会学のような学問を人に説明するときに、どうしても前提事項に前提事項を積み上げることが必要になる。そして、その積み上げ方は相手によって異なる。となるとリニアなテキストではなくハイパーテキスト形式がふさわしいのである。もちろんハイパーテキストといっても、こちら側の基本的な論旨をリニアに展開したテキストに補注を徹底的につけていくようなハイパーテキストである。しかし、これはかんたんなことではない。たとえば、わたしは社会学のテキストを書いたときにそのようなハイパーテキストのようなものにしたいと考えて、あれこれ苦心したものの、所詮、印刷物ではかなわぬことだった。当然のことながら、印刷物では直接的に読み手を該当個所に導くことが不可能なのである。

 個人的に知識を整理するためにもハイパーテキストは有効である。ところが、このようなテキストを構成できる手軽なソフトがなかった。わたしは、それをVZEditorのマクロでやってみたり、アウトライン・プロセッサーでやってみたり、ハイパーカードに期待したりしたのだが、当時は非力なマシンだったので、とても実用にならなかった。執筆そのものについては、その後、アウトライン・プロセッサーでかなりのことが解決したものの、それはあくまで自分のマシンの範囲内での私的なものにとどまる。シンプルなエディターひとつでハイパーテキストができてしまうHTMLとの出会いは、その意味では衝撃的だった。しかも他人のテキストとかんたんにリンクできてしまう。この点でも知識整理の理想的な様式に思えた。

 もう一点の「送り手になる」ということについては、インターネットそのものを知りたいということがあった。わたしはマスコミ研究を少しかじっているが、やはり送り手でないとわからない微細な事情が現実のコミュニケーションを根底から方向づけるものである。それはおそらくインターネットも同じだろうとの読みがあった。もちろんインターネットの場合、マス・コミュニケーションのような「送り手―受け手」図式は厳密には成り立たない。けれども受け手でありつづけることはかんたんなのであり、現に多くのインターネット・ユーザーはオーディエンスとしてネットワークに参加しているにすぎない。

 とりたてて研究というつもりはなかったが、そういう好奇心的な知的関心がわたしにはあった。そして、それによって何か新しいコミュニケーションが始まるのではないかとの予感もあった。ネットニュースを読んだり他人のホームページをブラウズしたりしているだけでは何も始まらなかっただけに――つまり私書箱を開いても電子メールが届いていることはなかっただけに――何かしらの期待があったのだ。

SOCIUS(ソキウス)誕生――社会学専門ウェッブの構築

 最初の問題は「何を」公開するかである。いわゆるコンテンツの問題は現在も将来ももっとも重要なテーマである。これをきちんと詰めないでやっても、おそらく何も始まらない。それはたんなる「詳しい名刺」や「家族紹介」に終わる。それはそれで意味があると思うけれども、基本的には消極的なものである。

 わたしの場合は、社会学者という役割をアイデンティティの中核に据えている者として、やはり社会学専門のウェッブを構築したかった。音楽や三国志やペット紹介その他の趣味のものでもよかったが、ウェッブで発信することの優先順位は低いと判断した。それらはすでに多くの人がやっているし、将来的にも多くなるのは目に見えているからだ。しかし社会学となるとちがう。当時は日本語でウェッブを公開している社会学者がほとんどいなかった。社会科学に範囲を広げても、きわめてわずかのようだった。あっても、NTT以外に使える日本語の検索エンジンがなかったので、本人が登録していないと事実上埋もれてしまうのである。とくに大学教員の場合は学内向けとして始めることが多いので事実上非公開に近かった。(現在ではこういうものもかんたんに検索できるようになったのでイントラネットにしていないかぎり公開したも同然である。)

 インターネットを論じる学者がこれだけ多いのに、じっさいにインターネット上で一般の人びとに専門知識を公開する人がいないのはどういうことか。論じるのはいいが、それだけでは社会学や社会科学をめぐるネットワーク状況はよくならないのではないか。こういう思いに加えて、そういう人たちの論じている内容が実態と合わないという感じもあった。ミクロな現場の繊細な意味的関係が見えていない感じなのである。

 さて、ホームページのVersion1.0は読書案内にしぼることにした。社会学専門といっても、最新かつ高度な内容への言及は避け、基本的に入門に絞った。まずは身の丈に合わせたわけである。タイトルは「SOCIUS」ラテン語で「仲間」という意味のことばで、フランスのコントがこれとlogieを合わせてsociologieという新造語をつくったのである。発音は「ソキウス」が近い。

