Socius  ソキウス   著作+制作 野村一夫
 http://socius.jp 

現在地 ソキウス(トップ)>ネットワークの臨床社会学

ネットワークの臨床社会学


[8]土俵論――情報学は何をめざすのか

初出 猪瀬直樹編集メールマガジン「MM日本国の研究――不安との訣別/再生のカルテ」第223号(2002年12月19日発行)


情報学にすがる

 経済学部という場所で情報関連の科目を担当していると、なんとも宙ぶらりんな感覚に悩まされる。経済学部とは言っても、まぎれない実態として、もともと理数系が苦手な学生が多いので、いわゆる情報処理的なことは最小限にとどめなければならない。プログラムだ、アルゴリズムだ、プロトコルだ、という講義ばかりをやるわけにはいかない。かと言って、メディア論的に見るという見方もかれらにとっては疎遠なものらしく、人文学のようにそもそも懐疑的に解釈したり批評したりするというのもなじまないらしい。疑うことをしない学生たちには、教科書的にかっちりしているほうがいいらしいのだ。「インターネットのおもてうら」のような話はできるけれども、ケータイ全盛時代にあって、インターネットのおもしろいところもつまらないところも日常的にはほとんど接触していないので、インターネットの「業界話」も案外受けない。

 弱った。こうなると、どこに準拠していいかわからなくなる。情報教育と一口で言うけれども、コンピュータ入門や情報処理論に徹しきれない(私はこれらをそのまま文系学部に持ち込む現状を問題だと思っているので)となると、こちらの立ち位置というものが問われてくる。確固としたディシプリンがほしい。

 そう考えた私はそれを「情報学」に求めようと思った。

 情報学と言うと、なにか「やさしいコンピュータ学」といったニュアンスの本もあるにはあるが、正確にはそういうものではない。情報について文理を超えてトータルに研究する学問として構想されている新しい分野である。英語ではinformaticsあるいはinformation studiesになる。

 とは言え、未だ定番となるようなテキストは出ていない。ようやく2002年6月に『情報学事典』(弘文堂)が刊行されたばかりである。この大きな専門事典は、東京大学の情報学環や社会情報研究所の研究者が中心になって編纂されたものである。私は「これこそリファレンスになりうるもの」として大いに期待して利用することにしたが、これがまた、すこぶる百花繚乱の内容なのである。

知の壮大なフロンティア?!

 1990年代になって情報学・社会情報学・環境情報学といった名前のつく学部や大学院・研究所が次つぎに創設され、それはいいのだけれども、さきに組織再編が先行していたものだから実体がともなわず(たいていはバラバラ)、あとづけとして学問の土俵の再編がなされているというのが実態のようだ。つまり、情報学部は作ったけれども、その基幹科目となるはずの「情報学」とか「情報学概論」といった科目の中身が整っていないので、大急ぎでこしらえているということである。

 まあ、これまでも学問というもののディシプリンと境界は、そうした形で制度化され、定着してきたものなので、とくに珍しい事態ではない。むしろ組織や制度というものが学問のありようを定めるものなのである(この点については、ウォーラーステイン+グルベンキアン委員会『社会科学をひらく』山田鋭夫訳、藤原書店を参照されたい)。

 さて、この事典によると、情報学の現在は七テーマに分類できるという。というか、これらの集合体が情報学だということらしい。

(1)情報基礎
(2)情報法・情報政策
(3)情報経済
(4)情報文化
(5)情報工学・情報科学
(6)生物情報
(7)情報複合領域

 たとえば「情報基礎」というグループには次の項目が並んでいる。情報の理論、論理学、認知科学(自然言語理解)、知覚心理学と情報環境、身体と暗黙知、アーカイブ、記号学(意味論)、レトリック、コミュニケーション論、生命社会システム、複雑系、コミュニケーション史、言語学史、コンピュータ開発史、言語の権力、メディア論、現象学・精神分析と言語、カルチュラル・スタディーズ、ジャーナリズム論、文学理論。

 あたかもKJ法で書き散らしたカードをグルーピングしてみました、という感じである。それぞれの関連については言及されていない。

 これは批判ではない。情報に関するバラバラの研究項目をこれまでの知的遺産として一覧できる場所に並べるというのが、そもそもこの事典の目指すところなのである。その点で、むしろ誠実な編集と言うべきなのだ。

