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ネットワークの臨床社会学


[7]聖俗論――情報システムを信じるということ

初出 猪瀬直樹編集メールマガジン「MM日本国の研究――不安との訣別/再生のカルテ」第207号(2002年08月29日発行)


聖なるものが不条理を意味づける

 日本ではサリン事件、国外ではイスラム過激派のあいつぐ自爆テロが、あらためて現代における宗教の意味を現代人に問うてきた。しかし、それに対する模範解答の多くは「カルト」や「イスラム原理主義」と呼ばれるものをテロに直結させる乱暴なもので、とても話にならない宗教理解である。そもそも弁護士や軍事評論家に語らせるから、そうなるのであって、そもそも問題を持っていくべき相手をまちがえている。

 宗教の意味については社会学者にきくべし。宗教現象こそ、社会学理論の最重要問題である。今ではすっかり有名なことばになってしまった「カリスマ」もその産物のひとつである。  社会学者マックス・ウェーバーは、宗教の源泉を「カリスマ」という「個人の非日常的な資質」に求め、それを人びとから認められた個人が崇拝者を集め、そのカリスマが後継者に継がれていく中で教義の合理化が進み、教団が組織化されていくと述べた。これが本来の「カリスマ」の意味である。

 このマックス・ウェーバーと双璧をなす社会学者エミール・デュルケムは、未開社会の宗教をモデルにして、まったく別の解答を用意した。それによると、あらゆる宗教には共通の世界観の形式があるという。それは、世界を「聖なる世界」と「俗なる世界」のふたつに分割して考えるという構図にある。「俗」とは「現世」のことであって、要するに私たちの日常生活のことだ。それに対して、宗教は、特別のルートでのみアクセスできる「聖なるもの」の世界が存在すると主張する。つまり二元論的世界観である。こういう見方を「聖俗論」という。

 この場合の「聖なるもの」は、宗教によってじつにさまざまである。森や山のような自然物であることもあれば、天国や霊界や極楽浄土であることもある。この二つの世界は通常明確に分離されているが、両者を媒介する存在(たとえば天使やキツネ)や、預言・啓示・祈りなどの媒介行為が認められている。

 重要なのは、俗世間のできごと(善行を積んでいる人が重い病気で苦しむといった、しばしば不条理なできごと)がなぜ生じるのかについて「聖なるもの」が説明してくれる仕掛けになっていることだ。たとえば苦しい病気にかかったのは「前世の悪行」によるのだとか、人びとから迫害を受けて死ぬような苦しみを受けるのは「正しい信仰」をしている何よりの証拠なのだというぐあいに。「聖なるもの」が想定され信じられるのは、それなりに筋の通った説明をするのに都合がよいからである。つまり、ここで生じているのは、「聖なるもの」の完璧性を信じることで俗世間の不条理性を納得できるという倒錯した論理である。どんなに理不尽なことが身に降りかかっても、人びとは納得したい。だからこそ信じるのである。

 このような聖俗論は、すっかり世俗化された日本社会においても(まったく宗教くさくない形で)しっかり生きながらえている。かつては教育や医療の世界がそうだった。それらが「聖なるもの」でないことがあきらかになった今日、最後に残った聖俗論の場所は、ほかでもない、情報システムの領域である。

聖なる情報システム

 情報について議論する世界で聖俗論的構図が丸見えなのは、何といっても「ヴァーチャルとリアル」二元論だろう。この場合、ネットの世界はひたすら「ヴァーチャル」で、そうでない残余の世界は「リアル」ということになっている。「ヴァーチャル」な世界は、「リアル」世界の秩序とは無関係に、何かすばらしく新しいできごとが生じていたり、とんでもない無法地帯だと思われていたりする。とくにマスコミやインテリ層でも、こうした世界観にとらわれている人はけっこう多い。だから「ネット」で「リアル」な何かをやることはニュース性を持つトピックとして採り上げられたりする。要するに、それは二つの世界を架橋する行為とみなされているわけだ。「ネット犯罪」というカテゴリーも逆の意味で架橋する行為としてニュースなのである。

 この場合、インターネットのコミュニティに縁のない人たちにとって「ヴァーチャル」は「あの世」に近いイメージである。ときどき、そこでの出来事が「現世」に影響を与えるときだけ、思いをいたす世界としてある。けれども「ヴァーチャル」の世界がそんなものでないことは、そこに出入りするほとんどの人たちにとって自明のことである。別世界どころか、たんなる俗世間にすぎない。

 似たようなものとして「情報処理と通常業務」という使い分けも聖俗論の一種である。これは「情報専門家と一般人」という二元論にも対応している。ここでも両者はしばしば分断され、事実上「棲み分け」がなされている。

 これは今でも学校や大学などでよく見られる現象である。たとえば情報教育について、それはコンピュータの専門家がコンピュータ教室で教えていればいいと思われていたりする。他の教科を担当している教員たちは、むしろ「われわれは関係ないよ」とすましていられる。そんなことだから、情報教育は理工系の先生たちが正しいアルゴリズムやおたくな技術的趣味を強要して、そんなものに興味のない学生たちの不満を募らせていたりする。情報教育に血の通った「文化」がないからだ。