 28のテーマごとに読書案内をつくり、それに自己言及的な解説をくわえて、HTML書類にした。作業はもっぱらエディターによる手作業のタグづけである。わたしはしばらくはこの路線で行こうと考えていたが、公開後「社会学講義もほしい」という電子メールが届くようになり、社会学の公開講座を始めた。新規に書き下ろしたシリーズもあるが、基本的には自分の既刊の著書の改訂版である。版元に了解を得て、著書の全部または一部をソキウス上に公開していった。これらは四〇〇字詰め原稿用紙換算で千枚を超える量になる。これは今も作業が続いている。また、時事問題について社会学的に考えるためのコーナーも設けた。基礎作業が続いているために、こちらの方はまだ断続的なものだが、反響は意外に多い。そうこうしているうちに一年間でファイルは三〇〇を超えた(うちHTML書類は二〇〇あまり)。

 中心がしっかりしていなければ、周辺も浮きでない。だから、ほんとうは18世紀音楽や中国古代史や齧歯類に関する趣味のページも充実させていきたいのだが、未だに実現できないでいる。しかし、それはあとの楽しみにとっておけばいい。自分の世界を表現しようとするとウェッブ構築は十年仕事である。

もうひとつのソキウス――電子メールの量と広がり

 ソキウスを公開して以降、電子メールは飛躍的に増えた。そのほとんどがホームページへの感想メールとそれをきっかけに仲良くなった人との交信メールである。

 電子メールの内容はあくまで私信なので、ここでそれらを公開するわけにはいかない。そこで、量的なところから、わたしの一年間のインターネットにおける電子コミュニケーションを整理してみよう。

 ソキウスを公開した一九九五年八月一五日から執筆時点の一九九六年九月九日までのほぼ一年間にASAHI-NETのわたしのアドレス宛に寄せられた電子メール(受信メール)の総数は八五五通。半角も全角も一文字としたときの字数(原稿文字数)は一六四〇三七〇字。ここから各メールに付属するヘッダ情報を除外すると、一通あたりのヘッダ情報の平均が七五〇字なので本文は一六四〇三七〇−七五〇×八五五=九九九一二〇字である。四〇〇字詰め原稿用紙に換算して二四九七枚にあたる。

 他方、同期間にわたしがASAHI-NETのアドレスから送信した電子メールは五三九通。原稿文字数は四五五一一三字。送信メールのヘッダ情報の平均文字数が二〇〇字弱なので、これを除外すると、本文字数は四五五一一三−二〇〇×五三九=三四七三一三字となる。念のためにつけ加えると、送信メールにはさらにシグネチャー(署名)がふくまれて相手に届くが、保存されているファイルにはふくまれていない。したがって原稿用紙換算で本文八六八枚である。

 これらには、いわゆるDMの類や電子メールニュースやメーリングリスト関係ははぶいてある。パソコン通信としてのASAHI-NETやニフティサーブで受信・送信したメールや発言もふくまれていない。純粋に個人宛の電子メールといえるものだ。ただし、総量については少し割り引かなければならない。というのは、電子メール・ソフトの場合、返事が書きやすいように、送信メールをそっくり引用する機能がついている。それを引用しながら返事を書く場合が(とくに初心者の場合)多いので、じっさいの中身は三分の二程度になる。

 電子メールの相手のタイプを正確に類型化するのはむずかしい。大きくふたつに分けると、研究者や学生のような社会科学に関係する人と、一般の社会人である。もともとの知人はきわめて少なく、内容量も少ない。ほとんどインターネットで知り合った人たちである。実生活でもアクティブな人が多いのが特徴で、こちらも学ぶことが多い。とくに三〇歳前後の社会人がアクティブで、この人たちとの交流の中で「生涯学習」という広大な領域の存在に気がつき、ソキウスを生涯学習のための本格的な知的支援システムとして定義するきっかけになった。

 最初に感想メールから始まることをのぞけば、内容は多様である。相手の人はソキウスで公開しているテーマについてわたしにそれなりの知識があると期待しているので、事実上、社会学の多様なテーマにわたっている。もちろん日常のあれこれについての雑談も多い。

 メール交換のなりゆきにはパターンがある。わたしは必ず返信を書くようにしているので、このパターンは基本的に相手しだいである。第一に「一見(いちげん)メール」。一度メールをくれたきり、音沙汰のないままになるケース。長期に交信することを期待しているのでなく、とりあえず感想を送ったまでという感じだ。たいていブラウザーから直接メールを送信している人が多いところから推測して、メールボックスをもたない人たちも多いようだ(たとえば大学内のシステムから学生が送信する場合、アドレスはあるがメールボックスが設定されていないし、本人もメールを確認しない)。第二に「数回集中メール」。数度メール交換し、ふたりのあいだに共通の主題が認知されたところでご無沙汰になるケースだ。この場合、両者のいずれかに何か用件が生じたときにはメール交換が復活する。第三に「ご近所づきあいメール」。ほとんどご近所づきあい感覚で、頻繁にとぎれなくメール交換するケース。両者に共通する属性が多い場合(たとえば同世代で同業者で思想傾向が似ている場合)こうなることが多い。地理的には離れていても、オンラインの感覚としてはまったく「ご近所」である。もちろん、この場合もときどきお休みはあるので、散発的にメールをやりとりする「散発メール」のケースも境界事例としてふくまれる。

