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インターネットと大学教育のクロスロードで

初出 『IDE--現代の高等教育』民主教育協会、1997年8月号 特集 情報化と大学


1 クロスロード特有の困難

 現在は導入期特有の熱気と新奇さに導かれて活気づいているが、そもそもインターネットの文脈と大学教育の文脈とは方向性がちがうのではないだろうか。
 たしかに大学はインターネットの育成地である。けれども基本的にインターネットは教育的文脈から発生したものではない。あくまで研究の文脈から発生し展開したものだ。研究であればグローバルなネットワークは役に立つ。各地に散った研究者たちの連絡用としてEメールは最適であり、メーリングリストは集団討議や打ち合わせにもってこいである。WWWは掲示板としても便利だし、系統的に資料を提示するのに適している。
 けれども、教育となるとちがう。もともと研究が「インター」だとすれば、教育は囲い込む「イントラ」の傾向が強い。研究は「語られること」が中心だが、教育は「語る主体」自体が中心だからだ。本来は別の道である。対面可能性のある人たちのあいだのコミュニケーションを活性化するという意味では、ローカルなイントラネットで十分である。
 したがって、大学教員が長期間に渡ってインターネットを駆使して教育活動を行うには、おそらくさまざまな困難が生じるはずである。学生に勝手にインターネットを使わせておくというのであれば話は別だが、教員自身がインターネットを使って本格的に「教育」をしようとすると、さまざまな問題が生じうる。熱意のある多くの教員たちがインターネットと大学教育のクロスロードで立ち往生する日も近いのではあるまいか。
 困難は次のような形で現れる。第一に時間がない。第二に手間がかかる。いうまでもなく時間という稀少な資源は研究者の宝である。手間といっても、技術的なことは何とでもなる。むしろ手間のかかるのは他のことだ。インターネットはインタラクティヴなメディアだ。質問があれば応答しなければならない。批判があれば反論しなければならない。コミュニケーションは本来わずらわしいものなのだ。話しっぱなし・書きっぱなしではすまない世界がそこに現出する。
 技術的訓練のコストも膨大だ。ネットワーク・システムはキャンパスによって微妙に異なる。それに対応したテキストも用意しなければならない。たとえば、たまたま入手できた熊本大学のテキストを読んだが、たいへんな労作である。若手の驚異的な(ほとんど無償の)努力なしにはありえないと思う。「好きだから熱心にやってるんだ」という評価をする人がいるが、それは大きなまちがいである。そこまでやらないと話が始まらないから熱心にやらざるをえないのである。
 メーリングリストを始めるにせよ、ウェッブを公開し始めるにせよ、ただではすまない。盛り上がらなければ問題ないが、ひとたび人気が出てくると質問メールの嵐が始まる。初心者ほど質問が多く、答えるのは容易でない。イントラネットであれば学生相手だけですむが、インターネットで一般公開されていると、学外の人たちが相手である。ここで「専門家のコンビニ化」とも呼ぶべき現象が始まるわけで、これはまったく見返りのないサービスになる。これをどう捉え返すかが問題になる。
 要するに「お金にも業績にもならない文章を書き続けられるか」という真に思想的な問題が突きつけられるのである。
 これはさらにリスクや損失をも伴う。たとえば印刷媒体の二次利用の問題がある。紀要論文をウェッブ上に上げることはかんたんだ。けれども、それが一般の雑誌に掲載されたものであったり、本として販売されているものとなると、話はとたんにややこしくなる。本を公開するとなると、版元に損害を与えることも考えられるわけで、それなりの交渉が必要になる。
 学生に自由に使わせるリスクもある。学生は消費者であることになれている。メディア文化漬けの日々を送っている学生がホームページをつくると、いともかんたんに著作権侵害をしてしまうものだ。だれが責任をとるのか。
 こうなると、否が応でも「何のためにオープンなインターネットを使うのか」という問題が浮上せざるをえない。そのエートスが問われることになる。この思想的課題に応えられないと、一般企業がそうであったように、せっかくのインターネット接続が学内専用イントラネットというクローズド・システムへ退行してしまうのは時間の問題である。