 情報システムの世界が特別な「聖なる世界」であって、そこでは「情報処理」という特別な訓練を受けた専門家(司祭?)だけが出入り可能であるという構図。しかし、これこそ聖俗論の世界ではなかろうか。

演じられる聖俗論

 2002年春のみずほ銀行システム障害問題の背景には、情報システム担当部門が経営トップと直結していなかったこと、ある意味では下請け的な位置づけにあったことが、不十分な状態での見切り発車につながったと指摘されている。この事件にも、情報システムが一般業務のリアル世界と切り離されて位置づけられるという聖俗論の構図が見て取れる。「聖なるもの」は必ずしも「俗なるもの」の上位にあるとはかぎらないのだ。

 銀行の情報システムでさえ、大きなミスをしてしまうことに、私たちは十分懲りたはずだ。教育や医療にミスがないと考えることが実態にあわないのと同様に、情報システムにミスがないと考えるのはたんなる信仰である。ところが情報システムをめぐる世界には専門家信仰というものがまだ残っている。新しい技術であるがゆえにこそ信仰があるのかもしれない。しかし、いい加減、「聖なるもの」なんてないのだということを自覚的に認識してもいいのではないか。

 じつは、私たちは「それ」について専門的知識を持たないがゆえに、技術コンプレックスから自らを安全な場所に避難するために「それ」を「聖なるもの」に押し上げて信じているふりをしているだけなのかもしれない。自己欺瞞的に聖俗論が演じられているのである。

 情報システムの構築と運用は、あくまで生身の人間がおこなうということ。それゆえ合理性には限界がある。情報システムを構築するのも操作するのも不完全な人間であり、完璧なる機械ではないということ。組織が必ずしも整合的には動かないこと。時間の制約が必ずつきまとうこと。善意の人たちが運用する分だけ、悪意の人たちのビジネスチャンスを生むにちがいないということ。あるいは善意の無知が事故や不法行為を生み出すということ。要するに、それはたんなる俗世間なのだ。

住基ネットが生み出す新たな聖俗論

 医療の世界が特別な「聖なる世界」でないことがだれの目にもあきらかになったのにつづいて、情報システムの領域においても聖俗論はしだいに希釈されていくだろう。みずほ銀行のシステム障害事件はその転機のひとつになったはずだ。要するに、トータルにリアルなひとつの世界として考えていけばいいだけの話である。

 だから、これからの情報システムは神棚に上げておしまいというわけにはいかなくなる。この8月に始まる住民基本台帳ネットワークシステム(住基ネット)は、そうした視線の中で始動する最初の大型システムとなる。しかし、それにしては問題が多すぎる。

 住基ネットは、すべての日本人が関わる前代未聞の大型システムでありながら、個人情報保護法ぬきのアナーキーなシステムであり、技術的にも「ぶっつけ本番」に近い実態のようだ。となると、はじめは技術的なトラブルが問題化し、次に自治体でのずさんな運用が問題化し、そのあとに、流出した個人情報の悪用が大きな社会問題になるのはまずまちがいない。今からでもストーリーはある程度見えている。

 気になるのは、こうした問題構築のストーリーを凌駕して、問題がシステムの外に位置づけられてしまう可能性だ。つまり「完璧な聖システム」と「不条理な俗世間」という聖俗論的二元論の構図に持ち込まれて、住基ネット自体の問題として見られなくなってしまうという可能性だ。利便性の名において、おそらく総務省はそれをねらっているのだと思う。

 トラブルが生じる。おそらく「システムが安定するまでは仕方ない」とされる。微調整が必要だと。それが「ほぼ」完璧に近い形で運用されて利便性が認知されるようになると、今度は利便性を手離したくないために、システムに対して一種の聖性が付与されていく。システムへの依存が信頼を事後的に構築するのだ。「システムは信じられる。信じられないのは世俗的な人間だ」というロジックが組み立てられていくと、やはり倒錯した構図が生じる可能性がある。トラブルが社会的に問題化すればするだけ、住基ネット自体は純粋に「聖なるもの」あつかいされるようになる。

 おそらくその後に来る住基ネット番号の一人歩き、誤用、安直な使用、意図的な悪用といった問題は、システムの関知しないことだと主張されるだろう。住基ネット「自体」は、11桁の番号さえあれば、さまざまな手続きがかんたんにできる便利なものである。この利便性は、ネットの構築と運用が一分のすきもなく完璧であることを大前提としている。完璧な聖システム。それが俗世間のいい加減な全個人に対応しているというわけだ。

 当然のことながら、事態は両義的である。11桁の番号に名寄せすれば、これまで分散していた個人情報も一気に有意味な情報にまとまる。この種の情報は一度漏洩すると取り返しがつかない。情報というものは残存性を持つもの。今後はいろいろな場面で使われることになるだろうが、たとえば極端な話、お店のポイントカード登録に一度でもこの番号を書き込めば、その段階で個人情報としてはきわめて脆弱な立場になったと考えてよい。そして、ここまでが住基ネット「自体」の領域なのだ。

 聖俗論は倒錯のロジックである。神なき社会においてシステムへの信頼はこのようにして作られる。しかし、この構図は意識的に突破しなければならないものだ。剣呑、剣呑。


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