 インターネット上のコミュニケーション回路を開く道にはいろいろなものがあるが、わたしのケースはホームページとの連動だった。しかも電子メールの交換が「もうひとつのソキウス」になっていることは、すでに示した量的なものが証明している。じっさい、わたしがこの一年間に電子メールのために書いた文章は「ソキウス」本体のために新たに書き下ろした文章よりもはるかに多いのである。したがって、ここでひとつ確認しておきたいことは、ホームページだけを見て(あるいはホームページだけを見ている人を見て)インターネットをあれこれ評価するのはまちがいだということだ。ホームページはインターネットでなされているコミュニケーションのほんのきっかけにすぎない。

自分をさらすということ――プロフィール効果

 ネットワーク上のコミュニケーションを活性化する方法のひとつとして経験的に知ったのは「自分をさらすこと」である。学術系の人はどうしても自己宣伝めいたことを嫌うので(というか、同業者からそう言われるのはマイナス効果が大きいので)自分のことをウェッブに反映させないことが多い。わたしも最初はそういうところがあったと思う。けれども、電子メールによる問い合わせがどうしてもわたしのプロフィールに重複しがちなので、プロフィールのページを徐々にふくらませていった。とても見栄えするとはいえない写真も思い切って入れることにした。感想メールを寄せてくれた人たちによると、これが「見知らぬ他人」のわたしへ電子メールを送るさいの安心材料になったという。

 そもそも、「電子コミュニケーションの特徴は匿名性である」といった論調があるが、わたしはそれに対して疑問をもっている。たしかにニフティサーブのフォーラムにはそういう側面はある。けれども、実名公開主義をとっている大手のASAHI-NETではそれは当てはまらないし、インターネットではFTPや一部の不正利用をのぞくと、ほぼ実名主義といっていいのではないかと思う。特に個人ホームページではさらに個人性が浮上する。発信者がどんな人間なのかがとても気になるのだ。まして初対面(といっても対面することはほとんどないのであるが)の相手に電子メールを送ることはなかなかできないものだ。これが「ふつうの人」の感覚である。したがって、あらかじめ「自分をさらす」ことが結果的にリアクションを呼び寄せる。人となりがわかると親しみもわき、こちらの発言内容もよく届くようだ。これを「プロフィール効果」と呼んでおこう。

 けれども、わたし自身は何も電子メールをもらうために個人情報を公開しているのではない。言説には責任がともない、発言する人の人格と不可避に結びつく。印刷媒体のような無署名の言説はインターネットに似合わない。というより、わたしは個人が直接に交信できるところにインターネットの可能性を見ており、無署名にすべきでないと考えているからだ。「公開の意志」をもつことが要だと考える思想に自らしたがっているだけである。

 しかし、このような行為にはおそらくリスクもあるはずである。ひとつまちがえると、望ましくない相手を呼び寄せてしまう。たとえば女性の場合、性的属性を明示するだけでリスクは生じる。それは現状の日本語圏のインターネットでは男性が圧倒的多数だからである。また、社会学のあつかう諸々のテーマも論争的かつ政治的な色彩の濃いものであり、しかも自己言及性がきわめて高いこともあって、感情的なディスクールを誘発しやすい。これもリスキーである。

 わたしはネットワーク上のバトルが好きでないし、それを生産的でもないし消費的でさえないと考えているので、できるだけ回避するようにしている。そのためにふたつのことを心がけている。

 ひとつはバトルの水路をつくらないこと。水路づけしてしまうと、なかなか止まらないものだ。もうひとつはオーディエンスのいる言論空間を設定しないことである。ニフティサーブのフォーラムや、インターネットのネットニュースとメーリングリストなどでしばしばバトルが生じるのは、たいてい、聞き分けのない男性が自己弁護的な感情論を執拗に繰り返すことに原因があるが、その行為の(しばしば理解不能な)動機を理解しようとするとき、ポイントになるのは多数のオーディエンス(パソコン通信ではROMと呼ばれる)の存在である。つまり、かれらの執拗さはそれ自体、多数のオーディエンスに向けられた自己提示なのである。したがって「面子」が発言の直接的な動因となっているのだ。これでは理性的な議論など最初から不可能である。つまり理性的コミュニケーションの前提条件が失われているからだ。だから、わたしはこの一年、慎重にオーディエンス不在の一対一のコミュニケーションの回路だけに限定してきた。ゲストブックもつくらず、メーリングリストへの発言もひかえめにし、ひたすらホームページの充実に努めるようにしてきた。

