Socius  ソキウス   著作+制作 野村一夫
 http://socius.jp 

現在地 ソキウス(トップ)>インフォテック対インフォアーツ

インフォテック対インフォアーツ
インターネット関連言説における構図転換のための試論

初出「生活協同組合研究」vol.305、2001年6月号(生協総合研究所)
特集 インターネットとくらし


1 大公開時代を回顧する

 インターネットに関しては,この七年をとっただけでも,じつにさまざまなことが生じている。本稿では,細かな枝葉をあえてはぶいて,それらの通奏低音をなすと思われる,ひとつの骨太なストーリーを描いてみたい。そして生協運動がインターネットに参入する意義がどこにあるのかを理念的に考えてみたい。

ネットワークが市民を育てる

 1990年代前半にはすでにパソコン通信を中心に「ネットワーク市民文化」とも呼ぶべき文化がそれなりの成熟を見せていた。そして1995年,かんたんに日本語表示できるブラウザが現れ,専門のプロバイダーによって一般市民のインターネット接続が格段に容易になって一気にインターネットが拡大普及過程に入り,それとともにネットワーク市民文化も一大勢力に発展するかに見えた。

 じっさい1996年いっぱいまでは,パソコン通信においてもインターネットにおいても,一般のネットワーカーたちによってサイバースペースでの振る舞い方についての規律がかなり周知されていたように思う。ニューカマーは口やかましい先輩たちに細かく指導され,それに適応することがネット以外の俗世間に対する優越感とともに受容される文化があった。それは一種の相互承認の文化ともいうべきもので,ネットワーク・ディレッタントたちが相互に「鏡」になって,一種の市民的自己再形成を促進していたのである。

 それゆえ,所属組織から自由に討議し問題解決に向かおうとする自律的個人(つまり市民)の苗床としてサイバースペースが機能し始めているかに思われた。言うまでもなくインターネット礼賛のひとつのパターンがこれであって,私自身も,個人がネットワーク・コミュニケーションによって市民的に社会化されるプロセスに大きな可能性を見て,研究者というよりも一市民としてネットワークに参加することに大きな意義を感じたものである(野村一夫『インターネット市民スタイル』論創社,1997)。

 当初は,公開すること自体に意味があった。論文,ニュース,自己紹介,日記,クレーム,悪態・・・。とくに秘されてきたものをあからさまにし,有料だったものを無料にし,閉鎖的だったものを開放し,プライベートなものをパブリックにすること自体に文化的革新があった。それによって,公的組織に対して私的集団の声が,正統派より異端や周辺の声が,組織より個人の声が,専門家よりディレッタントや素人の声が,それぞれ相対的に増幅されて,従来の日本社会では「絵に描いた餅」と思われてきた市民的公共圏がいよいよ現実のものになったかのようだった。多少のゆれをもちつつも,多くの社会学的研究が,この点を検証しようとしてきた(たとえば吉田純『インターネット空間の社会学』世界思想社,2000)。

〈インターネットの導入=市民主義的転回〉構図の崩壊

 インターネットの導入が市民主義的転回を導くという構図には先行条件があった。その条件とは「インターネット先住民文化」である。もともとインターネットはその開発過程における市民主義によって独特の展開をとげてきた技術であり,それは市民主義的ネットワーク文化と伴走して普及したものだ(古瀬幸広・廣瀬克哉『インターネットが変える世界』岩波書店,1996)。そこに他の情報技術と明確に異なる特性がある。その原理は「オープン」「ガバナンス」そして「フリー」といったことばに代表される一種の信頼システムである。

 木村忠正・土屋大洋『ネットワーク時代の合意形成』(NTT出版,1998)の整理によると,ガバナンス原理(インターネット・コミュニティ・モデル)は次の構成要素からなる(22ページ)。

 (1)ボランタリー・コミットメント,ボトムアップ
 (2)非営利性・公益性
 (3)開放性・可塑性・連結ネットワーク性
 (4)情報透明性・説明義務
 (5)ピア・レビュー(仲間内の評価)

 じっさいインターネット関連の技術開発自体がこのガバナンス原理によって構築されてきた。それはたしかに「先住民文化」ではあるが,リナックスの興隆に見られるように,現在に至るその後のネットワーク文化の機動力とエートスにもなっている。その意味では,すべてとはもはや言えないにしても,ネットワーク文化の最先端部を担っているのは現在でもガバナンス原理である。

ガバナンス原理の変質

 しかし,これらの構成要素はもともと脆弱性をもっていた。技術エリート主義的な色彩をもつこと,そしてプライドや優越性を前提とする市民性でもあった。もちろんそれ自体が悪いことではない。しかし,先端部以外のサイバースペースにおいては,そういう文化を知らないか,あるいは共有できないか,共有する意志のないきわめて多数の人びとや組織が参入する中で,なし崩し的に「先住民文化」は忘却され,多くのネットニュースやメーリングリストで繰り広げられたように,フレームの標的にされたり過去の遺物あつかいされたのである。また,見方を変えると,ガバナンス原理が市民主義的ネットワークを生むとはかぎらず,まったく逆にネオナチ的ネットワークをも生み出しうるものなのである。

