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ネットワーク時代の情報倫理とインフォアーツ

初出 『看護展望』2004年3月号(Vol.29 No.4)特集 看護基礎教育における患者情報の取り扱い


1.コンピュータ倫理から情報倫理へ

 昔からあるようでいて、じつは「情報倫理」は新しい概念である。

 もともと情報倫理は1980年代に「コンピュータ倫理」として始まった。パソコンはすでにあったけれども、この場合の「コンピュータ」とは、おもにメインフレームと呼ばれる専門性の高いものを指している。つまりそれはもっぱら専門家たちのものとして考えられており、それに携わる専門家の職業倫理として「コンピュータ倫理」が必要とされたのである。たとえば管理者の権限とモラルを明確にしておこうとか、セキュリティ・ポリシーをどのように設定するかというような問題である。

 それは情報処理の分野においては、膨大な技術的知識に対して「おまけ」のような位置づけで議論されてきた。総じて技術系の専門家は、技術的知識を第一義として考え、その運用における社会的問題を付随的なものと考えるからである。

 しかし、パソコンの普及や職場での日常的使用、データベースの高度化やインターネットの発達によって、コンピュータを媒介した情報の取り扱いについて、一部の情報技術者だけが職業倫理として考えればよいという時代ではなくなった。

 こうして「ユーザー教育が必要である」として教育的側面が大きくクローズアップされるようになる。さらに情報概念の拡張的使用によって、必ずしもコンピュータを介在しない情報のありようについても問題化してきたために、「コンピュータ倫理」は「情報倫理」(information ethics)と呼ばれるようになり、教育的プロセスに課題として登場するようになるのである。

 この転換は英語圏より日本語圏のほうが早かったように思う。というのも、日本ではコンピュータ使用のことを「情報処理」と呼んできた経緯があり、「情報」イコール「コンピュータ」という使い方が専門家によってなされてきたために、情報処理に関する職業倫理として「情報倫理」ということばが早くから使われてきたからだ。

 その一方で、1970年前後からの情報化社会論の影響によって、日本では情報概念が拡張されて使用されてきており、必ずしもコンピュータを介在しない他の分野や領域においても、情報の取り扱いが問題にされてきた。たとえば患者情報に対する医療関係者のあり方、弁護士や会計士の業務上知りえた情報の取り扱い方なども、「情報倫理」の問題に合流して考えられるようになった。

 とくに医療の文脈では、まったく独自に守秘義務という古式ゆかしい概念があり、近年では病名告知やインフォームド・コンセントの問題があった。これらと呼応したところがあるために、医療分野においては「情報倫理」という問題群が違和感なく受容されたように思う。

2.なぜ「倫理」なのか

 なぜいまさら「倫理」なのかという問題はある。「心がけ」とか「道徳」といったものではない。そうした主観的な感情ではなく、システムとしてビルトインしておくべきルールとして「倫理」が要請されているのである。

 そもそも現代社会において「倫理」が問題化するようになるのは、事態がもはや予定調和的には作動せず、自動調整不可能な、非常にリスキーなことになっている場合が多いからである。とくに、技術の高度化とシステム利用の広範囲化によって、ごく一部の局所な問題がシステム全体の存続にかかわる死活問題に連動してしまうような場合がそうである。

 たとえば環境倫理の場合、「共有地の悲劇」(個人が自分にとって都合のよい選択をした結果、全体の環境が悪化してしまい、各人も損失を受けること)というジレンマを回避するために、事前に政策的手段を講じておいて、後続世代に対して健康被害や損害を与えないようにしようということである。ひとたび破壊された自然環境は、あとからはなかなか復元できないからである。

 報道倫理というものもある。報道をつかさどるマス・メディアがさまざまな倫理的自主規制をおこなっている。たとえば差別表現を事前に回避する校閲過程を設定したり、犯罪者とみなされた人に対しても人権を守るという配慮をした表現を取るといったことをする。松本サリン事件のように、被害者である第一通報者を根拠なく犯人視した結果、一種の冤罪事件を生じさせ、さらに事件の解決が遅れる背景的要因になったことを想起すると、報道倫理の必要性も明らかであろう。