2 だれと語るのか

 問われるべき課題は少なくとも三つある。研究者であり教員の立場から、それぞれに私なりの解答をそえておこう。
 第一に「だれと語るのか」という問題。「だれに語るのか」ではない。インターネットは一方通行のメディアではないからだ。
 たとえば、海外研修中の教員が日本に残されたゼミ学生の卒業論文の指導をEメールでやったという話をうかがったことがある。一部を見せていただいたが、ものすごい手間である。こういうことは例外であろう。けれども、あらかじめ面識があり、コミュニケーションを深める制度的理由があって、なおかつ対面できない状況が続くときにはインターネット(この場合はメーリングリスト)はたいへん有効であるといえる。
 逆に、一般学生の教育では学内LANの活用で十分といえなくもない。とくに学内専用のメーリングリストの活用は効果的だろう。
 では、あえてインターネットにする理由は何か。それは学生のコミュニケーションの縦軸と横軸を拡大することにある。学内にとどまりがちなコミュニケーションを卒業生や他大学や社会人に広げること。インターネットは遠心力の強いメディアである。求心力だと対面的なパーソナル・インフルエンスにかなわないが、こうした多面的で遠心力の効いたコミュニケーションは、仲間集団に自己を埋没させがちな学生を自律的な「個人」にする教育効果をもつはずである。
 受け手に慣れきっている人が送り手になることで視点が変わるという効果もある。コミュニケーションは送り手の立場になってはじめて真剣に考え始めるものなので、これはよい経験になるはずだ。いうまでもなく学問の世界はもっともシビアなコミュニケーションの世界である。その意味では、いっそ自由放任にするのが上策なのである。
 ただし、私の実感からいえば、インターネットは、ふつうの学生ではなく大学院生やその予備群に有効である。かなりインテリジェンスな層ということになる。万人向けではないということだ。
 以上の話をふまえた上で私自身が強調したいのは、じつはまったく別のことだ。それは学外に対する教育効果である。私の経験では意外に生涯学習的需要が多い。最近でこそ現役学生からのメールが増えてきたものの、私が社会学のホームページを公開していて、じっさいに主流を占めるのは社会人との交流である。もちろん社会学という学問に一般の人たちが期待していること(それはしばしば過剰な期待である)に由来するのであろうが、社会人をふくめて、相談役を求めている層が相当多数存在する。学内ネットワーク外の孤独な学習者の教育的救済こそ、じつはインターネットで大学関係者に望まれていることなのである。
 パソコン通信ではニフティサーブの「生涯学習フォーラム」のような存在があるが、教員自身も大学や学会単位でそうしたコンサルティング的なことをやってもいいのではないだろうか。つまり、インターネットをからめると大学教育はもはや学内にとどまるものではなくなるということだ。問われているのは、それを大学人が積極的に意義づけられるかどうかである。

3 科学ジャーナリズムの可能性

 第二点も、対社会的な意義にかかわる問題である。
 たとえばWWWに話を絞れば、学生を巻き込んでゼミのホームページを立ち上げたり、研究者自身が系統的に専門知識を整理したホームページを公開するとき、それは何のためになるのだろうか。学内外の教育環境の整備・研究者同士の親睦・事務的手続きの簡略化など、それなりに評価できる役割を果たすのはたしかである。
 しかし、わかりやすく気軽なインターフェイスで専門分野について発信することの、もうひとつの意義を忘れてはならない。それは科学ジャーナリズムの機能を果たすということだ。
 自然科学にせよ人文学にせよ社会科学にせよ、一般の人たちはよくわかっていない。マス・メディアで働く人びともそうである。あるテーマでどういう研究がなされているのか、どういう研究者がいるのか、その内容はどんなものなのか。こういったことを図書館で調べるのは容易ではない。そもそも図書館に足を運ぶことさえ、一般の人にとっては負担に感じるものだ。
 WWWの場合、サーチエンジンの発達によって、一般の人でもかなりの確率で目指すリソースに直接アクセスできるようになった。しかも、ラフなスタイルを尊ぶネットワーク文化のおかげで、印刷物ではなかなかできないような、くだけたスタイルで専門知識を語ることができる。この効用は大きい。
 「インターネットで調べたもので卒論書くな」という教員も多そうだが、なるほど現状では研究としては使えないかもしれない。しかし、科学ジャーナリズムの機能は立派に果たすのだ。
 日本のジャーナリズムは概して科学ものに弱い。専門の記者を育てない風土が背景にあるからだが、これがトンチンカンな科学報道を繰り返してきた。やはり専門家自身がふだんから専門知識の社会的配分に気を配るべきなのだ。そもそも専門家がリソースを社会に提供しないで、いったいだれが提供するというのか。これは専門家の社会的責任である。
 その意味では、論文はもちろん、本の一部でも公開することをすすめたい。とくに品切れの著作はネットワーク文化への貴重な貢献となる。私自身もそういう考えから、電子データの残っている論文や自著をなるべく公開するようにしているし、ときには草稿さえ公開してしまう。定価のついた本については、ほんとうは出版契約を前提にしたシェアテキスト以外に道はないと思うが、二次利用であるかぎり、なんとか了解が取れるものである。要はそれをする意志があるかどうかの問題である。