 さて,それらの潮流がある程度定着して一段落してみると,今度は解決すべきさまざまな問題が山のように放置されていることが見えてきた。もはやインターネットを語る人たちの目線は,著作権問題や犯罪・自殺への荷担,有名サイトへのアタックやウイルスの脅威,そして人権侵害などのダークサイドに注がれている。

 また,ひとたびインターネットが既成の組織文化に取り込まれると,ガバナンス原理が変質してくることになる。もちろん,組織がインターネット導入を機に従来のコミュニケーション関係の見直しを余儀なくされるという事態は多々あった。それは大いに喧伝されていることである。しかし,インターネットのもつ開放性や情報民主主義がそのまま組織に適用されるわけでないことは当然である。

 さらに企業組織がインターネットに参入することで、インターネットにおけるナヴィゲート構造の閉鎖化が随所で生じていることを忘れてはならない。インターネットにおいても一定数の顧客を囲い込んで初めて利益がでるということは強く意識されている。ちなみにインターネットにおけるその傾向をあえてマーケティング的に抽出して自前のネットワーク上に再現したのがi-modeだったわけだが,その露骨なコンテンツ囲い込み戦略がのちに批判された。このように,企業はオープンなネットワークを構築しようとはしないものだ。

2 情報工学的転回

専門家支配の巻き返しとリスク・コミュニケーション

 こうして「ネットへ公開すればよし」という大公開時代は終わり,世紀の転換期あたりになると,これらのダークサイドに対して二つのリバウンド,言ってみれば「巻き返し」が始まっている。一部ではすでに状況を反転させつつある。

 ひとつは,既成の制度によって正当化された専門家たちによる反撃である。この場合の専門家とは,主として情報工学の専門家や技術者のことである。もうひとつは,情報教育への視野転換が生じていること。「高度情報社会が絵に描いた餅にならないようにするためにはユーザー教育が必要である」といった言説がすでにITの名の下に政治的日程に現実化していることである。

 これらは一見して「よい傾向」のように見えるかもしれない。あるいは教育という限定された領域の話のように見えるかもしれない。しかし,その内実においては,大きな問題をはらんでいる。

 第一のことについては,広い意味での「セキュリティ管理」という名の管理思想が制度化されつつある,と言っていいだろう。かつては「ルーズすぎる」としてインターネットに冷たかった旧来の情報工学主流派が方向転換し,今ではインターネットに積極的に参入している。かれらがそのさい強調するキーワードは「セキュリティ」である。

 ちょうど医療者集団が病気や死のリスクを楯に人びとを近代医療システムに取り込んできたように、リスクをキャンペーンして人びとを囲い込むのが伝統的な専門家集団の常套手段である。

 一気に進んだイントラネット化,そして何重にも封印されるデータ,外から見えない・外に出ようとしない高価なだけのクローズド・システム・・・。これらは,累積された事なかれ主義の産物という側面をもっている。そして,専門家集団特有の行動様式と態度が濃厚に反映している。

 たとえば次のような文章がある。「システムを取り巻く要素で最も脆弱な要素が利用者,特に,一般の利用者である。[中略]この意味で,利用者を適切に教育し,セキュリティに対する意識を高め,さらに,適切なツールやアプリケーションを使うように指導することで,利用者が一種のセキュリティホールになることを防ぐことが可能になる。」(林紘一郎ほか編『IT2001――なにが問題か』岩波書店,2000,128-129ページ)

 「身体にフィットしたファッション」ではなく「ファッションにフィットした身体」を指向するのと同様に,「ユーザーにフィットしたシステム」ではなく「システムにフィットしたユーザー」が指向されているのをここに見ることができる。専門家集団の人間観をはからずも表す表現である。情報工学が「教育」を必要とする文脈はここから生まれるのだろう。従来のように技術者を教育するだけではなく,ユーザー自体を教育する必要があるということだ。

情報教育の工学化

 インターネットを中心とする情報教育に関しては,じっさいには情報処理学会を中心とする情報工学系の専門家集団が覇権をにぎる勢いにある。

 大学の教養課程や経営学部に「情報」を冠した改組がおこなわれて情報工学系の専門家が大量に流入するようになった。たとえば「社会情報学部」の名において教養・社会科学・人文学系の学部の情報工学化が現在進行している。一見すると,ユーザーにとってのローテク技術であるインターネットがコンテンツにおいて「二つの文化」(C.P.スノー『二つの文化と科学革命』みすず書房,1999)を統合するかに見えるけれども,従来の工学部や情報科学部に新たに社会学者や哲学者が加わることはまずない。結局は情報技術分野の専門家支配が構築されつつあるということだ。

 また,現在「情報」担当教員の教職課程が大学に新設されつつあるが,このまま推移すると,情報教育の工学化は決定的なものになるだろう。その意味では「デジタルデバイド」問題の政治的構築性にも留意すべきである。情報や知識の不公正な社会的配分の問題として提起されているように見えて,社会的不公正の事態を技術的に解決できるかのような問題構成になっているのではないか。じつはITこそが人びとを分断し続けているかもしれないのに。

