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近未来インターネットの人間的条件

初出「教育と医学」2001年7月号(慶應義塾大学出版会)特集 現代のコミュニケーション


1 インフォテックの政治と経済

 インターネット・ブームと呼ばれてしばらくたち、それが一過性のものでないことが誰の目にも明らかになったとき、今度は政府の音頭で「IT革命」と呼ばれることになった。インターネットはたしかに情報技術ではあるが、そこには初期の開発場面から市民主義的な文化が付随しており、むしろインターネットが実現するオープンな市民的コミュニティこそが画期的だったはずなのに、いつのまにか主題が「情報」しかも「技術」にすり替えられている。ここにはインターネット的な文化世界の魅力を喧伝しながら、内実においてその文化的側面には立ち入らず(おそらくは支援もせず)、じっさいには周辺あるいはインフラにあたる情報技術産業の活性化をねらおうとする意図がある。沖縄サミットにおいて明確にスタートを切ったこのような〈絞り込みの戦略〉が政治的なものであることは言うまでもない。「IT革命」と呼ばれているが、ここでは距離をとって、あえて「インフォテックの政治」と表現し直すことにしよう。

 ひとたび「インフォテックの政治」が始まると、今度はどんなに無縁でいようとしても、上から予算がついて無視はできなくなるし、予算の費目にしばられて、しばしばちぐはぐな設備投資がおこなわれる。ネットワーク管理者が雇用され、ときには億単位のシステムが導入されたのに、じっさいにそれを使いこなして文化の創造的局面を開くような人がなかなか出てこない。そういう組織もあるようだ。一時期「だれも使わない滑走路のような農道」が非難されたことがあったが、それとまったく同様に、いったいだれのための投資なのかわからない、結局は付け焼き刃の景気浮揚策にすぎないのではないかと思うケースも散見されるようになった。これは今後急速にふえてくるにちがいない。どの企業も過剰投資を控えている時期なのにふしぎなことだ。

 しかも、日本の情報システム構築は、当該組織の意志決定スタイルや組織文化を反映することが多く、実際の運用においてインターネット特有のオープンな文化からほど遠い場合が多い。なによりシステム構築を引き受ける企業自体にそういうケースがあって、発注側も受注側も「セキュリティ」の名の下に「事なかれ」に陥る。内閉した情報システムはこうしてできあがる。

 いささか否定的に語れば、ITに関する現在進行形の事態はこのようなものではなかろうか。しかし、サーバ一台購入するのにも大騒ぎだった数年前と比較すると「インフォテックの政治」の力はすごいものだと思う。そして、たしかに経済はそれをテコに立ち直ろうとしているかに見える。今どきのベンチャー企業で「情報」と無縁なものはほとんどないだろう。大手企業も本格的に「インフォテックの経済」を展開している。

 この「インフォテックの経済」においては、インターネット上でいかに人びとを集客するかが大きな課題となる。キーワードはコンテンツである。

 コンテンツは大きく分けて二種類にわかれる。マスメディア的なコンテンツとコミュニティ的なコンテンツである。前者については紙媒体の雑誌やテレビ番組と同様の手法でコンテンツ制作がおこなわれるようになっている。後者については、コミュニティづくりそのものがビジネスの目標である。こちらは、しばしば新しいビジネスモデルと称されているが、本質的には結婚相談所や互助会と似たようなもので、いかに多くのユーザーを囲い込むかが焦点になっている。メディアそのものの新奇性が薄れた今、この〈囲い込みの発想〉は正しいビジネスモデルとして公然と語られるようにさえなった。

 このようなインフォテックの政治と経済のなかに私たちの生活がある。たんに消費の場面において私たちの関心を釘付けにするだけであれば、それはそれで悪いことではない。問題なのは、何といっても教育現場への導入(すなわち、これから始まる「インフォテックの教育」!)である。

 私たちが今きちんと点検しなければならないのは、教育界への情報教育導入が、どのような動機によって進められているかということだ。手短にまとめれぱ、インフォテックを使いこなせる人材の育成と、インフォテック市場の拡大と底上げのためである。インフォテック関連産業を担う人がいなければ国際競争力はつかない、インフォテックを使える人がいなければパイは大きくならない、だから公教育で育てていこうという発想である。おそらく時代認識は正しい。そして経済効果の計算も。