 近年注目されているのが企業倫理である。たとえば雪印問題にしても、ごく一部の不手際が企業の存続そのものを左右しかねないというのが、現代の情報環境のなせる業である。業務内容のすべてにおいて倫理を徹底しておかなければ、トラブルが生じたさいに事件化し致命的なダメージを受けかねないのである。

 もちろん医療倫理もそのようなものとしてある。たとえば「患者の秘密をもらしてはならない」という守秘義務にしても、かつては医師が黙っていればすむことだった。つまり何もしないことで、それはある程度実現できたかもしれない。ところが、今日において「何もしない」というだけでは患者情報を守ることはできない。チーム医療の時代になって久しく、情報システムによって患者情報は共有され、多くの関係者たちが参照できるようになっている。医療現場全体、つまり医療関係者とシステム環境にこのような倫理が徹底されていなければ、患者情報を守るのは難しい。

3.ネットワーク時代の情報リスク

 情報倫理の場合も同様であるが、ふたつの側面があると言える。ひとつは情報システムやネットワークに関わる電子情報の取り扱いに関する倫理であり、狭義の情報倫理である。もうひとつはもっと広い意味での情報一般の取り扱いに関する倫理である。上に列挙した各種の倫理においても情報倫理の側面を持っているが、それは広い意味でのそれである。現代の医療現場においては、この二重の意味において情報倫理が論じうる。

 まず狭義の情報倫理について。医療現場に情報システムが導入されて久しい。電子カルテも普及途上にあり、これまでそういうものと無縁と思われてきた業務領域にもさまざまな情報支援システムが構築されつつある。医療情報についてはますます電子化されることはまちがいないだろう。さらにネットワークによって情報を複数の医療機関で共同利用したりすることで、医療情報はますます多角的に利用されるようになりつつある。

 これは同時に高いリスクを発生させるということでもある。情報というものは便利になればなるほどリスクも大きくなる。

 たとえば検索可能性について考えてみよう。データベースに格納された医療情報から必要なものを取り出すのは、かんたんにできる。ある特定の人物の情報が閲覧できるのは当然として、特定疾患の病人リストといったようなものも作成できる。巨大なデータベースが個人情報を集約させやすくした結果、大量のプライバシー侵害を起こす可能性が生じているのである。

 これらの情報がひとたびインターネットに流出すれば、それは元には戻らない。インターネットの怖さは情報公開の不可逆性にある。いったん公開されたら、たとえ一日で削除したとしても、どこかに残るのである。その情報が話題性を持つとなると、掲示板などで一気に周知され、同時に複数個所にコピーされる。悪意のある場合だけではなく、検索エンジンや公的なアーカイブ活動によっても保存され、公開される。

 それらが「マッチング」や「マイニング」と呼ばれる手法によって、検索され、グルーピングされ、再加工されて利用されることになる。インターネット時代における情報の独り歩きは想像を超えるものがある。それはワールドワイドな流言的構造をもつのであるが、「人のうわさも75日」どころでなく、世紀単位で保持され続ける可能性さえある。それらをコントロールすることは事実上不可能なのである。私はインターネット時代における情報リスクの最たるものが、この残存性だと思う。

 わずかなミスや不作為によってコントロールに狂いが生じると情報が非常にリスキーなものに変容してしまうということである。それだけに、情報倫理は、専門的な職種に従事する人が従うべきとされた倫理から「万人の倫理」に拡大したと言えるだろう。つまり、情報倫理の現場が拡大したということである。