 わたしのバトル嫌いは精神的に消耗するのがいやだからだが、それは結果的に自分をさらしてしまうからでもある。ホームページや一対一のメール交換だとそれなりに破綻なく自己提示が可能だが、オーディエンスのなかでの丁々発止となると否が応でも真価がでてしまう。これはひどく怖いことではないか。じつはこの原稿を執筆中、自分のメーリングリストを始めるかどうか思案しているのだが、このあたりのリスク(精神的かつ時間的消耗)をいかに少なくするかについて考えているところである。それは「自分をさらす」レベルをさらに上げることを意味するからだ。また、時間的余裕の問題も大きい。オーディエンスがいると返事を先延ばししにくく、つい無理して中途半端な返事をしてしまいがちだ。それで足許をすくわれるのだ。このあたり、むずかしい問題である。

かいがいしさの理由――電子コミュニケーションの新しさと古さ

 コミュニケーションというものは、ある種、わずらわしいものである。ネットワーク上でもそれは同じだ。来た質問にはそれなりに答えなければならない。意見には耳を傾けなければならない。主張すべきときには長文のメールを書かなければならない。

 もちろんメールの返事を書かなければならないという義務はない。しかし、わたしはほとんどのメールに返事を書いてきた。これを要求するのは、内面化されたネットワーク文化というほかない。ハビトゥス(慣習的行動)と呼ぶには歴史の浅いものではあるけれども、それが内面化されやすいのはおそらく頻繁なコミュニケーション経験そのものに理由がある。それは自動車を運転する人が車社会のルール(教習所で教えられたこととはちがう実地のルール)にすばやくなじんでしまうのとよく似ている。頻度であって、時間そのものはあまり必要ないのである。とても筆まめといえないわたしがネットワーク上で一種の「かいがいしさ」を発揮できるのも、そうした結果であろう。

 「かいがいしさ」という点ではホームページの更新の頻度の問題もある。ホームページは時系列で見るべきもので、印刷物のように静態的なメディアではない。その意味ではバックナンバーつきの週刊誌に近い。いつも何か変わっていないと、なぜかつまらないのである。こうした感覚はホームページ制作者にも共通のものだが、テキストデータを次つぎに書き続けるのは容易なことではない。たいていバーンアウトしてしまう。あらゆる物書きがそうであるように、アウトプットするには何倍ものインプットが必要である。このような循環をオンライン生活に構築できないと必ず枯渇する。

 ネットワーク上のホームページを見ていると、その点でふたつに分かれるようだ。更新できる人とそうでない人である。けれども、後者の人たちの文化的リソースや創造力が貧困だということではない。ネットワーク上で出会った後者のタイプの人には、ホームページではなくむしろメーリングリストやパソコン通信のフォーラムなどに頻繁に書き込みしている人が多くふくまれている。つまり、かなり動態的なコミュニケーションに向いた人たちなのである。

 ネットワーク上でなされる座談的な鼎話的コミュニケーションは独特の魅力をもっており、じつはこれこそネットワーク上で実現した新しいコミュニケーションなのである。逆に、ホームページ更新に向いている人は、一方通行的で系統的なコミュニケーションを好むタイプともいえるわけで、その意味ではWWW系に熱中する人はむしろ古いタイプのコミュニケーションへの志向性が強いといえるかもしれない。じつは、わたし自身がインターネットに参加しながら日々自覚しているのは、こういう自分自身の古くささなのである。

主題を共有すること――新しい社交の世界の誕生

 インターネットの世界は仮想現実(ヴァーチャル・リアリティ)だといわれる。しかし「ヴァーチャル」とは「事実上の」という意味であって、非現実ということではない。社会学的に見ても、インターネット上で現におこなわれていることは、すでにひとつの現実であると思う。とくにそこでおこなわれているコミュニケーションはあきらかに現実に実効性のあるコミュニケーションである。たとえば電子メールで「あなたが好きだ」と送信すれば、相手に何らかの反応を起こす実効性はあるはずなのである。