 しかし、そこに理念はあるのか。かつてのLL教室やニューメディアの二の舞になりはしないか。掲げられた目的と異なることが実際におこなわれる可能性はないのか。本格的な情報教育が始まる前夜とも言える今、それを批判的に考察し、かつ建設的に構想する必要があると思う。

2 学生文化と技術的管理の悪循環

 たとえば教育機関が情報教育のためにシステムを導入したのちに経験することは、だいたい決まっている。まず、マシンやネットワーク(しばしば不必要に高価なものであったりする)を運用できるノウハウがない。管理する側の学習コストを考えずに導入するために、負担が一部の人に集中してしまう。しかしネットワーク系のできごとは、ほぼ現実世界と同じだけ複雑で多彩である。「情報担当」だけで担えるものではない。そこがこれまでの改革と異なるところで、組織全体が「情報担当」にならざるをえないところがあるのだ。ここがなかなか事前に理解されない。

 他方、インフォテックを教育される人たちはどうなのか。日々学生とつきあっていて感じるのは(最近は情報教育科目を担当して痛感するのは)「若い人は柔軟で、新しいものにすぐに適応できるし、機械にも強い」というのは時代遅れの迷信だということだ。「安直なものにはすぐに飛びつき、みんなといっしょのときだけ冒険する、マニュアルは読まない読めない」というのが実態で、基本的にクチコミ依存型で保守的である。メディア史的に見ても、一九八〇年代以降のメディア利用のパターンがそれであって、新規メディアの普及において若者は最後に登場し、しかもマーケティングの対象として登場する。カラオケの場合がまさにそうだったように。

 だからパソコンでもインターネットでもなく安直なケータイ系端末に集中するのも無理はない。「インターネットのすばらしい世界へ招待しよう」とコンピュータ教室に学生を集めて授業しても、そもそもメールもコミュニケーションもショッピングもケータイでそこそこ間に合っている。

 しかし「年寄りの冷や水」的に言えば、マーケティング的仕掛けの中でわずかな選択的決定をしているだけというのが大方の実態である。最近耳にした調査報告によると、ケータイ系端末を利用してショッピングした内容のきわめて多くはケータイの待ち受け画面や呼び出しメロディの購入だったという。囲い込まれているとしか言いようのない事態である。

 そうした現実を少しでも打開しようと、情報科目の実習のなかで社会問題についてのリンクを作ってもらったことがあるが、剽窃したサイトのコンテンツへリンクしてしまうようなトラブルが続出した。やはり知識や情報に対する批判的素養というものが教育されてきていないのである。

 考えてみれば、新書本を読んだこともない学生たちが、情報の質を吟味できるわけがない。新聞を較べ読みしたり図書館でちょっとした調べものをした経験がなければ、知識の信頼性について考え及ぶわけがないのである。そうした自己教育が望めないのであれば、それはあえて教育しなければならない。しかもそれはパソコンを前にした検索実習だけで教育できる代物ではないだろう。もっと総合的な学習とトレーニングが必要だ。

 このような学生たちに自由に情報施設を使わせて、自学自習効果を期待するのは当然の流れだ。しかし話はそれほどかんたんではない。たいていはトラブルが続出するからである。その対処療法として情報倫理が徹底されるのは当然だが、それだけでは守りきれないシビアな状況に対応するために、当初はルーズであった運用が年を経るごとに硬いものに変更せざるをえなくなる。

 もともと情報システムには「管理」がつきものである。極端な言い方をすると、人間をセキュリティホールと見なす発想さえあって、「情報システムにふさわしい人間」(「人間にふさわしい情報システム」ではなく)が求められている。そうでないと仕事がふえるからである。

 しかし、これはこれで一種の「専門家支配」(professional dominance)に陥る危険な傾向である。専門家支配とは、もともと医療社会学の概念で、医療のように医師が絶対的な権力を正当に行使できる状態を指す。これが情報システムの領域においても進行していると私は考えている。抵抗の要素は排除される。遊びの創造性も排斥される。討議のダイナミズムも否定される。情報倫理概念も貧しいコノテーションに限定して使われがちである。そこで自明なものとして語られるのは「情報システムにふさわしい人間」というインフォテックな人間像である。