 こうしてITの掛け声とともに情報教育はたんなる技術教育あるいは理科教育の一分野に矮小化されつつある。それは個人の豊かなコミュニケーション能力を育てるためというより、国家レベルでの国際競争力・産業育成のためということで正当化されるのであろう。

 しかし情報教育のスタンダードをだれが決めるべきなのか。情報教育の目指す文化目標は何か,人間像はどのようなものか。当初打ち上げられた理想像は,現実の施行過程においてどんどんインフォテック寄り,つまり技術中心主義になっているのではないか。そのプロセスにおいて,特定企業への利益誘導がなされ,資格を設定することで天下り法人が新設されている可能性はないか。現在「情報」を冠した資格が次つぎにつくられているが,規制緩和以前に隆盛したワッペン商法の復活ではないのかと疑ってみる必要がある。上記の「情報」教職もそういう文脈で見なければならない。

3 対抗原理としてのインフォアーツ

文化目標としての市民的教養の再編

 そもそもIT(=インフォテック)に対する対抗原理の不在が問題だと思う。IT政策に批判的な論者は概してローテクすぎて実態に即さないものが多い。たとえば「教養」の復権が指摘されていることにとくに反対はしないが,新しいメディアそしてコミュニケーションに即した知的能力を表現することばが必要だ。

 そこで私は「インフォアーツ」という概念を提唱したい。「インフォアーツ」は「リベラルアーツ」(教養)を模して私が創作したことばである。

 これまでのリベラルアーツが,高級文化に根ざした討議空間や文字文化・印刷メディアに依存したものであったことはあきらかであって,20世紀になってからは,からくも〈大衆文化対高級文化〉という棲み分けの構造において存続してきたものである。この棲み分けがもはや崩壊寸前という認識は当然だと思う。私たちの前にあるのは,新中間文化ともいうべきハイブリッドなメディア媒介文化である。ハイブリッドであるから,コンピュータの操作ができるだけでは話にならないわけで,そこで得られる情報の吟味や能動的探索ができなければならないし,図書館や書店に並んでいる無数の情報パッケージや新聞や放送での情報の比較・吟味も必要である。また,メールやメーリングリストや掲示板などによって討議して認識を深めたり問題解決をめざしたり,コミュニティを形成してゆく関係構築的能力も必要だろう。また,さまざまなツールやメディアを駆使してビジネスを展開するノウハウを学ぶことも必要である。このようなことをすべて情報工学が教えられるのだろうか。言うまでもなく,担えるのはほんの一部分だけである。

 結論からいえば,図と地の転換が必要ではないのか。インフォテックに適応する能力開発ではなく,インフォアーツのための「技」を構想すべきではないのか。インフォテックは,あくまでもその「技」の一選択肢にすぎないということを明確にしておきたい。

 しかし,それにもかかわらず,ネットワークを駆使する能力がなければ,インフォテックによって完全装備されつつある制度的システムに対抗できるはずがない。インフォアーツ,すなわち市民的文化構築に必要な人間的条件がいったい何なのかを自らに問いつめる必要があるのではなかろうか。

生協運動とインターネット

 最後に生協運動についてかんたんに述べておきたい。

 パソコン通信時代から個人としてはかなり活発な活動があったものの,そしてインターネット先住民文化が生協運動と親和性の高いものだったにもかかわらず,最も生活に密着した地道な市民主義活動とも言える生協組織が全体としてインターネットに冷淡だったことはそれなりの理由があるだろう。地域密着の生協が,グローバルレベルに拡散しうるインターネットとどう折り合うかの見当がつかないこともあっただろうし,購買活動において重要な決済の問題が残ったこと,つまり初期においてインターネットの最大の弱点である,信頼性の高い決済システムを持たなかったことも響いているのだろう。

 しかし,インターネット先住民文化が体現していた直接民主主義的な市民主義が,インターネットそのものの規模の驚異的拡大によって,相対的に孤立した島になってしまっていることは事実である。自律的個人が自由に発言し行動すると言っても,それにはやはり,ある程度組織された大きな苗床集団が必要なはずなのに,サイバースペースでは苗床としての機能を果たしていない。これは労働運動においても同じことが言えるのだが,上部組織の認識の甘さがここにきて大きく響いていると思う。

 脆弱な市民発信を促進し,社会において欠落しがちな情報を積極的に提供し,市民的ネットワーキングを支援する。そのインフラを生協が提供することは,生協運動発展の視点から見ても当然であるし,そこでのコミュニケーションを自浄作用につなげることもできるだろう。たんにIT政策に乗るのではなく,現代的文化構築能力としてのインフォアーツ形成の環境づくりに貢献するとの目的意識を明確にした上で積極支援をしてほしいと思う。

Info-tech vs. info-arts: an essay on the internet related discourses


現在地 ソキウス(トップ)>インフォテック対インフォアーツ
SOCIUS.JPドメインへの初出 1/4(Tue), 2005  
このページのURLは http://
Kazuo Nomura(野村一夫) 無断転載はご遠慮ください。リンクはご自由に。
Valid XHTML 1.0!Document type: XHTML 1.0 Transitional