 しかし、これらを一覧して、いささか途方にくれる感があるのは否めない。けだし「知の壮大なフロンティア」と言うのも(ため息とともに)納得できる。情報学は、未だ未整理の状態なのである。

 こうして私の期待ははずれてしまった。そもそも情報学に確固たる立場もディシプリンもなかったのである。それはたんなる土俵なのだった。しかも土を盛り上げただけの未完成の土俵である。これでは、とても相撲をとる気になれない。

対抗言説としての情報学

 それでも私は情報学に肩入れしなければならないと感じている。それは情報学の構想が、既成の情報工学的な情報研究に対する対抗言説という位置づけをもつからだ。もちろん情報学の構想には情報工学もふくまれている。しかし、これまで「情報」と言えば「情報技術」であり「情報処理」のことだったのだ。そして、この分野に属する多くの研究者にとっては、工学的なるもの・技術的なるものがすべてであって、それ以外はたんなるノイズだったのである。

 たとえば、情報処理学会の公式見解の集大成とも言うべき『情報処理ハンドブック』(情報処理学会編、コンパクト版1997年)では、2000ページもある、横綱級のハンドブックであるにもかかわらず、「情報とは何か」という議論さえ、ほとんどないのである。索引で三つのページを並べているだけである。そのうち二つは「情報システム」のところにある。「情報処理」の世界では、工学をはみ出す領域はなぜか「情報システム」という下位分野が担当するしきたりになっているので「情報とは何か」という問いは、ほとんど外部に位置づけられているということになる。しかも、そこでなされている説明はきわめておざなりなものである。情報工学では歴史・社会・文化の観点が欠落せざるを得ないので仕方ない。よく、精密な定義もせずに応用研究しているものだと、その無神経さに感動してしまう。

 好意的に解釈すれば、このいい加減さは、逆に汎用性を増強するための無意識の戦略なのかもしれない。つまり「世の中、情報でないものがあるのか」と居直ればよいのだ。しかし、かつて言語学や記号論の流行に乗ったことのある人間の眼には、とても粗雑な常識の上に、壮大な城砦が築かれているように見える。

 情報を冠しながら情報というものを問うことのない学問。しかし、こうした無反省な学問に途方もない税金がつぎ込まれているのも事実なのである。研究世界において、ITバブルは、まったくはじけていない。それどころか情報概念は今や学問研究における打ち出の小槌である。巨額の税金が「情報」を軸に動いている。

学問の政治

 つまり、土俵は未完成でも、勝負事はとっくに始まってしまっているということだ。もちろん、情報の本質云々といったようなノンビリした局面ではなく、まったく別の局面で、だ。

 そもそもコンピュータ・サイエンスは第二次世界大戦の産物である。最初のコンピュータENIACの目的は弾道計算だったし、じっさいに水爆開発に使用されたことは有名だ。人文社会系でも、半世紀前にエリアスタディ(地域研究)が突如さかんになったのは、冷戦下のアメリカが世界各地の実態把握のために大量の研究資金をつぎこんだことによる。このように研究補助金・助成金の動向は学問のありようを大きく左右する。これは日本でも同じである。

 なかでも情報に関する学問は、近年「好景気」にわいている。情報工学系はもちろん中心にいるが、その周辺に便乗組やあやかり組もでて、これが情報学という土俵が必要な理由になっている。しかし、事情はもう少し複雑である。

 第一に、情報工学系研究者が人文社会分野へ進出している現実がある。すでに述べたように、情報を冠する学部などの創設(たいていは教養学部などのサバイバル的改組である)にさいして、従来人文社会系だった学部に情報工学系研究者が「情報」の専門家として採用されてきている側面がある。この人たちにとっては組織の構成上、人文社会系研究者を巻き込んだ形で(あるいは前に立てる形で)プロジェクトを計画する必要がある。「情報文化」「遠隔授業」「eラーニング」といったことばは、そのさいよく利用される包括的なキーワードである。そして学問的立脚点として情報工学ではまずいので「工」をはずして「情報学」を自称することになるわけである。