 これはガバメント原理(上からの統治)そのものではないか。インターネット・コミュニティが育んできたガバナンス原理(下からの自発的構築)と対極にあるものではないか。当事者をふくめて一般には、情報科学やコンピュータ科学を十把一絡げにしているが、それは誤りで、内実の思想は二極の対立的な原則に分かれている。インターネットの魅力的な社会原理は、日本の教育現場では対極的な管理思想に浸食されていることが多いのである。

 情報への感度のにぶい学生たち、そしてそれに対する事なかれ主義的な技術的管理。この両者が相互作用すると、時間・空間・目的のいずれにおいてもきわめて限定的な情報教育にならざるをえないだろう。おそらくこのまま推移すると、良識ある教育機関がインターネット上に無作法な無免許運転ドライバーを量産することにもなりかねない。

 次世代インターネットの大問題は、ネットワークインフラの問題でも新プロトコルの登場でもない。じつはインフォテック環境に対するコミュニケーション主体をどのように育てていくかが問題なのだ。情報教育こそが次世代インターネットのありようを左右する重要な鍵を握っている。

3 インフォアーツとは何か

 そもそも情報教育の中で何を教育すべきなのか。そもそも現代の情報環境においてどのようにふるまうことが望ましいのか。そういうことを私たち自身が見失っている。だから情報教育の文脈でよく使用される「情報ハンドリング能力」概念のように「インフォテックの政治と経済」によって矮小化された特定の能力開発に焦点が当てられてしまうのである。

 とりあえず総称する概念を対置しよう。本稿では「リベラルアーツ」(liberal arts)の近未来形という意味で、それを「インフォアーツ」(info-arts)と呼んでみたい。「新時代の情報教養」あるいは「ネットワーカー的情報資質」という意味で使用したい。

 あえて新奇な概念を提案する第一の理由は「インフォテックの政治と経済」に抵抗するための対抗原理であることを明確にしたいからだ。第二の理由は、市民社会的情報環境を構築するために必要な現代的教養であることを示したいからである。そして第三に、対抗原理としても構築原理としても「情報のデザイン能力」が要になることはまちがいないだろうからだ。しかも情報科学やコンピュータ・サイエンスそして情報システムの文脈に取り込まれないように距離化したいからである。

 では「インフォアーツ」はどのような能力をふくむのか。私はインターネット・コミュニティにおいて画期的であったもの、あるいはそれを可能にしたものをきちんと整理して、それを新たな目標的価値として検討する必要があると考える。繰り返すが情報科学のそれではない。あくまでもインターネット・コミュニティの方を参照することだ。ここでは手短に想定される能力をリストアップしておこう。

 第一に、情報調査能力。インフォテックの文脈ではデータベース利用法に矮小化されてしまうところだが、情報や系統的知識を調査すること自体は必ずしもデータベースによる必要はない。それはたしかに有力で手軽な方法であって、たとえば三年前の今日に何があったかをインターネット上の無料コンテンツから引き出すといったことや、OPACを検索して適切な専門書をみつけるといったトレーニングをしなければならないにしても、情報の調査活動そのものは多様な形態をとりうる。そもそも図書館学的な世界になじむことが先決であろうし、文化全般についての幅広い教養的知識が要求される。また、たんに情報と向き合うだけでなく、情報が集中し、知識や経験の豊富な集団・人脈・コミュニティとの日常的なかかわりもそうした能力にふくまれる。インターネット上のコミュニティであれば、若い学生も専門家や事情通の人たちと同じ土俵で知識や議論と向き合うことができるのであるから、そうした場に積極的に参加していることも調査能力を高めるはずである。

 第二に、情報を批判的に吟味する能力。一般に「メディア・リテラシー」と呼ばれるものである。メディア・リテラシー概念自体は一方通行的なマス・メディアに対して批判的に吟味する力を教育しようという運動から生じている。「コンピュータ・リテラシー」「情報リテラシー」概念がマシンの操作やソフトウェアへの習熟といった狭小かつ無批判な内容を意味する(なぜなら、使用するマシンやOSやソフトウェアに対する疑念は封じられ、代替手段も選択できないのだから。環境への適応しか想定されていない)のと異なり、メディア・リテラシーは批判的態度で見ることを主眼とする。この能力を育成するためにはメディアや情報環境に対する社会科学的な基礎知識と、社会に対する構想力を育成する必要がある。