 広い意味での情報倫理についても、さまざまなジレンマがある。いかなる現場においても情報に関するさまざまな要請があって、それがジレンマを生むのである。

 まず情報秘匿の要請がある。組織内で生じるセンシティブな情報を外部に漏らしてはならないという要請である。ところが、情報公開の要請もある。秘密主義では組織の信頼性は保てない。そして情報利用の要請がある。いったん構築された情報システムがあれば、現場ではその膨大な情報を使うように指導される。そして情報共有の要請。各部署単位や医療機関内で完結されていた情報を他の部署や機関によって共有しようという動きが活発だ。たしかにそれによって不便が解消するのはたしかである。しかし、情報共有は情報秘匿を困難にする。リスクは格段に高まる。

 こういうジレンマの中で、現場では、たえず情報に対する価値判断が問われるようになる。その判断はとても困難である。高度な情報倫理の感覚が個人に要請されていると言えるだろう。

4.情報教育とインフォアーツ

 ネットワーク時代における情報のありように対しては、高度な情報倫理を身に着けた人間が対応しなければならない。情報システムを担当するプログラマーだけが気をつければすむという段階ではない。

 つまり、情報とメディアとネットワークに関する新しい基礎教育が必要になっているということだ。ネットワーク時代は新しい情報教育を必要としているのだ。

 しかし、看護教育においてもそうだが、一般の大学教育においても、情報教育が技術的なハンドリング能力に矮小化された能力に偏っていることに教育関係者が何の疑問も抱かない現状がある。たしかにパソコンを操作でき、病院や企業の情報システムに参加できるようになることは大切である。しかし、このようなインフォテックな(技術先行型発想による)教育に対して、もっと包括的な能力の開発を構想しなければならないのではなかろうか。

 それは総合的な情報倫理教育である。私はそれはメディア・リテラシーの先にあるものだと考えている。

 そもそもメディア・リテラシーとは、マス・メディアによってもたらされる情報に対して批判的に読み解く能力を指している。「批判的に」というところが重要である。

 同じ「リテラシー」でも「情報リテラシー」や「コンピュータ・リテラシー」と呼ばれるものは、たんなるマシンへの適応能力にすぎないもので、批判的に取り組むことは期待されていない。総じて情報教育がこのようなものに矮小化される傾向があるが、その現状に対しては大いに疑問がある。そこで理想とされるのは、無批判にマシンに適応する人間像である。情報システムの奴隷では困るのだ。

 メディア・リテラシーは、まったく異なる概念である。複雑化した情報環境・メディア環境に対して、それらを絶対視することなく、さまざまな意図によって構築されたものだと認識し、その結果としての情報を鵜呑みにすることなく批判的に吟味することである。そして、そのような情報能力を育てることである。

 伝統的な教養教育(リベラルアーツ)はこの点で重要であるとは思うが、情報が乗るメディア(情報システムやネットワーク)への理解と配慮が現代では必要になるために、古典的な教養教育では間に合わない現実を見据えるべきであろう。これに対して、現代における情報のありように対する感受能力と駆使能力を高めなければならないということから、私はメディア・リテラシーの延長線上に高度な情報教育が必要であると考えている。そして、その目標を「インフォアーツ」と呼んでいる。ネットワーカー的な情報資質のことである。

 ネットワーク時代になり、情報リスクが高まることによって「万人の倫理」として情報倫理が必要になっている。それにともなって旧来の教養教育も情報教育も転換期に来ているのである。まずはそれを認識して、次のステップを模索しなければならない。

参考文献

Deborah G. Johnson(水谷雅彦・江口聡監訳)『コンピュータ倫理学』オーム社出版局、2002年。

サラ・バーズ(日本情報倫理協会訳)『IT社会の法と倫理』ピアソン・エデュケーション、2002年。

「情報倫理の構築」プロジェクト『情報倫理学研究資料集』1〜4(http://www.fine.bun.kyoto-u.ac.jp/)

野村一夫『インフォアーツ論――ネットワーク的知性とはなにか?』洋泉社、2003年。


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