4 市民としての研究者

 第三に、趣味や私生活を語ることの重要性について。ホームページづくりがしばしば自己目的化してついつい熱中してしまうのは、ひとつには「自己言及の快楽」とでも呼ぶべきところがあるからだ。しかし、こういう側面に「自己満足」というレッテルを貼るのは皮相な理解である。
 自分をオープンにするということは本来リスキーなことだ。自己宣伝といわれるのをおそれる日本的な風潮も根強く、それゆえ、作者がどんな人なのかわからないホームページも多いのだ。
 しかし、研究者・専門家・教員がじつは多様な役割を担っている市民の一員であり、学術的な知識がひとりの人間にポリフォニックに鳴り響いているという現実を提示すること――これはとてもたいせつなことだと思う。
 学問の領域について教えた相手から、今度は趣味の領域で教えられることがある。たとえばお医者さんに社会学を教えるとともに、病気については教えを乞うといった経験。学生の質問に答えて、競馬について教えてもらうといった経験。多様な自己を提示することは、こういう回路を開くことになる。発信者自身が期せずして学習するような相互学習過程が始まるのだ。多面性の提示がコミュニケーションの相互性を生み出す。だから自己言及が必要なのである。
 そういうプロセスは専門家にある種の自省効果を生むはずだ。たとえば従来の社会科学は長らくジェンダーの問題に鈍感であった。軍隊と同じようにいびつな男女構成比の大学社会に長年暮らしていると、その鈍感さに気づかないですませられたからだが、こうした相互学習過程が研究者の側にバランス感覚を育てることになる。たえずオープンな自己言及の場をもつことは、そういう自省効果を生むのだ。

5 コミュニケーションの文化を育てる

 以上、ふつうこういう文脈では言及されない点にあえて絞って論じてみた。
 総じていうと、インターネット時代の大学の使命は、ネットワーク上に理性的で健全なコミュニケーションの文化を率先してつくりあげることだと思う。それを学生や社会人に手本として示し、つまり自ら実践し、その原動力となり、それに人びとを巻き込むことだ。まさにこの点で、クローズドなイントラネットではなく、オープンなインターネットでなければならないのだ。
 「インターネットに関しては感度のいい学生や大学院生にはかなわない」と、初めからリタイアを決め込む教員が多い。しかし、学生たちと同次元に立ってはじめて、教員の力量が学生にとって可視的なものになるのではないか。そう考えれば、今がいいところを見せる勝負時でもある。コンテンツで明白な差をつけることで教育的威信をつけるチャンスと考えたいものだ。
 所詮、教育とは自己教育であり、それは学ぶ者の自己教育である。私たち教員は学生に向かって何度もそれを強調してきた。けれども、それと同時に、教育は教える者の自己教育でもあるべきなのだ。そちらを不問に付して、学生にだけ自己教育の重要性を説くのはまちがっている。教員が知らず知らずのうちに陥っているこのダブル・スタンダードに気づくことが先決であると思う。
 大学教育とインターネットのクロスロードは実践的かつ自己言及的な場所であり、学問に対する私たち自身の思想が試される場所なのである。


現在地 ソキウス(トップ)>インターネットと大学教育のクロスロードで
SOCIUS.JPドメインへの初出 1/4(Tue), 2005  
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