 第三に、コミュニカビリティ。ひとつは発表能力、もうひとつは他者との集団的討議能力がこれにあたる。前者については、たとえばプレゼンテーション、メール、そしてサイト構築において適切なインターフェイスを駆使する能力が問われる。サイト構築では、企画力や構想力も重要な要素になる。後者の討議能力については、同期的コミュニケーションである会議などでは、声の大きさや押し出しによって大きく左右されるが、非同期的コミュニケーションであるネットワーク上においては「ことば」だけで討議を進めていかなければならない。シビアに討議能力が検証される場面である。と同時に、ネットワーク上では共学習と共同知の作業が進めやすい側面もある。この点を日常的にきたえることが大切だ。

 第四に、シティズンシップ。この場合は「市民権」という意味ではなく「市民的能動主義」といった意味で使っている。まずネットワーク社会にあっては他者を容易に侵害してしまう可能性があるという実態について理解するとともに、他者を尊重した自律的なふるまいかたについて考える。「情報倫理」はしばしばネチケットに矮小化されて理解されるが、それは「見識ある市民」(well-informed citizen)の行為作法であるとの思想的理解と歴史理解が必要だろう。

 第五に、ユニバーサル・デザインの理解。言語・障害・社会的障壁への配慮と具体的手だてを知ること。地理的条件を比較的容易に克服できるインターネットの場合、他の要素とのキーが合わないということが生じやすい。たとえば性急な返事を期待するときに、相手の標準時や生活時間へ配慮するのは当然である。それと同じように、他の属性についても想像力豊かに考慮し対応できることが不可欠である。

4 苗床集団の育成

 最後に、こうしたインフォアーツを具体的に構築し発展させるための重要なポイントをひとつだけかんたんに指摘しておきたい。それは「苗床集団の育成」である。

 ネットワーク・コミュニケーションは基本的に非同期的であり、身振りも限定される。しかし、サイバースペースでは多様な人びとと接触しうる機会が非常に多い。それが適切に機能すれば、インターネット・コミュニティが「自省のメディア」として個人を市民化する苗床になりうるかもしれない。

 しかし、話はそうかんたんにはいかない。とくに日本語圏の場合、アメリカやヨーロッパのように成熟した市民的文化が前提できない。ネットワークで鍛えられたネットワーク市民もたくさんいるが、今となっては「先住民」あるいは「少数派」である。このような文化を継承し、より高度化させていくためには、対面的な関係が苗床集団に存在していなければ無理である。社会学の知見が示すように、人間は個人である前に集団成員である。人は自分の準拠集団にそって自分の考えを定め、行動をとる。準拠集団は必ずしも所属集団であるとはかぎらないし「想像の共同体」であってもかまわないのだが、それでもやはり第一次的関係である「パーソナル・インフルエンス」は強力である。

 教育の現場は直接的な対面集団の場である。地域的に近接している個人がじっさいに対面してコミュニケーションの調整をすることが容易だ。この利点はサイバースペースには望めないもので、とくに未成年の市民化には適しているはずである。その点で、教育機関主体のコミュニティ形成はネットワーク市民形成にとって非常に強力な苗床集団になりうる。これこそネットワーク社会において、まさにこれから果たすことのできる教育機関の使命である。

 その意味では、インフォテックを利用して対面しないままに教育しようとするのは、逆方向ではないかと思う。昨今ブームになっている遠隔教育はこの点で大いなる勘違いをしていることを指摘しておきたい。このように「インフォテックの教育」はことごとく逆向きである。

 以上、本稿で私が主張したいのは、社会全体で教育目標としてのインフォアーツを見定める必要があるのではないかということである。インフォテックが、大衆(mass)のメディアつまり「マス・メディア」ではなく、能動的な自律的市民にとっての日用品的なメディアつまり「シビック・メディア」になりうるかどうかは、人がサイバースペースで何をするのかに依存する。インフォテックが自動的に電子民主主義を約束するわけではない。インフォアーツをもつ人たちがインフォテックを活用して(ときにはそれを廃棄して)、新しい社会は構築されるはずである。

参考文献


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