 一見すると、これは善き傾向のように見えるけれども、実態はそう甘くない。工学は工学である。それ以上でもそれ以下でもない。裏方に徹してくれればよいのだが、どうしても工学が主役になり、人文社会系はおかず扱いされる(ノイズ扱いより数段マシではあるが)。

 第一の傾向が、情報工学の拡張としての「情報学」の要請であるのに対して、第二の傾向は、それに対する対抗運動としての「情報学」である。つまり、メディア論などの人文社会系やそれに理解を示す視野の広い情報工学者たちが、土俵(知のアリーナ)そのものの偏りを修正して、それを正しい位置にずらそうとする対抗的な学問運動である。『情報学事典』で提示されている「情報学」構想は、この路線である。人脈的に見たかぎりでは、東京大学大学院に情報学環が設立されたことが背景にあると言ってよいだろう。『情報学事典』が提示する学問世界は(百花繚乱とは言え)、情報工学に特権的な位置づけを与えていないことが明確である。「情報=情報処理」図式の排除が意識されているのがわかる。

 このように「情報学」という土俵では「学問の政治」がおこなわれつつあるのである。インターネット時代の今日、それに対応して学問のありようが大きく変化しつつあるわけだが、その潮流のひと筋の流れということなのだろう。

情報概念のリスク

 新しい情報学に期待したいことは一点。内省的な研究を進めてほしいということだ。研究者にとって応用研究はやさしいものだ。だからどうしてもそちらに向いてしまうし、研究助成や補助金も申請しやすい。前に進んでいるという手ごたえもある。だから、ほっといても進んでいく。

 しかし、基礎概念の理論的精査や原理論の構築といった基礎作業となると、とたんにおろそかになる。さまざまな応用研究のもつ意味・無意味と社会の反応・無反応のチェックも必要だ。研究活動の土俵そのものに対する理論的回顧がもっとあっていい。皮肉なことに、これまでの情報研究にはフィードバックが欠けているのだ。これでは、サイバーパンクやサイバースペースのご先祖さまにあたるサイバネティクスの創始者ウィーナーに怒られてしまう(ちなみにフィードバック概念はウィーナーが広めたもの)。

 内省的な研究が必要だと言う理由は、もともと情報概念は危険な概念だと考えるからである。その危険性に対してもっとセンシティブであっていいのではないか。

 たとえばコミュニケーション論の議論では、情報概念にはさまざまな背後仮説がこびりついているとされている。そのいくつかをランダムにあげてみれば、管理の思想(送り手や管理者の視点に立ってしまう)、情報自足の思想(それを成立させる人間の営みを隠す機能がある)、ノイズ排除の思想(送り手の意図しないメッセージをノイズとして排除するのが当然だと考える)などがある。

 情報概念はけっして中立・中性ではない。私たちが安易に情報概念を使ってしまうとき、じつはその現象や問題について考える視角や方向もまたすでに限定されてしまっているのである。情報概念はあくまでも歴史的構築物なのであって、私たちはその歴史的産物としての文脈にいつも規定されることを意識しなければならない。この自覚がないことが危険なのである。  児童公園の砂場で大相撲をとってきた情報工学にかわって、新しい情報学にはぜひ、こうした問題にきちんと正面から解答をして、情報研究のしっかりした土俵を固めてほしいと願う。

最後に

 この連載は今回が最終回である。シリーズ名にある「臨床社会学」という新しい学問は社会学の一部門というよりも、むしろ社会学という学問の枠をはみ出して、現場に即して対応していこうとする言説実践のことで、正確に言うと「これは社会学ではない」というべきであろう。あくまで社会学的感受性のおもむくままに書いてきた。

 しかも具体的事件に即して論評するつもりはもともとなくて、ネットワーク世界全体にかかわる断面を形式社会学的にクローズアップさせて批評するつもりだった。ご期待に沿うものだったかどうかは自信がないが、ここらあたりで幕を引いておくことにしたい。猪瀬編集長はじめ編集部の皆さん、読者の皆さんに感謝したい。


現在地 ソキウス(トップ)>ネットワークの臨床社会学
SOCIUS.JPドメインへの初出 1/16(Mon), 2003  
このページのURLは http://
Kazuo Nomura(野村一夫) 無断転載はご遠慮ください。リンクはご自由に。
Valid XHTML 1.0!Document type: XHTML 1.0 Transitional