 インターネットの世界を現実から遊離した「仮想的世界」とみなす見方が支配的になりがちなのは、それが利害関係から自由な世界だからだろう。一般に「実社会」とは利害関係の世界を意味する。けれども利害社会だけが社会ではない。かつて社会学者ジンメルが分析したように利害から自由な「社交の世界」はそれ自体ひとつの純粋社会である。

 たとえば18世紀の社交界ではお互いの身分や仕事のことなどをもちこむのは無作法とされ、利害から自由な会話を楽しんだ。その人は発言ににじむ人格や見識だけから評価される。いわゆる「対等性の作法」である。オンラインのコミュニケーションの場合、参加者の「対等性」はかなり徹底されている。その意味で、パソコン通信やインターネットの世界は「新しい社交の世界」である。

 この「対等性の作法」は、ある種のつながりを促進するために必要な作法である。それは主題を共有するという独特のつながりを保証する。

 たとえば家族は血縁や婚姻でつながる。組織は目的でつながる。地域は空間的近接でつながる。そして電子コミュニケーションはもっぱら主題でつながるのだ。ネットワーク上のコミュニケーションは基本的に主題媒介的な関係である。パソコン通信にせよ、メーリングリストにせよ、WWWにせよ、基本的にわたしたちは特定の主題を媒介につながるのである。このことの意味は大きい。

 たとえば、わたしがホームページに「電磁波被爆問題」について書く。すると、それを見てくれた人から電子メールが届き、議論が始まる。あるいは参考書を教えてくれたり、自分の調べたことを教えてくれる。自分のホームページでそれを発表している人がいればリンクしあう。それによって相互に学ぶ関係ができる。「主題でつながる」とはこのような相互学習過程に入ることなのである。これはメーリングリストになるともっと明確であって、たとえば「薬害エイズ」のメーリングリストに入れば、それに関心のある人たちやじっさいに運動にかかわっている人たちと非常に専門的な意見を自由に交わすことができる。

 このようなことは何も学術的なことにかぎっていえることではなく、趣味性の強いことがらであっても、プライベートなことがらであっても、ネットワーク上においては特定の主題が人びとをそのつどつなぐのである。

 社交の基本は「おしゃべり」である。特定の主題をめぐって行きつ戻りつ、収束しては拡散するおしゃべり。ネットワーク上でなされるこうした「おしゃべり」には効用がある。たとえば中年男性となると、する話といえば仕事がらみの話ばかりで、自由なおしゃべりは少ないものだ。利害関係から自由なおしゃべりがなければ自己中毒してしまう。おしゃべりは人を選ばない。主題さえあればいい。だからこそ、さまざまな出会いを生む。その出会いはまたさまざまなおしゃべりを生む。こうした循環は、市民性を育むことになる。なぜなら、個人の思考の幅を広げることで利害拘束された思考の制限をゆるめるからである。

 けれども、わたしたちは「おしゃべり」の相手と十分巡り会えていないのではないか。自分の生活範囲を超えたところに「その人たち」が待っているかもしれないのに、わたしたちはなかなかそこを超えることができないでいる。便利なテレビのような理解をされがちなインターネットであるけれども、じっさいにはそんなことよりもこうしたコミュニケーションの回路を開く技術的かつ文化的な可能性をもっている。もちろん、それを開いていけれるかどうかは、ひとえに自分しだいであるが……。

結び――インターネットとシティズンシップ

 イデオロギー対立の時代が終わり、混沌とした思想状況の中で「市民社会の再構築」という論点が浮上している。産業主義に彩られた19世紀的な市民社会ではなく、啓蒙の光に満ちた18世紀の市民社会のイメージがそこには感じられる。このような市民社会のありようを構想するとき、不特定の人びとがさまざまな主題を媒介に対等につながることの意義は大きい。

 それはシティズンシップの発動にかかわっている。市民とは多様な役割を自覚的に担う人である。担う役割が多様であるがゆえに、それぞれの役割から自由に、あくまでも個人としての自律的な判断が可能になる。利害関係に拘束されない思想と行為が可能になる。そのような個人が生成するための基礎条件は利害から自由に討議できる開放されたコミュニケーションの場が日常的に存在するということだろう。さまざまな問題を抱えながらもパソコン通信やインターネットがいま成し遂げようとしているのは、まさにその基礎条件の構築であるように見える。

 インターネットは自分の行為的世界を意識的に再構築するメディアとしての可能性をもつ。けれども、それだけにインターネットは自分を問うメディアでもある。既存のマス・メディアのパターンで理解することの危険はそこにこそある。ともあれ、インターネットにおいて問われているのは個人の側というほかない。わたしはこれからも内部からそこに注目し、励まし、そのなりゆきを見定めたいと思う。


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SOCIUS.JPドメインへの初出 1/4(Tue), 2005  
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